ー3ー
――キィーーキィーッ
甲高い山鳥の警告声が遠ざかる。ズキン、と鈍い痛みに薄く目を開けると、バラバラと人工的な騒音に包まれた。
「おぉーい! 大丈夫ですかぁー!」
聞き慣れない男性の声。状況が分からず、ぼんやり眺めていると、オレンジ色の作業着にヘルメットを被った人達が、何事か言いながら僕を囲み出した。
「聞こえますか?!」
頷こうとして、身体のどこかが痛み、顔をしかめる。
「意識があるみたいだ!」
「大丈夫、これから搬送します!」
――搬送……?
ヘルメットの男性が消えると、視界一杯に澄んだ水色の空間が広がった。強風がザアッと吹き抜ける中、小さな黒い魚が1匹やって来た。
身をくねらせず、真っ直ぐに泳いで来た魚は、そこが定めであるかの如くピタリと一点に留まった。波紋を描くように、魚の周囲を何かがぐるぐると回っている。身動ぎしない不思議な魚を、やはり動けないまま、僕はぼんやりと眺め続けていた。
それが、捜索隊の救助ヘリコプターの機影だったと理解したのは――搬送先の病院の集中治療室を出た後になってからのことである。
ー*ー*ー*ー
急斜面を2度転げ落ちた割には、僕の怪我は軽かった。左腕と右足の骨折の他は、無数の擦り傷と切り傷はあったが、脳波や内臓に異常は見られなかった。
僕は、草丈の低い開けた河原に倒れていたそうだ。
「岩魚沢」、と地元で呼ばれるその場所は、狭く蛇行した渓流の中流にあって、唯一、崖下に河原が形成されている場所だった。お陰で捜索の早い段階で、上空から発見された。
「全く幸運としか言いようがありませんね」
低体温症になりかけていたものの、沢の水に浸かっていなかったことが生死を分けたと、ドクターに説明された。
しかし――それよりも、もっと九死に一生という状況があった。
僕が倒れていた河原、そこには直径10m超の岩石もゴロゴロ点在しており、少しでも落下地点がずれていれば――即死だったそうだ。
ー*ー*ー*ー
経理部の同僚、河野さんが果物籠を手に、3度目の見舞いに来てくれた。
6人部屋の窓側のベッドから見える景色は、既に雪景色。あれから1ヶ月が経とうとしている。
「……前島は?」
ずっと気になっていた疑問を口にした。
「まだ……見つからないらしいわ」
綺麗に切り揃えた前髪の下の眉が、困惑の形に歪む。
「外村さん。あの話、本当なの?」
「まさか――前島に限って、信じられないよ」
彼女が剥いてくれたリンゴをかじる。シャクッ、と瑞々しい汁が飛ぶ。シーツに落ちた透明な水滴を、僕は複雑な想いで見つめた。
『――殺人、未遂……ですか?』
集中治療室を出てから3日後。一般病棟の1人部屋に移された僕の元を、背広姿の男性が2人訪れた。
ごま塩頭の年配が地元の刑事で、丸顔に眼鏡の若い方は、僕が発見された山がある隣県の刑事だと名乗った。
ベッドのリクライニングを起こして、2人にパイプ椅子を勧める。一礼すると彼らは並んで腰掛けた。
『恐らく。前島さんが、あなたに生命保険を掛けていたことは、ご存知でしたか』
年配の刑事は、手元の手帳にチラと目を落とし、それから僕の顔を観察するように見つめた。
『――いいえ』
信じたくないという想いを揺さぶるように、背中に掌の感触がジワリと甦る。
突き落とされたことを、僕はまだ誰にも話していなかった。姿を消した前島を探しに行って、暗い斜面で足を滑らせた――警察にはそう伝えてある。
それでも、松茸など生えもしない山に連れ出して、滑落するような状況に誘導した、前島の意図は殺人未遂に相当するらしい。
『あなたと前島さんは、同期入社だそうですね』
強張った表情を、彼らはどう解釈しているだろうか。俯いたまま、頷いた。
『はい』
『配属部署が離れても、親しかったとか』
『そう……ですね。互いに独身でしたから……たまに飯や飲みに行くぐらいには』
『彼が、会社の金を使い込んでいたことは?』
ジャブを何とかかわせた矢先、死角から鋭いアッパーが飛んできた。
仄かな予感があった「前島に殺意を向けられていた」事実より、彼が抱えていた事情の意外さにダメージを受けた。
『――そんな、全く』
『彼が会計報告書を改竄したことは、ご存知ない?』
思わず顔を上げると、年配の刑事が畳み掛けてきた。
アッパーで浮いたボディに重いパンチが打ち込まれたかのように、目の前が暗くなった。
『え……まさか』
新人が入力ミスしたとばかり思われていた、決算報告書。実は前島が、盗み見た新人のパスワードを使って、決算前にデータを改竄したというのだ。
決算前の9月、確かに前島は、僕を夕飯に誘う口実で、残業中の経理部によく顔を出していた。残業仲間には、件の新人もいた――けれど。そんな簡単にパスワードを盗むことなんか出来ない筈だ。
『今年中に営業部の金庫に300万、取引先の知人に500万、返済する必要に迫られていたらしいですなぁ』
釈然とせず、シーツのシワを見つめている僕に、年配の刑事がラッシュをかける。
『知人……田渕部長ですか?』
『ええ。何か、お聞きで?』
『田渕部長から聞いた穴場だって……あの山』
丸顔の若い刑事が頷いた。
『あなたが発見された"岩魚沢"、あそこは渓流釣りの穴場でして――田渕さんの話では、前島さんと一緒に釣りに行ったことがあるそうです』
遺体が見つからなければ、降りる筈の保険金が手に入らない。第三者に発見されやすい場所で、不慮の事故死を演出することが、前島には必要だった――?
『……お引き取り、いただけますか……すみません』
完全にKOだ。これ以上、口を開く気力が出ない。
僕の顔色を見て、刑事達は大人しく病室を出た。
彼らは、捜索隊が見つけたという僕のリュックとスマホを置いて帰った。
後から聞いた話では、前島のスマホも黄色いリュックも現場からは見つかっていないという。勿論、僕をあの山に連れて行った、彼の白いプリウスも――。
ー*ー*ー*ー
「退院の目処は立ったんですか?」
ティッシュを手に、河野さんがシーツをそっと拭いてくれた。
回想から、静かに現実へに引き戻される。
「うん。年末の繁忙期には、何とか間に合うって」
「良かった。外村さんがいないと年越せないって、皆で言ってるんですよ」
ホッとした微笑みに、つい意地悪な言葉を返した。
「それって、残業要員がいないって話なんじゃないの?」
「やだ、そんなことないですよぉ」
河野さんは、冗談めかして曖昧に笑いながら帰った。しかし課長始め経理部の何人かは、残業要員としての僕の帰還を本気で心待ちにしているに違いない。
「残業――か」
窓の向こうの空は、どんよりと重い。いつ白いものを吐き出しても、おかしくはない雰囲気だ。うっすらと窓ガラスが室内を映し、ベッドの上の僕の姿がある。ギプスの足と、三角帯で吊った片腕が痛々しくも……惨めだ。
使い込みと多額の借金を苦に、前島は自殺した――外村は巻き添えを食わされたらしい――岩魚沢での顛末は、社内で真しやかな噂となり独り歩きしていた。
未遂となった保険金殺人の加害者と被害者――そんな真相は、知られなくていい。知られたくも、ない。
窓の中の僕は無表情だ。
『何だよ外村、まぁた貧乏クジ引かされたのか?』
気遣いや労いの言葉は、下心あってのことだったのか。
知らぬ間に生命保険を掛けて、アイツは、どんなつもりで僕を見てたんだろう。
やり場のない淀んだ気持ちが、腹の底から込み上げてくる。
怒りか憤りか――後悔か。
この先、どこかで前島が見つかっても、もう彼に会うことはない。
僕達の分水嶺は、どこだったんだろう。
一層暗くなった空が泣く。バチバチと固まらない水滴が窓を叩く。歪んだ自分の顔に重なって、ミゾレが頬を流れていった。
【了】
拙作をご高覧いただき、ありがとうございます。
この話では、空が何度も登場します。
山の斜面で過ごした夜。
大木の根元で見上げた、星のない空。
前島の言動に呆れて、思わず仰ぎ、流れ星を見た空。
捜索隊に発見され、救助ヘリをぼんやり眺めた水色の空。
そしてラストシーン、ミゾレが降りだした、冬の重い空。
主人公・外村の心情を表すように、見上げた空の色は異なります。
山で過ごした夜、月も星もない暗い空、という設定にしました。
これは、前島が犯行を進めるのに都合が良かったのですが、反面、ターゲットの落とし場所を狂わせる原因にもなりました。
岩魚沢の上に広がった暗い空――。
前島に取っては、ラッキー・アンラッキー、どちらに働いたと言えるのでしょうか。
そして、この暗い空は、同期入社以来続いてきた外村と前島の関係を決定的に別つ、分水嶺となりました。
外村が生きていたと知った時――前島は、どんな想いで、どんな色の空を見たのでしょう。
あとがきまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、他のお話でご縁がありましたら、よろしくお願いします。
2018.11.20.
砂たこ 拝
※ この話は、他サイトの投稿イベに応募しています。