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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ
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4-62 夢に向かって





 レヴェランス。すなわち、上演後に行う丁寧なお辞儀。

 教師に、演奏者に、そして観客に。関係者各位に向けられた敬意は、舞台そのものへの最上級の礼節でもある。舞台は一人では完成しない。小さな世界でのパフォーマンスを成り立たせる全てへの尊敬は、翻って自分自身に向けられる称賛の肯定でもある。鳴り響く拍手は全ての肯定、歓喜の波。


 切り取られた小世界。舞台の上、孤高に立ち尽くす。

 凍えそうなほど熱い、万雷の喝采に痺れた耳は無音に同じ。

 歓声に満ちあふれたこの静寂こそ最上の誉れ。

 

「私は今、世界で一番高い所にいる――」


 暗がりに独り、称賛の嵐。

 高みに一人、絶賛の雨。

 『尊敬』の断章はこの世の喜び全てを綴り、万夜の主を言祝ぎ続ける。

 抗うものなどありはしない。歯向かうものなどいるはずがない。

 だというのに、完璧な世界はいつだってたやすくひび割れる。


 寂しさなんて知らないはずだった。

 世界は一つの人形劇。小さなお友達の騎士と魔法使いがいれば、がらくたと蔑まれたこの身はお姫様でいられる。美しく、けれど悲しい侍女人形が隣で戦っていてくれるのなら、雁字搦めの運命にだって耐えられる。

 そのはずだったのに。


 閉じた塔の天辺でひとり、誰より遙かな孤高の束縛、息もできない恨みと諦め。

 わたしの誇り。わたしの呪い。わたしの聖域。

 藍と朱が胸で渦巻く。あの記憶、あの悪夢だけはわたしのもの。用意された原点に過ぎないとしても、この偽りのわたしを女王たらしめる唯一の物語。

 唯一。そんなものは無いと、出会ったそのとき思い知らされた。

 

 世界でいちばん低い場所。暗くて深い地の底で、彼女はずっと戦っていた。

 だから多分、わたしは彼女に出会ってしまった時点でどうしようもなく負けていたのだろう。勝たなくていいと感じてしまったのだろう。

 共感の檻。あるいは、怠惰な悪癖。

 この人になら委ねてもいいやと、性懲りもなくわたしは諦めて。


「なら、あとはいいか。適当で」


 突き立てられた牙の冷たさに、無いはずだった寂しさが癒されていくのを感じて、わたしはわたしを手放した。




 だから俺/彼/シナモリアキラはここにいる。

 俺という意識は曖昧で、自己という定義も判然としない。孤独に立つ女王の味方をしなければいけないと、そう願ってしまった誰かのために、シナモリアキラは『サイバーカラテ道場』としての役割を果たすだけだ。


 一人称はいらない。

 俺は思う、私は考える、不変の自我を前提とする古い邪視者の流儀。

 カーティスには、シナモリアキラには相応しくない。

 意識は現象だ。雨が降ると言うように、時間について語るように、一般論を述べるように、非人称の主語を置いてただ自然のままに思考する。意識とは、自然な『活動』でしかない。


 シナモリアキラは機能である。だから彼は女王の傍で彼女を守る。いつもと同じように、鋼鉄の手足として。

 戦場を見渡し、傍らの主に声をかける。


「陛下、使い魔たちと交戦していたオルヴァの気配が拡散したようだ」


「数では勝てないと判断して新たに聖油を垂らしたか。アキラ、カシュラム人となった探索者どもを蹴散らせ」


「お任せを、我らが夜の王」


 瘴気に包まれた四肢が踊り、ブレイスヴァの名を叫びながら飛びかかってくる探索者たちを次々と撃退していく。中にはサイバーカラテユーザーも混じっていたが、シナモリアキラは迷い無くシナモリアキラに向かって掌を叩きつけた。


 第五階層に暴力が蔓延っているのはそう驚くようなことではない。しかし、この瞬間に膨れ上がり続けている力の規模は過去類を見ないほどに苛烈だった。

 巨大な七つ首のネズミが吠える。魔竜レーレンタークの吐息が無機質な街路を覆い、薄暗い森へと変質させていく。都市の中に生まれた森。静謐な糸杉が並ぶ様子はさしずめ墓標の群だった。


 地を覆っていく墓より悪しきものどもの葬列が姿を現す。新生した六王カーティスにして死人の森の女王リールエルバは己の眷属たる吸血鬼を墓の下から呼び起こし、侵攻を続けた。おびただしい数のネズミやコウモリが尖兵となり、第五階層にわずかに残されていたガロアンディアンの痕跡が漆黒に染め上げられていく。


 機械女王トリシューラは暫定政府と定めた第五階層南ブロックの大病院に撤退した。放棄された市街地にはもはやひとかけらの希望も残されていない。

 そんな状況でも果敢に抵抗を試みる者たちがいた。荒廃した第五階層でしぶとく生き残り続けていた歴戦の猛者たち、最前線で一攫千金を狙う探索者たちだ。

 そうした実力者たちに『カシュラム』という権威から地位と呪力が与えられたことにより、無自覚のまま彼らは魔竜に抗い続けている。


 『死人の森』に挑み続けていた探索者たちにとって、闇の世界の住人との戦いは慣れたものだ。巨大な杭を担いだ名うての吸血鬼狩人や無数の槍を背負う亡霊祓いが手際よく瘴気を浄化し、修道騎士崩れが松明の火でネズミの群れを焼き払う。

 死者の軍勢が無尽蔵なら、生者の兵力は未知数だ。何が飛び出してくるのかわからない。無論、六王同士の闘争とは常にそうしたものだが。


 突然、魔竜の足下で一体の吸血鬼が音も無く頭部を粉砕された。更にもう一体、続けてもう一体。不可視の衝撃、神速の呪術、いずれも達人の技。

 腕のない拳闘士、盲目の弓使い、双胴箒の暴掃族といった異様な風体の探索者たちが迫り来る小さなネズミを蹴散らして進む。男たちは七つの口が吐き出す瘴気を巧みに回避しつつ巨体の懐に潜り込もうと疾走する。


 さらには遙か後方で長いツインテールを翻らせた呪文使いの美少女が両手を掲げ、第六段階に到達したオルゴーの滅びの呪文を解き放とうとしていた。魔竜の背後で長大な尾の蛇が鎌首をもたげ、『炸撃』の六乗――地方都市を焼き尽くせる程の熱量を持った呪文竜と激突する。

 蛇が喉を震わせるのと同時、精緻な呪文竜の構造が内側から破綻していく。強引に噛み千切られる滅びの呪文。ツインテール少女の五体が衝撃の余波でバラバラに引き裂かれ、真っ赤な肉片となっていく。激突の余波で周囲の建造物が倒壊し、街路樹が根こそぎへし折れていった。めくれ上がった道路は大地震の直後さながらで、足場の悪化によりわずかに魔竜の足がよどむ。


 黒い大波と化して市街地を襲撃する吸血鬼の軍勢。その前に防波堤として立ちはだかるのは巨大な石像や飼い慣らされた単眼巨人、首輪付きの砂漠亜竜などだ。

 魔竜がひと鳴きするだけでそうした探索者の使い魔たちはあっけなく腐敗、死滅していくのだが、それでも確実に侵攻の速度は遅くなっていた。


 玉座に体を預けた女王の眉が、苛立ちの不快さをにじませてわずかに傾く。

 魔竜の体を駆け上がってカーティスに肉薄した手練れの探索者たちの足下から一斉に影の触手が伸び上がり、彼らを束縛。どろりと溶けた影の底へと引きずりこんでいく。ついでに、ビルの最上階から念写動画の配信をしていた男が尻尾の一振りで肉塊にされる。

 カーティス=リールエルバは魔竜の上から大地を見下ろして、未だ尽きぬ抵抗者の群を数えてうんざりしたように呟いた。


「畏怖が足りない。絶望の認識が徹底されていない。力量差の理解度が甘い。少々、手ぬるかったかな」


 カーティスはシナモリアキラの本体を呼び戻し、再度その牙を首筋に突き立てた。甘美に、淫猥に、支配を証明するかのごとく。存在を吸い、快楽を与え、更なる力を体液と共に注入していく。行為のあと、夜の王はこう言った。


「我が封印を解き放ち、お前を拡張した。いにしえの災厄と恐怖を知らしめよ」


「了解した」


 元からあやふやだったシナモリアキラの輪郭がぶれ、その上に多数のレイヤーが重なっていく。幾つもの存在が併存するありようはまさしくシナモリアキラそのものだったが、その文脈はこれまでとは全く異なるものだ。

 シナモリアキラの影が蠢き、無数の闇となって大地に放たれていった。

 形式が変わっても、その本質は変わらない。

 ガロアンディアンの残骸を今度こそ奈落の底に叩き落とすため新たに転生を果たしたシナモリアキラ。

 大地を駆ける十二の影、それらは全て『病気持ち』である。




 血を吸うことの意味はひとつではない。

 それを生の衝動リビドーの略奪と解釈する吸血鬼もいれば、熱という生命活動への交感と定義する吸血鬼もいる。いずれにせよ、重要なのはそれが儀式でもあるということ。永遠の冬を体現する氷の牙が赤々と燃え立つ燐の血を啜るさまは、まさしく魔術的な光景だった。


 機械の魔女が施した鋼の拘束具が軋みを上げながら外れていく。中空に固定されていた筋肉質な女の体が火の粉を散らしながらゆっくりと床に降り立った。コルセスカは己の使い魔の首筋から牙を抜くと、部屋の隅に置いてある籠に向かおうとしたが、制止される。


「ありがと。でも着替えくらいならもう自分でできるよ。おかげで体調もすっかり元通りだしね」


 女の肢体が軽やかに病院の一室を横切っていく。長身で引き締まった筋肉のついた体、それでいて羽のように体重を感じさせない歩み、肩胛骨の輪郭を縁取る傷跡から漏れる淡い光。揺らめく陽炎が束の間、翼の形をとる。


 コルセスカは再起動した自らの使い魔、アルマ・アーニスタの快活な笑顔を見て、やや心配そうな表情のまま彼女の着替えを見守った。再会した時にはまともに手指すら動かせなかったアルマの動きに淀みはない。鮮やかな赤色のショートヘアは、女のうちにある熱を反映するように静かに燃えていた。天使の末裔とされる燐血の民は正常に炎熱生命としての恒常性を取り戻している。


 コルセスカは長く息を吐いた。アルマが暴走したと知った時にはさしもの氷の魔女も肝が冷えたが、吸血によって『繋がり』を取り戻した今、やっと安堵する余裕ができたのだ。

 ふと、コルセスカは自らの牙を指で撫でた。


「ねえアルマ。私の牙、小さいでしょうか」


「さあ、わかんない。平均的なサイズとか、検索してみる?」


「いえ、やめましょう。そういう問題ではないとわかってはいるのです」


 仲間を戸惑わせるような問いを発したことを恥じるように顔を背け、唇を噛むコルセスカ。一瞬の間を置いて、話題を逸らすように口を開く。


「それにしても、やはり『業』の侵食が速くなっている気がします。このままだとまた何かのきっかけで狂乱しないとも限りません」


 コルセスカの異形の右目がアルマの顔を映す。鏡のような、あるいは感情の無い虫のような視線。それに対して困ったような笑顔を見せるアルマもまた、感情のうかがい知れない苦笑で応えた。


「迷惑かけちゃってごめんね。もういっそ、ソルダのとこに戻って『松明』で再調整を受けた方がいいのかなー」


「その冗談、サリアの前ではやめたほうがいいでしょうね」


 冷えた声で釘を差すコルセスカの瞳はいつになく寒々しい。身内に対してはあまり見せない感情の色、吸ったばかりの激しい熱が視線から漏れ出していた。


「第八階層に取り残されたままの『本体』さえどうにか出来ればあなたはアルマとしての自己を確立できます。迷宮攻略は急がねばなりませんが、私たちならできる。そうでしょう?」


 コルセスカは手をさしのべながら言った。巨大な斧を軽々と操る戦士であるにもかかわらず、白磁のようになめらかなアルマの肌。爪の先から柔らかな膚、肉と血と骨のひとかけらに至るまで、それは言葉によって紡がれた一つの機能。コルセスカは目の前の『燃える光』を人として定義して、手をつなぐ。アルマは言った。


「ありがとう。なんかごめん。前世で大変なのは同じなのに、私ばっかり頼っちゃって」


「いいんですよ。その代わり、また私とサリアを助けて下さいね――私も、いい加減に決着をつけるつもりです」


 着替えはいつの間にか終わっていた。アルマが纏うのは古めかしい甲冑にサンダル、白い飾り翼という仰々しい、あまりにも演劇的な舞台衣装だ。これから宗教劇に赴くのだと言えば誰もが信じるだろうが、彼女が向かうのは戦場だった。


「アルマ。私たちにとって大切なのは、未来でも過去でもありません」


「うん。見据えるべきは、今この瞬間。だから私たちは『痕跡神話』なんだ」


 二人は並んで部屋を出ていく。瞬間、アルマの肉体がほどけ、強く輝く炎となってコルセスカの背に収束する。魔女の背後を照らすのはまばゆい後光にも、九枚の燃える翼にも似ていた。

 瞬きする間に生じて消えた、それは幻。

 残ったのは並んで歩む世界槍の探索者が二人。神々しき威容を目の当たりにした者はもはや誰一人おらず、呪術医院の廊下を歩む二人の背後には密かに侵入していたシナモリアキラネズミの灰が残るばかりであった。


「ところでコアちゃん、これ今月分の生活費ね。しばらく渡せてなかったから心配してたんだ。ちゃんとイベント走った? ランク下がってない? 新しいゲーム買えなかったりしてない? 今コアちゃんがアクティヴでプレイしてるゲームのアイテム課金分はだいたい含めてあるけど、食費との配分は考えてガチャガチャするんだよ? 足りなくなったら私がご飯作ってあげるからね?」


「ありがとうアルマ私の天使! もう大好きです! それと、新しくカードパック剥くための軍資金がちょっと足りなくて」


「そういえば新弾出てたっけ。ごめんその分生活費に入れるの忘れてた。じゃあ今度一緒に買いに行こうよ。ついでにドラフト戦やる?」


「話が早くて好きですさすが私の守護天使様!」


「うんうん。でも対戦系やるときは他のゲーム作業はストップするんだよ。相手に失礼だからね」


「えー、でもこの『万能の才人』とかいう相手、いちいちエモートで煽ってくるし無駄に持ち時間限界まで使うんですよ、暇過ぎて他のアプリゲーム消化しますよ」


「そいつブラックリスト入れよ? ね?」


 人気のない廊下でかしましくじゃれ合う二人。アルマの安定化を終えた二人が向かうのはトリシューラの下、ではなかった。


「ところでアルマ。これどっちの勢力のユニットかわかります?」


「ん、攻撃可の中立NPCみたいな? コアちゃんはどっちだと思うの?」


「これから確かめて、場合によってはとっちゃいましょう」


 意図の定かならぬやりとり。コルセスカが足を進めたのは建物の外。積層の星形城壁に囲まれた敷地内を早足で横切り、呪術医院の真正面へと向かう。正門と一体化した警備員詰め所にたどり着く二人。


 近いうちに攻めてくるであろう敵の軍勢を押しとどめるための最後の防衛線。戦闘になった時に最も危険な場所となるこのあたり一帯には警備ドローン以外の気配は無く、『マレブランケ』の誰かが詰め所で見張りをしているのだが、コルセスカは門から少し離れた場所の植え込みに近付いていった。彼女の義眼が呪力を込めて何もない空間を凝視すると、『迷彩』のまじないが破壊され、『何もない空間』の幻影が剥がれていく。


「冬の魔女。なぜわかったの」


 そう問いかけたのは、前髪を真っ直ぐに切りそろえた長い黒髪の乙女。和装もどきを着崩したイツノ、あるいはアキラ姫と呼ばれる水の魔女だった。コルセスカとは別の意味で冷たい雰囲気の女だが、この魔女の場合はそもそも感情の気配が薄い。相対することで際立つ存在感の差があった。

 コルセスカは大きな瞳でイツノを捉え、挨拶した。


「予備試験以来ですね、奇し灘姫。未だにラクルラールの大キュトス主義にかぶれているのですか? 内部からの改革というトライデントへの侮りを抱えたまま?」


 挑発めいた言葉は、眼前の相手を星見の塔の競争相手、敵対派閥の魔女として認識するという宣言だった。それに対してイツノはこう応じた。


「今はトリシューラ陣営の品森晶で通っている。私は私という個としてわたしにーさまと対峙しなければならないから、思想としては邪視の座――全ての姉妹を女神として尊重する小キュトス主義――に近い。わかるでしょう、私はトリシルシリーズの中ではラクルラールの手が全く入っていないクレアノーズお姉さま単独作品。だから、ねえ、私は味方なの、ちょっと、冬の魔女」


 コルセスカの表情はまるで変わらなかった。

 反対に、イツノの表情は見る見るうちに曇り、歪んでいく。誰も、身じろぎひとつしていない。凍り付いた空気だけが剣呑な雰囲気を膨らませていく。

 既に必殺の間合いだった。コルセスカの邪視圏は強制的な凍死をイツノに要求している。水流の義肢は反応すら許されず封殺され、静かな凍結は足下から胸にまで達している。致命的に相性が悪く、射程距離と攻撃速度が違いすぎた。


「クレアノーズお姉様が人質に取られているから表向き従うしかない。けど、私にはあの人形使いが先代のミスカトニカお姉様を超える器とは思えなかった。だから何らかの弱みを握れないかと奴の内情を探ってきたの。わかって、私はラクルラール派じゃない。貴方と協力できる、有益な情報を持っている、だから」


 イツノの形の良いおとがいが霜に覆われて、そこで冷気が停止する。クレアノーズはトリシューラとコルセスカの共通の師だ。しかし、その作品であるイツノに対する信用の度合いは二人の間で随分な乖離があった。

 コルセスカからイツノに向けられているのは既に殺意ですらない。作業的なゴミ掃除の意志だ。


「私は奴の弱点を掴んだ。ラクルラールたちがひた隠しにしている六人の頂点、第一位・頭頂部(トップ)――始まりのラクルラールの居場所を」


 イツノはそう言うと周囲に視線を巡らせ、誰もいないことを確認してから声を潜めてこう言った。


「『始まりのラクルラール』は既にトリシューラ陣営の内側にいる」


「――ええ。知ってますよ」


 重大な秘密の暴露。だというのに、コルセスカにも、その背後のアルマにも、さしたる驚きは無かった。

 イツノはいっそう険しい表情になって言った。


「冬の魔女、あなた、それを把握していながら」


「といっても、私もつい最近知ったんですけどね」


 それが何を意味しているのか、イツノには理解できない。困惑の表情を浮かべる相手に向かって、コルセスカは更に続けた。


「恐らくオルヴァも知っていて黙っている。だからこれは口に出して確定させるわけにはいかない事なのです。そうさせないためにも」


「未来を知る人たちってみんなそう。悪い未来なら知っておきたいのに」


 協調の意志を示そうとしないコルセスカを睨みながらイツノは提案した。


「魔竜の出現で第五階層が混乱している今が最大の好機。冬の魔女、私と組んで第一のラクルラールを暗殺してほしい。誰にも気取られぬよう、支配されつつあるトリシューラ陣営そのものを敵に回す前に、迅速に」


 イツノはその瞳にいつになく真剣な光を湛え、警備員詰め所の方を、正確にはその中にいるであろう人物を見据えてこう言った。


「ラクルラールの第一位。トライデントの元細胞という逆に疑われにくい立場からずっとトリシューラを監視していた妖精王の末裔――蠍尾(マラコーダ)ことフィド・シュガ・ハジュラフィン。『死人の森の女王』と同じ時代から今に至るまで子孫の肉体に魂を転生させ続けてきたもう一人の『森の王』。奴を殺さない限り、私たちに勝利は無い」





 医療用のドローンやナース型ちびシューラが飛び回る病院の主要区画は、避難してきた人々でごったがえしていた。

 治療の心得がある有志の探索者らが女医シューラや神官シューラと共に怪我人の対応に当たり、聖別された護符や内と外を切り分ける結界が院内を穢れから守護していく。イツノによる清流の即席堀、カーインが構築した瘴気の壁、グレンデルヒやルバーブが維持し続けている物理的な防護――隙の無い守りの内側は、しかしどうしようも無い閉塞感に満ちていた。

 援軍の見込みが無い籠城ほど絶望的なものは無い。いつ執行されるかわからない死刑を待つ囚人のような恐怖が絶えず人々を襲い続け、心折れること無く希望を説き続ける美しい少年の懸命な努力が無ければいつ大規模なパニックに陥ってもおかしくない状況だった。


 混沌とした苦境の中に、トリシューラが常用する『本体』の姿は無い。

 アンドロイドの魔女は喧噪から離れた病院の地下深く、大量の機械部品や予備の強化外骨格が並ぶ広大な工房で休み無く作業を続けていた。

 彼女は無意味なはずの遮光ヘルメットで頭部全体を覆い、謎めいた溶接作業を産業用ロボットにやらせていた。縦に細長い楕円形の分厚い鉄板と、その上に乗った大量の計器や操縦桿、操縦席らしき箇所の前方を覆う風防。

 車輪か箒を取り付ける前の不格好な乗り物にも見えるが、一言でその外見を形容するなら『鉄のスリッパ』とでもするのがわかりやすいだろう。


「それは?」


 昇降機の扉が開き、現れたコルセスカは開口一番そう言った。

 背後に続くのは使い魔のアルマと、珍しく居心地悪そうにしているイツノだった。傍若無人を絵に描いたような振る舞いはなりを潜め、コルセスカの顔色を窺うようにしている。


「夢に意識をダイブさせる乗り物だよ。汚染された『悪夢』の領域でも安全に、かつ高速で移動できる優れもの。『朱の天主』からの技術供与って所さ」


 答えたのはトリシューラの傍らで作業を手伝っていた機体だった。ずんぐりとした円筒形の機械に器用に動くマニピュレータ。透明なガラス窓から、目を閉じて安らかに眠る犬と霊長類の中間のような顔が覗いていた。


冷凍睡眠者コールドスリーパーの『眠り棺』? 夢界のアヌビスがどうしてこんなところに?」


 コルセスカの疑問に、『眠り棺』は淀みなく答えた。


「パンデミックによる吸血鬼と再生者の大発生なんて困るよ。『下』は増えすぎた長寿者人口と甦った冷凍遺体の対処で手一杯なんだ。世界が冥府化したら人口が減らなくなってしまうじゃないか。それはまずい」


「私たちと利害が一致してるわけ。『上』ではあまり馴染みの無い『夢の世界』からの攻撃ならリールエルバも完璧な対処はできないんじゃないかと思って」


 ヘルメットを外しつつ、得意げに胸を張るトリシューラ。


「開拓可能な内世界フロンティアなんてそうそう発生しないからね。頼みの綱の移民船せかいそうもこんな有様だし、人口問題は住居と食料を度外視してさえ切実な危険を内包しているもの。摩擦と戦争――そして言震を起こすわけにはいかない。私のガロアンディアンではそんなことさせないよ」


 『眠り棺』も同意するように手を上下させた。


「カーティスには退位して頂いて、より穏当な思想の『女王』と直接交渉したい。我々『夢見人』はそのための協力なら惜しまないよ」


 『夢の世界』――定かならぬ希望に縋るしか無いトリシューラたちにとって、それはまさに夢の手段だった。コルセスカはトリシューラの方針に異を唱える事はせず、きらきらと煌めくカードを取り出して言った。


「『夢界』は芸術やパフォーマンスなど、表現者たちに人気がある世界だと聞いています。つまり、それに乗って夢に向かうのはアイドル衣装を着た私、と言うことでいいのですね?」


「もちろん。夢とアイドルはセットだもの。ただ問題がひとつ。リールエルバ=カーティスは恐らく夢に対する防御手段を持っていないから、懐に潜り込みさえすれば直接ライブ対決に持ち込めると思う。けど奪われたアキラくん――というか、その素体となっているアルト・イヴニルは藍と朱の色号使い」


「朱は夢を司る。ライブがアキラによって妨害される恐れがあるのですね。地下迷宮で経験を重ね、成長してきた複合型アイドルユニット『SNA333』として」


 『アマランサス・サナトロジー』に対する秘策が、ここにきて完全に裏目に出ていた。リールエルバは地下アイドル空間という世界を基盤にして『死人の森』を第五階層に広げている。女王に従うシナモリアキラもまた、戦闘者とアイドル、二つの顔を持っているのだ。


「魔竜対策も一応考えているけど、相手は吸血鬼だから眷族を増やせるのが厄介だよね。時間が経つほどこちらの勝ち目は薄くなっていくと思う」


 状況は依然として悪いままだ。それでも彼女たちには戦う以外の道が無かった。既に退路などどこにも無いのだから。


「シナモリアキラだが、物質世界での戦闘は私に任せて貰ってもいいかな」


 いつの間に現れたのか、長い髪の男はゆっくりと歩み出て発言した。

 カーインは掌を上に向けるとわずかな呪力を放ち、黒い靄のような気体を発生させた。穢れや瘴気などと呼ばれる呪術的な要素である。彼はそれを示しながらもう片方の手で院内に侵入したと思われる小さなネズミを摘まんでいた。


「シナモリアキラの意思はともかく、彼は呪術の形式としては吸血鬼の眷族になったという認識で間違い無い。いったん吸血鬼の血が体内に侵入してしまえば、その瘴気によって奴隷となった者の存在は穢されてしまう。この穢れをどうにかしない限り彼は吸血鬼の下僕で在り続けるだろう。このように」


 カーインは片手で瘴気を操ると、捕獲したネズミの腹に黒々とした何かが吸い込まれていく。じたばたと暴れていたネズミが突然おとなしくなったかと思うと、カーインの腕を伝って肩に乗り、おとなしく鎮座する。

 初歩的な使い魔掌握の技術だが、トリシューラとコルセスカという二人の守りを突破して使い魔を略奪するとなるとその難度は跳ね上がる。カーティス=リールエルバの支配力が強大であるのは確かだが、二人が敗れた理由はそれだけではない。

 トリシューラは下唇を噛んでむー、と唸った。


「瀉血呪術なんて私は使えないし、始祖の穢れに有効な抗毒血清もわからない。教会の奇跡にでも頼るか、最後の手段だけど禁呪で強引にどうにか――」


「その必要は無い。私が手立てを持っている」


 カーインは再びネズミをつまみ上げると、目にも留まらぬ速さの貫手で小動物の全身各部を刺激した。幾何学的な図形を描くかのような軌跡がネズミの上を走ったかと思うと、次の瞬間ネズミは痙攣と共にぐったりとした虚脱状態となり、口から瘴気を吐き出して動かなくなった。


「シナモリアキラは転生の繰り返しによって全身の呪力の流れが絶えず変動し続ける面倒な男だが、幾つか変わらぬままの『ツボ』がある。それが紀命点と呼ばれるもの――紀人や紀神にも備わっている存在自体の経絡秘孔だ」


「そこを突けば穢れを祓えるの?」


 トリシューラの問いに、カーインは頷いて言った。


「そうだ。曖昧に広がった神話的存在を時空を超えて貫く『紀』という運命線。これを刺激することで彼本来の潜在神話力を一時的に活性化させる。あとはシナモリアキラの紀人としての格次第といったところだが、やってみる価値はある」


「――うん。そうだね。試す価値はある。あるけど、それだけだと不十分かな。結局の所、私たちは最大の障害を排除できてない」


 トリシューラの緑色の瞳が床に転がるネズミを冷淡に見据えた。今や第五階層でもっともありふれた野生動物は、しばらくしてその形を崩し、灰となって消えていく。その血肉は大地に還らぬ不自然な存在であった。


「魔竜レーレンターク。いくらリールエルバが強くなったと言っても、仮にも紀人となったアキラくんを支配するというのは尋常じゃ無い」


「シナモリアキラは魔竜によっても支配されている、と?」


 カーインの問いに、トリシューラは肯定で返した。

 詳しい説明は後に回すけど、と捕捉しつつ、アンドロイドの魔女は瞳に決意の色を浮かべて宣言する。


「魔竜は私に任せて欲しい。あれは私に対する挑戦。完全な顕現ではない今の状態なら、付け入る隙は必ずある」

 

 決意表明の後、トリシューラは方針を再確認していく。

 コルセスカは夢世界でライブ、カーインがアキラの対処、トリシューラとアルマ、イツノと『マレブランケ』は物質世界での陽動兼魔竜との戦闘。

 『夢界』を高速移動するための『スリッパ』と、ライブ用の特注衣装が完成したら間を置かずに作戦を決行。立体幻像のお針子シューラが「もうちょっとー」と目を瞑りながらコルセスカの回りを飛び回り、どこかに飛び去っていく。

 どうやら決戦はそう先のことではなさそうだった。


 トリシューラは準備が終わるまでしばし休息するように皆に告げ、自分は作業に戻る素振りを見せた(実際は会話中も全てのトリシューラが作業を継続していたのだが)。と、すぐ傍にコルセスカが立っていることに気付く。


「セスカ。これって、私たちの傷かな」


「いいえ。これはゲームです。トロフィーは勝ち取るものでしょう?」


 冗談めかした答え。だがそこには一面の真実と、慰めと、どうしようもない世界観の呪いがあった。かつてシナモリアキラは自らを二人にとってのトロフィーで良いと言って見せた。その言葉は、まだ二人にとって死んでいない。

 トリシューラとコルセスカは顔を見合わせて、静かに笑い合った。

 しばしして、赤毛の少女はヘルメットをぱかぱかと上下させながら言った。


「――とはいえ、アンドロイドの魔女としては安心してるんだ。アキラくんにとっても私たちが唯一無二じゃないってこと。私たちとの『関係性(きずな)』すらも交換可能であること。それは希望なんだよ、『使い魔』に対する『杖』の一番おおきな活路なんだ。まあ勝手に手を出されたら怒るんだけどね」


「それは、冬の魔女にとっても同じかもしれません。唯一無二の絆を繋いだ最も大切な仲間が彼以外にもいること。運命の恋人すらも替えがきくということ。交換可能性は残酷さであると同時に強さでもあり、希望でもある」


 二人の言葉は独白に似ており、自らの運命に対する問いかけにようでもあった。

 リールエルバによるシナモリアキラの略奪。それがもたらしたのが決して屈辱と痛みだけでは無いと、シナモリアキラを欲した二人だからこそ理解していた。

 トリシューラはそこから考えを推し進めて、ひとつの結論に至る。


「そして、それはリールエルバにとっても同じであるはず」


「何か、狙いが?」


「狙いというか、そもそもあのコにとってはアキラくんの方が間に合わせというか――それはそれで腹立つし、また空組頼るのもちょっとねー」


 はっきりしないぼやきの後、二人はやはり相手にというより、独白に近い語りを続けた。あるいは、二人にとってこの会話は大前提の確認作業でしか無いのかもしれなかった。意味を交換するまでもなく、互いが既に持っている持ち物に抜けが無いかを確かめるための作業。互いの瞳が互いを映す。そこに変化はまるで無い。


「『死人の森』は失う事の無い世界。代替可能性を必要としない唯一無二だけの優しい理想郷。けれど、それは儚いはずの価値が色褪せることを意味します」


「だから、あの女王の瞳は灰色なんだろうね」




 戦いが始まったのは、それからきっかり3600秒(一時間)後のことだった。

 というより、そうせざるを得なかったと言うべきだろう。オルヴァが操る探索者たちの足止めにも限界があったのだ。呪術医院に到達した魔竜と使い魔たちの軍勢を、まずルバーブとグレンデルヒという最大戦力が迎え撃つ。


 高位呪術が乱れ飛ぶ戦場は、圧倒的質量と物量によって瞬く間にトリシューラ陣営の劣勢となった。正門が崩壊し、ドローンの集中砲火も虚しく大量のネズミたちが侵入してくる。敷地内を蹂躙する黒い大波。もはや避難民の安全を守ることも、ガロアンディアン最後の領土を守る事もできずに機械女王は敗北を受け入れるしかない――そうとしか思えない光景だった。


 しかし。

 先行して低空から偵察を試みていた上級使い魔のシナモリアキラコウモリは奇妙な事に気付いた。病院の内部に、奇妙なほど混乱の気配が無いのだ。

 警備ドローンからの反撃は苛烈なのだが、この状況でおきているはずのパニックが微塵も無い。アキラが知るトリシューラの人心掌握がそれほどのものとは思えず、あるいはレオの人徳がこのような状況を生んでいるのかとも考えたが――。


 嫌な予感がする。アキラコウモリは両手の翼を広げ、院内の強行偵察を試みる。この呪術世界で培った戦闘勘、あるいはトリシューラとの付き合いで養った「あの魔女が何も企んでいないはずがない」という信頼が不安を募らせたのだ。

 予感は的中した。サイバーカラテ式の空中機動で軽機関銃の弾幕を突破して建物に侵入したアキラが見たものは、もぬけの殻となった病院内部だった。


「あれだけの避難民を、どうやって? 地下空間――いや、巡槍艦の修理がもう終わったのか?」


 問いに答えるべく、暗い通路の奥からトリシューラが姿を現す。病院内であるためか、白衣を身に纏い眼鏡をかけたその姿はいかにもな医師といった風情だ。


「どっちも外れ。正解はもっと単純。非戦闘員を第六階層に逃がしたの」


 アキラにはトリシューラの言葉が正気のものとは思えなかった。

 彼はあの場所で戦ったことがある。異形の迷路、狂気の怪物、死と隣り合わせの危険が溢れる迷宮深層。そんな場所に人々を逃がしたというのか。


「ありえないだろう、仮に『扉』を用意できたとしてもだ、そんな無茶をすれば反発は必至だ。それだけの人数をホラーから守り切れるのか、トリシューラ?」


「レストロオセ派の馬鹿みたいな謀略に付き合う理由、ある? 『下』の尻拭いは『下』にやらせる。それだけのことなんだけど、わかるかな」


 アンドロイドの魔女は無造作に手を振った。投げ放たれた大きな針がエントランスに設置された大きな鏡に直撃し、粉々に破壊する。苛立ち、あるいは怒りが込められた一投。その意味がわからず、アキラは困惑する。構わずにトリシューラは言葉を続けていく。


「伝染病の流行と武力抗争による難民の発生。人道支援と難民救援の名目があればジャッフハリムはそれを拒否することはできない。とりわけジャッフハリムそのものであるイェレイドはね。今、この戦場で最も安全なのはね、皮肉なことにレストロオセ派とセレクティ派の争いから切り離されたイェレイドの傍なんだよ」


 恐るべき大魔将の名をこの状況における希望として語るトリシューラの論理を、アキラはやはり理解できない。だが、トリシューラにとってそんなことはどうでもいいことだった。重要な事実はたったひとつ。この呪術医院はがらんどうで、守るべき人々はどこにもいない。


「ようこそネズミ取りの罠の中へ。ここがお前たちの狩り場だよ」


 宣言と共に、敷地内に侵入した魔竜の背後から巨大な障壁が迫り上がった。大地を操作するルバーブの大呪術――この領域を檻とする罠に、イツノの結界とカーインの瘴気が蓋をしていく。

 開戦の号砲は、シナモリアキラコウモリの断末魔によって鳴らされた。




 戦場を駆け巡る一陣の風。

 旋風が吹いたその後に残るのは無惨な屍、あるいは塵となって霧散していく哀れなシナモリアキラたちのみ。魔竜の進撃を背景に、巨体の足下で矮小な存在たちが壮絶に生と死を火花と散らしていく。


「弱い」


 足りぬ、と吐き捨てて手掌を鋭角に繰り出していく。濃い色の髪がなびくたび、戦場に溢れる瘴気よりなお深い闇が繰り出され、下級のシナモリアキラが次々と倒れ伏していった。ロウ・カーインの瞳には失望と苛立ちがあった。歯応えがなさ過ぎる。使い魔のネズミやコウモリにまでシナモリアキラを適用したリールエルバへの怒りを募らせつつ、横殴りの雨のように次々と貫手をアキラに叩き込む。


 この程度では届かない。紀人としての存在そのものに有効打を与えるためには、より格の高い上位シナモリアキラと戦わなくてはならなかった。

 その意味で、カーインの申し出は私欲に基づいたものと言えそうだった。今の苛立ちがその証拠だろう。彼はこの後に及んで楽しみを求めている。

 

 我欲を露呈させる現在の第五階層の有り様に影響されたものなのか、元から隙あらば闘争の機会を狙っていたのかはともかく――そんな彼から冷静さが失われることは無かった。カーインの目は絶えず動き、戦場に溢れるシナモリアキラたちを鋭く観察し続けている。


 やがて、ヒト型をした吸血鬼タイプの中級シナモリアキラの部隊が『マレブランケ』の銃使い率いるドローン部隊と交戦しているのを見つける。疾走し、側面から強襲するカーイン。瞳には喜色。手指で肉の感触を捉えた途端に落胆。


「――弱い」


 かつてリールエルバは承認を集め、リビドーを搾取する女王として君臨していた。人の原初的欲望、男性と女性、単純化された役割と衝動――古く明快な世界観はそれゆえに構造の破綻が少ない。

 中級のシナモリアキラ吸血鬼たちは地下アイドルリールエルバのファンとして、光る棒きれを手に熱狂する豚だった。豚頭のアキラは踊り、荒ぶることでその信仰を女王に捧げる、欲望の燃料電池である。

 

 第七識を集約し紀人の位階に到達する――正攻法だが、極限まで突き詰めた『欲』を直視し続けられる者はそういない。それは狂気と紙一重の修行だからだ。

 紀人に至るとは、すなわち末那識(セブンス・センス)に目覚めた証。

 自己を規定する我執と煩悩、すなわち生きるという苦痛と欲望を煮詰めた自我そのもの。紀人を、意識の先に至ってなお人のままの存在たらしめる弱さ。


 同時に、自己を存在として統御するための必要悪でもある。

 紀人としてのシナモリアキラはオルヴァとの闘争、カーティスによる汚染という揺さぶりを受けたことで、この部分に深い傷を負っている。

 『我執』の核である『火車のシナモリアキラ』が紀人化の影響で暴走したことも影響しているだろう。現在シナモリアキラの第七識は不完全、つまり紀人としても十分な状態ではない。


 このシナモリアキラは、歪んだ欲望に汚れている。

 一心不乱に騒ぎ続ける豚アキラ。彼らは女王への崇拝を叫びつつ、そのじつ女王のことなど見ていない。

 カーインの指先が酷薄な終わりを紡ぐ。不可避の貫手が豚の頭部を穿ち、その動きを停止させていった。


「風傷から燥傷に繋いだ。これでしばらくは動けまい」


 敵を殺害するのではなく戦闘不能に追い込んだカーイン。彼は指先からフェイクニュースを伝達させ、捏造したリールエルバのゴシップを豚アキラの脳に刻み込んだのだった。欲望に塗れた信仰心は裏返り、一瞬にして彼らはリールエルバのアンチと化す。女王を支持する呪力はその名誉を貶める怨嗟に反転した。


 局地的な戦いでカーインが勝利を続ける一方、戦況はトリシューラ陣営の不利に傾いていた。病院前で戦列を組む自走砲が魔竜に踏み潰されて爆発し、屋上から狙撃を続けていたトリシューラ型砲塔が魔竜の息で破壊される。ダミー・トリシューラの群れが挑発を繰り返すと、豪快な体当たりが建物それ自体を崩壊させた。

 それと同時、病院に仕掛けられた大量の爆薬が起爆。魔竜を衝撃が襲う。


 吹き飛ばされるシナモリアキラの群れ、瓦礫に埋もれていくシナモリアキラ、上空からの爆撃に小さくなって伏せるシナモリアキラを撃ち抜く無慈悲なドローンの銃弾、死屍累々のシナモリアキラが山と海を形作り、戦場の道を整備していく。

 舞い降りた炎天使がラッパを吹き鳴らし、雷と炎の斧を振り下ろして穢れたものどもを殲滅していく。聖なる戦いが開始され、飛翔するアルマの神罰が地を割り、空を砕き、七頭の巨獣の前歯を粉砕する。


 混戦状態の中、状況は誰にもコントロール不能なものになりつつあった。包囲された魔竜を四方八方から呪術が襲い、絶えず爆炎を吹き上げて揺れ続ける大地。無事に残っている足場などもはや無い。


 そんな時だった。ひび割れた大地に異質な影が落とされたのは。

 立体映像を投影するように、絵のレイヤーを上から重ねるように、世界を侵食するように。戦場を雪景色が、暗い湿地帯が、乾いた冬の荒野が、折り重なって世界を更新していく。強烈に過ぎる視座と圧力がドローン以外の戦闘員たちの表情を引き攣らせた。恐慌状態に陥った銃士(カルカブリーナ)が一人のシナモリアキラに短機関銃を乱射する。弾道を見切ったアキラには無論当たらない。高いレベルで『弾道予報』を使いこなすサイバーカラテ・マスターなのだ。


 『マレブランケ』きっての杖使いの威勢もそこまでだった。突然彼の手が震え、ゴーグルの奧の瞳が動揺する。銃を取り落とし、ごろごろと鳴り出した腹部を押さえて苦痛に呻き出したかと思うと、激しく嘔吐した。ばかりか、その下半身の衣類が汚れ、汚れた液体が股間から染み出していく。失禁したのは尿ではない。大量の白い下痢だった。


 カーインの動きは素早かった。銃士(カルカブリーナ)が攻撃を仕掛けたシナモリアキラ――そこから放たれていた不可視の瘴気に向けて、掌を向けて自らの瘴気を飛ばしたのである。伸ばした『腕』は合計六。『六淫操手』の異名のままに、彼が操る六つの気が容赦なく敵の瘴気を弾き、立て続けにシナモリアキラを襲う。

 しかし、カーインの意図はあえなく挫かれた。

 彼の全力の攻撃は、同等以上の力によって弾き飛ばされたからだ。


「――強い」


「嬉しそうだな、おい。病人の前でする顔じゃねーだろ人でなし」


 笑うシナモリアキラもまた、表情に闘争の喜びを浮かべている。

 その男の顔は、ひどく乾いていた。

 サイボーグとはいえ、自然な肌のみずみずしさを演出するのは『それらしさ』に繋がる。しかしこのアキラには逆に水分が欠乏した状態を演出したがっているようにも見え、異様な不健康さがあった。

 皺の寄った手指でカーインを挑発し、アキラが口を開く。


「遊んでやる。まずは俺からだ」


 熱と乾き。アキラの肉体から膨れあがる死の気配。

 同時にカーインが前へ走る。次々と地面から立ち上る黄色い火柱がその後を追い、迎え撃つアキラは片手に黄色の炎、もう片手に黄色の液体を纏わせて拳を繰り出した。交錯する影、刹那の攻防の後、カーインが飛び退り、アキラの身体が衝撃に傾いだ。貫手が肉体の正中線に沿って突き込まれたのだ。


 だが、呻き声を上げて端整な顔を歪めたのはカーインの方だった。

 不可視の筈の六本腕が明滅しながら実体化する。そのうち二本に生々しい傷痕が刻まれており、激しい発熱と乾燥がカーインを襲っていた。

 アキラは倒れて呻き続ける銃士(カルカブリーナ)を足蹴にして言った。


「さっさと俺を殺さないとどいつもこいつも脱水で死ぬぞ? 俺の殺傷力はまあわりとやばいからな。アジア人だけにアジア型。黒い俺にすら匹敵する死だ」


 シナモリアキラの姿が幻のように歪んでいく。世界が変質し、肉が蠢いて異形の怪物へと変貌していった。それは虎のようであり、狼のようであり、狸のようであり、それらが入り交じった毛むくじゃらの異形であった。恐ろしげな怪物は大口を開くと大量に嘔吐、胃と小腸、大腸を喉から露出させて肉体を裏返した内臓の化け物に更なる変貌を遂げた。白い下痢を高く吹き上がらせ、病の雨を降り注がせるパンデミックの化身。それは捩れた小腸の身体と下痢のブレスを吐く魔竜。

 死を意味する宣名が世界を震撼させ、隔離封印から解き放たれた真の厄災がその牙を剥いた。


「我が名は『黄火疫コレラ』。熱と乾きの王、黄色胆汁の悪夢、荒々しき黄炎の死。糞便を手足に塗りたくる古のサイバーカラテが相手をしてやるよ、ロウ・カーイン。下痢発勁による脱水で死ね」


 内臓まみれの竜人の両肩に虎と狸、胸から狼の頭部が迫り出し、穢れた両手が拳めいた形を作る。小腸そのままの頭部から白い液体が吐き出され、カーインを飲み込んでいく。病毒概念がそのまま形になった死に抗うこと叶わず、男の存在は一瞬で瘴気の中に消えた。


「この程度か――あっけないもんだな」


 圧倒的な力を得たアキラは、どこかつまらなさそうに呟く。

 戦いではなく勝利がしたいと言った男は、しかしその果てに満足を見出すことも出来ず嘆息する。常に格上の宿敵として立ちはだかってきた相手との結末が劇的なものではないことに、らしくもなく落胆を感じてしまっている。

 これがシナモリアキラであるのか――そんな問いを振り払うように次の標的を求めるアキラは、ふと風を感じて動きを止める。

 妙な大気の流れ。自分に向かって吹いてきているこれは、戦場に満ちているリールエルバや魔竜の瘴気ではない。


 そう、それは何度も受け止め、躱してきたあの鋭い――。

 咄嗟に頭を後ろに逸らす。眼前を通過していく貫手、反撃の一打を押さえつけられ、そこから余りにも重い中段蹴りがアキラの露出した内臓を破裂させながら衝撃を浸透させていく。怪人の身体が吹き飛んだ。


「が――、この、蹴りは――」


「喋れるとは大した成長ぶりだ。配慮の必要は無さそうだな、シナモリアキラ」


 余裕に満ちた態度で言い放ったのは紛れもなくカーインだった。

 死んだはずでは、という疑問は浮かばなかった。状況はそれどころでは無い。何しろ、シナモリアキラを立て続けに攻撃が襲っているのだ。それも四方八方から絶え間なく、瘴気ではない物理的な打撃が、である。


「風のカーイン」


 最初に奇襲を行ったカーインが宣名すると、緑色の裳がふわりと風にそよぎ、身の穢れを払っていく。泰然とした佇まいは普段の如く、その心の有り様は相も変わらず外からは窺い知れない。


「寒のカーイン」


 青い衣服は真冬の雪山にでも挑むかのような重装備で、毛糸の帽子とイヤーマフ、たなびくマフラーが暖かく男の全身を包んでいる。山歩き用の杖を棍か短槍のように操って冷静に攻め立てる戦法はこれまでのカーインには無かったものだ。


「暑のカーイン」


 そう名乗った眼差しの強いカーインは筋肉質の上半身を晒した水着であった。本格的に泳ぐのには向かないサーフパンツにはファイアパターンが描かれ、その名乗りの如く燃えるような熱波が彼から吹き荒れていた。


「湿のカーイン」


 濡れた長い髪が頬に貼りつく。水流を纏わせた手掌が下痢の吐息を押し流し、アキラの穢れをまるで寄せ付けていない。他のカーインよりどこか陰気なふうだが、そのことがかえって妙な色気を演出していた。


「燥のカーイン」


 彼は目の前の乾いたアキラにどこか似ていたが、決定的に異なるのはその目までもが乾いていないことだった。砂漠地帯のごとき全身を覆う白い服装とターバンに身を包み、燃えるような闘志でアキラと拳をぶつけ合う。このカーインの戦闘スタイルは拳打によるもの。拳に巻かれた布が返り血で染まった。


「火のカーイン」


 ゆったりとした真紅の長衣で身を包んだそのカーインは先程から身動き一つしないままだ。目を閉じ、瞑想でもするかのように静かに立ち尽くしている。

 しかし、彼の周囲に浮かぶ奇妙な火の玉――その内に秘められた驚くべき呪力がアキラに安易な攻撃を躊躇わせていた。

 そうして揃った六人のロウ・カーインは声を揃えて言った。


「天人相応。経絡臓腑の小宇宙に六気が通じれば、天の六候は人の六淫に転ず――ならばその逆も然り。さて、よもや今更これを卑怯とは言うまいな?」


「ほざけ、六淫操手!」


 叫ぶシナモリアキラ。対峙する異形の好敵手。二人の攻防は戦場の狂騒に溶け込み、直前までの落胆と倦怠を吹き散らしていった。

 




「なるほど、錬金術師や占星術師の理屈と同じなんだね。自然界の摂理と人体の摂理は同じもの。体内の小宇宙で変容させた瘴気を外宇宙と照応させているんだ」


 異形のシナモリアキラと六人に増えたロウ・カーインの死闘を遠目に見ながら、トリシューラはひとりごちた。

 アンドロイドの魔女は荒れ狂う嵐の中心から距離を取り、長大な『杖』を構えて魔竜に対して長距離からの狙撃を試みていた。正確には、魔竜の背に座すリールエルバを狙っているのだが――。


「やっぱり『銃撃』の呪力じゃ魔竜の障壁を突破できないか。そりゃそうだ。病気は射殺できないもんね」


 むう、と唇を尖らせるトリシューラ。かつて病院だった瓦礫の塊を前にして、巨大なネズミが荒れ狂っている。拘束を解除され、久しぶりに全力を発揮したグレンデルヒが虚空から九門の砲塔を出現させて一斉に砲撃するが、魔竜の巨体は大火力の前に小揺るぎもしない。驚くべき速度で肉体が再生しているのだ。


 コルセスカによる夢からの強襲、カーインによるシナモリアキラの封殺、仮にそれらが成功したとしても魔竜を打倒できなければトリシューラたちに勝利は無い。

 だが、その為の戦力が決定的に足りていない。果たしてトリシューラに妙案はあるのか――彼女が次の一手を打つ前に、目の前に砂色の影が舞い降りた。


「共闘と行きましょう、トリシューラ。私の力が必要なんじゃない?」


 彩色はオーカー。ツーサイドアップの長い髪とマフラーが穢れた風にそよぎ、装飾過剰な侍女服を身に纏った球体関節人形が可憐に微笑みかける。

 突如として現れたミヒトネッセに対し、トリシューラは特に騒ぎ立てることもせず無造作に銃口を向けて言った。


「へえ、一人じゃアレに敵わないって認めるの? 弱ってるのかな、もしかして今なら楽に倒せたりして。死ね」


 へえ、の時点で放たれた銃弾を躱すミヒトネッセ。喋りながら撃ち続けるが、身軽な魔女には傷一つ付けられない。

 それを見かねてか、背後から声をかけるものがいた。


「気持ちは分からなくもないですが、今は休戦すべきです。敵は『竜』――未だ不完全な顕現とはいえ、勝ち目は相当に薄い。戦力は少しでも必要でしょう?」


 地下で行方知れずになっていたミルーニャ、そしてリーナである。トリシューラは二人のそばに小さな猫姫の姿が見えないことに気付く。


「てゆーかその、ニアちゃんが突っ走っていっちゃったから追いかけるの手伝って欲しいなーって。あとね、私ら今けっこう大所帯みたいなんだ」


 リーナの言葉に、ひとまず銃口を下ろすトリシューラ。満足そうな笑みを浮かべたミヒトネッセはリーナに同意するように言葉を続けた。


「そうね、第五階層でバラバラに戦ってる探索者ども――その中からざっと二百ちょいかな。私の命令ひとつで自由に動かせる。こんな感じにね」


 ぱちん、と指を弾くミヒトネッセ。いつの間にか彼女の背後に並んでいた五人の探索者たちが彼女の指示ひとつで一斉に吸血鬼たちとの交戦に入る。トリシューラは彼らの顔を見てわずかに目を見開いた。


「あれはゼドの――ミヒトネッセ、まさか」


「そういうことだ、いまや盗賊団は俺の手足となった――」


 球体関節の手が下から上に振られると、ミヒトネッセの顔がゼドのものに切り替わった。仇敵の危険性が跳ね上がったことを理解し、反射的に再度銃口を向けるトリシューラ。だが、現状では得がたい戦力であることも事実。

 邪視を使えぬ瞳で射殺さんばかりの視線のみを向け、吐き捨てた。


「――今は殺さない。それだけ」


「好きよトリシューラ。そんな顔も可愛い」


 そう言って嗤うミヒトネッセの瞳には嗜虐的な欲情が浮かんでいる。心底から楽しそうにトリシューラの緑の瞳を覗き込み、甘く囁いた。


「よく見ててねトリシューラ。ネズミもヘビも、この『鉄の踵』に踏み潰されるために出てきた格好の獲物。過激に確実に蹴り潰してやるわ」


 球体関節の手が目にも留まらぬ速さでトリシューラの白衣の内側に潜り込み、侍女の姿がするりと彼女の脇を通り抜けていく。

 人形の手にはカードが一枚。『足』を飾るためのカードからブーツの情報が光の粒子となって飛び出して、ミヒトネッセの足を覆いながら具現化した。

 一瞬のうちに掠め取られたのは、トリシューラがデザインしたカード。

 対魔竜用の決戦兵装『鉄のスリッパ』――『鉄』の位階にある装甲板を仕込んだ砂色のコンバットブーツは、侍女のエプロンドレスと奇妙に噛み合っていた。


「手癖の悪い女」


 舌打ちするトリシューラは背後からミヒトネッセに照準を合わせようとして――シナモリアキラと相対した人形が、宿敵への敵意よりも焦燥を表情に滲ませていることを見てとり、銃口を下ろした。


「あのさらんらん。ミッちゃん、レッテを助けているつもりで完全にリールエルバに出し抜かれちゃったでしょ? あれでかなり参ってるっぽいから、怒るのは後にしといたげてくれないかな。レッテを助けようとしてることだけは信じたげて」


 リーナの言葉に、トリシューラは頷くことはしなかった。

 そのかわり、数枚のカードをミルーニャに手渡してこう言った。


「これ、解決したら『呪文の座』に貸しひとつでいいよね」


「六王退治に協力しているんですから、そちらが頭を下げて頼むべきでは」


「えーと、先輩もらんらんも、そこはさー」


 二人の間で気まずそうな顔をするリーナを置いて、二人は同時に迫っていたシナモリアキラ犬を蹴り飛ばし、射殺する。お互いを見ることも無く言葉を交わす。


「ま、終わったら決めればいいか」


「ですね。それから魔竜の性質についてですが、幾つか分かった事があります」


 何事も無かったかのように戦場に向かっていく二人。ふわふわと浮かぶ空の民はその様子をしばしぼうっと見ていたが、慌てて置いて行かれまいと箒に跨がって追いかけて行った。




 アルプ、エフィアルテス、ペサディーリャ、インクボ、そしてナイトメア。悪夢をいかに形容しようと、その本質はどの文化圏でも変わらない。とらえがたい不快感、まとわりつく居心地の悪さは突入した夢空間の汚染度を示していた。


「魔竜の影響が夢にまで及んでるみたい。物質世界ほど完璧に制圧されてはいないけど、急がないとこっちでも身動きとれなくなるかもしれない」


 ちびシューラの幻影が飛び回って状況を伝えてくる。コルセスカは小さな頷きで応じて機体を更に加速させた。

 現実感の乏しい夢の中でに、巨大スリッパそのままの乗り物が空を飛んでいるという光景にはおかしな不条理さがあった。とはいえ、腐った生野菜の家や壊れた巨大ネズミ取りの残骸が並ぶ、深海に沈んだ廃墟の光景に比べれば幾分か理性的ではある。なにしろ確たる意思によって移動しているのだから。


 手足の付いたチーズが泳ぎ、ミミズと魚の合成獣が捩れた角に捕食されている。罅割れた大地から生えている海草はみな苦悶の表情を浮かべており、泣きながら霊長類型の頭部を分裂させていた。愉快な空想が人々を繋ぎ、楽しませるというかつての光景はここには無い。『夢界』の致命的な欠陥――人々の悪夢に呑まれた瞬間、ここは悪趣味な心の拷問部屋と化してしまう。


 ある意味で夢は『創造クラフト』の力が渦巻く場だ。無意識が行う最速の夢想。創作と妄想の坩堝、記憶と連想と飛躍の港。世界槍というフロンティアが真に開拓すべき空間であると言っても過言ではない。

 にもかかわらず、そこはほとんど手つかずのままで、ほぼ無秩序状態だった。最近になってようやく朱色の天主が進出してきたお陰でそれなりに活気づいてはきたのだが、魔竜が降臨した余波でこの有様だった。


「藍色の呪縛ですね。この時代の人々、とりわけ地上の義国人にとって霊的な世界とはイコールでアストラル界のことですから。災害対策が全く追いついていない」


 コルセスカの言葉に、ちびシューラはうんうんと頷いて言った。


「ラクルラールが第五階層の中心を『祭壇クレイドル』に選ぶわけだよ。『人類ロマンカインド』詠唱の下準備はもうほとんど完璧だし、この戦いを囮にしてまず間違いなくラクルラールが裏で動いてるだろうね。どちらが勝っても、決着直後に『三番目』がトライデント降臨を仕掛けてくるはず」


 ラクルラールの名を聞いた瞬間、コルセスカの瞳が泳ぐ。わずかな迷いはそのまま悪夢の中に消えていった。


「そのお陰で手薄な夢世界から攻めることができているわけですが。いずれにせよこの戦いは連戦になります。手筈通り、油断無くいきましょう」


 悪夢の光景を置き去りに、スリッパは加速する。

 軽やかに飛翔し、瘴気を払うべく闇の中を駆け抜けていくそのさまはさながら汚いネズミを叩き殺す為に投げつけられたスリッパのように勇壮だった。


 やがて、悪夢の世界もその色を変え始める。

 ある種の悪趣味な創造性を持っていたはずの造形から個性が失われ、ディティールが薄れ、どぎつい原色だらけの彩りが失せていく。残ったのは薄暗い闇の底。スポットライトが当たることのない深海、あるいは檻で閉ざされた監獄。

 地下室のような閉塞感。広いはずの夢はこんなにも窮屈で、閉ざされた空はどこにも行けない絶望の象徴だった。


「そう、夢はどこにもいけやしない。お前のステージはここまでよ、冬の魔女」


 闇色のステージ衣装を身に纏った少女が、色彩の無い瞳でコルセスカを睨め付けていた。絶望の表情。およそアイドルには似つかわしく無いたたずまい。少女はコウモリの羽を背中から生やしてコルセスカの行く手を遮っていた。そして、迂回しようにも壁となっているのは彼女一人では無い。


「私たち三百三十三人が相手よ、新人アイドルさん。私たちの頂点に立つあのお方に挑みたければ、私たちシナモリアキラとライブバトルをしてランキングを駆け上がることね!」


 漆黒の衣装と絶望の瞳、闇に染まったアイドルたちは、それでも自分たちの本質を見失ってはいなかった。ステージで己の価値を証明する。それこそがシナモリアキラという代替可能な価値と化してもけして裏切れない自らの本性だと確信していたからだ。その有り様を見て、コルセスカは薄く笑みを浮かべた。


「とても、わかりやすくなりましたね」


 不敵に、強気に、好戦的に。

 冷ややかな瞳がシナモリアキラたちを捉え、鋭く射貫く。


「ええ、私――今それなりに燃えやすいので。好きですよ、この流れ」


 獰猛な笑み。剥き出しになった牙から漏れ出した天使の血が自然発火し、燐光を発して夢に溶けていく。操縦席から立ち上がり、指先に挟んだカードが呪力を放ってステージ衣装の数々を現実空間に投射していった。

 舞台の幕が上がる。夢に向かって戦うアイドルたちの道は、悪夢の果てまで繋がっていた。




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