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「……腹減ったなあ」
木立を走る夜風を聞きながら、前島がポツリと呟いた。
入山前に、山小屋で握り飯と豚汁のセットを食べた切り、もうすぐ9時間だから、当然だ。
届け出ている下山予定は16時だったので――僕達が予定時刻を過ぎて戻らないことは、既に記録上明らかになっている。
しかし、僕達の異変に気付いたところで、実際に捜索が行われるのは、まだ先のことに違いない。
僕自身は「松茸狩りに行く」ことを、誰にも話さなかった。このまま自力下山が出来なかった場合――最悪、無断欠勤で課長からスマホに連絡が入るのが、連休明けの火曜日だ。返信がなければ、安否確認のためアパートを調べるだろうが――事件性がなければ、すんなり管理会社が開錠に応じやしないだろう。更に部屋中浚ったところで、こんな山奥で遭難している事実に辿り着く手掛かりなんかない。
僕ルートで探し出して貰える可能性は低い。となると、望みは前島ルートか。
「前島。田渕部長には、今日松茸を届けるって話だったのか?」
「いや……明日の約束だった」
じゃあ、田渕部長から前島にコンタクトを入れるとしても、早くて明日の夜か。
「それより、何か食べ物持ってないか?」
答える声のトーンが沈んでいるので、流石に落ち込んでいるのかとばかり思ったら、単に空腹で覇気がないだけらしい。
「チョコレートがあったと思ったけど」
呆れながらも、自分の赤いリュックを探る。戦利品を入れて帰ってくる予定だったので、中はガラガラだ。半分空のペットボトル1本と、スリムパックの小さなチョコレートが8枚、あとは軍手が1組と汗拭き用のタオルが1枚、ポケットティッシュが2、3個といったところか。
「半分やるよ。でも、いつ救助が来るか分からないんだから、考えて食えよ?」
「うわ、サンキュ! 美味いなあ!」
冷えた掌に4枚乗せてやる。途端、前島は銀色の包装紙を雑に剥いて、次々に食べた。
「わっ、馬鹿! 何、いっぺんに食ってるんだよ!」
計画性のまるでない前島に、呆れも怒りも通り越して、ただただ溜め息が溢れる。コイツはダメだ――サバイバルなら、真っ先に倒れるタイプだろう。
「僕の分、もう分けてやらないからな」
言いながら、僕も1枚、口に放る。甘さ控えめのビター風味だが、それでも優しい甘味が全身に染み渡り、疲労を溶かしてくれた気がする。糖分って、偉大だ。
「お前、何にも持って来なかったのかよ?」
前島のペッタンコの黄色いリュックに、ダメ元でチラリと視線を向けた。奴は、深く溜め息を吐いた。
「だって、今頃は松茸パーティーの予定だったからなあ」
「パーティー? それじゃ、誰かにここに来ること……」
「言わねぇよ。お前と男2人、サシ飲みの予定でさ、ちょっと良い酒取り寄せてあったんだ」
「――そうか」
淡い期待は水泡に帰した。明らかに落胆した僕に、前島は体育座りの姿勢のまま、右手を伸ばしてきて、肩をポンポンと叩いた。
「大丈夫だって。明日、明るくなったら、この坂を上るだろ? 真っ直ぐ落ちたんだから、登山道に戻れる筈じゃん」
一体――どうすれば、こんなに楽天的思考になるのか?
常日頃からリスクマネジメントに関わる経理畑と、明るく気さくなコミュニケーションスキルがモノを言う営業畑の違いだろうか?
思わず天を仰ぎ見た。木立の間――ステンドグラスのように仕切られた暗い空の欠片を、金色の光源がゆっくりと流れて消えていった。
ー*ー*ー*ー
夜風が穏やかになってきた。それでも晩秋の山は急激に気温が下がる。長袖のフリース素材の上着は暖かいが、ジーンズを履いた下半身が冷えてきた。
「寒いな……ちょっと用足してくる」
前島が立ち上がったのは、日付が変わった頃だ。
「足元、気を付けろよ」
「ああ」
登山道から転げ落ちた時、僕達はスマホを無くしてしまった。圏外だろうと手元にあれば、こういった移動時に懐中電灯代わりになったのに。
ガサガサと落葉を踏む音が遠ざかる。「大」ならともかく「小」ならば、余り遠くに行かない方がいい――そう思った時だった。
「あっ! わあああっ!」
「前島っ!?」
ザザザザアァ……とハデな音がした後、静かになった。
「おいっ! 前島、大丈夫か?!」
立ち上がり、音のした方向に呼び掛けたが、返事はない。
「前島ーーっ!?」
叫べども――返るは、カラカラと足元の落葉を揺らす小さな風音だけだ。
「おい……嘘だろ」
新聞紙が飛ばないよう、リュックで押さえると、恐る恐る暗闇に足を踏み出した。危険は十分承知だ。でも、だからって、放っておけないじゃないか!
「前島ー! おぉーい、大丈夫かぁー!」
気は急くが慎重に進む。如何せん、月のない山の斜面だ。歩みが覚束ないのは仕方ない。
リュックの場所から真っ直ぐ歩いている筈だが……余り離れれば、元の場所に戻れなくなりそうで不安だ。
「前島ぁ?」
何度目か名前を呼んだ時――。
「……ごめん」
「えっ? うわあっ!?」
突然、視界が回り出した。
顔や手足にビシバシ何かが当たり、身体のあちこちにゴツゴツと痛みが走り――自分が斜面を落下していることだけ、分かった。あっという間の出来事だったけれど、足を滑らせた訳ではないことは確かだ。落ちる直前に聞こえた低い呟きは、前島の声に間違いなく――背中に強く押された掌の感触が残っていた。