2.15 西空零司
「やっと2人っきりになれたなー」
「まったく……驚かさないで下さいよ。いきなり出てきて『全財産遺贈されたんだぜー』なんて、2重の意味で驚きました。マジで死ぬほどビックリしましたよ」
「死んでもらっちゃあ困るな。話し相手がいなくなっちまう」
工藤家の庭にて、2人は隠れるようにひっそりと立話をしていた。一人は西空零司。もう一人は……
「高橋さん。どうして工藤さんの家に居るんですか?」
高橋大樹。先日何者かに殺され、もうこの世にはいない。だが魂は今もなお留まり、西空の前に姿を現している。
「っていうか成仏してなかったんですか?」
「うーん、そう言われてもなー。そもそも成仏ってどうやるんだ?」
成仏という現象について、実は西空もよく分かってなかった。今までの経験上、幽霊は未練が解消されると成仏するようだが。
「オレに言われても分かんないです」
「そりゃそうだよなー。お前死んでないしね」
高橋は楽しそうにケタケタと笑った。ついこの間死んだ人間とは思えない明るさだ。
「因みに成仏する幽霊ってお前からはどう見えるんだ? やっぱ羽が生えて飛んでったりすんのか?」
「あ、そういう馬鹿っぽい演出はないです」
「馬鹿っぽいって……お前神様仏様に怒られるぞ」
「便宜上、成仏って単語を使ってますが、個人的には成仏と言うよりも消えるって表現の方がしっくりしきます」
幽霊の未練が解消し、この世に留まる理由がないと理解した時、彼等は一瞬で目の前からパタリと消える。天から光が降り注ぐとか、天使が迎えに来てくれるとか、空へと向かう階段が出現するとか、宗教的演出は一切ない。
そういえば高橋が消える瞬間を見届けていなかったことを今更ながら思い出した。直美に形見となったペンダントを身に付けて貰うことで、未練が解消されたと思い込んでいたが、現に高橋は目の前にいる。
ということは、まだ解消されていない未練があるということだ。そしてその未練は恐らく、轢逃げ犯で間違いない。
「高橋さんを轢き殺した犯人は必ず見つけ出して見せます」
「へ、犯人?」
高橋が素っ頓狂な声を上げる。
「いや轢逃げしたクズ野郎を……」
「あー、そういや俺轢き殺されたんだっけ? しかも事故じゃなく、意図的に」
「何か他人事みたいに言いますね……」
「実際問題実感がわかねーんだよなー。俺犯人見たわけじゃないし、殺される理由も思いつかねーんだ」
高橋は頭を掻きながら不満そうにぼやく。
「理由ならハッキリしてるじゃないですか」
「正宗さんの遺産のことか」
「はい。だって全財産遺贈されたんですよね」
「拒否した」
「へ、拒否?」
今度は西空が素っ頓狂な声を上げた。
「うん。だから俺は正宗さんの遺産は一切受け取ってないし、受け取る予定もない」
目が点になる。西空自身の考えとしては、工藤の『和水家にとって高橋が邪魔だったから殺した説』に深く同調していたのだが、その考えが当人より全否定されようとしている。
「もう少し詳しく説明すると、正宗さんの遺言は、現在ジョナサンの世話をしている者に全財産を遺贈する、という内容だった。当時ジョナサンの世話を一番していたのは俺だったし、正宗さんの遺言も当時俺のことを示しているのは明白だった。だが俺はその莫大な遺産に玉袋が縮み上がっちまって、受け取りを拒否した。宝くじや万馬券が当たるのとは訳が違う。普通の感覚の持ち主なら誰だって拒否ると思うぜ。税金とかの問題もあるし。でも、俺は正宗さんの思いを少しは汲んであげたくもあったし、残されたジョナサンが不安だったから、今までと同じ額のアルバイト代を遺産から払って貰えば、ジョナサンの世話を継続すると提案した。もちろん、この提案に皆納得してくれた。工藤は俺が、というよりジョナサンが莫大な遺産を相続したと説明してたが、ありゃ間違いだ。正宗さんの遺産は法に則って分配される。遺産に関して俺を殺すメリットは何一つ存在しない。断言する。一郎さん二葉さん三郎さんは俺を殺してない」
高橋から吐かれる一つ一つの言葉に眩暈がする。すごろくのゴール目前で、ふりだしに戻るのマスを踏んでしまったような気分だ。
「……俺はさー、自分で言うのも難なんだけど、清く正しく生きてきたつもりなんだよ。身寄りはいないし、辛いことも沢山あったけど、それでも俺は正しくあろうとし続けてきた」
淡々と、詩を読むように高橋は語る。
「清く正しく、懸命に生き続ければいつか必ず報われるって信じてたんだ。現に、奨学金で大学に入れたし、良く出来た可愛い彼女だっていた」
西空は顔を上げることができない。高橋が今、どんな表情をしているのか、見るのが怖かった。
「まだまだこれからだったんだ。卒業して、就職して、結婚して、子供が出来て、俺はそんな普遍的で、平和で、幸せな人生を望んでたんだ」
「俺には親が居ない」
「だから、俺は俺だけの家族を望んでた」
「俺の夢は笑顔いっぱいの家庭を築くことだったんだ」
「俺が求めていたのはホームコメディだったんだよ」
「ドラマなんて求めちゃいない」
「サスペンスなんてまっぴら御免だ」
「なあ西空君……」
「どうして俺は殺されたんだ?」
「殺される程の恨みなんて買った覚えはない」
「人を恨んだことだってない」
「なのにどうして殺されたんだ?」
「あれが事故じゃないってことは俺にも分かる」
「じゃあどうして殺されたんだ」
「なあ、教えてくれ」
心の底を掻き毟るような懇願。西空は意を決して顔を上げ、高橋の顔を真正面から捉えた。
「どうして俺は……殺されなきゃならなかったんだ?」
困ったように、悲しげな、哀愁を帯びた目で、高橋は静かに笑った。その自嘲的な笑顔を西空は今まで何度も見てきた。
幽霊が、自分は既に死んでいると知った時、もう誰にも何にも触れられないと知った時、全てが手遅れだったと知った時、絶望の淵で人は笑う。程度の差こそあれ、人は絶望すると笑うのだ。
それはある種の逃避なのかもしれないし、自衛本能によるものかもしれない。そして、笑った後はどうなるかも、西空はよく知っていたから、高橋の隣へと移動した。
やがて高橋の眼から透明な雫が零れ落ちた。だが、その涙が地面を濡らすことは無い。一瞬で蒸発したかのように、地面に付く直前で涙が消える。
"幽霊は現実に何一つ影響を与えることはできない"
彼等にできることは何もない。
ならばなぜ幽霊は存在するのだろうか。
どうして自分は幽霊が見えるのだろうか。
幾度となく繰り返し湧き上がってきた疑問に、未だ明確な答えは出せていない。
だが一つだけ決めていることがある。それは――