4-56 メスブタノパン/ブタノマンジュウ
荒れた海を指して『わだつみが悪夢を見ている』と形容することがある。
その日の海神はよほどたちの悪い夢に苛まされていたと見え、彼方からは巨人がうなされているかのような雷鳴が轟き、湿気った空気がごうごうと吹き付けてきていた。寄せては返す大波が断崖に叩きつけられると島全体を揺さぶるかのような衝撃が走り、激しい嵐の予兆に小動物たちが我先にと密林の中へと逃げ込んでいく。
だが、森の中とて安全では無い。闇の中からは絶えず恐ろしげな唸り声が響いているのだ。古くより夜や森、海や島というものは現世から切り離された異界であると見なされてきた。喩えであっても『異界である』と認識され続けたそこは異界も同然。人の手が入らない剥き出しの自然には様々な異形の次元が引き寄せられ、ありとあらゆる怪物が跋扈する暗黒の土地へと変貌していく。
異界を孕むその孤島は『死の女王島』と呼ばれていた。
絶海の孤島にして常夜の森を抱くという異界の中の異界。
そこは『死人の森の女王』がハザーリャ神を取り込んだ際に封印した幾つもの『内海』にぽつりと浮かんでいた。荒れた海で極限の闘争を続ける巨大海獣、無数の首を持つ次元喰いのサメ、暗黒の銀河を吐き出す大蛸――そうした脅威たちがどうしてか遠巻きにして近付こうとしない島。それが『死の女王島』である。
かつて『女王』はあまりにも危険過ぎたその島を『泡』の中に閉じ込めた。
普段は神殿に保管されているが、例外として精鋭たる女王の近衛を選抜する試験の時にだけ解放されるという。
「今がその時だ。クレイよ。お前はこの異界に流れる緩慢な時を感じているか? この『泡』に我々が入って既に数刻が過ぎている。だが外では瞬きするほどの時間しか流れていないのだ。お前はこの地で終わりの無い虚無に向き合わねばならぬ」
「黙れ爺。青ざめた騎手や純潔の巫女どもにできて俺にできないわけがあるか。さっさと試験を始めろ」
老人と少年が断崖絶壁の縁に立って向かい合っている。
否、老人に見えた人物は次の瞬間にはあどけない少年へ、また次の瞬間には病的に線の細い青年へと変貌する。だが、いかに年齢が混濁していようともその十字の瞳に蓄積された老いは隠しようがない。更に言えば、緩やかに波打つ白髪――あるいは黒髪が暴風のなかで揺れることすら無いことは異様の一言に尽きた。
相対する子供はともすれば少女にすら見えてしまいそうなほどの美貌と艶やかな長い黒髪を持ちながら、その表情、言動共に負けん気の強い少年そのものだ。鋭い瞳には年長者への苛立ちと侮りが浮かんでおり、何かに急き立てられるようにぐっと身を乗り出さんばかりの剣幕だった。
オルヴァとクレイの間に横たわるものは、あるいは迫り来る嵐よりも激しかったかもしれない。少年は野良犬のように吼え、噛み付こうとしていた。
「こんな試練、さっさと乗り越えてやる。俺は本当ならすぐにでも母上の――陛下のお役に立てるんだ。そしたらお前ら六王なんかお役御免だ」
「愚か者め。終わりの無い無意味に向き合えというのがわからぬか」
打擲の音が響く。
小さな手がクレイの頬を打ち据えたのだ。女王は大人からの理不尽な体罰を良しとしないが、幼い状態で殴れば子供同士の喧嘩で済む。あわよくば後で『めっですよ~』と叱って貰おうという下心の透けた行いに、クレイの憎悪が弾けた。瞳の中で炎が燃えさかった。だがオルヴァは少年の視線を涼しげに受け流す。
「お前はここを出る事はできん。入ったら最後、何人たりとも逃がさない死の抱擁――それこそが『死の女王島』の由来よ。光を超えて走るか、世界を引き裂くか、はたまた時を渡るか――神の領域に足を踏み入れることができなくば、この島そのものに囚われたまま大地と同化していくであろう――見よ、お前の足下を!」
いつになく厳かなオルヴァの声にクレイの未発達な身体が震え、不可視の呪力に強制されるように無理矢理に顔が下を向く。幼い顔が驚愕と恐れに引き攣った。
「うわあああっ」
荒れた土に浮かぶのは、無数の人面、人面、人面。
隆起する木の根は手足、石ころは骨。
島から出る事ができなかった永遠の囚われ人たちが、死ぬ事すらできぬままこの島の大地と成り果てているのであった。かっと見開かれた目がクレイの目を捉えた。引き摺り込むような視線の重力に囚われそうになる。
「ひとつだけ助言を授けよう。流れる時を大河と思え。世界の広がりをそこから分かたれた支流と考えよ。お前はこの地に降り立った時、確かに源流からこの支流へと移ったのだ――であれば、お前は水の流れに逆らわねばならぬ」
突然の言葉に当惑するクレイ。眉根を寄せて聞き返す。
「どういう意味だ」
「だがこの分岐は激流ぞ。お前は山から下り落ちる滝の如き時の迸りに挑み、その一念をもって時を逆流させるほどの力を示さねばならんのだ」
会話は成立していなかった。オルヴァはクレイの問いには答えることなく、謎めいた言葉を残して忽然と消え失せた。
クレイはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて顔を上げて歩き出した。
島の中央に広がる森に向かって、異界の中へ挑むように。
試練に挑む少年は想う。
母のことを。主君と仰ぐ女王のことを。
全ては彼女の力になるために。
王国の剣としてふさわしい力を身につけるために。
彼にとっての舞いとは、剣であることと同義だった。
修練は刃を研ぐことに等しい。
王国における最高の剣である彼は、最高の舞い手でなくてはならない。
手刀の先まで精密に。指の先までが、彼の世界の全てだった。
それだけで、十分だったのだ。
どれほどの時間が流れたのか、数えることに意味は無かった。
終わりの無い荒天の中で昼夜の区別などあってないようなものであり、眠りと水を支配する神の権能に守られたこの島で余分な補給などは不要である。クレイは一心不乱に異界を駆け抜けていった。
女王の傍付きになるために必要な試練とは、形の無い困難の暴風である。
襲い来る異形の怪物、降り注ぐ血の雨、硝子混じりの嵐、ひっきりなしに起こる地震と爆発的な噴火。そうした無数の暴力を潜り抜けるだけではまだ足りず、クレイはひたすらに一種の苦行を繰り返す。
少年は舞っていた。
それは疾走にも似ていたが、武術の型にも見えた。
まじないの儀式めいてもいたし、気の狂った者や酩酊者、麻薬中毒者の示す奇態な行動の特徴も随所に見受けられた。秩序だった理性の技術と混沌とした狂気の躍動が斑のように入り乱れ、クレイは嵐のようなステップで島中を巡っていく。
島の端から端まで踊り歩けば、次はそこから逆戻り。
循環し続ける荒行に終わりは無く、しかし疲労することも無く少年はひたすら舞い続ける。やがてクレイの瞳から光が消え、無明の闇が訪れる。舞いは終わらぬまま、昂ぶった精神がふっと蝋燭を吹き消したように静まったのだ。
彼の肉体は現世にあって現世に無く、彼の心は幽世にあって幽世に無い。
荒天で舞い続ける風のように、クレイは嵐そのものと同化する。
肉体から遊離した少年の精神はここではない何処かに立っていた。
暗闇。無限の時のなか、入れ替わり立ち替わり美貌の男たちが現れる。
彼らは少年の敵。今は王国の支配下に置かれているが、いつかその強大な力が女王の手を離れた時に剣を向けるべき猛獣たちだ。
クレイという剣は、叛逆を企てた六王を御すためにこそある。
「この俺のように美しく舞うがいい、黒き髪の王子よ。まとわりつく風を切り裂き、足を引く重みの軛を砕くのだ。自由な躍動の中にこそ美は宿る」
目の前を、グラデーションのかかった色彩が流れた。
その優美なふるまいを、舞う際の範としたこともあった。子供じみた言動と乖離した洗練ぶりは阿呆をここまでの麗人に仕立て上げた者の苦労を感じさせた。ならその洗練は積み重ねの末に至ることができる類のものだ。クレイは内心見下していた馬鹿者の美貌を超えるため、日々鏡と向かい合った。長い髪を丹念に整えてポーズをとると死にたくなったが、次第に慣れて自らの美貌を冷静に採点することができるようになっていた。クレイは密かに鏡の前に立つたび、己の美貌の平均点を100点満点中の95点だと判断していた。馬鹿者と違って謙遜を知っていたからだ。
輝く髪と己の美さに対する恍惚に負けまいとするかのように憎悪を奮い立たせると、クレイは瞳だけで髪の毛を切って捨てた。すると次なる幻影が現れる。
「刃というには研磨が足りんな。お前の舞は敵を屠るための武でもあると知れ。型という型、行という行をその身に叩き込んでやろう。来い」
厳かな声と共に猛然と槍の穂先が振り下ろされた。
クレイは咄嗟に手刀で受け流すと、そのまま踏み込んでもう片方の手を突き入れる。だが槍の担い手は絶妙な引き足で間合いを保つと遠間から更なる反撃を加えてきた。そして始まる熾烈な鬩ぎ合い。刃と刃が火花を散らし、剣舞とも型稽古ともつかぬ一幕が延々と続けられる。幾度も槍に打ち据えられて転倒するクレイだったが、その度に立ち上がって挑戦を続ける。少年の心には熱があった。
両者の間には型と戦意しかなかった。
少なくとも、型と戦意だけは存在していた。
やがて渾身の一撃が槍をかいくぐって相手の顔に届く。片目が切り裂かれると、隻眼となった男が役目を果たして消える。
続いて現れたのは紫水晶でできた巨大な門。向こう側には永劫の闇がどこまでも広がっており、その前には巨大な三頭犬が立ち塞がっていた。どこからともなく響いてくる高い声はひどく耳障りで、クレイは顔を顰めた。
「女王の治世はガロアンディアンに近い――全てを受け入れるようで、同化を強いている。けれど死そのものであるという点で僕の太陰とも似ている。だからハザーリャをはじめとした古き神々への崇拝は残ったままだ。再生者たちの心を上書きする必要がある。女王が神であるためにはね。古代ヒュールサスの信仰を殺し、まつろわせるために君はいるんだ。剣よ、内に向けられる暴力よ。それゆえに霊媒であり戦士でなくてはならない。王国の剣とはそういう意味なのだから」
相手にしないに限る。クレイはこの少年の振りをした魔物が最も苦手だった。
巨大な番犬の脇をすり抜けて門を潜り抜ける。
途端、鉄砲水のような時がクレイを押し流そうとする。
死だ。
大量の死が対岸が見えないほどの大河となってちっぽけな少年を飲み込もうとしていた。すると青々とした世界に一隻の小舟が見え、クレイは一心不乱に救いを求めて泳いだ。どうにか船にしがみつくと、櫂を手にした男が見下ろしてくる。
十字に輝く瞳だった。
「クレイ。お前は、いつ、どこで、誰によって生み出された?」
時が凍り付く。水面から次々と白い腕が飛び出して、禁じられた問いを口にした船頭を川底へと引き摺り込む。骨で全身を拘束された男は、最後に小さく呟いた。
『まことの名を見つけろ』と。
どうにかして船の上に這い上がったクレイを高みから見下ろす視線があった。
高圧的な眼光に対抗するようにして顔を上げる少年は、人の形をした嵐を直視してしまう。眼鏡越しの視線ですら灼熱の太陽光線に等しく、腕組みした鋼の腕は曇天の暗雲のように重々しい。彼は空の全てだった。
「滑稽だな。俺を斬るためにあるお前の舞いが俺に届くことはない。所詮は泥で捏ね上げた人形か。地の軛から逃れて飛躍することもままならんとは」
侮蔑の言葉を吐くと、それきり興味を失ったように去っていく。
世界は闇に包まれた。
敵を見失ってしまえばクレイの憎悪は行き場を失う。
いつしかクレイは父親に置き去りにされた迷子のように暗い森の中を彷徨っていた。時空間は不安定なまま、上下は容易く反転し前後も即座に入れ替わる。迷宮の奥底、地底の土を踏んで歩いていると、目の前に何者かが立っていた。
黒衣の内側は判然としない。男のようであり、女のようでもあり、人のようであり、人以外の何かにも見えた。一人であるようで集団のようにも感じられる。
『それ』の影がクレイの足下に伸びてくる。
「我々はお前の父なのか? それは正解であり、同時に不正解でもある。その問いには『答えは無い、今はまだ』というのが慎重な解答となり得るだろう」
「だが、しかし」
「お前はある問いを無意識のうちに封じ込めている。自明の理として疑問視しないまま、それを大前提としてここまで来てしまっている」
「それはお前の存在の根幹を為すものだ」
「死せる王子よ、王国の剣よ。お前の父は未だ定まらぬ王国の敵にして母権に叛逆する父権である。ならばその逆を考えてみよ」
立て続けに影が問いかけてくる。洞窟に反響する言葉の群れがクレイを責め苛む。踊る影が少年の心に恐怖を落とした。
「お前の母は、誰だ?」
自明である。
森の女王に仕える為、試練を乗り越えんとする少年は即答しようとして、口が動かないことに気付いた。
自明であるはずだ。はずなのに。
「お前は、何だ?」
根本的な問い。
その答えを、クレイははじめて
「はい、そこまでですよー」
落ちる。
落ちて、落ちて、視界を泡が覆っていく。
一面に広がる闇はどこまでも青い。
クレイは水中に沈んでいく自分を感じていた。
泡の中に包まれて、まるで生まれる前に戻っていくかのような暖かな気配に包まれていく。意識は朦朧としていくのに、神秘体験のような恍惚感。
幾つかの宗教儀式では水底で洗礼を受けることで『生まれ直し』を演じることがある。海の民たちの信仰では海中で眠ることで夢の中でハザーリャ神と契約を結び、はじめて神の加護を得ることが出来る。クレイは微睡みの中で柔らかな誰かに抱きしめられていた。
「いい子、いい子」
これでいいとクレイは思った。
幼い少年にとって、それが全てだった。
記憶を巡る無数の景色。
六王たちとの修練。黒い巫女たちとの舞い。高原の牧人との対立。
栄華を誇った王国の王子としての平和な日々。
その記憶と矛盾するかのような戦乱の日々。
混濁する世界。幅の狭い頭骨、背中にコブ、長く垂れ下がった耳。御柱の祭司。老いた牽牛種族は古いヒュールサスのことを語ってくれた。その思い出も泡のように弾けて消えた。自己相似形の海綿体がパラゾラの名を呼ぶ。少年は記憶の泡を掴もうとするが、猛烈な冷気が海を凍らせたためそれは永遠に叶わない。
クレイは空を埋め尽くす女王の軍勢を見た。
何も無い虚空を疾走する、あれこそが青ざめた死。
女王の近衛兵であり、クレイがその頂点を目指す王国の剣。
輝く青い目、長身痩躯、美しい貌、冷たい冬の気配と共に現れる彼らはひとり一人が最精鋭である。六王を除く『死人の森』の兵力では最強と謳われ、その吐息のみで周囲一体は死の大地と化す。
彼らが手に持つのは光を反射する氷の棍棒。雪の結晶に似た鎧を身につけており、青銅や黒曜石製のまじないが込められた武器では傷つけることができず、人の手で鍛え上げられた鋼鉄や落雷以外によって熾された炎でのみ倒せるという。
毛深い純白の犬が牽く豪奢なそりに乗って現れる彼らの前には凍結した道がひとりでに作られていく。女王の敵を容赦なく殺戮する冬の騎手たちはやがてクレイの頭上で円を描くように回り始めた。懸命に走り続ける犬はとても愛らしい。
「俺を迎えにきたのか。それとも嘲りにきたのか。あるいは試しにきたのか」
全ては同じ事だった。
クレイはここまでの無限にして無為なる道のりを経て、既に己のすべきことを知っていた。
「そうか、ここには出口が無い。なら正解は入り口に戻ることだ。失われた入り口、あるいは過去に置いてきた原点。強くなるという決意に立ち戻らねば」
俺は誰だ。問い直す。
クレイは、宣名を行う。
「俺はクレイ。『死人の森』の剣である、ただのクレイだ」
時間を巻き戻すような舞い。ぐるぐると荒れ狂う孤島を巡り、少年は最初に抱いた決意へと立ち返るように最初の地点へと移動していく。舞いは劇的な盛り上がりから始まって穏やかな終盤へ。時計の針が一回り、来た時と同じように逆回しに虚空へと消えていく。冬の騎手たちは拍手喝采、どこからか女王の祝福が届くと、犬たちが天に向けて歌うように吼え出した。
そして、時は過去から今へ。
『黄金』のドレスをかけたファウナの挑戦。
恐るべき相手からの威圧に対して、クレイは一瞬だけ瞑目して力強く自らの名を叫び、舞台へと臨んだ。宣名圧によってファウナからのプレッシャーをはね除けて自らの力に変えたのだ。
瞑目した一瞬に差し挟まれた回想は彼の原点に関わる一見して意味不明な修行シーンではあったが、美しい少年が懸命に舞い続ける姿は観客たちの心を掴んだ。流れはクレイに来ている。これから始まるステージは、判官贔屓という名の呪力で守護されることだろう。あるいは義経無きこの世界ではこの慣用句にはクレイの名が用いられるのかもしれない。いずれにせよ、ファウナが圧倒的強者であることはもはや勝利の絶対的要因にはなり得なかった。
「ゼド。お前、何をしている」
観客席の喧噪の中、オルヴァである俺は鋭く言葉を投げかけた。
この未来は見えなかった。
何か、時空か運命に関わる古き神の権能が働いている。
いつの間にか隣に立っていた得体の知れない男は掌の上で硬貨のようなものを弄んでいるが、それは物質のようで物質ではない。概念化した呪術そのものだ。
「助け舟だ。『判官贔屓』というやつさ。修行したという回想を挿入してクレイをクレイ自身の力で勝たせる――これはフェアな肩入れだろう。少なくともイカサマじゃあない。クレイが勝っても自力での勝利なんだからな」
ゼドはテンガロンハットの位置を直しながら言う。
ふざけるな。俺が訊いているのはそういうことじゃない。
十字の視線で圧力を加えると、ゼドは陰気に笑って言った。
「そういえばこれをお前に見せるのは初めてだったか。許せ。借りただけだ。しかし、中々便利で良いな、オルヴァの術は。盗むのにもかなり手間がかかった。何せプロテクトが厳重でな。流石の俺も解錠できないかと冷や冷やしたよ」
返す、と無造作に放り投げられた硬貨が俺の頭の中にするりと入り込み、オルヴァの術として戻ってくる。全く気づけなかった。こいつは一体いつのまにオルヴァから呪術を盗むという大それたことをしたのだろう。弱体化したとは言え仮にも六王にして大賢者オルヴァを出し抜くなど、そうそうできることではない。
四英雄の一人、すなわちコルセスカやグレンデルヒと同列に語られる盗賊王ゼドは、いつになく熱の込められた視線を舞台の上に送っている。クレイに対するぎらついた視線はどこかべとついていて、嫌な感じがした。
「この世の全ては二種類に分けられる。盗めるものと盗めないもの――価値あるものと無価値なものだ」
突然に示されたゼドの価値観は、なるほど盗賊らしいシンプルさだ。
しかし、どこかに引っかかるものがある。
「だが俺が本当に欲しいのは無価値なもの、盗めないものなのかもしれないと、ずっと感じていた。お前ならわかるはずだ、シナモリアキラ。値札を付ければ価値が消えてしまうものへの渇望。俺には届かないものへの羨望が」
「――続けろ」
「例えばライブだ。素晴らしいステージに、その感動に値札は付けられるのか。なるほどチケットの値段は一律で、グッズや配信にも金は絡むだろう。だが、それがステージの価値かと言えば、それは違うと答えられる」
その価値は、その瞬間、見た者と演じた者の中にしか存在しないからだ。
「わかるだろう。それが熱量というやつだ」
たとえばの話。
ライブの熱量は『安い値札』を着けられた人気の無いアイドルへの思い入れからでも発生する。価値が低いことの価値を至上とする世界もあり、それが地下アイドルへの熱狂に繋がっている側面もあった。ラリスキャニアなどは、そうした観客の思い入れを理解した上で最大限に利用しているように思える。
無価値さ、チープさを普遍として尊ぶ価値観すらある。
俺たちがそうだ。トリシューラの『杖』は神秘を零落させて当たり前の日常に貶める。退屈を網羅し続けて前進への糧とする、それは低価値の暴力だ。
ゼドが届かないと感じるのは、そうしたものなのだろうか。
だがこの男は盗賊だ。
価値ある宝を盗むのが盗賊王であるならば、価値あるものにしか手を伸ばせない。彼の手はどんなに望んでももう片方には決して届かないままだ。
陰気な顔と、くたびれた姿。
英雄とまで謳われた盗賊王の、絶望がそこにある。
だが、ゼドがクレイに向けているのは紛れもなく希望の熱だ。
それは、一体何故なのか。
「見ろ。クレイは勝つぞ。俺には既に見えている。奴が栄光を手にする未来が」
ゼドの言うとおりだった。
牧杖を手にしたファウナは舞台から離れ、これから始まるクレイの舞いを見届ける構えだ。もっとも彼女の瞳は未だ閉ざされたままなのだが。
ロープのようなねじり編みの金髪に白や薄桃色の花を飾るファウナの姿はさながら頭に花冠を戴く神話の女神のよう。神々しい美貌が壮絶な重圧となって舞台をかたかたと震わせ、私を認めさせてみろという無言の要求を押しつける。
普通に考えれば、無理難題に等しい。
クレイのスタイルはダンスだ。彼は声ではなく身体そのもので歌う。
この白骨迷宮にダンスを武器にするアイドルはあまたいるが、器楽曲のみで勝ち続けているのはクレイただひとりだ。
舞いに対する絶対的な自負。自己への確信は強さの証だったが、このやり方では目を閉ざしたままのファウナにクレイの全力を届けることは出来ない。
彼は一体どのようにしてファウナに己を認めさせるつもりなのだろう。
準備を終えたのか、燕尾服を派手にアレンジしたような衣装を身に纏ったクレイが舞台の上に現れる。ファウナに対する答えを示すように、彼は目を閉じていた。
一瞬意味がわからなかったが、すぐに理解が追いつく。
クレイは目を閉じたまま舞おうとしている。
「まともに踊れるはずがない」
バランスを崩して転倒するか、舞台の中心から外れて観客席に落ちてしまう――そんな不安を払拭するかのように、クレイは完璧なバランスでまっすぐに歩いていく。何らかの超常的な知覚能力があるのかもしれない。
曲が流れ出す。エスニックなテイストを取り入れた現代音楽だが、思いのほか激しく勇壮な曲調だった。立ち上がりからクレイの全身が躍動し、長い腕がしなやかに振るわれる。風を切るように、指先が大気を駆け抜けた。
そしてそれがファウナに勝つためにクレイが出した答えだった。
黄金の一房が散って舞う。
離れた場所に佇むファウナの髪が切断されたのだ。
「見えていないのに、肉体言語魔術が発動したのか」
思わず疑問を声に出すと、ゼドが短く答える。
「いや、あれは風圧だ」
(物理的にはそんなことできるはずないんだけどね。厳密に言えば、手刀で発生した風圧が遠くにいるファウナを切り裂くというリアリティレベルに世界が書き換えられたんだよ。世界への干渉と自己への確信、双方向の邪視を同時に使ってる)
ちびシューラが補足説明している間にもクレイの絶技は更に続いていく。
彼が舞うたびに発生した風が次々とファウナを襲い、クレイの軌跡そのものが指向性を持った呪力となって直接叩きつけられていく。ああすれば目の見えないファウナにも『舞い』が直接感じられるというわけだが、ひどく乱暴な手段である。
優美さよりも勇猛さや苛烈さを強調するステップが激しさを増していく。少女は羊飼いの杖でそれを捌き、時に踏み込んで押し返すことすらしてみせた。
するとクレイはそれに応じるかのように舞台の床を踏んで遠く離れたファウナの杖を躱し、合わせるように反撃を加える。
これはもはやライブというよりも演舞だ。だが、ぎりぎりのところで曲から外れていない。拍と振り付けを合わせるというよりも、全体の旋律に流れで手足を乗せている。音階を踏みながら舞うクレイの姿は激烈でありながら軽快だった。
ライブという名の呪術戦が嵐を巻き起こす。
風は刃となり、音楽は戦争と化していた。
舞台は孤島。猛烈な豪雨と突風の中、絶海の中心で激しく踊る青年の姿は古代の戦士そのものだ。観客たちが野蛮な躍動に熱狂する。美しい若者が強大な敵に挑むというその構図が受けているのか、あるいは首が飛びかねないダンスの迫真性に興奮しているだけか。人の中にある闘争心に、クレイとファウナは火をつけてしまった。こうなればもう止まらない。歓声は爆撃に似て、戦禍を被った人々が燃え上がる魂を晒して大量の死を渇望した。クレイの熱狂的な女性ファンたちによる『殺して』コール。よくわからない願望だ。
クレイの動きは際限なく精度を増していく。
ファウナの繰り出す『型』は長年の修練と圧倒的な才覚に裏打ちされた老練な代物であり、クレイでは到底太刀打ちできないかに見えた。だがクレイは格上を相手にすることに慣れているのか、心を乱すことなく更なる先を目指してギアを上げ続ける。曲が終盤にもつれこむに至り、二人は対として完成していった。あらかじめ打ち合わせていたかのように。舞台の外、観客席をも巻き込む態の演出であったかのように。人々は二人の動きに目を奪われ、その見事な調和に感嘆する。
寒気がした。冬の冷気。死の気配だ。
その曲が、どのような意味を持つものか俺は知らない。
古いヒュールサスの音楽は激しく展開し、柔らかく終わりに向かう。
それはどこか血の流出に似ていた。
あんなにも盛り上がっていた観客席に、物寂しい空気が漂い始める。
異様の一言だった。こんな空気を作り出すステージはそうそう無い。
意味が無いからだ。こうした場で盛り下がることほど忌み嫌われることは無い。なにしろ葬式でさえ派手な祝祭として盛り上がる文化があるほどなのだ。
だが青年はそうした。それが勝利に繋がると信じて。
いつのまにか幻影がクレイの周囲で踊っていた。
氷の鎧を身に纏う終焉を凝縮したような騎手たちが、犬ぞりに乗って現れたのだ。半透明の彼らは亡霊のようにクレイの世界を彩り、彼の舞いを引き立たせるかのように舞台に組み込まれていった。口吻が尖り、耳が立った典型的スピッツ系の白犬が観客席に登場すると歓声が上がったが、すぐに猛烈な寒気に襲われて顔を引き攣らせる。極寒の地に耐える被毛と皮下脂肪を誇るサモエド犬種にも見えたが、暖かそうな毛並みからは想像もつかないような濃密な冬の気配を身に纏ったあれらは冥府の魔獣に違いあるまい。
騎手たちはクレイに従属する冬の軍勢なのだ。
女王に捧げた剣の下に集い、その敵を屠る死の運び手。
クレイの全身全霊のライブに呼応した冬の騎手たちは、王子を勝利に導くためにバックダンサーとして馳せ参じたのだ。その舞いの技量はクレイに勝るとも劣らず、『死人の森』が誇る最精鋭であることが窺えた。
クレイの巻き起こす風は寒々しい冬の風で、彼の背後に並ぶのは純白の化粧に彩られた静かな糸杉の森。俺たちは幻視させられている。誰もが感じたことのある、おぞましくも安らげる死の王国を。
膨大な熱が逃げていく。
波が引き始め、かつてあった激しさが嘘だったかのように音が消えた。
幻影の全てが泡沫と弾け散る。
幕引きはあっさりと。
優美なターンと共に手を高く天へと伸ばし、クレイは一礼して終わりを告げた。
沈黙。
最初に拍手を送ったのはファウナだった。
そしてそれが全ての結論を示していた。
再び会場が盛大に沸いて、勝敗を告げるアナウンスが響く。
俺の隣で、ゼドが神妙な表情で言った。
「理由は不明だが、ファウナの閉じられた瞼の内には既にクレイのダンス、その理想型が存在していたようだ。演舞の型を稽古のように続けるうち、師という立場からそのイメージをクレイに投影してしまったのだろう。結果としてクレイは戦いながら強くなった。己の理想によってファウナは負けることになったのだな」
ゼドはやけにこのライブに――というかクレイに執着しているようだ。
そもそもこいつは『死人の森』の探索を目的として第五階層に居座り、俺たちに協力していたのだからそこまで不自然ではない。
だが、どうも引っかかる。
こいつ、『死人の森の女王』よりもクレイを目の前にした時のほうが目を輝かせていないか? 一体クレイの何がこの男の興味を惹いている?
ゼドの目の輝きに危険なものを感じて警戒を強める俺だったが、それとは関係無く舞台の上では事態が進行していた。
勝者となったクレイの前にファウナが立つ。
両者の間にどのような言葉が交わされたのか、ここから把握するすべはない。あるいは、あの声なき激突そのものが二人にとっての対話だったのかもしれない。
いかなる心境の変化がファウナに訪れたのか。
結果として、二人は舞台上で手を取り合う道を選んだようだ。
クレイの指先が『黄金』のカードに触れる。
カードに封じられたドレスが反応し、まばゆい光が溢れ出した。持ち主を正式な所有者として認める手続きが行われているのだろう。光が収束し、クレイの掌には彼のものとなったカードが収まって――いなかった。
「な」
弾かれたようにクレイの手から零れ落ちるカード。
床に落ちた黄金のドレスは、クレイを拒絶するように沈黙していた。
声もなく、ふるまいのみで意思を示す。
それが勝負の結末となった。
洞窟の中は死の楽園。
大いなる愛に包まれた平穏な世界がそこにあった。
一歩外に出ればそこは修羅の巷。
解き放たれた吸血鬼の王たちによる闘争が渦巻いている。
十二人のシナモリアキラ、あるいはオルヴァたちの戦いと本質は同じだ。
あれらはカーティス。大勢からなる夜の王。
戦いの果てに敗退したカーティスの個我はばらばらに砕け散った。
カーティスが内包していた無数の『吸血鬼』は群れとしての統制を失い、カーティスとしての調和を取り戻すべく内的闘争を行っている最中なのだという。
「猿山のリーダーを決めるための戦いというわけです。原始的で男性的ですね」
俺とリールエルバが辿り着いた闇の底で待ち構えていた豚の首は、そんなふうにこの状況を説明した。
死人の森の女王、ブウテトその人である。
蝿と蛆のたかる生首は、地面に突き立った槍に串刺しにされたまま平然と言葉を紡ぐ。優しく、甘く、蕩けるような言葉。
「頑張りましたね、可愛いリル。もう安心ですよ」
辺りに散らばる人形の残骸は、ブウテトに歯向かおうとした者たちの末路だろう。全ては無為に終わり、ラクルラール陣営は女王に敗れ去った。
『死人の森』は勝利したのだ。ここには平和と安寧だけがある。
「じきに外の戦いも終わります。可愛いリル。あなたが来たからにはすぐにでも。さあ、あの頃のように修行をしましょう。魔女の修行。おまじないの練習。影遊び。死の手繰り。夜の嘲笑。沼地の誘い。淫らな殺戮。影占いの全てを」
「嬉しい――嬉しいわ、お姉様。私、ずっとこの時を待っていた気がするの。ねえディスペータお姉様。私はこれからどうすればいいの。やっぱり、外にいる恐ろしい魔物たちはそういうことなのかしら?」
「そうよ私のリールエルバ。あなたは、もう迷わなくてもいい」
蝿の羽音が、ひどくうるさい。
煩い、ウルサイ、五月蠅い――蝿、蝿、蝿の群れが。
そこらじゅうにいるハエが目の前を遮って世界を不鮮明にしている。これはよくない。自分が何を見ているのかわからない。
死せる豚の女王は口を動かさずに喋り続けている。
傍目にはリールエルバが一人で豚の生首に語りかけているだけにも見える。
だが、それは確かに意思と意思との交流だ。俺とリールエルバがことばを交わしていたように、女王と姫は師弟として再会したことを喜んでいる。
間違い無い。だって人形たちは既に大量死している。
ならこれは人形遊びではないはずなのだ。
「お姉様が私を認めてくれた。魔女としての私を呪わしいこの身体を。ならば私はこの力を許せるわ。泥のような私の呪いが、リールエルバという魔女という生み出していることに自信が持てる。良かった、私は私でいいのよね?」
「そうよリールエルバ。あなたは魔女。地下千メフィーテの牢獄に囚われた狂姫」
背負っている少女の重みが消えた。
何らかの呪術を用いているのか、彼女は浮遊しているのだ。
もうそこまで回復したのかと問うと、短時間なら問題無いということだった。
少女らしからぬ嫣然とした笑みを見せた後、リールエルバの背に漆黒の霧が集まる。密度を増していく粒子は次第に明瞭な輪郭を得て、確かな重みを持つに至る。 ばさり、と蝙蝠の翼を背に広げ、リールエルバは来た道を振り返った。
「いやな臭い。やはり、私の血に誘われてきたのね」
遅れて俺も気付いた。
楽園に血腥い侵入者が現れたのだ。
妖しく輝くナイフを手にした鮮血塗れのその男、名は俺と同じシナモリアキラ。
『鎌鼬』は、生肉を食い千切りながら登場した。
この殺人鬼は、とうとう吸血鬼を喰うことまで始めたらしい。
「オリジナルちゃんはさ、カッサリオステーキで呪力アップってのをやったらしーわけ。同じ理屈で、俺も吸血鬼ワイルド食いでアガりそうじゃね?」
「死にさえしなければ、呪術的には間違っていないわね。あなたの肉体がそれに耐えきっているのが驚きだけれど」
リールエルバの掌で渦巻く闇が黒い旋風となって弾ける。
膨れあがった闇が『鎌鼬』を襲うが、妖しく輝く刃の一振りによって掻き消されてしまう。呪具の力だけでは無効化できなかった余波が『鎌鼬』にぶつかるが、小揺るぎもしなかった。明らかに呪力が増している。
「うお、まじやべーな。何があったらそんなんなるわけ? ってかアンタあれじゃん。狂姫リールエルバ。んだよ後ろのはそういうアレなわけ?」
影の上を滑るように駆け抜けた『鎌鼬』の動きは疾風さながらだ。意味のわからないことを捲し立てながら息も吐かせぬ連撃を放つ『鎌鼬』。
リールエルバは両手から放たれる黒い霧からコウモリやネズミなどを生み出してけしかけ、刃が当たりそうになれば自らが霧そのものとなって相手の背後に回る。
「ああなんだよそうかよ狂ってるって文字通りかよ! 最高にクソだなてめえ顔がいいから首斬って殺そうかと思ったけど許せねーから腹斬って殺すわ死ねよ狂人」
殺人鬼の手の内に渦巻く呪力が可視化する。
濃い黒紫色に輝いたナイフが甲高い絶叫を上げた。
直観する。この一撃は、リールエルバでも回避できないと。
「取り殺せ――リーエルノーレス」
両者の距離を無視して呪いそのものが結果を確定させる。
霧となっての回避すら無意味、紫色の輝きは黒い靄に同化してリールエルバの存在そのものを侵していった。まさしく亡霊が相手を取り殺そうとするかのように。
「どーよ、俺のマジやべー殺意? っつーかお前のそれ無価値じゃん? 的な価値観は。虚無っぽくね? いやマジ虚無。ほんと無価値だわ。死ね、雑に全部死ね」
投げやりな殺意に呼応するかのように実体化したリールエルバの裸の腹部を紫色の染みが侵食していく。痣というには毒々しすぎる呪祖によって、もはや彼女は霧に変化することすらできなくなっていた。
「虚無、虚無、ね。本当に、殺人鬼というのは類型的」
苦し紛れのような嘲笑は、リールエルバの心が折れていないことの証明だ。
「あ? んなこと言ったら狂人キャラもありふれてんだろ。ほらプロファイル系? とかの犯罪捜査ドラマとかでよくあるじゃん。シリアルキラーとかの大半は虐待された経験があって~とか。あれ殺人鬼イメージれーらくさせる『杖』センスなのマジクール。実際そんなバリエーション無いっしょ、犯罪者キャラとか」
スイッチが入ってしまったのか、気分良さそうに話し続ける『鎌鼬』。
殺人鬼としてのシナモリアキラであることに拘るこの青年は、己の世界観に酔いしれるようにナイフを閃かせた。リールエルバの腹部が開き、血が溢れる。
「わっかんねーかな。類型的ってことは狂人も殺人鬼も歴史の積み重ねがあるってこと。つまりデータだよ、サイカラ道場の分析対象ってやつ。俺の殺人鬼スタイル、マジ浅い。でもデータへのリスペクトと道場があれば猿真似も功夫になるってのがサイカラの極意っしょ。この生き様はファッションでやってるっつの。今更そこ突かれてスタイル曲げるとかダセーことしねえよ?」
突き刺し、抉り、臓腑を引きずり出す。
徹底的な破壊によってリールエルバの美しい裸身は中心から開いた赤と白の花として完成する。これぞ芸術とありふれた口上を述べた『鎌鼬』の目は醒めきっていたが、その虚無すら彼は楽しんでいるようにも見えた。
シナモリアキラとしての在り方を示し、勝利の余韻をたっぷりと噛みしめた『鎌鼬』は、全身をリールエルバの返り血で染めてしまうことの愚かしさに気づけないまま終わっていく。『虜』の呪術が完成し、その意識は永遠の夢へと誘われていった。無惨なリールエルバの姿は既に無く、コウモリのように逆さに天井にぶら下がった吸血鬼の姫君は『鎌鼬』の頭上で艶めいた笑みを見せる。
戦いは音もなく始まり、そして音もなく終わった。
陶然とした表情の『鎌鼬』は落とし穴に引っかかった間抜けな探索者のように真下へと落ちていく。足下に明いた深淵――自らが落とす、暗い影の中へと。
「馬鹿ね。ここはもう奈落の底。全ての吸血鬼は私の前で跪く」
吸血鬼の力を得ようとした時点で、『鎌鼬』に勝ち目などなかったのだ。
腹部に残った呪いをするりと引き抜いて、無造作に俺に放ってくる。
「あげる」
掌に乗ったそれは紫色のナイフ。
これで俺も殺人鬼。つまりはシナモリアキラとなったわけだ。
別に何も変わらないな。
リールエルバが翼をはためかせて降りてくる。
圧倒的な権威を振りかざし、凱旋するように、傲然と顎を反らすその姿は夜の女王そのものだ。この場所に君臨するのは彼女こそふさわしい。そう、死の女王の後継に相応しいのは誰かと問われれば、万人がリールエルバだと答えるだろう。
俺はどうだろう。
シナモリアキラは、トリシューラ、あるいはコルセスカと答えるのではないか。
だが、『俺』は――。
「ああもう最高ね! いつもの調子が出てきたかしら! そうよこれ、私はこうでなくちゃならないわ。強く気高くおぞましく。誰より頭抜けた魔法使いで、いつでも頭のネジを抜く。捩れた性根の狂ったお姫様。逆らう者はみな下僕」
戦いが終わったからか、この洞窟で出会ってから最も機嫌良く振る舞うリールエルバ。これが本来の彼女で、今までのか弱い姿はやはり一時的なものだったのだと思える。それにしても気が抜けすぎているが。
俺は広間に散った人形の残骸たちから使えそうな布や原形を留めている衣服を集めてリールエルバのもとに持っていった。
「なに、使えって――あ」
口に出して指摘することは憚られた。
女王はやはり少女でもあった。
過酷な闘争に生身で晒されて、恐るべき殺人鬼と相対して、刃の痛みで全身を苛まれて、平然としていられるはずがない。
その振る舞いは強がりだ。
震える身体と、腹部を開かれた時に腿から足下へと滴り落ちた雫がその証だった。霧化して肉体を再構成しても地面に残った水たまりは隠しようが無い。
瞬時にリールエルバの顔が沸騰する。
コウモリの羽が畳まれて、裸身を隠すように小さくなる。
か細い呻き声が皮膜の中でかすかに反響しているようだ。
こういうとき、どうすればいいのか俺は知らない。
気にするな、だけでは不充分だろうか。
シナモリアキラとしての記録を探る。検索を重ねて最も古い生誕時の映像に辿り着く。俺は迷宮で脱糞した事実を暴露した。
効果は覿面だった。悪い方向に。
「最悪、汚い、穢れる、近寄らないで」
本気で引いている口調と表情だったので、かなり傷付いた。
むしろ仲間だと思われたくない、という雰囲気を感じる。
失禁と脱糞との間には深い溝がある。あなたはあっち。私はこっち。
理不尽な仕打ちに抗議しようと近付いて手を伸ばすと、本気で拒絶する様子を見せたので狼狽える。俺はその程度の恥などなんてことはないと伝えたかったのだが、リールエルバには俺が唐突に脱糞の過去を暴露した変態に見えているらしい。
「もうやだあ。怖い。おなかすいた。足痛い。おんぶして。近寄らないで。不埒者。気持ち悪い。死にたい。いっそ殺して。でも臭い人には殺されたくない。ニアはどこなのお。おねえさまぁ」
堰を切ったように溢れ出る弱音の数々。
多分、ずっと我慢していた言葉なのだと思った。
この場所に来てからだけではない。彼女が王女として生きてきたこれまでの道のりには、こんな弱い彼女を許す余地は無かったはずだ。
声をかけたかった。だが俺は言葉を紡ぐ者ではない。
だから、手に持った布と衣服を彼女に差し出す。
リールエルバは小さく笑って、「冗談よ」と言った。
「その情報は知ってた。トリシューラから聞いたもの」
俺の主人は個人情報を何だと思っているのだろう。
これ怒っていいやつだよな。というか主従解消の危機では?
真剣に今後を憂える俺の耳に、かすかに聞こえた優しい呟き。
「でも、私の事を慰めようとしてくれたんだ」
少し恥ずかしそうに照れ笑う少女の表情に、少しの嬉しさが滲む。
いつしか広間には花が咲き誇っていた。
くるくると渦巻く花茎と大輪の花弁が赤い色彩で絨毯を作る。
シクラメンの花畑。香りの無い筈の品種は、不思議とかすかな血の芳香を漂わせていた。その不気味さすら、今は心地良い。
リールエルバはすっかり復調して堂々と立ち上がった。
「私がお漏らししたのを見て興奮していたでしょう、この変態!」
それにしても開き直り方がおかしい。
「口に入れたものを全て呪力に変換してしまうトリシューラには出来ないものね、排泄。ええそう、これは私固有の尊厳だわ。羞恥とは、恥辱とは、誇りがあることの裏返しだもの。私を辱めてくれてどうもありがとう! 褒めてあげるわ!」
え? ええと、どういたしまして?
困惑しつつもまあこれはこれでいいのかなと真横のブウテトと顔を見合わせる。
豚の生首は見ようによっては微笑んでいるようにも見えた。蝿の羽音は、上機嫌なリールエルバの羽ばたきに掻き消されて聞こえなくなっていた。足下の花々が一斉に歌い出す。シルエットの踊り子たちが俺たちの周囲でゆらめき、現れては消えていく。彼方から聞こえてくる闘争の音は、いつしか華やかな楽想へと切り替わっていた――ここは楽園。文字通りの完璧な世界。
俺たちは未だ闇の底に囚われている。
しかし、ここから未来が始まるのだという予感があった。
リールエルバの狂ったような哄笑が闇に反響する。
俺の耳には、彼女の愉しげな笑い声だけが聞こえ続けた。
「やっぱりいいな、トリシューラ」




