5-17 ペラティアの末裔
ノゴルオゴルオ・ディスケイムと威力竜の巫女マルガリータが手を結んでいた。
衝撃と言えば衝撃だが、よくよく考えてみればそう不思議なことではない。
ディスケイム家の影響力は『下』の全土に及ぶ。
そもそもユディーアが竜神信教の巫女であることがその証明だ。
生家であるセインディアの博物城と竜神信教の繋がりは深い。
城主である『金爪』のアゥルメイアからしてかつて第三位の巫女を務めていた古竜だ。
『エレクトラ』に竜覚を叩き込んだ師。血統魔術師の祖。赤蜥蜴人たちを統べる竜血公。ディスケイム家の頂点に立つ長老たちのひとり。
ユディーアは師以外の長老たちと会ったことはないが、おそらくノゴルオゴルオもまたディスケイムの長老格だったのだろう。この程度の手回しは当然と言えた。
腰に手をあててこちらを見据えるマルガリータは驚くユディーアの表情が愉快だったのか、少し得意そうにこう続けた。
「私の箒、見たでしょ? あれこそ工神工房の最新作。ディスケイム家の『オルゴーオルガノン』と協力して開発した最新鋭の紀竜翼機。その名も『威風』よ」
『オルゴーオルガノン』と言えば、確か時代遅れの『非自律型オルガンローデ』を開発研究している呪石兵器メーカーの名だ。『威力のみを追求した純粋なオルゴーの参照呪文としての基礎に立ち返る』みたいな売り文句で、歴代の四十四士ベフォニスたちは『初代のような破壊力』を求めて『オルゴーオルガノン』の呪石を使い続けているとか。
「あー、なるほど。相性ぴったりだね」
「わかる? 白星都市や星見の塔はもちろん、いけ好かないアザミ機関を遥かに凌駕する技術力! 元々、工神工房は北部の岩肌人たちとの繋がりがあった。ノゴルオゴルオとの付き合いだって昨日今日の話じゃないの」
「ぜんぜん知らなかったよ。びっくりしたー」
彼女とプライベートな会話なんてほとんどしないから、当然と言えば当然だ。
さて、ユディーアはマルガリータにどう対応すべきだろうか?
厳格さで言えば第八巫女代行のロザリンダといい勝負、それでいて生真面目さと善良さでは竜導師長セレクティを模範にしているというから、ユディーアとしても素直に憎めない。
今だって敵とはいえ反撃で殺めてしまった命に対して瞑目し祈りを捧げている。
竜神信教は殺生を禁じている。たとえ正当防衛であっても、マルガリータは敵の死に真正面から向き合っていた。神妙な面持ちで残留したアストラル体や塵を集め、一息にすうと口の中に取り込む。もぐもぐとよく味わいながら命の恵みに感謝し、山の狩人たちがそうするように紀竜への祈りを捧げ、供養の同化を行う。ユディーアは『そういやそんなのあったな』と思いながらマルガリータの真面目さに感心した。
しかしそうか、よりにもよってあの実家と手を組んでしまったのか。
うわあ。うわあ。うっわあ。
ユディーアは色々な感情に苛まれた。
どうあっても逃げられない。こんな風に生まれついたからには、死ぬまでこうだ。
生まれ変わりたい。できれば特にしがらみとかがない普通の家庭に。
あの厄介な実家ときたら、星辰国と洞窟国に挟まれた片田舎、東北の僻地でこそこそ交配実験ばかりやっている偏屈者集団のくせに、色々な勢力に取り入る手腕だけは一流だから手に負えない。
面倒くさい、疲れる、適当に話を聞き流してすぐに忘れたい。
そういうわけにはいかないことくらい、わかっているけれど。
ちょっとくらい現実逃避したくなる気持ち、誰かにわかってほしい。
目の前で怪訝そうな表情をしながら言葉を続けるマルガリータに向き合いながら感情を切り離して一歩下がった。たちまち色褪せていく世界。感情が死んでいく。
「話を戻すと。パーンは四十四士ミシャルヒや次期ベフォニスと行動していたんだけど、ノゴルオゴルオは既に一戦交えてベフォニスを奪還したんだって。あんたのお友達と協力すれば、骨董品の腕なんて使ってるロートルくらい楽勝だと思うよ。悪くない話でしょ?」
「レストロオセ派に対する牽制が目的でいいのかな? リーナを勝たせるつもり?」
「そこはラズリと主催者側で話がついてるみたいよ。今頃、明日の打ち合せとか最終調整でもしてるんじゃない? 他の本選参加枠もクロウサー家の息がかかってるから、結託して『パーン潰し』ができる。むしろ『緑』の陣営を警戒した方がいいくらい」
それに関しては同感だった。
今のユディーアにとって、喫緊の課題は妖花の麗人スーリウムへの対処である。
彼が放った刺客、暗殺者シェボリズとレース参加者ロードデンドロン。
レースの裏と表を同時に攻めているスーリウムこそがユディーアにとっての敵だ。
「それと魔道派の後継、勧誘は上手くいってる? ほぼ寝たきりのプラータおばばに穢れ封じはもう無理でしょ。相応しい穢れの担い手が見つかったんだから、引退させてやらんと。早めに動かないと継承が間に合わない。アンタのお友達なんでしょ?」
「はーい。やることいっぱいで大変だなー」
時間を見つけてニアちゃんと話しておくべきかな、地下に行ってる暇あるかな、ていうかこの話は全部終わってからで良くない?
「ねえ、アンタってさ」
どこか白けたような視線。
遠くからそれを眺める自分。
どうしてか、相手の方もこっちを似たような距離で観察している気がした。
「結局、才能あるだけで守護竜を信じてないでしょ」
「まさか。あたし、これでもちゃんとした霊媒だよ?」
半眼でユディーアを見るマルガリータは全く信用していない表情だ。
疑惑の視線。ユディーアはこういう目が苦手だった。
「はっきりさせておきたいんだけど、アンタって結局どこに軸足置いてるの?」
「それはもちろん、竜神信教の巫女として」
「私の前だからそう言うよねアンタは。そういうとこだっての。ディスケイム家は多分だけどアンタを信用してないよ。だから私を監視役に選んだ。それってさ、アンタもディスケイム家や自分の血統を信用してないってことじゃない?」
言葉に窮する。
言い訳なら幾らでも思いつくが、相手が聞く耳を持ってくれるかどうか。
疑念を払拭するのは難しい。相手に信じる気がなければなおさら。
「ディスケイム家の調整体、優れた血統の寄せ集めであるアンタは四十四士の正統でありながら竜神信教に鞍替えせざるを得なかった。魔将候補とか言われてたこともあったよね。で次は『星見の塔』、その次は槍神教への潜入任務でしょ? セレクティフィレクティのお気に入りって言ってもさあ、ちょっと信用できないんだよね」
むっとする。あたしだって、好きであっちこっちを渡り歩いているわけじゃない。
ある程度の事情くらい把握しているくせに、どうしてそんなことを言うの?
苛立ち。幾らなんでも一方的すぎる言い草だ。
「『星見の塔』を信じてないわけじゃない。ルスクォミーズ様やホルケナウ様には私もお世話になってるし、英雄メギンジェル卿を疑うジャッフハリム人なんていない。女神たちはより巨視的な世界のバランスを考えて動いてくれている。竜母様は『末妹』でもあるんだから、私たちは同じ『家族』になれるんだ」
普通の『下』の感性。一般的なジャッフハリム人の思考。
そこから見たユディーアという存在の、圧倒的な不確かさ。
自覚がないわけではない。意識しないようにしているだけだ。
「けどさ。アンタって結局、情勢見てどこにでも行けちゃうんじゃないの?」
否定の言葉を口にした。
言い過ぎ。思い込み。そんなに簡単なことじゃない。
過剰なまでに言葉を連ねて疑惑を払拭しようとした。
必死さが伝わっているといいな。ダメだったらどうしようもないけどさ。
(本当にそうかな? マルガさん、鋭いこと言ってない?)
『脳』の四円。竜騎士。救世主の守り手。
ユディーアの一番深いところにある秘密。
『王宮』での再会。長い髪の人形。最後の獅子。未来の記憶。
なら、それが真実?
それとも、『両足』の双子に全てを打ち明けてジャッフハリムや竜神信教といった『同胞たち』と一緒に戦うのがいいだろうか?
セレクティ=ベアトリーチェは『あなたのためであれば魔将の席はいつでも用意できます』と言ってくれた。フィレクティ=ラズリは『竜母様の守護者はあなたにしかできないことです』と断言した。なら、これが正解?
ポルガーお姉さまには姉妹になる道もあると言われた。これは希望?
古い神託に従ってディスカレイリーグの戦乙女神殿に身を寄せるのは夢想?
『呪文の座』は? アズーリアたちなら、もしかするとセレクティフィレクティと和解する道を見つけてくれるかもしれない。幸福な結末を作り出すことができるのかも。
でも、でも、でも。
母の言葉。父の姿。アゥルメイアやノゴルオゴルオをはじめとする恐いものたち。
ディスケイムを裏切るのか。血統の道具として作られたものが。
ティエポロスのこと。全ての責任を放り出して逃げてもいいの?
どうしよう。どうすればいい。どれに決めてどれを捨てる?
わからない。絞れない。決断できない。
何でもできるとか可能性があるとかぜんぶ嘘だ。
意思の才能がどこにもない。選べない可能性は存在しないのと同じだ。
本当は、頭の片隅では気付いていた。
とても恐ろしくて、とてもつまらない結論。
考えたくもないこと。
自覚したら全てがおしまいになるようなユディーアの本質。
あたしは、もしかして。
何も信じてないんじゃないかって。
全てがどうでもいいと思っている、この上なくひどい人間。
下らない、最低の、誰とも関わる資格がない奴なんじゃないか、って。
「アンタさ。シナモリアキラに興味ある?」
「いやそれは全然ないけど」
唐突な質問だったが、考えるまでもなく即答した。
迷う余地のない正解で、条件反射の嫌悪感。
あまりにも自明過ぎて当人もびっくりするくらいの真実が口から出た。
それにしても、マルガリータはどういうつもりなのだろうか。
「ふーん。そうなんだ。じゃあ初代ユディーアと契ったぺラティア王のことは? 未練とかないわけ、亜竜人として。『王宮』の血統国宝として」
「何が言いたいのかよくわかんないけど、歴史の話って感じ? あんまり実感ないよ」
嘘だ。セインディアの博物城は幼いキニスに王族としての意識を植え付けた。
ジャッフハリムの『王宮』はユディーアに相応しい作法を。
アゥルメイアや守護派の竜導師たちはエレクトラに正しい祈りの心を。
あの朱大公クエスドレムにも劣らぬ偉大なる血の国宝。
キャカール王と並び、ディスケイムが最重要視する秘蹟の継承者。
「あ、なんか疑ってる? えー、でも今時そんな、世俗の亜竜人を見て威張ったり、蜥蜴人に『下位の奉仕種族め』みたいな差別感情とか特権意識持つ人なんていないよー」
もしそうだったらとっくにホラーになっている。
ジャッフハリムには内心を裁く法はないが、それでも滲み出た悪心を自覚する己の目までは欺けない。呪術的思考に真っ先に力を与えるのは自分自身の思考である。
呪祖と聖妃を引き裂いたジャッフハリムの理想原則は心の内外を規定する檻だ。
何があっても己を信じ、愛し、肯定し続けられる本物の怪物でない限り。
心に罪を抱いた者はやがてホラーに成り果てる。
ホラーを生み出したディスケイム家は、そういう認識や意識を上手に顕在化させない思考技術を幼いキニスに教え込んだ。奉竜山で身に着けた『内傷七情』の技も心を制御するにはうってつけ。だから、心の中にそんな悪心は生じていない。
「ノゴルオゴルオはアンタを『ペラティア王の再来』って言ってたよ。そしてここはガロアンディアン。ねえ、本当に何も感じてないわけじゃないでしょ?」
「うーん。でもほら、ペラティアなんて、結局はもう存在しない国だしさあ」
ぺラティアとはかつて亜竜王アルトの時代に築かれた『紀竜寺院』の名であり、その周辺の地域一帯を指し示していた名である。
東方のドラトリアから流れ着いた災厄カズキス、荒ぶる言語支配者ダーカンシェルという恐るべき神を父祖に持つアルト王は、力だけではなく『義』や『徳』によって国を治めなければならないと考えた。
多種多様な来歴、文化、信仰を持った種族を単純なダーカンシェル神の力のみでまとめ上げるのにも限界が来ていたのだ。
必要とされたのはより広範な加護の適用範囲を持つ信仰対象。
つまりは『紀竜』である。
紀竜への崇敬は世界への祈り。
その大きな特徴は、他の神々に対する信仰と競合しないことだ。
たとえば威力竜オルゴーと鉄願神セルラテリスが固い絆で結ばれているように。
矛盾竜ロワスカーグと理智神ラヴァエヤナが共に叡智を守護しているように。
幾つかの例外はあるにしても、多くの神々に対して排他性を持たない紀竜の加護は多種多様な種族の心を纏めるのにちょうど良かった。
超多種族国家として成長と拡大を続けるために、ガロアンディアンは『紀竜』という世界の全てを司る存在を支柱に選び、目論見は成功した。
亜竜王はまず東方で覇を唱える祭祀国家の神官君主であったクエスドレムと和議を結び、幾つかの盟約を取り交わすことで竜帝ガドカレクの加護を授かった。
それから毎年盛大な祝祭を執り行うことによって竜帝に祈りを捧げ、その権威を父祖神ダーカンシェルと習合に近い形式で整え国教とした。
それから他の紀竜たちの寺院を次々と建立していくと、神官と霊媒たちを各地から集め、いつしか寺院は巨大な都市圏へと発展していった。
巫女たちが集い、その年の『竜母』に選ばれた赤子を取り上げ、祈りを捧げる。
亜竜王が民草に祝福を与え、竜帝の託宣が子供たちに聖なる名を刻む。
万の獣が心をひとつに、善き王国の繁栄を願う祝祭の日。
歌い、踊り、遊び、演じ、競い、祈る。ぺラティアには善き記憶が残される。
紀竜に祝福されたアルト王はその神秘の血を巫女たちと交わることで後世に伝えた。
亜竜王の死によって国が乱れ諸族が分断された後、無数の有力者が『我こそは正統なる亜竜王の後継者』と名乗りを上げ黒竜王ダエモデクや五大騎士団との戦いに明け暮れる中、ぺラティアだけは紀竜信仰を守るための聖域として不可侵であり続けた。
この地だけは守らなくてはならない。
信仰と統合の象徴を失えば、諸族は二度と元に戻れなくなる。
かつての栄光、万獣が集う偉大なるガロアンディアンを喪失する恐怖。
信仰心と過去への執着、それから聖域に対する畏敬。
どれだけ時が流れても、どんなに世界が移り変わっても、寺院都市がぺラティアという祭祀国家に変容しても、その形は保たれた。『塔』の竜騎士ディシルキュトスの逆鱗城砦、ディスケイム家の接近、山岳王ベフォニスの庇護、至高天主との盟約、クエスドレム大公の援助、太陽炉の供儀、極天主の宣言、ディスカレイル王との約定、戦乙女の求婚、灰竜王国の成立、ジャッフハリムの解放、保護されるべき呪的資源としての特別王族区認定。
ありとあらゆる勢力や個人がこの『寺院の国』と繋がりを持ちたがった。
絡み合った思惑の中で無数の庇護を受けながら、ぺラティアは何一つ身動きの取れない『重要な血』として扱われ続けた。
紀竜に祝福された国。万獣にとっての心の故郷。亜竜王の愛した楽園。
怠け者だが慕われた灰竜王。竜帝が認めたあらゆる紀竜に対する霊媒適性。
動乱期による歴史断絶を経た現在、唯一はっきりとわかっている亜竜王アルトの末裔。
何もしない。何もできない。何かをするには立ち位置が危う過ぎる。
ただそこにあるだけの価値。
しかし。それはある日、何の前触れもなく失われた。
『大断絶』という名の世界の変容によって。
世界は天地に引き裂かれ、多くの空間が歪み、幾つかの大地が永久に消えた。
現在のジャッフハリム中央部からやや北東にかけた高地。
ぺラティア寺院市国が存在したはずの座標には、巨大な槍が突き刺さっている。
全ては過去。ユディーアが生まれるより前のこと。
『ぺラティアの血は巫女を育む海』とさえ言われたこの世界の至宝だ。
もちろんユディーアはそのことに誇りを抱いてなどいないし、鼻にかけてなどいないし、『世が世ならあたしはお前たちなんて指先ひとつで物言わぬ動物にできたんだけど?』なんて微塵も考えてはいない。
経験上わかっている感じだと、一年くらい真面目に威力竜の巫女として修行すればマルガさんに追い付けるんだろうなー、そうしたらどんな顔するかなー、などという人の心がない妄想、思いつきすらしなかった。ユディーアは温和な性格なのだ。エスメラルダを泣かせてしまった時のような後悔はもうしたくない。これは本当だ。
(あー、そうか)
不意に納得が胸に落ちてきた。
マルガリータの不信と疑念。猜疑の視線と警戒の態度。
試しと確認の言葉が意味する相手の感情。
その正体は、恐れだ。
(あたしが恐いんだな、マルガさん)
共感されづらいというのは悲しいことだ。
ユディーアの人生はこんなにも上手くいってないというのに。
思い通りにいかず、何も選べず、恵まれているようで恵まれていない。
嫉妬するようなものは持っていない。
恵まれてる人間は苦しんだり挫折を味わったりしないとでも思われているのだろう。
悲しかった。きっと一生分かり合えないだろう。
諦観に浸りながら、ぼんやりと昔のことを思い出す。
ユディーアが奉竜山での修行期間を終え、『星見の塔』の不思議な異界に導かれ、ポルガーをはじめとする『キュトスの姉妹』たちに師事してからしばらくして。
ディスケイム家の権威が失墜する事件が二つ発生した。
一つ目は血統術師たちが自信をもって送り出した二十四番目の獅子王が死亡した事件。どうも小鬼に堕ちたらしい。よくある話といえばよくある話だ。
彼が集めていた精鋭たちは堕ちた魔王の軍勢となってジャッフハリムに牙を剥き、当然のように狂怖として討伐された。
二つ目は『藍』の彩域管理者の継承失敗事件。
鈴国文明圏の守護者である至高天主の『器』として生み出された候補たちが『失敗作』の烙印を押されてしまったのだ。
青鱗のクエス、隻心のセレアフィレア、藍血のセーラ、灯火のロザリンダ。優秀なディスケイムの作品たちが『彩域の試し』で軒並み失格というのは前例のない事態だった。
入念に調整を重ねた自信作。更に幾つものバックアップを用意していたというのに、その全てが天主としての資格を満たすことがなかった。
後から考えればどちらの事件も『正統なる魂』の到来によって『席が埋まった』ことが全ての原因だったのだが、いずれにせよディスケイム家の発言力は大幅に低下した。
本来であれば世界槍を巡る『猫のゲーム』の切り札となるはずだった決戦兵器の失敗。
その事件がきっかけで『魔軍元帥セレクティフィレクティ』『大魔将キャカラノート』という夢想を前提にした軍部とディスケイム家の蜜月は終わりを迎え、ユディーア・ディスケイムの立場は微妙なものになってしまった。
由緒正しい勇士の血統とはいえ、失態を晒したばかりのディスケイムの『作品』を重要な魔将の地位に据えるのはいかがなものか。
初代勇士ユディーアが征服した亜竜人の血脈というのは分かるが、所詮は混ざり血の天眼トカゲ、未だ年若い幼竜であれば急いで聖妃派に迎え入れることもないのでは。
悪意ではない。それは恐れと不安だ。
『また失敗作を掴まされるのではないか?』という疑念。
いわれのない疑念ではない。
かつての大悪レストロオセと聖妃レストロオセを分離し、ホラーという異獣を生み出したのはほかならぬディスケイムだ。穢れの管理者は穢れと見なされる。原始的な、しかし理性をもってしても抗いがたい忌避感情。『ホラー化するかもしれない』ことをジャッフハリム人は何よりも恐れている。強迫観念に近い、それは原始的な生存本能だった。
鈴国圏にとっての『内にして外なる法』。
内心を裁く良心。道を外れるかもしれないという恐怖の具現。
ゆえにそれらは『ホラー』と呼ばれる。
彼らを『善』たらしめる『絶対悪』。
『じゃあね、カーイン。次に会ったら、百戦目ができるといいね』
遠ざかる約束を想う。
厳格な家を出て、少しだけ鮮やかになった世界。
偉大な祖霊を宿す器として約束された未来。
歴史だけはある田舎士族。紀神シャルマキヒュの娘、戦乙女ユディーアの末裔。将来を嘱望された、窮屈だけど名誉なお役目。
『王宮』の管理保護区で聖務に携わりながら、そこで出会った双子の友達と親しく言葉を交わした記憶は昨日のことのように思い出せる。いつか二人が天主になれたら、きっと魔将になって協力するという約束もした。
虹のホルケナウで『上』について学びながら『彩石の儀』に取り組み、その時に出会った透き通るようなペリュトンのことについて双子に教えてあげたこともあった。
楽しかったんだと、そう思う。
あの頃、ユディーアは忙しさに目を回しながらも充実した日々を送っていた。
少しだけ未来が楽しみになって、窮屈さも消えて行って、いつか一緒に修行をした少年との再会を心待ちにしたりして。
けれど『下』の善性と恐れは、ユディーアの未来から色を奪った。
四十四士ポルガーの後ろ盾があるとはいえ、ユディーアの前に開かれていた道は唐突に閉ざされた。『四十四士ユディーア』が聖妃レストロオセに仕えてジャッフハリムを守護する未来も、『魔将ユディーア』が天主セレクティフィレクティに仕えて十字槍軍の侵略を退ける未来も消えてなくなった。少なくともその時のユディーアはそう思い込んだ。
絶望。悲嘆。
枕を涙で濡らし、どこに辿り着くのかもわからない未来を恐れた。
泣き疲れて眠りにつくまで、その心は荒れ狂い、深い傷を負った。
今ではもう、そんな傷の痛みなんて思い出せないけれど。
だって、それでお先真っ暗かと言えば全くそんなことはなかったから。
人生の挫折、そう感じて自室の寝台で丸くなったのはたった一晩だけ。
師アゥルメイアはすぐさま本格的な竜導師としての修行をユディーアに始めさせたし、双子たちとの縁がここで十分に活かされたからだ。
『王宮』への出入りを許されている同年代の不思議な双子。
その正体が『本物の天主』の転生者であると知ったのはその時だ。
多分、長くても半日くらいの未来への絶望。
ユディーアはそうして挫折を知り、それ以降は二度と人生の苦難に出会わなかった。
そう、二度と。おそらく死ぬまで。
それが異様なことだと気付くまでに長い時間は必要なかった。
家柄、資質、交友関係。
ユディーアは自分が恵まれていることを強く実感すると共に、強い違和感を覚えた。
閉ざされた道よりも多く用意されていた脇道。
枝分かれした無数のレール。壊れても予備が継ぎ足される足場。その気になれば自分の力で飛び越えたってかまわない。
何か、ちょっと、おかしくないか?
もしかして。ひょっとしたら。
ふと思い立って、少しだけ頑張ることをお休みしてみた。
サボり。堕落。手抜き。未来のための努力。
破滅願望があったわけじゃない。
誰もが必死に努力して勝ち取ろうとしている未来、輝かしい場所に辿り着く資格を投げ捨てたいなんて強い感情じゃない。ただ、確かめたかった。
そうして、ユディーアは致命的な真実を理解した。
驚くべきことに。
ユディーアの世界は、何も変わらなかった。
全てが今まで通り、順調に進んだ。
怠惰や自堕落や意図的な失敗がユディーアの立場を悪化させても必ず誰かがフォローしてくれた。あるいは幸運な巡り合わせが、もしくは咄嗟の機転や力任せの解決法が、降りかかる火の粉を全て払ってくれたのだ。
きらきらしていたはずの世界が、すうっと色を失っていく。
『虹』の庭園。噴水の影に隠れて長い髪が揺れる。人形の球体関節。
異形の『髪』が教えてくれたこと。広くて自由な世界のほんとう。
誰も、どこにも辿り着けない。
灰色の世界で空を見上げると、彼方を泳ぐように有翼の黒蛇が通り過ぎていく。
竜覚を研ぎ澄ませば、それはいつだってユディーアの近くにいた。
この身は運命に守られている。
財布を落とせば親切な人が必ず届けてくれたし、過酷な訓練で命を落とすような重傷を負っても不思議と死ぬことはなかった。
守護竜クルエクローキの加護。
都合の悪い世界の流れを否定する、悪運と文脈の管理者。
ユディーアの人生は、上位次元から入る謎めいた補正によって守られている。
それが『髪』が教えてくれた真実。世界のどうしようもない閉塞感の正体。
きらきらの世界。虹色の夢。未来への期待。全ては上位次元のおままごと。
レメス神が愛したとこしえの浄界。流動彩域。自由なる神人。
キュトスの姉妹の三十番目、虹のホルケナウ。
皮肉なことに、色鮮やかで美麗な異界はユディーアにはくすんで見えた。
『髪』は虚しさと灰色をユディーアに思い出させてくれた。
そして、『脳』は。
博物城の知己。弟のような少年との再会。父に似た『藍』の記憶。
小さな喜びさえ吹き飛ばす、致命的な『運命』。
紀竜が招いた『悪運』は、小さな『猫の取り換え子』を害する形で働いた。咄嗟にユディーアが守ろうと手を伸ばした瞬間。
それこそが『髪』と『脳』の狙い。
触れた瞬間に迸った未来の記憶。
少年の覚醒と、『脳』との初めての接触。
人形使いが語る『トライデントの細胞』、その大いなる罠と欺瞞について。
使い魔たちによる派閥争い。真っ先に『心臓』に到達し、己の影響下に置いた勢力が『真なる使い魔の座』になるという生臭く俗っぽい真実。
いま第五階層で行われているのは『心臓』を目指して行われている細胞内部での競争である。『空使い』を巡る選定はその未来を占う儀式となるだろう。
無意味と無気力の海に溺れながら、差し出された頼りない板が『脳』の言葉だった。
未だ知らぬ最後の救い手。
ユディーアを取り巻く窮屈さと灰色から解放してくれるかもしれない希望。
不快極まりない悪運の紀竜が求めているのが『竜母』の誕生であるなら、目的の達成と同時にユディーアは運命の呪縛から逃れることができるかもしれない。
そんな、信じられるのかも定かではない希望に縋って惰性で生きてきた。
目的地に辿り着けば、ユディーアはまた昔のように世界を信じられるだろうか。
わからない。けれど、近頃になってこうも思うようになった。
この漠然とした空虚さは、最初からいるべき場所、帰るべき故郷がないことで生まれている不安感なのではないだろうか。
ディスケイム、ジャッフハリム、竜神信教、星見の塔、松明の騎士団、チョコレートリリー。どこにいるべきかもわからない、決められない。けれど、最初からそれが決まっている人たちは確かにいるはずだ。迷いのないマルガリータ、恵まれた意思、羨ましい信念。
本来の居場所。自分の国。身体を流れる血のルーツ。
第五階層を彷徨う、どこか寂しそうな人たちを思う。
キノコ人やティリビナ人。居場所のない彼らと自分との共通点。
あらかじめ失われた優しい記憶。
生まれた時にはもう祖国が存在していないという足元の不確かさ。
ああ、それならば。
血が叫ぶ。血が求める。
どくん、どくんと心臓が鼓動を早めていく。
取り戻してしまえばいいじゃないか。
だってあたしには、その権利があるんだから。
回想に浸る中で、自分の中で何かが変化したことを実感する。
過去を思い起こして記憶を配列する作業は呪文語りに近い行為だ。
内的呪文。自己暗示。意識操作。心を動かす準備運動。
ユディーアは、巡る血の熱さを感じていた。
「ごめん嘘ついたかも。やっぱり歴史のあるペラティアの血はあたしの誇りだし、ガロアンディアンにも思い入れがあるから、祝祭ではなんとしても竜母様を真っ先に抱き上げる役目を担いたいな。今から気合入れるぞー!」
おー、とこぶしを突き上げて前言撤回するとマルガリータはものすごい目つきでユディーアを凝視した。表情がひきつっている。しまった、突然にはしゃぎ過ぎたか。
少しだけ後悔しつつ、ユディーアは気を取り直して話を前に進めた。
「明日以降の動きについて整理するね? この際レースはマルガさんに任せる。使い魔にしたジュティアさんとミナさんにはマルガさんのお手伝いをしてもらうから、本選でパーンとロードデンドロンをなんとかしちゃってよ。その間にノゴルオゴルオさんがスーリウムを、あたしが王殺しを倒す。理想の流れはこんな感じで」
「暗殺者の目星はついてるの?」
「いや全然ついてない。でも今晩中には見つけるよ。大丈夫、心配しないで。だってあたし、失敗してもなんとかなっちゃうから」
にっこり笑って自信満々に断言。
大丈夫、多少雑でもどうせ何とかなるんだから。紀竜や紀神に与えられた『神運加護』はユディーアを強引に未来へと運んでくれる。
力が足りなくても、知恵が及ばずとも、勝手に物事は進んでいくだけ。
どうせ、人は配られた手札で勝負するしかない。
与えられた選択肢の数、限りある呪術リソースを順番に数える。
『天眼』『竜覚』『灰燼回帰の吐息』『竜騎兵禁止議定書』『剥落の鉤爪』『七情爪法』『報復』『空圧』『安らぎ』『生命吸収』『殺戮』『凍視』『藍神干渉』『祖霊憑依』『先祖返り』『灰神干渉』『過去視』『言理の妖精』それから『正しい解釈の融血呪』も。
これだけあって失敗することの方が難しいくらい。
いざとなれば切り札もある。呪術の秘奥が四つも使えれば大抵の状況には対処できるはず。浄界以外はちょこっと習っただけだが、まあぶっつけでもやれるやれる。母に仕込まれた一子相伝の奥義。『髪』のよくわかる軍勢講座。ディスペータお姉さまのリーグス神話解釈。『脳』からの贈り物。才能。恩寵。呪縛。運命。あたしってほら、竜と神に愛された天才だから。
なんでだろう。マルガリータから先ほどよりも更にものすごい目つきで睨まれている。
こういう所は早めに直してもらわないと困るなあと思う。
何故かと言えば、竜母が生まれて全てが収まるべき所に収まった後、紀竜の巫女たちもまた本来の役目を果たさねばならないからだ。
紀竜の巫女たちは王の花嫁だ。
あたしのモノになるんだから、ちゃんと弁えてもらわないと。
どくん。血が熱い。
気のせいか、世界が少し大きく見える。
マルガリータの背までちょっと伸びているような気がした。
「ちょっと、アンタそれ」
「がんばろーね、マルガさん!」
気分が高揚し、少しだけかつてのきらきらした感情を思い出す。
今よりちょっとだけ小さくて、未熟で、幼かった日々のように。
灰色の空虚さを知らない少女の無邪気さで、ユディーアは新しい巫女仲間に笑顔を向けた。そう、仲良しの双子に紹介されて二人が出会ったあの日のように。
『はじめましてエレクトラ。聞いたわ、ずいぶんと大変だったみたいね。けど、ここでは私たちがアンタの味方よ。何かあれば頼りなさい。巫女の先輩として、色々教えてあげる』
好ましい第一印象。次第に悪化していく、失われた友情の萌芽。
鮮やかに蘇る仲間への感情が、過去のユディーアの表情を自然と綻ばせる。
その変貌を、現在のマルガリータは冷ややかな目で観察していた。




