5-69 永劫線セルアデス
観客たちの『動物的熱狂』が加速する一方で、選定レースの舞台である大型スタジアムの内部には冷え冷えとした静寂が満ちる。
スタジアム内部には意図的に静けさを保つように設計された空間が幾つかある。
人目をはばかるように施設の片隅に設置されている来賓用の応接室がそれだ。
呪術的な静謐というのは、殺意ある呪詛によって生み出されるものだ。
血みどろの部屋は静かに牙を剥く。
外部からの占術探知に反応して防護システムが起動。血流星座回路が命占抗体を作り出して複数の勢力からの視線を遮断する。『荒っぽく大雑把だが戦闘的傾向のB型黄胆汁気質』の血液タイプが火力天と照応、数で処理能力を飽和させる目的の仮想使い魔群をまとめて焼き尽くした。
血液型占いと紐づいた防衛システムは本来ならガロアンディアンや『塔』に由来するものではない。提供されたものをそのまま使っているのは、ある種のコミュニケーションの一環だ。壁面内部に張り巡らされた防諜対策はやや過剰とも思える仕掛けではあったが、これから出迎える相手を考えればやりすぎということはないし、信頼のメッセージくらいにはなる。少なくとも機械女王トリシューラはそう考えていた。
杖の魔女は平坦な表情でソファに腰かけてじっと扉を睨みつけていたが、思い出したように『むすっとした顔』を出力した。既に約束の時間をだいぶ過ぎている。意図的な遅刻だろう。だが待つ価値のある相手ではあった。
厳密に言えば、彼女は現在レースの実況中継を行っている本体ではない。過去のボディを同時使用して後で記憶を同期するという疑似タイムスリップの最中であり、『この』トリシューラは少しばかり前に使用していた機体だ。未同期状態ゆえに、『現在のトリシューラ』よりも経験不足な個体として設定してある。
自己同一性を保ったまま自分を増やせるため便利といえば便利だが、多用することで呪術的な脆弱性も生まれやすくなるリスクがあった。不本意ではあるが、祝祭中はどうしてもこの荒業に頼らなくてはならないケースが生じる。
まさしく今がそうだった。
この相手ばかりは、彼女自身が対応しなくてはならない。特にこの局面では。
「久しぶりだな、九号。そのボディならエルネアーズと呼んだ方がいいかな?」
扉が無造作に開かれるや否や、よく通る声が響いた。視線は鋭い。ある種の傲慢さと勇猛さをほど良くミックスした敵愾心を露骨にぶつけてきた。魔女盛装の黒いローブで出迎えたトリシューラとは反対に、くたびれた白衣姿でこの場に現れたのは尽くす礼を持たないという意思表示、ではなく単にずぼらなだけだろう。それなりの古なじみゆえに、ある程度の性格傾向は理解している。これも不本意な点だ。
「とっくにトリシューラだよ、二号。『今』はマラコーダと一緒に『盾』に合流して、『松明』に接触したあたり。ていうか、失敗作みたいな言い方を一番嫌ってるのって貴方だったよね? 何がしたいの、ピュクシス?」
じっと見つめると、相手はずかずかと部屋に踏み込んできたかと思うと大仰な仕草で対面のソファにどっしりと腰掛けた。音声指示で待機していたドローンに我が物顔でロクゼン茶を頼む。運ばれてきた暖かい茶に顔を近づけ、熱すぎると文句を言いながらふうふうと息を吹きかけた。
「とりあえず、一息つきたいかな。祝祭というのはどうにも騒がしくてかなわないよ。インドア派には向かないイベントだね。おや? 君もそうなんじゃないのか?」
『盾』の呪術技官ラーゼフ・ピュクシスという名はそれなりに重みを持っている。とりわけこの祝祭の中では。だが眼鏡に白衣という飾り気のない研究者スタイルをいつでも貫くこの女性は、そういったしがらみを無視するかのように振る舞う。
「ガロアンディアンにいる未来の私はけっこう行動派なの。引きこもりのあなたは知らないだろうけどね」
軽率な身軽さを咎めるように、トリシューラは旧知の相手を皮肉った。『塔』の魔女たちが叡智と美学の全てを注ぎ込んだ芸術品は、失敗と断じられてなお美しい。彼女のデザインは古代ジャッフハリム時代の彫像がベースだと聞いている。古き良き時代の再現。それがピュクシスという人造魔女の設計理念だ。
「そもそも護衛も連れずにこんなとこに来てていいの? なんか出世したんじゃなかった? 異獣憑き部門の管理官で、『智神の盾』では典礼総監の役職までくっ付いてきたって話だけど」
「立場のことなら心配無用だ。そもそも『智神の盾』が『塔』寄りの組織なのは公然の秘密だし、フィリスの調整という名目もある。それにいま、クロウサーのクーデターで『上』は大騒ぎだ。私のような羽虫の動向に神経を尖らせたりはしないさ」
「仕掛けに関わってた当事者のくせによく言うよ」
「それは君もだろう」
異論はない。それに関しては共犯のようなものだ。
異獣憑き専任技官としてはトリシューラの後任で、前任者の偉業に劣等感を抱えながらも対抗心を燃やし、大神院独力での寄生異獣開発に心血を注ぐ研究者。そのため常日頃からトリシューラに対する敵意を露わにしている。それがピュクシスに与えられた少々露骨なカバーだ。いくらか本心も混じっているかもしれないが、実際のところ『塔』で開発された姉妹機の二人は協力関係にある。
「来訪者同士の協定はまだ有効だ。少なくとも、セルアデスとクロウサーの蜜月は続く。我らの関係も同じだ。少しは歓迎の意思を見せたまえよ。末っ子に冷たくされてお姉ちゃんは悲しい限りだ」
「姉ヅラやめろ。トリシルシリーズで明確に姉妹機って言えるのはアレッテとアマランサスくらいだから。ま、九姉評議会の方針もあるし、本格的に来訪者たちと対立するつもりはないよ。けど、本当にそっちは大丈夫? 派手に動きすぎて『松明』に目を付けられてるんじゃない?」
「人を間抜け扱いするな。それに『派手に動きすぎるな』はこっちの台詞だぞ。なんだあの茶番は」
「うっさいなぁ、いろいろあったの。こっちはそっちと違って『塔』以外の後ろ盾なんてろくに無かったんだから、多少の無茶が必要だっただけ」
ピュクシスという家名は実在する。人造姉妹計画の一号機であるリールエルバと同じように、二号機であるピュクシスは遺伝子提供者ごと抱き込んだ上で『地上社会に確固たる立場を有する魔女』としてデザインされた。末妹候補ではなくなったからといって、彼女の有用性が失われることはない。上方勢力における地位の確立こそがピュクシスと呼ばれる魔女に期待される役割であった。
「過去の件はいい。私の働きかけで指名手配も解除してやったことだしな。泣いて感謝しながら足を舐めろ。茶番というのはハグレスの件だ。クレアノーズお姉さまが動いてるだろう。あれはいったいどういうつもりなんだ?」
「素足を出して犬にでも噛まれてろ。ハグレスいじめのことなら、あれはクレアノーズお姉さまの趣味でしょ」
「神々の戦いが趣味?」
「第二から七十までの浄界使ってるうちは時間稼ぎモードだよ。『この後』の見通しが立つまでは踊ってるんじゃない? 話を戻すけど、今回は『塔』や『盾』じゃなくて、そっちの立場で来たって認識でいいんだよね?」
トリシューラの視線が圧力を増す。比喩ではなく、最大限に心理的圧迫感を演出するための表情モジュールが『刺すような視線』を作り出しているのだ。それを平然と受け止めながら、ピュクシスは笑った。
「このタイミングだ、それしかあるまい。もちろん、クロウサー家の一員として訪問させてもらったまでだよ」
ラーゼフ・ピュクシスという人間社会での名前が相応の価値を持つ以上、価値ある血を内側に取り込むことに貪欲な彼らは当然その発想に至る。
クロウサー家が『塔』の魔女候補であるピュクシスを娶ったのは必然だった。
「正直、私はピュクシス・クロウサーって響きがもう面白い。サンブル家はチャレンジャー過ぎるよ」
「好きに侮り、そして恥をかけ。婿入りしてからというもの、私の血族内での地位は高まるばかりだ。今回の選定が終わればこの文明圏における『代行者』を正式に拝命することになるだろう」
サンブル家には『代行者』と呼ばれる役割の者が複数存在している。彼らの言葉は時にサンブル家の現当主よりも重んじられる。彼ら彼女らは常に男女の夫婦であり、霊媒にして代弁者だった。
ただし、このピュクシスだけは違う。
トリシル二号機は、単独にして対であるからだ。
「それはよかったね。ていうか、嫁入りじゃないの?」
「どちらも正解だな。既に並存実験は成功した。見てみるか?」
「へえ。単なる霊媒か中継器で終わるかと思ってた」
「抜かせ。私は常にお前の先を行く。あちらのレイヤーでもな」
瞬間、ラーゼフ・ピュクシスの瞳から光が消失。
アストラル体の反応が完全に離散し、マテリアル体の脳波も停止。
消えた空隙を埋め尽くすように風が吹く。
それも、二つ同時に。直後、ピュクシスが再起動する。
完全なる別個体として覚醒したのだ。
それは、騒がしい風として室内を駆けめぐった。
「はぁい、トリシューラちゃん。ウチと直接お話するのってはじめてだよね~? これからいい感じにやっていきたいから、とりあえずよろしく~! でさ、ウチってばマラコーダちゃんが推しアキラなんだけど~、よかったら会わせてもらえない?」
「まあ落ち着けよハニー。今は隣界のはずだ、レースが落ち着いた後でもいいだろう。アイスブレイクもいいが、機械女王は根っからの『杖』信奉者だ。早めに本題に入った方が話がスムーズじゃないか?」
独り芝居、のように見えるがそうではない。
ピュクシスという魔女の内側に、対の『個我』が同時に存在していた。
左右の瞳に別々の意思、魂の色、半透明の表情を映したピュクシスを確認して、トリシューラはあらたまった態度で応じる。
「はじめましてルラーマ、それにカルパオッソ。人格の同時再現が成功したようでなにより。サンブル家に送った聖婚のデータは役に立ったのかな?」
「とーっても! おかげでこの文明圏でもダーリンといつでもちゅっちゅできてサイコーよぉ! もうねぇ、トリシューラちゃんとアキラちゃんにはベストカップル賞あげちゃう! ちゃんと式挙げるならウチを頼ってね! サンブルブライダルプロデュースが全面協力して最高の結婚式にしてあげる!」
トリシューラの前にいるのは既にラーゼフ・ピュクシスを名乗っていた人造姉妹ではない。その器を『化身』として現世に顕現した高次元の神なる存在だ。
クロウサーの古き血族、サンブル家。その中に生まれた二人の超越者。
現代のサンブル・クロウサーは表向きエジーメの分家ということになっているが、その実態は逆だ。確かにエジーメとは親戚ではあるのだが、彼らはエジーメに取って代わられた本家である。
オーブルディース・エジーメ・クロウサーが冥府下りを成功させたことでエジーメ分家は主流血族に成り上がり、主だった高位呪術師がダウザールと共に戦死したサンブル家は没落していった。
とはいえ、最盛期の勢いを失っただけでクロウサーであることに変わりはない。
エジーメに劣るとはいえ相応の家格を維持したまま血を繋げてきたサンブル家だったが、転機は突然に訪れた。
カルパオッソとルラーマという新星の誕生が全てを変えたのだ。
一代で終わった栄光ゆえにエジーメから冠を取り戻すことはかなわなかったが、超越者の影響は現代に至るまで残っている。肉体が滅びた後も世界に干渉し得るほどの力。いかに杖の魔女といえど、それを軽んじることはできない。
騒がしい二人を抜け目なく観察しながら平静を装う。相手はお気楽なカップルに見えるが、トリシューラは檻のない状態で猛獣と向き合うような心地だった。
「どういたしまして。式についてのお話も興味深いけど、今は私のプライベートよりも祝祭に絡めたイベントの話がしたいかな。たとえば」
「リーナ・ゾラ・クロウサーの結婚式、というのはどうかな」
遮るような男の声。カルパオッソは主導権を握りたがるタイプのようだ。
「選定レースが終わり、正式に空使いとして認められた直後に婚約を発表。祝祭のフィナーレを飾る電撃的かつ華々しい結婚式で世界に新たなリーダーの誕生を知らしめるのさ。なにごともクールかつダイナミックに、だ」
トリシューラは男性的に振る舞うピュクシスと重なり合う男の姿を幻視した。サイドヘアを撫でつけ、大胆に露出した胸元を国宝級の呪宝石ネックレスで飾った野性味あふれる男がこちらを見ている。邪視の射程内だ。
「物凄いスピード感だね。相手はもう決まってるの?」
「ダウザール様の思惑とは少々異なるが、我らサンブル家はシナモリアキラを推している。特にマラコーダ。彼は妖精王の血統だろう? 『上』と『中間』を繋ぎつつ紀人と妖精王の両取りだ。急がないとライラが虹犬の王族あたりから『下』との繋がりを作ろうとするはずだからね。こういう慌ただしい状況の中で申し訳ないが、身内の意表を突くためだ。ご理解いただけるかな?」
「合理的な判断。流石、というべきかな。こちらにもメリットがある話だ」
トリシューラは女神候補であり、ガロアンディアンの機械女王だ。相手が老練な巨人であろうとも臆することは許されない。とはいえ、この怪物を前にして気圧されるなというのも難しい。特に、結婚という呪術儀式に関してなら相手はトリシューラを遥かに上回る積み重ねがあるからだ。
結婚式という儀式は群れの必然から成立した社会制度であり、宗教的な儀式でもあり、共同体内部の論理に従属する使い魔的な契約の手続きでもある。人間社会と密接に結びついてきたこの結婚制度こそは、クロウサーの力の礎でもあった。
巨大血族の大方針である婚姻政策。
その中で重要な役割を果たしてきたのがサンブル家である。
ブライダルを中心にホテル、レストラン、美容、化粧品、パーティといった事業を手掛けるサンブル家は世界各国の上流階級、大企業、呪術結社といった支配階層が交流する『場』を用意する役目を担い続けてきた。
二人の当主は、その状況に新たな風を吹き込み、サンブル家の力を更に拡大させたという。それも上流階級だけではなく、広く中流や下流にまで。
結婚の形式が時代の流れと共に変化していく過程で発生した『恋愛』という価値。
それを商品化したのがカルパオッソとルラーマというカップルの功績だった。
『愛』を巡る呪術観。クロウサーという来訪者の本質に、この一対は触れている。
トリシューラは、それを恐ろしいと思う。
同時に、興味深いとも感じていた。
「私個人としては、クロウサーとはこれからも良好な状態を維持していきたいと思ってるよ。とりわけサンブル家は私が『松明』にいた頃から協力関係にあったわけだから、その申し出を無下にはしたくない。ただ」
言葉を切って相手の様子を窺う。
ルラーマが面白がるような視線を向けていた。半透明の女は一見するとウェディングドレス風の装いだが、よく観察すると水着に近い露出度だ。正気とは思えないが、不思議と奔放に振る舞う女の軽やかさとはよく噛み合っている。
トリシューラは相手の内心の推測を諦めた。翻弄されるだけだ。
「当主の意向はどうなのかな。私がサンブル家との関係性を重視してリーナの意思を軽視してしまったら、クロウサー全体との関係性が破綻しかねない。あまり軽率には回答しかねるよ」
「その答えはじきに出る。我らが課す試練の風は、愛の答えを問うのだから」
リーナの意思を軽視はできないが、サンブル家の意向も無視できない。
トリシューラにとってサンブル家は重要な取引相手だからだ。
呪文の座との同盟関係は重要だが、その優先度が杖の座を上回ることはない。
最大限の支援は惜しまない。その上でリーナが敗北するなら、先を見据えて動く必要も出てくる。どちらが勝つにせよ、クロウサーという巨大組織の交渉窓口をリーナやメートリアンだけに絞っていてはどこかで限界が出てくるだろう。
「やだっ、ごめんね~トリシューラちゃんってば板挟みになっちゃって! 困らせるつもりなんてなかったんだけど! もーダーリンってばイジワルなんだから! でもそういうところもカッコよくて、ちゅきちゅき~!」
「俺も君の優しくて気遣いのできるところが好きさ! 愛してるよハニー!」
ピュクシスが『カップルのイチャイチャ』を演じている場面はそこそこ面白いが、面白がってもいられない状況ではある。
見つめ合う半透明の男女の間に横たわる空気が瞬く間に熱っぽくなり、なんとトリシューラの目の前だというのに盛り始めたのだ。
「やぁんっ、ダメよ、ダーリンったら、トリシューラちゃんが見てるのにぃ」
「その方が燃えるだろ? せっかくだから見せつけてやろうぜ」
トリシューラは携行している拳銃を取り出して銃弾を撃ち込むべきかを一瞬だけ検討したが、ピュクシスが痛い思いをするだけなので止めた。意外なことに機械女王にも慈悲はあるのだ。
しかし人間らしい良心を発揮しても問題は解決しない。
むしろ状況は悪化の一途を辿っていた。
抱き合うカップルの狭間に、どこかから青く粘ついた液体が流れ込む。
「融血呪」
小さく呟く。トリシューラにとって馴染み深いそれは、既にガロアンディアンに存在することが当たり前になった呪術の名前だ。
青い血はクロウサーを経由して世界のいたるところに浸透している。
『塔』の禁術とされていたそれをトリシューラは松明の騎士団に提供し、寄生異獣という実験的な試みが行われた。表向きはそうなっているし、物事の一面だけを切り取ればそれは事実だ。
「あは、ダーリン、トリシューラちゃんがウチたちの繋がってるとこ、じーっと見てるよ? 恥ずかしいね?」
「ふっ、初心なお嬢ちゃんをからかってやるなよ。もしかしたら研究者としての知的好奇心ってやつかもしれないぜ? こいつに関しては、もうすっかり彼女も専門家になっちまったわけだしな。ある意味じゃ、ここにいるのはみんな家族なんだ」
どろどろになって、男と女が混ざり合う。
血と肉と骨、そして魂までもが。
実のところ、寄生異獣の本質は『異なる二者の合一』という点にはない。
融合そのものではなく、『劣化した青い血』によって繋がっていること。
二者の間に存在するものが寄生異獣技術の核心である。
トリシューラが寄生異獣計画を推進した理由は幾つかあるが、最大の目的は融血呪の普及化による価値の零落だった。
末妹選定が開始された直後に蛇蝎将の末裔マラコーダ=フィド・シュガと接触したことで、トリシューラは『偶然にも』青い血についての知識を得て、その力の一端を手にした。彼女は青い血を用いて強大なトライデント陣営とのアドバンテージ差を埋めようとしたが、極めて慎重な取り扱いが必要なそれを単なる戦力強化のためには使うことはしなかった。
最大の壁であるトライデントの神秘性を『杖の座』のやり方によって貶めること。
『異獣』と『人類』が境界を失うことは『われわれとは異質な敵』という大前提に対する意識が薄められていくことを意味する。
「ああ~ん、ウチら、融けちゃう~ン」
「ああ、俺のルラーマ、俺はもう君だ、君は俺だ! 愛してるよカルパオッソ!」
滑稽な光景だとトリシューラは思う。
そうするためにサンブル家と組んだ。
融血呪という禁忌の秘術は、『バカップルがいちゃつく様子』で表現される程度のものでしかない。松明の騎士団が兵器として運用する程度の量産品でしかない。
戦争と恋愛の対比。対立と融和の相克。その構図に意味があった。
心身の融合というアプローチは、想像力を介さずとも強引に共感と類似を招き、アナロギアという呪術の根本原理を成立させる。
『聖絶』をはじめとした原理主義的な好戦性を発揮する上方勢力と終戦を目指す下方勢力に呪術的親和性を植え付けるという計画は、世界槍の中心部にガロアンディアンを復活させるというトリシューラの目標の布石である。
だが、いかに『塔』が強大な力を有するといっても、独力で寄生異獣計画を成立させることはできなかった。『青い血』に対する知識を持ち、それを大神院に広めることが可能な者たちの協力が必要だ。
そもそも大神院がキュトスの魔女たちを異端と定めている以上、その内部に足がかりを作ることは不可能に近い。そのために必要な『仲立ち』が両陣営と深く結びついている第三勢力、すなわち太陰とクロウサーだ。
『智神の盾』はその成立当初から太陰の影響下にあり、大神院の本拠地である央都はクロウサーの本拠地でもあった。
クーデター計画はレメスが封印された時点で動き出しており、クロウサー家は計画成就のため、動きを気取られぬように第三勢力の助力を必要としていた。
サンブル家がカモフラージュ用の『実行役』として目をつけていたのは『智神の盾』だった。寄生異獣計画の主導者がトリシューラに移った後も、その影で『青い血』を大神院内部で広げるべく活動を続けていたのがピュクシスである。
いわばこの部屋にいる者たちは以前からの共犯者だ。
カルパオッソの『家族』発言も、あながち間違いではない。
「不服そうだな、トリシューラベイビー。そいつは幼さだぜ」
不意打ちの呪詛。熱烈な愛を恋人と紡ぎながら、風だけを震わせて声を届かせる。高位の呪術師ならば当然にできる芸当だ。
「幼さ? それがどうしても必要なアピールだとでも?」
青い血にまみれて恍惚と虚空を見つめるピュクシスに向かってトリシューラは問い返す。この二人の底はまだ知れない。ただ、簡単に利用できる相手ではないことだけは確かだ。ひとたび契約してしまった以上、もう逃げられない。
相手はクロウサーの中核を担う風。
退路はない。対峙し続けるしかないのだ。
その意味で、今のトリシューラは誰よりもリーナの気持ちがよくわかる。
「寄生異獣計画の真の目的は、リーナちゃんが救世主様を生み出したあとではじめて理解できるようになってるのよ、トリシューラちゃん」
ルラーマの言葉は謎めいていた。
寄生異獣計画の雛型はクロウサー家が作り上げたものだ。
トリシューラは、それに便乗してトライデント陣営の弱体化を図ったに過ぎない。クロウサーが彼女を利用するつもりであることはわかっていた。だとしても、未知の呪物を知らないままにしておくことはトリシューラにはできない。
解析と研究、杖のメソッドによる逆利用は絶対に必要なプロセスだ。
杖という信仰を貫いた。そこに後悔はないはずだ。
だが果たして、その判断は本当に正しかったのか。
「『下』との戦いで優位に立つことを考えているの? けど、クロウサーから救世主が生まれてしまえば状況は一変するんじゃない?」
「そいつは少しずれてるな。『下』との戦いは、異獣との戦いとイコールってわけじゃない。俺たちクロウサーはジャッフハリムが誕生するより前から異獣と戦い続けてきた。いや、ここはあえて『ホラー』と呼ぶべきかな」
「それは、大魔将イェレイドへの対処ってこと?」
「寄生異獣とは異獣化の呪いを打ち破るための唯一の希望なのよ」
機械女王は致命的な状況を今になって自覚した。
根本的な知識量、前提となっている視点がトリシューラには欠けている。
『異獣』という言葉への認識が、こちらとあちらで微妙に違っているのだ。
「異獣に抗う戦士たちが最初から異獣であるという矛盾を抱えていれば、彼らが異獣に堕ちることはなくなるだろう。大魔将イェレイド本体に誰も勝てないという問題の解決策として、寄生異獣はほぼ唯一に近い解答だ」
意味の擦り合わせをここでするかどうかを迷いながら、トリシューラはまず必要な指摘をすることにした。知識量の非対称性という状況は一方的な相手の優位に繋がる。解消すべきだが、相手に教えを乞うのは危険な予感がした。
「その危うさを無視する限りにおいて、でしょう?」
「危うさ。ああ、ベイビー。まだそんなことを言っているのかい?」
「あなたも包まれてしまえば、この素晴らしさが理解できるのに」
いまや恋人たちは完全な肉の流体となって一塊の悪趣味なオブジェと化していた。
同時に、先ほどまで存在していた滑稽さもまた薄気味の悪さに変質している。
融け合えば、きっとそれは素晴らしいものに変わるのだろう。
青い血にはそうした性質がある。
それを知っているからこそ、トリシューラは本能的な恐怖を覚えた。
比喩ではなく、未来の女神が、機械女王がその事実をはっきりと恐れたのだ。
ここにきてトリシューラは生まれて初めての理解を得た。
愛とは、誰かにとっての『ホラー』なのだと。
遥かな彼方、天の御殿の内側に愛が吹き荒れる。
交わる恋人たちが藍の海で戯れる光景の手前で、リーナは意外な人物と対面していた。当惑と不可解さで箒の速度が緩む。アズーリアに紹介された時には知る由もなかった。リーナとて、分家の婿や嫁を全員把握しているわけではない。だからこそ、その宣名は不意打ちとして機能した。
「トリシルシリーズ二号機、ラーゼフ・ピュクシス・サンブル・クロウサー」
雄々しい風圧と共に、機体コンセプトが説明書付きで飛んできた。
ピュクシスは男性的英雄の視座で思考の範囲を限定し、偏った視点からの高精度な未来予測が可能という触れ込みの魔女だ。まことの名を切り替え、歴史上に登場する様々な『杖』の呪術師を参照してその性質を引き出せる。
「では具体的にどこから参照しているのかというと、実は種は単純でね」
白衣がはためき、魔女の頭上で空間が歪む。
リーナは彼方に翼を幻視した。
左右に広がるのではなく、過去と未来に広がる翼。
どこへでも行けるし、いつにでも飛べる。
それを、リーナは知識として知っていた。
「ノエレッテお姉さまの、永劫線?」
「そうだ。この世ならざる時空のひとつ。そして『塔』と盟約を結んだ来訪者の一柱、セルアデスの別名でもある」
永劫線は時間と空間の縛りを越えて、あらゆる情報が遍在する『過去にして未来である現在』だ。
垣間見た者は予言者、あるいは霊媒師のように振る舞う。
この世ならざる『彼方』は、ある意味で冥府や天界にも近しい。
「実際、セルアデスという来訪者は幽月においては死と葬送を司る天使としての役目を担っていたらしいよ。ああ、顔つきが変わったね? 察したのかな」
「あの、それって」
「師匠である穴掘りニースフリルと永劫線ノエレッテが私に与えた能力は『歴史の参照』だ。魔導書や遺物も併用するが、過去の人物をじかに再現する際には『永劫線』にアクセスして引っ張り出す。ある意味では、死霊術士のように」
リーナが握る機甲箒が何かに共鳴するように微振動を繰り返していた。
『死人の森の断章』が形を変えた箒にとって、無視できない何かが始まろうとしていた。リーナはそれが何なのかを既に知っていたが、理解したくないという感情が優る。乗り越えたはずだ。それでも苦痛は苦痛。傷は傷なのだ。
「さて、私は本来きみたち呪文の座を支援する立場で、完全に味方なのだが」
謝罪の意思を示すラーゼフの個我が、徐々に希薄化していくのがわかった。
顔が印象から消えていく。美しいだけの彫像に表情はない。
美術品のような美貌。削り方を変えれば、それはまた違った芸術となるだろう。
「私にも、私の中にいる『夫妻』にも立場があってね。ダウザールの要請を断れない。というわけで、頑張ってほしい」
ピュクシスの内部が、通常の時系列から隔絶された時空と繋がる。
古き来訪者が目を開く。
『星見の塔』と盟約を結んだ幽月の御使い。
その名は永劫線セルアデス。血と骨と墓を統べる天使長。
冷えた指先は、空の果てから黄泉の底までを掬い上げるだろう。
「酷なようだが、これも試練だ」
普段はラーゼフと呼ばれる医師の人格を表出させているピュクシスの記憶、人格、アストラル体の性質、それに引きずられるように顔までもが変容していく。
少し頼りなさそうで、けれど穏やかで優しくて、絵に向き合っている時の真剣なまなざしがとても綺麗な、とても懐かしい姿。
変容したピュクシスの顔が、やわらかく微笑んだ。
金色の瞳が、淡い輝きを放つ。
「なんだか久しぶりに会えた気がするよ、リーナ。じゃあ、始めようか」
泣きたくなるほどの愛おしさと激痛に襲われながら、リーナは心の準備もできないまま試練に向き合わされる。
ガルズ・ピュクシス。
彼が司る七つ風はある意味で最悪のひとつだ。
その名は『波風』。
平穏と幸福を揺さぶる、波乱と不和の予兆である。




