第2話 仮想空間の少女
――西暦二〇三八年。
≪Mixed Reality≫いわゆる複合現実の技術が人々の生活の主軸となったのは遥か昔。今やその技術は、教育分野、ビジネス、家電に至るまで、あらゆるモノとシーンに浸透し、電気に勝るとも劣らないほど日常に浸透していた。
ちなみに≪MR≫と略されるそれは、例えば立体映像の後ろ側に回り込んだり、仮想空間のボールを手にとって壁に投げると跳ね返るような、仮想空間と現実空間を融合させる技術のことである。ARとVRのいいとこ取りをした技術、と言えば分かり易いだろうか。
そんな中、日本においてユーザー数七千万人、アクティブユーザー五千万人を越えるメガヒットを記録したMRMMORPG『Reality X―cross―』、通称『リアクロ』。そのシステムはMRに最適と言われ、殆どのMR技術がリアリティクロスの仮想空間を利用しており、ゲームに興味がない人間でも機器を購入することが異常な普及率を実現していた。従来、MRはMMORPGには不向きと言われていたが、それを覆したゲームとして名高く、MR技術の原点とも言われている。
普及とともに国家事業に引き上げられ、複合現実特別措置法、通称≪MR特措法≫の元、現在は国からの委託を受けたR-games社が運営している。そして、行政サービスの一つということは、当然アカウントを作成するには身分証明が必要となる。何か事を起こせば、直ぐに身元と現在地が特定される世の中なのだ。
――にも関わらず、目の前に広がる光景はいったいどういうことか。
「ほぇ!?」
自身の部屋の扉を開けたヒロは、そのまま部屋に足を踏み入れることなく、ドアを開けたままの状態で金縛りにでもあったかのように硬直する。いかにも男子高校生らしい殺風景な部屋には勉強用のデスクと広めのベッドが置かれ、壁伝いに配置された本棚を占領するのは大量の漫画本。室内に一つだけある窓は、黒色のカーテンが半開きになっており、そこから覗く風景がここが二階であることを主張する。いつも通りの自身の部屋である。部屋の中央で佇む色白の少女を覗けば、だが。
「あ、すいません。間違えました」
それだけ呟いてヒロは強めにドアを閉める。待望のリアクロが手元に届いて舞い上がっているから何か見えてはいけないモノが見えただけだ。絶対そうだ。必死に自身にそう言い聞かせる。
「ぁ」
ドアが閉まるタイミングに被せるように、色白の少女がヒロに向かって手を伸ばしたのが見えたような気がしたがそんなことはないだろう。ドアの向こうから、「ぁ」とか聞こえたような気もするが空耳に違いない。
「いやいやいやいや! 気のせい、気のせい!」
ドアノブを強く引いたまま、ヒロは廊下で困惑する。幽霊にしてはやけにハッキリと見えた気がする。本能的にその姿を直視するのを避けたため確証はないが、すらっと伸びた足があった。というか黒いブーツを履いていたような。であれば、泥棒か? それにしては大胆すぎやしないか。そもそも、人の部屋に土足で上がるなど育ちの悪さが窺えるというものである。いや、育ちが悪いから泥棒などという犯罪に走るのか。
「……ふぅー、よし」
深呼吸を入れて呼吸を整える。木製のドアに短く二回ノックを入れ、ヒロは意を決してゆっくりとドアを押していく。このドアの向こうに何もないことを願って。
「失礼しまーす――」
「うわーん、良かったぁー!」
ドアが開ききった瞬間、色白の女性が容赦なくヒロの胸に飛び込んでくる。これが自身の彼女だったなら間違いなく役得だっただろう。そうでなくとも、女性から抱きつかれるなんてシチュエーションは、ボーイ・ミーツ・ガールが始まっても良さそうなものである。
「ひぃ!?」
しかし、ヒロの口から零れたのは純粋に恐怖一〇〇パーセント生搾りの小さな悲鳴だった。理由は明白だ。眼は確かに自身に抱きつく女性の姿をとらえているのに、抱きつかれたはずの体にはその感触を感じなかったのだから――
「――えーと、それで結局、君は誰? どちらさん? 幽霊?」
抱きついてきた、というより飛びついてきた女性を恐る恐る引きはがしたヒロは、余程怖い目にあったのか取り乱す女性を何とか宥め、部屋の中央で胡座を組んで色白の女性と向き合っていた。
感触はないものの女性の体に触れることは出来たのが意外すぎて、その不可思議な感覚が余計にヒロを困惑させる。いっそすり抜けてくれれば無視するという選択肢もあったのに。
目の前で正座する女性は、よく見れば自身とさほど年の変わらない可愛い少女だった。
余裕を持って肩にかかる髪は、グラデーションのかかったやや明るい色だが、室内灯に照らされて天使の輪がくっきりと見え、おそらく地毛なのだろうと思わせる。どこか幼さの残る顔立ちは美人系ではなく可愛い系に分類されるだろう。どことなく愛嬌のある表情が若干ではあるがヒロの警戒心を和らげる。
身長はやや小柄で百五十センチそこそこだろうか。華奢ではあるが、けして骨と皮だけというわけではなく抱きしめればマシュマロのように柔らかそうだ。漆黒のニーソックスがすらっと伸びた太腿を半分ほど隠し、同色のロングブーツと共に見事な”絶対領域“を形成している。上半身に纏う、白を基調としたシンプルなニット生地のワンピースがその下で存在感を放つ両足を際立たせており、やり場に困ったヒロの目線が泳いでいる。
「名前はマシロです。どこのどちらさんかは分かりません」
「いや、分かりませんって……」
名前に違わぬ色白の透き通った肌の可愛い少女は改めてマシロと名乗り、先ほどの取り乱し様はどこへやら、あっけらかんと自身が何者であるか分からないと主張する。マシロの堂々とした立ち回りとは裏腹に、ヒロは困惑を隠せない。何故、目の前の少女はこんなにも落ち着いているのか理解しがたい。
「壁をすり抜けることは出来なかったので幽霊の線は薄いかと!」
「……えーと。話をまとめると、気づいたらこの部屋に閉じ込められてて、ドアノブや窓に触れることは出来るのに何故か開けることが出来ない。途方に暮れていたところに俺が入ってきた、と。なるほど信じよう、って信じられるか!」
床に手に平を押し当てながら、自身が幽霊である可能性を否定するマシロを横目に、ヒロは論点を整理しつつ、一人ノリツッコミを入れる。
目の前の不審少女の言うことを断片的に信用するのであれば、モノに触れることは出来るが動かせない、と言うことらしい。同様にヒロの方から触れようとすれば、見た目上は触れているのだが手にその感触はない。
ヒロはこの感覚に覚えがあった。昼間、スライムを狩るために手に握った”ウッドソード”とまさに同じ感覚である。どうやらマシロは仮想空間のみに存在する少女らしい。ちなみに、向こうは触れられている感覚があるらしくやりづらいことこの上ない。
「事実なので、信じられないと言われても困ります」
頬を膨らましながら抗議の意志を示すマシロを前に、ヒロは思わず赤面する。やばい、ちょっとかわいい。
「えっと、なに、記憶喪失ってことでいいわけ?」
「あー、多分そんな感じです」
「多分て……」
ヒロとしては、マシロに自身の心の内を悟られないよう話題を変えたのだが、そこそこヘビーな問題のはずなのに、一切の危機感を感じさせないその様子に、尊敬にも似た呆れの感情が広がる。
「だって、分からないもん」
「……」
マシロとしては嘘偽り無く、本当に気づいたらこの部屋に突っ立っていて、名前以外にには自身がどこの誰なのかも、気がつくまで何をしていたのかさえも覚えていないのだからそれ以上には答えようがない。窓やドアといったモノの名前や使い方は覚えているが、過去の記憶はないのだから「記憶喪失か?」と聞かれれば、「多分」と答えるのは当然ではないか。
「はぁ、疲れた。まぁいいや、玄関まで送るからお帰り頂いて結構です」
ヒロは胡座を組んでいた足を一度崩すと、そのまま正座し直し「もう勘弁して下さい」とでも言うように、お手本のように美しい丁寧な土下座でマシロに嘆願する。状況についていけないし、実体のない少女では”その先”も望めない。となれば、見なかったことにして速やかにお引き取り願うのが一番手っ取り早い。
「どこに帰ればいいんですか?」
「いやいや、知るわけないじゃないですか」
つい数分前に初めて出会った相手なのに、「どこに帰ればいいか」など、当たり前だがヒロは知るよしもない。そもそも、本人が知らない事柄を他人が知っているということ自体おかしな話なのだが、マシロは至って真面目に聞いている。というよりも頼れる人間に心当たりがない以上、目の前の高校生に見捨てられるわけにはいかない。
「途方に暮れるうら若き女性を追い出そうとするなんて鬼の所行ですね」
「……その表現は何かおかしくね!? 俺が悪いの!?」
たしかにヒロとしても、自身の対応が人間的に判断して“冷たい”という自覚はあったが、ゴミでも見るような軽蔑の眼差しで、鬼の所行などと罵られるのはさすがに理不尽ではないか。ジト目を向けてくるマシロは、正座したままヒロの目を真っ直ぐと見据え、正座したまま改めて身なりを整える。
「とりあえず、一晩泊めて下さい。あ、親に貰った大切な体で対価を払うわけにはいかないので、寝込み襲うのは無しで」
言い回しは確かに丁寧で、セリフもお願い口調なのは間違いないのだが、勘に触るのは何故だろう。そもそも寝込みを襲うな、と言われてもヒロとしては触っている感覚がないのだから、襲ったところで何の意味もない。むしろ、その場合は帰ってくれなんて言わない。いや、メンタル的に言っちゃうかもしれないが。
「……とりあえず、ツッコむのは諦めたからちょっと待って。親に相談する。てか、『仮想空間にしか存在しない女の子泊めていい?』とか聞いたら、どんな顔されるかそっちの方が怖い」
仕事の上でMRが必要不可欠な世の中である。昔はパソコンで仕事をしていたらしいが莫大なデータ処理が発生しない作業であれば仮想空間で十分出来てしまう。つまり、ヒロの両親もリアクロに対応したMR機器を持っているということであり、すなわちマシロのことが見えてしまう。いかに実体を持たないとはいえ、女の子を連れ込むからには一言言っておかなければ見つかった時に面倒臭い。健全な男子高校生が女の子を連れ込めば男子側の両親は喜んでくれそうな気もするが、その女の子が仮想空間にしか存在しないと知れれば逆に憐れみすら受けかねない。若干十八歳にして、三次元を諦めるつもりは毛頭ない。
――しかし、帰ってきた両親の反応たるや、そんな想像を斜め上に裏切るものだった。