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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ
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4-9 ステュクス


 暗転。

 そして、闇の舞台を月光のスポットライトが照らし出す。

 なにしろ四つもあるものだから、光源の数には困らない。


 幻影、夢、まやかし。

 くだらないまじないだと理解してはいても、俺はその迷路から抜け出すことができずにいた。


 走る。

 いいや、逃げているのか。

 追いかけてくるのは、俺がかつて右腕で殺めたはずの命。


 失われたもの。

 終わらせた苦しみ。

 血まみれの右腕は、キロンとの戦いで壊れて消えた。


 だから、俺の罪はもう記憶の中にしかないはずだった。

 だとすれば――あの死にながら生きている狼は、俺の記憶の中、悪夢の中から甦ったとでも言うのだろうか。


 何のために?

 ――欺瞞を曝くために。

 俺を救う為に唱えられた奇跡のようなあの呪文が、儚い嘘だと証明する為に。


 怖い。

 怖い、怖い、怖い。

 どうしようもなく、あの狼が怖い。


 感情制御は正常に機能している、恐怖はコルセスカが吸い上げてくれている。

 だというのに、理性が判断しているのだ。

 あれは恐ろしいものだ、と。

 理性的な判断の結果として脅威だと断定できるなら、それは『怖い』のだ。


 なんとなれば、あの狼は俺を守り続けてくれていた呪文を殺す為に甦ってきたのだから。死者の代弁者が嘘を吐いて生者を守る。欺瞞によって人は人を救うことができる。それが呪文の力だと、アズーリアは俺に教えてくれたのだと思う。


 だが、死者に代弁者がいらなかったとしたら?

 起き上がり、蘇り、『自分はそんなことは思っていない』と断言したとすればどうだろうか。


 逃げないと駄目だ。

 逃げないと、否定される。壊される。

 それは、それだけはどうしても嫌だ。

 

 たとえ俺の中に後悔が無くとも、迷いが無くとも。

 あの言葉を、無かったことにはしたくない。

 

 ひたすら闇の中を走り続ける。

 気付けば、足下には大量の屍が積み上がっていた。

 皺だらけの黒い矮躯。


 そこは悪鬼たちの死体の上。

 俺は老若男女の区別無くただただ殺戮を繰り返す。

 復讐は残酷だ。ただ、暴力の論理だけが全てを決定する。


 闇の中に、真っ青な猫耳が浮かぶ。

 レオだ。

 白い耳から連想してそう名付けた。その筈だが、俺の目の前にいる少年の頭頂部に浮かぶ三角形は、濃い黒紫にしか見えない。


「大丈夫です。だってアキラさんは、僕を助けてくれた」


 灰色の少年が、優しく微笑みかけてくれる。

 赤い耳の色が、まるで血の色のようだと思った。


 暗転。

 周囲の全てが消えてなくなり、虚空に現れたのはゼド。

 英雄が立つのは、公社が管理するとある呪術医院の病室。


 ゼドは侵入者だった。

 重篤な病。身体機能の麻痺。呪術適性の低下。

 呪具製作者としての道を絶たれた男の絶望を終わらせに現れた『履行人』。


 死を望む者に、速やかで安らかな終わりをもたらす職業的な嘱託殺人者。

 それが、盗賊王のもう一つの顔だった。

 侵入者を察知したトリシューラの要請に応じてその場に駆けつけた俺は、そのどこかで見たような在り方を前にしてただ立ち尽くすことしかできなかった。


 どうしようもない絶望を、投薬や洗脳といった手法を用いて対処することへの、この世界の住人たちの抵抗感や忌避感。


 トリシューラの治療方針は、たとえ精神状態を初期化した結果として以前とは異なる人格になってしまったとしても、脳を含めた肉体の健康が保たれていればそれでよい、というものだ。


 だが、それを恐れる人は数多い。

 自分が自分でなくなってしまうことへの恐怖。

 治療がそれまでの己を殺すのなら、いっそそのまま終わりたい。


 本人の同意と依頼によって、嘱託殺人は遂行される。

 探索者であり盗賊であり殺し屋でもある男は、無表情に役割を果たす。

 彼はトリシューラのやり方を否定しなかった。


 それどころか肯定した。

 だが、同時に死を望む者たちの意思もまた肯定していた。

 何を否定するためでもなく、俺とゼドは激突した。

 それが何のための戦いなのか、俺自身にも理解できないまま。


 だが決着はつかず、答えは出ないまま、俺たちは曖昧に休戦し、緩やかな同盟関係を結んだ。

 敵ではなく、だが絶対的な味方とは言えず。

 ゼドが、巨大な拳銃をこちらに向ける。


「愚かな意思と賢い最適解――その価値と優劣を定めることが、お前たちが築く王国の秩序なのか」


 問いに、俺はまだ答えを出していない。

 ゼドは、聞くまでもなくそれに同意した。

 自明だったからだ。愚かさと賢さ。

 問いの中で言葉にした時点で、その答えは出てしまっている。しかし。


「お前たちは正しく、賢く、そして俺たちに利益をもたらす。ならば、共に肩を並べて戦うこともできるだろう」


 ゼドはそう言って、【風の王】との戦いに参加することを承諾した。

 それでも、その言葉は今でも耳の奥に残留している。

 問いの答えを、まだはっきりと出せてはいない。


 暗転。

 無限の闇を通り過ぎていくのは、情熱的に睦み合う男女の姿。

 愛を囁き、抱き合い、口づけを交わし、身体を重ねる。

 感情が制御されて、全身がかっと冷たくなる。


 ここは娼館だ。それらはありふれた光景でしかない。

 だが、映し出された映像はここではないどこかを示していて。

 そして見知らぬ男にしな垂れかかるのは、

 

「コルセスカ――?」


 冷静な思考で、銀髪の少女が男と口づけを交わす光景を凝視する。

 潤んだ青い瞳は、目の前の相手がただ愛おしいという感情だけを宿していた。

 抑えられた声と吐息だけが響く中、激しく脈打ちそうになる心臓を冷気がただ抑え込んでいく。


 そこで気付いた。

 目の前にいるコルセスカには、異形の右目が無い。

 服装も普段着ているような上等なものではなく、どこか縫製が粗く質の悪い――というよりも、単純で原始的な構造の衣服だった。


 よく見れば、彼女たちがいる室内も奇妙に古めかしい、というか、文明の水準が今よりも低いように思える。

 目の前の映像が切り替わって、またしてもコルセスカと別の男性が共にいるシーンが映し出される。


 今度のコルセスカは髪が長く、身長が低い。

 そして、声が決定的に異なっていた。

 顔立ちもどこかぼんやりとしていて、目も眠たそうに伏せられている。


 次のコルセスカは少女とは言えないほどに歳を重ねていて、次のコルセスカは男性だった。その次は氷で出来た鳥、意思を持った三叉槍、途方もなく巨大な氷の像、洞窟の奥で英雄を待ち続ける氷の竜、選ばれた少年の右腕に宿る異能の力、凍り付いた銀色の森を彷徨う魔女、凍った血の吸血鬼、世界の終端で松明を持った少年を待ち続ける少女、その他ありとあらゆるコルセスカが、俺ではない誰かとの物語を紡いでいた。


 これは、神話なのだ。

 無数に拡散し伝播した冬の魔女。

 ありとあらゆる物語の中で。フィクションの中で。

 伝承と創作が混濁して揺らぎ続けるコルセスカ像。


 これら全てがコルセスカでありコルセスカでない。

 言ってみればこれらは彼女の前世だ。

 神話の魔女が参照する、様々な物語たち。


 おとぎ話のヒロイン、あるいは英雄の助言者であったり鍵となる道具であったり悪役であったりするコルセスカは、無数の使い魔を、無数の恋人を、無数の使い手を、献身的に支え続ける。


 ひどく冷静に、その映像を見続けた。

 首筋から伝わってくる冷たさが、その絆が、ひどくありふれていてつまらないものに思えてきて、たまらなくなった。


 今更だ。

 わかり切っていた事実を突きつけられて、動揺することは無い。

 冷静であるが故に、ありのままに直視できた。

 直視してしまった。


 理性が告げている。

 先程から見せられているものは全て幻だ。

 俺を惑わすための精神攻撃。

 下らない、わかりやすい、そして取るに足らない悪意。


 だからどうした。

 前世がどうであろうと、そんなものは関係が無い。

 嫉妬も動揺も苦痛も、全て冷たさが打ち消してくれる。

 今、俺が冷静であるということだけが事実だ。


 過去の幻影などに意味は無い。

 強く映像群を見据えると、それらは霧散していった。

 すると、直後に現れたのは、俺の知るコルセスカ。

 氷の義眼という異相に、俺より少しだけ低い背丈の美しい少女。


 その、背後から。

 知らない少年が現れて、コルセスカを後ろから抱きしめる。

 いいや、俺は彼の顔を、名前を知っているはずだ。


 検索した。公開されているプロフィールを見た。

 調べに調べてその約束された運命を知った。

 いずれコルセスカと結ばれるべき、前世からの絆で結ばれた転生者。


 【松明の騎士】ソルダ・アーニスタ。

 これは、かつてあったことではなく、これから起きるかもしれない未来なのだと直感的に理解した。

 可能性の恋人。蓋然性の高い婚約者。


 まだ巡り会っていないと知って、胸を撫で下ろした事を覚えている。

 それは、コルセスカが会わないようにしているからだということも。

 なぜならば、会えば必然的に恋に落ちるであろうことが確定しているから。


 それは運命で定められている。

 それが最適解なのだと。それが正解なのだと。

 それまでの経験や意思や行動すら塗りつぶして、物語という形が成立する。


 神話の魔女であるがゆえに、コルセスカはその王道から逃れられない。

 主人公とヒロインは結ばれ、幸せな結婚によって物語は完結する。

 それは正しい。それが至るべき結末。


 それまでの寄り道は、全て結末のための布石であるか、さもなくば成長のための『過ち』でなければならない。

 間違った事を続けるのは愚かであり、ひどく幼いことだ。

 そう言って、ソルダ・アーニスタは同じ目線の少女の顎を持ち上げる。


「僕の花嫁、子供のままのコルセスカ――君を大人にしてあげよう」


 俺は右腕を伸ばしてそれを止めようとする。 

 だが動かない。

 氷の右腕はコルセスカに与えられたものだ。

 彼女の願いを妨げる事は決してできない。


 何もできず、二つの影が一つに重なり合って行こうとするのを見ているだけ。

 冷静に。ただ呆然と。

 感情には、波一つ立たない。


 コルセスカは、彼女が心から望むままに幸福になっていく。

 心から?

 それは、どの時点の?


 まだそうではない――いずれそうなる。

 前と後、そのどちらの願いが正しいと言えるのか。

 どちらも本人の意思には違いないというのに。


 俺はコルセスカの意思を、その在り方を肯定したい。

 だが、それが変質した後でも、それを肯定できるのか。

 運命や物語というのは、その人の意思に含めていいものなのか。


 たとえ『違う』という結論が出たとしても、そうしたものによって作り出されているコルセスカという神話の魔女が、それを否定する事は正しいのか。

 それこそ、彼女の存在を否定することなのでは?


 どこからどこまでがコルセスカなのだろう。

 無限に連なるコルセスカの可能性、その在り方全てを包括し、核心を貫く冬の魔女の本質とは何なのか。

 あるいは、それこそがゼドの言っていた【紀】なるものなのだろうか。


 何もかもわからないまま。

 骨のような槍に串刺しにされ、凍り付いて死んでいる俺を――力を合わせて、しつこくまとわりついてくるおぞましい悪魔を打ち倒した二人は、壮麗な大聖堂で結婚式を挙げる。


 華やかなハッピーエンド。

 誰もが祝福する望まれた結末。

 醜く抵抗するのは、間違った邪悪だけ。


 暗転。

 再び、目の前に屍の狼が現れる。

 死人の人狼。

 あの夜の森で、俺が殺した――カインの骸。


 打ち棄てられたままだったはずの、異獣になりかけた遺骸。

 トリシューラがエスフェイルに与えた呪術。

 死体の脳に干渉して自在に操作する杖のメソッド。


 屍の狼は、舌を出して息を吐きながら俺の周囲をぐるぐると回る。

 敵意は無い様子だった。

 俺はどこからか丸い糧食を取り出した。

 どうしてそんなものを持っているのかはわからない。


 甘い糧食をカインの狼の口に放り込むと、彼は腐乱した舌でそれを受け止めた。

 機嫌を良くしたのか、一声吠えると俺の足に頭部をすり寄せてくる。

 人懐っこい犬のような仕草。


 振る舞いは愛玩動物そのもので、かつてのカインとは似ても似つかない。

 既に人とは呼べない、単純な情動と知能しか持たない動物。

 それでも、屍の狼は甘さを感じ取り、快の感情を得て、嬉しさに尻尾を振る。

 自分にとって好意的な相手を嗅ぎ分けて、人懐っこく甘えてくる。


 違うものになりたくない。

 その前に殺して欲しい。

 それが、彼にとって『正しい』願いだと信じて右手を振るった。


 だがそれは本当に正しかったのか。

 否、過去の時点で『正しかった』としても。

 後になって振り返って見たときに、『やはりこうすべきだった』というより正しい答えがあるのだとすれば?


 俺はこの動物のカインを否定して良かったのだろうか。

 ごく当たり前に甘さを味わい、喜び、感情表現をするカインは、暴力を加えられることなど望みはしないだろう。単純に、ありのままに活動するだけだ。


 何の権利があって、そんなことを?

 今のカインは、幸福なのではないのか?


 死者は何も語らず、それは『もしも』の話でしかない。

 問いに答えはない。

 その条理を、死人の存在が覆す。


「その懊悩は尊い」


 知らない声だ。

 甘く、柔らかく、ふわりとした風のよう。

 気付けば、闇の中に見知らぬ女性が立っていた。


「貴方の苦悩は素敵です」


 背丈はコルセスカより低く、レオより高い程度。

 長い金髪は後ろで短く結い上げられている。

 特徴的な尖った耳、この世のものとは思えない成熟した美貌。

 そして、熱病に浮かされたかのように揺らめく灰色の瞳。


「苦痛に歪む顔が好き。自省を怖がる表情が可愛らしい。歩いてきた道を恐る恐る振り返るような自信の無さが愛おしくてたまらない。自分ではないものに拠り所を求めようとする弱さを抱きしめてあげたい」


 その立ち姿は優美にして妖艶。

 深い青と鮮やかな緑の衣服は細く均整のとれた身体の線を浮き上がらせるようだった。走り寄るカインを撫でる繊細な手。指は鍵盤奏者か球技選手を思わせるほど長く、淡い桜色に染められた爪は綺麗に整えられていた。


「赦します。過ちも正しさも、それら全て、貴方の生の煌めきなのですから」


 慈母のように告げる。

 純真な乙女のように囁く。

 誰よりも近くに寄りそう恋人のように呟く。


「だからもっと苦しんで。どうかもっと足掻き悶えて。終わりの無い暗闇の中で彷徨う姿こそが、一番素敵な貴方です」


 金色の長い前髪が僅かにかかる目が、爛々と欲情に濡れている。

 加虐の悦び、嗜虐の楽しみ。

 この女は、俺が幻の中を惑う姿を眺めて、快楽を感じていたのだ。

 

「この子――カインは、死を望んでいました。自ら死ぬことを選ぶというのなら、その願いは尊重されるべきだと、私は思います。けれど、『死にたくない』という願いも同じかそれ以上に強いものでした。『たとえ今の自分では無くなってしまっても生きていたい』という願いも確かに存在した――選ばれなかった言葉。死んでしまった想い。私はそうしたものを尊いと考えます」


 細い手指がゆっくりと狼の頭部を撫でる。

 気持ちよさそうに目を細めるカインを柔らかな眼差しで見下ろす女性の表情は、どこまでも優しい。

 なにもかもを許容する、安らぎに満ちた在り方。


「生きながら死ぬという選択肢。死にながら生きるという道。【死人の森】はその理を世界に提示します。貴方はどう思いますか?」


 出し抜けに、女性が問いかけてくる。

 一歩ずつ、こちらに歩み寄り、顔を覗き込み、目を合わせて、呪縛する。

 細い指が俺の頬をそっと撫でた。


 目に見えない力で抑え付けられるような感覚。

 近付く距離、埋められていく空間。

 問いかけを前にして、俺は呼吸を止めた。

 そして、答える。


「俺は」


「貴方は?」


 カイン。暗い森。感情制御による罪悪感の切断処理。罪悪感を感じないという事に対する罪悪感。血に濡れた右腕。失われた罪。無彩色の左手と救いに満ちた言葉。差し伸べられた呪文。屍となった狼。動物の幸福。それでも、俺は。


 口を開こうとしたその時。

 近付き続けていた女性の身体の一部が俺の胸に触れる。

 そこだけ大胆に露出した豊かな胸元が、こちらに押しつけられているのだ。


 強い抵抗感と反感を抱く。

 この女の言動は全てこちらを惑わすための呪文だ。

 迂遠なやり口に、いつまでも付き合う意味は無い。


 こいつはただこちらの精神を揺さぶりたいだけの敵だ。

 殴り殺せば全て終わる。

 殺意と拳を固めたその瞬間、こちらの呼吸の間隙を縫うようにして鋭い呪文が俺の意識を刺し貫いた。


「敵意に、縋り付きましたね?」


 ぞくり、と背筋に寒気が走る。

 コルセスカがもたらしてくれる、安心感のある冷気とは違う。

 それは俺を死に誘う、破滅的な邪気だ。


「理性による判断を、生まれた反発で覆した――それは合理とはほど遠い、人らしい、呪術的な思考ですね。私が色仕掛けで相手を惑わすような奸婦であるなら、口にした問いの内容も間違っているはずだ。全て貴方を害するための惑わしだ、という論法です。ところでご存じかしら、一足す一は二なのです。さて、これは悪意のまやかしなのでしょうか?」


 女性はより一層身体を近付けて、身を押しつけてくる。

 柔らかな感触が、こちらの作り物の胸を潰す。

 女装した俺を見る彼女は、溜息を吐いてこう言った。


「振る舞いは人の本質でしょうか。言葉は真実を示すでしょうか。貴方は女性なのかしら。全て剥ぎ取って、身体の内側をさらけ出したらわかるかしら?」


 驚くほど強い力で押し倒される。

 細い腕が閃き、信じがたい力で服が引き裂かれていく。

 身体の線を隠すために服の中に仕込まれた細工の数々が破壊され、呪術の幻惑が破られる。


 露わになったのは、硬い男の身体に人工の乳房を取り付けた滑稽な俺の姿。

 指の一振りで化粧が吹き散らされ、裸の肌を細い指先がなぞっていった。


「カインについて。誰が言及したかによって考えを変えますか。あの『色無し』が言ったから正しいと? 敵である私の言葉は聞くに値しませんか。ならばカイン本人ならば?」


 気付けば、そこはいつかの森の中。

 柔らかい土を背にした俺は、のし掛かられた体勢のまま、女性と見つめ合う。

 

「死者の代弁というのは結局の所、『代弁者の意思』と『それを欲望する貴方』の共犯関係によって成立する『約束事』でしかありません」


 穢されていく。壊されていく。砕かれていく。

 灰色の瞳は、俺を捕らえて離さない。

 呼吸も出来ずに、ただ美しい顔を見ていた俺は、変化の予兆を見逃した。


 女性の可憐な顔、その右半分が急速に年老いていく。 

 皺が増え、肌が衰え、潤いが消え、乾いて朽ちてやがて腐り落ちる。

 腐乱して白骨化し、顔の右側は死人そのものになった。

 目蓋のない灰色の眼球が、剥き出しの歯と顎が動いて、再び問いかける。


「こうすれば、価値判断が揺らぎますか?」


 逃げられない。

 彼女の問いから、彼女の弾劾から、彼女の加虐から。

 是非を問う言葉の呪いに掴まったが最後、そこから抜け出すことは出来ないのだと、俺は知った。


 終わりの見えない沈黙が、森の中に横たわった。

 俺は何も言えず、答えを見つけられずに視線を彷徨わせるばかり。

 そんな俺を見下ろす灰色の瞳が、優しく揺れ動いた。


「いいんですよ。正しさも過ちも、どちらも貴方の命の煌めき。それは等しく尊いのです。矛盾の中で引き裂かれるその苦痛が、死に向かい生を志向する衝動こそが人の人たるゆえん――さあ、もっと貴方の葛藤を見せて? 貴方の煩悶を聞かせて? 貴方のたまらない泣き顔を、私に感じさせて?」


 触れられる。

 身体のありとあらゆる場所を、細い指先が撫でて、なぞって、つついて、包み込んで。寄せられた口から舌先を伸ばして、鎖骨を唾液で濡らしていく。

 

 骨と皮ばかりの右手が上半身を愛撫して、繊細な左手は下半身に伸びていく。

 情欲の熱が漏れ出すような吐息。

 小さく、喉を鳴らす。


「大丈夫ですよ、痛いだけなのはちょっとの間のこと――すぐに、痛みが気持ち良く感じられるようになりま――」


 言葉が途切れる。

 腰のあたりに伸ばされていた左手が静止。

 灰色の瞳がゆっくりと下りていく。

 

 愕然と、見開かれた。

 硬い感触。

 黒銀の拘束具、あるいは鎧。

 氷の錠、あるいは帯。


 二重の拘束。

 電子錠と呪氷帯が脆い局部を完全に覆い尽くし、急所をガードする役割まで果たしている。

 それは、二人の魔女が残した呪いだった。


 トイレすら許可がなければ行く事ができない。

 今の俺は、生理現象を完全に管理されているに等しい。

 当たり前となっていたそれの存在を思い出して、俺は我に帰った。


 そうだ、俺は二人の使い魔だ。

 俺自身がどうしようもなくとも、それだけが俺の足場だと、とうに定めているはずだ。なら、行動を迷い、足を止める必要なんて何も無い。


 女性を突き飛ばして、その場から飛び退る。

 半身を前にして構えをとると、相手は険しい目で『それ』を睨んだ。


「なんてひどい――待っていて。今、自由にしてあげますから」


「余計なお世話だ」


 定石である金的への攻撃から急所を守れるから便利なんだよ。

 さっきみたいな誘惑や魅了の類も妨害できるしいいことずくめだ。

 外す理由が無い。


「お腹を壊したらどうするんですか!」


 そっちか。

 片方の眉をきりりと吊り上げて憤る女性はどこかピントがずれているというか、どこまで本気なのか読めない。

 

「なんか呪術の力とかでそのへんはどうにかなってるらしいから心配するな。蒸れないし清潔だ」


「あら、そうでしたか。でもやっぱりいけません。男の方がそんな風に女性の言いなりになるなんて情けないですよ。めっ、です」


 なんだこの女。

 加虐嗜好者サディストめいた言動をしたかと思えば、このようにこちらの尊厳を気にするような事を言ったりする。

 内心が伝わったわけではないだろうが、薄く微笑んだ。


「だって、望んで服従する被虐嗜好者マゾヒストなんて、虐める甲斐が無いじゃないですか。それはそれで愛でようもありますが――やはり、強い意志で抗おうとするその心身を痛めつけるのが至上の悦び」


 なるほど。

 トリシューラと似ているようで、決定的に違う在り方。

 こいつは俺の敵だ。


 相変わらず身体は奇妙な倦怠感に包まれていてひどく動きづらい。

 この森といい、何らかの呪術攻撃を受けていることは間違い無い。

 俺はそうした呪術を知覚することはできないが、代わりにコルセスカが与えてくれた『右腕』は別だ。


 【氷腕】を【氷鏡】が覆い尽くす。

 出現した多面鏡は俺の右腕を完全に覆い隠す。

 鏡に映し出されているのは、青白く半透明な俺の右腕、その幻肢だ。


 複数の鏡面に映し出された大小様々な幻肢。

 歪な鏡の世界で右腕を伸ばし、不可視のはずの呪術を『打撃』する。

 鏡には視覚的に理解しやすい形に解釈された呪術が映っていた。

 この【氷鏡】を介せば、呪術の世界――アストラル界は俺の目と拳でも捉えられるようになる。


 幻影が打ち砕かれ、暗い森が崩壊していく。

 現れたのは、骨が積み重なった薄暗い迷宮。

 第五階層の地下に広がる白骨迷宮の内部だった。


 それと同時に、左右の壁が打ち砕かれて誰かが飛び込んで来る。

 ゼドとコルセスカだ。

 床に粉砕された二体の白骨死体が放り出される。恐らく二人もまた別の敵と戦っていたのだろう。白骨死体が得物としていたらしき鞭と旋棍が粉々になっていた。


「ああ、可哀想に、ローズマリー、アニス。でも、この二人相手によく頑張りましたね。あとで直してあげますから、そこで待っていて下さいね」


 聞き覚えのある名前を口にして、女性が砕かれた死人らをいたわる。

 駆けつけてきたコルセスカは、眼帯に包まれていない左目で俺の無事を確認するとほっと息を吐きかけ、ほぼ全裸であることに気付いて硬直した。


「アキラ――何を、何をしていたんですか」


 敵らしき女性を睨み付ける。その異形の美貌に目を見張り、次いで豊かな胸元を凝視して、きっとこちらを見た。


「アキラ?」


「待て、誤解だ。確かに襲われかけたが見ての通り最後の一線は越えてない! 主にこれのお陰で!」


「私が、私が必死に戦っている間に、貴方はその女と――窮地に陥っていると分かって、私がどんな思いでいたと――!」


 駄目だ、こっちの言い訳なんて聞いてない。

 助けを求めるようにゼドを見る。女装男は目を逸らした。畜生。

 コルセスカが、涙目になりながら叫ぶ。


「延々と貴方が他の人のものになる光景を見せ続けられた私の身にもなって下さい! これでも傷付いてるんですよ!」


 どうやら彼女も似たような幻を見せられていたようだ。

 とすると、俺たち三人とも何らかの精神攻撃を受けていたのだろうか。

 陰湿極まりない手口だが、効果的と言わざるを得ない。

 

「うう、最低です。許せない。なにが『あの人』ですか。前世なんて今のアキラとは関係無いでしょうっ」


 前世――キロンとの戦いの後遺症で、俺には具体的な記憶が無いそれを、コルセスカは知っている。

 それに関連した幻影を見せられたのだとすれば、彼女もまた俺と似たような思いを――いや、感情を切り離せないぶん、より大きな苦痛を味わったはずだ。


 静かな怒りが、氷のように冷えて消えていく。

 明確な敵意を定めて、左拳を前に構えた。

 共有した怒りに呼応して、コルセスカもまた【氷球】を浮遊させる。


「離れていても、アキラがひどく苦しみ、傷付いているのを感じました。その女が、原因ですね?」


 この女はコルセスカを傷つけた。

 なら、使い魔である俺は目の前の敵を排除しなければならない。

 いつの間にか、右半分が屍で左半分が美女という異形の存在の背後に、大量の死人たちが集結していた。


「来るぞ」


 女装したままのゼドが低く警告する。

 彼が長髪のかつらを剥ぎ取ると、内部の容積を無視して現れるテンガロンハット。さらにその中から回転式の二丁拳銃を取り出して構えた。


 屍を従える娼館の女主人は、灰色の瞳に禍々しい輝きを湛えて告げた。


「そういえば、名乗りも済ませていませんでしたね。私の名はディスマーテル・ウィクトーリア。【変異の三手】が左副肢にして、【死人の森の女王】と呼ばれているものです。名前が長いので、お気軽に『ヴィク』とでもお呼び下さいな」


 宣名によって吹き荒れる凄まじい死臭の風が物理的な圧力を伴って俺たちの動きを止める。これはもはやキロンが多用していた【空圧】すら超えている。右腕による防御が間に合わなければ吹き飛ばされ、更には肺をやられていたかもしれない。


 ある意味では予想通りの名乗りによって明らかになったことがある。

 まずは、【死人の森】は【変異の三手】の中に組み込まれているということ。

 そして、どうやらあの名前はこの世界のものではなく俺の前世からの引用らしい、ということだ。


「あえてラテン語読みで名乗っておいて、英語読みの愛称で呼ばせるってどういうことだよ」


「さあ? どんな意味があると思いますか?」


 トリシューラやコルセスカと同じ、異界からの引用。

 それ自体に意味があるのか、それとも本当の名を隠すためのまじないの一種なのか、これだけでは判断がつかない。


 ディスマーテル・ウィクトーリアは――長いので、相手の言うとおりヴィクと呼ぶことにする――屍の腕を振るうと同時に鋭く叫んだ。


「カイン、トリギス、前へ」


 屍の狼と、修道騎士の死人が疾走する。

 高々と跳躍してきたカインを俺が迎え撃つ一方で、コルセスカが無数の氷柱を射出してヴィクを攻撃し、伸縮自在の尻尾を操る死人がゼドに襲いかかる。


 ゼドの動きはあくまでも常人の枠に収まるものだ。

 しかし、判断はこの上なく正確で迅速。

 鋭い尻尾の刺突を見切って回避すると、素早い踏み込みで修道騎士の懐に飛び込んでいく。


 拳銃が振るわれる。鈍器として使用される鉄塊。

 鎧兜に包まれた修道騎士の全身を次々と襲う打撃、打撃、打撃。

 固定式のソリッドフレームが歪むのではないかと心配になっていくほど、拳銃による近接格闘の武技は苛烈だった。


 ゼドが振るう拳銃は尋常なものではない。個人が携行できる『拳銃』という武器のカテゴリをほとんど逸脱した、ハンドキャノンとも呼べる怪物銃だ。

 おそらく全長は一メートル以上、重量は七キロを超えている。


 滅茶苦茶にへこんだ鎧とふらついた修道騎士の胸に左手の銃が向けられる。

 象すら狩れるという、古代遺跡から新品の状態で発掘された呪具。

 ライフル呪石弾を使用するため、直撃すればトリシューラの強化外骨格の装甲ですら貫通する。


 銃架で固定もせずに、更には片手で撃つなど正気の沙汰ではない。

 この世界特有の銃に対する反動を考慮しなくとも狂気の行い、生体強化やサイバネ義手であっても腕が破損しかねない暴挙だ。


 だがゼドは無表情にそれを実行した。

 片手で衝撃を全て押さえ込んで、鼓膜を破壊するかのような銃声と共に凄まじいエネルギーが甲冑ごと死人の修道騎士を粉砕していく。


 弾の大きさは問題では無い。圧倒的な運動エネルギーが生み出す破壊は強固な全身鎧を容易く貫通して、体内を滅茶苦茶に破壊しながら背後へと抜けていく。

 バラバラになって吹き飛んでしまえば、いかに命無き死人といっても立ち上がることはできない。


 続いて襲いかかる死人の群もまた、黒光りする鈍器によって頭蓋を砕かれ、首を粉砕され、盾や鎧で防備を固めたものは圧倒的運動エネルギー弾によって破壊される。実体の無い亡霊が襲いかかれば意識に焼き付けていた呪文を解放して退散させ、かと思えば足を器用に動かして、死人が身につけていた貴重な呪具を掠め取って自分のものにしてしまう。


 物理・呪術両面における凄まじい戦闘能力と、盗賊らしい手癖足癖の悪さ。

 【盗賊王】ゼドは間の抜けた女装をしていても凄まじい強さを誇っていた。


 一方で、俺は左手でカインを打撃してねじ伏せ、右の幻肢を鏡の中で動かしてヴィクへと飛ばす。

 鏡で相手のアストラル体を確認しながら、幻の一撃を放つ。

 しかし。


「打撃が軽いですよ」


 灰色の瞳が妖しく輝く。

 発動した邪視はコルセスカの氷柱を、俺の右の幻肢を不可思議な力で絡め取ると、その矛先を逸らし、妨げ、跳ね返してしまう。


「この邪視、どこかで――?」


 コルセスカが訝しげに呟きながら自らも邪視を発動させる。

 凍結の視線が正体不明の灰色の視線と激突する。

 鏡の中を確認すると、二人の目から放たれた青と灰の光線がぶつかり合い、拮抗する光景が映し出されていた。


 邪視戦闘に集中するコルセスカの身を守るべく前に出る。

 使役される死人の集団を俺とゼドが破壊して、ヴィクが唱える呪文をゼドが高位の呪文で相殺した。


 ゼドの意識に焼き付けられている呪文は使い切りだ。

 長引けば真っ当な呪文使いには対抗できなくなる。

 傍らで戦うゼドから陰鬱な呟きが漏れた。


「邪視者で言語魔術師、更に支配者か。面倒なことだ」


 ヴィクは複数の系統に秀でた呪術師だった。

 そう珍しいことでもないが、コルセスカと渡り合い、俺とゼドを同時に相手取れるほど各系統に習熟しているとなると話は別だ。


「あら。杖が苦手だなんて言ったかしら」


 屍の魔女は薄く微笑む。

 壮絶な悪寒。

 俺が幻肢を伸ばし、ゼドが呪文と銃弾を叩き込むが、波濤のように押し寄せて分厚い壁を作った死人の軍勢によって阻まれる。


「私の軍勢は、私の手足と同じ。装着――【鎧骨がいこつ弐式】」


 骨の渦の中から、異形の鎧を纏った魔女が姿を現す。

 それは文字通りの外骨格だった。

 無数の骨が連結し、組み合わさり、緻密な計算の元に呪術工学的に加工された結果として死人使い流の強化外骨格を形成していく。


 屍の筋繊維が各所に張り巡らされ、細い手足を外側から包む白い骨は機械的に駆動して滑らかに魔女の身体能力を拡張。

 背後の背骨から伸びた鋭角の肋骨に包まれた金髪の美女が、複雑怪奇な筋繊維に拘束されていく。


 緊縛された肢体が躍動する度に彼女より一回り大きな外骨格が威圧的に駆動していく。巨大な頭蓋骨が兜となって異相を覆い隠して、眼窩から覗く灰色の瞳が強く光り輝いた。

 

 足が踏み出される。彼女本人の足は外骨格の膝までしか無く、その先は拡張された異形の脚だ。人とは逆側に折れ曲がった獣のごとき脚部が床を蹴り抜いて、凄まじい機動力を見せる。


 圧倒的な質量。既に俺やゼドを上回る体格となった外骨格の魔女が巨大な拳を空中で振りかぶった。

 腕は鈍器そのものだ。


 肘から飛び出した長大な骨杭が高速回転を開始する。

 俺たちはその一撃をかろうじて回避。撃ち込まれた拳は床を粉砕。

 更に肘から伸びた回転する骨杭が腕の中に押し込まれ、極大の衝撃が床を割り砕いて高く持ち上げていく。


 巨腕から伸びた骨杭が快音を鳴らしながら腕の中を通過して戻っていく。強化外骨格によって強化された腕力に加えて、両肘から伸びた太い杭が更なる衝撃を叩き込むという身も蓋もない物理的暴力。


 四大系統全てに秀で、近接戦闘においても怪物じみた実力を発揮する。

 【死人の森の女王】ディスマーテル・ウィクトーリアは他の副長と比較して、明らかに別格だ。


 英雄が放つ呪文と銃弾、邪視と氷柱を悉く回避し、防ぎきっていく。凄まじい機動力で大跳躍を果たし、横薙ぎに振り払われた拳がゼドを直撃。

 吹き飛ばされたゼドは壁に激突した。巻き上がる骨片と粉塵が視界を妨げる。


 ヴィクは俺が踏み込みと共に放った左の掌打を真正面から受けきり、右から伸ばした幻肢の拳を詠うような呪文で弾く。

 幼子に聞かせるような子守歌のような響きに意識が薄れそうになり、敵の目の前だというのに無防備な姿を晒してしまう。


 そこに横合いから叩き込まれる氷柱と凍結の視線。

 コルセスカの全力攻撃を、しかしヴィクは意にも介さない。


「駄目ですよ、そんな抑えた邪視は私には通用しません。周囲を傷つけることを気にして全力が出せないのですか? 誰かの世界を侵すという傲慢無しに、邪視者は力を発揮できない。貴方は向いているのに向いていない――優しすぎるのかしら」

 

「知ったような事をっ」


 激突する青と灰。

 ヴィクの余裕に満ちた表情が、やがて退屈そうなものに変わる。


「世界の構築も、神としての高みに至る事も、神話の再生も、貴方ほどの力があれば容易いことでしょうに――なんて不自由な邪視なのかしら」


 灰色の光がその勢いを増していく。

 そして、遂に青い光が吹き散らされた。


「己の甘さを悔い、苦しむといいでしょう。第一浄界――【ステュクス】」


 強化外骨格の背後に異形の世界が顕現する。

 世界を塗りつぶしていく異質な光景。

 目の前には悠久なる青い大河が流れる見知らぬ空間。

 足下は迷宮の床ではなく河川敷になっている。


 俺たちは、いつのまにか幻想的な絵画の世界に入り込んでいた。

 更に、大河がぶくぶくと泡立ったかと思うと、無数の泡が浮上していく。

 水面の上が水中であるかのような超現実の光景。

 泡が弾けると、そこから夥しい数の死人が溢れ出していく。


 無数の屍が次々と積み重なり、腐肉と白骨で構成された見上げるような巨人が川底から立ち上がった。

 屍の巨人を背にしたヴィクが、酷薄に告げる。


「アクセス――我が【アーカーシャ】」


 世界の創造、巨人の出現、それらの脅威すら吹き飛ばすような、圧倒的な力が顕現しようとしていた。

 雲が引き裂かれ、差し込む光が柱のように世界を照らしていく。


 天上から現れたのは、認識を超越した輝かしい『何か』だ。

 ただそれが途方もなく美しく、神々しいということだけが理解できる。 

 ヴィクのように尖った耳と、この世に存在するありとあらゆる種族の身体的特徴を兼ね備えた異形。鳥の羽と虫の翅が美しく羽ばたき、猫のような犬のような顔が曖昧に微笑み、複眼の美女が雄々しい咆哮で歌う。


 空間を引き裂いて巨大な全身を僅かに覗かせたのは、機械仕掛けの三角錐。中央の光学素子を瞬かせ、多関節の三本の手が何故かぼろぼろに破損した全身を絶えず自己修復していた。


「あ、貴方は帰っていいですよ」


 ヴィクの言葉に従って、傷だらけの鋼鉄が空間の裂け目の奥へと戻っていく。何しに来たんだ。


 そして最後に大河の泡が一斉に弾けた。

 水底から屹立したのはフラクタル図形の騙し絵じみた男根である。

 スポンジ状の巨大な生殖器が、二次元以上三次元以下という異様な全身から水滴を滴らせて浮遊する。


 陰嚢があるべき場所からは数千にも及ぼうかという無数の乳房が垂れ下がっている。その中からは白い髭を長く伸ばした老人、年若い青年、清らかな乙女の巨大な顔面が飛び出しており、全員が目を閉じて眠りについていた。口から溢れている大量の泡は涎なのだろうか。


 圧倒的な存在を降臨させたヴィクを見て、どうにかダメージから立ち直ったゼドが、そしてコルセスカが愕然としていた。


「まさか、第八階梯の邪視者なのですか――?」


「信じられん、紀元槍にアクセスして古き神を使役するなど、人間業ではない。これが古代の言語支配者の力だというのか」


「あー、質問なんだが、これまともにやり合って勝てそうか?」


 問いに、二人の英雄が沈黙する。

 事態の深刻さを悟って息を飲んだ。

 くすくすと笑うヴィクの声は、状況の危険性とかけ離れていて、かえって不気味に感じられた。


「時よ」


 切り札の発動。

 光となって駆け抜けたコルセスカが瞬きの間にヴィクの目の前に到達した。

 【氷球】が三叉槍に変じて屍の魔女の頭部を貫き、胴を引き裂いていく。

 しかし。


「私が統べる生と死は紀元槍から伸びた枝のひとつ。私という存在は、紀元槍から実世界に投射された影に過ぎません。今の私を倒したければ、紀元槍にアクセスする他に手段はありませんよ」


 無傷。

 致命傷を与えたはずの神速の攻撃は悉く無効化されていた。

 強化外骨格の一撃がコルセスカの腹部を穿ち、屍巨人の振り下ろした腕が小さな身体を大地にめり込ませ、神々しい存在が光そのものとしか言いようのない理解を絶する力の塊を放射し、異形の生殖器が無数の泡を飛ばして爆発させていく。


 時間の止まった世界で自分一人だけが動くことができるというコルセスカの能力。その力を持ってしても、死ぬ事を知らない怪物たちに手も脚も出ない。

 凍結の邪視は無効化され、圧倒的呪力と物理力が冬の魔女を翻弄する。


「ゼド、手はないか」


「殺す以外の方法を考えた方がいい。狙うとすれば女王本体だ。発動している浄界と巨人化と紀へのアクセスを妨害すれば活路が開けるかも知れないが――」


「相手が使ってるのは邪視の一種なんだよな? ってことは同じ系統の右手で殴れば通用するんじゃないのか」


「そんな単純な話では――いや、待て。それは【雪華掌】の欠片の一つだったな。紀元槍の制御盤であれば、紀元槍へのアクセスに割り込みをかけることができるかもしれん。問題は、あの怪物がそんな隙を見せてくれるかどうかだが」


「無いなら作るまでだ。ゼドは後方支援を頼む。俺が懐に飛び込んで直接右手を叩き込む。多分、感覚的に何を打撃するべきかは分かると思う」


 素早く打ち合わせを済ませて、迅速に行動を開始する。

 走り出す。俺には分からない感覚だが、この右腕はコルセスカの直観を反映して動く呪術の義肢だ。ならば、コルセスカの判断に任せておけば何となくで目標を狙えるはずだ。


 閃光のように怪物たちと激戦を繰り広げるコルセスカがこちらの動きに気付いて、大きく動いて敵を引きつけてくれる。

 屍巨人と神々しい何かはそちらに移動したが、眠り続ける生殖器が無数の泡爆弾を飛ばしてくる。ロドウィが使用していた呪術と似てはいるが、その数、破壊力共にこちらの方が遙かに上だった。


 夥しい数の泡が壁のように目の前に広がる。

 そのまま突っ込めば全身を爆圧で吹き飛ばされるだろう。

 窮地に置かれた俺は、後退を選ばなかった。

 背後から、正確な支援が行われる事を確信していたからだ。


 無数の弾丸が真横に吹き付ける雨となって泡を貫いていく。

 目の前で一斉に爆発するが、その威力はぎりぎりで俺に届かない。

 鏡ごしに背後を確認すると、ゼドが弾幕を張っていた。


 左手の拳銃が、形状を変貌させていた。

 質量そのものすら歪める呪具特有の変形機構。

 ゼドは機銃から大量の銃弾を掃射して面での火力制圧を行う。


 本来は相手の行動を制限するための支援射撃だが、今は俺を襲う泡を吹き散らす盾となってくれていた。


「ヒャッハー! 俺様の【喜銃】は今日もご機嫌だぜーっ! オラ、何もたついてんだアキラ、さっさと突っ込まねえとテメエのケツを穴だらけにしちまうぞっ」


 鏡の中に映し出されたゼドは、先程までとは表情も言動も別人の様だった。

 古代の呪具を使用したことによる反作用らしいが、いつ見ても面食らう。

 ゼドが切り開いてくれた道を走り、強化外骨格を纏った魔女に肉薄する。


「接近すれば勝てるとでも?」


 自信に満ちた言葉と共に、巨腕の一撃が繰り出された。

 鉄槌のような打撃が地面を粉砕し、続いて撃ち込まれた骨杭が肘から腕先へと抜けて大地を爆発させていく。


 圧倒的な破壊力によってクレーター状に陥没したその場所から飛び退るが、人を超越した機動力によって瞬時に俺の背後に回り込んだヴィクが右腕を振るった。

 質量攻撃と同時に呪文と邪視が襲いかかり、両腕を交差させてかろうじて防御する。余りにも凄まじい呪力に耐えきれず、全身が悲鳴を上げる。


 左手の車輪を回転させて攻撃を受け流す。

 トリシューラが傍にいない為に全力の起動が出来ず、三割ほどの出力だが、それでも一番義肢【ヘリステラ】は優秀だった。


 車輪チャクラの女王の異名のままに体内のエネルギーを整え、ロスを最小化し、効率よく呪力を最適化する。

 そしてサイバーカラテ道場から特定の戦闘データを呼び出して次々に参照。義肢の動作制御システムにそれらのデータ群を反映させて、ある特定の戦術を実行。

 

 視界の隅に、縮小されたカーインの姿が表示された。

 その力強い動き――見た目にわかりやすい外力を超越した体内を循環するエネルギーを摸倣する。


 強化外骨格による凄まじい暴威が俺を襲う。

 気息を導引し、全身の血流に酸素を取り込むと、冷たい心でそれを迎え撃つ。

 両手を螺旋を描くように動かして、極大の衝撃を受け流す。


 目標を見失ってバランスを崩した巨体の脚部を狙って蹴りを放った。

 関節部への衝撃でよろめいた強化外骨格の背中に左掌を叩き込み、回転する歯車が内部へとエネルギーを浸透させて骨にダメージを与える。


 文字列の奔流と鋭い眼光を右の幻肢で掴み、力に逆らわず軌道を変えた。

 呪文と邪視がぶつかり合って消えていく。

 ヴィクの強大な呪力が自ずから衝突して相殺されたのだ。

 灰色の目が、驚愕に見開かれる。


「まさか――内功?!」


「こういうのは、カーインの専門なんだがな」


 小さく呟いた。

 この世界では、内功とは呪術的な裏付けと明確な定義が存在するれっきとした呪的現象である。

 新生したサイバーカラテは、そうした体系をも取り込んでいく。


 門外不出とされる技だが、カーインとの度重なる立ち会いはサイバーカラテに『呪力を用いた戦い方』のデータを蓄積させていた。

 呪的発勁。普段は主たる魔女二人の呪力を外力として発する技だが、いまこの瞬間だけ、俺の女性的な肉体から生まれる呪力を用いて内功と成す。

 

 類似は呪力を生む。

 乳房――すなわち女性の形は、陰の気を発して俺の体内の経絡を循環していく。

 陽に対する陰とは、すなわち剛に対する柔。


 俺は人工乳房を利用して肉体を女性であると偽り、見よう見まねで陰の気を操作することで内功による柔法を体得していた。

 強化外骨格を纏った敵に、単純な『剛』の力では勝てない。

 ならば外力で対抗するのではなく、内力で対抗するまで。


 今なら見える、感じ取れる。

 ヴィクの身体に見える膨大な陰の気。そして、その身体を取り巻く強化外骨格は男性の骨と筋繊維によって構築された陽の気によるものだ。


 彼女は陰陽の気を調和させることで、物理・呪術両面の圧倒的戦闘力を発揮できていたのだ。

 

「駄目、ちゃんとした修練も無しに付け焼き刃の内功を用いれば、それは貴方の身を滅ぼしてしまいます! 魔道に堕ちて悪鬼と化すか、最悪の場合は経絡が破壊されて全身不随になってしまいますよ! すぐにやめて下さい!」


 必死になって叫ぶヴィクは何故かこの期に及んで俺の身を案じている。

 鼻で笑って否定した。


「知ってるよ。知り合いにただ真似しても身を滅ぼすだけだって言われてるんでな。だから、代償は受け流して踏み倒す」


 右側の人工乳房が、高熱で溶けてぽろりと剥がれ落ちた。

 左手の力でエネルギーの反動を一点に集中させ、切り離したのだ。

 踏み込んで、全身を循環する内力を左右の掌に集約させる。

 負荷を残る左胸に押しつけて、最後の一撃を放った。


 交差する左腕と強化外骨格の右拳。

 回転しながら叩き込まれた骨杭が背後に抜けていき、受け流された力が大地を無意味に粉砕する。


 懐に飛び込んだ俺は多面鏡に包まれた右拳を無数の肋骨の隙間に潜り込ませ、屍の魔女へと幻肢の掌打を叩き込んだ。

 人工乳房が弾け飛ぶと同時に、幻影の一撃が鏡の中で魔女のアストラル体を貫いていく。砕け散る氷の鏡。


 非現実の世界で炸裂した俺の内力がヴィクの気息を乱し、経絡を流れる膨大な陰の気を妨げていく。

 灰色の瞳が揺れ、形の良い唇と剥き出しの歯から唾液と呼気が漏れ出ていった。


 完全な調和が崩れ、強化外骨格が砕け散る。

 更には異界の光景が一瞬で掻き消され、屍の巨人や神々しい異形たちもまた幻であったかのように消え去った。


 崩れ落ちた金髪の魔女を前にして俺は拳を固める。

 駆けつけたゼドが銃口を向け、コルセスカが三叉槍を突きつけた。

 形勢は完全に逆転していた。


 ――にもかかわらず、ヴィクは余裕に満ちた表情で俺を見上げると、うっとりとしたように言葉を発する。


「素敵。とっても痛くて、感じましたわ」


「何を」


「今日はここまでにしておきましょうか。軽い挨拶のつもりが長くなってしまいましたし――」


「逃がすと思いますか」


 コルセスカの冷ややかな声。

 突きつけられた三叉槍の穂先が凄まじい冷気を放ってヴィクの頭部をゆっくりと凍結させていく。


「ええ。だって私、あの子に『必ず帰る』と約束しましたもの。私の約束は、絶対に破られることが無いんですよ?」


「何を言って――まさか」


 コルセスカが何かに勘付く。

 同時に、ゼドが右の拳銃を発砲した。

 至近距離で放たれたライフル呪石弾は、圧倒的な物理・呪術両面のエネルギーによってヴィクの頭部を原型すら留めず破壊する――かに思われたが。


「浄界、軍勢、化身――各系統の奥義を一つずつ見せたのです。折角ですから呪文の奥義、頌歌の力もご覧になって下さいな」


 ヴィクの全身を、夥しい数の文字列が取り囲んでいた。

 あらゆる破壊力を無効化する障壁。

 ゼドの銃弾も、俺の拳も、コルセスカの邪視も、全てが意味を成さない。


「私が誰かと交わした約束、誓願の類は決して破られない。絶対遵守の呪い――未来転生者としての私固有の能力です」


「未来、転生――?」


 意味の分からない言葉。

 だというのに、それは異様な圧力で俺を縛り、惹き付けた。


「ありがとうございます。貴方がキロンを倒してくれたお陰で、私はこの権能を取り戻すことができました。一度油断して殺されてしまったんですけど、蘇生したら無くなっていて困っていたのです」


「な――」


 キロンに殺された、転生者たち。

 その中に、この不死者が含まれていたというのか。

 その上、未来転生者?


 つまりそれは、異世界や過去を前世とするのではなく、未来を前世とする存在であるということなのか。

 まるで、時間を遡ったとでも言うような発言。

 ヴィクは内心の読み取れない曖昧な微笑みを浮かべて、俺に言葉を投げかける。


「それでは、私はお暇しますね。陽動は済みましたし――あちらも首尾良く仕事を終えている頃でしょう。さようならアキラ様。またお会いしましょう」


 屍の魔女の全身が光に包まれて、次の瞬間には消失する。

 残された俺たちは、呆然と地下迷宮に佇むばかり。

 やがて、コルセスカが何かに気付いた。


「アキラ、地上に出てトリシューラと連絡を。あちらが襲撃されている可能性があります!」


 そうだ。

 ヴィクは陽動と口にしていた。

 それはつまり、俺たちという第五階層における最大の戦力を釘付けにすることで、トリシューラを助けに向かわせる事を妨げたということではないのか。


 コルセスカの先導に従って地下迷宮を脱出し、端末と思考の両方でトリシューラへの連絡を試みる。

 胸に冷気が広がっていく。


 まさかとは思う。

 あのトリシューラが、そう簡単に敗れるはずがない。

 だが、彼女がひどく脆い一面を持っている事もまた、俺たちは良く知っていた。


 普段冷静なコルセスカの顔に浮かぶ焦燥が、俺の表情を鏡として映し出しているようだと、場違いな感慨を抱く。

 共有する感情は、祈るようにただ一人の安全を願っていた。

 やがて、端末が事実を告げる。


(ふー、どうにか撃退したよー) 


 立体表示されたちびシューラの幻像。

 俺たちは揃って胸を撫で下ろした。

 どうやら、彼女は無事に太陰で過ごしているらしい。


(さっき一次試験が終わったところなんだけど、借りてる部屋に残りの副長が二人同時に襲撃かけてきてさ。王宮の護衛団が頑張ってくれたお陰で撃退できたよ。ていうかいい度胸してるよね。密入国して王宮襲撃とか。まあ一日目の日程はこれで終わりかなー。初日はそこそこ点とれたよ!)


 朗らかに状況を伝えるちびシューラは、いつも通りの様子だ。

 遠隔地であるため、ヴィクによって封じ込められた俺の脳内ちびシューラは暫く復旧できないらしい。トリシューラ本体との同期も切れたままだ。


 その代わり、立体幻像のちびシューラをいつでも端末から呼び出せるということなので、何かあればそれで連絡して欲しいとのことだった。

 お互いの状況を伝え合い、情報を共有して今後の方針を定める。


 新たな敵、ディスマーテル・ウィクトーリアはこれまでの副長たちよりも一段上の使い手だった。さらに、まだ底が見えない。

 他の副長たちも陽動と同時襲撃という絡め手を使ってきた。

 そして、彼らを統べるグレンデルヒ=ライニンサルは未だに姿を見せていない。


 【変異の三手】と【死人の森】が手を結んでいることも確定し、対立の構造はより明確になったものの、どこか先が見えないような不吉さが残っている。

 リールエルバが言っていた、俺に対してクラッキングを仕掛けることで言震を引き起こせるという事実も無視できない。


 当面はコルセスカが巡槍艦に留まり、【マレブランケ】も何人か呼んで交代で警護に当たらせることになった。

 トリシューラが帰還したなら、すぐさま対【変異の三手】の作戦を実行しなければならない。


 守っているばかりでは勝てない。

 こちらから打って出るのだ。

 心強い事に、ゼドが協力を申し出てくれた。


「部下にあちらの動きを探らせる。俺は暫くそちらの艦に厄介になるが、いいか」


 願ってもない事だった。

 敵は四英雄の一人に古代の言語支配者だが、こちらにも四英雄は二人いる。

 トリシューラさえ無事ならば、万全の体勢で反撃が行えるだろう。


 戦意を高めて、俺は来るべき決戦の光景を思い描いた。

 いつも通り陰気に、しかしどこか不敵に笑うゼドが手の甲を差し出してくる。

 俺は右の義肢を出して、手の甲を打ち合わせた。

 と、そんな俺たちに冷ややかな声が投げかけられる。


「とりあえず、アキラは服を着て、ゼドは着替えるといいんじゃないですか」


「あ」


 俺たちは間抜けにお互いの姿を確認した。

 全裸男と女装男が、娼館から飛び出して手の甲を合わせているという珍妙な光景。花街を行く人々は好奇の視線で念写を繰り返し、「猟犬が」とか「盗賊王と」とかいう言葉がひそひそと囁かれている。何を噂されているのだろう。


 ぼろぼろのロリータ服(的な何か)を着た冬の魔女の姿が念写され、おそらくは即座にアストラルネットにアップロードされる。

 俺たちは、揃って溜息を吐いた。

 全く持って締まらない、それがその夜の結末だった。










 夜も更けようとしている時間帯。

 唐突に部屋に上がり込んできたコルセスカは、真剣な表情で俺を見ると、緊張に声を強張らせながら衝撃的な告白をする。


「――ショック療法をしましょう。これから私の男性遍歴を全部伝えます。こういうのは包み隠さず全て共有した方がいいんです」


 ぽかん、としてしまった。

 互いに、嫌な幻影を見せられたことは理解している。

 その内容については詳しく語ることはしまい、と俺は思っていた。


 それは何かを壊しそうだったし、それに、最後に見たあの幻影だけは、口にすれば本当になってしまうようで嫌だったのだ。

 まあ、俺の前世には興味がなくも無かったけれど。


 ていうか、俺は彼女とかいたんだろうか。

 いやいないだろ多分、とは思うのだが、実際の所はコルセスカしか知りようがないわけで。


 可能性を見せる、というだけなら一方通行の片思いの相手とか、少し関わっただけの知人とかとそういう仲になる幻影もあり得るだろう。 

 コルセスカの、不安そうに揺れる左目を見た。

 ――やっぱり、今となっては余分なだけだし不要だなと思う。


 前世のことは知らなくていい。

 それを教えてくれるコルセスカの言葉は嬉しいが、それは彼女の語りを通して伝わってくる優しさが嬉しいのであって、大事なのは前世ではない。


 ということを考えていたのだが、コルセスカはどうも現状に危機感を覚えているらしい。俺は自覚できないが、彼女に対する感情に不信感や嫉妬など黒々としたものが混じっていたのかもしれない。だとしたら、自覚できないだけに自分が腹立たしかった――怒りは感じないが。


「いや、待て。それやったら逆に関係性崩壊するんじゃないのか」


「全部受け入れ合ってこその関係性じゃないでしょうか。私の『かもしれない』という不実さに胸を痛めるくらいなら、包み隠さず全て話した方がいいと思うのです。何も言わないで、あれこれと想像を膨らませて最後には破綻する――いいですか、これは寝取られの定番パターンです! 絶対に回避しなくてはなりません!」


 鼻息を荒くして詰め寄ってくるコルセスカに、思わず身を引いてしまった。

 いやそれ、聞かされてる俺は寝取られてる気分なんじゃないかなあ。

 過去の事とは言っても、しんどいことはしんどいのでは。


 それでも、わだかまりが残って将来的に関係性に亀裂が入るよりはいいという判断なのだろう。


「えーと、一応訊くけど、その男性遍歴って前世ってことだよな。もの凄い数になるんじゃないのか。伝承とか、いろいろバリエーションがあるんだろ」

 

 なにしろ神話の魔女だ。

 長い年月を経て、時代と土地を越えて変容し続ける昔語りは様々な形で伝わっているに違いない。

 だとすれば、彼女の前世とはどれほど膨大な数に上るのだろう。


 それに、所詮は前世だ。

 今ここにいるコルセスカとは別人。

 一部の記憶や設定を引き継いでいるだけで、このコルセスカは俺だけの主。


 それに対して無用の嫉妬をする必要は無い。

 と、思っていたら衝撃の事実を叩きつけられた。


「いえ、この時代、今の人生における前の恋人たちのことですよ。まあ膨大な数であることには変わりませんけど、流石に神話ほどではないので。それに、前世の私は私であって私じゃない――彼女たちがどれだけ他の誰かに愛を向けたとしても、それは他人事のようなものです。って、アキラ? 大丈夫ですか?!」


 精神に打ち消しきれないほどのダメージを受けて、寝台の上に倒れ込む。

 やばい、感情制御が無かったら死んでたかもしれない。

 自分の余りの弱さと狭量さと相手の人格を無視した傲慢さに嫌気が差し、次いでそんな当然の事すら覚悟していなかった頭の悪さを呪った。


 最初の印象が『美少女』であることを忘れていた。

 いかに異相とはいえ、コルセスカは十分に魅力的な少女だ。

 わかってはいる。わかってはいてもきつい。


「伝わってきます、アキラの苦しみ。胸が張り裂けそうで辛いんですね。わかりました、もうこれは徹底的に傷口を抉り倒して慣れさせるしかありません」

 

「よせやめろ何かに目覚めたらどうする」


 寝取られ嗜好とか俺には無いというのに。

 いや、もちろん、コルセスカは自由に相手を選ぶことができるし、過去の話だし、俺は何も気にせずにいることが正解なのだと理性では理解しているのだが。


「えっと、これが現在進行形で付き合ってる彼で、それからこっちが攻略中の」


 突っ伏した。

 閾値を超えた感情が全てコルセスカに流れ込み、彼女が嗚咽を漏らして冷たい涙を零しているのが分かった。


「うう、こんなに悲しませて、ごめんなさい。でも、ちゃんと私の事を知って欲しいから――私はこういう女なんです。アキラ、ちゃんと直視して下さい。ほら、これが私の彼氏のボイスです」


「やめろーっ」


 抵抗虚しく、耳元に端末が近づけられ、良く通る美しい声が愛を囁く。

 圧倒的な美声。まるで職業声優のような響きは、俺がどう足掻いても太刀打ちできないほどに耳に心地良い。俺ですら聞き惚れてしまう――って、んん?


「けっこう古いゲームなんですけど、かなり流行ったんですよ。内部でも時間が流れてて、ずっと放置してると拗ねちゃったりとか――ほら、立体幻像をタッチすると色々台詞とか喋ってくれて、中には際どい」


「待て」


 がばりと顔を上げてコルセスカを見る。

 ゲーム用の端末を複数寝台の上に並べたコルセスカが、無数の立体幻像の男性に囲まれていた。


 二次元的にデフォルメされた美形のキャラクターが圧倒的に多いが、三次元のリアルなキャラクターもいる。

 少年くらいの年齢から俺くらいの年代、更には渋い美中年まで様々だった。

 うん――うーん?


「まず、この人が私の初恋の人で、最初の恋人です」


「はあ」


「で、こっちがその次に攻略したキャラクターで――はぁ、久しぶりに起動したらやっぱりイイです。彼のシナリオとっても素敵なんですよ。なんて言うか、尊い」


「あっはい」


「これ、そういう攻略要素とか無いRPGなんですけど、このキャラがとってもかっこよくて。中盤で主人公を庇った際の負傷がもとで戦線離脱するんですけど、最終決戦で駆けつけてくれた時には変な声出ました。あ、ネタバレしちゃった。でも展開分かってても燃える展開ですから! プレイ時間そこそこありますが丸三日ぶっ通しでやれば余裕です!」


「え、やるの? やるつもりなの? マジで? 男性遍歴を全部知ってもらうって、今までにやってきたゲームを片っ端から再プレイするってこと?」


「こっちは男性向けのゲームなんですけど、この子がとっても素敵で、多分これはアキラも楽しめるんじゃないかと――って聞いてます?」


 聞いてないのはそっちなのでは。

 やばい、コルセスカの目がキラキラとしている。

 純真な子供の瞳だった。


「私の経験は全部共有してもらいます。トリシューラもいないことですし、徹夜で一緒にプレイしましょう。面白さは保証するので! 絶対楽しいので! 是非!」


 なんか布教されていた。

 いや、コルセスカと趣味を共有する事に抵抗感は無い。

 無いのだが。


「一応訊くが、その中に現実の男性は」


「いませんが、作ろうと思えば相手くらい幾らでも作れますよ。私には膨大な恋愛経験がありますから。そもそも現実の男性とゲーム内の男性との間に優劣はありません。もちろん女性にも。ああ、選択肢次第で性別を選べるキャラもいましたね。それよりも、月に何本も出るゲームの子たちの相手をするのが忙しくて忙しくて」


 膨大な、男性遍歴――?

 前世はノーカウントなのに、ゲーム上の攻略対象は前の恋人としてカウントするのか。何だそれ。そういえばこいつは俺をゲームの攻略対象として見ていたんだった。つまりこのキャラクターたちと俺を等価値に見ていると言うことだ。


 何か、どうしようもなくおかしくなってきて、笑みが浮かぶ。

 並んで寝台に座って、二人でゲーム画面を覗き込む。

 立体幻像の画面もあったし、液晶画面のものも、アストラル体を入り込ませる体感型のゲームまであった。


「なんかこのキャラ、いきなりクソ女呼ばわりしてきたけど大丈夫か」


「めっちゃチョロいですよこの子。好意を隠しきれてないのに照れ隠しで必死にクソ女って繰り返す後半がもう可愛くて可愛くて」


 チョロいとか言うな。

 それにしても、コルセスカの遊ぶゲームのジャンルは多岐に渡っていた。

 男性遍歴を開陳するという方針なので、ある程度偏ってはいるが――恐らく、実際にプレイしているゲームはもっと色々あるんだろうなあ。


 ていうか、そいつ男だろなんで『嫁』なんだ。

 子供じみた明るさで活き活きと架空の世界の事を語るコルセスカは、もしかしたら今までで一番のはしゃぎようだったかもしれない。


 一番最初、俺は彼女を冷たく恐ろしい魔女だと認識していた。

 だが、彼女の本当の所は、こういった幼さにあるのかもしれない。

 そんな感情が伝わったのか、コルセスカは開き直ったかのように胸を張る。


「いいじゃないですか。遊べなくなるくらいなら、私はもう子供のままでいいです――子供のままがいいです。それが許されなくても、間違っていても、幼稚さにしがみつくことが、私は止められません。多分、これはずっとです。それでも大人にならなくてはならないというのなら、私は大人になった振りで世界中を誤魔化してやるんです」


 大人になる――それが、未来の事についての言及だと気付いた。

 彼女は、将来を定められている。

 運命の恋人。最高のハッピーエンド。

 物語は、結婚式で幕を閉じる。


「私は、自分の世界が欲しい。自分の幸せ、自分の絆、自分の居場所。綺麗なものを、ただそのままで私の手元に置いておきたい。宝物を手放したくないし、それが『がらくた』だなんて認めたくないんです」


 ゲーム機を脇に置くと、コルセスカは寝台の上を移動してそっと距離を縮めてきた。眼帯を外すと間近から俺の顔を覗き込んで、剥き出しの右目で俺を見据える。

 ありのままの表情と眼差しで、決意を振り絞るようにして告げた。


「ねえ、アキラ。私が大人になる振り――手伝ってくれませんか」


「それは」


「大人がするようなこと。私と、して下さい」


 距離が縮まっていく。

 見せつけられた無数の幻影が脳裏を過ぎる。

 睦み合う幾組もの男女。


 どうでもいいと、そう思った。

 夥しい過去はいらない。

 他の物語と切り離された、この瞬間だけが真実だと俺は信じた。


 照明が落とされて、誰かの目を盗むように、密やかに二つの影が重なっていく。

 言語魔術師としてのコルセスカがあらゆる室内の情報を外部から遮断した。

 そうして、その世界の有り様を知るのは俺たち二人だけとなり。

 あとは、全てが夜の闇に隠れて消えた。

















「つ、遂にレーティングの壁を越えてしまいました! ここからは未知の領域、まだ見ぬ名作の数々が私たちを待っています! 大丈夫、アキラは大人なので違法じゃないです」


「一緒にプレイしたら違法じゃねえの?」


「許されざる犯罪行為――なんという背徳感でしょう。あ、なんか罪悪感まで」


「やらなきゃいいのに」


 というか俺、この世界ではまだ一歳にもなっていないんだが。

 ただ、前世もカウントするとコルセスカとか千どころか万を軽く超えるよな多分。それも現在進行形で増加しているはずだ。コルセスカというキャラクターが引用されるたび、新たな人生が加算されるわけだから。彼女が参照する『前世』というのは、現在も生まれているし、これからも生まれていくのだ。


「えっとですね、こっちは戦略シミュレーションで資源管理がシビアな本格派で、こっちは実は全年齢版も出てるんですけど改悪されたと評判が悪くて、手を出すのを控えていたやつで――あ、違いますよ! 情報は間接的に仕入れていただけで、閲覧したら駄目な公式のページとかは見てません。ほんとですよ?」


 はいはい、そういうことにしておきますよ。

 ――いや、知ってた。まあこんな事じゃないだろうかと思ってた。

 だから別に、拍子抜けして落胆とかはしてない。トリシューラのいない間にとかちょっと思ったけど無かったことにして欲しい。

 

「うわ、いきなりすごい――」


 頬を染めて片手で顔を隠すが、巨大な目は掌で隠し切れていなかった。

 ばっちりと画面を凝視しながら、抑えめのアレな音声が室内に響く。

 何で俺、コルセスカと並んでエロゲーやってるんだろう。


 この手のものには明るくないが、こういった需要は人間に性欲がある限り尽きることがないのだろう。呪術的な技術を駆使したありとあらゆる快楽の追求によって、独特な文化が形成されているようだった。


 男性向け女性向けを問わずに俺の名義でダウンロード購入したコルセスカは、水を得た魚のように活き活きとゲームをプレイする。

 どうも自分がやると犯罪である、という罪の意識に耐えきれなくなったらしく、後ろから俺の両手を支えながら操り、俺の視界をジャックして間接的に画面を見るという方法をとることにしたようだ。それでいいのか。


「今夜は寝かしませんから」


「ああ、うん。もう好きにしてくれ」


 全てを諦めてコルセスカに身を委ねる。

 この肉体も精神も、何もかも彼女のものだ。

 彼女が楽しみたいというのなら、最後まで付き合うだけ。

 たとえそれが、ダンジョンを踏破して火竜を退治するというゲームであっても。


 彼女と共にゲームの世界に没入する覚悟を固めた時、後ろにいるコルセスカが俺の背中に顔を埋めて、小さく呟いた。


「ほんとに、大人にしてくれても――」


「聞かなかった振りはしないけど、いいか」


「だだだだ駄目です! まだ出会って三ヶ月しか経ってません! 一年、最低でも一年はじっくりとお互いを知ってから――!」


 こいつ、日に二度もヘタレやがった。

 いやまあいいけど。俺も何度もヘタレて逃げたからいいけど。

 どうやらコルセスカは、攻略するのは得意でもその先については苦手らしい。


 百戦錬磨なのは全年齢のゲームの中だけのようだった。

 直前で耐えきれなくなって、『経験を積んでから!』などと訳の分からないことを言い出したのも、それを考えれば無理もない。


 追求したら今度はその手のゲームを俺に大量購入させたのだが、さて、これを全部プレイし終わって名実共に『百戦錬磨』になったあと、もう一度ヘタレるのか、そうはならないのか。


 どちらにしても、最後まで付き合うだけだ。

 夜を徹する覚悟を決めて、ゲーム機に向き合う。


「あ、なんか死んだ。攻略サイトは――」


「駄目! それは駄目です! サイバーカラテユーザーの思考をゲームに持ち込まないで下さい! 身一つで体当たりするのが私のプレイスタイル!」


 なんて面倒くさい奴だ、と思ったが口には出さない。

 それに、彼女の面白さはここにある。

 背中の感触が、たまらなく好ましく、愛おしいと思った。






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