第一章 あなたしかみえない 〈1〉
1
よもや、通学中に自分の住んでいる街の駅前で、行き倒れを見かけるとは思わなかった。二学期早々の珍事である。
いつもなら無関係を決めこむところだが、放っておけなかったのには理由がふたつある。
まずひとつは、だれもがその行き倒れを無視していたからだ。
朝の通勤・通学ラッシュを迎えた坐浜駅は、多くの人をたえまなく呑みこんでは吐き出していた。
みな忙しいのはわかるし、かかわりあいになるのはめんどくさいと思う気持ちもわからなくはない。
それにしても、周囲の無反応ぶりは異常だった。
道の隅で行き倒れている人を無視するのであればまだしも(それもどうかとは思うが)その行き倒れは往来のど真ん中にうつぶせで横たわっていた。駅前道路を横断する信号機の前だ。
通行のジャマであることは明らかなのに、助け起こそうとする人はおろか声をかけようとする人すらいなかった。
さも当然のごとく行き倒れを避け、なにごともないかのように信号待ちをする人々の無人情な姿に、我ながら似つかわしくない義憤をおぼえた。
もうひとつの理由は、その行き倒れが遠目にも女のコらしかったことにある。
うす汚れたオッサンとかならさておき(?)女のコを助けないなんてどうかしている。
あとになって思えば、どうかしていたのはおれの方だ。
ふつうなら行き倒れの女のコが長時間放置されたままなどと云う不自然な状況なぞあるはずもない。
しかし、義憤に目がくらみ、非日常的な状況に寸毫の疑いも抱かなかったおれは迷わず歩を進めた。
……彼女へ向かって踏み出した小さな一歩が、平穏な人生を大きく踏み外す一歩になることなど知るよしもなかった。
2
行き倒れの少女はおれと同い歳くらいで、栗色の長い髪に透けるような白い肌の持ち主だった。
どこをどうさまよってきたのか、全身すり傷だらけで泥やホコリにまみれていた。
今朝は3日ぶりの快晴だが、坐浜市一帯は昨夜まで豪雨がつづいていた。彼女はその雨に打たれていたと見える。
服装は白のレースでふちどられたハイウエストの黒いキュロットにショートブーツ。黒いレザーのベストから半袖の白いブラウスがのぞく。
ひらたく云えば黒づくめであり、ロックと云うのかパンクと云うのかゴスロリと云うのかコスプレと云うのか判然としないが、そう云った類いの嗜好であるらしい。
彼女のかたわらへひざまづくと、頬にかかる栗色の髪の下から美しい横顔がかいま見えた。目を閉じていても息を呑むほどの超絶美少女だった。
ふつうに街ですれちがっていたらナンパするのもためらわれるほどの高嶺の花だ。……まあ、ナンパなんてしたことないけど。
決してシタゴコロあってのことではありません、美少女だったなんて知りませんでした、あくまで人助けですなどと、心の中でしなくてもいい云いわけをならべながら、おそるおそる声をかけた。
「……もしもし。大丈夫ですか? もしもし?」
おれの声に行き倒れ美少女の身体がぴくりと反応した。よかった。生きているらしい。死んでいたらどうしようかと思った。
ゆっくりと見開かれたまぶたの下からのぞいたのは美しい碧眼だった。海のような深い輝きをたたえた青い瞳がこちらをすがるように見つめていた。
正直、おれはあせった。
青い瞳をした娘さんはアメリカ生まれのミセスロイドかもしれない(なんだそりゃ?)。
だとすればピンチだ。なにせおれは、ちゃきちゃきの「I can't speak English」だからである。彼女がウクライナ人とかイタリア人とか云われたら、ますますアウトだ。
ただ、一方で妙に納得もしていた。外国人であれば行き倒れていてもふしぎではあるまいと。
「Ma……May I help you?」
今度はなけなしの英語力で問いかけてみた。とは云え、英語で返答されても聞きとるだけ自信はない。
がらにもないことをしたおかげで困ったことになったと後悔しかけたが、彼女のくちびるから弱々しくこぼれたのは、ありがたいことに日本語だった。
「あなたには……、私が見える……のです……か?」
おれはホッとした。のっけから冗談を云うだけの気力があれば大丈夫だろう。
「自分の名前とかわかりますか?」
「……モヘナ。モヘナ・ペルセポナ・レメディオス・アキバ」
モヘナ・なんちゃら・かんちゃら・アキバ。
長い名前だったのでちゃんとおぼえられなかったが、日本人と外国人のハーフであるらしい。しかし、アキバとは随分オタクっぽい名字だ。
「身体を起こせますか?」
やさしい笑顔(少なくとも、おれはそのつもり)で云った言葉に行き倒れ美少女・モヘナが反応した。四肢に力をこめたが起き上がれず、あおむけになるのがやっとだった。
おれはあわてて手をまわし、彼女の頭と背中がアスファルトの地面に倒れこむのを防いだ。そのまま上体を起こすのを手伝う。
皮製のベストの上からでも彼女の身体が熱を持っているのがわかった。肺炎にでもなっていたら大変だ。早く病院へつれて行くべきだろう。
おれは高校のスポーツバッグから水筒をとり出すと、ワンプッシュ式の飲み口を開いて彼女へさし出した。
「お茶です。とりあえず、飲んだ方が」
モヘナはふるえる両手で水筒を支えながら、コクコクと音をたててお茶を飲みはじめた。
それにしても、と思う。この状況を見てもまだ駅前を行き交う人々は無関係を決めこんでいた。
さっきに比べるとこちらへ目をやる人の数は増えたが、その視線にはどう云うわけか嫌悪や侮蔑や憐憫や嘲笑がこめられていた。おれと目があうとあわてて視線をそらしやがる。
「ガッ……カハッ!」
お茶を飲んでいたモヘナがむせた。一瞬、血でも吐いたかと思ってあわてた。
「大丈夫ですか? ここじゃアレだから移動しましょう」
これ以上、彼女を駅前で好奇の目にさらしておくのも気がひけた。おれはスポーツバッグの持ち手を両肩にかけて背負い、水筒を手にしたままのモヘナを両腕で抱え上げた。
熱をおびた彼女の身体は鳥のように軽くやわらかかった。