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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱
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3-22 シナモリ・アキラより




 談話室は皆で話し合うのに便利だけれど、作業をしながら話すのには不向きだ。

 呪術儀式ライブの準備で色々と忙しくしている私たちは、端末を片手に相談をしていた。

 端末を持っていなかったプリエステラは、先日ミルーニャと一緒に買いに行ったという新型機種をややおぼつかない手付きで操作している。

 次々と表示されていく文字列を見ていると、かつて『葉っぱの伝言板』で連絡し合っていた時の事を思い出す。


『第五階層には関わらない方がいいってどういうこと? みんなは大丈夫なの?』


『いえ、ティリビナの民に危険がある、ということではありません。ただ、アズーリア様が連絡するのはやめた方がいいということです』


 プリエステラの疑問に対して答えたミルーニャは、私の要望に対して難色を示した。ハルベルトらも同意見の模様だ。

 リーナが発見した【サイバーカラテ道場】とシナモリ・アキラから私への連絡を請う文面について皆に相談したところ、ほぼ満場一致でやめておけと言われた。

 考えてもみれば当然だ。

 彼の存在は、槍神教が仕立て上げた私という『新たな英雄』の存在を揺るがしかねない。

 不用意な接触はまずい。その上、


『第五階層は今ちょっと面倒なことになってるんですよ』


『面倒って?』


『あそこは、うちの――ペリグランティア製薬の探索事業部門である【公社】が進出して勢力を伸ばしているのですが、面倒な事にきぐるみの魔女トリシューラの活動拠点でもありまして』


 きぐるみの魔女――ハルベルトの前任者にして寄生異獣の生みの親、そして槍神教の裏切り者。

 更には、杖の座の候補者であるという人物だ。


『トリシューラは派閥としては使い魔と杖の派閥――ラクルラール派に属しています。つまりトライデントと同じ勢力なんです。これは彼女の庇護者である中立派のクレアノーズお姉様を人質に取られているために、やむを得ずにそういう選択をしているだけに過ぎませんが』


『でも、末妹選定の競い合いはちゃんとするんだよね?』


『それはもちろん。そこで人質を利用してトライデントを勝たせる、などという下らない真似をすることに意味はありません。ラクルラールとて仮にも呪術師の端くれなのですから、そのくらいの誇りは有しているはず』


 私はラクルラールという第六位の代理には会ったことがないが、彼女もまた星見の塔の一員だ。派閥争いにかまけて本来の目的――神聖不可侵なる呪術儀式を妨げるようなことはしない、ということのようだ。


『それにあのきぐるみの魔女には人質は通じません。いえ、通じることは通じるんですが、ある段階を踏み越えて追い詰め過ぎると人質ごと反撃されます。相手が絶対に譲れないものまで要求すれば必ず反撃される。他ならぬクレアノーズお姉様がそういう教育をしているのです』


 文面からは奇妙な実感が感じられた。

 多分、杖の座を巡る争いで色々あったんだろうなあ、と私は思う。


『なんか、怖い人なんだね。私は星見の塔に直接行ったことは無いけど、色々な人がいるんだ』


『まあ、七十一姉妹ですからね。要するに、トリシューラとトライデントは選定では競争相手で、その裏で行われている派閥抗争では同勢力というややこしいことになっています』


 ややこしいというか、面倒そうな関係だった。

 むしろそのきぐるみの魔女の方が板挟みになってこれから大変そうだ。


『そして、私が所属するペリグランティア派とアズーリア様方が所属するカタルマリーナ派はラクルラール派と敵対しています』


『まとめると、派閥抗争ではトリシューラはラクルラール派という敵。でも末妹選定ではトライデントに対抗する為に一時的な共闘が可能』


 ハルベルトがまとめてくれたが、まとめたはずなのにさっぱりわからない。

 それは敵なんだろうか味方なんだろうか。

 いや、基本的には競争相手なんだろうけれど。


『もうひとつ面倒な事実をお伝えすると、実はトリシューラは私の師であるベル・ペリグランティアお姉様から呪術医としての手ほどきを受けてます。その繋がりでちょっと相互に内通してまして』


 もっとややこしくなった。

 つまり、トリシューラという人はミルーニャの姉弟子もしくは妹弟子ということなのだろうか。


『ラクルラール派の情報を流す替わりに、こちらからもペリグランティア派の情報を送ったりしています。当然、表向きは敵同士ですが』


『でも、ミルーニャは確か末妹候補の支援要員なんじゃなかったっけ』


『はい。仰る通り、私は末妹候補たちの支援者でもあるので、所在が掴めないトライデント以外とは連絡係として接触することが多いのです。その際に、色々と情報交換したり内部工作の約束を取り付けたりと、色々です』


 私は頭の中で展開された勢力図を整理しつつ呻いた。

 幸い、頭が爆発しそうになったのは私だけじゃなかったらしい。

 寝台の上でごろごろと小さく転がりながらリーナが叫んだ。ああ、長めの髪が乱れていく。綺麗なのに。


「うがああああなんでこんなぐちゃぐちゃしてるの! 普通によーいどんで四人で殴り合えばいいじゃん! いいじゃん!」


 リーナが発散してくれたお陰で、私はいくらか冷静になれた。

 つまり、第五階層は非常にややこしいことになっているらしい。

 私たちからすれば、敵勢力のど真ん中だ。

 【公社】というのがペリグランティア派らしいので、その勢力圏は安全なのだと思うのだが。


『【公社】、つまりうちの探索事業部門の部長代理であるロドウィは、少し暴走しがちな所があります。その上、トリシューラも何をしでかすか分からない女です。前に連絡したときはしばらくは大人しく様子を見るつもりだと言っていましたが、いつ暴れ出すかわからない』


『修道騎士でしかもハルベルトの使い魔である私が不用意に接触すると色々と面倒な事になる?』


『補足すると、三日前に丁度こんな映像が第六階層から送られてきた』


 これはハルベルトの発言。

 三日前というと、私が目覚めてみんなにもみくちゃにされた日だ。

 あの日は検査したり正式な使い魔としての契約を結んだりと慌ただしかったのだけれど――第六階層で何か大きな事件でもあったのだろうか。


『きぐるみの魔女を捜索していた修道騎士トリギス率いる分隊が消息不明になった。トリギスが最後に共有記憶に上げた映像がこれ』


 私はハルベルトが送信した映像を拡大して立体投影する。

 さて、どんな映像だろう。

 金鎖のフラベウファが通知しなかったということは、緊急性の高い情報では無いとは思うのだが。

 修道騎士の共有記憶を全て閲覧するのは流石に無理だ。

 膨大な情報量を処理しきれない為、普段は金鎖のフラベウファが管理し、重要度の高い情報を優先して全修道騎士に送信する。

 だがその重要かどうかの尺度はあくまでも松明の騎士団全体にとって、というものであり、私にとって重要かどうかは関係が無い事を忘れていた。


「これ、アキラ?」


 映像に映し出されていたのは、紛れもなくあの外世界人だった。

 先程【サイバーカラテ道場第五階層支部(仮)】で見た時とは異なり、円筒形の左腕がある。先端には単純な形状の手斧。


『恐らく、アズーリア様にわかりやすいように、以前のままの姿を見せようという狙いがあったんでしょうね。あのきぐるみ女なら義肢くらい間に合わせでもすぐに用意できるはずですし』


 ミルーニャの補足をぼんやりと読み流しながら、私はその光景を呆然と眺めていた。だって、これ。


「うわあ、えっぐ」


 リーナが低く呻く。

 アキラの左手に装着されている手斧は異常な切れ味で修道騎士たちを斬殺していく。両断される呪動装甲、飛び散る血飛沫。絶叫に次ぐ絶叫。

 かつて私たちと――キール隊のみんなと共に肩を並べて人狼と戦ってきたあの驚異的な体術で。

 多対一という不利をものともせず、縦横無尽に動き回り包囲されることを避け、殺傷力の高い武器で牽制しつつ有利な距離を保ち続ける。

 そこにひどく奇妙な怪我(言い回しがそれしか思いつかない。引き裂かれた顔や胴体から除く金属質の肌や臓器は何だろう。肉体に呪具を埋め込んでいるのだろうか)をしたきぐるみの魔女がいることや、第六階層特有の異形の壁面が何故か崩壊していることも気になったが、私はアキラが修道騎士と――私たちと敵対しているということにひどく衝撃を受けていた。

 考えてもみれば、当たり前だ。

 私たちは彼を見捨てた。

 見殺しにして、異獣に殺されることを容認した。

 もう、あの時のように味方同士ではいられないことなんて、とっくにわかっていたはずなのに。

 仲間であるカインを殺してしまい、苦しんでいたアキラを思い出す。

 敵である私を殺すことを、彼はもう躊躇わないのではないだろうか。

 だって敵を殺して心を痛めるのなんて、筋違いだ。

 アキラは次々と修道騎士を殺害していき、序列二十八位の修道騎士、トリギスと交戦する。

 トリギスの異獣憑きとしての能力――尻尾に擬態した寄生異獣が槍のようにアキラを襲うが、その時凄まじい破壊の渦が両者の間を貫く。


「王獣カッサリオ、なんでこんなところに?!」


 それは、アキラに続いて私にとって因縁深い相手だった。

 妹を奪い去った古代の魔女が使役する九体の召喚獣。

 第一の獣であるカッサリオが不可視の衝撃波で村を薙ぎ払った光景は忘れられない。影の家々が消滅し、沢山の人が亡くなったと後で聞かされた。

 私にとっては、仇の一体だ。

 こちらの感情とは関係無く、状況はめまぐるしく動いていく。

 何故かその場所にあの冬の魔女コルセスカが現れたかと思えば死んでいたり再生したりまた死んだり、アキラとカッサリオが戦ったり、見知らぬ長身の男性がカッサリオを攻撃してアキラの窮地を救ったり、そこにトリギスが乱入したり。

 完全に乱戦だった。

 映像は、アキラと謎の男性が二人でトリギスを打撃した直後に途切れている。

 正面から大写しになった二人の男の顔がはっきりと見えるが、あまり違いがよく分からなかった。イルスくらいはっきりと肌の色とか顔立ちが違うと判別が付けやすいんだけど。

 衝撃で意識が途切れたのだろう。彼がどうなったかは不明だ。

 その時、何故かメイファーラが飲んでいた野菜ジュースの紙パックをべこっと握りつぶす。

 中身が残り少なかったので大した量は飛び散らなかったが、一体どうしたのだろうか。


「もしかして、トリギスさんと仲が良かったの?」


「え? ああ、うん。ちょっと話したことがあるくらいかな」 


 目を泳がせるメイファーラ。明らかにちょっと衝撃だったという雰囲気ではない。彼女がここまで動揺するのは珍しい。


「その、まだ決まった訳じゃないから、気を落とさないで」


「うん、ありがと」


 メイファーラは少しだけ飛び散ったジュースを拭き取りながら生返事をした。

 本当に大丈夫かな。

 心配に思っていると、ハルベルトが発言する。


『王獣カッサリオがいるということは迷宮の主が出現した可能性が高い。金鎖のフラベウファは第四階層への侵攻の可能性ありと判断し、守護の九槍から第三位、第四位、第六位を派遣し、第四階層の掌握者である第七位と合流して警戒に当たらせている。そして第九位を第五階層に派遣。潜伏しているであろうきぐるみの魔女を捜索させている』


『それって大丈夫なの? マリーが襲撃してくるかもしれないのに、守護の九槍が半数も不在なんて』


『それでも迷宮の主の方が警戒すべきだという判断。それに、どうも第一位は冷静さを失っているみたい』


 あー、なるほど。

 私たちは察した。

 松明の騎士団の頂点に立つソルダ・アーニスタが、前世からの運命の恋人である冬の魔女コルセスカの事になると度を失う事は有名だったからだ。

 本当なら地上の防衛を放棄して自分で向かいたかったのだろうが、大事な葬送式典を放棄するわけにもいかない。テロが予告されているのならなおさらだ。

 立場上、一探索者を任務よりも優先しろとは言えないだろうし、あの人も大変だなあ。


『ま、あの怪物は殺しても死なないので心配するだけ無駄だと思いますけどね』

 

 ミルーニャの言うとおり、私もあまり心配はしていなかった。

 あのサリアの主人で四英雄、しかも聞いた話だとあのフルブライトだ。記憶の中で縦横無尽に暴れ回る氷の飛翔体は圧倒的な強さのイメージと結びついている。

 映像の中でも致命傷を受けた直後に蘇生していた。ハルベルトの『比喩としての不死』とは違う、『直感的にわかりやすい不死』だ。


『話が逸れた。兎に角、そのアキラとかいう外世界人は明確に松明の騎士団と敵対している。公然と連絡をとるわけにはいかない』


『それに、推測ですけど多分あれ、きぐるみ女が召喚した使い魔じゃないかと思います。行動を共にしていたことから考えても十分にあり得る可能性です』


 そうか、と私はその可能性に気付いた。

 アキラは外世界人だから、四魔女の使い魔としての資格を有している。

 なら彼は、杖の座のゼノグラシア――トリシューラの使い魔なのかもしれない。


『いずれにせよ、不用意な接触は危険』


『わかった』


 そう答えるしかなかった。

 私はハルベルトの使い魔で、松明の騎士団の一員だ。

 下手な行動をして周囲に迷惑をかけてはいけない。

 ――かつて私はそうして大きな被害を出してしまったのだから。

 第五階層に攻め入ったことに後悔は無いけれど、私は幼馴染みたちを自分の身勝手に巻き込む事に躊躇いがあった。

 これは私の個人的な感傷に過ぎない。

 アキラはもう敵なんだ。

 だから、全部、切り捨てないと。

 通信を終えて、メイファーラたちと共にラーゼフの研究室で装備の調整を済ませ、再び自室に戻ると、もうすっかり日が暮れていた。

 一緒に帰ってきたリーナはミルーニャが開発した新型呪具の試運転で疲れ切って寝台にばたんと倒れ込む。


「それ、私がしたい行為なんだけど」


「いやあ、ごめんごめん。さあ、私の胸に飛び込んでおいで」


 無視した。

 人の部屋でよく寛げるものだと感心する。

 リーナはすっかり私の部屋が気に入ったようだ。このまま入り浸られたらどうしよう。というか共同で借りてる部屋に行けばいいのに。

 私は作業に没頭しようとしたけれど、なんとなく気もそぞろになって身動ぎしたり唸ったりを繰り返して椅子の背もたれに深くもたれかかった。


「ねえねえ、アズーリアさん」


「何」


 寝台に視線を送ると、リーナが端末に例のページを表示していた。

 アキラの顔をつつきながら、表情を妙ににやつかせて訊ねる。


「気になってたんだけどさー」


「うん」


「この人は何、あれなの。アズーリアさんのいわゆるそういうあれなのっ?」


「それはない」


「なーんだ、つまらん」


 何を期待していたんだろう。

 ごろりと寝台の上で仰向けになるリーナは、普段の緊張感が少しだけほぐれているように見えた。

 他愛ないゴシップを楽しむことで、彼女の心労を少しでも癒せるだろうか。

 ちょっとだけ、話を続けてみる。


「だって半日くらい行動を共にしただけだよ。まともに話したのだってほんの少し。どんな人なのかも良く知らない」


「えー。でもさ、世の中には会う前から前世の因縁とかで恋しちゃってる人もいるわけじゃん? 出会った瞬間に恋に落ちるくらい普通だよフツー」


「生憎、私は霊長類の顔を見分けるのがあんまり得意じゃないの。美醜は直観としてある程度わかるけど、個性はわからない。みんなの事はわかるし、最近は少しずつ慣れてきてるけど」


「そっかー。まあアズーリアは割と奥手っぽいし、そりゃそうだよね」


 そういうリーナはどうなの、と訊ねそうになって、口を閉ざす。

 もしかしたら、と思ってしまったから。

 彼女の従兄弟であるガルズ――死んでしまった人の事に話題が及んでしまわないように、私は慎重に次の話の穂を探す。


「でもさ、アズーリア、なんかめっちゃ気にしてるっぽいよね」


「それは」


「何か色々事情があるのは聞いたけどさ、結局このアキラって人、たくさん人を殺してる悪者なんでしょ? 杖の座の使い魔ってことは敵なわけだし」


 悪者――そうか。そういうことになってしまうんだ。

 リーナの言葉に動揺を覚えてしまって、私は自分のどうしようもなさが嫌になった。割り切ると決意したばかりなのに。

 駄目だ私。まだ彼の仲間のつもりでいる。 


「ごめんね。そうだよね、敵なのに、いつまでも気にしてたら駄目だよね」


「――アズーリアは、そう思うんだね」


 リーナはいつの間にか身を起こしていた。

 真剣な眼差しが私を貫く。

 鳶色の瞳は、どこか悲しげだ。


「それはさ。悪い事をしたら悪いって言われるのは当たり前だし、罰せられるのも当然だとおもうけど。でも、だからってそのせいで、その人がしたこと、全部が悪いってことになっちゃうのかな」


 いつの間にか、リーナが言及している対象はアキラではなくなっていた。

 彼女は、ガルズの事を言っているのだ。


「パレルノ山でさ、ガルズに色々聞いたじゃん? で、思ったんだ。何で私、その時すぐ近くにいなかったんだろうって。何で平然と大学行ったり遊んだりバイトで探索してたんだろうって――ううん、それはいいんだ。エストとまた会えたのはそのお陰だし。そうじゃなくて、なんて言うか」


 リーナは纏まらない思考を片端から口に出して、けれどどれもしっくりとこないのか、もどかしそうに口を閉ざした。

 それから、ぎゅっと両手を握って言った。


「ごめん、全然上手く言えない。頭悪くてごめんね。けどさ、私、こういう窮屈な感じ、凄く嫌」


 それだけ言って、リーナは勢いよく立ち上がると部屋を出て行った。

 寝台の上に、三角帽子が所在なく載っている。


「忘れ物、してるよ」


 ぼんやりとした呟きを発するけれど、それを聞くのは私自身だけ。

 溜息を吐いてみたけれど、胸に残った凝りは消えずに残ったままだ。




 天気予報によれば今日は曇りのち雨。

 天気占いによれば曇りのち晴れ。

 しかし今日は『雨の日』なので天気占いを支持することはできない。

 大神院の気象管理システム――すなわち天意を信徒に代弁する神託機械は、本日の天気は雨が望ましいと判断していた。

 朝からどんよりと広がった暗雲は、昼頃になってぱらぱらと小雨を落とし始めていた。

 早朝に神官の一人が骨の三叉槍で貫かれ、日付が変わった時から身辺警護をしていたリーナは心底から参ってしまった様子だった。

 私の部屋の寝台で毛布にくるまってじっとしている。何度も身動ぎをしているので、恐らく起きてはいるのだろうけれど。

 名簿に記されている名前も残り二人のみ。

 クロウサー家への復讐という襲撃の性質上、最終日に殺害されるのはサイリウス・ゾラ・クロウサーだろう。

 つまり明日、ハルベルトが襲撃される。

 明後日には呪術儀式なので、きっとハルベルトが狙われるのは最後の通し稽古の時ではないかと予想されていた。

 私たちもそのつもりで準備を整えてきたのだが。

 

「はぁ」


 図らずも、リーナと溜息が重なってしまった。

 しばらくして、出し抜けに毛布がばさりと舞い上がった。


「うがー!」


「うるさい」


 明るい黄色の長髪をぼさぼさにしながら、リーナが叫ぶ。束ねるとかすればいいのに。いい加減見るに見かねて、私はのそのそと歩いていき、寝台に腰掛ける。


「ちょっといい?」


「うん」


 私はリーナの髪を左右で三つ編みにし始めた。

 こんなのでも貴族であるリーナはお世話をされ慣れているのだろう、大人しくされるがままになっている。


「晴れたら、また空中散歩しようか?」


「ん、晴れたらね」


 リーナは虚ろな目で端末をいじり始めた。

 大丈夫かな。

 自分自身の事でさえままならないのに、他人の心配なんて、と思うけれど。

 そんなことを思いながら綺麗な長髪を編み込んでいると、リーナが変な事を言い始めた。いつものことだが。


「え、炎上しとる」


「【炎上フラッシュファイア】?」


「うん、アストラルネットの話だけど」


 どうやら、例の【サイバーカラテ道場】とかの話らしい。

 何でも、師範代であるアキラが魔将エスフェイルを討伐したという功績を大きく喧伝しているせいで方々から非難されているらしい。

 公式には私が討伐した事になっているから、松明の騎士団は当然アキラを非難するだろう。

 あちらは私やキール隊と共に倒したという事実を言っているだけなのに。

 片側の髪を編んでいた私の手が止まる。

 リーナは片方だけの三つ編みをいじりながら、じっと黙りこくっていた。

 そして、重苦しい沈黙が辺りに立ちこめて、


「よし、飛ぶか」


「え?」


 突然立ち上がり、私の手を引いて部屋の外に連れ出そうとする。

 もう片方の手には新品の箒。昨日ミルーニャと試したという新型の呪具というのはこれのことだろう。


「ど、どうしたの。外、雨降ってるよ」


「いいの。雨の空を飛ぶの」


「風邪ひくよ?」


「空の民と夜の民が濡れたくらいで風邪を引くかー!」


 普通に引くと思うけど、と口に出す暇も無く、ぐいぐいと引っ張られる。

 空の民である彼女は、日中の夜の民に負けず劣らず非力だ。

 抵抗しようと思えばできたはずだけれど、不思議と私はふわふわと浮遊しながら移動する彼女にのそのそとついて行ってしまった。


「前に乗ってくれる? 横座りで」


「うん」


 リーナの箒はとても長い。明るい黄色の呪石製の軸に、頭は金色の花弁に彩られた枝でできている。

 かつての幼馴染みたちと再会したあのパレルノ山で採集した金箒花を素材にした、高い呪力を宿した箒だ。

 私は黒衣の後ろをおさえながらちょこんと箒に腰掛ける。

 並んでリーナも横座りすると、ふわりと浮き上がる感覚。

 視点が上昇し、景色が一変する。

 整然と立ち並ぶ色鮮やかな街並み。

 街路は幾何学的な模様となって街全体を呪術的な円陣として機能させている。

 空中を走る誘導光は雨の日であっても空中に道路を仮構し、空中を移動する絨毯や箒の交通管理をしている。

 リーナは大型箒の邪魔にならないように安全運転で自由飛行域に向かうと、待ちかねていた用に思い切り速度を出して飛び上がった。


「なんだ、普通に雨風避けの結界が張ってあるんだ」


 凄まじい速度を出しているけれど、私たちが振り落とされたりはしないし雨で濡れたりもしない。

 周囲には同じように雨の空での空中散歩を楽しむ空の民や空中遊泳をしている鰓耳の民なんかがいる。

 少しずつ高度が上がっている。こうしてリーナと空を飛んでいると、黒百合宮にいたころを思い出す。

 なんだか、少しだけ心が晴れた。


「もっと高く飛べると思うんだよね」


「え?」


 思わず聞きかえすと、リーナは思いの外真剣な顔つきで、すうと息を吸い込んでからはっきりと言葉を紡いだ。


「私がさ、この空を晴れにしたら言うことひとつ聞いてくれる?」


「いいよ」


 どうして躊躇いなく頷いたのか、自分でもよくわからなかった。

 今は夜じゃないし、昼夜の区別が無い黒百合宮でもないから、私は空を飛べない。全てをリーナに委ねることにした。

 箒が傾いて、ぐんと加速する。

 向かうのは、雨が降り注ぐ天上だ。

 地上がどんどん遠ざかって、自由飛行域すら抜けて、違法行為への厳重注意を全て無視して、飛行型の自動鎧リビングアーマーから見事に逃げおおせる。

 慣れた箒さばきで追撃を全て振り切ってみせると、リーナは私に一切負荷をかけることなくついに世界槍から枝上に伸びる第一階層の高度まで到達する。

 そう――雲海を抜けたのだ。

 雲を突き抜け、どこまでもどこまでも高く飛翔していく。

 あの幼い頃よりも、さらに高みへと。

 天を衝く世界槍の穂先、不思議な輝きを放つ刃が陽光を照り返して煌めくのを横目に見ながら、私たちは際限なく飛んでいく。


「これ、どこまで飛ぶの?」


「んー、重力の軛から解き放たれる予定」


「それ戻れないよね?!」


 重力制御と慣性制御――リーナは邪視と呪文を複合させた飛翔術と杖の一種である箒で飛んでいるわけだが、地上の重力から解放された場合どうなってしまうのだろうか。

 重力――大地の呪力を感知するラフディの棘の民やエルネ=クローザンドの空の民は宇宙空間では呪術を使えないという説を聞いたことがある。

 いつしか私たちは、気の遠くなるほど遠い場所に辿り着いていた。

 世界を取り巻く大気そのものである第一の創世竜、界竜ファーゾナーを突き抜けていく。ついでにとばかりにリーナはその巨体から鱗の一枚を拝借していく。呼吸に必要な大気をありったけ結界内部に取り込むと、ぐんぐんと竜王の庇護から離れて飛んでいく。

 それを可能にするリーナの飛翔術の腕もとんでもないけれど、眼下の光景はもっととんでもなかった。

 そこは、あらゆる色彩に満ちあふれていた。

 世界槍で繋がれた二つの大地。

 上から見下ろした地上と、それより遙かに広大な地獄。

 青い海や白い海、赤い海。

 黄色や褐色の砂漠。

 この世の色を全て雑多に詰め込んだような大森林。

 極度の呪力異常によって闇に包まれた大地。

 全てが双方の大地に存在する要素だ。

 無数の世界槍は地獄から地上へと突き抜けているものがあれば、地上から地獄へと突き刺さっているものもある。

 ここから見える地上には、穂先と石突きの双方が見えている。

 地上に隠された場所は見えないが、地獄には端の端まで自然が広がり、わけても四方に存在する一際巨大な地上太陽は遙かな高みからでもその輝きと呪力が感じられた。

 地上太陽――第八の創世竜メルトバーズが吐き出した炎。

 地獄を完全に幸福な福祉社会として成立させている呪力の供給源であり、遠くない未来に枯渇することが確定している有限の資源。

 地上に攻め入り、聖女を生贄にして火竜を復活させる。

 地獄の目的は単純で、切実で、それゆえに余りにも悲しい。

 重力から逃れても、私の心はやはりあそこに囚われたままだ。

 共生と平和を謳いながら、犠牲の上にしかそれを成立させることができないという矛盾も、彼らを単純な邪悪と断じて殺戮する槍神教の正義を信じ切れない私たちの愚かさも、何もかもが。


「アズーリア。上を見て」


 リーナの声に従って見上げれば、そこには無限に思えるほど広漠とした闇。

 多層構造を成す暗黒の列を、四つの衛星が巡っている。

 夜光天、幽冥天、精霊天、太陰天。

 地上の闇に空間を超越して繋がっている故郷を懐かしみ、浮遊する生きた大地の威容に驚き、下界のしがらみを嫌って天に昇った上古の妖精たちの王国の宝石のごとき美しさにうっとりとして、そして丸く輝く師の故郷を見つめた。

 太陽天で燃えさかる巨大な呪力構造体からアストラルの炎を纏った下位の天使フェーリムたちが次々と誕生し、土塊天、火力天、水晶天を通過して天堂天の外側へと旅立っていく。

 炎天使たちは無限の闇の中に身を投じ、彼方の星々に輝きを灯していくのだ。

 二度と戻る事のない旅路。

 儚く、そして煌めくような在り方だと思った。

 

「ここでなら、多分アズーリアは飛べると思うんだよね」


 言われて初めて気付いた。

 私の身体には今、力が満ちあふれている。

 青い翼を広げて、枝角を伸ばした。

 箒から離れ過ぎないように、重力を感じない闇の中をゆっくりと泳ぐ。


「そっか。ここは、ずっと夜なんだね」 


「もしかすると黒百合宮がずっと両方の時間だったのって、世界の理から外れていたからじゃないのかも」


「どういうこと」


 リーナの言葉に首を傾げる。

 彼女は自分の考えに自信が無いのか、囁くように言った。


「なんていうか、あそこには世界の『ほんとう』があったんだって、そう思うの。あるがままっていうかさ。朝とか昼とか夜とか、そういう区別とか境界とか、全部人が定めたもので――空の向こうって、きっと私が想像してる以上に、怖いくらいに自由で」


 幼い頃、私たちは青空について語り合った。

 少しだけ大きくなった今、青を通り越して私たちは暗黒の中を漂っている。


「いつか、呪文は言葉だってクリア先生が言ってた。ディスペータお姉様は約束事って言ってたし、ミブレルお姉様は雲の形を自在に想像することだって」


「それって不自由なのか自由なのかわかんないね」


「うん。多分、どっちでもあるし、どっちでもないんだ。この世界みたいに」


 私たちはしばしの間そうやって闇の中を漂っていた。

 青と暗黒がグラデーションを描き、様々な色彩が巡る世界の様相を見つめていると、不意にリーナが悪戯っぽく微笑んだ。片方だけの三つ編みが揺れる。


「ね、晴れたから私の言うこと聞いてくれるよね」


「それは、ずるって言わない?」


「今、雨降ってないじゃん。だから晴れ」


「確かに今ここにいる私たちにとってはそうかもしれないけど」


 邪視者にして呪文使いらしい詭弁といえば詭弁なのかもしれない。

 しぶしぶと頷くと、リーナの表情がぱっと華やいだ。


「いよっし。じゃあアズーリアはこれからアキラとやらに連絡すること!」


「はあ?!」


「約束破ったら駄目なんだよー。ディスペータお姉様に言いつけちゃうぞー」


「それだけはやめて」


 フィリスのせいで遙かな過去に送られてしまった旧第五位のお姉様は行方不明でも私を恐れさせた。たとえいないと分かっていても、黒百合宮で一番恐ろしいのはディスペータお姉様である。


「きっとアズーリアは恨まれてるだろうからね。約束破りしたことと合わせてきっとすっごい罰が待っているよー。こえー」


「ちょっと待って」


「嫌なら言うことを聞くがよい!」


「だから待ってってば」


「ここは夜だから飛べるって、さっき言ったよ」


 リーナはそっと私に近付くと、私の枝角に触れ、それから頭を優しく撫でた。


「お願い」


 短い言葉。

 その中に、どれほどの想いが込められていたのか、私にはわからない。

 ただ、頷きたいと、そう思った。

 私は、本当はアキラに言葉を届けたい。

 届かせたい言葉があるなら、私は口を閉ざすべきじゃない。

 それがたとえ、間違いであっても。


「――うん。ありがとう、リーナ」


「よっし。じゃあ、そろそろ戻ろうか。帰りは任せるよ」


「了解」


 私は翼を広げて無限に広がる闇から、そして星々と月から呪力を集め、青い翼でリーナを包み込むと、そのまま真っ直ぐに地表に向けて降下していった。

 影の触手を障壁にして外界のあらゆる理を遮断し、来るとき以上に凄まじい勢いで地上に墜ちていく。

 誰かが見たら、流星と間違うだろうか。

 リーナの持った箒から金色の呪力が零れて、煌めくような軌跡を残した。

 長く尾を引く箒星。

 光を散らして、黒から青へ。

 蒼穹の中に舞い降りると、大いなる竜王に優しく包み込まれて、私の身体は再び黒衣の霊長類に戻っていく。

 そこからはまたリーナの出番。

 身を寄せながら箒に乗って、一直線にエルネトモランに飛んでいく。

 長いのか短いのかもよく分からない空中散歩は、そうして終わっていく。

 そのことを少しばかり名残惜しく感じていた私は、最後の最後でとびきり驚くことになった。


「嘘、晴れてる?!」


「流石私! 晴れ女のリーナさんにかかればこんなもんよ!」


 地上へと戻った私たちを出迎えたのは、すっかり晴れ渡った空。

 誰かが願ったわけではない。

 ただ、気紛れな空と自由な雲がたまたま機嫌を良くしただけだ。

 いつか、ガルズが広げた夜空をリーナが晴れた青空に変えてくれたことを思い出した。確かに、リーナは晴れ女だ。

 澄み渡る空に、綺麗な虹が架かっている。

 ふと私は訊ねてみた。


「ね、あれって何色だと思う?」


「そんなの決まってるじゃん」


 槍神教の理に従えば、あれはきっと聖なる数である九色なのだろう。

 けれど今の私には――そしてリーナにはこう見えているはずだ。

 そこに境界は無く、色を定める言葉があるとすれば、その数は無限。

 私たちは、声を揃えてこう言った。


「万色!」




 無理な頼みを、ハルベルトとミルーニャは真剣に聞いてくれた。

 そして少しばかり呆れつつも、彼女たちらしい優しさで許してくれた二人に、私たちは甘えていたのかもしれないけれど。

 ふと思った。

 私とリーナは、小さい頃からこうして甘える相手を持っていた。

 些細な共通点だけれど、性格が全く違う私たちが仲良くなれたのはこういうずるい所が一緒だからかもしれない。

 ハルベルトは私が直接アキラに連絡することは許さなかった。

 けれど、ならば代理の誰かが連絡すればいいと言う。


「星見の塔関係者である私たちの誰が連絡しても問題あり――けれど、ただ一人一切トリシューラや公社に警戒されない人物がいる」


「それは?」


「クロウサー家始まって以来のお天気頭、ゾラの血族最大の軽量型脳みその持ち主。そのうつけぶりは三界に広く知れ渡りお間抜けな顔と名前はアストラルネットに晒されて――もとい轟いて久しい」


「あー、やんちゃしてた頃『違法霊薬キメてアストラル投射の限界速度突破したった』ってアストラルネットに投稿したら逮捕されかけて家が揉み消したらバレて炎上したやつかー。懐かしい。あの頃は私も若かった」


「末妹候補だった過去は知られているはずですが、流石のトリシューラもこのお気楽お馬鹿を警戒するほど暇じゃないと思います。炎上の争点である父の関係者でもあるわけですし、適任でしょう」


 ミルーニャが頭痛を堪えるような表情をしていることからすると、事実らしい。

 私は軽く引いた。いや、確かに霊薬で変性意識トランス状態になるという呪術は存在するけれど、基本的に薬局に並んでいる合法のものを使う。

 大丈夫かなあ。将来、取り返しのつかない犯罪とかしそうで怖い。

 しっかりと見張ってないと危なっかしくてしょうがない。


「よっし名前貸しは任せろー! 空気を読まずに流れを作ってみせるよん! あ、文面はアズーリアが考えてね」


「うん、ありがとう」


 私はリーナと協力して炎上を食い止めるべく行動を開始した。

 そして、アキラに対してそれと分からないように、無関係なリーナを装って連絡する。

 そして、思惑通りあちらとメールのやりとりをすることに成功した、のだが。


「意外。けっこう丁寧な文面だ。それに、憎んでないって。お父さんの冥福を祈ります、だって。そっかそっか」


 リーナは端末を見ながらしきりに頷いて、安心したように息を吐き出した。

 それからどこか優しい口調で呟く。


「『一部だけを見て全体を判断できないということを、他ならぬ地上の探索者である貴方が証明してくれました』か。そうだね。悪者でも、いいところだってある。そして、この地上にだって、守るべきものがあるんだ」


 リーナは立ち上がった。

 私に自分の端末を預けて、ここからのやり取りは全て任せると言って立ち去ろうとする。


「どうするの?」


「決戦の準備」


 揺るぎない決意を声に宿して、リーナは宣言した。

 昨日、忘れていった三角帽子を手に取って頭にしっかりと被り直す。


「ガルズを、マリーを止める。それが、私が今やりたいことだから」


 私はその決意に至るまでの彼女の心を想像して、それから確かに私たちに届いた遠く離れた人の言葉をもう一度読んでいく。

 言葉は、予定していたよりもずっと不用意に溢れ出した。

 そうだと理解していれば、リーナではなく私の言葉だということは明らかで――それでも、アキラへの言葉は止まらなくて。


「どうして」


 口をついて出たのは、自分でも信じられない弱々しく震えた声。

 どんなに考えてもわからない。

 なんで、私。


「どうして、私に都合のいいことばかり言うの」


 どうして、優しい言葉ばかり送ってくるの。

 ここがまだあの夢の世界で、私はまだ自分に都合のいい非現実に浸っているんじゃないか。

 そう思ってしまうほど、アキラの言葉は私にとって都合のいいことばかりだ。

 呪文を使えない者は、呪文使いに言葉で嘘はつけない。

 『筆致』に込められた感情で、それが本心かどうかすぐにわかってしまうから。

 だから、彼がこんなにも私に優しいのも。

 憎しみを抱いているどころか、深く案じ、感謝し、救いを感じていることも。

 『ほんとう』なのだと強く確かに理解できる。

 それこそが私の救いであることを、彼はきっと知らないだろう。

 端末から投影された立体映像を突き抜けて、小さな雫が画面を叩いた。

 馬鹿みたいだ。

 せっかくどこかの晴れ女が青空を見せてくれたのに。

 部屋の中で雨を降らせていたのでは、彼女に合わせる顔が無い。

 私はそれからしばらく、端末を見ることができなかった。




 呪文を紡ぐ。

 どうしてか、かつて無いほど順調に作業が進んだ。

 気がつけば既に夜が更けている。

 皆は体調を第一に考えて休息をとっている所だが、私はこれからが一番活発に活動できる時間帯だ。

 第六位の眷族種、イルディアンサの耳長の民は月光を浴びて呪力を蓄える。とはいっても、流石にここまで深夜になると休息が必要だ。ハルベルトもまた明日に備えて寝入っていた。

 日付はとうに十二日目。

 『殺される準備』は万全であり、いつ襲撃されても問題ないようになっている。

 正念場だ、と私は気合いを入れ直した。

 それでも少しだけ休憩しようと立ち上がり、ロクゼン茶を入れようとした時、寝台の上に目が向かってしまう。

 リーナの置いていった端末。

 何気なく手をとって、ほとんど無意識にメールを打ち込んでしまう。

 何をやっているんだ、この時間帯に連絡しても失礼に当たらないのは同じ夜の民だけだ、と理性が囁く。

 多分相手は寝ているだろう。

 それでも伝えたい言葉を止める事はできなかった。

 身勝手に、不用意に、考え無しに。

 幼い頃、ビーチェを傷つけたあの時からずっと成長もできないまま、私は言葉を紡がずにはいられない。

 馬鹿みたいな私の謝罪を、彼はそのまま受け取ってくれた。

 きっと起こしてしまった。

 二重に申し訳無くて仕方が無いのに、彼はその上私のことまで気遣って、ただただ私に優しくて。

 身体の奥から湧き上がってくるこの感情を、何と名付けるべきだろう。

 それは余りにも大きすぎて、複雑すぎて、言葉で切り分けようとしても私の手にはどうしても収まりきらない。

 いつか。

 いつか、この想いを彼に伝える事ができるだろうか。

 彼がこうして無事でいてくれていること、彼が救われたと感じていてくれたことが私の救いであること、みんなが死んでしまって、けれど彼だけは生き残ってくれて嬉しいこと、そして、今もまだあの第五階層で戦い続けている彼を、私は。


「いつか、必ず」


 ふわりと、心が浮き上がった。

 左手よりも先に、声よりも速く、ただ言葉の中に妖精が飛び込んでいく。

 ここは一体どこだっただろうか。

 部屋の中?

 それとも言葉の中?

 この世界は、私に切り分けられたがっている無限の世界。

 万色の夢幻。

 曖昧な世界の中に放たれた言理の妖精。

 私が唱えた呪文は、始めから左手や声なんて形よりもずっとそれらしく悪戯好きに飛び回る。

 いつか、黒百合宮で妖精をいじめて遊んだことがある。

 今はもう、完全に私の掌握下に置かれた呪文。

 言葉の間隙に潜り込む妖精が、時間と空間を飛び越えてあらゆる飛躍を重ねて私の心とアキラの心を繋げていく。

 淡い光が辺りに満ちていった。

 実感は無い。

 けれど、私はその一瞬、確かにアキラと再会した。


「私は必ず貴方を迎えにいくから」


 ハルベルトは言った。

 第六階層の攻略の為、第五階層を拠点とするのだと。

 私は英雄として序列を駆け上がり、今よりもっと強くならなくてはならない。

 光が弾けて、私は現実に帰還する。

 だから、決して負けられない。




 夜が明けて、遂に前日となる。

 私は朝方から始められる呪術儀式の通し稽古を見ながら、リーナの端末を操作してアキラに連絡する。

 彼の気がかりを取り除ければいいと願いながら、私が彼の無事を知っていることをリーナの口を借りて伝える。

 それで終わり。

 あとは目の前の事に向き合うだけ。

 そのはずだったから、その後に私が送った言葉は、きっと魔が差したゆえに出てきた気の迷いとかそういうものに違いない。


『もしよろしければ、これからもこうしてお話していただけませんか』


 ああもう。

 なんで断らないかな、この人は。




 ――そして、その瞬間は訪れた。

 舞台上に立つ黒衣が揺らめき、フードを突き破って現れたのは体内の骨を押し固めて生成した三叉槍。

 体内から体外へと肉の身体を引き裂く凶器は、またしても誰にも妨げられることなく目的を実行した。

 十二日目。

 衆人環視の中、ハルベルトは磔にされた罪人の如く処刑される。

 何もかもが予定調和。

 闇の中で、マリーと呼ばれた少女がほくそ笑んだ。





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