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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ
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幕間『チェンジリング・ケット・シー』




 猫の国より流れ着いた書物に曰く。

 猫とは、竜の敵対者であるという。

 この獣はふだん山中に隠れ潜んでおり、背には太陰と共に満ち欠けする幾つもの『しみ』が浮かんでいる。気性はのんびりとしていて、腹一杯に食うと眠り、三日後に目覚めると気分良く鳴き声を上げる。

 不意に、静かな山奥から流麗な歌が響いてきたらそれが猫の声だ。遠い郷愁を掻き立てられるかのような音楽は満月の夜の間だけ奏でられ、異界の門とされる夜の扉の向こうへと呼びかけているのだと言う。


 猫は誰もが快く感じるほど甘い匂いを吐き、そのかぐわしさにつられてありとあらゆる者たちがこの獣の棲家を求めて群れ集う。群衆は猫を信じ、猫を崇め、猫の国へ近付くことを求めて悔い改めた。悪しき者は猫の裁きを怖れ、善なる者は猫と和解せよと説いた。時に猫は救世主と同一視された。猫の午睡からの目覚めは主の蘇りであった。この事から、宿敵である竜は悪魔と解釈されることもあった。

 

「義国圏の槍神教にとって鈴国圏の竜神信教は悪魔崇拝。拡大する新興宗教が土着宗教を邪教と見なすのはよくあることだけど、その割に大神院は猫も竜も一括りに『大いなる脅威』として等しく畏怖しているのが面白い所だよね」


 ある日のこと。セリアック=ニアは「聖なる御使いからお言葉をいただく」と周囲に告げてマロゾロンド神殿の一室に籠もり、滔々と蘊蓄を語る黒衣の幼馴染みの言葉に耳を傾けていた。幻像通信の窓越しに見える夜の民の小さな手にはこぢんまりとした書物が収まり、表紙には『幻獣辞典』とある。


「ドラトリアみたいに猫を国の聖獣として崇めている所はとても少ないみたい。他だと、希国の猫像イシルドゥムアくらいじゃなかったかな――えっと、私がわかるのはこのくらいだけど。あ、それから三区にある『キュート&キャット』が可愛いお姫様ファッションとスイーツのお店でね、セリアファンのエレメンタリーの子たちが店長さんやってて猫耳から尻尾アクセまで猫グッズだらけであれはもう信仰と言っても過言では――」


「それ前も聞きました。今はそういう話ではないのでまた今度にして下さい」


「ごめん」


 アズーリアから話を聞いた猫姫は目を伏せて考えに耽った。彼女もまたマロゾロンド神官としての黒衣を身に纏っているが、首元のネックレスや髪飾り、とりわけ目立つ三角耳のせいか生来の華やかさは闇の中に隠れようとしない。


「そうですか。月、香り、群衆の導き手、土着信仰、つまり魔の対。とても参考に――いえ。やっぱりあまり参考になりませんでした。ぜんぜんまったく助かっていませんが、お気持ちだけいただいておきます。どうもありがとうございました」


「う、うん。力になれなくてごめんね」


 画面の向こうでしょぼくれる小さな黒衣。それに対して、猫姫の反応は素っ気ないものだった。


「いえ、大アズーリア様に過度な期待をかけたセリアが浅はかだったのです。いくら使徒様のメモリ占有域が莫大であったとしても、スペックまでもが突然それに見合うようになるはずもありません。常と変わらずお可愛らしい霊脳をなさっているようで、むしろセリアは安心しました」


 『素っ気ない』とするにはやや饒舌すぎるが、少なくとも本人としては淡々と対応しているつもりである。アズーリアもこうした態度には慣れつつあった。


「相変わらずビシビシ来るよねセリア。それはそれとして、どうしてまた突然『自分の猫性を再確認したい』なんてことを言い出したの? 自己鍛錬の一環?」


 このやりとりがあったのは、ちょうどアズーリアたちが言語魔術師試験を受けに太陰に向かう直前のことだ。

 ――この後、地上に残ったリールエルバとセリアック=ニアはカルト教団による襲撃を受けるのだが、もちろん二人ともこの時点ではそんな未来を知る由もない。

 知っていることは、ひとつ。


 強くならなければならない、ということ。

 呪術師としてはもちろん『盾』としても。体を張って守るべき対象が背後にいる。それが二人が共有できる危機感であり、強くなろうとする動機だった。

 とはいえ、だからといって意気投合して仲良しこよしとはいかないもの。アズーリアのやや真面目なトーンの問いかけにもセリアック=ニアは黄色い髪をいじりながら気のないふうに返すのみだった。


「あら、まだいたんですか。呪力と存在規模だけは大きくなったのに存在感は昔と変わらず小柄なままだったので視界に入りませんでした。ごめんなさい」


「答えたくないなら別にいいけど。無理する時には言ってね。私が嫌だったら、リーナとかを頼ってよ」


 猫姫は黙り込んだ。二人の会話はリールエルバやリーナが絡まない時にはよくこうなる。幼なじみたちの中でもとりわけ親しいとは言い難いのがこの二人だった。ややあって、セリアック=ニアはその猫目でじっとアズーリアを見つめながら重い口を開いた。


「セリアは使徒様が、アズーリアがきらいです。脳天気な物言いも、たまにぞっとするほど無神経なところも。それに、ディスペータお姉さまに、あなたは」


「ごめん、なさい」


 しゅんとなってうなだれたアズーリアを見ても、セリアック=ニアの瞳には感情が宿らない。しかし、少女の瞳には理性があった。発言のほとんどが姉の代弁で、考えの読みづらい少女の意思。それは冷たく、そして鋭い。


「謝らないで下さい。アズーリアはフィリスに呪われ、暴走した。誰かの悪意が、セリアにアズーリアを憎ませている。まだ全て割り切ることはできませんけど、セリアたちは同じ相手を憎めるはずです」


「それって、義憤とかじゃだめ?」


「『愛と勇気の英雄アズーリアさまは可愛いです』のアピールですか? ここにはハルベルトはいませんし、セリアの前でやるのは虚しいと思います」


「ビシビシだ。ビシビシセリアだ」


「ここにいるのはセリアとアズーリアですから」


 淡々とアズーリアに毒を吐くセリアック=ニアの言葉は淀みない。生き生きとした舌は、普段姉の陰に隠れて自己主張をあまりしないこの妹姫に活力を与えているようにも思われた。攻撃性もまた、活力や元気などと換言可能だ。

 出し抜けに、セリアック=ニアは浮遊する感覚を得た。

 世界が淡く溶け、海中に沈んでいくように泡が浮かぶ。

 夢、そう夢だ。ここは不確かな世界、なんだか口が軽くなってしまいそう。


「どうしたの、セリア? 言葉にすることが――語り直すべきことがある?」


 だって、確かあの日の記憶はこのあたりで終わっていた。情報をやりとりして、憎まれ口を叩いて、そのあたりでちょうど時間切れ。聖姫は昼の国では大忙し。巫女として公人として、ほとんど毎日スケジュールがぎっしり詰まっている。

 でも、夢の中にまで予定は入っていない。だからここからの言葉は、開放感に浮かれたせいで出てきた寝言。きっとそうに違いない。


「――セリアは、宝石が好きです。宝石に飾られたアクセサリと、その美しい造形を形作り、ドラトリア文化を継承する人々を尊敬しています。アズーリア様には、それがどうしてか、わかりますか」


 今も姫君の髪や首もと、ドレスのあちこちは美しい宝石によって彩られている。上流階級の宝石から市民が日常的に用いるパワーストーンまで、ドラトリアではこうした出で立ちは当たり前とされていた。だから、問いの答えはひとつしかない。


「それは――セリアが、ドラトリアのお姫様だから」


 違う。それはセリアック=ニアが心の内から生じた願いによって選び取った夢でなくてはならない。縛られた鎖を夢と呼んではならない。

 けれど、不確かな非現実の中でなら。少女の口はふわりと滑る。


「はい。昼のドラトリアの公人として、国家国民とその文化を愛し尊ぶ巫女姫として、聖姫セリアック=ニアには呪宝石という基幹産業に関心を持ち、敬意を抱くことが求められています。セリアの夢は公務や聖務の傍ら宝飾呪術の研鑚を積み、ジュエリーデザイナーになることです。セリアは、最初からそうでした」


 生まれが人の未来を決める。太陰の姫ハルベルトも、祝福者メートリアンも、ティリビナの巫女プリエステラも。自由を愛するリーナもまた自らの家と対峙しているし、きっとメイファーラにだってそういった運命がある。

 だけど、セリアック=ニアは自分の運命がわからない。

 本当に自分で決めたいことは、自分のことではなかったから。少女の世界は、いつしか思い出の風景で溢れていた。そこにはいつだって大好きな人がいた。


 姉様、姉様、姉様!

 楽しげに語るセリアック=ニアを呪文使いは優しい目で見守る。思い出を美しく引き出せるよう、想念を遡るおまじないを口にしながら、色のない光の右手で指先をくるくるまわす。夜の民の黒い三角耳が心地よさそうに姫君の言葉を聞いた。


「あのきらきらした地下室。あの闇の底にはセリアの夢がありました。セリアの夢で輝いてくれる夢! たくさんの姉様の野望と欲望! 姉様の願いをセリアが彩って、セリアの宝石とおまじないで姉様が喜んで、それで――」


「それで? リールエルバの喜びがあなたの喜びなら、それを応援するのがあなたの本当の願いじゃないんですか?」


 喜びの想いをどこまでも遡った果てに、闇の底で無垢な瞳に互いの姿を映し合う『けもの』と『けがれ』。

 色のない光を灯らせながら、少年は透明な表情で問いかけた。呪術医院で縁を結んだ猫の取り替え子たちは、夢のような水底でむき出しの言葉を取り交わす。

 セリアック=ニアは、夢が壊れていくのを感じていた。


「セリアと姉様だけの戴冠式。そんなごっこ遊びはいらなかった。姉様は、外側の聖なるものなどに認められずとも、はじめから孤高な穢れの王だった。それを歪めたのは、セリアです」


「そうですね。今の魔竜の巫女は、あなたが道を違えさせる前の彼女――イネクシュネの赤土から捏ね上げられた、完全なひとだから。あなたは、余分だった」


 余分なものが、完全なものに対してできることは何だろう?

 不純物の混じらない完全な宝石。その美しさを歪めてしまうことは、宝石を殺すということ。セリアック=ニアが願ってはならないことだったのに。


「セリアックというのは病の名前なのだと、いつかディスペータお姉さまが教えてくれました。違う意味と解釈も一緒に授けて下さいましたけど、セリアは穢れたこの名前が好きです。それは姉様と同じ、姉様に包まれるための聖性だから」


 ドラトリアの『昼側』では、霊長類系の民にも伝統的にこのような穢れ名を付けることがあった。名前に災いを封じるためとも、吸血鬼と運命を共にするためとも言われており、古い貴族の家ほどそうした習慣が残されている。

 そんなドラトリア諸侯の中でも、聖姫というミームを継承するファナハード家において、病の名は特別な役割を担っていた。

 それは最悪の事態が起きた時のための安全弁。ドラトリアの礎にして災いであるカーティスの制御盤にして牢獄の鍵。抑制剤にして鎖と首輪。

 そして、権力を裁定する秩序の剣。


「ディスペータお姉様が教えてくれました。セリアの役割。セリアが姉様のおそばにいつでもいられる、その理由」


 昼のドラトリア人は、いつだって恐れていた。恐怖そのものであるカーティスへの恐れは正しい王への態度だったけれど、だからこそ彼らはそれを生み出した。

 王を穢す毒。

 王を貶める不純物。

 王を殺す、慈しみ。

 

「無償の好意。無条件の肯定。それこそが孤独をころす、セリアック=ニアの生まれた意味。セリアの存在の全ては、姉様の命と尊厳を奪うためある」


 慈愛と献身。それこそが孤独の王への対抗呪文。

 『セリアもそう思います』――黒百合宮で鍛え上げられた呪毒の爪。それは幼い日から今に至るまで、ずっと研ぎ澄まされ続けてきた。


「それが嫌だったの? ナーグストール」


 少年の問いに、少女は迷い無く答える。それは代理としてではなく、既に同じものとなった本人としての答えだった。


「セリアにはわかりません。ですが、わかっていることもあります」


「それは?」


「セリアがいるべき場所は、姉様の隣だということです。たとえセリアと姉様の夢がどうなっても、姉様はそれを望むでしょう。セリアも、そう思います」


 それを聞いたアズーリアはうんとうなずいて、重なり合うようにしてほほえむ少年の幻もまた祝福を口にした。夢の薄衣を、色の無い指先が払っていく。


「なら大丈夫。あなたの世界は僕が語り直すまでもなく、もう輝いている」


 行っておいで。呪文と共に、世界は切り替わる。

 それは映像のように陳腐で、舞台のように劇的な光景だった。眼下に広がるのは果てしない闇、かすかな点のように見えるのは遙か地上の光に違いない。


 ここは反転した闇の塔。暗い地下室の底、影下の塔の最上階。天地は逆さで、重力は今セリアック=ニアを嫌っている。一歩踏み出せば光の中にまっさかさま。愛おしい闇から、不純物そのものである光に。それはすなわち、セリアック=ニア本来の運命に立ち向かわなくてはならないということでもあった。

 ちっぽけな猫は逆向きの地下室、奈落の果ての尖塔に立つ。そうして、地下千メフィーテの暗闇の天辺で両手を大きく広げた。


「セリアは、いま一度『聖なる姫』として姉様のもとに向かいます。それがセリアック=ニアとしての役割だと、そう思うからです」


 世界を抱きしめるように前へ。逆さまの闇の塔から虚空へと身を踊らせた少女はそのまま上方へと落下する。

 どこまでも加速する意識。落ちて落ちて、闇から離れたその先に、待つのは無慈悲な終わりだけ。空への墜死がセリアック=ニアの意思を奪うより前に、彼女の言葉が光を裂いた。落ちていく呪文は、言理の妖精語りて曰く。


「時の鏡、星の絨毯、宝石夜空に恋い願う。孤独と隔離の名の下に、我ら祈り手、聖なるけがれと涙を掬わん――お願い、ナーグストール!」


 落ちゆく猫が踏む影が、月の如くに満ち欠け光る。はためく闇の衣が風を受け、少女はいま光に包まれていく。星々を散りばめたドレスがその身を包み、天に連なる惑星が『猫』の姿で高らかに鳴いた。

 そして、セリアック=ニアは。




 まどろみから覚醒する。冷たい海底から浮上して、もっと過酷な真冬の大地に顔を出す。宝石のようにきらめく目を見開き、星のない夜を睨みつけた。

 敵はこの空、この世界に広がる全ての闇。

 向かうはあの竜、夜を統べる女王の玉座。

 

 乾いた空気を深く吸って、セリアック=ニアは影から引き上げた精神の残滓を肉体に固着させた。小さく分散されて希薄化していた猫姫の存在は、今や一点に凝縮されている。手のひらサイズのお人形はここにはいない。傷だらけの魂を胸に堂々と立つのはドラトリアが誇る宝石の姫である。


 ここは壁の外。壮絶な破壊の爪痕が残された、魔竜の通り道。

 周囲には建造物の残骸と打ち棄てられたシナモリアキラの骸が積み重なり、それらも冷たい風が吹くたびに塵となって巻き上げられていく。壊れていく第五階層を、新たに生まれた森が覆い隠しつつあった。セリアック=ニアの周囲を森が取り囲む。新たな王国の支配は完成しつつある。


 全身あちこち傷だらけで、黄色のドレスはみすぼらしいぼろ切れ同然。夢の中で聞いたように思える不確かな激励も、一応は頼もしかったかもしれない黒衣の幼なじみもここにはいない。冬の大気と夜の瘴気が赤子のように瑞々しい膚に牙を剥く。おまけに、目の前には最悪の敵が立ちはだかっていた。


「『二、三度殺すくらいなら構わない』と陛下は仰せだ――この信頼の意味がお分かりか、聖姫殿下」

 

「じゃま、です」


 絞り出すように吐き捨てる。虚勢を張る余裕も気品を維持する気力も尽きかけていた。当然だろう、目の前に立つ異形の男にセリアック=ニアは敗北し、心を影の中に封じられていたのだから。

 この始祖吸血鬼は一度は魔竜に肉薄した猫姫を力任せに引き剥がし、戦場を取り囲む壁の外へと連れ出した。ナーグストールを一方的に打ち据えて破壊し、セリアック=ニアを影下から逆さまに伸びる塔に幽閉した敵の力は常軌を逸していた。


 不吉な風がひっきりなしに唸り声を上げている。足にまとわりつくスカートがおびえるように色あせていく。恐ろしさをかき立てるのは敵の強大さのみではない。

 セリアック=ニアはこの敵を知っている。

 戦い方の癖、呪力の色、性格の悪い罠と視線誘導、全てに既視感があるのだ。


 むき出しの右胸に刻まれているのは『壱』の数字。右の目玉を抉り出そうとするようにスプーンが生えた冗談みたいな面貌、コウモリとイナゴという左右ちぐはぐな翼翅を有し、踏みしだいた大地が黒ずんで雑草が朽ち果てていく、シナモリアキラ的としか形容しようがない混沌とした怪人物。

 更にこのシナモリアキラは何より特筆すべき特徴として、腰下まで届く見事な紅紫色の髪と、精巧な球体関節人形の身体を持っていた。


 その貌は次々と変転する。流れる髪の美男子に、諦観に満ちた美姫に、顔の無い悪魔に。セリアック=ニアが対峙しているのは個人ではない。強大な『使い魔』の気配に、獣の身体が震える。

 『彼ら』は、重なり合う声を揃えて言った。


「この『シナモリアキラ』という群体はあなたを足止めする為だけの存在。どうかこのまま壁の外で全てが終わるまで待っていて下さい。今のリールエルバにあなたは過剰だ――あの方には、我々でいい」


 言葉と共に無造作に腕が振り抜かれる。それだけで膨大な量の瘴気が吹き荒れて猫姫の体を吹き飛ばした。魔竜の吐息にすら匹敵する破壊力は壁の内側にいるどのシナモリアキラよりも絶対的だ。性別の無い胸に刻印された最強を示す数字。それを乗り越えるべく、セリアック=ニアは必死に地面に爪を立ててしがみつき、威嚇の声を上げた。


「フシャーッ」


 四つん這いの姿勢。獣を模したふるまいが猫姫に野生の俊敏性を与えた。目にも留まらぬ加速で風を振り切って疾走する。瘴気の風をかわしつつ敵の背後に回り込んだ猫姫は爪を振りかぶった。命中すれば即座に対象を球化し、追う二撃目で宝石に加工、とどめの三撃目で美しいだけの石に意味と価値を与えて呪文を発動させる。呪宝石の国ドラトリアの姫君に相応しい必殺の術技がシナモリアキラの急所に迫った。


「一息にほぼ同時の三連撃。よく練り上げられてはいるが、素直に過ぎます」


 常人なら人間大の爆弾と化して死んでいるところを、シナモリアキラは余裕を持って対応してみせた。人体の可動域を無視して真後ろに跳ね上がった人形の腕、フクロウさながらにぐるりと反転する首。かろうじて『サイボーグ』という形式を維持していた頃とは異なり、今のシナモリアキラは人体の常識を罠とする手管まで使い始めていた。弾き飛ばされた猫姫は、人形の両腕に巻き付いた呪文の帯、蛇のようにうねる禍々しい影を目の当たりにする。


 その呪力の、なんと強大なことか。

 片腕が纏う瘴気だけで港湾部から侵入して街道沿いの文明を根絶やしにできるだろう。両腕が合わされば多くの屍を生む戦乱を更なる大量死で終結させることすら可能となるはず。あれは、そういった類の歴史上の災厄なのだ。


 人形の延髄と喉仏に膨らんだ皺だらけの肉腫。人形の体でゆいいつ生々しい瘤に刻まれた人の顔じみた皺がもごもごと蠢き、呪文を詠唱している。吐き出されるのは瘴気のオルガンローデ。人の世に仇為す死病が災いの大蛇となりシナモリアキラの両腕に巻き付いて打撃力を強化し続けているのである。攻めねば相手の力は増大しつづけ、さりとて不用意に近づけばサイバーカラテの妙技が待ちかまえている。間合いに誘うための待ちの竜呪である。


「リールエルバはあなたを守るために『頭痛』と『ヘレゼクシュかぜ』をこの『最古の始祖』に統合した。ゆえに我らの瘴気は頭抜けて多い」


 シナモリアキラが手のひらを上に向けると、三種の異なる性質の瘴気が球体となって浮遊し始めた。始祖吸血鬼三体分の呪力が猫姫を威圧する。セリアック=ニアは目を細め、キメラ吸血鬼の隙を探るように言った。


「知っています。あなたたちは『隔離された被害者』としての性質が薄い、『隔離』にとっての不純物。セリアと同じ、余分なもの」


「挑発のつもりなら無意味だと言っておきましょう」


 シナモリアキラの精神に揺らぎは無い。その在り方ははじめからそうであったかのように完璧な女王の従僕として固定されている。

 このような相手に、たった一人でなにができるというのか。道理を説くシナモリアキラに対して、セリアック=ニアは頑迷な態度を崩さない。理性無き振る舞いに対し、始祖吸血鬼は再度の実力行使に踏み切った。


 放たれた瘴気の弾丸は三つ。凝縮された呪いはそれぞれが始祖の全力。更には糸のように伸びた視線が呪いを操作して対象をどこまでも追尾するという必殺必中の連撃である。まともに受ければ病に冒され身動きもままならなくなるだろう。そんな脅威に対し、セリアック=ニアは正気を疑うような行動に出た。真っ直ぐにシナモリアキラに飛びかかったのである。呪いをまともに浴びながら、猫姫は敵との間合いを一気に詰めた。

 

「『瘴弾』をあえて受けるだと――?!」


 痛みを無視できるシナモリアキラだからこその驚愕。この呪いは痛みではなく強制的な行動不能、体調の悪化をもたらすものだ。捨て身は愚策。呪術師ならばまずそんな真似はするまい、と素体となった人形姫も判断した。

 彼らは理解できていなかった。

 目の前にいるのが呪術師ではないことを。

 山野を駆ける獣が持つ論理の異質さを。


「『沙羅双樹・宴』」


 呪詛はまずセリアック=ニアの脳を攪拌し、肺を割り、腹に大穴を開けた。だが三重の致命傷を受けてなお猫姫は止まらない。詠唱と同時、少女の左右の瞳に『剣』の紋章が輝く。セリアック=ニアは『沙羅双樹』と呼ばれる呪術を事前に構えていた。呪いが彼女を突き動かす。一瞬のうちに放たれた爪の斬撃。シナモリアキラの纏う瘴気の鎧が紙のように引き裂かれる。人形の体がひび割れ、目玉から伸びた銀の匙が砕けて散る。


「身を削ったところでっ」


 シナモリアキラが吠える。裂帛の気合いと共に瘴気が吹き荒れ、球化の呪詛が人形の呪術抵抗に阻まれた。竜呪を纏った反撃の掌打がまともにセリアック=ニアの腹部に吸い込まれる。必殺の一撃を受けた猫姫は、しかし体を浮かせながらも視線を標的から逸らさない。傾く少女の体。サイバーカラテ道場から鳴るアラート。勁道が通っていない。


 直後、猫に化かされたかのような光景がシナモリアキラの目の前で展開された。猫姫の小柄な体が柔軟にたわみ、真横に跳ねたのである。視界からの消失、続けて腕に衝撃。シナモリアキラの打撃はセリアック=ニアの奇怪な体術によって衝撃を散らされており、猫姫は軟体動物を思わせるうねりを見せながらそのまま腕に飛びついたのだ。


 ネイル呪術アートが炸裂、爪に刻まれた呪文が人形の右肘を砕く。瘴気が再びセリアック=ニアを引き剥がそうとするが、今度は漆黒の大気が自ずから彼女を避けていく――引き剥がせない。少女が人形の視界から消える。身長差、そして野生的な機敏さがガラスの目を翻弄していた。衝撃がシナモリアキラを打ちのめす。


 セリアック=ニアは瘴気を寄せ付けない。今までノーガードで瘴気を受けていたのはこの一瞬を作るための布石。獣の猛攻が次々とシナモリアキラを削り、空間を爪が疾走する。ここは猫の間合い。技術や武芸が入り込む余地のない、野生が支配する刹那の攻防。次第に薄れていくシナモリアキラの瘴気。精巧なつくりの鼻を、かすかにくすぐるものがある。それは黒く汚染されたこの夜には似つかわしくない心地よい香りだった。


「悪臭と不衛生の糊塗――香水で瘴気を打ち消しているのか!」


 人形は気づきと共に全身を覆う瘴気を消すと、呪力を頭髪に集中させる。たちまち美しい髪が油と埃に汚れた不衛生な塊に変化し、美貌を煤で覆い隠したシナモリアキラは首のしなりを利用して枝毛まみれの髪を跳ね上げた。

 途端、髪が咆哮する。禍々しいトカゲの頭に変化した髪房が吐息をまき散らすと、悪臭があたりに立ちこめた。足が止まったセリアック=ニアを邪視が捕捉、絡まった視線の糸が少女の体を引き剥がし、そのまま地面に叩きつける。


 激突とほぼ同時、セリアック=ニアは大地を爪で殴りつけた。少女を中心とした一画がごっそりと抉れ、半球状のくぼみが出来上がる。削り取られた大地は幾つもの球体となって浮遊しながら少女の背後で結合、巨大な人形として完成していく。


「時間経過による呪力量の変化――三段階の香調ノートだな」


 シナモリアキラは少女の背後で再生していく連結球体の人形を睨み付けながら言った。三角耳だけが生物性を主張する、無機質な猫姫の使い魔。ナーグストールの長い腕に包まれたセリアック=ニアの傷付いた身体が、徐々に再生していく。


「愛と官能の秘薬――ベルガモット、アイリス、バニラ、ジュエリーアンバー、そして霊猫香シベットを調合した幻想香水『星の絨毯』。待っていました、呪力が最も高まる残り香ラストノートの時間帯を」


 ベルガモットは嫌いですが、このさい我慢しましょう。淡々と言って、セリアック=ニアはナーグストールと共に爪を伸ばした。

 曰く。猫は誰もが快く感じるほど甘い匂いと共に在るという。

 うなじ、肩から腕、関節の各所から立ち上る動物性の芳香――人体の急所をカバーするかのような形の無い呪力の鎧。肉眼では軽やかなドレス姿にしか見えない聖姫だが、鼻で嗅いだ彼女は重甲冑を身に纏った騎士に他ならない。


「『沙羅双樹・残香』」


 自己の呪力上限を削りながら死を遠ざける中位呪術を詠唱するセリアック=ニア。この戦場で終わってもいい。存在消滅までのカウントダウンを数えながら、最後の舞台が開演。それは猫姫による香りを振りまくための演武だった。

 肉体の躍動は手足を相手に届かせるためでなく、芳香を空間に設置するための手順。香水と瘴気が鬩ぎ合う、匂いによる空間の奪い合い。

 汚染された空気を押し退けていく『意味付けされた香り』は呪文と杖で整えられた『嗅覚に訴えかける邪視』だった。人形の糸じみた視線は猫姫の外付けの邪視を知覚できぬまま一方的な侵略を許してしまう。


「馬鹿な、何故こちらが押し負ける?」


 加えて、爪による斬撃の威力が明らかに増している。

 始祖吸血鬼三体分の瘴気を纏うシナモリアキラの攻防力は圧倒的だ。本来なら個人が抗えるようなものではない。実際、セリアック=ニアの小さな身体が内包する呪力は始祖ひとりにすら届いていないのだ。

 にもかかわらず、猫の爪はシナモリアキラの守りを貫く。


 機敏な動きでシナモリアキラを翻弄するセリアック=ニアの足裏が大地を捉え、爆発的な踏み込みと同時に爪が振り抜かれた。

 始祖三体分の呪力障壁の層が、一撃で決壊。

 たまらずに跳び退いたシナモリアキラが腕を振ると、おびただしいイナゴの群が瘴気から生成されてセリアック=ニアに襲いかかる。


「無駄です。あなたの正体は見えた。ファナハードにはもう通じません」


 猫姫はそう言って宝石を投擲。イナゴの群に激突すると同時に石が砕け、封じられた農業用呪文が炸裂。害虫やカビの退散を願う古代からの祈りが神々に届き、聖なる光となってイナゴを消滅させる。


 攻防は終わらない。シナモリアキラが手を掲げれば空は曇り長雨と洪水がもたらされ、襲い来る濁流をセリアック=ニアが大地操作呪術による堤防構築でせき止める。巨大竜巻となったオルガンローデをナーグストールが押さえつけ、手薄になった猫姫の背後を日照りが襲う。構築した巨大堤防の外観をダムに変更。右手で水をせき止めながら左手を振るってたっぷりと蓄えた水を放出、背後の危機を凌ぐ。


「これで両手が塞がった」


 シナモリアキラの目が紅紫に輝く。その背後に出現していたのは、『創造』されたミニチュアの火山だ。

 局地的な地震、間を置かずに噴火。襲い来る岩石の弾丸と溶岩流を大地の障壁でやり過ごしながらも、セリアック=ニアはこの攻撃の本命がここからであることに気づいていた。空から降り注ぐ大量の火山灰。先ほどの長雨に続いて空間を埋め尽くす『豊穣を汚染する呪い』、すなわち瘴気が猫姫の香水呪力を打ち消していく。


 セリアック=ニアが得意とする大地を操作する呪術もこの瘴気によって威力を減じている。このまま押し切られれば力負けは必然だろう。今を逃す手は無いとシナモリアキラの本体がオルガンローデを腕に纏って間合いを詰めてくる。

 香りの鎧が薄くなったセリアック=ニアの無防備な体に迫る竜の呪い。力、速度、重さ、絶対量。呪術世界であってもけして覆ることのない戦力差による蹂躙。シナモリアキラの無慈悲なサイバーカラテがセリアック=ニアを打ちのめすかと思われたその時。


 爪。きらりと、色とりどりに飾られた鋭い先端のひらめきが人形の瞳に映った。

 その輝きがシナモリアキラの記憶を刺激する。サイバーカラテ道場による検索、該当する『悪寒』の正体を分析、類似した敗北パターンを複数検出。セリアック=ニアの姿と『ロウ・カーイン』の不可解な呪力が込められた貫手の形が重なる。それは刹那のことだった。


 鎌首をもたげた竜の呪文を痛打する爪、爪、爪。

 瞬間的に放たれた刺突は十五に及び、そのいずれもが構築された呪文の脆弱性を的確に突いていた。対抗呪文。この一瞬で組んだのか。しかも、古代の始祖が構築した未知の術式を正確に分析して? ありえないとシナモリアキラは断言できる。瘴気という隠蔽呪詛、『未知』のヴェールにくるまれた始祖吸血鬼の呪文を解析することなど、現代のどんな高位言語魔術師にも不可能だ。


 それとも、この猫姫は過去類を見ないほどに卓越した呪文の達人だとでも言うのだろうか。困惑に満ちた人形の顔。その前に、端正な猫姫の顔が現れる。

 無造作に突き込まれたのは、腕。


「教えて上げます、その体に」


 冷徹な宣言と同時、人形の背中が内側から爆発した。セリアック=ニアの爪から放出された呪力がシナモリアキラを内部から砕いていく。理解できない、というシナモリアキラの表情が変わっていく。致命傷の絶望と、理解の色に。


「なぜドラトリアでセリアと姉様が同格の姫とされるのか。答えはひとつ。ファナハードという家が最強の吸血鬼狩人の血を継ぐ一族であるからです」


 いくら瘴気の量が無尽蔵に近くとも、一度に放出して相手を呪える絶対量には限りがある。瘴気の絶対量という点でセリアック=ニアは純粋な吸血鬼に及ばない。だがファナハード家が――吸血鬼狩人の一族が積み上げてきた瘴気操作の技術は力に驕った始祖の急所を正確に穿つことを可能とする。


 爪、掌、虹彩、影、大地、そして宝石。ファナハードは存在規模で勝る吸血鬼たちを相手取るために、瘴気を一点に凝縮する技術を研ぎ澄ませてきた。セリアック=ニアが強大な始祖に唯一勝っている点、それは攻防を行う瞬間に接触する一点の瘴気圧である。


「瘴気、穢れ、呪いの加圧――すなわちこれは、純粋な大地を穢す技術」


 鈴のように言葉が鳴ると共に、シナモリアキラの体が内側から砕けていく。セリアック=ニアが『通した』呪力は人形の動きを封殺し、一方的な破壊を強制。胴体に突き入れられた少女の掌からは、砕かれた呪宝石のかけらがこぼれ落ちていた。

 ドラトリアが誇る呪宝石。

 煌びやかなミームを振りまくそれらが、本来どれほどに血塗られた歴史を背負ったものなのか。その本質の一端が、いまここに明らかにされようとしていた。


 無論、シナモリアキラとて無抵抗のままやられるつもりは無い。体の動きが封じられているのなら髪を動かせば良い。竜の頭部に変形した髪の毛が頭上から猫姫に狙い定めた。一点に瘴気を集中させているということは、攻撃の瞬間は防御が疎かになるということ。ならば呪力が炸裂した瞬間をねらって背後を襲えば良い。


「そうやって引っかかってくれる方もいるので、助かります」


 だが首筋を強襲した髪の毛はあえなく吹き飛ばされる。防御したのは、猫姫の可憐な首もとを彩る首飾りだ。


「隙は必ず生じるもの。だから弱い人は『杖』を使う。そのための呪宝石です」


 今度こそ、シナモリアキラのすべてが打ち砕かれた。長い髪の毛が残らず燃え尽き、紅紫の瞳が、女性的な容貌が砕けて塵となる。肉腫として人形に寄生していた始祖が爪によって両断され、最後に残った『核』――『壱』の番号が刻印された宝石が投げ出された。とどめとばかりに爪を伸ばそうとしたセリアック=ニアを、最後の抵抗が止める。


「始祖を、舐めるな」


 吠え猛る瘴気。始祖吸血鬼の『外破』により、災厄の正体が世界に牙を剥く。始祖の核を中心にして広がったのは、強烈な欲求だった。第五階層に生きとし生けるすべての生き物が思い出した原始的な欲望。生命の本質に根ざした渇望ともいえるその衝動。わかりやすい現象としては、あらゆる住民の腹がぐうと鳴った。


「なるほど。強烈な空腹。エネルギーの枯渇。やがてそれは飢餓という最大の災厄へと発展する。そういうことですね、始祖吸血鬼・『凶作フェミン』」


 始祖吸血鬼の奥の手により戦うための活力を失うはずのセリアック=ニアは淡々と相手の正体を暴き、無造作に爪を始祖の核に突き入れた。砕かれる呪宝石。あっけない死。


「――は?」


 始祖がその本質を露わにする必殺の『外破』。人類の宣名に相当する呪術を行使してなお敗北する。それは致命的な存在の毀損、名誉の失墜を意味していた。

 猫姫は未だに現実を飲み込めていない相手に敗因を教えるため、ゆっくりと口を開いた。解説と理解が相手の崩壊を加速させるからだ。


「セリアは既に外破を終えています。あなたは最初からそれを目にしている」


「まさかその猫は化身――伝承に謳われる『猫騎士』か!」


 セリアック=ニアの背後でその威容を示す奇怪な存在・ナーグストール。杖の奥義『化身』――異界より来たる猫の現世における現し身こそがこの怪異である。


「これこそ原初の呪宝石。ファナハードの祖が『猫の賢者』から授けられた叡智、病を封じ込める隔離の化身。『セリアック』とは常時外破型の災厄でありながら封じ込めに成功した病の象徴。すなわちドラトリアの宝剣レガリアなのです」


「剣? 剣、だというのか、それが」


 三角の耳、球体を連結させたようなユーモラスな胴体、長く伸びた腕。内包されて眠り続けるのは過去に取り替えられた本物の姫君――聖なるけがれ。

 これを見て剣と形容するのは無理がある。ならばこれは象徴。儀礼的に意味付けされた祭具なのだ。すなわち、王という権力を殺す法の裁き。

 曰く、悪しき者は猫の裁きを怖れたという。聖なる剣は災厄を打ち払う救世主であり、群衆を導く光そのものだ。ゆえに彼女は聖なる姫足り得た。その爪が、いついかなる時も狂える姫の喉元に突きつけられているために。


「セリアが司る『セリアック病』は小麦などに含まれるグルテンに対する免疫反応が原因で小腸機能を損ない、栄養の吸収ができなくなる自己免疫疾患です。平たく言うと『外破』したセリアはパンが食べられません――必要が無い。だって」


 ――パンがなければ、ネズミおやつを食べればいいでしょう?


「『凶作』の害はセリアには無意味です。セリアは、ネズミを――あなたたち瘴気を喰らうものだから」


 ぱくり。猫姫は始祖三体の砕かれた遺骸をまとめてひっつかむと、そのまま口の中に放り込んだ。もぐもぐ、ごっくん。かわいらしくも豪快に、猫姫の食事は終了する。終わってみれば圧倒的な勝利だった。


 しかし、あっけなく破れたシナモリアキラが弱かったのかと言えばそうとは言い切れない。三体もの古い始祖を投入、切り札たる紅紫の人形を素体とし、シナモリアキラという人格を走らせた『壱』の番号を背負う使い魔。魔竜に次ぐ最大戦力が敗退したのは、ひとえに相手が悪かったからだ。セリアック=ニアは対吸血鬼・対瘴気戦闘の専門家だ。その実力は間違い無く地上屈指のものである。


 吸血鬼を殺すためだけに鍛え上げられた宝石の姫。

 呪いという恩恵をもたらす王と、その暴走に歯止めをかけるための聖なる剣。

 絶えず王の喉元に突きつけられる刃による調和。ドラトリアにおける昼夜の平和は連綿と受け継がれてきた殺人技芸によって維持されている。

 つまりこの結果は必然。始祖を失ったシナモリアキラの残骸、砕かれた紅紫の人形が乾いた笑いを漏らす。割れた頭部が言った。


「リールエルバがこの致命的な相性を把握していなかったはずがない。つまりは、そうか。これでいいんだな、シナモリアキラは」


 人形はどこか安心したように目を閉じると、残っていたわずかな呪力を使って『創造』を行う。肉体が瘴気と溶け、幾つもの浮遊する板となって階段を作る。行く手を阻む壁の向こうに繋がる階段の段数は、合計で十三。異界の文脈において、死を意味する不吉な数。


「行け、セリアック=ニア。お前の姉は、この先にいる」


 その言葉を最後に、人形の気配は消え失せた。後にはただ荒廃した世界とそびえ立つ壁、向かうべき先を示す階段が残るのみ。セリアック=ニアの足取りに迷いは無い。彼女には前に進む以外の道は残されていなかった。

 最初から、彼女に選択肢など無かったのだから。


 一段目。飛び上がるように階段を上る。大きな壁のてっぺんに続く階段は段差が大きすぎて、身軽に跳躍できる猫姫でなければ使い物にならなかっただろう。少しずつ上昇する小さな体。壊れた世界を置き去りにして、少女は誰かに語りかけるように独りごちた。


「ドラトリアのことなんて、本当はセリアにも姉様にもわからない。実感なんて無いんです。守りの宝石に覆われた馬車の中から手を振ったことしかない。映像の向こうに思いを馳せたことしかない。それに、本物じゃない」


 夢の中。顔も覚えていない誰かに話しかける。

 ナーグストールが懐かしむ、途方もなく偉大で、どこか自分に近い誰か。問いかける呪文に従うように、自分の動機を遡る。セリアック=ニアの呪が自分自身を解体した。彼女が三角耳に宿した言理の妖精が色のない光をこぼしていく。


「カーティス王なんて知らない。血塗られた狩人と病の戦史なんて教本や訓練と同じものでしかない。知っているのは、セリアックが病で、姉様が壁だということ」


 それは定めだ。生まれたときに設定された、かくあるべしという本質。セリアック=ニアが生きている意味。ファナハードという家が存在する意義。ドラトリアという国が調和している根幹。


 徹底した英才教育。杭打ち機を担いだ家庭教師に囲まれ、全身に祈祷文言を書き込んだ僧兵と殴り合い、地下霊廟で吸血鬼の貴族たちと殺し合う日々。地上が誇る最高の教育プログラムが少女の骨身に殺戮の技術を刻み込む。『星見の塔』から送られてくる教材、教師、悪夢じみた課題を次々とこなしながら、猫姫の手足にはいつの間にか青い糸がからみつくようになっていた。


 今、そのことを思い出した。

 対吸血鬼戦闘の技術を用いた瞬間、セリアック=ニアを助けていたのは体に染み着いていた教育ーーすなわち青い糸の呪力だった。手足に絡みつく不快な青い糸を力任せにふりほどこうとするが、解けない。


 わかっていた。これは絶対に解けない呪縛。

 あらかじめ回避できない運命で、セリアック=ニアをセリアック=ニアたらしめる本質とひとつに溶け合ってしまった束縛なのだ。

 だからセリアック=ニアはわかっていたのだ。

 自分がこの盤面において、誰の駒であるのかを。


「始祖王の記憶も、死人の森のことも、セリアたちはお姉さまに教わりました。懐かしいディスペータお姉さま。セリアたちに知恵とあるべき形と意思を与えてくれた、愛おしい先生。そう、大好きなお姉さまーーへんなの」


 セリアック=ニアは形の良い眉を下げる。

 だってそれは。

 リールエルバに向けられるべき尊敬と親愛だったのに。


「だからセリア、わかってしまいました。姉様の怒りと憎しみの出所がどこなのか。いつからそれが準備されていたのか。ほんとうは、誰と誰が戦っていたのか」


 これは何の戦いなのだろう。

 誰が、何のために、誰と戦っている戦場なのだろう。

 小さな猫姫はわかっていた。

 この形、この構図が、ある二者の再演であることが。

 だからセリアック=ニアは決意を込めてこう言った。

 たったひとりの宣言。

 けれど、彼女の言葉はいつだってたったひとりのためにある。


「姉様。セリアは、戦うべき相手を見定めました」


 階段を上りきる。

 壁の中に広がっていたのは血みどろの戦い。

 荒れ狂う竜の暴虐をまっすぐに見据え、セリアック=ニアはその手に備わった剣の切っ先をただひとつの方向に定めた。


 曰く。猫とは、竜の敵対者であるという。




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