5-64 そして翼は天へと昇る
白。
空。
果てしない広がりを感じる。
届くと、はっきりわかった。
手を伸ばすことで、雲海を破ることができるだろう。
あらゆる障壁を壊し、限界の向こうへと突き進む。
この速度の先にあるのは未知なる結末だ。
いずれにせよ、箒乗りの目には光だけが見えていた。
リーナ・ゾラ・クロウサーはガルズが信じた『善き当主』になれただろうか?
クロウサーという巨体の重みは個人の意思ではいかんともしがたい。それは集団という構造が抱える必然的な複雑さだ。
空使いの意思は呪縛されている。それでも。
「飛べ。どこまでも飛んでいけ!」
止まらぬ意思がある。心を駆り立てる衝動が心を焦がす。
もう逃げない。
クロウサーの宿命は、ただ奪っていくだけではなかった。
『もはや自由な意思を阻むものは何もない。君を、信じているよ』
金色の瞳を思い出す。綺麗な目と、彼の優しい笑顔が好きだった。
「言理飛翔、加速、加速、加速! もっと速く! もっと高く!」
断章のページがめくられて、仮想の紙片に呪文が綴られていく。
親しみ深い声も、温かい記憶も、どこか遠く感じる。
今はもう、空にひとり。高く飛ぶことは孤独を恐れぬことだ。
刹那の交錯。すれ違う顔に、ふと友人を思い出す。
「エスト?」
黒百合宮の記憶。葉っぱの手紙。懐かしい感覚。
良く知るティリビナ人を見た気がした。気のせいで、別人だ。どこか硬さのある台詞には覚えがない。まだ心に不安が残っているから、ティリビナ人の気配を間違えたのだろうか。密かにパレルノ山に通って支援物資を運んでいた頃の記憶が今となっては遠く感じられる。
「語り遊ぶ詞を藍域に届かせたのは見事。だがこちらにも負けられない理由がある。緑天主レルプレアの彩域を蘇らせるため、悪いが加減はしてやれない」
第五階層の上空。そこは偽りの天空に広がる逆さまの森。星々の果実。ティリビナの聖域は今はまだ虚構でしかない。
幻を通り抜ける直前、微かな声と緑色の燐光が視界を掠めた気がした。
見たことがあるようで、全く知らない速度とすれ違う。
一瞬のうちに、藍の残滓が緑に変わり、また藍へと変じた。
断章にも記されていない知識に当惑するが、リーナにとってそれは未知に対する驚嘆でもあった。今だ知らぬものごとを知るは学習という名の前進である。
「新世代の若き英雄リーナ、旧世代の支配から脱出! 急上昇の真意とは?!」
鋼鉄の棺を見た。内側に秘められた死と怒りを肌で感じた。こちら側に向いたものだが、それだけでは終わらない。あらゆるものを焼き尽くさんとする炎だ。
「上出来だよお嬢ちゃん。けどわかってるね? ここが入口だよ。この先にあるのがミブリナが見ていた光景。このババアが遂に越えられなかった壁もそこにある。せいぜい覚悟して挑むんだね。安心しな、寂しくないようにすぐ追いつくさ」
熱い闘志を背に受ける。
こちらを好敵手と認めた視線がちりちりと尻を焦がすようだ。
速い。ビルメーヤ、あるいはビルメーヤと名乗っている誰かは流れの変化を敏感に感じ取り、即座にこちらの動きに対応していた。
箒レースという勝負の中で、リーナは圧倒的に格上の相手と競ってきた。半ば操り人形と化していたとしても、彼らはみな若き魔女の師であった。
光を掴み、木々を躱し、都市の光に照らされながら更なる空を求める。
自由の意思を見つけたリーナは荒天と踊るように上下に揺さぶられた。
飛べ、飛べ、飛べ。光の先に飛べ。
気付けば、目の前に竜の巫女マルガリータが静止している。
「正解。上からでも下からでもない。天地は等しく、生と死もまた等しい。空虚とは同時に充溢でもあるのだと、自力で気付いたことは賞賛に値する。開門の役目は譲りましょう。あとはその力と意思が彩域に痕跡を残せるか否か」
裁定者の言葉が響き、それが放射状に広がる呪文の竜だと気付く。
泳げ、泳げ、泳げ。闇の向こうに泳げ。
支配の呪いに溺れていたリーナは海中でもがくようにして呼吸を求めた。
闇を抜け、石筍を避け、泥のような冥府の風を裂いて光へ向かう。
箒レースという闘争の中で、リーナはずっと超越者たちに翻弄され続けてきた。身体に刻まれた苦手意識を消すことは容易ではない。
怖い。ファーガストとチェダラーテが融け合った存在を感知して感じたのは脅威。これはダウザールと同質の、リーナに害なすものだという確信がある。
追われている。
こちらを脅威と見定めた狩人の呪いが背後に迫るのを肌で感じる。
「っぶねっ、クソ女てめ何考えてんだっ」
「いいえ、彼女には見えているものがある様子。包囲を維持しましょう。呪文のみで追跡を。私の『嘶き』を風に乗せて上空に射出。急いで」
混ざり合う兄弟を見た。その内側で育まれつつある生と愛を知覚した。閉じて完結しているが、その続きがある。じき産声を上げるであろう歌を予感した。
「逆走とは愚かな女だ。突飛な行動で勝てるほどレースは甘くない」
「待てエンハ、これは呪文的アセンションでは? 侮りは死、すぐ再検討だ!」
魔導書から流れ込む知識が多くのことをリーナに示し、善き教師となって彼女の飛翔を助けていた。それは遡りながら前進するという学びそのものだった。
周囲に流れる風を読むと、黒と藍の気配が交互に入れ替わっている。
粘つく闇を通り抜けると、亡霊たちの囁きと誘惑が耳をくすぐった。
第五階層の地下。そこは冥府に見立てられた洞窟。降り注ぐのは生まれぬ命。ヒュールサスの残滓は原初の光景を再現しようとしていた。
「ミブリナのように呪文を信じるか。それはゾラの道、そしてお前の道だ。俺とは違う。だが、道とは常に双方向に広がっているもの。箒という言の葉が交わる瞬間が再び訪れるだろう。クロウサーと対峙するなら、それを心に留めておけ」
簡素で必要十分なやりとり。たいして彼のことを知らないはずなのに、リーナは昔馴染みと話しているような感覚に襲われた。ガレニスの反逆者。箒に頼る異端児。とても他人とは思えなかった、幼い頃の憧れが懐かしい。
遺された遺産。箒と手紙。彼のことは良く知っている。
「ばいばい、パーン。本当はあなたのファンだったよ」
憎かったはずの仇と穏やかに視線を交錯させる。
いま、抗いの意思は断絶することなく受け継がれた。
敵はそこにいないのだと、今は理解できる。
断章は闇の中で確かな存在感を主張し、呪文の解放を待ち続けている。
「いいですかリーナ、あなたが積み上げてきたものを信じて! 箒は杖、飛ぶための道具は言葉! 意思だけで飛ぶなら、機甲箒ではなく書を箒にしなさい。死人の森の断章を預けます。いつもの大学ノートよりもずっと上等な魔導書なんですから、これで勝てないとは言わせませんよ」
メートリアンが、リーナを見ている。金色の右目はまだ輝きを残している。
「無駄なこと。既に肉体は私の支配下に置かれている。クロウサーの家に生を受けた時点で、お前は血脈から逃れることはできん。おとなしく竜母となるがいい!」
ダウザールは定められた運命でリーナを縛り付けた。
もう逃げられない。
絶対的な恐れと不安がある。それでも背を押してくれる心を感じる。
「飛べるはずだ。飛べるのかな」
空使いの血肉は最初から呪縛されている。
それは名に紐づけられた制約であり、クロウサーという血統に刻み込まれた本能のようなものだ。
リーナ・ゾラ・クロウサーはダウザールが求めた『救世主の器』となった。
箒の周囲をとりまくのは、無明の闇ばかり。
空の竜母は奈落にあり、必然の結末としてクロウサーの勝利が確定した。
森羅万象は暗闇に沈んでいく。
指先で泥を掬うこともかなわないほど深い、藍の海。
沈みゆく肉体が丸ごと包まれたのだと、ぼんやりとわかった。
終わりのない母の抱擁。
闇。
黒。




