高橋大樹(たかはしだいき)
高橋大樹は宙を舞っていた。
比喩ではなく、文字通り宙を舞っていた。
何故、こんなことになっているのだろう。
直美と口論になり、感情のまま彼女の家から飛び出して来てしまった。去り際に酷い言葉を掛けてしまった。分かってる。彼女は俺の事を想って言ってくれていた。それでも、あの言葉は許容できるものではなかった。
後ろを振り返るが誰も居ない。直美は追い駆けて来ていない。女々しいことに、寂しさを感じた。それとも去り際の言葉は、よほど彼女を傷つけてしまったのだろうか。
罪悪感を紛らわすべく何気なく辺りを見回したら、ポスターが目に入った。電柱に貼られたそれはよく目立ち、興味を惹かれた高橋は何が書かれているのか確認しようと近寄った。
それは中央警察署交通課からの交通事故注意喚起ポスターだった。警察署という単語にドキリとしつつも、書かれている内容を心の中で読み上げた。
死亡事故多発に付き十分注意。
車も歩行者も交通ルールを守ろう。
求む! 轢き逃げ犯の目撃情――
「高橋!」
聞き馴染んだ声が聞こえ、声のした方に顔を向けた。
「グル゛ルルオオオオオン―――!!」
直後、背後から荒々しい嘶き。振り返った瞬間にはもう手遅れだった。
ズドン゛!!
建物解体用の鉄球をぶつけられたかの様な重い衝撃が高橋を襲った。叫ぶこと、呼吸すら許されず、強烈な痛みが脳髄を支配した。
一瞬の出来事だった。
大きな二対の光る目玉が、猛スピードでこちらへ向かってきていた。
回避行動を取る間もなく、高橋は目玉の主に跳ね飛ばされ、宙に舞った。
やがて浮いた体は物理法則に従い、うっすらと雪の積もった地面に激突する。
グジャリと、嫌悪と恐怖を想起させる音が静かな住宅街に響いた。だが幸か不幸か、高橋自身はその不愉快な死刑宣告を聞くことは無かった。
耳が聞こえなくなっていた。耳だけじゃなく、眼も見えなくなっていた。触覚すら失っており、痛みも感じなくなっていた。まだ意識が残っているのは果たして幸いか。
そう、轢かれた。交通事故注意喚起ポスターに興味を惹かれたら、車に轢かれたのだ。
くだらないしシャレになってない。こんなときに何を考えているんだか。
高橋は無音、無明、無感の世界で、自分は何故車に轢かれてしまったのか、どこか他人事のように考えていた。
すぐ傍には辺りを照らす街灯があった。各家庭の窓からは明かりが漏れていた。自分を轢いた車のライトだって付いていた。夜更けだが、辺り一帯は十分明るかった。
まともな運転手なら、轢く直前まで俺の姿に気付けなかったとは考え辛い。
だが自分を轢いた車は、轢く前も後もブレーキを踏む気配すらなかった。
脇見運転? 飲酒運転? 居眠り運転?
どれもピンと来ない。とすると意図的に轢いた?
だが殺されるほどの恨みを買った覚えはない。
ならば遺産目的? 俺を殺して得する者はなんていないし、それは誰もが分かってる。
じゃあやっぱり運転手の過失か?
それとも……
それともこれは……罰なのだろうか……
……直美は、今どうしているのだろうか。
頼むから、俺のことを追い駆けてこないでくれ。無様な姿をお前に見せたくない。
責任感の強い直美のことだ。絶対に自分の所為だと思うに決まってる。
これは俺が招いたことだ。直美は何も悪くない。だから責任を感じる必要なんてないんだ。
意識が薄くなっていくのを感じる。深い闇が俺を飲み込んでいく。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。こんな最後は嫌だ。
見たい。最後に、直美の顔を見たい。声を聴きたい。触りたい。キスをしたい。
嫌だ。最後なんて嫌だ。死ぬのは嫌だ。怖い。怖い。怖い。
直美のためにも、静歌さんのためにも、彼等のためにも、まだ死ぬわけには――