第一部 第一章
1
ねえ、西川君と付き合ってるんでしょ、と突然友人の百武陽菜に言われたので、箸でつかんでいた冷凍のハンバーグを落としそうになった。
「ねえ、どうなの?」
「どうって。今、昼だからそういう話は……」
「あ、赤くなってる。夏夜ちゃんはわかりやすいなあ」
こうなるともう向こうに合わせるしかない。小さく辺りを見て、少し彼女に顔を近付け、声を弱める。人に聞かれては。
「何で知ってるの?」
「家庭科部の情報網をなめないでよ」向こうも音量を下げる。
「え?」
「まあ、それは冗談だけど、見ちゃったのよ。それだけ」
「どこで?」
「駅前」
「何回?」
「一回」
「あー……なんだ、一回だけか」こわばっていた肩の力を少し抜く。
「そんなに知られたら困る?」
「私の立場になってよ……」
「じゃあ、場所変えたほうがいいよ。あと手繋いでたでしょ、あれで一発でわかったよ」
「そうみたいね。他の人にも見つかってるかな」
「かもね。でもそんなに見られて困るんなら、もっとやり方変えようよ」
百武陽菜がくすくす笑う。
「悪かったねえ」
西川君と私はもう付き合い初めて一ヵ月半になる。それだけの期間、隠せたのだから上出来かもしれない。
「私にまでこそこそしなくていいのに」
「なんか自慢してるみたいで嫌じゃない?」
「そうかなあ」
「特に陽菜ちゃんは噂好きだから……人に言わないでよ」
「はいはい、そうですね」 一ヵ月半前、どうして西川君に告白しようと思ったのか、実はよく覚えていない。彼はそんなにハンサムでもなく、むしろ地味だ。一方の私も似たようなものだから、二人はS高で最も飾り気のないカップルかもしれない。一、二年ともに私たちのクラスは別々だが、代わりに部活が同じバレーなので、そこで知り合った。なぜかはよくわからないけれど、気がついたら好きになっていて、ある日伝えると「じゃあ、友達から」と言われ、今に至っている。つまり今でも彼は私の告白に正式なOKを出していないのだ。とはいえ、もう一緒の下校が日課になっているし、手もつないでしまっているし、少なくとも見掛け上は正式なカップルと変わらないはずだ。
「でも、なんで西川君なの? 去年私と同じクラスだったけど、あの人女子に人気なかったよ」
「そうだったの?」
「うん、見た目も普通だったし」
「見た目は関係ないよ」
「へえ、柄にもないことを!」
2
その日も部活で、彼と会えたのは日が暮れかけてからだった。学校からかなり南にある約束のコンビニに急ぐと、漫画雑誌を読みながら彼は待っていてくれた。私が店の前に来ると、雑誌の上の目をこちらに向け、出てくる。彼がドアを開け、流行の歌が一瞬洩れ聞こえると、私は言った。
「ごめん、待った?」
「いや、いいよ」
いつもの素っ気ない口調だが、彼は続ける。
「汗だくじゃないか、そんなに急がなくても」
「あ、ほんとだ……あれ、タオルがない。忘れたかな」
「僕のを使いなよ」
「いや、いいよ、悪いよ。これくらい」
西川君はポケットから白いハンカチを出す。
「これは使ってないんだ。まだ四月だし、そんなに汗かいてたら風邪引くよ」
「大丈夫だよ」
「ほら」彼は私の前髪を掻き上げ、汗を拭いてくれた。
「あ……」
相当な汗をかいていて、ハンカチがすっかり湿ってしまったが、彼はそれを元のポケットにしまった。
「だめだよ、洗うから」
「いいよ、それより行こう」顔で店の中を示す。レジの店員がこちらを見ていたらしく、目を急いで反らすのがわかった。
薄暗い中、二人で海へ続くいつもの道を進みながら、いつものように色々なことを話した。右手にホテル、左手に紳士服屋のある交差点を渡り、その先にカラオケが見える。わりと広い道だがこの時間は車通りもまばらで、真っすぐ南に向かう道路は終わりがないようだ。
「ごめんね、なんか」
「ハンカチのことなら、いいよ」
「あのコンビニにはしばらく行けないね」
「次はホームセンターにしよう」
「そうだね」
西川君は携帯を持っていないので、いつでも連絡するというわけにいかない。なぜ買わないのかを聞くと決まって、携帯を持つことにあまり関心がないと答える。でも、その割に私の使う携帯を時々じっと見ていたりするし、本当は関心がないわけではないのかもしれない。
そういえば、今年初めに彼はバレーを辞めた。その後しばらくしてバドミントン同好会に入っている。その理由を聞きたくなった。
「そういえば、西川君はどうしてバドミントンにしたの?」
「え?」
「バレー辞めちゃったら、私だったら何もしないけど。バドミントンはラケットも要るでしょ? なんか理由がないと始めないかなって」
「うーん、じゃ、海野さんはなんでバレー続けてるの? あんなに厳しいのに、僕にとってはその方が不思議だよ」
「え、私は……。なんでだろう。でも、別の話じゃない?」
「かもね。まあ、多分、なんとなくだよ」
「なんとなくなら、バレーとか、文化部の方がよかったんじゃないのかな、バドってきついんでしょ」
「友達に誘われたんだ。それだけ。どこでもよかったんだよ、その友達が文化部に誘えば文化部に行ってただろうし」
「結構、簡単に決めるんだねえ」
「うん」
そのまま南へ十分、話しながら自転車を転がし、私の家の前に着くとさらに四十分話して、別れた。彼は自分から多くを語らないので、主に私が問い掛け、彼が答える形になる。友達に話すとこの状態について色々言われるけれど、それでもちゃんと会話が成り立っていて、問題は起きていないから、とりあえずはいいと思っている。
3
帰ると、家族は今夕食を始めようというところだった。
「ただいま」
「あ、おかえり」
「おかえりー」
母と小学生の弟が返事をしてくれる。三人の食卓にご飯と味噌汁、漬物などが並び、居間の奥の台所からいい匂いがする。近くに荷物を置いていると弟の敬太がはしゃぎ声で言う。
「夏夜姉ちゃん、今日六面クリアできたよ」
「六面? ってあのゲーム? 本当?」
「うん。ヤバかったよ」
眩しい笑顔で話すのはあるシューティングゲームのことで、かなり難しい。私が以前やらされた時は一面もクリアできず、一分くらいでゲームオーバーにしてしまい、敬太から散々に言われた。その敬太のプレーは上手いとしか言いようがなく、小学生の凄さを思い知らされるが、しかし彼でさえ全面をクリアできるわけではない。六面の後にまだ続きがあるらしいのだ。
「でも、七面に来たらすぐ死んじゃった」
「七面があるの?」
「うん、凄いんだよ、敵がガーッと来てね、弾がバババババババババ」
身振り手振りで敵の強さを説明しているところに、台所から母の声。
「できたから、持つの手伝って」
「はーい」
「はーい」
美味しそうに焼けた魚だ。だがそれを見て、敬太が「おやっ」という顔をした。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
見ると、魚には特に違和感はない。あえて言うなら普段はアジなどを使うのに、今日は大きめのイワシみたいな魚というくらいだが、気にはならない。席に着いて、夕食を始めるときには七時を少し過ぎていた。
「亜依はまだ塾だっけ」私が言う。
「うん、八時まで。聞いてない?」
「最近、あまり話してくれないから」
「おれとは、話すよ」ご飯をほおばりながら敬太が口を挟み、そうね、と母が笑顔で返す。高校受験を来春に控える妹の亜依は塾に週二日か三日通っている。反抗期だからなのか私や母とはあまり話したがらないが、敬太とはよく話しているようだ。敬太が四つ上の姉のことを楽しそうに話すとき、その楽しさを一緒に味わいながら、でもほんの少しだけ寂しくなる。
4
食事を終えて自室に戻り、携帯を開けると不在着信があった。同じバレー部でH組の望月瞳が十分ほど前に掛けてきたらしい。掛け直す。
「やー、ごめんね、遅くに」
「どうしたの?」
「まあ、別に用があるとかじゃないけど……、そう、彼とはうまくやってる?」
「うん、まあまあ」
「いいなー、私も欲しいな」
「そっか……、まだいなかったっけ」
「そうよ! ねえ、彼に誰か紹介してもらってよ」
「同じクラスは駄目なの?」
「あー、うーん。よさそうな人、いなくもないんだけど。その人、わりとモテるから」
「そっか」
望月瞳は以前、ある野球部の男子と付き合っていたが、相手の浮気が原因で別れてしまったのだ。その時は慰めるのが大変だった。そして三ヶ月経ち、落ち着いた今でも、恋人選びに慎重である。
「どんな人?」
「サッカー部でね、いつもかっこいいの、話も面白いし」
「人気あるんだね」
「そうそう、それに比べて私はさ、話しても笑わせられるわけじゃなし」
「やめてよ、瞳ちゃんこそさ、スタイルいいんだし、色んな人から言われるでしょ」
「何て?」
「ああ、その……スタイル、いいってさあ」
「ふふ、でも、せいぜいそれだけなのよね」
「そんなことないよ」
「他に何かある?」
「もう、自信持ってよ、またすぐ見つかるって。ね」
「うん……。ごめんね、こんなことでわざわざ電話して」
「いや、いいよ、全然。ねえ、頑張ってその人と仲良くなろう」
「そうだね。彼女は今いないらしいって聞いたし。でも、けっこう狙ってる人多いから」
「その分頑張ろう?」
「そうね、うん……、くよくよしても駄目だ」
「そ、まだ一年終わったばかりだから」
そういう話をして、別れたときには十時くらいで、風呂に呼ぶ母の声がしていた。