幕間 『きぐるみの魔女』
意識を失った隻腕義手の男を、その倍はあろうかという体格の影が見下ろしていた。
猿だ。
途方もなく巨大な、柱と見まがうほどに野太い両腕を地面に着け、前傾姿勢をとっている。体毛は豪奢な金色、瞳には深い知性の輝きを湛えている。
どのような手段によってか、男の意識を一瞬で刈り取った巨大な猿は、しばし周囲を見渡していた。
すると、その前方に長方形の立体窓が出現する。遠く離れた場所の映像と音声が猿に届けられる。
「申し訳ありません。遠隔操作の呪力兵だけを連れて侵攻したのが裏目にでましたわ。呪力兵は全て自壊、わたくし一人が第四階層で完全に孤立しました。まあ、追撃を躱す程度、わたくし一人なら造作もありませんが。作戦は完全に失敗ですわね」
窓に映し出されていたのは一人の少女だった。
華美なフリル、傘のように大きく広がったパニエスカート、丸襟のブラウス。本来は純白の衣装が、今は大量の返り血で赤黒く染まっていた。
豊かな金髪が六束ほどヘアアイロンによって先の方でゆるく螺旋状に巻かれていて、少女は先程からしきりに毛先をいじっていた。
「中継点であるエスフェイルが死んだせいか、第五階層が敵に掌握されたせいか、それとも呪力がそちらまで届かなくなったせいか。いずれにせよ想定が甘かったな」
続けて、少女の真横にもうひとつ窓が出現する。
こちらは灰色のフードを深く被っているためにその容貌がはっきりと分からない。ただ、その肩に長大な柄の大鎌を担いでいるのが目につく。
「こっちでもエスフェイルの死体を確認したよー。最終形態まで見せたのに負けちゃったみたい」
「まさか、ズタークスタークに続いてエスフェイルまでも――」
両者と言葉を交わす巨猿の声は低く、重々しい。
心なしかその表情も沈んでいる。
「まあ、彼って呪術は達者だったけど性格が迂闊なところあったから、ズタークさんほど意外ではないけどね」
「しかしもうこれ、本格的に敗色濃厚ですわね。稲妻さんが倒された時点で降伏しておけば良かったんじゃありません?」
「滅多な事を言うものではないぞ、イェレイド。それにまだ我らがいる」
叱責する猿に、イェレイドと呼ばれた少女は片目を瞑りながら肩をすくめて言った。
「分かっていますわ。ただの自虐です。それよりもマーネロア。『ソレ』、止めを刺していないようですが、ゾンビかボットにでもしますの?」
倒れ伏し、意識が無いままの隻腕義手の男。
その処遇を問われ、マーネロアと呼ばれた猿は静かに答える。
「いや、この男、掌握者ではなく代理のようでな。一人きりということは仲間に見捨てられたのであろう。私の奇襲に反応して一撃を返せるほどの戦士がここで終わるという事実に、戦場の無情を感じていたのだ」
「へえ、マーネロアさんの動きに反応できる人類って存在したんだ。びっくりだよ」
「ああ、私も久しぶりに胸が高鳴った。しかし左腕の欠損といい、随分と消耗しているようだ。エスフェイルと激しい戦いを繰り広げたに違いない」
「まあ止めを刺したのはその人じゃないっぽいけどね。物理的な手段じゃなくて、呪術でやられてる」
「エスフェイルを上回るほどの呪術師か。ガドールよ、お主はどう見る?」
巨猿マーネロアから向かって右の窓、ガドールと呼ばれた灰色の影はその問いに少しだけ浮き足だった雰囲気で答えた。
「うん、それなんだけど。このエスフェイルさんの死体さ、面白いことに紀源から遡及的に解体されてる。わかる? 時間に干渉して、過去に遡って因果ごと殺してるんだよ。こんな呪術見たことも聞いたこともない。どんな呪術を使えばこんなことができるのか想像もつかない。実に興奮しちゃうね! 僕もこれで殺されてみたいよ!」
「蘇生はできそうか」
「あー、無理。これは蘇生させても前みたいな呪術師としてのエスフェイルさんは戻らないね。魂無き哲学的ゾンビが一体出来上がるだけ」
「魂などという曖昧な存在の有無で、呪術師であるかどうかが決定されるのか?」
「んー、いちおう、理論上は呪文を自動的に唱える機器とか、独自の見解を提示できる人工知能にも呪術は使えるよ? けど一度でも魂が無いって観測されてしまった存在は、呪術の質が著しく落ちる。良くて低級の使い魔、悪くて自律型の魔導書ってところじゃないかな」
「ちょっとお二人とも、話がずれてますわ。で、エスフェイルを仕留めた呪術師の技量はどのくらいのものだと推測できますの?」
少女が男二人の益体もない会話に割り込んで、本筋に引き戻す。ガドールはやや不満そうに、だがそれ以上文句は言わずに答える。
「うーん。ちょっと分かんない。判断材料が少なすぎるね。だからまあ、最低でもエスフェイルさん以上だと見積もっておく必要があるんじゃないかな」
「なるほど。エスフェイルの力もおそらく奴らに奪われ、利用されるであろうことを思えば、この先の戦いはさらに苛烈なものになるのであろうな」
「問題ありません。所詮エスフェイルはわたくしたちの中では最も小物。そのことを思い知らせてやります」
イェレイドが、手を胸に当ててぐっと背筋を伸ばしてみせる。幼い顔には自信が溢れている。
「冗談はよせ。奴は我ら十九の魔将の中でも五指に入ろうかという実力者だった」
「ですがもう四人しか残っていませんわ。だからわたくしたちの中で彼が最弱。異論がありまして?」
「――いいや。しかし、そうか。随分と減ったものだ」
「ええ。ですからもう、誰一人として欠けさせませんわ」
三人の間に悲壮な、そして沈痛な空気が横たわった。
しばしして、重苦しい雰囲気を払拭しようとしてか、猿が関係のない事を喋り出す。
「それにしてもひどい迷宮構築だ。掌握者の自意識が過剰に前面に出ていて下品極まりない」
「うんうん、それに青ばっかで色彩感覚おかしくなりそう。美意識皆無だよね」
「むしろ自分に酔っているかのような気配すらありますわね。不快ですわ」
「生垣の罠からは嫌がらせをして悦に浸ろうという意図が透けて見える」
「嗜虐心と上品さを履き違えている気がするよ」
「変態性欲を闘争の場に反映させようという発想がまず常人からは出てきません。日頃から抑圧されて鬱憤が溜まっていらっしゃるのかしら。――あらいけない。これは勘繰りというものですわね」
ひとしきり迷宮の美的センスを罵倒して盛り上がることで、三人の空気は平常なものに戻った。もしこの会話を当の迷宮構築者が聞いていたならば、即座に死闘の幕開けとなったであろう。
「次は私がこの階層を掌握します。この一騎当千のイェレイドが、全ての敵を迎え撃ち、悉く屍に変えてご覧に入れましょう」
少女の宣言に、マーネロアは頷き、視線を倒れている男に向けた。
暫定的であっても、迷宮の掌握者は彼だ。
殺害すれば迷宮の掌握権限はマーネロアに移り、第四階層にいるイェレイドをこの階に迎え入れて掌握者の座を移譲することも可能になる。
無言のまま巨大な腕が持ち上げられる。そのまま振り下ろされただけで、圧倒的な重量と腕力に叩きつぶされて男は命を失うだろう。
無造作な死が彼にもたらされるかと思われたその時、一陣の風が吹き、その身体を持ち去っていく。
「何奴?!」
誰何の声が迷宮に響く。風のような速度でマーネロアに気付かれることなく接近し、そのまま人ひとりの身体を抱えて攻撃を回避した何者かが、青い生垣の上に直立していた。両手には隻腕の青年。
そしてその口には、彼が失ったはずの、肘から先の左腕。
人狼が、青い造花の上に絶妙なバランスを保って立っている。
「人狼?! エスフェイルの掌握下に無い、はぐれですの?!」
「いや違う。あれ、皮を被ってるだけの偽物だね。狼の皮を被るもの――高位呪術師だ」
生垣の上に立つものを排除する――創造主の意図に従い、青い造花がうねり、直上の人狼を内部に引きずり込もうとして襲いかかる。
しかし、どのような現象が働いているのか、蠢く造花は人狼に触れられない。目に見えない力で近付くもの全てを押しのけているかのようだった。
「なんという強大な呪力――お主、何者だ!」
再度の誰何に、人狼、いやその振りをしている何者かは無言の反応を返すのみ。
単に腕を咥えているので喋れないだけかもしれない。
いずれにせよ、巨猿はあの青年を奪い返し、この階層を掌握しなければならない。
その足が大地を蹴ろうとした瞬間、人狼の目が閃光を放つ。
呪術による目眩ましに気を取られた巨猿の足が一瞬止まり、発光が収まった時には、人狼と青年の姿は忽然と消え失せていた。
「マーネロア、対象は?」
「すまん、見失った」
手痛い失敗に、マーネロアの表情が歪む。
追撃に入ろうとするが、世界に亀裂が入り、砕け散り、身体を燐光が包み出したことで、マーネロアは既に手遅れであることに気付いた。
迷宮は、マーネロア以外のものによって掌握され、再構成されようとしていた。
その事実を、転移光によって最下層へ運ばれながら、マーネロアは忸怩たる思いで受け入れるしか無かった。
場所はふたたび『世界槍』の外部に移る。
広大な天地の狭間。浮遊する人狼の姿をした何かと、抱きかかえられた意識のない青年。
青年の身体には傷一つ無い。しかしその身体を赤い靄のような光が覆っていた。
『殺害せずに霊核に干渉するとは、相変わらず得体の知れない技術を使いますね』
いつの間にか表れていた翼を持つ猫ヲルヲーラが、人狼に話しかける。
反応は無い。構わずに、猫は続けた。
『この時節に貴方が介入するとは予想外でした。いったい貴方は上方勢力と下方勢力、どちらに付くつもりなのですか?』
この問いにだけ、人狼は明確な答えを返した。
その目が赤い光を放つ。
ヲルヲーラの片翼が何らかの外力を加えられ、半ばからねじ曲がる。
正体不明の呪術。向けられたのは明確な敵意だった。
『――なるほど。貴方は、私が定めた秩序を乱そうと言うのですね? どちらの勢力に付くつもりも無いばかりか、この私まで敵に回すつもりとは――正直、もっと賢明な方だと思っていましたが』
眼光が一層鋭さを増す。猫の肉体が軋みを上げる。
『この端末を破壊するということは、我々が築き上げんとする新世界の秩序に歯向かうということです。貴方とは協調できると思っていただけに、実に残念』
風船が割れるかのような音がして、猫の肉体が内側から弾け飛ぶ。赤い眼光が消え、人狼は静かに目を伏せた。
その視線の先で、義手の青年が安らかな表情を晒している。
まるで着ぐるみの頭部のように狼の首から上が持ち上がり、背後へ倒されていく。
ふわりと持ち上がる深紅の長い頭髪を、軽く首を振ることで左右に分ける。地上太陽からの光が細い髪の間を縫って、顎の線を透かしていく。
髪色に比べると薄い色の唇が、静かな囁きをこぼした。
「心配ないよ。この子なら、きっと貴方たちの作る秩序だって打ち倒して、その先へ行ける」
狼の口に固定されていた青年の左腕が独りでに浮かび上がり、その顔の前に浮かぶ。
左腕を挟んで、意識のない相手を見つめる。ややあって、唇が主無き掌の上に重ねられた。
「だから、もっと強くなってよね、アキラくん」
第五階層が謎の第三勢力の襲撃を受け、掌握される。この衝撃的な事態に対して、地上と地獄の両勢力は沈黙という、事実上の不干渉を決定。
そして正体不明の掌握者は、階層内における一切の闘争を呪術によって禁止すると共に、両勢力に対する自由市場として開放した。
両勢力は即座にあらゆる交換可能な資本の流出を禁止するべく対策を講じた。が、それは同時に第五階層に流入する物や人が地下化することを意味し、暴力と犯罪が跳梁する闇市場を迷宮内に成立させることとなる。
結果的に、そこが真の意味で『自由』で『中立』な地帯であったことは一度として無かったのだが――。
すくなくとも両勢力の住人が混在し、交流する空間が生まれたことは確かだった。
その混沌の坩堝の中を、隻腕義手の男が、一人きりで彷徨っていた。
血と暴力に支配された猥雑の中を、腕一本のみで渡り歩き、のし上がっていく男は、いつしかその異様な風貌から『鎧の腕』とあだ名されるようになっていた。
そこから遠く隔たった地上。狭く暗い独房の中で祈りを捧げる者がひとり。
黒く、闇のような左手を雁字搦めに金鎖で縛られて、寝台に横たわりながら無力に責め苛まれる。生還した地上で待っていたのは無機質な社会と、組織に所属するという現実。頼みとする暴力すら通用しない、個人を圧殺する仕組みがそこにあった。
ゆえに、祈るしかない。身じろぎ一つできなくとも、ただ失われたであろう一つの約束、そして再会を思って。
「だから人は失われたもののために神に祈るんだよ」
天と地の境界。無数の世界槍が空間を貫き、その全てで血みどろの争いが行われているのを眺めながら、赤い髪の魔女が、狼の毛皮を脱ぎ捨てながら呟く。
「理性は失われた。文明は失われた。進歩は失われた。奪え、殺せ、勝ち取れ。野蛮へと絶え間なく後退し、停滞し続けることを人類は選択した」
歌うように、酔うように、意味のない戯れ言を並べ立てる。その様を見るものは誰もいないというのに。
「野蛮でないものは失われた。ここは棍棒と呪術の世界。血と闘争、鉄の願いが支配する、地獄すら狩り場にして恥じない呪われた世界」
この世界を、多くの異世界がゼオーティアと呼んだ。
どのような言語に由来するのかは判然としないが、その意味だけははっきりしていた。
普遍。あるいは、ありふれたもの。
無数に広がる多世界の中でも、極めてありふれた、既知感だらけの凡庸な世界。
「だから今は祈ろう。祈りながら、祈祷の道具を鈍器に換えて、殴って悪夢を醒ましてやろう」
地平線の彼方から太陽が昇る。山々の稜線を輝かせて、地上太陽の光すら塗りつぶし、真の太陽が天地を等しく照らしていく。
夜明けと共に、無数の世界槍の中で命が散り、また迷宮が再構築されていく。
朝が来てもなお、血と鉄に彩られた悪夢は続く。
今はまだ。