3.1 和水一郎(なごみいちろう)
和水一郎は闇の中独り歩いていた。カツンカツンと、革靴のコンクリートを打ち鳴らす音が夜道に吸い込まれる。何だか異界に迷い込んだような気分で落ち着かない。気を紛らわすために夜の散歩を始めたと言うのに、これでは意味がないではないか。
ここ最近、和水一郎は不眠症に悩んでいた。元々仕事でストレスを溜めており、和水正宗の死亡およびそれによる遺産問題、さらに和水静歌の失踪が重なり限界すれすれだったが、高橋大樹の轢逃げ事件がとどめを刺した。許容量を溢れ出たストレスは不眠と言う症状で一郎に襲い掛かってきたのだ。
特に、高橋については一郎に強烈な罪悪感と不安感を植え付けた。警察は十中八九、正宗の遺産絡みだと考えるだろう。殺害理由が正宗の遺産目的ならば犯人の有力候補として真っ先に我ら3兄弟が槍玉に上がる。だが幸か不幸か、その動機は我々には当てはまらない。だから警察は早々に我々を容疑者リストから外してくれるだろう。
何故なら、我々はどうあがいても正宗の遺産を相続することはできないからだ。高橋大樹に全額遺贈されたからという問題ではない。現時点で我々が遺産を受け取る権利はない。権利があるのは母である和水静歌だけだが、あの女は当てにならないし、当てにしたくない。
そもそもあの女は現在失踪中で生死不明だ。正宗の後に死亡してくれていたら万々歳なのだが、そういう希望的観測は大概はずれるものだ。だから我々は少しでも遺産を貰える可能性を広げておこうと、ジョナサンの捜索を始めた。
和水正宗の遺言は『現在ジョナサンの面倒を見ている者に全財産を遺贈する』というものだった。これは間違いなく高橋大樹のことを示していたが、直接名指しされている訳じゃない。だから我々はこの言葉を拡大解釈し、死亡した高橋大樹の代わりにジョナサンの面倒を見ることで、遺産を受け取る権利があると主張するつもりだ。
そして今日、ジョナサンの捜索を依頼した北山という大学生探偵から連絡があった。ついにジョナサンを発見したのかと心躍らせたが、残念ながら話の内容はジョナサンと無縁のことだった。
――決して夜間外を出歩かないで下さい。今夜は非常に危険です。絶対に一歩も外に出ないで下さい。どんな理由であろうとも、です。少なくとも、日が昇るまでの間は外出してはいけません。二葉さん三郎さんにもそうお伝えください。
と、訳の分からぬ警告を受け、期待を裏切られたこともあり、罵り怒りにまかせて電話を切った。それでもしつこく電話が掛かってきたため、仕事の邪魔だと一喝し、着信拒否設定をした。やはり、学生探偵団なぞ怪しい集団に頼ることは誤りだったのだ。
……しかし、あの時の北山は、本当に心配そうな声色で、自分に演技とかを見抜く力はないが、到底演技とは思えない口振りだった。でも、ならば何が危険だと言うのか。若い女ならいざ知らず、大の男が何を恐れる必要があるのか。
だが念のため、今日のところは街中へ赴くのは止めておこうと思った。北山の警告を聞く必要など微塵もないと思うが、心の中に妙なしこりが残っているのは確かだ。こんな気持ちで散歩しても意味がない。一郎は踵を返した。
そして次の瞬間には振り向いたのとは真逆の方向に大きく跳ね飛ばされた。
刹那、黒い死神が自分の命を刈り取ろうとしていることに気付いたが、回避するには遅すぎた。もしかしたら5秒、いや1秒でも早く北山の警告を思い出していたのなら、少なくとも命は助かっていたのかもしれない。
重力に従い、打ち上げられた体が頭から下へ下へと落ちていく。朦朧とした意識の中、最後に一郎が感じたのは全身を纏う冷たい水の感触だった。
一郎を跳ねた黒塗りの車両は、轢く前にも後にもライトを点けずに、減速することもなく、そのまま夜の帳へと消えて行った。