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「松茸狩り?」
同期の前島が、残業中の僕の部署――経理部――に、ひょっこり顔を出したのは、10月も半ばを過ぎた水曜日だった。
この夜の僕は、役職者も入れて10人程の事務所で、1人残業していた。もうひと踏ん張り、終了の目処が立った所だったので、デスクトップから意識を回収し、隣席の河野さんの事務椅子を占拠した、図々しい訪問者に向き合った。
「外村、まぁた貧乏クジ引かされたのか」
「大きなお世話だよ」
横目で睨んでみせるが、左手は差し入れのボトルコーヒーを素直に受け取る。
今年配属された新人が、上半期の売上を一桁多く入力したまま、決算報告資料を作成したことが発覚したのが、先週の初め。上へ下への大騒ぎの末、土日返上でやっと修正作業が片付いた。この予定外の業務に追われていた間、申請されていた書類の整理とデータ入力――という地味な仕事が放置されていた。当然、私生活に支障のない若手の独身男にお鉢が回ることになる。つまりは、僕だ。経理部では……いつものことなのだ。
「実はさ、取引先の田渕部長が、穴場を教えてくれたんだよ」
営業部の前島は、日焼けした健康的な頬を緩めた。彼は、取引先の部長や課長のお誘いで、やれ釣りだ、山菜取りだ、ゴルフだと年中精力的に休日を捧げている。
もうすぐ30に手が届くという「今時の若者」にしては珍しく、公私の枠に拘らない付き合いを快諾するため、年輩のオヤジさん連中には随分可愛がられているらしい。
「どうせ、とんでもない辺鄙な山奥なんだろ? 嫌だよ、面倒臭い」
「そう思うだろ? それが、大して険しい山道じゃないんだよ。それに、純国産だぜ? 買ったら高いのに、田渕部長の穴場には、ボコボコ生えてるって話だ」
ボコボコは大袈裟だと思いつつ、ちょっと心が動いたのは……確かだ。
国産の松茸なんて、平リーマンの安月給じゃ、おいそれと手を出せる代物じゃない。せいぜい韓国産ぐらいしか口に入らないが、図体は立派でも大味で、香りも風味も比べ者にならないのだ。国産松茸という燦然たるブランドだけに許された、あの堂々たる風格……そして自然の恩恵を全身に蓄えた芳しい香り……やはりキノコ界の頂点と言えよう。ああ、想像するだに堪らない。
大のキノコ好き、という事実も相まって――僕はつい、耳を傾けてしまった。
「だけど、穴場って他人には教えたがらないもんだろ」
「それがさ……」
僕の食指が動いたことに、前島はニヤリと笑んで、スルスルっと椅子ごと寄ってきた。ここから重大な秘密を紐解くぞ――と、さも勿体つけたように声を潜めて。繰り返すが、今夜経理部には僕1人しかいないのだが。
「本当は、部長も一緒に行く予定だったんだよ。それが日曜大工で捻挫して、無念の断念になった訳」
前島の説明だと、田渕部長の代わりに穴場から収穫し、成果をお届けする約束なのだとか。もちろん、手数料として一部をいただく算段もバッチリ取り付けてある。そのおこぼれの一部が、僕に回ってくるそうだ。
「三連休の頭に行けば、最終日はゆっくりできるだろ。スマホも繋がる程度の郊外だし、2時間くらい走った所に温泉もあるんだぜ?」
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――今思えば、美味すぎる話だった。
第一、そんな人里の直ぐ隣みたいな山野に、希少なお宝がボコボコ生えている筈がないのだ。
そんな簡単な場所に、労せず手に入るなら、他人が既に足を踏み入れて収穫しているに決まっている。
ちょっと考えれば分かる筈だったが――あの夜の僕は、残業続きで冷静な判断が出来なかったに違いない。
ふぅ、と溜め息を付いて空を見上げる。
「せめて……星でも出てりゃなぁ……」
昼間から雲に隠れたままだった太陽は、姿を見せぬまま沈んでしまった。どんより暗い空の中には月明かりも無く、方向を得るための手掛かりすら皆無だ。
「雨にならなかっただけ、ラッキーだと思おうぜ」
体力温存の目的で、僕らは斜面途中に生えていたブナの大木の根元で一夜を明かす決断を下した。大木、とはいえ落葉樹だ。この季節ともなると、紅葉も色褪せて、7割が枝を離れている。
更に、落葉も下草も、前日までの雨で湿っていた。松茸を包むつもりで持ってきた新聞紙を重ねて敷くと、前島は腰をおろした。
相変わらず危機感の無い発言に、収まっていた苛立ちが爆発した。
「ラッキー? 馬鹿言うなっ! 携帯が繋がる程度の郊外だ? よく言うぜ! そんな人里近くで、何で遭難するんだよ!? 一体、どこにラッキーの要素なんかあるんだ!」
前島は、グッと唇を噛むと俯いた。応える者のない僕の憤りは、四方を囲む暗い木立の中に虚しく吸い込まれていった。
5時間前――。
「……なぁ、さっきの分かれ道の所にあった"大木"って"桜"だったよな?」
入山書類に身元を書いた山小屋から、3時間くらい歩いた時、妙に明るい声音で前島が訊ねてきた。
「えっ? 桜?」
田渕部長から聞いて、正確な場所を知っている。当然、そこまでのルートも込みで――信じて疑わなかった僕は、目を丸くした。
「『桜の大木を右に』って、地図には書いてあるんだよ」
「ちょっ、ちょっと待てよ――地図ぅ?!」
目の前を行く前島を追い越して、彼が隠すように携えている紙切れを奪い取った。
「何だ、これ……っ」
それは、ネットからプリントアウトした大雑把な地図で、黄緑の大地をカクカクと白い道が走り、ほとんど行き止まりの途切れた道の先に、手書きで目印が書き足されただけのものだった。
こんなもの、子どもの落書きと大差ない。
「去年来た時は、田渕部長が一緒だったからなぁ……」
爽やかな笑顔で、前島は頭を掻いた。ゾクリ、汗ばんでいた背中に、異質の汗が伝った。
「……戻るぞ」
怒りを抑え込んだせいで、声が低くなる。
「いや、待てよ、外村。折角、ここまで来たんだし、まだ明るいし」
「馬鹿野郎っ!!」
あまりに呑気な言い種に、ついにキレた。
「僕はアウトドア、全くの素人だ。それでも、通常の登山道を離れる危険性くらい分かる! 僕達の格好を見ろよ?! ハイキングの延長じゃないか!」
装備なんて必要ない。なんたって、スマホが繋がるんだから――。
「前島。スマホ、見てみろよ」
戸惑い顔の馬鹿は、フリースダウンジャケットの内ポケットから取り出して、眉をひそめた。
「僕のスマホも圏外だ。分かっただろ、引き返すぞ」
「――それは、困る」
踵を返しかけた僕の肩を、前島はグイと掴んだ。
妙なバランスだったのか、トレッキング仕様ではないスニーカーがぬかるみに滑り――。
「わああああっ!!」
どちらの声か分からない叫びを残して、僕達は秋色の雑草広がる海原を一気に転がり落ちた。