岸辺に花一輪
岸辺に赤い花が一輪。
それは奇妙な花だった。赤い、美しい花。けれど[花]という存在としては何か違和感のあるものだ。真っ直ぐ、太い茎の上にいくつもの花が咲き乱れていて……ああ、そうだ。この花には、葉がない。
正確には、花が咲く前に葉はどこかへ消えるのだ。
どこへだと思う?
赤い花は岸辺に咲いていた。
向こう岸の見えない、やけに大きな川の側。傍らには石が積まれていて。さながらそこの景色は花の供えられた墓のようだった。
積まれた石の隣には齢十も行くかどうかという女の子が膝を抱えて座っていた。
見るともなしに空を見つめる女の子の目は黒く透明で、しかしながら感情の類は見受けられず、人形のように見えた。
手は無意識か、ころん、ころんと小石を弄んでいる。石でやったのだろうか。小さな手は傷だらけだ。
「喉、渇いた……」
女の子が掠れた声で呟く。その声が口にした言の葉が紛れもない事実であることを物語っていた。
目の前をさらさらと流れ行く川。大量の水を前にして何故、彼女はそれを口にせず、渇いているのか。それは簡単だった。
大人が、駄目だと言うのだ。
女の子はここに連れて来られてから、日がな一日、この場所に石を積み重ねるよう命じられた。そこに意味などあるのかと問うたところ、「貴様は罪人だ」と叱られた。罪人は罪を償わなければならない。その償いが石積みだという。
一日中……いや、日は明けても暮れてもいないのだが、女の子は長い間、ここで石積みに勤しんでいた。誰も来ない、この場所で。
稀に来る大人に、喉が渇いたから、川の水を飲んでいいかと訊いたら、駄目だとたしなめられた。
それは罪人だからではなかった。川の水はそうほいほいと飲んではいけないものらしい。なんでも、記憶を失ってしまうのだとか。
記憶、といっても、十にも満たぬ女の子には大した思い出もない。失っても意味はないのだろうが、持っていても意味があるようには思えなかった。
疑問を素直に口にすれば、大人も素直に答えてくれた。今飲んだら、罪人であることまで忘れてしまう。償いのことも忘れてしまう。それでは意味がない、と。
自分の何が罪なのか、年端も行かぬ彼女にはさっぱりわからなかったが、せっかく積んできた石が水泡に帰すのも躊躇われた。故に、その言い付けを頑なに守っているのである。
石は、墓にも見える程度には積み重ねられていた。こんなことをして一体何になるのか、などという疑問は彼女にはなかった。女の子は女の子。まだ子どもなのである。まだ自分で分別がつかない。
「喉、渇いた……」
そう呟くくらいしか、できない。
「可哀想にね」
不意に、どこからともなく、声が聞こえた。女の子より数段大人びた少女の声。近くからするようだが、辺りを見ても誰の姿もない。
「喉が渇いているの?」
同じ声が問いかけてきた。
女の子は人影を探そうと立ち上がり──かけてやめた。あまり深く考えない性分なのだ。動き回って尚更喉が渇いてはしょうがない。
女の子は少女の問いかけにこくりと頷いた。
「川が目の前にあるじゃない。どうして飲まないの?」
少女が当たり前といえば当たり前の問いを発したが、女の子はきょとんとした。
ぽつりぽつりと、大人に言われた川の水の話をした。
川の水を飲むと、忘れてしまう、と。
すると、少女は笑った。
「あはは、そんなの出鱈目だよ。あ、出鱈目は言い過ぎかな。忘れ水っていうのはあるけど、それは別の川だよ。この川はただの川。安心して飲んでいいんだよ」
と、言われたが。
女の子は川の水面に姿を映すだけで、掬い取ろうとはしない。じっと自分の真っ黒い目と髪と、真っ白い肌に目と鼻と口が当たり前についた顔を眺めていた。
何が楽しいわけでもない。やがて無意味さに気づいた女の子は弄んでいた小石をぽちゃんと落とした。水面が波紋を作ってゆらゆら揺らめくのを、何が面白いのか、はたまた面白くないのか、じぃっと、見つめていた。
「飲まないの?」
少女が再び問いかける。女の子は首を縦にこくり。忘れたくないから、とその白い唇は紡いだ。
「忘れたくない?」
おうむ返しの問いに、女の子はまた頷き、今ならあなたのことも忘れちゃう、と付け加えた。
その一言に、少女は驚いたようだった。
「私のこと、忘れるの嫌?」
女の子は首を縦に。よくわかんないけど、話せるのは嬉しい、と。
心持ち、嬉しそうな声だった。女の子の表情は凍りついたように動かないけれど、声色は容姿通りの齢を滲ませていた。春の木漏れ日のような朗らかな女の子。
少女は、素直に嬉しい、と返した。
「じゃあ、私と友達になって?」
唐突な提案だが、女の子が不思議がることはなかった。深くは考えない性分なのだ。
二つ返事で返してやると、少女はにっこりと擬音が聞こえそうな調子で名乗った。
「私はラディアータ。ラディって呼んでね、リコ」
随分洋風な名前だな、と一瞬思ったが女の子──リコはあまり気にしなかった。
名乗っていないのに名前を呼ばれたことも気にしない。
リコは深く考えない性分なのだ。
岸辺に赤い花が揺れる。葉はまだない。
その傍らで、リコはいつも通り石積みに勤しんでいた。
石はもう、一人の墓という程度の規模には収まりきらないほど、高く積まれている。墓石というよりは山といった方が近い。あまり高いと年端もないリコの背では届かないので、リコは周りにも石を積み、段を作っていた。
石を積み始めて、どれくらいの時が過ぎたのだろうか。夕暮れどころかお天道様すらここでは見ない。リコはさして疑問にも思わなかったが。
「ここで黙々と作業をこなしてこれほど積んだ子なんていないわ。一体どれくらいの月日が費やされているのか……考えただけで気が遠くなるわ」
ラディはどこからリコの石を見ているのか、そう言った。
そうかな、とリコは石を見上げた。その横顔は変わらず、齢十にも満たぬような幼さを湛えており、とても自分の背丈より高く石を積み上げた人物とは思えない。
「ねぇ、リコ。ここで淡々と石を積み上げていくだけの生活、退屈だとは思わないの?」
ラディの囁きにリコはこてんと愛らしく首を横に倒した。透き通った黒の瞳はうーん、と僅かの間だけ悩ましげにひそめられ、すぐに戻った。
リコは退屈を知らなかった。少なくとも、ラディと話しながらの作業だったから、楽しくはあったように思う。
するとラディは嬉しそうに。
「わあ、そう言ってくれると嬉しいなぁ。じゃあ、これからもずっと、死ぬまででもずうっと、友達でいようね!」
リコに語りかけた。
リコはただ、曖昧な笑みを浮かべた。
だってリコは既に死んでいるんだもの。
死ぬまで友達というのは、実質的に無理な話だった。
赤い花は、何処に咲いていただろうか。
リコは無味乾燥な記憶を引き出す。そうそれはリコが生きていた頃の話。ここで石積みを始める前の話だ。
記憶に鮮烈な色を残しているのは、傍らに咲くのと同じ花だった。墓でよく見かけたのを覚えている。
はて、何処に咲いていただろうか。
リコの黒い水晶の瞳は、傍らの赤を返す。
赤は風に揺れる。岸辺に、ゆらゆらと。
記憶の中の赤も揺れていた。ゆらゆらゆらゆらと。
ゆらゆらゆらゆら。
眺めていたら、惹かれて。
手を伸ばした。
眺めようとしたら、轢かれて。
そうだ、自分はそうやって死んだ。
思い出す。
誰か、止めてくれたかな。
わたしに友達いたのかな。
……いたら、わたし、こんなところにいないよね。
ほろ苦く笑った。
赤い花は、道路の向こうに揺れていた。
道路を渡っていったら、過ぎ去った道路は川になっていて、花の傍には大人がいて、「ああ、罪人がやってきた。のこのこと、ぬけぬけと、早々に」と吟うように語った。
貴様は来てはいけなかったのだ。
貴様は来てはいけなかったのだ。
貴様は来てはいけなかったのだ。
貴様は来てはいけなかったのだ。
貴様は居てはいけなかったのだ。
赤い花は岸辺に咲いていた。
リコが回想に耽る間も変わらずに。
リコは花に恨みがあったわけではないが、何の気なしに花びらをひとひらちょい、と抜いた。
「痛い」
ラディの声がした。
やっぱりね、とリコは花に触れた。
少女の名は彼岸花。花そのままの名前だ。
リコにはそんな知識はないけれど、声はあまりに近くからして、あまりにリコのことを知っている。だからそんな気はしていたのだ。
「思い出したんだね。リコ、私が憎い?」
リコはふるふると首を横に振った。憎いわけではないのだ。
ただ、何故だろう、と花を求めた理由を考えた。
命を失ってまで、赤い花に手を伸ばした意味は何なのだろうか、と。思い出したら、答えは簡単だった。
友達が欲しかったからだ。
花を渡せば喜んでくれるかもしれない。あの花は綺麗だから。友達になってくれなくても、あの花が傍にあるだけでいい。あの花が友達ということでもいい。
ひとりぼっちは、いやだなぁ、と。
「私に会いたい?」
赤い花の問いかけにリコはこくりと首肯する。
「私は実は、葉っぱなんだ。花が咲くと死んじゃう。まあ、でもここでは"死んでいる"から"生きている"っていう扱いになるんだけどね。
ごめん、蛇足だった。で、私は花が枯れ散るまでは外に出られないんだ。でも、しばらく待って。もうすぐなんだ。あの世界で秋が来るのは」
リコは話を半分に聞いていた。
細かいことはあまり気にしない性分故に。齢が十にも満たぬ故に、リコはあまり難しい話を理解できなかった。
だからどんなに理由を説明されても待てなかった。
ぶちりと。
赤い花がいくつも咲いた茎を千切り取った。
花が散ったよ。
これで会えるかな?
しかし、もう声はしなくなってしまい。
リコはよたよたと岸辺に座った。
身を屈めて、千切り取った花を川に流す。
ばしゃん
世界が、視界が、ぐるりと回った。
何が起こったのか、何が起こっているのか、理解できない。
少し、水が口に入った。随分としょっぱい。でも、覚えのある味だ。
寂しいよって泣いたとき──赤い花に駆け出したときに頬を伝っていた水の味によく似ている。
それだけ認識して、リコは流れていった。流されていった。
赤い花は、子どもと共に流された。
まるで、葬送のように。
そうして、花は消えてしまった。
どこへ消えたのかな?
葉と花が会える日は来るのかな?