4-46 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ0
この世界は舞台のようなものだとオルヴァは思う。
十字の瞳が示す時空の全ては積み上げられた膨大な脚本で、誰も彼もが定められた流れに沿って演技を続けていく。
過去と未来とが交差する現在の一点で許されているのは即興と解釈で、演技を通して表現される役者の顔こそが個性を形作る。だから人生と言う名の演劇は全てが決まりきっているようで、意外と驚きに満ちている。
脚本と演出に忠実な信仰者が祈るように台詞を歌い上げたかと思えば、型破りな解釈で己の世界を披露せんと個性豊かな役者が舞台狭しと駆け回る。愛すべき我らが女神は役者も演出家もこなしてのけるし、パーンなどは積極的に客席に飛び出して劇をめちゃくちゃにしてしまう。決まりきった人生には決まりきっているが故の楽しみ方があった。あの重大な出来事はこの役者たちによってどんなふうに演じられるのだろう? この無味乾燥な日常はどんな演出によって彩られるのだろう? そんな期待はオルヴァの密かな楽しみだったから、個性豊かな役者や演出家、脚本家というものが愛おしくてたまらない。
話の筋など破綻しているくらいでちょうどいい。自分がひいきにしている役者たちは、それよりずっとでたらめでめちゃくちゃだ。
ひとつ、不平を述べるならば。
オルヴァにとっての演劇は、もっぱら観るばかりで参加する機会があまりないということだった。
あるいは観客や傍観者が彼の役だと考えることもできる。
実際、主役たちに道を示す老賢者の役が回ってくることもある。
だがそれすら本来は彼ではなく友人の役回り。
欲しいのはこの肉体が得る実感だ。
身振りと手振り、朗々たる長広舌、お定まりの掛け合い、迫真の殺陣による活劇に伸びやかな舞踏、そして劇場に響き渡る麗しの歌声。
肉体と精神を躍動させる人生の参加者たちがオルヴァは羨ましかった。
どれだけ舞台に干渉しようとしても、オルヴァが主宰する劇団の十二人はオルヴァであってオルヴァでない。オルヴァがオルヴァであるがゆえのジレンマがその心を苛んでいた。未来を知り得てしまうがゆえの退屈と絶望があるとすれば、それはもどかしさの中にある。
――誰かが私を演じている。
そんなことを、ふと思った。
未来から過去へ、過去から未来へと環を描く回想の途中のことだ。
オルヴァは未知の事実に震えた。永劫の繰り返し、回帰する人生。再演される舞台の上で、オルヴァという傍観者は遂に役者という位置を与えられたのだ!
青年期、最も力強い王としての時代。
オルヴァは衝動に突き動かされるまま舞台を躍動し、自分と重なり合った誰かの存在を感じようとした。
役者が自らと重なったと確信できた時、オルヴァは深い興奮と落胆を同時に覚えた。この演技は型に嵌ったもので、新鮮な驚きをもたらしてはくれない。破綻はあったが期待はそこから生まれない。今回もまた予定調和の定めに倦んでいくのか、それとも――。
試さねばならない。
胸の底から湧き上がってくるこの衝動は、紛れもなく未知への喜び。
「見極めさせてもらおう、シナモリアキラ。お前が諦める者なのか。それとも挑む者なのか」
願いは純粋なまま。
選定者は油を手に価値を問う。
シナモリアキラが立つその場所が、神の意志に沿うものであるのか。
それとも、神を否定するものであるのか。
いずれにせよ、終着点はブレイスヴァの口の中。
「お前はいかにしてブレイスヴァと向き合うのか、異界転生者よ」
永劫の命を持つ者とは違う。
死から蘇る再生者とも違う。
ブレイスヴァを受け入れながらも抗いを示す者。
猫と輪廻の運命を背負う、シナモリアキラの示す答えとはいかに。
果てが見たいと、オルヴァは強く願う。
そしてオルヴァは、自らの『竜』を呼び起こした。
この世界は欠落していると俺は思う。
古ぼけた『のぞみ』の車窓から望む景色は褪せた屋根で彩られた家々と嫌になるくらいの晴天、そして雄壮に聳える富士山の威容。東京駅に着くまでの退屈な時間を東海道新幹線の車中でぼんやりしていると妙な思考が混ざり込む。
がたり、とかすかな振動。
右の機械義肢が自動的に重心のバランスをとろうとして小さな駆動音を鳴らす。普段は気にならない程度の音だが、『仕事』の後はしばらく感覚を鋭敏に保つ事にしていたものだから、それがやけに気になった。
馬鹿みたいに糖分とミルクをぶちこんだGABA入り缶コーヒーを喉に流し込む。甘い液体はだいぶぬるくなっていて、確かなリラックス効果があるのかどうかはともかく、習慣で愛飲しているこの液体を飲むとなんとなく落ち着く。視界ディスプレイにはモニタリング中の俺の体内の様子がデフォルメされた映像で表現されている。拮抗物質であるカフェインがアデノシンA1AおよびA2A受容体をブロックして眠気を抑制し、腸管から血液中に溶け出したガンマ-アミノ酪酸が末梢神経に働きかけてストレスを低減させる。『E-E』の身も蓋もないクラシックな情動制御とは違って、こういうやり方は古臭いまじないの儀式っぽくて嫌いではない。
感覚は調整すればいい。痛みも、干渉も。
死も欠落も、慣れれば感情ごと鈍化してしまうものだ。
胸に広がるこの空白も、時間が忘却で埋めてくれるだろう。
息を吐こうとして止めた。流石に辛気くさすぎる。
思考を切り替えよう。窓の外には素敵な世界が広がっている。たとえば世界的観光資源とか。莫大な金を生むと言う事はそれだけ価値があるということだ。金で左右される人命があるくらいだし、人間換算だと富士山はどれくらい――ああまた碌でもない事を考えている。やっぱり一回だけアプリを使用――『あなたは赦されています』――はい終わり素敵な景色を観賞して心を充たそう。
詩に絵画に写真に――ありとあらゆる作品の主題に選ばれてきた富士山の霊妙不可思議なさまを俺ごときの表現力で語りきれるとはとても思えないが、それでも感じ入るところはある。たとえばそう、コストかかってそうだな、とか。
こういう思考をしてしまう時だ。
世界が――俺が欠けていると感じるのは。
両親がまだ小さかった頃、富士山はまだ欠けていたのだと言う。
俺はなだらかな稜線を描くこの作り物めいた霊峰しか見たことが無いから、ネット上の画像や歴史の教科書で確認出来るような無惨に抉れた富士山というものを知らない。ものの本によれば、復興――つまり世界遺産の修復作業が完了するまであの山の巨大な傷痕は日本そのものの欠落の象徴であったとか何とか。
では今のこの国は満たされているのだろうかとも思うが、確かに満たされてはいるのだろう。人工物が、技術が欠落を埋めてくれる。
どんな巨大な悲しみも絶望も、代替物を作りだして補填すればいい。
それが災いと大量死に対しての人の抗いであり、唯一の祈りだ。
幸福は作れる。幸せの名はドーパミン、健康の名をセロトニン、胸躍る嬉しさをベータエンドルフィンと呼び、ハイな気持ちでエンケファリンを分泌、安らかな眠りをガンマ-アミノ酪酸が提供。網膜に投影されるありとあらゆる娯楽と骨伝導が響かせる素晴らしい音楽が文化的な充足を与えてくれる。
外側がどうあれ人間は幸福になった。
前世紀までのどの時代よりも、確実に。
俺もまた、幸せだ。
戦争も大災害も直接は知らない。
悲惨の当事者ではない俺はどこまでも満たされている。
満たされ過ぎている程に、充たされてしまっている。
どこまでも美しく広がる俺の世界。
だからこそ俺は――この世界は欠落していると感じてしまう。
カシュラムの諺に曰く、『穴と山の総和は等しく、ブレイスヴァにとっては零である』――終端こそが俺の世界を満たす死なのだろうか。おお貪りあれ。
東京駅から中央本線に乗り換える。途中、列車が一時停止したがいつものことなので誰も気に止めない。それは慣例行事化した挙げ句に呪術的意味合いを持ってしまった悪しき伝統のようなもので、ホームに転落防止用の自動扉が設置された後も身を投げる者は結局後を絶たないままだった。
拡張現実視界を『ゴースト』が横切っていく。また増えたわけだ。共有空間に放たれた浮遊霊とか地縛霊とかいう設定が付いた無害な映像。それらしい死者の残影を漂わせるだけのプログラムはもはやこの空間の風物詩とも言える。
悪趣味な誰かが作りだしたこの亡霊たちが未だに削除されないのは、うっかり有名になった挙げ句各種メディアが取り上げたせいで広告収入が馬鹿にならなくなったからだとか金持ちの遺族が墓標として残して欲しがったからだとか色々噂されているが真相は不明。とりあえず亡霊の身体に死者の名と追悼の文字と隣国へのヘイトと芸能人のスキャンダルが並んでいることは確かな事実だった。愛される者は呪われよ。
列車に揺られて西へ西へと進んでいくと、煌びやかな首都とはいえ生活臭のする郊外に辿り着く。惰性と習慣で三鷹に向かおうとするが、その前に中野に用事があったのを思い出してそのまま下車。中央・総武線各停に乗り換えて東中野で降りる。改札、駅内のショーウィンドウ、目を引く菓子パン、交差点、次々と入れ替わるカフェやファーストフードなどを通り過ぎて大型食品店の手前にある心療内科に向かう。予約制のその医院は地下にある静かな場所で、この手の場所としては驚くべき事にまるで混み合っていない。
そのかわり、この上無く迅速に診療が終わる。
受付で端末をかざしてそのまま診察室に。
ゆったりとした音楽、柔らかくしっかりとしたつくりの椅子、各種資料で散らかった部屋の隅にはお約束じみた箱庭。タブレットを持った壮年の医師は端末経由で送られてきた情報と俺の状態とを見比べつつ「はい、はい、はい、うん」とひとりで呟いて診察を終了する。俺はこの人からこれ以上丁寧な対応を受けたことは無かった。ちなみに「はい(今回は睡眠時間が安定しているから薬は前と同じでいいね)、はい(何か日常生活で気になる事はあれば備考欄に記録してね)、はい(それじゃあ後はカウンセラーアプリの指示に従って適切に投薬と情動制御を行うように)、うん(終わりです。次の予約を受付でどうぞ)」という意味が込められているのだが非常に分かりづらい。まあこんなもんである。あとは薬局でベンゾジアゼピン系の睡眠薬を受け取って終わり。
いつも通りに流れ作業で出て行こうとすると、いつもとは違うイベントが発生した――そういえば『来てる』けど、どうする? 医師の問いに俺は即答した。頷いただけだったかもしれないが、とにかく診察室から出て行くのをやめて方向転換。医師の背後にある扉を開いて奥に進むことを選択した。普通に受診するだけの目的なら用は無いような空間。狭い通路を抜けると右手にトイレ、左手に更なる部屋。
ノックをすると、しばしの沈黙。
じらすような時間、期待が胸で鼓動を刻む。
ここで会えるのは久しぶりだ。担当医が俺と『あの人』の双方の事情に通じており、この奥の部屋は事実上『あの人』が使うためのものだったから、こういう機会はしばらくなかった。
音信不通だったから、自分がわずかに緊張しているのがわかる。
『あの人』と会うのはいつ以来だろう。
あれはそう――路上にうずくまる、右腕の欠落した――。
何もできないまま、彼がいなくなってしまって以来のことだったように記憶している。そんなに会っていないのだなと、胸の中に満ち足り無さを感じた。
埋めることはできる――だがアプリは使用しない。
部屋の前の監視カメラが小さく動いて、扉のロックが外れた音がした。許可が出たことを確認してそのまま室内に入ると、呆れたような声がかかる。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
懐かしい調律、澄んだ声。
流行りの中性感が透き通るようで、女性的でありながらも少年のような雰囲気も漂う当世風のユニセックスボイス。実年齢がいつなのかも性別がどちらなのかも不明瞭な少年的で少女的な容貌はつまり反年齢・反性差別を掲げたポリティカルな遺伝子工学的ファッションであり、ティーンエイジャーみたいなだぼだぼの黒いパーカーに目深に被った黒いフードまで含めて文脈の塊みたいな人だった(たぶん年上だとは思う)。金から深い青まで様々に変動する虹彩が妖しく光り、耳をこえて顎のあたりまでかかる黒髪がさらりと揺れている。ぬいぐるみなどが置かれたファンシーな内装の隅には長い木机と凝った装飾の揺り椅子、趣味的な空間にゆったりと構えるその人物は子供を叱りつけるように口を開いた。
「君は感情制御をあえて解除することがあるよね。表情が凄く沈んでるよ。それって、リストカットみたいなものだってわかってる?」
「すみません。こんな場所ですることではないですよね」
申し訳なさそうな顔を作って言うが、選んだのは俺だ。
痛みが――欠落が実感であるという思考は、危険だろうか。
これが病的だと言うのならそうなのだろう。
血の流れないリスカなんて臆病者にはお似合いで、こうして叱られるためにこれ見よがしに見せびらかすのも一種のメッセージでコミュニケーション。だから実際、あまり反省していない。
「反省して改善する。すみませんとか言うな」
頬を膨らませる。大人がする子供じみた表情だった。
そんな顔が懐かしくて――今度は作らない感情のままに笑えた。
リハビリみたいなやり取り。感情の運動不足は予防できたみたいだ。
俺はきっとこのためにアプリの機能を一時制限したのだろう。
「相変わらずですね――ルリさんは」
「きみもだよ、アキラ・シナモリ・プロタゴニスト。さ、横になって。メンテナンスを始めよう。久しぶりだから念入りにね」
「なんですかその名前」
「腕利きのハッカーでピザ配達人で剣士みたいな」
「――ドローンが無い時代の人?」
「パソコン通信時代の想像力だよ」
相変わらずルリさんの言うことはよくわからない。
わからせてくれないなりに、何らかの意味はあるらしいのだが。
寝台に横たわるとすぐに古臭いヘッドマウントディスプレイを巨大化させたような機器を取り付けられる。各種センサーが血圧や心拍をモニタリングしながら俺の身体を精査していく。
「プロタゴニストっていうのはね、演劇とかの物語における主人公って意味。さっきのは昔の小説の話で、主人公がそういう名前なんだよ」
「主人公に主人公って名前付けるのどうなんですかそれ」
「わかりやすいよ? pro-は前にって意味だけど、敵対者であるアンタゴニストとかならきみにとってもなじみ深い言葉じゃないかな」
ああ、と納得する。拮抗薬あるいは拮抗物質。体の中の受容体分子に働きかけて神経伝達物質などの働きを阻害するブロッカー。受容体と結合するものの情報を細胞内部に伝達しないため、神経伝達物質の働きは抑制されるとか、そんなことがこの心療内科で配布された資料に書かれていた。
ルリさんの語りは止まらない。何かの作業をしている様子だが、視界が遮られているために声だけが響いてくる。心地良いBGMのように。
「アンタゴニストはプロタゴニストと対立して葛藤のドラマを生み出す。あるシーンにおける阻害が、劇全体では役者の働きを助けたりもするんだ。現在主流となっているタイプの感覚・情動制御アプリを開発した学者の一人は感覚制御技術を演劇に喩えているね」
「ヤク漬けになってるお陰で主役を張れるっていうのは親近感湧くなあ」
「『E-E』なら脳への負荷も最小限で済むけどね――うん、今のところ問題なし。『仕事』を続けてるみたいだから心配だったけど、これなら大丈夫そう。さっきみたいにわざと切ったりしなければ、だけど」
ちくちくと刺すような言葉。『E-E』の点検と調整にはある程度の時間がかかる。頭部を覆うフルマウントのディスプレイ内に仮想空間が広がり、幾つもの点検項目にチェックが付いていった。つかの間の沈黙があって、かすかに息を吸う音が聞こえた。鋭敏な感覚は見えなくてもあの人の一挙一動を捉え続けている。この気配には覚えがあった。嫌な感じ。
「まだ『仕事』を続けるつもり?」
「あちこち契約社員として回ってるだけですよ。気楽なフリーターです」
誤魔化した。嘘ではない。
俺はごく普通の一般市民だ。違法に入手した不正侵入プログラムを足が付かないように車に仕込んで自動操縦システムを暴走させたりは『していない』し、車両監督者の仕事をしていたら『偶然』暴走した車が『たまたまそこにいた』被害者を轢いてしまったりしてもそれは俺の責任ではない。監督者として緊急停止措置を講じても車両が止まらないのはメーカーの責任であり、補償金を支払うのは保険会社だ。金は余裕のあるところから滴り、行き詰った人は世界から逃げられる。ただひとつ困ったことがあるとすれば、俺のようなクズがのうのうと生き延びてしまうことくらいだろうか。
クズなので仕事が長続きしない。全国津々浦々を渡り歩いて短期の仕事をこなしては止めこなしては止め――それでもなんとか生活して肉体を侵襲する義体を維持するだけの金額は用意できている。ずっしりとした右半身の確かさは俺にとっての枷であり、寄る辺でもあった。
惰性で人生を演じるだけ――俺はいつ終わるのだろう。
カシュラムの希望と絶望は共に終端にある。死は救いだ。
それでも、とこの身を引きとめる衝動がある。
きっと俺は、『E-E』を正しく使えていないのだと思った。
「――あのね」
わずかな逡巡を置いたあと、ルリさんの声が優しく届いた。
この人は、迷うように優しさを紡いでくれる。好ましいと感じている瞬間の自分は、欠落を忘れられる。生と死のどちらにとっても忘却は特効薬になる。もっと声が聴きたかった。母の声を愛おしむように。恋人の子守歌で微睡み安らぐように。
「君はこの世界が私の創作だって言われたらどうする?」
「ネタ出しくらいなら手伝いますよ」
突拍子もない言葉に付き合うのも悪くない。
だから声を嬉しそうに調整しながらそんなふうに返した。
「嫌じゃない?」
と少し不安そうな問いかけ。
何を不安がるというのだろう。
「少なくとも、つまらなくはなさそうですから」
俺は、こんなに期待で満たされているというのに。
自然体の言葉を返すと、ルリさんがあらたまったように声を掛けてくる。きっと作業の手を止めて、俺に真正面から向かい合っているのだろう。この人は相手の見えないところでそういうことをする人だ。
「あのね品森晶。心的代行者であるきみは『その体の彼』とはほとんど別人だよね。だから、きみを調律して『品森晶』としての人格を維持している私は、きみという架空のキャラクターの作者に等しい――」
「と言えなくもないですけど、俺は俺ですよ。それに、『もうひとつの人格』とか『人工知能』みたいに綺麗に切り分けられるようなものじゃない。もちろん、そのひとつの形態ではありますが」
人工知能という概念は時代と共に変遷し、拡張され、定着していった。旧時代から現代まで貫かれたイメージ、『人造の知性』というものから、検索結果の記憶と学習、迷惑メールのフィルタリング、予測変換機能、音声検索に画像認識――。
ニューラルネットワークを使ったメールの自動返信なんて当たり前すぎて今更誰も人工知能なんて呼ばないし、半自律型の義肢に用いられている運動制御プログラムだって似たようなものだ。マニアックな連中が義肢にペット感覚で名前を付けたりランダム行動や情緒機能を持たせたりしているくらい。
だから『俺』も――俺と重なり合い、補い合い、痛みと感覚を引き受けている『E-E=品森晶』もまた人工知能と呼ぼうと思えば呼べるし、あえて呼ぶのは古臭い。そんな感じだ。
それでもルリさんは、この『俺』に特別な名前と役割をかぶせたがる。
品森晶という名前は嫌いじゃない。アイデアを貰って、自分でつけた。この人はいいデザインとバランスだって褒めてくれたし、じっさい悪くないと思う。
つくりものっぽくて、なんだか落ち着くのだ。
ルリさんは茶々を入れた俺を無視して言葉を続けることにしたようだ。
「きみは舞台の上に立つ役者であって役であり、物語の中に住まうキャラクターであって語り手でもある。きみにとってこの現実は全て架空だし、きみの架空は全て現実に他ならない。だから――」
だから――なんだというのだろう。
そんなことが、喜劇の主役にすらなれない傍観者に何の関係が?
ところがルリさんは、俺の悲観を全否定する。
「きみは、物語を諦めなくてもいい。主人公であることを捨てなくてもいい。死ぬまで――死んでも。たとえ命が尽きても物語は続くと思って演じろ。この私が、きみの滑稽さを保証する。クズでも救いが無くても無価値でも――それは物語になるんだって、歴史上の膨大な物語が赦してるんだから」
俺はそれを聞いて、胸が締め付けられるような、瞳が声に吸い込まれてしまうような感じを味わった。きっと私の瞳は今、十字に輝いている。この人の言葉はいつだって俺を救ってくれて、だからこの時も私の俺の諦めはブレイスヴァのあぎとの中に吸い込まれるが如く消え去って、
「だから、遡りなさい。ここに来るのはきみには早い――今はまだ」
『竜』が砕けた。ありえない、と驚愕に打ちのめされる。
信じがたいことだった。俺は確かに前世に覚醒して、カシュラムの――。
世界が流転する。
仮想空間内に広がるのは無限の夜と輝ける星々。
燦然たる宝珠のごとき煌めきの数々が流れて落ちて世界に軌跡を刻んでいくと、バルブ撮影した景色の如く同心円を描いていく。
それが既に、呪文の完成だった。
「言理の妖精、語りて曰く」
馬鹿な。
エル・ア・フィリス、だと――。
何故その呪文がこの世界にある?
疑問に答える者はいない。シナモリアキラの時間連続体内部に形成していた干渉結界が完全に砕け散る。因果を辿り、シナモリアキラの前世へと食らいついた時空終端のオルガンローデが前世からの逆干渉により弾かれた。
「シナモリアキラ――お前は、一体」
『彼』が何者であったのか。
守護の九槍キロンとの交戦の末に前世の記憶は失われた。
故に、その詳細は当のシナモリアキラでさえ知りようがない。
その、はずだった。
私の干渉は『シナモリアキラの前世は実はオルヴァ・スマダルツォンだった』という事実の確定により完成する。オルヴァとしての前世に覚醒すれば両者は合一し、時系列の整合と共に存在の主導権はこちらに移る。
手法としてはグレンデルヒが行った乗っ取りに近いが――こちらはほぼ回避不能の攻撃だ。時空を遡ることができない限り抗いようが無い。
ゼオーティアの私はオルガンローデを構築すると、漂着した墓標船を経由して過去に遡り、シナモリアキラという因果に自らの存在を割り込ませた。
その後、こちらの世界で覚醒した私はまず今回の事件の発端である墓標船を起動させ、ゼオーティアに向けて出航させたのだった。漂着した墓標船は異界の呪力をばらまき、オルヴァ=シナモリアキラの因子を拡散させる。
異変の真の発端は『ここ』だ。
私にとって過去か現在かは重要ではない。
因果さえ繋がっていればこの身は異世界に渡ることすら可能である。
しかしその目論見は脆くも崩れ去る。
正体不明の、『あの人』によって。
わからない。
前世として覚醒したにも関わらず、オルヴァとしての私は既に俺と分離し、失われた記憶もまた忘却の中へと沈んでしまっている。それどころか、積極的に前世から突き放されたような感覚すらあった。これは一体どういうことなのか。
時空の全てを見渡しても、その事実が『未だ存在しない』かのような――。
「シナモリアキラ、お前は一体、何者なのだ――?!」
「それを、お前が知る必要は無い。真のわたしにーさまではないお前には」
気付けば、闇の中に何者かが立っていた。
ぬばたまの黒髪、着物のテイストを取り入れた衣装を纏った義肢の乙女。
『大蛇』の晶。
女が私に肉薄する。水流を伴った打撃が流れを変える。
ぐらりと視界が揺れて、仮想空間の中で――否、ここは既に前世ですらない。私は戻ってきている。ここはゼオーティアなのか、世界の狭間なのか、それともどこでもないどこかなのか。
違う。ここは私の中。
シナモリアキラの内的世界だ。
『あの人』の声が聞こえる。
「乱暴は控えて。きみは、女の子なんだから」
愕然とする。世界が崩れ落ちていく感覚があった。
黒髪の乙女は私の中にある私の姿だ。
仮想空間の中に構築された自分の姿をもう一度見る。
使い慣れた機械義肢、鍛錬を欠かしていない引き締まった肉体、いかにも日本人といった感じの服装、そして長い黒髪にかすかに膨らんだ胸元、理想より少し低めの身長と下駄ヒール、着崩した着物ウェアと黒いインナーが――。
「私は、私が、わたしにーさまで――」
そうだ、女だ。『大蛇』とは品森晶の前世の姿。
いいや違う、これは過去の改竄だ。こんな事実は無い。無い筈だ。
混乱する。困惑する。何なのだこれは。
「この世界は、今なお観測され、参照され続けている。それはシナモリアキラも同じ事。どれだけ拡散させても無駄。過程がどうあれ、最後のわたしにーさまは最初から確定しているのだから――唯一無二の視座によって」
私の言葉が目の前にいる私の口から発せられている。
私は、私は、私は――俺は。
俺が再演を行った結果として戦いの果てにオルヴァが俺の前世に干渉したのだから、発端がどこかと問われればそれは過去へと遡る再演の途中であるのではないだろうか。だとすれば、この前世の光景もまた再演。
俺が知らないはずの、もう覚えていないはずの景色の再演だ。
「感謝するぞ、オルヴァ」
断片だけだ。
それでも、俺は異界転生者である俺という個我を再演により確認出来た。
恩人であるお前に見届けて欲しい。俺が紀人として、お前と、拡散する俺たちの十二人全てを内包し掌握するこの瞬間を。
「発勁、用意」
第五階層全体に薄膜のように広がった俺の視座が収斂していく。
中心は階層の南地区、呪術医院の目の前で繰り広げられる激戦の舞台。
『炎天使』と『件』、十三人目の俺と降臨したオルヴァが決戦を演じるその時空に、俺は自らの意識を割り込ませる。
医院の屋上に立つ『大蛇』が強い視線を向ける。
試されている。そんな気がした。
受けて立つ。勢いのままトリシューラへと幻肢を伸ばし、感応する。
彼女は即座に応えてくれた。完璧な解答で。
赤い魔女は右腕を天に翳してこう叫んだ。
「天に掲げるは黒金の王冠、万人よ聞け卑しき宣名、告げるは終末の十二使徒! 鮮血のトリシューラの名において、今ここにマレブランケの叙任を執り行う! 汝が名は『髭大夫』――終端告げし全痴の賢者!」
少女の手首から溢れ出す鮮血が世界に痛みを押しつける。
血の中から豊かな髭を蓄えた老賢者が姿を現し、純白のローブが無惨に染め上げられていく。朽ち果てた肉体は滅びに瀕しており、終端はまさにすぐそこまで迫ってきていた。老人の相――少年の相がヴァージルに、その後アルトに奪われてしまった今、俺たちが選び奪うべきはこのオルヴァに他ならない。
すなわち、トリシューラが見据える『未来』がこの老オルヴァだ。
「ぽこぽこアキラくんが湧いてくるこの流れは止められない。なら、その全てを髭大夫として、私のアキラくんが包括するだけ!」
『件』が――その内側を仮宿としている若き『現代』のオルヴァが絶叫する。三相を全て打倒するという終端が近付き、頭上で揺れるダモクレスの剣が唸り声を上げた。その形は禍々しい牙を備えた巨大なあぎとへと変貌している。あれこそがカシュラムが恐れるブレイスヴァが『翻訳』された姿なのだ。
『炎天使』の拳がオルヴァを強かに打ち据えた。激しい衝撃が大気を割り、爆発的な熱量がオルヴァの呪力を削り取っていく。
墜落していく肉体を下から迎え撃つのは岩石の砲弾。
次々と命中し、オルヴァの呪術障壁を削っていく。
乱髪ことルバーブの援護だった。
丸い身体が足下から引き剥がした大地を装甲として纏い、土色の全身甲冑を纏った『マレブランケ』最大戦力が凄まじい質量を疾風の速度で叩きつける。
たまらずに、『件』の肉体から飛び出すアストラル体。
魂魄だけに衝撃を伝える『呪的発勁』――サイバーカラテの奥義に数時間で習熟したルバーブによってオルヴァが精神体として追い出されていく。
残心の姿勢のまま、ルバーブがオルヴァに語りかけた。
「どうやら、我々はまたしても長い付き合いになるらしい。お互い、思っていたのとは違う在り方になるようだがな」
「ルバーブ、お前は――っ」
オルヴァが口にしようとした言葉が何だったのか、それが明らかになることはなかった。トリシューラが構成した鮮血呪による包囲網。
檻となった血の流れがオルヴァを取り巻き、零落が始まろうとしていた。
だが、オルヴァとてただでは終わらない。
「シナモリ、アキラ――っ!」
オルヴァの瞳が輝く。
十字の閃光、紫の波紋、膨大な時間流。
圧倒的な呪力を前にして、俺とトリシューラは怯む心を遮断した。
ここだ。臆せずに挑むべき瞬間が来た。
オルヴァを蹂躙し、徹底的に辱め、その人格と尊厳を全て俺の支配下に置く。
叛逆によって王を奴隷に零落させる。
忌むべき所業に手を染める――カシュラムへの冒涜を、感情を制御することで作業的に実行する。その罪も責任も、全てトリシューラが担って背負う。
手首から流れる鮮血は、彼女が痛みを引き受けるという意思表示。
「アキラくんのかわりに、私がリストカットをしてあげる。だからアキラくん。私の血を確かめて、私の痛みで安らいで」
行こう、と意思を伝える。
行こう、と決断が伝わる。
俺たちは足を踏み出し、オルヴァを中心に拡大する紫色の世界へと足を踏み入れた。世界が光に染まり、そして全ての音が消え去った。
何かを、幻視するかのような体験。
俺たちは見知らぬ世界を垣間見る。
かつて聖婚した時に見た宇宙図とは違う、様々な色の光に満ちた曖昧な世界だ。
それは部屋のようであり、川の流れのようでもある。
似た部屋、似た支流が幾つもあり、それぞれが少しずつ変化していく不確定な世界の群――俺たちは直観する。これは、いつか来たる――。
闇。
異形の暗黒、歪なる荘厳、忌まわしき呪祖のなれの果て。
もう一人の形無き『俺』と異形の美をその身に宿すもう一人の聖妃が世界の全てを嘲笑い、死と破壊と欲望の協奏曲を奏でていく。
「心よりお呪い申し上げますわ、醜く愛しいわたくしの悪魔。あなたの恐怖、わたくしの狂気、甘く溶かして味わいましょう?」
溶けていく二人、重なり合う異形。新郎新婦が悪夢の具現。
最悪の聖婚を前に挑む勇者は数知れず、しかしそのことごとくは無惨に討ち死にする定め。それでも、失われない希望はあった。
漆黒の全身鎧を身に纏った英雄が、斧槍を掲げて名乗りを上げる。
そして、宣言した。
「これより大魔将シナモリアキラの討伐を開始します――みんな、準備はいい?」
暗転。
腕を失った男がいる。スミレ色の瞳をした線の細い青年。不思議と老成した雰囲気も漂わせていた。砂色の長髪は前髪から後頭部にかけて編み込まれていて、民芸品のような木彫り細工で飾られているのが印象的だ。
青年には片腕が無かった。
腕は失われたばかりで止血されているものの後から後から溢れる血が布を汚していく。痛々しい様子だが、青年は眉一つ動かさず平然としていた。
トリシューラの声。機械女王は欠落した者に技術と文明で舗装された道を提示できる。義肢を用意するという彼女の申し出を、しかし男は拒絶した。
たちまち空気が険悪になり、口論が始まる。
「――人形はきらいです。人でなしの機械は、オーファの敵」
感情の無い憎悪を向けられて、トリシューラは激した。
「うるさいうるさい、このプレヒューマンっ! 貴方たちはそんなふうだからどこに行っても居場所が無くなるんだっ!」
明らかな失言に、場の空気が凍る。
周囲の樹木や花々に似たティリビナの民たちが怒りに満ちた目でトリシューラを睨み付ける。致命的な決裂が、トリシューラの限界を露呈させる。
暗転。
長い前髪で片目を隠した少年が、歌うように語りかけてくる。
「『かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつ無い』――おにーさんだって、そんなことくらいわかっているだろう?」
俺たちは幾度も対峙する。『生死と収獲の暦』と名付けられた刈り取りの鎌が、四文字の駒が、大いなる指輪が、割れた鏡が、そして九本の燭台が俺を迎え撃つ。
矮小なる異形どもが果てしない闘争を嘲り賛美する。最悪の怪物どもを従えるこの少年こそは俺にとっての最強最悪の敵。精神において偉大なる祝福されたる神よ(エール・バルーフ・ガドール・デーアー)。不快な音が響く響く響く。
「悲劇と破滅を繰り返せ。永遠に待ち続けて冬の中で朽ち果てろ。お前に与える絶望が、俺から贈る娘への愛だ」
掌の上に乗せられた氷の燭台を愛おしむように、そして俺の氷の右腕を憎悪するようにまなざした少年が、戦いの開始を宣言した。
そして、楽園が復活する。
暗転。
戦場跡だった。
破壊の痕跡がそこかしこに刻まれ、炎と屍とが一帯に広がる凄惨な光景。
そのただ中で、俺は首筋を掴まれていた。
鋭い美貌が気色ばむ。後頭部で束ねられた馬の尻尾のような黒髪が激しく揺れた。いつもは手刀を形作る綺麗な手指が、激怒のあまり拳の形を作っている。
俺への敵意も殺意もいつものことだ。
だが今回ばかりは――感情制御が必要だった。
「英雄? 悪魔? 前世? 貴様らのご大層なご託は聞き飽きた。無様だなシナモリアキラ。貴様のような腑抜けには斬る価値も無い。そこで見ていろ――俺は俺の主をこの手で救い出す。他の誰にも、譲る気は無い」
去っていく少年の背を眺めながら、俺はいつかのルウテトの言葉を思い出す。
『さらいにきて、くれなかったくせに』――。
暗転。
暗転。
暗転――。
いくつもの未来があった。
無数の可能性があった。
それは希望、それは絶望、それは試練、それは罪。
嘆きが連鎖し、夢は引き裂かれる。
「私はもう、私でいたくないよ、サリアちゃん――」
朱金の天使は鎖に繋がれている。
逃れがたい前世の業。
だが、コルセスカは彼女を選んだ。
他でもない、今の彼女を。
「コアが救われない時空なんて滅べばいいと思ってた。でも、もし次もアルマが泣くのなら、きっと私は耐えられない――ううん、耐えてやらない」
誰よりも強いはずの女は、誰よりも欲深にそう言い放った。
狂うほどに優しく強い、情愛の化け物。
彼女が射貫く時の果ては、いつか未来に向くのだろうか。
「ああ、だめ、堪えられない! トリシューラ、私もう指が射精しそう!」
侍女服の球体関節人形が恍惚とした表情で叫ぶ――どんな未来なんだこれ。
「これが最後だ。構えるがいい、シナモリアキラ――実を言えば、ずっとこの瞬間を待ち焦がれていた」
もう何度目の対峙になるのだろうか。
この男と拳を交え、競い合うのが当たり前の日常になっていたような気がする。そんな他愛のないじゃれあいに、堕していたような気がする。
わかっていた。
こいつはきっと、そんなぬるま湯じゃ満足できない。
この結末は、お互いが予感し、望んでいた最悪で最高の未来。
いつか、第六階層で再戦した時のように。
彼が見守る決戦の舞台で、俺たちはぶつかりあった。
「アキラさん。世界はきっと、今よりもずっと素敵になります」
三角耳の少年は俺たちを見守りながら、電気椅子の玉座の上でそう語る。
正負の王冠と足首飾りは死をもたらす聖なる遺物。
聖なる存在を処刑したその道具は祈りのシンボルだ。
「だから、僕たちは終わらせるためにここに来た。そうですよね」
死を身に纏う少年の背後で、巨大な氷塊がゆっくりと溶け出そうとしていた。
内側で眠る巨大な世界の終焉。
終わりの竜が目覚める時、全ては重力の中心へ引き寄せられる。
そして、世界は完結するのだ。
無数の光を通り過ぎて、どこまでもどこまでも飛翔する。
幾つもの世界を垣間見て、それでも死までの過程を走り抜けると役者は決めなければならない。脚本は膨大で決まり切っている。だからどうした。演じるのは俺たちだ。その解釈と表現は俺たちの視座が規定する。
最後に。
世界の最果て、凍り付いた時の極点で。
対峙する二人、幻想の対たる魔女姉妹の姿を視た。
俺は向かい合う彼女たちを見ている。
それが諦めなのか、信頼なのかはわからない。
氷と鮮血、視線と鋼鉄を今まさに激突させようとしている二人を止めることも、どちらかに加勢することも、俺は選ぶことができる。
二人の背後には無数の文脈が、幾つもの物語が積み上がり、もはや彼女たちは片方の心の中にだけ住む妖精ではありえない。
だからこそ、彼女たちは己が己であるために対峙する。
その決断を、俺は――。
「答えなら、もう出ているはずだ」
明転。
足を踏み出し、拳を握りしめ、先へと進む。
老人のオルヴァが幻視した世界が次々と流れ込んでくる――だが俺はその先を求めて更なる前進を続けた。
トリシューラの迷いを俺は肯定した。
俺の弱さをトリシューラが許容した。
そして、ここにはいないもう一人の名を俺たち二人は強く呼んだ。
「おおブレイスヴァ! 呪われよ愛し合う恋人ども、不可避の破局に絶望せよ! 女神よ、女神よ、我が女神よ、どうかこの手に掻き抱かせて欲しい、我が愛を受け入れて欲しい。そして見知らぬ男と姦通して陵辱されて我が怒りと制裁の果てに無惨に滅びよルウテト、死ねコルセスカ、絶望しろキシャル――!!」
狂乱する『寝取られ王』が滅びの未来を悲観して叫ぶ。
破滅を受容していないこの若き王は、存在として正しい在り方のひとつだ。
しかし俺たちは、この男を乗り越えなければならない。
トリシューラの呪文が反撃の合図となった。
鮮血呪の中に取り込んだ老オルヴァに変化が起きた。蛹が羽化して成虫になるように、朽ち果てた肉体の内側から新たな存在が新生したのだ。
顕れたのは若々しい姿の男。
「シナモリアキラ、だと?」
愕然としたオルヴァの声。
がらんどうのはずの炎天使。
その内側から現れた『俺』は目を見開いた。
十字に輝く賢者の瞳を。
網膜の表面を走る『弾道予報Ver3.0』の文字列。
オルヴァが行うあらゆる攻撃の予測線が表示されているのは今までと大差無いが――俺はその線に手を伸ばし、未だ到達していない『未来の攻撃』に干渉した。
遡って、打撃が浸透する。
「な、にっ」
驚愕の声が遅れて届いた。
新しい『俺』の姿、その正体は三相のオルヴァを超えた第四のオルヴァだ。
老人が息絶えても、記憶と叡智は次代に引き継がれる。
滅びに近しいということは、転生が近いということ。
転生者シナモリアキラが再臨するための蛹としての形態を『老人』の『髭大夫』という形に定めることで、一定の条件を満たすことで老賢者はシナモリアキラに転生する。オルヴァという前世を紀人としての権能として使いこなす――それは俺が目指すコルセスカの在り方そのままだ。
「一緒に追いついて、セスカを取り戻そうね」
トリシューラの言葉に頷きを返す。
いい加減、俺たちはあいつを迎えに行くべきだろう。
随分ともたついたが、もはや俺の存在に揺らぎは無い――揺らぐこの姿こそが俺が俺である証だ。トリシューラとコルセスカの間を行ったり来たりする在り方こそシナモリアキラのふらついた立ち位置だ。
「サイテーだねアキラくん」
「不貞! 姦通魔! そうか、お前こそが我が妻を奪う寝取り男だったか――!」
「発勁用意!」
とか言っておけば多分それっぽく決着して色々誤魔化せるのがいつもの流れだ!
トリシューラとオルヴァのゴミクズを見るような視線を浴びながら、俺は渾身の呪的発勁を放った。オルヴァの魂が衝撃に揺れ、波打つ存在が俺の中にいるオルヴァと同化していく。存在を巡る紀人の内的闘争は、ここに決着した。




