逆さ虹の森
昔々、ある森に立派な虹がかかりました。
その虹は逆さまで、珍しい虹がかかったその森はいつしか『逆さ虹の森』と呼ばれるようになりました。
―――――根っこ広場―――――
少年はそのお話の続きを思い出せませんでした。それでも、今目覚めた自分が『逆さ虹の森』にいる事はわかりました。
深い森で緑の香りと新鮮な空気で肺を満たして、少年は歩き始めました。
何処に行けばいいのかわかりません。ただ、遠くに見える逆さ虹に向かって歩き始めました。
「へへっ、面白そうなガキンチョが歩いてらぁ」
茂みの陰から少年を見ているのは、いたずら好きのリスでした。リスは少年の前に出てきてから言いました。
「少年、少年。こんな危険な森で何処へ行くんだい?」
危険と聞いて、少年は少し怖くなりました。
「僕、なんにもわからないんだ。それでも何処かへ帰らなくちゃいけない気がして。だからあの逆さ虹を目指しているよ」
少年が指差した方向を見て、リスは口を歪ませて笑いました。少年はそれに気付いていません。
「そっか!大変だけど気を付けるんだよ!何せその道の途中には食いしん坊のヘビがいるんだから!食べられないようにしないと!」
少年の顔色は目に見えて悪くなりました。リスはそれを楽しむと、そそくさと木陰に戻って行きました。
少年は怖がりながらも前に進みます。途中で茂みがガサガサと音を立てて、少年はその度にビックリしますが、それでも前に進みます。
実は茂みを揺らしているのはリスでした。リスは少年が驚いている姿を見て楽しんでいましたが、勇敢にも歩き続ける少年を見て、いたずらをやめました。
「立派なガキンチョだなぁ」
そして上手に歌うコマドリの声を聞きながら順調に進む少年は、広場にやって来ました。
どうやら根っこが沢山あるようで、一息つこうと根っこに腰を掛けた時に、少年はそれを発見しました。
「く、クマだ!」
根っこの間にいるのは大きなクマでした。
驚いた少年は逃げようと、急いで立ち上がりましたが、どうもクマの様子が妙です。
恐る恐る近付いてみると、なんとクマは根っこに捕まっていました。それに、少年を怖がっています。
「大きな声を出してゴメンよ、怖がりなクマさん。どうして捕まっているのか教えてくれるかい?」
少年は出来るだけ優しく話しかけました。クマを怖いと思った自分が情けないと思ったからです。
「……ここで嘘をつくと、根っこに捕まってしまうんだよ。僕は君がここに向かっている事を知っていた。だから暴れん坊のアライグマくんがここに来た時、あっちに面白いものがあるよって嘘をついたんだ」
クマはそう言って少年が来た方向とは逆の方を指差しました。少年が知らないうちに、クマは危険なアライグマから少年を守ろうとしていたのです。自分が根っこに捕まる事も顧みずに。
少年は胸が熱くなりました。
「ありがとう、クマさんありがとう。僕が必ず助けてあげるから、一緒に頑張ろう」
少年は言いながらクマの手を引っ張りました。
「ダメだよ、ここで無闇に約束したら、嘘だと判断されかねない。君まで捕まってしまうよ」
「ダメじゃない!僕が大切な友達を助けるのは本当だ!」
クマは友達と言われて嬉しくなりました。絶対に抜け出してやるぞと力を込めると、根っこは簡単に外れました。
「ありがとう、君のおかげだ。よかったら目的地までお伴して良いかな?」
「もちろんだよ、逆さ虹までよろしくね」
こうして少年達は再び歩き出しました。
―――――ドングリ池―――――
「歌が聞こえなくなってしまったね」
少年はずっと聞こえていたコマドリの歌が好きになっていました。しかしいつの間にか聞こえなくなっていました。
「そりゃあコマドリさんもお出掛けするし、休憩もするよ。そしたらまた歌ってくれるさ」
クマさんと会話をしながら歩くのはとても楽しい事でした。
しかし、楽しい事ばかり続きません。
ソロソロと動く何かに気が付いた少年は首を傾げました。
「おや、何かいるのかな」
しかし前には変わらず緑色の木々が生い茂っているだけです。
少年は注意深く辺りを見渡して、やっと見つけました。
「わっ、ヘビさんだ!」
木に上っているヘビはチロチロとベロを出しながら何かを見ています。その視線を辿ると、コマドリの巣があり、中には卵がありました。
「ダメだよ、それはコマドリさんの子供だ!ヘビさん、ダメだ」
少年はヘビを怖いと思う余裕もない程焦っていました。卵を食べてしまったらコマドリが悲しむからです。
しかし食いしん坊のヘビは少年の声など全く聞こえていません。とうとう木に上り、巣に近付いてしまいました。
少年はジャンプしてヘビを止めようとしました。しかし少年では巣がある枝まで届きません。それでも少年は必死によじ登ろうとします。
そんな少年見て、ヘビを怖がっていたクマは勇気を出しました。
「少年、持ち上げるからヘビさんを止めるんだ」
クマが少年を持ち上げると、あっという間に枝に届きました。
「ヘビさん、卵は食べないで。コマドリさんが悲しむのを見たくないんだ。そんなにお腹が空いてるなら僕らと一緒にご飯を探そうよ。皆んなで探せば沢山見つかるから」
やっとヘビに届いた少年は、恐る恐る話掛けました。すると、ヘビは恥ずかしそうに笑いました。
「そ、そうだよね、お腹が空いてついつい、本当にごめんなさい。是非、わたくしも少年に着いて行きたい」
こうしてヘビも加わって、少年達は更に歩きました。
途中で落ちているドングリを拾いながら、逆さ虹を目指して進みます。
「おや、綺麗な池が見えてきたね」
少年が呟くと、ドングリを食べていたヘビが顔を上げました。
「おや、ここはドングリ池じゃないか。ドングリを投げ込んでお願い事をすると叶うらしいよ」
ヘビは興味無さげに言いましたが、少年は目を見開いて言いました。
「ヘビさん、どうかドングリを一つだけわけておくれ。僕は願い事をしたいんだ」
食いしん坊のヘビは一瞬だけ迷いましたが、直ぐに答えました。
「いいよ、少年のお陰で手に入れられた物だし。クマさんはお願いするかい?」
「ううん、僕はいいよ。少年のお陰で願い事は叶った様なものだから」
「わたくしもそうだな」と呟くヘビとクマはニコニコと笑っています。それを不思議そうに見つめてから、少年は池にドングリを投げ込みました。
「どうか、僕が帰らなくちゃ行けない場所へ導いてください」
少年はこの森が好きになっていましたが、それでも大切な事を忘れている気がしていました。
それを思い出す為に願いを込めましたが、願いは簡単には叶いません。
「ふーっ、ムシャクシャするぜ、暴れてやりたいぞ」
なんと、恐れていた暴れん坊のアライグマがやって来たのです。
「おい少年。お前はムシャクシャしないのか?こうやって木を揺さぶると楽しいぜ」
そう言ってアライグマは木に体当たりをしたり、両手でユサユサ揺らし始めました。
「や、やめなよ。枝が折れたら木が可哀想だよ」
少年は怖がりながらも、大切な森を守る為に注意します。しかし、そのせいでアライグマは怒ってしまいました。
「なんだよ、ムカつくな。お前、俺と勝負しよう」
少年は恐ろしいと思いましたが、これ以上森を荒らされてはたまりません。
「わかったよ、僕が勝ったら暴れるのは程々にしてくれるね?」
「ああ、いいぜ。じゃあ、かけっこで勝負だ。あの赤い実がなっている木までだぜ」
アライグマが指差した木は少し遠かったですが、少年は頷きました。美しい森の為に頑張ろうと決めたのです。
クマとヘビは心配しながらも、見守る事にしました。
「じゃあ、僕が合図をするよ。位置について、よーい、どん!」
クマの声で少年とアライグマは同時に走り出しました。
少年は息を切らしながら走ります。森の空気が心地良くて、走る事が気持ち良いと思いました。しかし、それだけでは速くはなれません。
アライグマはいつも暴れているだけあって、森を走るのも速いです。あっという間に少年とアライグマの距離は離れて行きます。
最早少年の負けは決定しました。
しかし、それでも少年は必死に走ります。走る事が気持ち良いだけでなく、森を守りたい気持ちがとても強かったからです。だからがむしゃらに、無我夢中で走りました。
そして気が付くと少年は赤い実がなる木に辿り着いていました。残念ながら、顔を上げればとっくにゴールしていたアライグマが少年をじっと見ています。
ヘビとクマが遅れてやって来てから、アライグマは言いました。
「俺はいつも一匹だった。当然だよ、暴れていたから。でも、少年とかけっこしたのは楽しかった。初めて一匹じゃなくなった。かけっこは少年の負けだ。でも、俺は暴れる事をやめようと思う。その代わり、その、なんだ。また、俺と勝負してくれないか」
少年は嬉しくなってぱっと笑いました。クマとヘビもです。
「もちろんだよ!」
アライグマは満足そうに去って行きました。
それを見送ってから、少年達は進みました。
逆さ虹にはあと少しで辿り着けそうです。
そして、木々の間を抜けて、少年達が辿り着いたのは、大きな川。そこにかかるのはボロボロの橋でした。
「ぅう、うわぁぁあぁん!!」
そして、少年は突然泣き始めてしまいました。
―――――オンボロ橋―――――
クマとヘビは驚くと同時に困りました。
今まで勇気や正義感に溢れた少年が、突然泣き始めてしまった事が不思議でしょうがなかったのです。
「どうしたんだい、今まで沢山の困難を乗り越えて来た君だろう」
「あの橋も渡れるさ。そしたら逆さ虹に辿り着けるよ」
クマとヘビは必死に少年を慰めますが、少年は泣き止みません。
「ひっぐ、わからないけど、うぅ、怖いんだ」
クマもヘビも途方に暮れている時でした。
「もう、男の子なのに情け無いわ」
そこにいたのは美しい毛並みのキツネでした。
「運命っていうのは望んだ通りに流れるの。自分で願った事で訪れる困難は乗り越えなくちゃ」
クマもヘビもこのお人好しのキツネを初めて見ました。キツネの声は透き通る様に美しくて、皆んなの心を落ち着かせました。
「君は……怖くないの?」
少年は泣き止んでいましたが、体が震えていました。
「怖いわよ。それでもね、例えばあの逆さ虹に私の大切なモノが有るならば、私は迷わずに進むわ。それが出来ないなら、大切なモノは守れないわ」
「君の大切なモノって何?」
「それを教えたところであなたの勇気が出るわけじゃないわ。覚えておいて欲しい事は思い遣る心があなたを救うって事」
「僕が誰かを思い遣ったの?」
「そうよ。動物達を助け、森を守り、帰るべき場所を想った。あなたの綺麗な心が、ほら、この美しい結果を生んだの」
キツネは少年の後ろを向きながら言いました。
少年も後ろを振り返ると、なんと出会った動物達が揃って応援してくれていました。
「立派なガキンチョに餞別だぁ」
そう言っていたずら好きのリスは少年の手にドングリを握らせました。
「わたくしの好物を差し上げるよ」
そう言って食いしん坊のヘビは赤い実を少年に持たせました。
「俺の勝負相手に相応しい態度でいろよな」
そう言って暴れん坊のアライグマは尻尾で少年をペシンと優しく叩きました。
「僕は体が大きくて渡れないけど、ここから応援するよ」
そう言って怖がりのクマは少年の隣に立ちました。
頭上では歌上手のコマドリが歌い続けています。それを聴くと少年は勇気が湧いてきました。
「僕、行くよ」
少年が立ち上がると、お人好しのキツネが手を握りました。
「一緒に行きましょう。私も、偶然逆さ虹に用があるのよ」
そして少年とキツネはオンボロ橋に足を踏み出しました。
「どうして君はお人好しをするの?」
キツネは少し笑ってから答えました。
「あなたにとって、偶然私がお人好しだったのよ。何が善で、何が悪なのかって、皆んなそれぞれ違うもの」
少年には難しくて少し理解出来ませんでしたが、キツネは話し続けます。
「でももしも、誰かの善があなたにとって悪だったとしても、それを非難してはいけないわ。分かり合えない事は受け入れるだけでいいの。もちろん無理をする必要も無いのだけれどもね」
少年は何かを思い出せそうでした。
「一つ、いつまでも覚えておいて欲しい事があるの」
「うん、約束するよ」
「今、私達は同じ場所に向かって歩いている。だから手を繋いでいられるの。でもね、成長するにつれて、道が増えて、曲がって、選択が変わって、違う方向へ向かったとしたら、手を繋いでいられなくなるわ。そんな時でも手を繋いでいた子の事を忘れちゃいけないわ。その子と過ごした日々こそが、あなたの大切な記憶の切れ端よ。そんないくつもの切れ端があなたをつくっていくの。それを理解した時に幸せを感じるのよ」
気が付けば橋を渡りきる直前でした。
「さあ、最後の一歩はあなた一人で行きなさい。もしもこの森の事を忘れてしまったとしても、どうか美しい心は失わないで」
「僕、この森を忘れたくないよ」
「意思ではどうしようもない事もあるの。だけどあなたならきっと大丈夫ね。さあ、行って」
キツネに微笑まれた少年は最後の一歩を踏み出しました。
そして少年は光に包まれて意識を失ってしまいました。
―――――エピローグ―――――
「……いてて……僕は何をしていたんだっけ……」
村はずれの小さな小屋で、少年は目覚めました。
「お、起きたのね!大丈夫?無理はしないでちょうだい」
一緒に暮らしている少女が駆け寄ってきました。そういえば少女とは喧嘩をしていた様な気がしました。あまり思い出せません。
「あなたが森に果物を取りに行って帰ってこないから探したのよ。そしたらあなた、あの森を半分にわける吊橋から落ちた様で、意識を失っていたから、心配したのよ。急いで村からお医者さんを呼んで治療してもらったけど、私落ち着いていられなかったわ」
それを聞いて少年は思い出しました。村で暮らしたいという少女と、このまま村はずれで暮らしたい少年の意見がぶつかって喧嘩をしたのです。この頃、意見が食い違う事が多い二人は小さな喧嘩が多かったのです。だから少年はいつもは行かない森の遠くの方まで果物を取りに行ったのでした。少女から離れたかったのです。
「ねえ、聞いてる?まだ具合が悪いの?」
でも少年は、自分の事を心配してくれる少女が大切に思えて、喧嘩の事なんか気にならなくなりました。
「うん……それより、長い夢を見ていた気がするんだ。そうだ、その本を読んでくれないかい?」
「しょうがないわね、特別よ?」
そう言ってキツネが描かれたセーターを着た少女は、本棚から一冊の本を持って来ました。
「昔々、ある森に立派な虹がかかりました。
その虹は逆さまで、珍しい虹がかかったその森は
いつしか『逆さ虹の森』と呼ばれるようになりました。
そこで暮らす色々な動物に出会い、ちょっと変わった場所へ訪れた人は、自分が生涯忘れられない大切なモノを教えられたそうです」
「それは困難に立ち向かう美しい心の事や、誰かを思い遣り手を繋いだ日々の事、だったよね」
「もう、私が読んでるのに」
頬を膨らませる少女の手を握って、少年は笑いかけました。
「記憶の切れ端が自分を作ると理解した時に幸せを感じるって話だったよね。でもね、記憶に残らない事も自分をつくる大切な切れ端だと思うんだ」
少年は窓の外に目を向けました。そこには何もいませんでしたが、目を逸らしませんでした。
「あなた、逆さ虹の森に行ってきたような事言うわね」
「そうかもしれないね。生涯忘れられない大切なモノを教えられたからこそ、君の手を握っているのかもしれない」
二人は目を合わせて、一緒に笑いました。