(二)はじめまして、なんだけど
丸太を組んで作った、いわゆるログハウス。ここはそれの豪華版という感じ。
外からは少し高さのある階段を三段上がったところが玄関で、厚い扉はどっしりしっかりとしていて隙間風も通さない。
入るとすぐ大きい暖炉のある広いリビングになっていて、たっぷりとした大きさのソファーと足元にはふかふかのラグ。一階は他にこぢんまりとしたキッチン、トイレ、そしてそれぞれにベッドを備えた大きい寝室と小さい寝室が一つずつ。
使っていない二階の部屋は物置になっていて、外には薪が置いてある納屋がある。窓からは雪の木立が見え、設備も整った居心地のいいところだ。
――あの訳の分からない日に星空の雪原で行き倒れたはずの私は今、このログハウスのハウスキーパーとして生活していた。
パチパチと何かが爆ぜる音、頬に感じる暖かい空気。ゆっくりと開いた目の前にあるのは、暖炉に赤々と燃える火。
ぼんやりとその揺らぐ炎を見るともなく眺めていると、だんだんに意識ははっきりしてきた。
「……わたし、どうなって――?」
覚えているのは満天の星、雪をはらみ吹きすさぶ風。
あの状態で助かるとは思えないけれど、目の前の暖炉からは実際に熱を感じる。少し離れたところに、暖炉のカバーというか鉄でできたガードのようなものがあって、そこで乾かされているのは私の着ていた服に見えた。
視線を上に向ければ木組みの天井が見えて……あれ、服? そういえば私、服を着ていない。裸で毛布にぐるぐると巻かれた状態で、暖炉の前に転がされている。
まるで簀巻きのようにされた厚い毛布から恐る恐る腕を出してみると、手も指もちゃんとあって感覚も動きも問題ない。凍傷どころか、しもやけにもならなかったようだ。不思議だけれど、それ以前からして不思議満載でもう何をどう感じていいか分からない。
とりあえず起き上がって、折り紙のお雛様みたいに毛布を巻き付ける。頭はくらくらするし体は軋むけれど、特に大きな傷も痛めたところもないようだ。
風呂上りよろしく本気の裸だが、床に敷かれたラグも体に巻いた毛布もふかふかと滑らかでなんだか高級なものっぽい。
「ここって……とりあえず、服を」
立ち上がろうとしたのと同じ時、音を立てて背後の扉が開き、ひゅう、と冷気が入り込む。
振り返った私の目に映ったのは体長二メートルをゆうに超えていそうな、薪を抱えた二足歩行の熊だった。
叫び声もあげず、また目を回した私が次に目覚めたのは大きなベッドの中。今度は裸ではなかったけれど、着せられていたのはなぜか男物のシャツ一枚で、突然の『初めての彼シャツ』状態の自分にくらりとめまいがする。
私がベッドから起き上がった音が聞こえたのか。開いたままのドアがノックされ、そちらを見るとにょっきりと出された獣の手だけが困ったように揺れていた。
「――あ、あの、」
私の声に、ぴたりと腕が止まる。相変わらず事態を把握できているわけではないが、今の状態から察するに、あの熊は私に危害は加えないだろう。そのつもりならばいくらでも機会はあったし、とっくにそうしているはずだ。
だとすれば――いや、考えにくいけれど、だって他に思いつかない。
既にありえないことが起こっているのだから、更にありえないことだってあるかもしれない。だから、もしかして、
「助けて……くれたのですか」
意思の疎通は可能だろうか。言葉が通じるかどうか、賭けるような気持ちでもう一度声をかけると、少しずつ姿を現した。入っちゃいけない部屋を覗き見する子どものような、いかにも恐る恐るといった様子はまるで私の方が怖がられているみたい。
ようやく見えた全身は――うん。熊だ。
さっきはさすがに驚いたが、心の準備があったせいか恐怖は感じない。やっぱり熊なんだけど、日本でおなじみの黒いのじゃなくて、グリズリーよりもっと明るい金茶色の毛をしている。その色に、見覚えがあった。
そしてまるで人のように滑らかな二足歩行。しかしどこか具合悪そう。
熊はうんと遠くから腕を伸ばして、抱えてきた包みをベッドの上にそっと置くと、逃げるように部屋から出ていってしまった。あっけにとられる私の耳に、バタンと乱暴に扉が閉まる音が聞こえる。
「えっと……?」
しばらく目の前の包みを見ていたが、意を決して開けてみると、中に入っていたのは女性ものの着替えだった。
肌着らしきキャミソールと、かぼちゃパンツみたいなこれはもしかして、ドロワーズとかいうやつだろうか。初めて見た。
「これを着ろ、っていうことかな。ありがたいけれど」
出てきたのは黒いロングワンピース、軽くて暖かそうな生地でハイネックだ。それと、白いエプロンドレス……どう見ても「メイド服」だった。
背中のくるみボタンに苦労しながらなんとか着替えを済ませ、ベッドのある部屋を後にする。先ほどから聞こえるバキリドサリという音をたどってリビングの窓から外を覗くと、あの熊が一心不乱に木に張り手をかましていた。
頭上から雪が落ちてくるのもお構いなしで、あたりには既に二本の木が倒れている。それなりの太さがあるのに、すごい力……それはそうだ、熊なんだから。
妙なことに感心と納得をしながら、私は玄関に回ると外に出た。
外は明るくて、一瞬目がくらむ。お日様は高い位置にあって、私が気を失ってから少なくとも一晩は経ったようだ。
陽の光の下で見る熊は、金茶色の毛がきらきらとしている。その色はさっき思った通り、私のカイに……小さい頃から大事にしているぬいぐるみのテディベアの「カイ」によく似ていた。
今回の配属にだって引越し荷物なんかにしないで、機内持ち込みの鞄に入れていた、私の大事なテディベア。両親が誕生日プレゼントに用意してくれて――それが遺品になった。
だからだろうか、本当に、怖いと感じなかったのだ。どう見ても生きている大きな熊なのに。初対面の気もしない。
「あの、」
さほど大きい声ではなかったはずだ。それなのに、ビックゥ! と大きく体を震わせて熊は固まってしまった。
さっきもそうだったけれど仕草が人間と一緒で、まるで物語の中に入った気分になる。「美女と野獣」……は言い過ぎか。誰が美女だ、誰が。うん、「さんびきのくま」とか、童謡の「森のくまさん」的なのがぴったりだ。
「あの……ありがとう、ございます」
それだけ言って黙ってしまった私に、熊は時間をかけてゆっくり振り向いた。すこし意外そうに、でも明らかにほっとした、という雰囲気で私をとっくりと眺める。
その視線が頭のてっぺんから順に下がって行って、足元でぴたりと止まった。ああ、さすがに靴は袋に入っていなかった。私の履いていたブーツも見当たらなかったので、裸足のまま。
雪の上に裸足でメイド服の成人女性……我ながらシュールだ。
凝視される気まずさと冷たさに、思わず足がもじもじと動く。ガウ、だかグル、だかいう唸り声が向かいから聞こえて、あ、やっぱり熊だわあ、なんて思った次の瞬間。
一気に間合いを詰められた私は、なぜか熊に膝裏を抱えられていた。
「っえ!?」
こ、これは俗に言うお姫様抱っこというやつじゃっ!? 触れただけで分かる体の厚さと固い筋肉、それと、このがっしりとした腕のせいだろうか、ものすごい安定感なんだけどっ。
至近距離で眺めることになった熊と微妙に視線が合わないまま、いかにも大慌て、という感じに屋内に連れ戻された。飛び散る汗が見える気がするのはなんでだろう。
リビングに入ると巨躯をぎこちなく折り曲げて、暖炉前のラグの上にそっと下ろされる。冷えて赤くなった足を暖炉に向けるように、こわごわ触れる手は必要以上に優しい。顔を上げると、申し訳なさそうにこちらを見下ろす目とようやく視線が合った。
赤みの少ないダークブラウンの瞳はやっぱり、私のテディベアとよく似ている。
「……あなたは、」
話しかければまた小さくビクッとして、なぜか両手をバッと上にした万歳ポーズで困ったように頭を振った。そんな、痴漢を疑われた人のようなことをしなくても。すごく強そうで怖いはずの熊なのに、どうにも気が小さい様子に思わずくすりと笑ってしまった。
そんな私を見て驚いて、心底不思議そうにしている。本当のところ動物の表情なんて詳しくないし、もちろん顔面も毛で覆われているけれど、なんとなくそう感じてしまう。
「私の言葉は通じていますか?」
目を見て問いかければ、数回音が出そうな瞬きをして、こくこくと何度も頷いた。ああ、よかった。胸に安堵が広がる。
ここがどこだか、何があったのかはまだ分からない。けれど、助けられたのは確かだ。
「雪の中で倒れたはずなんです。助けてくれて、服も、ありがとうございます」
そう言って姿勢を正し、三つ指をついた。命の恩人には正座でお礼だ。深々と下げた頭を戻すと、やっぱり気まずそうな瞳とまた目が合った。何か話そうとして開いた口は、いかにも牙な犬歯が鋭くて存在感がすごい。
ちょっとだけ引きつった顔をしただろう私と、グオ、という自分の低いうなり声に慌てて口を閉じて横を向く熊……どうも、熊って気がしない。
「ええと、私の言葉は分かるけれど、同じ言葉は話せない。そういうことでしょうか」
ぶんぶんと激しく首を縦に振る。そうして、はっと何かに気付いた熊はここにいるように、と私に示すと、奥にある階段を軋ませながら上がっていった……ジェスチャーは共通なんだ。ぼんやりとその背中を眺めているうちに、熊は両手に荷物を抱えて戻ってきた。
得意そうに見せられたのは紙とペン――もしや。
すっかり麻痺した私の感覚は「熊と筆談」ということ自体よりも、長い爪のいかつい手が予想外に器用なことのほうに驚くのだった。