神さまのおわすとこ
あぁ、ここか…
かつての恋人は、ここに何度も詣でて祈っていたという。初めて訪れたそこは彼女から聞いていた話よりも、ずっと綺麗で、美しかった。
神社の鳥居をくぐれば顔を見せる境内は、無数とも思える長い階段の上にある。そのため社の裏手に回れば、切り立った崖から壮大な街の景色を一望できる。
小説家を名乗る自分としては、ここを題材にして一作品、と言いたいところだ。生憎自分は今スランプで、思い浮かぶものはなにもない。
いや…スランプ、というほどの、大きなものでもない。
単に、書けないのだ。そもそも自分は大した作家でもないから、スランプと言うのもおこがましい。
「こんにちは」
「!」
その時声をかけられ、私は声の方角を勢いよく振り向いた。誰もいないとばかり思っていた境内に、誰かがいた。ショートヘアの、美しい少女だった。彼女も私の言動に驚いたのか目を丸くしていたが、その儚い姿に私は目を奪われた。
それは人外か、何か科学的に言い表せない不可思議な存在を見ているようで、私の目は彼女から逃れられなかったのだ。
「お参りですか?」
「え、えぇ…まぁ」
語尾を濁した私に、彼女はふふ、と微笑んだ。竹ぼうきを持っているから、おそらくここの管理人なのだろう。彼女は掃除を中断し、自分が座る社の裏手の、数段で構成された石段に座り込んで私を見上げるのだった。
「どうなされたんですか?」
「…いや…そんな大したことではないんですがね」
「…よければお聞きしますよ」
目を閉じれば、数時間前の出来事が瞼の奥に鮮明に浮かび上がる。それは、ずっと忘れられなかった彼女の、ウェディングドレス姿だ。
自分でもなぜ、話そうと思ったのかわからない。
『私ね、結婚するの』
『え?今かぁ…幸せよ』
微笑む彼女に、何と声をかけていいのかわからなかった。おめでとう、幸せにな。そんな、平凡な言葉しか、大切な人に送れなかったむなしさと悲しみを、私は目の前の少女に言い聞かせた。
それをどうにかしたかったのかどうかもわからない。でもおそらくそうだから、彼女の生まれた地に足を踏み入れ、彼女の思い出の場所と聞いた神社にたどり着いたのだろう。
「そうなんですね」
「聞いたんだ、烏摩神社には不思議な伝説があると、その彼女からね」
烏摩神社。
後悔を成就させ、昇華させてくれる何かが起こると言われる、不思議な神社だと。それはかつてこの神社が建てられる所以にもなった悲恋によるものだと、彼女は目を輝かせながら語っていた。
「そのような伝説は、一応事実に基づくものですね。間違いでは、ないかと」
「そうか……」
夏の境内にある木には、いたるところに蝉が止まっており、せわしく鳴いている。暑苦しく思ってしまいつつも、蝉の命のはかなさを考えれば、自分のように後悔してほしくないから、何も言えない。
そう思う一方で、私はこれでよかったのだと思っている。これは、あくまでこの終わり方だったからこそよかったのだ、良い……恋だったのだ。
「………をしていたんですね」
「え」
「良い恋を、していたんですね」
すると彼女は、まるで自分の心を読み取ったかのように呟き、そして立ち上がった。
「見てください」
彼女の指し示す先に視線を移すと、そこには「絶景」としか言い表せない景色が広がっていた。
「綺麗でしょう~」
こんな晴れの日にしか見れないんです。そう言って大きな入道雲の見える景色の中、嬉しそうに顔をほころばせ、彼女は続ける。
入道雲の中に飛び回る、小さな何か。それは、自分たちが知らないだけだったのだろうか…烏のようにも見えるが、一瞬だけそれは、翼を生やした少女のように見えた。
「ここにはやりきれぬ想いを昇華するために来る人が多いのは事実です。言えなかった言葉、抱えていた言葉。それが決して未来を変える訳でもないといえど、それでもここに来れば、大切な何かに出会える。…お母様の言葉の受け売りですけどね」
「母親は…亡くなったのかい?」
「はい、随分前になります」
少女はそこで口を噤んだ。
暫くすると、少女は静かにその言葉の続きを述べた。
母は100年以上も前に死んだ、と。自分はただただ言葉を失い、その場で呆然と彼女の横顔を見つめた。
「神様が、ある日1人の人間の、しかも巫女と恋に落ち、子供が生を受けたのです。その子供は普通の人と恋に落ち、子供を授かり、そして愛する彼が亡くなったあとも半世紀近く、来る日までその子供と2人で暮らしました。私には、もう何も残ってはいませんから、ここで静かに来る日を待っていたんですよ」
気がつけば、現か夢かも分からない夕陽の中で、彼女は引っかかる発言をした。
「待って、いた?」
「はい」
先ほどまでの神秘的なまでの無垢な可愛らしさが、この赤い夕陽のなかでは随分と大人びて見える。彼女は一言、自分にも愛する誰かができたのだと、微笑んで泣いた。
「私には彼とともに逝くことはできない。そうわかっていながらも、自分の子供にも同じ運命を辿らせることをわかっていながらも……」
彼女の涙を湛えた瞳の中には、きらり、一筋の光が見えた。
「それでも、この気持ちは止められない」
「……っ」
それはまさに、かつて、自分の気持ちに正直になれなかった自分に、言った彼女の言葉だった。
「あなたがどう思おうと、私があなたを想うこの気持ちは止められない」
今思えば、あの時にどうして気付けなかったのだろう。彼女は私にとって……
「大丈夫ですよ。まだ、貴方にはいます」
「まだ、いるって……でも彼女はもう」
「ほら。心配してくれるあの子がいます」
「…え」
先生。
彼女の示した私の背後には、弱々しく現れた彼女がいた。自分のいわゆる担当者という女だ。彼女は不安げに自分を見つめつつも、その手にあった、自分が中途で投げ出した原稿をそっと差し出した。
「先生に、結婚式の披露宴で言いませんでしたか?……あの人は幸せを掴んだのだから今度は貴方が、幸せになるべきだって。私は貴方のそばにずっといますからって」
今思えば、それは、彼女なりの精一杯の告白だったのだろう。どうにも女心に鈍感な自分にはわかり得なかったが、今まさに、その心は分かった。
すべて、君のお陰だな。
無意識のうちに横を向くと。
少女はいなかった。
そもそもいたかどうかすら定かではない彼女の姿を探していると、女は自分が始めから1人で座って考えているようだったと言った。
「夢、だったのか……?」
いいや、違う。
すぐ近くに置かれた竹箒と、積み重なった枯葉の山、それは彼女の残した、現実の証拠だ。
彼女は、夢ではない。
「…書くかな、新しい話を」
「先生っ……!」
「題材は決まってる。死ねない少女と、少年の恋の話だ」
「死ねない、少女……ですか」
「止まってられないな、ここで」
「……はい!」
君の話、使わせてもらうからね。そう言って私は社の裏から表に回り、その前で大きく頭を下げた。
ーーー貴方の、幸せにしたかった人への想いはきちんと伝わっていますよ?
鳥居をくぐり、現実に戻る間際に聞こえた声は、紛れもない、不思議な少女のものだった。
再投稿です。
お読みいただきありがとうございます。
烏摩神社を舞台にしたシリーズを今後少しずつあげたいと思っています。また機会がありましたら、別作品でお会いしましょう。
むあ