3-29 黒百合の子供たち
「起きたか」
目覚めたナトは、まず自分が生きている事に驚き、続いてペイルとイルスまでもがいることに気付いて思わず身を起こそうとした。
失敗する。手足の感覚が無く、腹筋と上体の弾みだけで起き上がるのは難しい。
破損した神働装甲は少し離れた場所に置かれていた。ラーゼフ・ピュクシスとその部下たちが破損部位を予備の部品に交換する作業を急いでいる様子だ。ペイルが重い装甲を持ち上げてその手伝いをしている。
そこは時の尖塔にほど近い場所にある、第一区の研究施設。
第六騎士修道会――智神の盾が管理する装備開発のための一室だった。
場所が無いのか、ナト以外にも負傷者たちが床に寝かされている。直属の上司である第十五位の修道騎士ディセクターもまたそこにいた。
イルスをはじめとした医療修道士たちが忙しく駆け回っている。
「久しいな、ナト・バン・ハルバーリ・ファザ・カフラよ」
「――やめてくれ、その名前で呼ぶのは」
心底から嫌そうな表情を作りながら視線を向けた先に、精悍な顔立ちの男性が立っていた。
「馬は外かい」
「あのピュクシスとかいう者が嫌がったのでな。他の者たちは外で情報を集め、無事な者たちをこちらに誘導している」
草の民。
キャカールの大草原を移動する遊牧民たちは、今日の葬送式典に招かれ、この混乱に巻き込まれた。
しかし彼らは冷静に馬を駆り、死人たちを蹴散らしながら無事な者たちを救出していった。
三本足の使い魔として大量の呪力を宿す馬たちに群がる死人たちを、強風を纏って次々と吹き飛ばしていく草の民たちに、人々は全力で縋った。
通信網が引き裂かれ、混乱のただ中にあるエルネトモランを圧倒的な機動力で縦横無尽に駆け抜ける騎馬民族たち。
彼らは迅速に情報を収集し、体勢を整え、電撃的に会場へと乗り込むと魔将サイザクタートに一撃を食らわせ、深追いすることなく負傷者たちを連れて離脱。
部隊を分け、他の魔将たちを分断する作戦が成功していた。
魔将の数が限られている事、配下は知性の低い死人しかいないことが、草の民たちの危険な綱渡りをかろうじて成立させたのである。
「例のカラスはどうした」
「死んだよ、ちょっと前にね」
「そうか。半身に先立たれるのは我らの定めとはいえ、辛いな」
男は瞑目し、短く草の民流の祈りを捧げた。
それからナトに向かってやや躊躇いがちに問いかける。
「まだ新しい半身は決めていないのだろう? どうだ、帰ってくる気は無いか? ちょうど、空きが出てな。老いた乗り手を失ったが、馬の方はまだ年若い――お前ならば乗りこなせると思うが」
「やめとくよ。俺はもう馬には乗らない」
「そうか。お前といいオルマズのカーズガンといい、優れた勇士ばかりが草原を離れていくな」
ナトは黙してその言葉には何も返さない。
ペイルがナトが目覚めた事に気付いて駆け寄ってくるのを見て、その表情に笑みが浮かんだ。
「当分はこっちにいるつもりだよ。放っておくと死にそうな馬鹿がいるもんでね」
打ちのめされたはずの身体に活を入れて、ナトは弾みを付けて起き上がった。
バランスを崩しかけたその身体を、巨漢の腕が支える。
ラーゼフが神働装甲の修繕を終え、ナトの名を呼んだ。
「失礼、緊急の報告が!」
草の民の伝令がその場に駆け込んでくる。何事かと衆目を集めるが、息を切らせた男はよほど動転しているのか、息も整えずに喋ろうとして咳き込んだ。
深呼吸した彼は、唾を飛ばしながら外で起こりつつある異変を伝えた。
「市街地に別種の死人たちが出現し、死人同士で争っております!」
「何だって?」
思わずナトは聞きかえした。
混迷を極める状況が、大きく動こうとしていた。
「ええい、何なのだ、奴らは!」
「落ち着いて下さい、クエスドレム様」
足の止まった死人の軍勢の中心で、朱大公クエスドレムは激怒していた。
その脇でガルズが魔将を窘める。
ともすればその怒りの巻き添えになりかねないガルズは必死だった。
修道騎士の守りを突破して会場を出た魔将たち。
その場に集結したのは万殺鬼アインノーラ、三つ首の番犬サイザクタート、朱大公クエスドレム、痩せた黒蜥蜴ダエモデク、そしてガルズとマリー。
じきに他の魔将も追いついてくるだろう。
このまま時の尖塔に攻め入り聖女を殺害すれば目的は達成されるのだと息巻く彼らは、正体不明の敵によって行く手を阻まれていた。
ガルズとエスフェイルが使役する死人たちは次々と生者に襲いかかり、呪力を感染させて死人を増やしていき、その勢力を拡大させ続けるはずだった。
しかし、全く同じように感染を続け、更にはそれを上書きしていく新たな死人が出現していた。
彼らは疾走する。
のろのろと蠢く死人たちの手や歯をかいくぐり、人体の限界を超えた腕力で襲いかかってくる死人をも上回る強靱な身体能力で反撃。
更には道具を使い、呪術を発動させ、互いに高度な連携を行い、ある者は飛翔すら可能とした。
古い死人を新たな死人が叩き伏せ、その首筋に噛み付く。
すると腐敗し、破損した死人の傷に肉腫が蠢き、急速に再生していく。
魔将たちが新たな死人を攻撃していくたびにその肉体は破壊されるが、凄まじい速度で再生を繰り返す死人たちは平然と魔将たちの手から逃れ、古い死人を襲っていく。
クエスドレムとダエモデクによって強化された死人が襲いかかった。肉体の一部が膨張した死人が巨大な腕で新たな死人を圧壊させようとするが、その全身がばらばらに解けたかと思うと、無数の蝙蝠となって強化死人に噛み付いていく。
屍の亜竜が死の瘴気を吐きかけるが、既に死者である新たな死人たちには通じない。彼らはその肉体を霧に変化させると屍亜竜の体内に入り込み、内側から感染を広げる。
市街地の側溝から小さな鼠たちが素早く這い出して、暴れ狂っている屍の愛玩動物たちに噛み付いていく。
急速に感染を拡大させている、全く別勢力の死人たち。
腐敗した肉体ではなく、強靱な再生力で蘇生を繰り返す彼ら彼女らは次々とガルズとエスフェイルが生み出した死人に噛み付くと、逆に感染させていく。
追いついたエスフェイルとユネクティアが状況を見て愕然とする。
「あれは、もしや」
「間違い無い。してやられたよ。戦場の内側に気を取られて外側を見ていなかったのは僕らの方だったみたいだね」
新たな死人たちの口には、血が滴る長い犬歯――否、牙が生えていた。
どこからか、狂ったような哄笑が響き渡る。
『キャッハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』
同時刻、第一区の宝石店で巨大な呪力が爆発し、天を衝く光の柱が立ち上った。
エスフェイルはその光景を見て、愕然と目を見開く。
闇の中で、九つの衝撃が同時に叩き込まれる。
暗視能力でもあるのか、魔将ピッチャールーは正確無比な打撃によって遂にメイファーラの短槍を弾き飛ばし、耐久力の限界を迎えた丸盾を破壊した。
後退し続けるメイファーラは、背中を壁に預けながら荒く息を吐く。
もはや退路は無い。
九本の腕による多方向からの一撃を受ければ、その身体はばらばらに引き裂かれるだろう。いかに天眼の民が超知覚によって未来予知めいた回避を行うと言っても、回避不能の未来までは覆せない。
メイファーラの表情に、諦めが広がっていく。
「ここまで、か」
メイファーラは目を瞑って、指先を額に当てた。
その身体から呪力が放出される。呪術の予兆を感知したピッチャールーは自動的に対呪術用の攻撃端末を吐き出していく。
放たれた呪術を吸い込んで防御をするばかりでなく、発動の予兆を感知して敵に殺到して爆発するという高性能な兵器。
だがその自動的な反応が、九本の腕が攻撃をするまでの一瞬の間を作り出した。
メイファーラの背後に、淡い光を放つ半透明の女性が出現した。
その雰囲気、顔立ちはどこかメイファーラに似ている。
アストラル体はそのままメイファーラの身体に重なり、内側に入り込む。
憑依型の寄生異獣。
きぐるみの魔女トリシューラが体系化した寄生異獣の技術は、実際の所は以前から存在した使い魔や霊体の使役を体系内部に位置付けただけに過ぎない。
きぐるみの魔女がもたらしたのは、擬態型の寄生異獣によって異なる生命を肉体に宿し、四肢の代わりにするという技術のみ。
それによって使い魔を掌握する精度や霊体に逆に支配される危険性も減ったものの、きぐるみの魔女が現れる前から二つの技術は利用されていた。
ペイルのように、倒してきた相手の怨念や呪詛を自らの鎧として纏い、外部からの悪意を防ぐという発想は極めて古いものだ。
ハルベルトの呪いによって呪いを弾くという発想にも近い。
あるいは、守護霊や祖霊と言われる霊体を憑かせて身を守る事もごく日常的に行われている。家族や一族といった血を重んじる呪術師たちは、常に自分たちが先祖に守られていると信じ、その信仰心が力となるのである。
それらは広義の憑依型寄生異獣であり、別段珍しいものではない。
だが、メイファーラは出現させた霊体を纏うのではなく、身体の中に完全に入り込ませた。
鎧を着込むと言うよりも、自らを鎧にするように。
あるいは、それは器と言うべきだろうか。
黒百合の子供たちは、そのほとんどが霊媒としての素質を有する。
その中で、メイファーラだけは特に第七位の天使シャルマキヒュの霊媒ということもなく、ごく普通の子供であるとされていた。
それは間違いではない。
彼女は確かに、シャルマキヒュの霊媒ではなかった。
「隔世よ――【ユディーア】」
――精神感応とは、大量の情報を心身の内側に取り込む技術である。
ならばそれを得意とするメイファーラは、情報の媒介者と呼べるのではないか。
瓜二つの顔、体格をした女性の片方だけの髪の房が、揺れるメイファーラの髪の一本にまで完全に一致し、浸透する。
直後、攻撃端末が殺到して爆発。
更に次々と叩き込まれる九本の腕。
魔将ピッチャールーは機械的に相手を完全に消滅させた事を確認。
戦闘が終了したと見なし、地上へと戻り他の魔将と合流すべく動き始める。
その、瞬間。
「ごめんね」
腕の一本が、勢いよく斬り飛ばされた。
理解不能の一撃。
予想外の事態に、しかしピッチャールーは即座に反応。
ぐるぐると回転しながら腕を縦横無尽に振り回す【旋回】が奈落の闇に破壊を振りまく。
しかし、その無軌道な破壊の渦を全て正確に把握して、鮮やかな反撃が魔将の眼球を、そして腕を引き裂いていく。
槍ではない。
数本に分かれた短い刃。
短剣? 否、そうではない。爪だ。
ピッチャールーは相手の不意を突くべく口から閃光弾を発射した。
強い光が奈落の底を照らし、正体不明の襲撃者の姿を露わにする。
「うー。見られると困るんだけど」
あまり危機感がない、暢気な少女の声。
前傾姿勢で身を低くした二足歩行の影。
その黒い目が淡い光を宿した。
「でも運がいいや。相手が機械の貴方で――ここが人気の無い場所でよかった」
刃のように鋭い爪が、光を反射して獰猛に輝く。
床を踏みしめる脚もまた強靱にして危険な刃を有しており、全身は灰色の鱗で覆われている。
全体的には霊長類に似た姿でありながら、手足や肌、尻尾や頭部といった特徴的な部分は爬虫類のそれ。
長い尻尾で全身のバランスをとり、灰蜥蜴人は床を踏み抜きながら疾駆する。恐るべき速度で猛攻をかいくぐるとすれ違いざまに爪による斬撃を加えていった。
頭部の右側から、長く長く伸び上がった見事な角が後方に向けて生えている。
蜥蜴人の上位種、亜竜人の証たる二つの角は片方が根元で折れ、綺麗な断面を晒していた。
背後に伸びていく右側の角が、髪の一房のように棚引いたように見えたのは、光の悪戯だろうか。
角の根本には眼球のような天眼石の飾りが輝いている。
そのシルエットは依然として左右非対称。
「ごめんねー。あたし、ここではまだ死ねないんだー」
少しだけ崩れた一人称の発音で、亜竜人の少女が古代兵器を引き裂いていく。
変身者。
肉体を変異させる能力には様々な変種がある。
その中でも天眼の民の変身は古代の血を『思い出す』ことで発動する。
古代の血とは、霊長類と混血を繰り返して現在の姿を獲得する以前の種の記憶。
一族の祖霊の力によって、祖先の形質を強制的に発現させ、一時的な突然変異として覚醒する能力。
先祖返り。
霊的外部記憶装置の参照。
一族が積み重ねてきた後天的な獲得形質すら継承するその能力は、身体能力、呪術適性、それらを使いこなす技術の全てを飛躍的に向上させる。
先祖たちが己を鍛え上げ、知識を集積させてきたその全ての経験を参照し、自らの力にできるからだ。
それは、祖となった一人が不老不死となり、気の遠くなるような時間、ひたすらに自らを鍛え続けた結果として得られる力に等しい。
『過去』という膨大な時間から呪力を引き出す『灰』の色号が鈍い光を鉤爪に収束させる。
黒い両目が爛々と光り、額で不可視の第三眼が可視域を超えた閃光を放った。
その刹那、世界が凍り付いた。
――天眼の民に加護を与えるシャルマキヒュ本来の権能は天眼だけでない。
それは【凍視】と呼ばれる時間停止能力であり、これは「無秩序な混沌である全ての分子運動を未来永劫に渡って把握することは不可能でも、時間と空間を限定すれば可能である」とする己の能力への確信によるものである。
天眼の機能を超過駆動させることによって引き起こされる擬似的な時間停止。
これは受動型でありながら投射型の邪視と同等の効果を発揮するという極めて高度な技術であり、神話の時代より天眼の民からは失われていた。
【シャルマキヒュの凍視】という高位呪術は本来の姿を失い、投射型の邪視者が対象を束縛する呪術として扱われるようになって久しい。
奈落という閉鎖された極微空間に満ちる塵の一つ一つ、粒子の微細な存在を完全に把握した天眼の民は、その動きを完璧に近い精度で予測。
極めて高精度な予測演算は彼女の中で『世界を三秒先まで把握している』という確信を抱かせ、内的宇宙から溢れ出した確信は閉鎖空間を浸食して擬似的な浄界を構築する。
魔将の動きが停止する。
たった三秒。されど戦場の三秒は勝敗を左右しうる。
停滞した状況で一人だけが動けるのなら、回避不能の攻撃を逃れ、反撃を行う事すら可能だろう。
そして、致命的な一撃を与えることも。
天眼をオーバークロックして灰色の光を纏わせた爪を魔将の胴体に突き入れる。
【シャルマキヒュの凍視】からの【殺戮】という鮮やかな連続攻撃。
天眼を輝かせる亜竜人の手から、魔将の時間が吸い取られていく。
「あたしのこの姿を見た人は、みーんな忘れちゃうんだよー」
相手の積み重ねた時間、戦闘経験を奪い我がものとする【生命吸収】が発動。
時間停止が解除され、魔将が気がついた時には状況を認識することすら困難になっていた。
ピッチャールーが蓄積していた戦闘記録が残らず消失していき、目の前の敵対者の輪郭すらあやふやになっていく。
異常な事態が進行していることだけを理解したピッチャールーは緊急用の離脱機能を作動させる。
手足を畳み込むと、筒状の胴体の下部から呪力噴射を行い飛翔。
勢いよく奈落から地上へと飛び上がり逃亡していく。
「おっと」
降り注ぐ月明かりから逃れ、闇の中で小さく呟いた。
「あとはお任せ、かな」
朗らかな声は、奈落の底で消える。
その正体を記憶している者は、誰もいない。
薬をキメた。
盛大に炎上し、母親に泣かれ、親戚に馬鹿にされ、ガルズに優しく窘められて以来、もうやるまいと思っていた。
もちろんミルーニャにも二度とやるなと厳重に注意されていた。
だが、今はそのミルーニャの許可が下りている。
彼女が厳格に管理する霊薬が注射針を伝ってリーナの腕に浸透していくと同時、どくんと心臓の音が鳴り響いて全身の『血』に満ちた呪力が活発化する。
背後から迫り来る最速の魔将。
その脅威から逃れるべく、違法霊薬がリーナ・ゾラ・クロウサーに限界を超えた力を発揮させる。
アストラル投射の限界速度を突破して、物理的実体が非現実に追随する。
「言理飛翔・十倍加速!」
『落ちこぼれ』と言われていた。
【空使い】のくせに。ゾラの血族のくせに。
――どうしてお前はそんな耳なのだ。
――どうしてそんなにのろまなのか。
――所詮はカラスとの『合いの子』か。
――箒にまたがっているのがお似合いだ。
――ああ、箒で飛ぶ事を馬鹿にしているわけではないぞ?
――あれは立派な競技だからな。
――せいぜい制限された速度の中で技術でも競っていればいい。
――ええ? ゾラのくせに生身で箒よりも遅い落ちこぼれがいるだって?
心身にかかる負荷は全て無視。
リーナはすぐそばにいるミルーニャを振り落とさないように最大の注意を傾けて、結界を維持しつつ暗黒の浄界を飛翔する。
――だからと言って、違法霊薬に手を出して何になるんですか。喧嘩を売ってきた連中を見返してやろうとしたのはまあいいですけど、やり方がまずいです。冗談じゃ済まないんですよ? 盗んだのが私の所だったからまだ何とかなったものの、いえ、そういうことではなく。
背後から追撃する魔将に、半分だけ血の繋がった姉が大量の呪具で攻撃を加える。厳しくて怖いけれど、彼女とはずっと一緒だった。
しかし、全て容易く防がれ、弾かれ、跳ね返される。
背後から迫る怒濤の反撃を、必死になって躱す。
――貴方は、本当ならもっと高く飛べるはずですよ。今はまだ思い出せないでしょうけどね。別に慰めとかじゃありません。端的な過去の事実です。ああもう、泣かないで下さいよ。仕方無いですね、少し手伝ってあげますから。
ミルーニャによる違法ぎりぎりの調律改造を施された箒によって、リーナは今までに無い速さを得ることができた。
浮かれてはしゃいで、毎日のように乗り回して。
気付けばぼろぼろになって、その度に修理して貰って。
道具としての限界が来ても乗り続けた、それはこの上なく大切な宝物。
リーナにとって、家族という居場所は己を束縛する鎖だった。
けれど、半分だけ血が繋がったアルタネイフ家は――クロウサー家の外側にある、もうひとつの家族はそうではないと思えた。
空を飛んでいる時だけが自由だった。
ミルーニャが与えてくれた箒と空が、リーナはたまらなく好きだったのだ。
「二十倍加速!!」
加速を繰り返していくと、やがて同じように魔将から逃げ続ける他の空の民たちと同じ速度域に到達した。
彼らは重力の偏向を引き起こす特殊な【空圧】を発動させて宇宙空間を疾走する魔将サジェリミーナを牽制し続けていた。
広大無辺の暗黒を、空の民たちが飛翔する。
いずれも劣らぬクロウサー家の精鋭たち。
その中でも翼耳を有するゾラの血族たちの標準速度は音速の五倍――極超音速。
リーナの【言理飛翔】はもちろんその標準速度を基準にした加速である。
訓練された修道騎士とクロウサー家の最精鋭たる空の民たちは、音速の百倍という超高速で戦闘を行う。
その間の通信は、基本的に【心話】もしくは光学呪文表示によって行われる。
地上における最速を体現する彼らを易々と追い越し、切り裂いていくのは第五魔将サジェリミーナ。
地獄における最速と呼ばれた銀霊の魔将は満身創痍の空の民たちを鎌状の刃で次々と斬殺していく。
それでも、飛翔するリーナとミルーニャの二人を守る為に空の民たちは必死に魔将に立ち向かう。
いずれも既に満身創痍。
ここに至るまでに激しい戦いを繰り広げてきたのである。
サジェリミーナの浄界、【創生の闇】が発動した直後。
魔将が放った初撃は凄まじい熱を炸裂させたが、それは警告が間に合ったために完全に遮断された。
しかし電離放射線の遮断に失敗した者たちは肌を糜爛させ、目や鼻や口から大量の血を流しながら倒れていった。
ミルーニャの霊薬と治癒符、広域守護の巻物が意識を失って大気の結界を維持できなくなった者たちを保護する。
だが、それによって彼女はこの場で最も厄介な相手に目を付けられてしまう。
地獄最速の脅威に追いかけられながら、リーナはミルーニャを前に乗せて箒で宇宙を駆け抜ける。
大気のない空間を飛ぶ為の推進剤は、ミルーニャが用意していた大量の呪石弾である。
『ハハハ! 遅い遅い、追いかけっこはこれでおしまい!』
前方に回り込んだ銀霊に、横合いから襲いかかるのは異形の獣。
鷲、鷹、鳶など様々な鳥類の頭部と翼に、獅子や馬といった獣の身体を持った獣たちが、高度な呪術によって宇宙空間を疾走し、次々と魔将に体当たりを仕掛けたのだ。
『何をやっている、のろまな落ちこぼれめ! さっさとそいつから離れろ!』
帽子を被った空の民たちがリーナらの窮地を救う。
エジーメの血族の男は帽子の中から小さな使い魔を出現させると、呪術によって巨大化させて魔将にけしかける。
『そこの女には何か策があるのだろう! いいから構うな、行け! 時間は我々が稼いでやる!』
『ハハハ! どうやって稼ぐのかな?』
サジェリミーナが双頭の蛇が絡まった杖を一振りすると、暗黒の彼方から無数の宇宙塵が殺到する。
凄まじい速度で飛来した微粒子の群れによって屈強な使い魔たちが全身を引き裂かれ、その後ろの空の民もまた同様の末路を辿る。
『貴様、よくもユバを!』
空の民たちは魔将を結界内部に取り込み、重力を操作して結界の端に押しやった。帽子の中から解き放たれたのは大量の軟泥。
その粘性の流動体に取り込まれたら最後、溶解して死亡する他は無い。
だが必殺の攻撃を、魔将サジェリミーナは意にも介さない。
軟泥は水銀の帽子の中に吸い込まれて消えてしまう。
高密度の呪力を纏った流動する水銀が自在に動き回り、高圧の刃となってエジーメの血族とその使い魔たちを切り刻む。
『リーナ、急いで離れて!』
護符をばらまきながら光学呪文で意思を伝えるミルーニャの指示を信じて、リーナは箒を走らせる。
暗黒の彼方から降り注ぐ隕石の超質量が修道騎士たちを鎧ごと圧殺していく。
星間物質を媒介して広大な宇宙全域に散布された魔将の圧倒的呪力が戦場を完全に支配していた。
二酸化珪素によって構成された巨大水晶の柱が上下左右から飛来して逃げ場を奪う。呪文円から召喚された恒星表面から立ち上る紅の炎と硬質な岩石が迫り来る。
『無駄だよ無駄だ。フィレクティ閣下から直接教えを賜った私の占星術は望むままに惑星の配列すら支配する――このように』
巨大な暗黒宇宙の中心たるサジェリミーナを観測者として、浄界内部の天球座標が凄まじい勢いで書き換えられていく。
天体の運行から意味を見出す占星術と己の認識で世界を書き換える邪視とが複合し、サジェリミーナの宇宙では天体は創造主に都合のいい配置に移動していく。
『出でよ、非情なる三角錐!』
錬金術の守護天使たるペレケテンヌルを象徴する三角形の配列が完成した。
作り出された次元の裂け目から、全身を破損して自己修復作業中の機械天使が出現する。光学素子が発光して、無茶をさせるなと非難の意思表示。
『おやあ?』
必殺を期した召喚術は、機械天使が戦える状態になかったことで不発に終わる。そのまま異次元の向こうへと帰って行くペレケテンヌルを見送りながら首を傾げるサジェリミーナに、ミルーニャの攻撃が直撃する。
『間抜けっ、左手親指解錠! 【黎明稲妻】っ!』
爪が弾き飛ばされると同時、【球電】が闇を引き裂いて魔将に直撃。
しかし、錬金術を窮め尽くした魔将にそのような呪術は通用しない。杖の一振りで電撃が消滅する。
光の線で結ばれた星々が象徴的な星座を作り出し、ありとあらゆる意味が発生し続ける。無限に増幅される呪力が宇宙規模の破壊を生み出し、一つの惑星を軽々と打ち砕き、連鎖的に恒星を中心とした惑星系が次々と破砕されていく。
逃れ得ぬ破滅。
リーナやミルーニャたちが恐るべき魔将の猛攻を凌ぎきることができているのは、まずサジェリミーナが遊んでいることが一つ。
もう一つの理由は、ミルーニャが使用している模造神滅具、【成し得ぬ盾】の模造品――というよりも改良品のお陰である。
伝承によれば、本物は盾を砕いた者の魂を打ち砕き、同時に持ち主の魂を砕くという道連れの呪具。
ミルーニャはその伝承を逆に解釈し、『攻撃者と防御者が無事である限り決して砕けぬ盾』、『すなわち盾が無事ならば両者は絶対に傷つく事が無い』という絶対防御を実現した。
欠点は、効果発動中は敵対者を傷つける事まで出来なくなってしまうこと。
効果範囲が自分を中心としたごく狭い領域でしかないこと。
あくまでも状況を停滞させる為の防具であり、相手を倒す為には絶対防御を解除するしかないのである。
そして、最後の一つの要因は。
『うわああああ無理無理無理もう絶対死ぬ! っていうか無茶過ぎるよこれええええ! 他の魔将ってここまで無茶な強さじゃないよね多分?! 私らだけ罰ゲーム過ぎるうううう!!』
『視界がうるさいですよ! いいから加速! 加速です!』
『わかってるってば! 言理飛翔、三十倍加速!』
標準速度――極超音速から三十倍に加速する。
音速の百五十倍。
恐るべき破壊から生き延びる事に成功しているのは、この速度ゆえだ。
だが、その圧倒的速度域に軽々と追随してくる魔将は、リーナにとってもはや悪夢の具現にしか思えなかった。
『ハハハ! お返しだ!』
超高速移動を行いながら高位呪術たる【心話】を同時に操って摸倣子を媒介して直接意思を伝え、更に水銀の刃や【球電】による攻撃を次々と繰り出してくるサジェリミーナ。
高速移動しながら魔将は杖を掲げる。
すると景色が一瞬で切り替わり、そこは暗黒の宇宙ではなく無窮の蒼穹と変幻自在の雲、そして大地が広がる世界となった。
『地上?!』
空間転移――ではない。
サジェリミーナが世界の座標を書き換えたのだ。
『ここがどこか』という現実は、創造主たる魔将の意のままということだった。
箒の周囲に展開している結界が大気の断熱圧縮によって熱の壁に掴まるが、高度な呪術障壁によって容易く克服。この速度域を突破できる強力な空の民たちは誰でも加速以上に強力な呪術障壁を習得している。
『大気さえあればこっちのものだ!』
いつの間にか同じように空間を転移させられていた空の民たちが風を操って様々な呪術を魔将に叩き込む。
もちろん、光速の通信によってミルーニャは既に絶対防御を解除している。
その中の一人、試作型神働装甲一型を身に纏った修道騎士が短杖を手に突撃した。大気の鎧が水銀の刃を、球状の電撃を遮断していく。
修道騎士は短杖をくるくると回転させた。
すると、その動きに従って杖が巨大化。呪文による質量操作と邪視による事象改変によって巨大な棍棒――否、柱になった質量体を魔将に叩き込む。
杖の適性を併せ持った、空の民と三本足の民との混血。
呪具である柱が内蔵された錬金回路を作動させ、同じく錬金術によって維持された魔将の水銀に干渉する。
発動媒体である杖が巨大化したことによって効果範囲が拡大した必殺の一撃。
錬金術のメソッドによる対抗呪文【静謐】は対象を原子レベルにまで分解する。
流体によって構成されたサジェリミーナの全身が解体されていく。
かつて銀霊という強力な異獣をほとんど壊滅状態にまで追い込んだ超高位呪術が銀霊の始祖に炸裂。
『この私が、そんな馬鹿なああああ!!』
絶叫を上げながら飛散して、全く同じ呪術で修道騎士を分解していく魔将。
極小にまで分解された無数のサジェリミーナが一斉に馬鹿笑いする。
更に宇宙のありとあらゆる天体が姿を変え、地上が、海が、空が、雲が、星々の配置が、サジェリミーナの顔を形成して笑い出す。
『私こそは不滅の化身にしてジャッフハリム最大の錬金術師サジェリミーナ・ウィ・サジェミリーナ。ややこしいから愛称でススと呼ぶ者もいるね』
『やっぱ被ってたじゃん!』
天に輝く星の全てがサジェリミーナ座となって創造主に力を与えているのだった。苦しみ、のたうち回る演技をしながら即死級の攻撃を無造作にばらまき続ける魔将に、この浄界の中で勝てる道理は無い。
『も、もう終わりだあああ修道騎士の精鋭部隊とクロウサー家に立ち向かうなんて最初から無謀だったんだああああ死んでしまううううう』
そんなことを口にする魔将の背後で火山が大噴火を起こし、不自然な軌道を描いた溶岩が高速でリーナたちを追尾してくる。
『くっそー、あいつ馬鹿にしやがって!』
『挑発に乗らない! それより準備完了です! 『あれ』行きますよ!』
『よっしゃ待ってた!』
ミルーニャの合図に従って、今まで逃げ続けていた箒の向きが反転する。
リーナがまず呪文による音声認証で第一安全装置を解除し、続いて箒のヘッド部分に隠された第二安全装置を解除。
ミルーニャの承認によって隠された機能が解放される。
アルタネイフの錬金術と、クロウサーの呪文による質量操作の融合。
箒が流体のように溶けて二人を包み込み、質量を増しながら全く異質な形へと瞬時に変貌していく。
それは、巨大な白いカラスだった。
修道騎士ナトが使用していた神働装甲を更に二回りほど巨大にして、より速度を追求したような鋭角なシルエット。
白を基調としながらも細部に藍などの青系統の色彩を交えた優美な外観。
長い嘴から続く流線的な全身は唯一箒の名残を残す金色の尾で終わっている。
左右に広がる翼は大気を両断する鋭角な刃。
機体下部に接続された巨大な砲塔は、三本目の足を連想させた。
『霊魂導子の励起状態を確認。アストラルエンジン起動!』
『おっしゃーぶっ飛ばす!』
右翼に刻まれた呪文【思考】と左翼に刻まれた呪文【記憶】がそれぞれの意味を掌握し、超高速で演算を行いながら搭乗者二人の保有呪力を推進力に変換。
機体の操縦を担当するリーナが魔将に突撃。
水銀の身体が周囲に張り巡らされた球状結界に捕獲される。
相対位置を固定されたまま、機体前方で笑いながら【心話】によって呪文を紡ぐ魔将に、火器管制担当のミルーニャが攻撃。
嘴内部から迫り出した砲身から呪術の光が溢れ出す。
『【ヲルヴォーレの雷火】発射っ!』
あらゆるものを焼き滅ぼす荷電粒子の砲撃を、繰り返すこと七回。
成し得ぬ盾による絶対防御を解除しての危険極まりない攻撃。
無防備な瞬間を狙った錬金術と占星術の反撃ごと貫いて、水銀の身体に大穴が空き、呪術を発動させる鍵となる帽子、鎌、杖が一時的に破壊される。
その一瞬、魔将本体が無防備な状態となる。
反撃が出来ない魔将を四十倍の加速で一気に運び、最前まさしく魔将が噴火させた火口へと突っ込んでいく。
黒々とした噴煙を切り裂き、水蒸気、火山灰、火山岩などが摩擦して発生する火山雷の中を真下へと飛翔しながら、超高熱、超高圧のマグマ溜りへと突入。
あらゆる生物が死を免れないその空間を、成し得ぬ盾の模造品によって生存したまま突き抜けていく。
『は、予想通り! ふっるい球形大地の宇宙観を内面化してましたね!』
ミルーニャは思惑通りに惑星の地殻、マントル、中心核へと潜行していることを確認して邪悪な笑みを浮かべた。
魔将サジェリミーナが生まれた年代は、最低でも銀霊という種族が確認された時期よりも前である。
それは世界が球状だったころ。
サジェリミーナが展開する浄界は、その常識を基準として構築されている。
事前に参照していた魔将の資料と占星術による攻撃方法からその事を看破したミルーニャは、絶え間ない移動でひたすらに世界の中心、すなわち観測者視点での基準となる有人惑星を目指した。
必ずそれは存在する。
錬金術師であるミルーニャにはその確信があった。
なぜならば、錬金術という杖の呪術は観測者がいなければ成立できないからだ。
誰も観測者の観測者になることはできない。
液体の外核を突き抜けて、個体の内核に到達。
恒星の表面温度にも等しい灼熱の金属核に押しつけられた魔将の鼻先にカラスの三本足が突きつけられる。
『アルタネイフとクロウサーと智神の盾、その叡智の結晶を受けて死ねっ! プロトプラズマ収束弾、接射!』
機体下部の砲身から魔将に向けて直接発射された表意文字。
絵の如き文字群の中から更に小型の形態素が大量にばらまかれ、それらが瞬時にプラズマ化していく。
プラズマ化した無数の自由形態素が魔将に直撃するが、成し得ぬ盾の絶対防御は両者を完全に守り続ける。
そしてミルーニャは狂気の行いに出た。
まず左手小指の【極寒奏鳴曲】と右手小指の【繁茂の粉塵宝玉】を同時に解放し、二つの模造神滅具を惑星の中心核に叩き込んだ。
氷の腕とプラズマ弾が大量に複製されて視界の彼方まで覆い尽くしていく。
それと同時に、成し得ぬ盾の絶対防御を解除したのである。
魔将を守っていた矛盾論理の障壁が崩壊し、圧倒的な攻撃と中心核の灼熱が前後からサジェリミーナに襲いかかる。
当然のように二人を乗せたカラス型の箒にも破滅の猛威が襲いかかる。
自爆覚悟の捨て身の戦術としか思えない無謀な行動。
しかし、次の瞬間。
遠く離れた暗黒の宇宙に無数の粒子が集まったかと思うと、それは白い三本足のカラスの流麗な機体を再構成していた。
『模造神滅具、【雲霞の鎧】による摸倣子テレポート。ぶっつけ本番でしたが、上手く行きましたね』
『怖い怖い超絶怖かったよー! 死ぬかと思ったぁー!』
外側から、その現象は『非実体の二人に実体が追いついた』ように見えた。
アストラル体のみを安全地帯に飛ばしていた二人は、遠隔操縦で機体を操作。機体と肉体を瞬時に分解し、アルトラル体の下に引き寄せ、再構成したのである。
『ハハハ! 無駄だよ無駄。この世界そのものである私は不滅だ!』
『その不滅っていうのは、この宇宙限定のことなんでしょう?』
『何?』
星座を結ぶ光線を顔の形にして嘲笑するサジェリミーナに、冷淡な瞳を向けるミルーニャ。
その指先に光るのは、複雑な呪文の式だ。
『なら宇宙全体を殺してしまえばいい。神話の火竜退治になぞらえて、疑似氷血呪によって貴方の呪術発動媒体は封印しました。プロトプラズマ収束弾の本領はここからですよ』
サジェリミーナの浄界【創生の闇】は発動者の内的宇宙で世界を浸食したものである。
浄界を維持している間は神の如き力を振るえるが、言い換えれば体内に敵を取り込んでいるに等しい。
この世界は一つの生物、一つの生命が形作る系である。
ならばそれは、ミルーニャが専門とする領域である。
観測基準たる惑星、すなわち世界の心臓にして脳たる中心核に撃ち込まれた原形質の呪文構造体が一斉に活動を開始。
それらは複数の状態に分化していき、アストラルのエクトプラズマやミルーニャの万能細胞を再現したネオエクトプラズマとなって浄界の基礎構造に侵入。
自己増殖、自己分化、自己再生、自己複製を繰り返す最悪の癌細胞が、サジェリミーナの宇宙を浸食していく。
『ハハハ! ハハ、ハ?』
笑い続ける星座が歪み、無数に存在する星々の輝きが次々と消えていく。
世界が、宇宙が、静かに終焉を迎えようとしていた。
正常な『生から死』というサイクルを維持できず、ただ膨張と拡大を続けることによって世界そのものの許容量を突破してしまう。
サジェリミーナは不滅にして絶対の存在だ。
しかし、不滅であるがゆえに際限なく増大する呪力を消滅させることができない。新陳代謝を忘れた巨大な宇宙の内部で、肥大化した機能の系同士がぶつかり合い、お互いに阻害し合う。
結果として生まれるのは無限の苦しみと機能不全。
破綻した世界に待つのは、どうしようもない行き止まりだ。
ミルーニャが弾丸として放ったのはサジェリミーナの『世界観』への批判という名の呪文である。
宇宙が引き裂かれ、歪曲し、無数の星々が奇形となっていく。
正常な形を維持できなくなった浄界は、サジェリミーナを内部から破滅に誘おうとしていた。
『いずれ、この世界もこうなります。予測された結末に対して、どうしようもない答えしか用意できなかった私には、はじめから四魔女の資格なんてなかったのかもしれませんね』
ミルーニャの言葉には、勝利の余韻はない。
少しだけ寂しそうに目を伏せる姉を見て、リーナは何か声を掛けようとした。
――その時。
『やあ、流石に驚いた。私の真の浄界にここまで肉薄する者が現れるとは』
余りの事態に、ミルーニャとリーナが愕然と目を見開く。
しかし時既に遅し。
水銀の弾丸が機体を襲い、致命的な損傷を負ったことによりカラスの形態を維持できなくなった箒は元の姿を取り戻す。
歪みきった宇宙の中で、途方もなく巨大な双頭の蛇が二人を見下ろしていた。
その頭部には銀色の帽子。その背には巨大な翼。
ちろちろと見え隠れする舌先から伸びて蠢く、不定形の触手生命体。
その背後には、異形のまま生き続ける宇宙空間が広がっていた。
『奇形化による適応――?! そんな、世界観を見誤った?!』
『ハハハ! 我こそは双頭有翼のサジミェリーナ! 元はと言えば銀霊という種はその為の実験体でね。まあ失敗作だったがね。そこで紀元槍の出番というわけだ!』
無数の水銀を弾丸として撃ち放ちながら【心話】によって語る魔将は、ミルーニャの致命的な呪文によって蝕まれながらも平然としていた。
通用していないのではない。
それすら飲み込んで、一つの宇宙として受け入れているのだ。
『世界の更新! 来るべき世界の終わり! それに対して我が主、ジャッフハリムの国家元首たるレストロオセ様は現行人類の多様性を出来る限り保存したまま新世界へと移行しようとしている! が、私に言わせればそんなものは古い遅いつまらない! 世界を更新するのなら人類も更新するべきだ! 更にその変異はあらゆる環境の激変に対応できるように! 自由自在にして急速でなければならない! 変幻自在の水にして炎にして風にして土!』
苛烈な攻撃を受けながらも、ミルーニャには魔将の言葉に対する一定の理解と共感があった。
人という殻を脱ぎ捨て、全く別の生命へと存在をシフトさせる。
否――もはやそれが『生命』でなくとも構わない。
それが『次』であるのなら。
他系統の呪術師からは異常と蔑まれる極限の思考。
しかし、それこそが杖という思考の枠組みの行き着く先なのだった。
『うるせーぼけ! 勝手に決めるなー!』
『ハハハ! 幼稚だなあ幼稚な世界観だ! 君の飛翔は私には届かない!』
叫ぶリーナの結界は既に限界だった。
立て続けの攻撃により、ついに亀裂が走る。
次に攻撃を受ければ待つのは死だけだ。
双頭の蛇の口から、夥しい数の高圧水銀が発射される。
絶体絶命の窮地。
その時、二人の前方に生き残っていた空の民が躍り出る。
翼耳を生やした女性の姿に、リーナとミルーニャが目を見開く。
手を広げ、結界を張って二人を守ろうとするその女性に、
「お母さん!」
と泣きそうな声で呼びかけるリーナと、一瞬だけ振り向いて微笑む女性。
その姿を見たミルーニャは、迷い無く呪石弾によって箒から飛び上がった。
箒を中心に展開された球状結界から抜け出し、死の放射線が荒れ狂うゼロ気圧の世界へと身を投げ出すと、牽引呪術で女性を――妹の母親を視界に入れないようにしながら真横に押しのける。
次の瞬間、小さな身体に次々と突き刺さる水銀の弾丸。
女性が信じられないものを見るように呆然として、リーナが絶叫する。
抜かりなく起動していたはずの成し得ぬ盾は、サジェリミーナが浄界内部に取り込んだ極寒奏鳴曲によって完全に凍結し、機能停止していた。
『ハハハ! 美しいがどうしようもない家族愛だね! 古い遅いつまらない! 大丈夫さ、錬金術師の悲願は私が為し遂げてあげるからね! 安心して死にたまえ! 塵理論的には永劫の未来でまた会えるよ! さようなら!』
違う。
リーナは叫びたかった。
ミルーニャは、家族愛とかそういうことを考えて行動なんてしていない。
あの誇り高い姉は、自分と違ってそんな事は絶対にしないに決まっている。
彼女は、自らの誇りの為にそうしたのだ。
大切な家族だからそうしなくてはいけない、なんて鎖に縛られた自分たち――クロウサー家とは違う。
ただ自由に。
自分の意思で、自らを不利にする道を選び取る。
余りにも不自由で窮屈そうなのに、どこまでも自由に生きようとするミルーニャのことをそんな風に言われる事がたまらなく嫌で、どうしようもなく苦痛で。
リーナは瞬間、自分が『落ちこぼれ』だということを忘れた。
『言理飛翔・百倍加速!』
クロウサー家、そしてその中でも呪文による飛翔を得意とするゾラの血族たちは、『空』や『飛行』という言葉そのものを支配し、音よりも速く飛ぶ。
呪文使いでありながら音速を超えるゾラが地上において絶大な権力を握っているのは、その力ゆえでもある。
通常は、極超音速に到達すると『呪力圧の壁』に掴まる。
音を超えて伝わる意味の波が、人間の脳に過度の影響を与え、トランス状態に陥らせてしまうのである。
極超音速効果。
この現象の為、ほとんどの知的生命はこの速度域では意識を保つ事ができない。
しかし空の民だけは常にアストラル体がマテリアル体から遊離しかけているという半トランス状態にあり、極超音速効果が悪影響ではなく好影響を及ぼすことが知られている。ゆえに、適性があれば際限なく加速が可能。
箒の周囲に展開された呪術障壁が激しく発熱し、摸倣子が電離していく。
這い這いより先に幽体離脱を覚え、呼吸するようにチャネリングを行う空の民、中でも【空使い】の異名を持つ歴代のゾラ当主はその領域を自由に飛翔する。
【空使い】にとって極超音速は基準となる速度である。
歴代最速と言われたミブリナ・ゾラ・クロウサーは最大で極超音速の百倍。
若かりし頃のサイリウスはそれに迫る九十倍まで加速できたという。
歴代最速と並んだリーナは、過去最高の音速の五百倍の速度で宇宙空間を飛翔し、呪文圧の塊となって水銀の弾丸を全て体当たりで撃墜。
呪文の尾を引いて進む流星が、巨大な水銀の蛇をずたずたに引き裂いていく。
『怖い怖い! だがまだ遅ーい!』
紛れもなく地上最速となったリーナの速度を軽々と凌駕して、巨大な尾による一撃が呪文を纏った結界を弾き飛ばした。
単純な質量攻撃によって次々と小惑星帯を貫通しながら巨大な壁に激突して停止するリーナ。
それはアマルガムによって構成された世界の果ての壁。
リーナを追い詰めるためだけに創造した行き止まりだ。
迫り来る双頭の蛇を前にして、リーナに打つ手はもはや無い。
その時、空の民の生き残りの一人である帽子を被った男が虚空を渡ってリーナに近付いてくる。
満身創痍、もはや生きているのが不思議なくらいの大怪我で、爛れた顔と崩れた肉体からはどんな人物なのか同定することすら難しい。
けれども、唯一無傷のままである帽子を見て、リーナはそれが誰であるのか判別することができた。
『ハルティール!』
『受け取れ、落ちこぼれ!』
投げつけた帽子が粒子となって分解され、リーナの被った三角帽子に吸い込まれていく。
エジーメの血族が司る始祖クロウサーの帽子を持った左手――使い魔に力を与えるその呪術が、限界を超えたリーナに更なる力を与える。
『はは――この俺の力を与えられた次期当主が、俺の力で魔将を打ち倒す――さぞ、痛快な、光景――』
最後まで言い切る事無く、男の瞳から光が失われる。
全ての生命を振り絞った最後の呪術。
死者の遺志が呪いとなり、リーナの全身を夥しい数の呪文が鎖状になって覆い尽くしていく。
嫌悪していた親戚の最後――その光景を目に焼き付けて、リーナはただ箒を強く握りしめた。
帽子の中から落ちた螺旋綴じのノートを全て引き千切り、真正面から双頭の蛇を睨み付ける。
『言理飛翔――』
『ハハハ! 古い遅いつまらない! 新世界には連れて行けないな!』
訪れた終末に相対したリーナは、ただ静かに肉声で呪文を唱えた。
大気を震わせる、余りにも遅いはずの詠唱。
だというのに、それは魔将の認識を凌駕して発動した。
「十七万六千倍加速!」
そして、リーナ・ゾラ・クロウサーという存在は宇宙から消失した。
質量操作には、一つの禁忌がある。
その数値を零にしてはならない。
それは己の存在を否定することであり、呪術を使用している主体をも喪失させかねない極めて危険な行為だからだ。
言葉の上だけでの質量ゼロ。
されど、呪文として形になったそれは現実を書き換えてしまう。
完全な非存在というのは死と同義である。
『ハハハ! 自滅するとは! 頭が悪いのかな! 悪いんだろうね! もう一人が賢かったのに比べると、これはひどい愚者だ! ハハハ!』
嘲笑する魔将。
そして異形の宇宙もまた存在しない者を指して笑い続ける。
『 』を。
『ん? おや? 誰が愚かなんだっけ?』
二つの首を傾げる大蛇。
参照先を見失った呪術師は自らの思考を精査し、エラーが無いかを確認する。
異常なし。
にもかかわらず、参照先は依然として無し。
『おや? おや? おかしいぞ? こんなことは論理的にあり得ない。こんなことは呪術的に起こり得ない』
理解を超越した事態に戸惑う魔将は、己の宇宙が破綻しているのではないかと不安を抱く。
ミルーニャによる必殺の呪文を受けても小揺るぎもしなかった世界観への確信が、その瞬間、たしかに揺らいだ。
双頭の蛇の口から、腹から、内部から。
凄まじい光が満ちあふれる。
それが魔将の終焉だった。
『馬鹿な、このサジミェリーナが、自己への確信を見失うなど――』
双頭の大蛇が水銀の身体を消滅させた。
代わって現れたのは、帽子を被った男性と女性。
共に水銀によって肉体を構成している銀霊である。
『ハハハ! 三分割した私の一人、サジミェリーナがやられてしまったねサジェリミーナ!』
『驚いた! まさか私を殺せる存在がいるなんてね! 想定の範囲内だけどねサジェミリーナ!』
不滅と不死を体現する二人は、笑いながらも壮絶な悪寒を感じていた。
人であった頃ならば、冷や汗をかいていただろう。
まるで、自分たちが何か巨大な存在の掌の上にいるかのような。
天を見上げる観測者たる自分たちが、天の頂から見下ろされているかのような。
絶望的な無力感。逃れがたい宇宙的恐怖。
「頭が高い。頭を垂れよ地虫ども」
二人の魔将が、同時に這い蹲った。
そこは無限の宇宙空間であるにも関わらず、上下の区分が有り、天地があり、確固とした向きが存在し、存在の優劣が定められているのだと両者は同時に確信してしまった。
天球座標が完全に掌握され、あらゆる占星術が無効となる。
全ての元素の根源となるエーテルが支配され、錬金術の体系自体が無力になる。
絶対なる神とはすなわち『 』のことであり、神働術など虚しいだけ。
その名を唱える事すら矮小なる存在では不可能事。
【空使い】という号、そしてクロウサーという仮の名によって間接的に認識不可能なその存在を認識しようと試みているに過ぎないのだ。
空とはすなわち紀元槍の意。
世界の根本言理に繋がった上位の存在を、人は紀神と呼び、崇め奉った。
槍神教の勢力圏に深く浸透し、最上位の存在――第零の位階として密かに『格』を高め続けていた紀元神群最大の『息吹』が、その威容のみで魔将を平伏させる。
生き残ったミルーニャや空の民たちが浄界の外側へと移動させられていく。
己の世界が無理矢理こじ開けられていくという苦痛に、しかし魔将たちは抗うことが出来ない。
決して逆らえない存在。
愚者の背後には、絶対に立ち向かってはならない何かが存在していたのだと、その時になって魔将たちはようやく理解したのだ。
遅まきながら、神働術師としての魔将がその事実に気付く。
個人の強さや賢さなど戦いにおいてはほとんど意味を為さない。
なぜならば、外部から力を運んでくる霊媒という例外が存在するからだ。
思い返してみれば。
復活した直後、会場には霊媒らしき呪力の波が幾つか存在した。その中で最も危険な霊媒と相対してしまった事に、どうして気付けなかったのか。
全能者の意のままに、宇宙が収縮していく。
ビッグクランチ。
宇宙の終焉によってあらゆる星々が抵抗する事も出来ずに消滅していく。
死人に満ちたエルネトモランの上空に、壊れかけの機械の腕につままれた銀霊が放り出される。
面倒くさそうに次元の彼方に帰って行く残骸の古き神ペレケテンヌル。
旧世界の威光に縋ってかろうじて破滅から逃れた脆弱な魔将の三分の一を絶対者は追わなかった。
惨めに矮小化したその末路は既に決定している。
余りにも広い視野によってその未来を見通すと、
「うーん、お姉ちゃん、その改造は流石に逮捕じゃないかな~速くなるのは嬉しいけど――はっ、夢っ」
まばたきして、すぐ傍で倒れるミルーニャや母親たちを確認。
次いで、周囲を取り囲む死人たちを確認。
「うわあああ何か知らないけどやべええええお姉ちゃん起きて起きて助けてー!」
泡を食って叫ぶリーナは、状況が全く掴めないまま目の前の出来事に対応する。
記憶は正常である。
リーナという存在は、確かにリーナとしての記憶だけを保持していた。
プリエステラの目の前で、魔将ベフォニス、アケルグリュス、ハルハハールがクエスドレムと激しく口論を交わしていた。
「下らん。そのような小娘、火種になるだけよ。首を刎ねてしまえ」
「おいおい、そいつは性急な判断ってやつじゃねえですかい?」
「そうですわクエスドレム様。レストロオセ様はティリビナ神群こそ新世界に必要不可欠な存在だと仰っていました。ジャッフハリムの万全たる食料自給、エネルギーの確保が地上太陽の寿命で成り立たなくなっている今、旧来の一極集中型の万能社会基盤という神話は崩壊しました。植物神たちの権能は必ずや新しい世界のワールドフォーミングを――」
「ええい能書きが長いわ! それこそ不和の種たる巨人どもを調子付かせ、ジャッフハリムを、ひいては新世界の秩序を脅かす事になろう! 理想ばかりで世界秩序が維持できるものか!」
「お言葉ですがクエスドレム様、これは理想ではなく極めて現実的な判断です。レストロオセ様の救済には彼女もまた必要な――」
魔将たちは、同じ派閥に属し、同じ主、同じ国家の為に行動しながらも、それぞれの立場や思考、視点の違いによって生まれる見解の相違が原因で激論を交わす。
それらは双方共に一定の理があり、状況にもよるが『どちらも正しい』というようなものであった。
最終的な決定を下すべき主が不在の今、魔将たちはまさしく不和の種を抱え込んでしまい、混乱している。
その様子を見ながら、プリエステラは内心で安堵する。
次の瞬間には死んでいるかもしれないという状況であるにも関わらずだ。
自分が、仲間たちにとって必要な存在であればいいと彼女は思う。
けれどそれは、同時に誰かにとって必要無い存在であること、そして誰かにとって邪魔な存在であることもまた、彼女は知っていた。
それは同じ事なのだ。
仲間、同胞、家族――共同体を切り分けて内部と外部を規定する使い魔の呪術師は、その関係性が容易に裏返せる相対的なものだと理解している。
集団というものを――関係性というものに対して感情と思考を注ぎ続けたプリエステラにとって、この状況は想定の内。
この些細な足止めが、仲間たちの道になればいい。
そう考えた彼女は、己の全てを捨てて死地に足を踏み入れた。
ティリビナの民たちの立場は危うくなるだろうが、彼女は同胞たちを信頼していた。きっと頼りになる仲間たちが後はなんとかしてくれるだろう。
死人の軍勢を率いていたクエスドレムが足を止め、更には別勢力の死人たちが出現したことによって時の尖塔への歩みは遅々として進まない。
業を煮やしたガルズが後々反抗されることを覚悟しつつ【死人の森の断章】を使用して強制的に魔将たちを従わせようとしたその時。
「これって」
プリエステラが小さく呟いた。
魔将たちにも、それが届き始めているようだった。
それだけではない。
エルネトモランにいる、全ての人々にも。
その歌は――その文字は。
はっきりとあらゆる人々の目に見えるようになっていた。
彼らは音の無いその詩歌を無言で読む。
黙読された文字が、その脳裏に音を想起させる。
音を知らぬ者は、突如として全く未知の感覚が生起されたことによって驚き。
音を失った者は、余りにも懐かしい感覚に身を震わせ。
目の見えぬものたちは、質感や匂い、あるいは直接意味を心に感じ、何らかの記憶を呼び覚まされ、連想していった。
呪文に捕らわれた人々は、自然と心に像を描き出す。
漠然とした、けれどもはっきりとした存在を。
強く、神々しく輝く像。
大いなる偶像を。
途絶えた歌が、再び世界に響き始める。
そして、それと同時に。
エルネトモランの全ての端末に不可視の呪術的ウィルスが感染し、強制的に一つのアプリケーションをインストールしていく。
狂ったような哄笑に気付いた人々は端末を確認し、そうした機器を持たぬ者も目の前にまとわりついて眼球をジャックする幻覚によって強制的にその文字列を見せられる。
意味の分からない言葉の羅列。
太陰の神々の図書館から舞い降りた言語が地上に伝播して、その意味が急速に浸透していく。
誰かが呟いた。
「サイバーカラテ道場?」
座禅無しでゼン・スピリット。誰でも明鏡止水。
『一般人でも強くなれる』が謳い文句の万能武術。
胡散臭い文言と表示された動画の中で、道着姿の男が力強く叫ぶ。
「発勁用意」
絶望という摸倣子が蔓延する地上で、未知の摸倣子が感染を始める。
それは全くの異物。
この世界には存在しないはずの異言体系。
その日、地上に新たなる神話が打ち立てられた。
天と地とその狭間が、その名を聞き、その体系を記憶に刻み込まれたのだ。
サイバネティクスとオカルティズム。
聖婚が鳴る鐘の音を、全世界が確かに聞いた。
「NOKOTTA!」




