2.9 進藤直美(しんどうなおみ)
軽いジョギングをしながら帰路へ付く。最近増えた進藤直美の日課だ。
最愛の恋人を失った悲しみは、直美の心に深々とナイフを突き立てた。その傷は、きっと一生癒えることはないだろう。
でも、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。俯いたままでは、きっと彼に笑われる、怒られる。だから直美は、深い深い海底に沈んでる己を引っ張り上げ、頬を打って喝を入れ、自らの所属するバレー部の練習へと復帰した。
だが、直美を待っていたのは、憐憫という仮面をつけた部員達だった。
――大丈夫。無理せずに部活休んでていいよ。
――いいのいいの。片付けはいいから、先に帰ってて。大変でしょう。
――辛いと思うけど、元気出してね。
――あ、そういえば新しく出来たケーキ屋さん凄く美味しいって噂よ。今度行ってみたら?
皆、心優しい言葉を掛けてくれた。だが、直美は見抜いていた。優しい言葉の裏に、余り関わりたくないという思いが隠れていることを。
皆に悪気はない。そんなことは分かっている。多分、どう声を掛けたらいいのか分からないのだろう。でも、分からないんだったら、せめて放って置いてほしい。変な気遣いなんていらない。逆に、酷く惨めな気分になる。
部員の直美に対する態度は一向に変わることなく、それに耐え切れず部活をサボりがちになった。きっとあたしがサボっていることに部員たちは安堵しているのだろう、と思ってしまう自分にも嫌気が刺した。
でも、いつかはちゃんとバレー部に復帰したい。大丈夫。あたしはもう立ち直りつつある。それに部員の皆はいい人だ。いずれ時間が解決してくれる。だから、練習をサボっているからといって、怠けてちゃいけない。それが、ジョギングを始めた理由だ。ジョギング以外にも、一人でできる練習も欠かさなかった。
ジョギングコースも青葉川へと差し掛かり、川沿いの広めの道路へと出た。左車線の路側帯を走っていると、対向車線から勢いよく車が走って来た。明らかにスピード違反だ。多分、一発免停食らうレベルの。
――バツン
――水の詰められたバレーボールが破裂したような、気持ち悪い音が聞こえた。驚いた直美は慌てて家を出ると、玄関先で大樹が倒れていた。流れる血が、うっすらと雪の積もった道路を赤く染め上げていた。体が有り得ない方向に曲がっていた。頭から何だかよく分からないものが飛び出ていた。一目見て、彼は彼だったものになったことを認識した。
――時間が凍りついた。比喩表現でも何でもなく、確かにあの時あたしの時間は凍りついた。それが氷解した途端、恐怖だとか憎悪だとか何故とかどうしてとか愛だとか哀だとかが喉元から込み上げ、質量を持ったものへと変貌し、吐き出された。
「下手糞がスピード出してんじゃねえよ!」
向かってくる車を怒鳴りつけた。だが、車は声に気付くことなく直美の横を素通りした。悔しかったし、空しかった。いつの間にか目から零れた涙が頬を伝って顎から滴り、地面を濡らした。
直美は何一つ立ち直ってなどいなかった。
川沿いの道路を走り続け、青葉橋へと差し掛かった辺りで、直美は橋を渡る北山達に気付いた。
「おーい!」
直美は手を振り、北山に声を掛けた。彼女も直美に気付き、手を振り返してきた。
北山は今年の春に仲良くなった友人だ。今年の3月20日のバレー練習中――まだ直美がバレー部をサボり始める前、不慮の事故で直美は怪我してしまった。その時、偶々近くにいた北山が適切に手当てをしてくれたのが、彼女との出会いだ。
「こんな所で何やってんの?」
「ちょっと犬探しを」
「犬? クルちゃん犬なんて飼ってたっけ」
北山が少し困ったような表情を見せた。
「えっと、私のじゃなくって、その……」
いつもはハキハキハッキリと発言する北山が珍しく言い淀んでいる。直美は、バレー部員が向けてきたものと同じ雰囲気を感じた。
「何、言うならハッキリ言ってよ」
自然と口調が厳しくなる。北山にまで恭しい態度を取られるのは正直ショックだった。
「あー、探しているのはこの犬だけど、直ちゃん何か知らないかな?」
北山は幾ばくかの間を置いてから、少し言い辛そうに、でも一音一音ハッキリとした声で直美に告げた。北山は一枚の写真を取り出し、表を一度目で確認してから差し出してきた。
写真には一人の老人と、一匹の老犬が写っていた。直美はその老犬の方に見覚えがあった。
「この犬……もしかしてジョナサン」
北山が驚きの表情を浮かべた。
「直ちゃん知ってるの?」
「知ってるも何も、大樹が散歩してあげてた犬だし」
直美は表情を一切変えずに言った。対照的に、北山の表情は悲しそうに変貌していった。
「その、ごめん……」
「何で謝るのよ。クルちゃんが謝る必要なんてないって。あたしはもう大丈夫だから……」
自分でそう言っておきながら、何処か空々しい響きを感じた。
「それで、どうしてクルちゃんがジョナサンのことを探してるの?」
聞くまでも無いことだった。探偵研究会に依頼が来たのだろう。それはつまり……
「もしかしてジョナサンどっか行っちゃったの?」
北山は小さく頷いた。
――こいつジョナサンっつーんだけどさ、滅茶苦茶頭いいんだぜー。多分人間の言葉を理解してるよ。いやマジだってマジマジ。お前らは信じらんないかも知んないけどさ。
――こいつかなりのお爺ちゃんだよ。だからこうやって休ませてやらないといけねーんだ。
「あのね、直ちゃん……よければジョナサンについて知ってることがあったら色々教えて欲しいのだけど」
北山の遠慮がちな声で、現実に呼び戻された。北山は申し訳なさそうな素振りをしていたが、その瞳からは有無を言わせない確固たる意志を感じた。直美は目頭に浮かんだ涙を欠伸をする振りで誤魔化してから、
「いいよ。大樹からよくジョナサンの話を聞いていたから、知る限りのことを教えるわ」
北山の申し出を了承した。
北山の話では、探偵研究会は3組の別々の依頼主からジョナサンの捜索を頼まれたそうだ。依頼者が誰であるかは教えてくれなかった。探偵としての心得なのだろう。
「まず、ジョナサンは和水家の飼い犬。そして大樹はジョナサンの散歩のバイトをしてたのよ」
「散歩のバイト? そのバイトはいつ頃から始めたの?」
直美は視線を斜め上にしながら、脳の奥底から情報を引っ張り出す。
「……1月からだったと思う。うん、一月。年賀状の配達をしてる時にジョナサンを助けたって言ってたのを思い出した」
「助けた?」
「ああ、和水家ってすっごい大金持ちじゃない。だからジョナサンは身代金目的で誘拐されることがあったらしいのよ。で、大樹は早朝の年賀状配達中、たまたまその誘拐現場に出くわして、それを未然に防いだってわけ」
自然と声が誇らしげになる。
「そんな縁で大樹は和水家と接点を持つんだけど、大樹が苦学生だってことを知ると、和水正宗はバイト代を弾むから、ジョナサンの散歩のバイトをしてみないかって誘われたらしいのよ。もちろん、大樹は快く了承した」
「なるほど」
「因みに、いつも新聞配達のバイトが終わってから、そのまま散歩のバイトに行ってたみたい。今考えると、ハードなスケジュールだよねえ。死んじゃった後もバイト続けてたらしいし。ホント、クソが付くほど真面目なんだから」
「え! 死んじゃってるのにどうやってスか?」
南地が驚いた声を上げた。
「どうもなにも、今まで通り普通に」
「だからどうやって? 高橋先輩死んでるんスよ」
「南ちゃん。貴方は大きな勘違いをしてる。直ちゃんが言ってるのは和水正宗のことよ」
「え。あの写真のお爺ちゃん死んでるんですか」
「ニュースや新聞で報じられてたじゃない。見てないの?」
「すんません。ホンとニュースを見ない糞ですんません」
「直ちゃんごめんなさい。後でこの脳みそ南国気分はこってりシバイとくから」
「いや、別にいいわ……とりあえず思いつく限りはこんなとこだけど、他に聞きたいことある?」
「そうね、ジョナサンの散歩ルートとか知らないかしら」
「老犬だから、余り遠くまでは行けないって言ってた。あと、この川が散歩ルートに含まれてたってことは確実。それも毎日」
「毎日川沿いを散歩してたってこと?」
直美は頷き肯定する。
「この橋の下で一旦休憩して、その後橋を渡ってたみたい。橋向こうを適当に散策したら、帰りにまた橋の下で休憩してから和水家に帰った、って言ってたわ」
「随分詳しいね。遠慮せず、最初から聞いておけばよかったかな」
「ま、私達耳にタコができるくらい大樹から聞かされたから」
ヤバイ。泣きそう。
必死にこらえようとしたが、もう無理だった。彼との思い出が溢れ出し、雫となって流れ落ちる。
北山が無言で肩を抱いてきた。
気遣いに甘え、直美は彼女の胸の中で、声無き声で泣いた。