5-62 ②
まだその時ではない。それはわかっていた。
この選定レースの中で、『私』という個は不純物だ。
物語における闘争とは、主人公と敵対者の一騎打ちでなくてはならない。
ダウザールが空使いとして既に顕現している以上、パーンという男の物語を締めくくるための決着は必要だ。彼の想いを遂げさせてやりたいという気持ちもある。
なによりも、リーナはこの期に及んでまだ到達の兆しを見せていない。
魔将サジェミリーナを打倒したあの瞬間に見せた才気を忘れてなどいない。
悲観するつもりはないが、さりとて楽観視ばかりもしていられないことも確か。
クロウサーの『空』に至る資質を持ちながらリーナがまだ眠り続けているのであれば、『私』が敵対者として顕現することはないだろう。
シグナルは遠い。
我々が目覚める時は果たして来るのだろうか?
か細い希望に縋る。清算は薄い。だがそれでも期待してしまう。
そこに至った時の喜びを、『私』はずっと待ち焦がれている。
夢を見るような気持ちで、お出かけ前の子供のように。
雲の中で、目を開く。
彼女たちはひとつだった。
そこには広い世界がある。
見晴らす世界はとても透き通っていて。
見るに堪えない醜悪さだった。
散らばった大地の統合と月の剥離。
ゼオーティアという世界の輪郭を定めた神々の合意が成された後も、巨大な天地を巡る争いが止まることはなかった。
巨人たちの闘争は黎明期の文明圏に深刻な混乱をもたらし、それに対抗せんとした理性ある言語支配者たちの回答は『より強固な文明圏の確立』であった。
すなわち世界槍の構築と、あらゆる世界観に対する『貫通』を試みたのである。
それは紀元槍にアクセス可能な偽神たちによる現実改変に抗うためのシェルター。
それは紀元槍の贋作にして不確かな世界に固定的な文明圏を繋ぎ止めるための楔。
それは破滅的な来訪者たちの『播種』から逃れ、『次』を探すための備え。
劣化した偽物ではあるが、世界槍には全てがあった。
信仰という心の寄る辺。
文字という世界への痕跡。
絆という他者とのつながり。
巨大構造物という確かな重み。
ゼオーティアという破綻した世界に対する暫定的な回答は、破滅を先延ばしにすることにかろうじて成功した。
かろうじて、だ。
それは部分的な成功にすぎない。
アルカェ、ヌト、ゾート、ミアスカ、デルゴ、そしてジャッフハリム一世らが死力を尽くして人類文明圏の土台をようやく固定したが、それは最初から仕組まれていた破綻によって瓦解の憂き目を見た。世界は大いに割れ、混乱が続く。
結局、次に引き起こされたのは世界槍を巡る戦いでしかなかったのだ。
そのうちジャッフハリムの言語圏は砕け、乱世となった大地から二大祖国である義国と鈴国が興り、救いを求める声に応じて槍神教と竜神信教が成立した。
その影で暗躍していたのは、世界を遊戯盤に見立てて人の営みを弄ぶ巨人たち。
すなわち、クロウサーをはじめとした来訪者である。
天地の覇権を巡る呪術的な領土争いは激化の一途を辿り、その果てに義国と鈴国、クロウサーとディスケイム、そして大小の勢力を巻き込んだ大戦に変質した。
それは王なき領土を巡る後継者同士の醜い争い。
戦いの中で、クロウサーは幾度となく敗北を繰り返した。
そのたびに不屈の意思で立ち上がり、貪欲に勢力拡大を続けた巨大血族。
だがクロウサーから流れる血の量も際限なく増えていくばかり。
とりわけ致命的な敗北はクロウサーの最盛期に訪れた。
最も偉大なる『空使い』を打倒したのは、鈴持つ女王と結びついた新興宗教の巫女。クロウサーと同じ呪術的領域を巡って争った、紀竜のしもべたる双子の召喚士。名をセレクティフィレクティといった。
本来なら負けるはずのない戦いだった。クロウサーの勢力は当時から圧倒的であったし、ダウザールの力はまだ未熟だったセレクティフィレクティを凌駕していた。
ゆえに勝敗を決したのは外的要因だ。
天空を意味する藍と、大海を意味する藍の激突。
天主を選定する儀式闘争は神話的な象徴を巡って神々さえも巻き込む呪術戦の様相を呈し、最も古き女神たちの闘争を再演する形で決着した。
かくして天は墜ちた。
明藍は砕け、天牢は閉ざされ、七つの風は凪いだ。
再演神話の中でシャーネスはルスクォミーズの腹に収まり、空が静けさを取り戻した後には南の海が騒ぎ出す。自然は擬人化され、天災が映し出す諸相は神話となる。
逆もまた然り。世界は神話によって振り回され、呪術戦は神話によっていともたやすくひっくり返される。神々の内輪揉めに巻き込まれてダウザールは死んだのだ。
冗談じゃない。
死はミブリナにとっての教訓となった。
振り回されてたまるか。誰だってそう思うはずだ。
やるなら振り回す方がいい。自分が神話になる方がいくらかましというもの。
偉大なる天主ダウザールの死によって明藍の彩域は決定的に破綻した。
窮地に立たされたクロウサー家は、早急に血族を導く『空使い』を決めなければならない。だが愚かしいことに議論は紛糾し、停滞した。
遅い。あまりにも遅すぎる。
ミブリナにとって血族の遅さは怒りの対象でしかない。
「親衛隊までもが藍の彩域から戻らぬ以上、ここは残った我らが合議によって次の『空使い』を決めるべきだろう」
「ならぬ。冥府におわすお館さまの魂を呼び戻し、ご意向を確認すべきだ」
「貴様ら無能の首を全て刎ねればいいだけだ。俺以外は全てが屑なのだから」
昔からミブリナ・ゾラ・クロウサーは親類どもの愚劣さに嫌気がさしていた。
それにしたって、この状況下でまだこんな時間の浪費を重ねるのは『なし』だ。
怒りの感情を抱くのもばかばかしくなってくる。
「めんどくさいな。全部まとめてやればいいだろ」
ミブリナの案は単純明快だった。
その場にいた主要な血族すべてに挑戦状を叩きつける。
文句があれば聞く。次の方針を冥府の前当主から聞き出し、ついでに『空使い』の力もぶんどってくる。邪魔するなら競い合ったり殺し合ったりすればいい。話し合いがしたいならまじない使いらしく『呪文』を駆使して競争に組み込むのが手っ取り早い。そう、何もかも『速度』を優先すべきなのだ。迷っているよりずっといい。
「貴様、落ちこぼれの分際で」
「血族の面汚しがおもしろいことを言う」
「劣血めが。身の程を思い知らせてくれる」
こうして冥界下りが始まった。
絶望的な、破れかぶれの挑戦。
落ちこぼれによる最後の博打。
ミブリナの物語はここから始まり、ここで終わる。
雲の中で、目を瞑る。彼女たちはひとつ。
ここも見えている。
その先も。飽きるほど退屈になるまではっきりと。
創作飛翔が得意だった。それしか得意ではなかった。
誰よりも自由に飛翔する自分のイメージ。
主人公になれるという想像力の翼。
言理飛翔。
それは、言葉を重ねればきっと感覚で飛ぶよりも『確かな羽ばたきの手応え』があるはずだという直観に基づく呪文の飛翔術。テキストベース・フライト。
記述とは残すものだ。
ならば、あとに続くものが出てくるだろう。
レコードの更新。その見果てぬ夢の先を、死の先に見ることができる。
絶対なる空使いダウザールでさえ死ぬ。
ミブリナも死ぬだろう。
あっけなく、なにかの途上で。
だから彼女は未来を夢見る。
空想の果て、血脈の遥か先で産声を上げる希望の風を。
若く未熟な箒乗りだった日々を、ミブリナは追想した。
落ちこぼれが絶対者ダウザールの玉座に挑むという無謀と無思慮。だがその空っぽな頭が彼女の存在証明だった。死を覚悟して、彼女は競うことを決めた。
「私、バカだから簡単なこともわかんないけどさ」
「そこは『難しいことはわからない』に留めておいて欲しかったですね」
「バカだからなんもわかんないけどさっ!」
「それ万能の免罪符ではないですよ?」
「気持ちよく飛んでるといろんなことがどーでも良くなるから、なんもわかんないバカでも許されるんじゃない? ずっと飛んでてよくない?」
「そんなわけないってわかってますよね?」
「バカだからなに言ってるのかわかんなーい!」
「そのままだと小鬼化しちゃいますよ」
「ごめんなさい勉強します。ちょっとだけ」
漂う雲の中、心で繋がった師との対話ではおどけて見せながらも、ミブリナは覚悟を決めていた。これは死への片道切符に違いない。これから彼女は冥府へと旅立つ。
全ては選定の儀を果たすため。
ダウザールの魂に触れ、『空使い』へと至るために。
雲の中で、命が弾けるさまを見た。
無数の魂が雨となって闇を裂く。
そのすべてを記録して、追い越して、更新する。
何の感慨もない。決死の覚悟とは、こんなにつまらないものだったのだろうか。
生と死のなんと軽いことか。
成し遂げたのはたったの四人。
大口を叩いた三人は、態度に見合った実力を発揮して偉業を達成した。
だが、最初に目的地に到達したのはミブリナである。
「なんだ、大口を叩いておいてそれか」
挑発したのは怒りを引き出すため。
狙い通りに、男たちは憎悪をたぎらせてくれた。
ミブリナはまるで満足していなかった。彼女が一番怒りを抱いていたのは、実のところ自分自身である。
冥界下りの選定において、自分はベストを尽くせていない。もっと速く一着に手が届いたはずだ。もっと熱をもって飛翔できたはずだ。飛び足りない。まったくもって、熱が足りない。まだまだレースが必要だ。
「文句があるならまたやればいい。『空使い』は選定レースで奪い合うトロフィーにでもしておこう。実力があればいいんだから、まさか文句はないだろう?」
威厳をもって、それらしく振る舞う。
いまや彼女は君臨するチャンピオン。
『空使い』なのだから。
そうしてクロウサーの新たな時代が始まった。
偉大なるダウザールが去り、その息子レメスが西の僻地で奇妙な探求と趣味に耽溺しているあいだ、四つの血族はいつしかクロウサー家の中心にとって代わっていた。
礎たる不朽の名は四つ。
『白翼帝』ミブリナ・ゾラ・クロウサー。
『冠聖堂』オーブルディース・エジーメ・クロウサー。
『玉璽王』ボール・マウザ・クロウサー。
『刎首公』クガルヤイム・ガレニス・クロウサー。
神智。王権。祭礼。審判。
ミブリナたちの偉業は血脈に刻まれた。
現代に至るまで続くクロウサーの栄光、その始まりだ。
しかし。
輝かしい時代は長く続いたが、その内幕は輝きとはほど遠いものでしかない。
この四人による定期的な『競争』はミブリナの提案した通りに続いたが、その子や孫を含めても彼女を超える者はついに現れないままだった。そんな状況を他の三家がそのままにしているはずもなく、結末はあっけなく訪れた。
ごとり。ある日、ミブリナの首が落ちた。
「一芸頼みの無能めが。冥府で己の不遜を詫びろ」
至近距離で放たれた刃は光。美しさすら感じた。クガルヤイムの鮮やかな剣の冴えに魔女は抗う術を持たない。まして、ボールの金眼に魂を呪縛され、オーブルディースの王冠が下す勅令にゾラの血族が縛られている状況では抗いようもなかった。
こうしてミブリナは命を落とした。
悲惨だが、悲劇とまでは言えない結末だ。
ゾラの血族は存続を許された。血の繋がりを特に重んじるオーブルディースにより多くの分家を取り込まれ、本家も傀儡に近い有様になり果てたが、ミブリナの弟が拓いたクァヒートの雲土からエンハドーラという傑物が生まれることになったのは喜ばしいことだ。素直にミブリナは未来を祝福した。
ミブリナの死より時代が下れば、エンハドーラの血肉よりダウザール転生二世が再誕し、再び当主の座に返り咲くという未来も見えていた。血脈という巨大な流れの先を見通すことで魔女は多くを知り、安堵を得た。
同時に、失意と落胆も。
切り離された自分の首と愚かな血族、そしてクロウサーの未来を俯瞰しながらミブリナは嘆息した。
雲の中で、彼女たちは全てを知覚している。
魔女ミブレルが槍に刻んだ呪いの基礎は記述を束ねた文字の雲。
『群雲』は魂や意識といった確たる形を持たぬ情報を扱うまじないだ。
言理飛翔が術者の軌跡を記述して風に刻んでいくように、世界に記されたテキストをアストラル界の中で分散させることがその真骨頂。
クロウサーと同規模の来訪者である永劫線セルアデスとの繋がりから学びを得た雲の魔女は、時空を超越した意識総体となって不死を体現していた。
『塔』での修行の日々はリーナという意識を大いなるミブレルの内側に記録し、同時にリーナをミブレルという地母神を構成する意識の雲と一体化させた。
ミブリナは既にミブレルであり、ミブレルはミブリナである。
それは『塔』で選ばれた高弟のみに明かされる秘儀。拡散するキュトスの姉妹は密やかにその意識総体を世界の要所に浮かべ、雲上から全てを記録し続ける。
ミブリナという名付けは呪文の操作だ。
あれはリーナを不死なる雲の一部に組み込むための儀式でもあったのだ。
陰謀の果てに首が落ちようと、ミブリナに真の意味で死が訪れることはない。魔女の魂は既に可能性の雲となって空を漂い、不滅の槍に刻まれている。
「なんと狭苦しいことだろう」
自分自身という肉体の軛から解き放たれたミブリナは、真の自由を謳歌しながら苦痛の吐息をこぼした。
血というクロウサーの鎖から逃れようと、魂や意識や記憶という形のないものが彼女を縛るだけ。
不死さえ牢獄だ。
巨大な意識流。
分散された思考と自我。
並列同期した個我。
雲の中で、ミブリナは眼を閉じながら開く。
全てが見えた。絶望と希望が。
「なんて愚かしい」
クガルヤイムの首が落ちた。
醜く権力にしがみつくばかりで老醜を晒し、巨人から先に至れぬまま卑俗な世界観を広げることすらできない骨董品。あげく、斬首の刃を子や孫にまで向ける始末だ。
「バカな、なぜ。この手で始末したはず」
「見るに堪えなかった。それだけだ」
現世に自己を再構成して最初に行ったのは自分を殺した仇を始末すること。周りで唖然としてミブリナの姿を凝視するのはガレニスの血族たちだ。
最速の空使いが選定の中で『事故死』してからずいぶんと時が経過している。
いまやミブリナを直接知る血族は巨人であった数人のみ。
唐突に現れて当主を殺害した魔女に、ガレニスの血族たちは一斉に己の杖を向けた。勝てないという確信を持ちながらも、血の絆がそれ以外の選択を許さなかった。
ただひとりだけが違った。
「おい、おまえ」
小さな子供が、ミブリナを睨みつけている。
『絶対に勝つ』という揺るぎない確信を持ちながら、血の復讐ではなく誇りの回復のために戦意を燃やして。
「じゃまをするな。あいつは、おれがかえりうちにするところだったんだ」
非才。劣等。クロウサーにあるまじき才の欠如。己の力で飛べない地虫。ガレニスの汚点。貴様を見ていると不快な記憶が蘇る。恥を晒すよりここで死に絶えよ。
さんざんな罵倒と共に痛めつけられていた子供は、ミブリナが現れなければ殺されるところだった。
我が子を守ろうとした母親は父親に殴られてうずくまっており、当の父親は老人の行為を唇を噛んで看過するのみ。鏡の中から暴挙を諫めようとした血族の守護者は盟約が記された封印の方陣から外に出ることができずにいた。
大多数の血族から見捨てられ、祖父にも等しい家長によって踏みつけられ、最後には首を切り落とされる。その光景を見ていられないと感じたからこそミブリナは窮屈な現世にあえて姿を現したのだが、そこで彼女は意外な可能性を見た。
この未来を、雲を漂う知識として知ってはいた。
だが事実の羅列でしかない。実感ではない。
情報としての質感が違った。
ゆえにミブリナは衝撃を受けていた。超越的な視座によって見下ろしているうちに、いつの間にか彼女は諦観と虚無主義によって魂を蝕まれていたことを自覚する。
このような熱が、このような『見上げる』という挑戦の気概が、まだクロウサーにも残っていたのか。ミブリナは己を包囲する無数の呪詛を無視して、まだ幼い子供をまっすぐに見据えた。
「少年。名は」
かつて少女だったリーナは変わり果て、不死なる魔女となったことで熱を失っていた。だが、目の前にあるものは失ったはずの闘争心と競争心に近しい何かだ。
これは希望であるはずだ。ミブリナには確信がある。
「パーンだ。おれは、おまえにだってまけない」
「いい名だ。私はキュトスの姉妹がひとり、雲霞のミブレルという。パーン、君は私の弟子になりなさい」
あえてミブリナはこう名乗り、クロウサーという閉じた世界の部外者として振る舞うことにした。
それが必要だと感じたからだ。
「いやだ。おまえなんかやっつけてやる」
その生意気さすら愛おしい。
望むところだった。雲たるミブリナは必要とあらば師であろうと好敵手であろうと演じることができる。全てを与え、導くと決めた。母であり姉であり友であり恋人であり、彼の生となり死となろう。
それが未来の果てに見た結末に繋がるはずだ。
失意の中で見たものは、血族の行き詰まり。
あらゆる命がそうであるように、パーンもまた道の半ばで果てるだろう。まもなくダウザールは第三の生を迎え、クロウサーの向かう道はどう足掻いても変わらない。
若き挑戦者の生もいつか血の中に沈む。
だがこの少年が遺すのは、血だけではない。
家の断絶を乗り越えて受け継がれる、杖の記録。
霊なる力を重んじる空の血族の中にあって、ガレニスが杖に適合可能なことの確かな意味がそこにはある。
ミブリナが希望を箒に託したように、パーンは血脈によらぬ外側に遺志を託すだろう。彼の鍛錬と研究はきっと、血脈という中にいては見えないものと結び付く。
その成果は普遍的な意味と価値を持ち続けるだろう。
たったいま確信した。
少年の瞳はクロウサーの外側を映している。限界を超えようとしている。
リーナは過去に絶望し、未来においても絶望するだろう。だが、この少年が遺す熱があればそれだけでは終わらないかもしれない。血脈の外側より来る何かが未来を変えてくれるかもしれない。
魔女の中に、逃避ではなく変革という意思がはじめて芽生える。
勝算があるのなら迷うことはない。
どれだけ遠かろうと、彼方にゴールが見えている限り。
リーナの内で燃える闘志が消えることは、絶対にない。




