第一章 あなたしかみえない 〈8〉
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翌朝。おれは目覚めると床へはいつくばるイモムシになっていた。
和製グレゴール・ザムザ……ではなく、ただの寝袋だ。モヘナとベッドで同衾するわけにもいかず、自分の部屋に寝袋をひろげて眠っただけの話である。少し身体がバキバキする。
カーテンごしにのぞく朝日が部屋をうすぼんやりと照らしていた。ベッドでモヘナが静かに寝息をたてていた。夢オチではなかったことに安堵した。
暗い部屋で、なるべく音をたてないよう注意しながら朝の支度をととのえていたつもりだったが、モヘナも目を覚ました。
「……おはようございます」
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
おれの小声に、モヘナは小さく首をふる。
「気分はどう?」
「そうですね。だいぶよいみたいです」
「ちょっといい?」
おれは彼女の額に貼った冷却シートをはがした。一晩たった冷却シートはすっかりぬるくなっていた。
彼女の額に手の甲を当てて熱を診る。昨日に比べると熱はずっとひいていた。ほぼ平熱、あっても微熱と云うところだろう。
「まだ寝ててくれるかな? おれも高校へ行くふりをしなくちゃならないし。少し部屋を空けるけど、すぐもどってくるから」
モヘナが瞳をうるませてうつむいた。……おれがいないと心細いのかな? などと自意識過剰なカンちがいをしかけた時、彼女がささやいた。
「あの……すいません。トイレを貸していただけますか?」
「ああ。はいはい」
カンちがいしてすいません。女のコがそれを切り出すのはちょっと恥ずかしいか。
まだ両親が起きてくる気配はなかったので、おれはモヘナを1階のトイレへ案内した。
トイレは階段を下りてすぐ右側にある。おれはトイレのドアを開けて一応の説明をした。魔界のトイレと勝手がちがっては困るからだ。
「用を足すのはわかるよね。紙は便器に流してしまってかまわないから。タンクの右側についてるレバーを上げると水が流れ……」
「ちょっと、しのクン、トイレ早くしてね」
いきなり階段上から声をかけられておどろいた。母さんが起きてきたのだ。
「はひっ!」
おれは思わずトイレのドアを閉めた。
「きゃっ!」
せまいトイレでバランスをくずしたモヘナがハデな音をたてて洋式便座へ尻餅をついた。
「どうかした? しのクン」
トイレの外から母さんが訊いてきたのであわてて答えた。
「え、なんでもない、なんでもない。のぞくなよ、変態!」
「なに云ってんの? バカねえ」
母さんの足音が台所方面へ遠ざかる。セーフ……と思ったが、そうじゃなかった。て云うか、この状況で変態なのはおれの方だ。
便座へ腰かけた美少女の冷めた碧眼に失策を悟る。
そうか。母さんにモヘナの姿は見えないんだっけ。冷静に対処していれば穏便に切りぬける方法があったかしれないが、今となってはあとの祭りだ。
トントン、とトイレのドアをノックする音がした。
「だれか入ってるのか?」
しええ! 今度は父さん!? 今日にかぎって早起きってなぜ!?
「あ、おれ」
「……新聞とってくるから、早くな」
父さんの足音が遠ざかる。この密室は二重に包囲されている。仕切りなおしは困難だ。おれはモヘナに小声で告げた。
「……ごめん、モヘナ。ちゃんとうしろ向いてるから、用を済ませちゃってくれないか?」
「え?」
さすがのモヘナも戸惑いの色をかくせなかった。
「悪い。本当に悪いと思うけど、今チャンスを逃すと次は1時間後とかになりかねない」
モヘナが耳にかかった髪をかき上げながら視線をそらして云った。
「……ぜったいこちらを見ないでください。私が合図するまで耳もふさいでいてください」
さすがは〈冥土の巫女〉。状況把握と現状打破の行動は早い。そうは云っても心なし頬や耳が赤い。やっぱり恥ずかしいんだろうな。
「わかった。ぜったいに見ない。聞かない。約束する」
おれは両手で耳をふさぐと、ドアの方を向いてへばりつくように立った。……朝イチで、なにこの状況? 我ながらマヌケな構図だと思う。
モヘナがゴソゴソと動く気配がして背中に彼女の頭がコツンと当たった。少し腰を上げ、下を脱ぐ前かがみの動作によるものであろう。
おれのひざの裏へモヘナの下ろしたスウェットがかすかに触れていた。彼女の挙動がなんとなく伝わるのが恥ずかしいと云うか、そこはかとなくエロいと云うか。
見ザル聞かザルを遵守していたので詳細は不明だが、おそらくはモヘナがトイレットペーパーを使ったのであろう。
少し腰を上げた時にモヘナの左ひざがおれの左ひざの裏、ふくらはぎの上あたりの筋肉をゴリュッと圧迫した。
「痛ったっ!」
暴力的「ひざカックン」だと思ってもらえるとわかりやすい。想定外の出来事にひざがくずれ、後方へ倒れかけたおれは反射的に身体をひねっていた。
賢明なる読者のみなさんには、これがごく自然な防御反応であり、不可抗力であったことは理解していただけると思う。
未必の故意でもなんでもなく、おれはひざのぬけた低い姿勢でモヘナの方へ倒れこんだ。
前方へ手をつっぱることはできない。ご都合主義のハーレム系ライトノベルなら、おれがモヘナのおっぱいをわしづかみにしてしまい「イヤ~ン、エッチ!」的な展開になるところだが、世の中そんなに甘くない。できることならしてみたい。
無意識に両サイドの壁へ手をついて勢いを殺そうと最後までがんばったおれを褒めてあげたいくらいだが、その効果はまったくなかった。
で。
結果として。
おれは便座に腰かけたモヘナのやわらかいふとももの間へ顔を埋めていた。あらためて云うまでもないが、察しの悪い読者諸君のためにあえて云おう。
モヘナの下半身はすっぽんぽんだ。すっぽんぽんのぽん。
「きゃああああ!」
はじめて聞いたモヘナの女のコっぽい悲鳴と同時に、おれの右側頭部が壁へ思いきり叩きつけられた。
朦朧とする意識の中で、トイレを流す音、手を洗う音、スウェットのパンツを引き上げながら、荒々しくトイレのドアを開けて出て行く気配が頭上を通りすぎた。
結果として、最悪の「イヤ~ン、エッチ!」的な展開になったと云えよう。事実は小説より奇なり。
かろうじて意識をとりとめたおれが這うようにトイレから出てくると、胡乱な目つきでこちらをながめる父さんたちがいた。
「どしたの?」
「なにやってるんだ?」
モヘナの悲鳴こそ父さんたちには聞こえていないが、トイレの中でガッタンバッタン云う音は聞こえていたはずだ。
「あはは……ちょっとコケた」
「そんなせまいトコでどうやってコケんの?」
「大丈夫か、気をつけろよ」
あきれ気味ななぐさめの言葉に愛想笑いをうかべながら、おれはふらつく足でよたよたと階段を上がった。
部屋へ戻ると、モヘナはベッドへもぐりこみ、こちらへ背を向けていた。無言の背中がすっごく怒っていた。すっごく恥ずかしがっていた。
「……えっと、あの、モヘナさん? さっきはスイマセンでした。決してワザとじゃありません。幸運……いえ、不幸な事故なんです」
応えはない。さすがのモヘナも「いいえ、お気になさらず」とは云わないだろう。
こう云っちゃなんだが、そもそもの原因をつくったのはモヘナだ。しかし、そんなことを口に出そうものなら、ますますの関係悪化は避けられまい。おれはさりげなく(どこが?)話題を変えた。
「父さんたちの手前、高校へ行くふりをしなくちゃならないんで、小一時間ほど部屋を空けます。父さんたちが出かけたらもどりますから、それまでゆっくり休んでてください。……あの、着替え置いときますんで、汗かいたようなら着替えてください。朝食はあとでご用意します……」
かえってきたのは冷や汗のにじむような羊たちの沈黙の艦隊これくしょんだったが、一応、聞いてはいるはずだ。おれは机の上に新しいスウェットや下着をひとそろえ用意した。
飲み物(昨日沸かした麦茶)もベッドわきの台にある。飢えはともかく渇きはしのげるはずだ。
おれは制服に着替え、勉強道具やジャージの入ったスポーツバッグを手にふたたび階下へ下りた。
どうでもよい話ではあるが、右頭にコブができていた。