(三)へえ、としか言いようがない
筆談は成立し、とりあえず今知りたいことはだいたい分かった。結果から言うと、ここは日本でも地球でもない、いわゆる「異世界」というファンタジーなところだった。
……うん。あの空港からの突拍子もない場面転換は、それ以外に説明も納得もできないから、それでいい。ちょっとまだ、心の底から信じきれてはいないけれど。
初めて遭遇した異世界の人が「熊」だったことに驚いた私だが、こちらの世界で国を持ち社会的生活を営むのは、人間だけではないという。目の前の彼――あ、性別は男性でした――のような、いわゆる動物の姿をしたタイプもいるし、他種族同士の混血も珍しくない。
全体の数でいえば多いのは人で、国によって種族数に偏りはあるけれどそれなりに混じって暮らしているらしい。人種の違いと似ている感じなのかな。
もう、なんか。へえ、としか言いようがない。
私に何が起こったのか、どうしてここにいるのか。それは分からないが、彼がここにいる理由はある。あの雪原は彼の仕事場の一つだったのだ。
この目の前にいる熊さんは、実は大層な魔力持ちだそうで……って、魔法だって! 本当に別世界じゃないか。
ええと、その魔力というものは何も生物だけではなくて、地面や空気、樹木などにも宿るのだけど、それら自然物も日々少ーしずつ魔力を発しているそう。光合成みたいね。それで、地形や気流などの関係で、魔力がやたらと集まる「魔力溜まり」と呼ばれる場所ができるのだそうだ。
私がいた雪原は、世界に何ヶ所かある「魔力溜まり」の一つ。建物も何もなかったのは、ここ一帯の魔力が濃すぎて、普通程度の魔力の人や動物が暮らすのには適さないから。
……渡り鳥も避けて通る、といわれる場所をうろうろとさまよっていた私は、何なのだろう。熊さんは人並みはずれて魔力が強いから平気なのだそうだけど。
話を戻すと、その自然由来の魔力が大量に溜まりすぎると、稀に実体化する時がある。それは「魔物」と呼ばれている。
魔物と聞いて想像するような生きて動く生物ではなくて、モノ。鉱物だったり粘度の高い液体だったりと現れる姿は様々だけど、意思を持って何かをするわけではない。魔物というより魔物と言えるかも。
魔力の結晶とも言える魔物はエネルギーの塊なので、そのもの自体が脅威でもある。動力とか、防災とかそういう平和的なことに使うのが望ましいのだが、まあ、あれだ。兵器的に使いたがる向きも当然、あるわけで。
事実、四、五十年前にはどこかの国の対抗勢力同士が争った際に、それに手を出して大変な目にあったらしい。指先ほどの大きさの魔物一個で小さな町一つ分程の土地が吹き飛んで、死傷者もたくさん出たそうで……。
それまでも似たような事件はあったが、その時はたまたま他国の王族が居合わせたため、国を越えての大騒ぎになった。
色々すったもんだあって最終的には、魔物が発生次第、中立の立場の機関が回収して各国に配分する条約を結ぶことで収束が図られた。
熊さんはその機関に属している、魔力溜まりの監視員だった。彼のように魔力が強いと空気中の魔力の動きや変化にも敏感なので、魔物が発生する前兆が分かるのだという。
この雪原の魔力溜まりに変化を感じて、数日前から見回りに来ていたそう。でもそれはいつもの魔物ができるときのものとは少し異なっていて、戸惑いながらも警戒をしていたら私を見つけた、というのが顛末だった。
雪原はやたらと広い。そのうえあの日は風も強く、魔力が入り乱れていて発見が遅れたと、ものすごく申し訳なさそうに謝られた。
そんなの、私はお礼こそ言えど文句なんてあるわけがないのに。
そう何度も言ったけれど、魔力溜まりに迷い込んだ人たちの救助も彼らの仕事だそうで、普通ならもっと早くに見つけられた、危ない目に遭わせたと納得してくれない。責任感の強い人だ。
このログハウスはちょうど雪原の中央部、私が目指したあの森の中にある。数日から数ヶ月に及ぶ監視員の滞在に備えて用意されたものだが、熊さんは私にしばらくここで過ごすことを提案してきた。
というのも、ここから一番近い町まで徒歩で約五日。途中に休憩できる場所はない。彼は体内の膨大な魔力を消費エネルギーに変えることができるので、しばらく飲まず食わずでいても平気だし、寒さに対しても自前の毛皮や耐性がある。しかし私は無理だろう、という彼の主張は正しい。聞く限り、装備もなしに南極を歩かされる気分だ。
さらに、彼は空間移動的なこともできるのだが、魔力の少ない人にはかなり心身に負担がかかる。近距離ならまだしも長距離のそれに、私が耐えられるかは疑わしい。
冬が終わるまでここで過ごし、野営ができる気候になってから町に向かった方が安全で確実だ、と言う彼に、私は一も二もなく頷いたのだった。
井戸があり、薪にも事欠かない。保存食もたっぷりあるし、もし足りなくなれば彼が一人で近場の町まで行って用意してくれるという。
ありがたい申し出だが、そんなに厚遇してもらって私だけお客さん扱い、というわけにはいかない。渋る彼を説き伏せて、ハウスキーパーの役割を手に入れたのだった。
――と、口頭で説明すればまあ、質疑応答を含めても一、二時間程度で済むだろうこういった話を、熊さんとの筆談で理解するまでに要した日数、実に約半月。
それというのも、いくら器用でも熊の手にペンはいろいろと負担が大きく……あ、負担というのは「ペン」の負担。力加減が難しいようで、慣れるまではペン先も軸もパキパキ折ってばかりだった。
今では随分上手になって、さほど折らなくなった。さほどね。
それに、熊さんは室内にいるのが苦手で、頑張って三十分が限度。もともと動物がじっと座ってちまちまと文字を書くというのが無茶な話なのだ。外で大活躍のモフモフ毛皮も暖炉の室内では暑すぎるだろう。
そうかといって、外では寒くてインクも固まってしまう。なかなか難儀なことだった。
休憩を挟み、というより休憩の時に筆談をするような感じで、ゆっくり少しずつこの世界のことを知っていった。
今となっては、逆にその速度が良かったのだと思う。その間に熊さんの人となりも分かったし、もし最初の頃に一気に教えられたなら、こんな風に受け入れられたか自信がない。
気になるのは、私が元の世界に戻れるかどうかだが、これは、熊さんにも分からないという。「ほかの世界から来た人」の話はやはり神話なんかにあるだけ。
ただ、すべてのことが明らかにされているわけでもないし、他の国の王族や、長命なエルフは何か知っているかもしれない、とも。
……エルフ、いるんだ。え、ドワーフもいるの。ああ、ほんと異世界。
驚いたことに私にも一応魔力があるらしい。かなり薄くて魔法として使えはしないし、人よりも植物の持つ魔力に近い感じだと、見てくれた熊さんも首をひねっていた。
研究施設に行けば詳しく調べることができるらしい。魔力と魔物の専門家である彼にとっても、私というイレギュラーな存在は解明したい謎であるようだが、それは必要であれば追々、ということにしてもらった。だってなんか面倒そうだし。
監視員の人数は多くない。熊さんは職業柄、各国の上層部とつながりがある。私を拾ったのも何かの縁だと、帰り道を探す手助けを申し出てくれた。
他に何の伝手も手段も持たない私はありがたく熊さんの提案を受けることにしたのだが――それもこれも、すべては冬が終わってからのこと。
雪原を出たら、まずはこの国で手がかりを探し、見つからなければ次の国へ。熊さんの仕事について行ければ、色々な国を回ることは可能だ。
気が長く、先も見えない話だが、目的と手段がはっきりとして、そのための道筋も示されている。それは、なんて救いだろう。
「旅行ってほとんどしたことないので。他の国とか、行ってみたかったんです」
熊さんに、笑顔で言い切る。これは本当。
高齢の祖父母と暮らす私は、二人をおいて家を空けることができなかった。修学旅行こそ行ったが、大学の長期休みなどに友人たちから誘われた旅行も、サークルの合宿も、それこそ飲み会だって全て断ってきた。
行けばいいのに、と祖父母には再三言われたが、私が嫌だったのだ。自分の居ないところで家族を失くすのは、一度きりで十分だ。
私の成人を見て、祖父母は満足したように相次いで倒れた――泣いたけど、そのあと笑えるようになったのは、ちゃんとお別れを言えたから。
転勤の多い職を選んだのも、元はと言えば色々な場所を見てみたかったから。貯金をして海外にも行くつもりだった。
異国ではなく異世界。
あてのない「帰り道を探す」旅ではあるけれど。
ほら、いつでも一つくらい「いいこと」が見つかるでしょ。
そうそう。腐ってたって、なぁんも始まらん。
――そうだね、おじいちゃん、おばあちゃん。
考えていたよりも随分とスケールが大きいが、これも旅行には違いない。
「とりあえず、春まではここで。よろしくお願いします」
改めて頭を下げれば、なぜか熊さんも同じように礼をした。目が合って、つい、吹き出した私に首を傾げて困ったようにしている。その瞳には気遣うような色――ああ、大丈夫。ここで初めて会ったのがこのひとで良かった。
一年の半分を雪と氷に包まれるこの北の国トゥアズの春は、あと二か月は先なのだった。