2.10 南地語
午後3時半頃。南地、北山、西空の3人は部室に集合していた。
「それで、工藤さんはいつ来るんですか?」
「4時頃。5限目の授業が終わってから来るって」
「悠長ですね。ふん縛って無理矢理連れて来たらよかったんじゃないですか」
「それは流石に乱暴過ぎるかな」
「だって工藤さんはオレ達に嘘ついたんですよ。しかも死んでるのを良いことに、高橋さんを利用した。そんなクズに容赦する必要ありません」
西空が怒気混じりに吐き捨てた。
「た、確かに工藤先輩はウチらに嘘吐いてたみたいですけど、そこまで怒ることじゃない気が」
「怒ってません。ただ、嘘が許せないだけです」
西空は直美の話を聞いてからずっとピリピリしている。正直、ちょっと怖かった。
工藤はジョナサンが高橋のペットだと偽っていた。自分のペットと言うのではなく、友人のペットだと言ってたのが性質悪い。
確かにそれは不愉快なことで、南地も腹立たしく思う。でも、そこまで怒るほどじゃない。北山もそうだろう。しかし西空だけはやたら怒りを露わにしている。何故彼はこんなにも怒っているんだろう。
「西空君は嘘吐かれたことにじゃなく、嘘の内容が許せないみたいね。何が許せないのか、話してくれないかな」
北山が冷静に分析する。西空が少しの間を置いてから答えた。
「工藤さんは友人だった高橋さんをダシに使って嘘を吐いてます。当人が死んでいるから、好き勝手に嘘を吐けます。死人に口なし。オレはそういう考え方をする奴が許せません」
「成程。西空君らしい考え方だ。でも、そこで終わらせちゃ駄目。嘘に憤るのは子供にでもできる。重要なのは、工藤君は何故そんな嘘を吐いたのかということ。工藤君が来るまで、それについて話し合いしょう」
北山が挑むような視線を西空に送る。北山の意図を理解し、西空は視線を合わせない様にしながら答える。
「工藤さんが身代金目的で誘拐したんじゃないですか。高橋さんからジョナサンについて色々聞いてるでしょうし、和水家から上手いことジョナサンを連れ出す方法を知っていたかもしれません。でも、何かの手違いでジョナサンを逃がしてしまった。だから、オレ達に捜索を依頼して……」
「でも、ウチは工藤先輩がそういうことをする人には見えなかったけど」
「何言ってるんですか。人を見かけで判断しちゃ駄目ですよ。どんなに良い人そうに見えても、実際にいい人だったとしても、人なんて何をするか分かったもんじゃないですから」
些か興奮気味に西空は語る。吐き捨てられる言葉に強い嫌悪感が含まれていた。
西空は対人恐怖症だと言っていたが、どちらかというと人間不信なのではないか。南地はそんな印象を彼に抱き始めていた。
――南地さんは"今は"危害を加えてきそうな人じゃありませんし
不意に西空の言葉を思い出した。根はずっと深いのかもしれない。
「うむ。筋は通ってる。でも、私の考えは違います」
「北山さんはどう考えてるんですか?」
「それは多分――」
ドンドンドンドン
突如、下品なノック音が響いた。
中に居る人がどんな印象を受けるか一切考えていない、力任せに、子供が駄々をこねて叩いている。そんなノック音だった。
西空は突然の来訪者に体を強張らせ、南地はそのノック音に眉を顰めた。
「工藤先輩ですかね?」
「違うと思うけど……」
訝しげな表情をしながら、北山はドアに近づく。
「はい、どちら様――」
北山がドアノブに手を掛けた瞬間、扉が外に向けて勢いよく開いた。北山は大きくバランスを崩し、扉のすぐ傍で立っている来訪者の胸に飛び込む形となってしまう。これが少女漫画ならお約束の展開なのだが、現実はそんな甘い物ではなかった。
「済みません……」
「ぬは?」
「はい?」
「ぬぅはどぅーしたんだよオ!」
来訪者の口から、悲鳴にも似た奇声が発される。
「さ、佐々木さん? どうしてここに。落ち着いて下さい」
突然の来訪者は依頼者の一人、佐々木だった。
「ぬは、犬はどうしたんだよお。ぁやく犬をよこせよお。犬犬犬犬犬が無いと駄目なんだよお」
佐々木が北山の両肩を掴み、前後に大きく揺らす。北山の頭が強風に煽られる布のように、バタバタと前後に揺らされた。
「佐々木さん! 乱暴は止めて!」
南地が佐々木に向かって叫ぶ。
「あ゛ア゛! ぁんでそんなこと聞くんだよボケが」
対する佐々木は裏返った声で南地を恫喝する。敵意丸出しの声に南地は怯んでしまい、北山を助け出すことができない。ここは男である西空が頼みだと思い横目で様子を窺ったが、西空の顔は恐怖で青ざめており、期待できそうになかった。そう言えば対人恐怖症だった。使えねえ。
「さ、佐々木さん、乱暴は、体揺らすの止め」
「ぬう。犬うを出せボケ。ボケボケボケボケ! ぬうぬう犬う! ボケボケボケ!」
乱暴を止めろと抗議するが、当の佐々木は全く聞く耳を持ってない。南地はどうしたらいいのか分からずオロオロするばかり。佐々木の苛立ちは増す一方。状況は一向に改善せず、むしろ悪化の一途を辿って行った。
「ぁからあ、ぬはもう見つかってんだろう。ォケがさっさと出せよおボケエエエ!―――」
一際裏返った声を出したと思ったら、動画の一時停止ボタンを押したかのように佐々木の声と動きがピタリと止まった。北山は身を捩って肩に掛けられた手を振り払い脱出を試みる。だが、佐々木はそれを許さず、北山を乱暴に自分の元へ引き寄せ、左の二の腕を首に回し拘束した。
「ぉうだあ、こうすればいんだあボケ」
佐々木は鳥肌ものの気持ち悪い声を出し、ズボンのポケットから大きなカッターを取り出した。キチキチと音を立てながら白い刃を押し出され、その鋭い刃を北山の首筋に当てつつ厭らしい笑顔を南地に向ける。サスペンス物のワンシーン。典型的な人質光景。一触即発。
「ぅごくんじゃねえぞボケ。ぬを出せボケ」
「い、犬はまだ……」
「ゃべるなボケ! ぬを出せボケ!」
「あ、と……」
「ぅごくなボケ! ぬを出せボケ!」
「だぁまってんなボケ! 止まってんなボケ!」
犬は、ジョナサンはまだ見つけていない。そう説明しようにも喋るなと言われ、動くなと言われ、黙るなと言われ、止まるなと言われ、南地はもうどうすればいいのか分からなかった。
「ぬを出せっつってんだろボケエ!」
刃に力が加えられ、当てられた部分から小さな赤い点がプクリと湧き出た。赤い点は首筋を辿り線となり、佐々木の二の腕を濡らし面となった。
「北さん!」
思わず叫んでしまう。
「だぁまってろっつってんだろボケえ! コロすぞボケえ!」
コロスゾ。
それはたった4文字の言葉。ただそれだけで悪寒が頭から爪先まで走り、頭の中が真っ白になった。
もう何が何だか分からない。一体どうしたら。
「ぁんだあ! ぅごくなつってんだろボケえ!」
佐々木の叫び声で現実に引き戻される。後方にいた西空が、いつの間にか南地より前に出ていた。
西空君、お願いだから相手を興奮させないで。そう言おうとしたが、西空の横顔を見て声が引っ込んだ。佐々木にコロスゾと言われたとき以上の悪寒が全身を駆け巡った。
何と表現すればいいのだろう。まず、西空は対人恐怖症で怯えた表情をしている訳ではなかった。空間を切り裂くような鋭い目つきで佐々木を見つめている。だが、怒りに染まっている訳でもない。冷静で冷徹な眼差し。何故か、これとよく似た眼差しを何処かで見たような気がした。
「ん、だよボケえ……ボケえ! 近付くなっつつってんだろボケえ! 頭おかしいのかボケえ!」
佐々木の恫喝に微塵も怯まず、西空は構えながらジリジリと距離を詰めていく。西空の只ならぬ雰囲気に気圧されたのか、佐々木は一歩後退した。一進一退。ピリピリと空気が張りつめている。ちょっとした切っ掛けで、風船のようにパアンと破裂してしまいそうだ。
「ボ、ボケが……」
佐々木の震えた小さな声がやけに大きく聞こえた。西空が纏う空気は、大の大人を怯えさせてしまうほどのものらしい。蛇に睨まれた蛙。2人の様子は、その表現がピッタリだった。
ふと、南地は動物恐怖症を少しでも改善するために見ている自然ドキュメンタリー番組を思い出した。虎が影に隠れ、仕留める一瞬の隙を窺っている。ワニが気付かれないよう、水中からゆっくりと近付いていく。梟が木の上から照準を定めている。シャチが、蛇が、カマキリが、それらの鮮明な映像が、南地の脳裏を通り過ぎた。
そうか分かった。西空君のそれは……獲物を狙っている捕食者の目だ。
「ボケエエエエエ!」
鼓膜が破けるんじゃないかと思うレベルの金切り声を上げながら、佐々木はカッターを振り上げた。西空の目が一層鋭くなり、獲物に向けて――――
ゴワン!
突然、間抜けな金属音が響いた。一昔前のコントでよく見た、タライが人の頭に落ちてきた時に鳴る、お約束の音だった。
「今だ取り押さえんぞ!」
廊下から複数の足音が近付いてきた。アルミ製の角缶で頭を叩かれた衝撃のせいか、呆然としている佐々木はいとも容易くお縄となる。
「北山ちゃん大丈夫か!」
「工藤君? 大丈夫」
「って大丈夫じゃねえよ! 首から血が出てるじゃねえか!」
「ああ、そういえば……」
「え? 何? どうしたの? 何でこんなに人が?」
工藤含め、6人の男が部室前に集まっていた。内、4人が佐々木を取り押さえ、1人が携帯電話で警察に通報している。
「いや、大声が聞こえて何事かと思って駆けつけたら、何か大変なことになってたじゃねえっスか。近くにいた運動部の奴を集めて、取り押さえる機会を覗ってたんスよ。因みに俺達だけじゃなく、廊下にもいっぱい来てるっスよ」
確認すると、廊下にはざっと20人以上の人間が駆けつけていた。その内の半数が、面白半分に取り押さえられている佐々木の写真を撮っている。
多分ネット上に晒されているんだろうな。
「ところで……そこで泡吹いて倒れてる奴は大丈夫なんスか?」
工藤が指差す方向を見ると、部室中央にて大の字で仰向けに倒れている西空がいた。
「ああ、6人目が入ってきたあたりで気絶したみたい。彼、重度の対人恐怖症だから」
気を失った西空からは、ついさっき感じた野性味は綺麗さっぱり消え失せていた。