1.ジェノバ・フレイル(1)
ぴちゃん、と。
水面に雫が落ちたように、空気が揺れる。その音に、少女は薄っすらと目を開けた。
――ここは、どこ?
辺りは暗闇。否、闇というよりはそれは黒そのもの。
波間に揺蕩う魚のように、どこか果てしない空間をさまよっている。浮遊している。
やがて、はらはらとその黒は剥がれ落ち、見慣れた光景が飛び込んできた。
小川のせせらぎが聞こえる。
そして、微かに流れてくる木々の葉が擦れる音。
――ここは・・・。
霞んだ視界の中現れた広い庭。大きな池に、瓦屋根。懐かしい、匂い。
それは紛れもなく、少女が赤子の頃から育ってきた屋敷であった。今はもう、消し炭と化してしまった筈の、あの場所であった。
人影は見えない。でも、人の声がする。
少女はぼんやりとした意識のまま、ふっと、必死にその屋敷の方に手を伸ばした。すると、少女の足元に何かが転がってきた。
古ぼけた赤い毬。
少女はそれを拾い上げ、愛おしそうに胸に抱いた。
チリィン…と。どこからか鈴の音がした。
――だぁれ・・・?
振り返った先。大きな黒い橋の向こう。
誰も居ない。だけれども、少女は何故かそこから目を離すことが出来なかった。
一度深く瞬きをすると、橋の上に明るい光が集まった。そうして段々とハッキリしていったのは白い色。純白の着物――華麗な死に装束を着た“誰か”。
足元から順に現れていくその美しい着物を見て、少女は無意識に駆け出していた。
けれど少女が辿りついたその瞬間、目前の橋はすうっと消えはじめた。
少女はどうしようかと躊躇ったが、それも寸時のことで、構わずにまた走り出そうとした。
“・・・・・リン。”
だがそのとき、少女は無意識に足を止めた。少女を何処かから呼ぶ声がした。
何度も、何度も。
そしてそれは、少女のよく知っている、忘れがたいあの声であった。
――・・どうして、あなたがいるの・・・?
ここは、私だけの世界。自分だけのゆめ。
なのに、どうして――。
もう一度視線を返した時、黒い橋は、すでに暗闇へと消えていた。
「――――――・・・ん、リン・・」
どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
重たい瞼を上げると、まず初めに視界を支配したのは白。けれど、それはあの美しく、どこか怖ろしかった「白」とは全く違う色だった。
焦点の定まらない目でじっと一点を見つめていると、次第にその輪郭がはっきりとしてきた。
白のコートに、白銀の髪。紺碧の瞳。整ってはいるが、何処か人間離れしたような風采。
ああ、これは――、
「・・・・・れの?」
「おはよう、リン。よく眠っていたね。でも・・・残念だけど、もう着いちゃったよ」
そこで、凛は漸く今自分がどんな状況にいたかをなんとなく思い出した。
ここは列車の中。そして今は、レノ達が「お仕事」に行く途中。
凛は起き上がるとこしこしと目を擦り、レノを見上げた。変な体勢で眠っていた所為だろう、体の節々がきしきしと痛かった。
「随分ぐっすりだったようだけれど、疲れていたのかな」
「・・・・夢を見ていたの」
「夢?どんな?」
「・・・不思議な夢」
こちらの、現実の世界に戻れば戻るほど、急速に失せていく夢の記憶。レノに説明しようかと思ったが、霜月の屋敷が出てきた、とか言うと何だかとても気を遣わせてしまいそうなので、やめた。
レノは暫く凛が話し始めるのを待っていたみたいだったが、口を開く気配が無いのを察したのか「そっか」と会話を終わらせた。
「そうだ。外を見てごらん」
「そと・・?」
言われ、よいしょと身を乗り出して、少し高い所にある窓に顎をかける。そこから飛び込んできた光景に、凛は目を見開いた。
「わあ・・・っ」
車窓の向こうに広がっていたのは、大量の水。大きな大きな水溜り、いや、湖・・・?
初めて見る「信じられないほど凄いモノ」に瞳を輝かせる少女を穏やかな面持ちで眺めながら、レノは横からその説明をした。
「海、だよ」
「うみ。これが・・・」
どこまでも続くような広い水面。そこにキラキラと反射する太陽。
話には聞いていたが、こんなに美しいものだったとは。
「行ってみたい?」
「みたい!」
「そう。じゃ、後で行こうね。・・・さあ、そろそろ降りないと、あの短気なイフリートが怒りだしそうだ」
苦笑した彼を見て、あ、って思い出す。そう言えばあの人――雅と着いていく、いかない。足手まといになる、ならない、で口論したのは今朝の話だ。
結局最後は、見かねたレノがうまく取り成してくれたのだけれど。
『もし邪魔になるようなことがあれば、問答無用で置いてくからな――』
何だか気が重い。でも、自分に出来る限りのことをしたいから(雅には大人しくしていることだって言われたけど)。
凛はうーっと大きく伸びをし、よし頑張りますか!と気合を入れ、列車の外へと駆け出した。