4-45 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ12
永い忘却の彼方、薄暗い森の中に死者たちの王国があった。
木々を分け入った先、冥府と繋がる暗い洞穴が口を開いて、暗黒から吐き出される清流が森を真っ二つに分断する。
川を取り囲むようにして建つのは六つの城砦。
堅牢に守られた森の中心部、川の真上にそれは浮遊している。
死人たちの『王城』は一見すると堅牢そうな石造りの城だが、近付いて見ればその異様さは明白だった。城には確かな形が無い。明確な実体と質感を持たない亡霊の巣であり、幻影も同然。
そんな蝋燭の火のように儚い城におわすのは他でもない。死せる者どもの偉大なる女神にして上王、その名をルウテト。そして彼女に仕える騎士にして古き時代を知る六王たち。その地は最も冥府に近い暗がりだった。
「ねえ、パーンさん。僕たちって似ていると思わない?」
王国を守護する六つの城砦、そのうちのひとつを訪れた少年は城砦の主に軽やかに笑いかけた。パーンと呼ばれた男はつまらなさそうに相手を一瞥する。
無骨な鋼鉄の浮遊建築物は物々しい鎧と絡繰りで身を固めた鉄屍たちが休み無く守り続ける最も堅牢な砦のひとつ。古代の『杖文明』の遺産によって機械化された再生者たちの軍勢は独特な硬質さを備えている。
少年が足を踏み入れたのは砦の奥深く、鉄屑や用途のわからない機械で埋め尽くされた奇怪な工房だった。麗しいかんばせに笑みを浮かべた兎耳の少年は、無骨な義肢を黙々と整備する男に気安く近付いていく――もっとも、少年の内心を知ってか知らずか、男の対応は冷ややかなものだった。
「俺とお前に似ている点があるとすれば、それは再生者であるというただ一点のみだ。なぜそんな下らない思いつきを口にする気になった?」
「共通点から話題を広げようっていう僕なりの歩み寄りなんだけどな。仲良くしようよ、同じ『森』の仲間なんだから」
白々しいと吐き捨てて、パーンは眉間に皺を寄せた。
苛立ちと警戒の入り交じった視線を少年に向ける。
「クロウサーの秘術が目当てなら余所を当たれ、ヴァージル。俺はお前が欲しがるような知識は持っていないし、たとえ知っていたとしても教えない」
「うーん、別にそういうつもりじゃなかったんだけど」
少年――ヴァージルは少し困ったように眉尻を下げた。
それからしげしげとパーンの顔を見て、「ふぅん」と意味ありげに言う。
「何だ」
「ううん。パーンさんがどうしてクロウサーの当主に選ばれなかったのか、よく分かったってだけ。どれだけ才気に溢れていても、そんなに我が強かったら『器』じゃないよね。もっと繊細で感受性が強ければわからなかったけど」
「喧嘩を売っているのか?」
「とんでもない。良かったね、って話」
パーンはあからさまに不機嫌になった。この話題は彼にとって極めつけの地雷の一つだ。それを知っていて躊躇わずに話題に選んだヴァージルは、しかも心から相手の過去の汚点を祝福している。
「俺の器をお前が量るな。俺の可能性は俺自身が定める」
「根本的な誤解があるし、そういう所が本当に疎まれる原因だと思うけど――面白いし、パーンさんにとってもお母様にとってもそのままでいてくれた方が幸せっぽいからまあいいか」
「何がいいものか。わけの分からんことを言って煙に巻こうとするな」
二人の会話は噛み合わない。
互いにまともな会話をする気が無いのだから当然とも言える。
「どっちかっていうとラフディ組あたりの方がクロウサー向きだと思うよ。アルトおじさんにしてもカーティスさんにしても、『使い魔』っぽく周りを見過ぎちゃう所があるし。僕やパーンさんはほら、まず最初に『自分』があるじゃない」
ヴァージルの発言に、パーンはしばし沈黙した。
思い当たる節があったからだ。
「強き王があってこその『王国』――それは既に旧世界の遺物だと、お前は言うのだろう。そんなことは俺もわかっている」
「そうだね。だからこそパーンさんは、『死人の森』が内包する『滅びた王国』の中でも野蛮で荒々しい死を司っている。再生者の王であるあなたは、そのままでいいんだと思うよ」
パーンは義肢をいじる手を止めて、茫洋と視線を彷徨わせた。
その先に見ているのは、遙か過去の光景なのだろうか。
しばしして、
「お前は」
「うん?」
「お前はどうなんだ。俺は力で全てをねじ伏せる覇王だ。だがヴァージル、お前はそうではないのだろう。ならば一体、どんな時代遅れな政体で自らの『王国』を統治するつもりでいる?」
パーンの問いはヴァージルへの関心というよりも、少年を通して見ている誰かへの関心から発せられているようでもあった。あるいは、パーン自身もそれがどんな意味を持った問いなのかわかっていないのではないか。
一つ確かな事は、その問いにヴァージルが心から嬉しそうに笑ったことだけだ。
「統治のためのルールにも色々あるよね。力無き者は殺す。逆らう者は殺す。従うならば放っておく。パーンさんはこのタイプでしょう? 自力救済が大前提の荒野に生きている。自分につくなら庇護してやってもいい、みたいな」
パーンは無言で肯定した。彼の時代において、それは当然の法だったからだ。
ヴァージルはそんな時代から下った世、それも天上の月世界に生きた王族であったから、それとは違う考えを持っている。
「僕はね、王国とは管理するものだと考えている。オルヴァさんはその権能で民草の地位を定めた。僕はそこから更に進んで、より踏み込んだ制御と統御を行う」
「――具体的には?」
「警察と福祉。それから都市の衛生も含めた公共サービス。そして、民草の魂に働きかけるメディアとマスコミュニケーション。ざっくり言うと、僕は国民の健康をより良い状態に保ちたいのさ。生命と意思を全て管理することでね」
抽象的な理想を語るヴァージルは、年頃の少年らしく夢見がちに未来を語る。
そもそもからして、『死人の森』は成り立ちから夢のような王国だ。
死が罰とはなり得ないため、旧来の極刑である死刑を基準とした法では早晩立ち行かなくなることは自明と言えた。封印、洗脳、完全なる抹消――いずれにせよ死者の王国は歪んでいく。それならば、発想を逆転させようと少年は言う。
「『死を与える』権力じゃなくて、『生を与える』権力が僕が望む統治の在り方だよ。その最終形こそが肉体無き亡霊たち。冥道と直接魂を繋ぎ、霊体化された人格は仮想使い魔としてアーカイブされる。次世代の再生者たちだよ」
パーンの従える鉄屍たちが機械化歩兵なら、ヴァージルの使役する無数の亡霊たちは電子戦に特化した人工知能の群だった。自らの理想を述べた後、少年は訪問の真意を語った。ヴァージルの用向きは一つ。この亡霊たちが実世界に干渉する為のインターフェイスを開発して欲しいという要請である。『杖』の叡智に秀でた二人の王だが、得意分野がそれぞれ違う。ソフトウェア面のエキスパートたるヴァージルには、ハードウェア面のエキスパートであるパーンの技術力が必要なのだった。
「なるほど。そういう腹か――回りくどい奴だ。どうせ女王の許可も取り付けてあるのだろうが。やってやるから今は失せろ。お前の厚かましい面をこれ以上見ていると殺したくなる」
「やった! ありがとうパーンさん、とても嬉しいよ。持つべきものは友達だね。昔から僕たちって本当の親友になれると思っていたんだ。ほら、僕たちって似ているじゃない? 親しみを感じるっていうか」
パーンの言葉を無視して白々しく笑顔を見せる少年。勿論わざとだ。
おちょくられているとわかっているから、パーンも乗せられて激昂したりはしない。感情を抑えて俯き、作業に没頭する。相手にしたら負けだ。
「腐敗した王国を弑逆し、父なる王権を簒奪する。そう、僕たちは抗う者。僕は下らない月王を殺して太陰を綺麗な世界にしたかった。パーンさんは堕落したクロウサーを殺して完全な空の王になりたかった。けれど僕たちは共に敗残者。だからこそ再起しなくてはならない――そう、たとえこの森に完璧な女王がいるとしても」
不穏な、あまりにも危険な発言。
流石にパーンも看過できず、鋭い視線を向ける。
少年の笑み、その奥に何か名状しがたい狂気を感じて、パーンは顔を顰めた。
薄気味の悪さを誤魔化すように舌打ちをして釘を刺す。
「無駄だ。女王の剣がそれを許さず、俺たちは絶対遵守の契約で縛られている。その上、この王国で起きるあらゆる叛逆は予定調和の死と再生という形で無害化される――オルヴァがいる限りな」
「つまり、それが僕たちにとっての課題なわけだよ、パーンさん」
妄言を斬って捨てようとした矢先、食い下がられて流石に面食らう。
ヴァージルはこの危うい話題を続けるつもりだった。冗談ではなく、現実と地続きの話題としてその先を想像している――危険な少年だと、改めて認識するパーン。同時に、この会話に興味を惹かれる自分がいることにも気付いていた。
「王権そのものであるオルヴァを弑することで失われた勝利を取り戻そうとでも言うつもりか。ヴァージル、お前の後悔は小さいな」
「そうかな。そうかもしれないね。でもさ、失点は取り返さないと。そうしないと、僕たちは前に進めない。再生者だからって、無限に停滞していいとは思わないな、僕は。永遠を生きるからこそ前に進むべきじゃない?」
パーンはヴァージルの血のように赤い瞳を見た。
しばらくじっと睨み付け、やがて目を閉じて嘆息する。
男は言った。
「お前は心の深い部分で既に敗北を受け入れてしまっている。独力ではオルヴァには勝つことができないとな。叛逆に失敗した負け犬としての在り方が身に染みついているぞ、ヴァージル。臭くてかなわん。近くに寄るな」
それはどこまでが本心だったのか。
猛毒の誘いを打ち切るための切断であるようにも思えたし、心底から少年に見切りをつけての侮蔑であるようにも思えた。パーン本人にとっても定かでは無いのかもしれない――眼鏡の奥の瞳は曖昧に揺れていた。
いずれにせよ、答えは出た。
ヴァージルはつまらなさそうに唇を尖らせて言った。
「――パーンさん、それすっごくうざい。あーあ。せっかくママのお腹に還りたい同盟を結ぼうかと思ってたのになー」
「それは貴様だけだ馬鹿め。そういう話はそれこそオルヴァにでも持ちかけるがいい。俺の望みはクロウサーの打倒と過去の克服だ。自己の更新による、な。俺のリビドーとお前のデストルドーは噛み合わん」
「そう。じゃあ仕方無いね」
二人にとって、目の前の相手は『叛逆に失敗した己』の似姿だ。
王になれなかった二人が王の地位を望むのならば、屈辱の過去は否定しなければならない。であれば、両者が互いを抹殺しようとするのはむしろ自然なこと。
乗り越えるべき負の記憶、それこそが互いの存在なのだと二人は知っている。
「失せろヴァージル。お前の弱さが目障りだ」
「消えてよパーンさん。あなたの無様さが許せない」
だから殺し合いは恒例だった。
顔を合わせて、言葉を交わし、用向きを伝えた後には必ずその呪術と武力の全てをもって相手を殺害する。暴力を取り交わし、相手を破壊する。
壮絶な戦いは互いの肉体が三度滅びても続き、最後には地面を突き破って現れた巨大な白骨の手が両者を鷲掴みにして、
「喧嘩はめっですよー」
と柔らかく窘めながら肉塊二つを握り潰し、川の底に強引に沈めて事態の収拾を図るのだった。それもまた、死人たちの日常だ。
結局の所、殺し合いはじゃれ合いでしかなく、二人の間では因縁も決着も果てしなく先延ばしにされるものでしかない。女王の庇護の下にある限り、あらゆる危険な叛意も『可愛い子供の反抗期』以上のものにはなりようがない。
だが、その前提が失われたなら。
今度こそ、二人は厭わしい相手を排除にかかるだろう。
似た者は、憎い者なのだから。
歌が響き、長い髪が宙を踊る。呪力渦巻くそこは舞台の上だった。
主役は見目麗しい兎の少年。
血のように赤い瞳は爛々と輝き、歪な白骨の剣を指揮棒のように操って異形の亡霊たちを自在に統率する。
呪文が、髪の毛が、パーンの全身を覆い尽くしていく。青年は今や子供のサイズにまで縮んでおり、その身に充溢していた闘気は見る影も無く消え失せている。最後まで抗おうとしていた幻肢が力を失い、存在を希薄化させて消えていった。ヴァージルは背後に浮遊させていた水晶柱を移動させるとパーンの腕があった箇所にあてがう。少年はその光景を見て満足げに笑みをこぼした。
「覚えてるかな、いつかあなたに作ってもらった呪具だよ。こんな形で使うことになるなんて、なんだかとっても皮肉で素敵じゃない?」
少年が操る水晶柱は形を持たぬ死者が現世に干渉するためのインターフェース、すなわち墓石である。アストラル体からの入力を呪力に変換して出力する演算機械が、今はパーンの幻肢を封じるための枷として機能していた。
ヴァージルの術は幼くなったパーンの身体を刻一刻と蝕んでいる。加えてラクルラールの髪の毛が呪縛となってか細い体躯を責め苛んでおり、パーンがヴァージルの支配下に置かれるのにそう時間はかからないであろうことをその場の誰もが確信していた――他ならぬ、パーン当人を除いては。
「この俺を支配する、だと――?」
幼い、しかしそれでもなお覇気に満ちた声。
少年の傲慢さをそのまま音にした激怒が大気を震わせる。
「思い上がるなよ、人形如きが」
水晶柱に亀裂が走り、青い髪の毛がぶちぶちと千切れ、その内側で圧倒的なまでの呪力が膨れ上がっていく。消えかけていた波動が溢れ出す。
「お前が俺に支配されるのだ――第六義肢ラクルラール!!」
彼を束縛する流体じみた粘性の青い髪――忌まわしい融血呪に細波が立つ。
次第にそれは大きく広がり、やがて大きな流れとなってラクルラール本体へと逆流していく。無数の青い激流がラクルラール人形に絡みつくと、その全身を覆い尽くして強引に引き寄せていった。
パーンの腕を塞ぐ水晶柱が粉々に砕け散ると共に、内側から幻肢が鋭く突き出された。架空の右腕は引き寄せた人形を鷲掴みにすると、青い流体と共に幻の腕の中に引き込んでいく。そして、固形物が砕ける音が響いた。
さしものヴァージルも唖然とする。
パーンの右腕が、ラクルラールを喰っているのだ。
人形は噛み砕かれ、消化され、全身の部品をバラバラにされて幻影の右腕の血肉となっていく。溶けた人形は融解の果てに生物的なグロテスクさを見せ、掌に浮かぶラクルラールの人面疽がカタ、カタ、といつものように口を鳴らして笑う。
「馬鹿なことを――自我崩壊するのは目に見えている!」
正気の沙汰ではない。苦し紛れにしても自殺同然の行動。ラクルラールを自ら身の内に取り込むなど、『自分の身体を差し上げます』と宣言しているようなものだ――実際、腕として取り込まれた人形の叛逆は既に始まっている。
融血呪が義肢の接合部から血管のように浮き上がりながら少年と化したパーンの柔肌を這っていく。肩から鎖骨、そして細い首筋へと版図を広げる支配の呪詛。禍々しい青色が幼い肉体を蹂躙していき、パーンの瞳から意思の光が失われていく――そう思われたその時。
ヴァージルの背後で、軋むような音がした。
少年は振り返り、ある事実に気が付いた。
コルセスカが封じられた氷塊に亀裂が走っている。
ヴァージルの手に握られていた骨の剣が震えだし、意思を持って少年の手から離れる。飛び出した剣は飛翔して氷塊の中に飛び込み、そのまま亀裂に突き刺さった。閃光が迸り、刃は氷に深々と突き刺さった。
ひび割れが次第に大きくなり、その隙間から白銀の光が漏れ出す。内部に蓄えられた熱量は解放の時を待ち詫びるかのように脈動し、それに呼応するかのようにパーンへの呪詛の侵食が減速し、やがて停止する。
「これは、『断章』が共鳴して――?!」
いつの間にか、パーンの背後に浮かび上がった『技能の断章』がコルセスカの呪力に呼応して光輝いていた。
支配の呪詛は停滞し、義肢と化したラクルラールとパーンの肉体を融合させていた青い血液は凍結してその流れを止めている。
「そうか、氷血呪の力を無理矢理に引き出して融血呪を中和したのか――」
ヴァージルの瞳に浮かぶ理解の色。
そして、パーンの本来の目的がヴァージルの打倒ではなく『こちら』であったことを遅れて認識し、顔に不快感を滲ませる。因縁深い敵対者が自分を『ついで』として扱っていたことに自尊心を傷つけられたのである。
血も凍るような殺意を向けられたパーンは不敵に笑ってみせた。
「これが氷血呪の本来の使い方というわけだ――断片ではあるが『覚えた』ぞ」
パーンに追従する『技能』の書が開き、白銀に重ねて藍色の光を放つ。人形の義肢に流れる夥しい青い血、絡みつく穢らわしい髪の毛がことごとく凍結し、確かな形を持つ固体となってパーンの支配下に置かれていく。もはやラクルラールはあらゆる認識を操作する神の如き支配者の化身などではなくなっていた。
「俺の世界は、俺だけのものだ!」
「子供の理屈を――!!」
幼稚な宣言を嘲ろうとしたヴァージルはその瞬間に己の失点に気付いた。
パーンは今、ヴァージルの呪いによって少年の姿にされてしまっている。
弱体化の術は、今この時だけ『幼い世界観』を強化する方向に作用していた。『使い魔』の奥義たる融血呪が『大人の社会』を押しつける禁呪ならば、『邪視』の奥義たる氷血呪は『子供の世界』を押しつける禁呪だからだ。
完全な裏目に舌打ちして後退するヴァージル。
反撃に出たパーンの呪力に押されて使い魔たちも押し退けられていく。
パーンの新たな右腕から放出されていくのはこれまでとは違う、藍色に輝く光線の群だ。全ての拘束を振り解いて飛び上がったパーンは失われた左腕を瞬時に『創造』すると新たな呪術を行使した。
「語られざる端役、死せる設定、無価値の資料集、ここに集いて瓦礫の竜となれ」
そこからのパーンの動きは、完全なる『未知』によって組み立てられていた。ヴァージルに辛うじて理解できたのは、それがオルガンローデであること、そしてそれが自分のものと同じ独自の改良を施した全く異質な『紀竜』であることのみ。その全容が明らかになる頃には、ヴァージルの使い魔たちの過半数はパーンによって駆逐された後だった。
一見して、そこには少年のパーンがいるだけだ。
だが彼を取り巻く文脈、そして背後に広がる設定圧はかつての比ではない。
そのオルガンローデの正体を理解したヴァージルは戦慄と共に叫ぶ。
「馬鹿な、『設定上の紀竜オルガンローデ』――そんな与太みたいな術を?!」
その竜に実体は無い。定まった形は無い。そもそも単一の術ですらない。
それは無数の設定の羅列だった。
『技能の断章』から吐き出されていく無数の技法、『サイバーカラテ道場』から参照した膨大な技術、そしてパーンの内から湧き出てくる来歴不明の藍色の呪力。
「技を借りるぞ――ミシャルヒ」
小さく呟いたパーンが静かに拡散したのは一つの原始的な呪文。とある幻姿霊が生み出したその術は、パスワードやソフトウェアのプロダクトキーなどを盗み出すことが目的のキーロガーなどと呼ばれる打鍵記録プログラムの一種である。指や視線、声帯や口の動きを記録し、眼球に働きかけて念写をキャプチャし、ネットバンク等の口座関連ウェブサイトでの活動状況を監視して入力フォームに偽装フィールドを追加挿入する。
この幻の入力フォームにパスワードを入力してしまったが最後、個人情報は攻撃者によって盗み出されてしまう。『サイバーカラテ道場』の厳重なセキュリティを突破して広がった不正なプログラムは大量の個人情報を流出させ、その全てがパーンの力となった。盗人の視界の隅で狸寝入りをしていたちびシューラが起き上がるといそいそと不祥事の隠蔽工作を図る。
『設定』を纏ったパーンの戦法は単純なものだった。
総当たりの物量攻撃。その場にいた適当な人材の技術を参照、再現してヴァージルにぶつけていくだけだ。
まず中傷者の『呪的発勁』から『コキューネー』、切り札の『炎天使』を試しながらも並行してベフォニスの『巨人の拳』を使用。『イアテムの呪いの剣』から『線の嵐』に加えてサイザクタートが幼馴染み以外には見せたことがなかった『極光の矢』を放ち、マイカールの『礫の雨』が広間を修復不可能なレベルで破壊していく。
内壁が砕け、いよいよ空間そのものが崩壊の兆しを見せ始めていたが、そんなことには頓着しない。『型』という名の肉体言語魔術で『遠当て』を放てばヴァージルの身体が吹き飛ばされ、反撃に射出された水晶柱は水流を纏った鞭が迎撃する。
矢のように飛翔したパーンは両手に『創造』した旋棍を握ってヴァージルに肉薄していく。
「寄せ集めの力などでっ」
竜に対抗すべく、ヴァージルは再び紀竜の力を解放する。
ロワスカーグの長い耳が呪力を放ってパーンの動きを妨げようとするが、不可視の力場によって呪的干渉が弾かれてしまう。単純な設定の物量。波濤じみた猛攻を処理しきれずに小さな兎がいやいやをするように首を振った。
打撃。旋棍が勢いをつけて風を切るが、ヴァージルの目の前にサイザクタートが割り込んだ。三つ首の虹犬は巨大な腕を伸ばして動作の起こりを防ぎに行く。
旋棍は手首のスナップで生み出される遠心力によって打撃を行うが、それゆえに支点を押さえられると弱い。棍というだけあって、棒や槍と同じように懐に入られると弱いという弱点を抱えているのである。
しかしこの旋棍は呪力の宿った『杖』だ。
【空圧】の呪力噴流が生み出す加速は本人の動きとは関係無く、自動的に旋棍そのものに推進力を発生させる。
加えて言えば、パーンの腕に尋常な人体の道理は通用しない。
無数の関節がうねる長い腕、その形はさながら蛇。
あらゆる防御をかいくぐって目標に到達する鞭にして多節棍、腕にして蛇の使い魔。『残心プリセット』の延長線上に存在する自律型多関節腕という奇拳がサイザクタートとヴァージルを打ちのめしていく。
「蛇腹拳、と言うらしい。これはとあるインドアユーザーの技術者と腕を失った武芸者が共同で開発したものだが――まあいい、『それはまた別の話』だ」
そう言って詳細な説明を省くパーンの腕に竜が宿る。
語られざるもの、その集合たる竜が。
『サイバーカラテ道場』が死蔵されていた設定の群れに評価を与えたことで、膨大な量の戦術パターンが追加されていた。個別の設定は無意味であり、本来ならばこの局面で役に立つことは無い。しかし、総体としてのサイバーカラテは確かに強化され、見えないところで『サイバーカラテ道場』の格と信用度は高まっていく。
その『見えないところで』というのを曖昧なまま形にしたのがパーンの使役している竜の正体だ。実体は無いが確かにそこにある『集合知幻想という権威』。
『どうやら積み重ねられているらしい実績』が具現化して、あるいは具現化しないままにパーンに力を与える。『技能』の書が司る権力の形は、『サイバーカラテ道場』の持つ一つの性質を誇張して権威化する。
設定を操る術――ヴァージルの知らない所でパーンが獲得していた新たな力により、状況は一変した。一気に劣勢に追い込まれたヴァージルは苦境を脱するべくロワスカーグに命令を下すが、長い耳の兎は儚く霧散してしまう。
「その術はもう『覚えた』――貴様の呪文は、もう効かない」
パーンの背後で輝く黒い魔導書が、対抗呪文『静謐』によって人工の紀竜を解体していた。続く呪文の展開を許さず、更なる『静謐』が嵐のようにヴァージルを襲い、その身を守る呪術障壁を片端から無効化していく。
いかに『断章』が強力な魔導書とはいえ、これほど強力な対抗呪文を高速で編むことは不可能に近い。相手がヴァージルほどの呪術師ならば猶更だ。
しかし第二断章『技能』に限っては別だった。
この『断章』はあらゆる呪術を習得し、杖の手法によって再現可能にする。
解析に時間がかかるという欠点はあるものの、六王の力すら摸倣するその汎用性は断章の中でも頭抜けている。
「俺が司る権力の形は『技能』――すなわち叡智の独占! あらゆる知識と技術は俺が使う為だけに存在し、俺の許可無しに使われることがあってはならない」
静謐の呪文が亡霊の使い魔を消し飛ばす度にヴァージルのアストラル界における支配領域は少しずつ後退していく。
呪文を唱えることができないヴァージルは、パーンの『杖』的な物理攻撃と物量による猛攻を防ぎきることができないまま打ちのめされた。跳躍して逃れようとするヴァージルを、冷徹な声が引き留める。
「空はこの俺の領域だ。飛行、跳躍、それを可能とする技術と知識の全てを俺以外が使う事は許さん――おい。誰の許可を得て俺より高みに立っている?」
兎が得意とする重力制御による大跳躍呪術が消滅。軽やかに跳ねていたヴァージルは鈍重な肉体の重みに呪縛され、窮屈な重力の手に捕らえられた。哀れなまでの失速、そして失墜。止めの宣言。
「頭が高いぞ野ウサギ風情が」
浮遊はおろか、跳躍するために足を撓めることすら許さない絶対の呪い。
傲慢な声が高みから落とされ、地に伏したヴァージルの真上にふわりと降り立つ幼いパーン。その足裏が、ゆっくりとヴァージルの頭部に乗せられる。
空の民の少年は驚くほど軽かったが、屈辱の重みはヴァージルの表情をかつてないほどの精神的苦痛によって歪ませた。
「く、何か、何か手は無いのか――っ」
苦境を脱するための使い魔を呼ぼうとして、既に亡霊も人形も無力化されていることに愕然とするヴァージル。最も頼りにしているサイザクタートもまた傷付き倒れてしまっていた。残りの使い魔たちはこの場には不在――否。あと一人だけ、万が一に備えて従えていた男がいたはず。少年はその名を呼んだ。
「イアテム!」
ヴァージルから離れてはいるが、同じ空間で襲撃者を迎え撃っていたイアテム。使い魔に身を落とした海の民の勇者が無事でさえあれば、パーンにぶつけて態勢を立て直す時間稼ぎができる――だがそんな思惑は脆くも崩れ去る。
水流によって形作られた刃が閃き、雲霞の腕が宙を舞う。
襲撃者にして傲慢なる贖罪の魔人、マイカールが呻き声を上げてたたらを踏む。追撃の呪文がその身を打ち据え、裂帛の気合いと共に放たれた激流が斬撃となって巨体を切り裂き、吹き飛ばしていった。
「我に貴様を助けろだと? 馬鹿を言え。貴様が劣勢に置かれた今こそ千載一遇の好機。忌まわしい支配を断ち切り、弱った貴様の首を討ち取らせて貰う」
劣勢を覆し、その身に覇気を充溢させた勇者イアテムは剣の切っ先をヴァージルに向けて言い放つ。直前までマイカールに蹂躙され、貶められていたとは思えぬ堂々たる態度であった。そんな馬鹿なと呻く巨人は、再び同じ手口でイアテムを愚弄し、恥辱の底に叩き落とそうと試みる。しかし勇者は小揺るぎもしなかった。
イアテムの周囲から、声が響いていた。
彼の同胞たる海の民たちの声が。
男の足下に滴った血が水たまりを作り、顔を幾度も打ち据えられたことで面相は歪んでしまっている。咳き込み、喉から血痰を吐き出して苦しげに呻く。それでもなお男は不屈。激流の剣はさらに勢いを増し、その身から溢れ出す呪力は荒天の海原さながらだった。マイカールの反撃を一刀のもとに切り捨てて吼える。
「背中を押す声に応え、勝利を掴むが勇者の責務。同胞たちが我が勝利を信じる限り、我は決して倒れはせん」
「玉無しの負け犬風情が、弱者は弱者らしく振る舞え、図々しいぞ!」
マイカールの怒りに満ちた呪詛が暴風を巻き起こし、イアテムの全身に叩きつける。かろうじてその身に張り付いていた布はぼろきれ同然となり、そのまま引き裂かれて吹き飛んでいく。露わになった傷だらけの裸身、そして痛々しい『その場所』を指差してマイカールが憐れみを込めて言い放った。
「強がりはよせ。無理をする必要は無い。勇者だ何だと言ってもお前は可哀相な傷病者でしかないのだ。跪き、媚びを売り、我が贖罪に感激してこの罪深き身を許すがいい。いや許せ。許せ許せさっさと許しを寄越せこのゴミ虫が貴様らのせいでどれだけ苦しんだと思っている被害者気取りもいい加減にしろ」
血走った目で喚き散らすマイカールの巨体は徐々に縮み、威圧感のあった顔は細かい皺だらけになり表情は卑しさを纏ったものに変化していく。極度に狭まった視野、己の世界の中だけで完結していく気質、もはやマイカールは巨人の名にふさわしからぬ存在に堕ちようとしていた。直視することすら躊躇われる相手を前に、しかしイアテムは怯まない。
「確かに、この身と魂には癒えぬ傷が刻まれている。だが傷と恥がどうした。我が弱き心が誇りと強さを信じられなくなったからどうだというのだ。家族が我を信じている。ならば我は家族の信じるこの身の猛々しさを信じよう」
傷付いたイアテムを、配下の海の民たちが支えていた。
彼を信じる声援がイアテム自身の『強い自分』の確信に繋がり、折れそうな心の炉心に火をくべる。燃え立つ意思が誇らしい宣名を呼び起こしていった。
「我こそは勇者イアテム! 南東海にその人ありと謳われた男の中の男である!」
圧倒的な宣名圧によってマイカールが吹き飛ばされる。
雄々しく胸を張り、恥じることなく腰に手を当てたイアテムの『その場所』に途方もない呪力が集中し、光輝いていった。声援を送る海の民らの視線が、『邪視』がイアテムの局部を太陽の如く煌めかせていく。
彼らは痛ましい傷を見て憐れんでいるのではなかった。
無惨な虚無を眺めて悲しんでいるのでもない。
瞳に浮かぶのは称賛と羨望。
発せられるのは感嘆の溜息。
彼らは口々にイアテムの『それ』に言及する。
「なんと雄々しい」「見ろ、イアテム様のご立派な妙品を」「流石は男の中の男、あの下腹の逞しさときたら」「あれぞ男児の象徴、戦士たる証にございます」「素敵、抱いて!」「見ろ、マイカールの奴め、我らが勇者の雄々しさに気圧されているぞ」「イアテム様と違い、さぞ粗末なものをお持ちなのだろうよ」「ほらアンタも」「えっいや知らないし――あ、嘘です見えますわーすごーいおっきいしー多分レオくんの三倍くらいあるしーはっレオくんのかわいいナニがアレでじゅるり」「男根!」「男根!」「男根のイアテム、万歳!」
仲間たちからの男根コールにより存在しない男根が世界に幻視され、『雄々しい』『立派』『見事』と褒めそやされる度にイアテムは男性としての自信を取り戻していく。声援に呼応して下腹部の輝きが増し、巨大なオーラのような呪力が膨張し、屹立していく。
伸び上がった呪力がマイカールを打ち据え、肛門から入って口までを貫き通す。イアテムの刃が串刺しにされたマイカールの四肢を無造作に切断し、服を引き千切って裸身を晒すとその全身に少しずつ傷を刻み付けていった。イアテムはマイカールの下腹部に刃を突き立てて言った。
「償いの方法を教えてやろう」
止めろ、という声は口の中に押し込まれたものによって押し留められた。
血の味と激痛に呻くマイカールだが蹂躙は終わらない。海の民たちが発する呪いの数々が傷口から侵入して体内を責め苛み、無数の槍が肌を赤く染める。族誅呪術が三親等以内の血縁へと触手を伸ばし、イアテムの呪力が『地上』と『槍神教』という絶対的加護を突破してマイカールの家族を虐殺する。
平和な日常を惨劇が襲い、脳を焼かれる苦しみに絶望しながらエルネトモラン市に凄惨な屍が生まれる。超呪力で自らを蘇生させ続けるマイカールは、家族と己が無慈悲に殺される瞬間を延々と再生しながら窮地から脱出しようと試みるが、その度に苦痛と絶望に心を折られて死に引き戻される。
刑場の晒し者として未来永劫苦しみ続けるマイカール。その姿を海の民たちはいい気味だと唾を吐き、石を投げて溜飲を下げる。報復により一致団結した海の民、それを束ねたイアテムは剣を高らかに掲げてヴァージルへの叛逆と、今一度この第五階層に覇を唱える事を宣言した。
パーンに頭を踏みつけられ、最後の使い魔にも裏切られたヴァージルにもはや打つ手は無い。イアテムらの反撃を醒めた目で見ていたパーンは足裏に力を込めてヴァージルを見下ろした。
「どうやらここまでだな。茶番にしてもつまらないが――貴様を殺して奴らも潰す。俺は『自由』を手にして帰るとしよう」
追い詰められたヴァージルは表情を歪ませて、震え続けるばかり。
小さな呻きは嗚咽のようでもあり、怨嗟の声のようでもあった。
角度的に少年の表情はパーンには見えない。
だが、その様子を遠くから伺っていた中傷者にはヴァージルの表情が見えていた。赤い瞳が黄色く輝き、どうしてか消えたはずのロワスカーグがぼんやりとその半透明な姿を具現化させようとしていた。
いい知れない悪寒にファルの身の毛がよだつ。
「く――こんな時に、お前も、お前も、出て来るな――っ」
錯乱したように何かを呟くヴァージル。
ファルは何かに気付いたようにはっと目を見開くと、自らを追いかけていたベフォニスの視界をジャックして進行方向を操作。実は疾うに戦いは決着しており、逃げ回っている振りをして反撃の機会を窺っていたのだ――ファルの展開した偽装空間がベフォニスの認識を完全に掌握し、本人は正常に動いているつもりの拳打がヴァージル目掛けて叩き込まれる。
飛び上がって回避するパーン、避けきれずに砕けた床にめり込むヴァージル。
続けてファルはその両手を広げてヴァージルを見据えて叫ぶ。
「言理の妖精語りて曰く――チャンスは逃さない。君を単純化したまま解体する」
存在を掌握して解体する。
呪文の奥義が色のない輝きを放ち、起源を辿る遡りの呪文が唱えられた。
ファルの歌がヴァージルの過去を切り取り、分解し、取捨選択してファルの眼鏡越しの『狂王子』を再構築していった。
混じりものめ。
罵声はいつも密やかに記される。
兎たちは憎悪や侮蔑を囁くのではなく書き記し、ネットの海に放流して悪意を拡散させることが得意だった。今や太陰に真なる純血などおらず、妖精と兎の血は不可分であるにもかかわらず――否、だからこそ切断は行われた。
血塗られた『大破局』『歴史破壊』あるいは『言震』と呼ばれた未曾有の大災害によって太陰の居住区画は機能維持が困難なほどの人口減に見舞われた。当時の月王は人格転写直後の未熟個体ではあったが隣国のアヴロニアに働きかけて大規模な移民受け入れを実行し、国力の回復を成功させた――無数の火種を内側に抱え込みながら。兎と妖精たちの太陰は表向き平和に、しかし裏には亀裂を隠しながら維持され続けていく。王宮でもそれは同じだった。
ヴァージルと呼ばれた美しい王子がいた。
彼は無数の思惑が渦巻く王宮で幼い心を翻弄され、極めて歪んだ形でその精神を成熟させていった。彼が飛び級で入った大学でまず専攻した学問は『優生学』であったという。過激な思想を掲げるインターカレッジサークルに参加し、後に呪術結社を設立。その思想は体制批判に留まらず実践にまで及び、王宮内にすらその影響力は及んでいた。
そしてクーデターが発生する。
現体制に反旗を翻したヴァージルは自らの思想に賛同する者たちを率いて王宮を占拠、妖精たちを一箇所に集めて恐るべき呪術儀式を行おうと試みた。それは一つの種族を根刮ぎ絶滅させる呪いであったと伝えられており、同時に自らが兎たちに及ぼす支配力を絶対のものにする欲深き術であったとも言われている。
しかしながら兎の戦士たちと当時の月王、そして偶然にアヴロニアから視察に訪れていた長命種の光妖精の手によって狂王子の野望は未然に挫かれることとなる。悪は挫かれ、正義が勝つ。物語の筋通りに予定調和の結末を迎え、ヴァージルは永劫の呪いに縛られて地上へと追放された。『地に堕ちて穢れよ』という呪いと共に、高貴な血の王子は流刑の身となったのだ。
――中傷者は自らの知り得る限りの知識を語り、彼にとっての『狂王子』を紡いで目の前の少年に貼り付けた。六王ヴァージルは血統主義に被れた良くいる手合いの虐殺者、その奥には何も無い――赤い瞳の奥から湧き出てくる月色の輝きに蓋をするように呪文を注いで形を固定する。
「穢れきった君に先は無い。その潔癖さで自分の穢れた身を否定するといい!」
ファルの必死の呪詛――いっそ懇願じみた叫び。
言理の妖精が放つ灰色の呪縛帯によって拘束されたヴァージルは虚空を見つめ、焦点の定まらない瞳で何事かを呟いている。
『過去、歴史、再演――そうだ、あれが全ての災厄のはじまりだった。父様の再演呪術。あれのせいで『本体』との接続が。兎風情が、純血種の王であるこの僕に――これじゃあ浄化も統合も思い通りに行えない。僕はただ太陰を、清浄なる天の楽園を素晴らしい理想郷にしたかっただけなのに」
「消えろ、差別主義者! 太陰は兎と妖精とが共存する場所だ! お前のような亡霊は必要ない!」
今の太陰に生きるファルは憎しみを込めてヴァージルを否定する。彼にとってヴァージルは許し難い絶対悪であり、反駁すら許さずに抹消すべき忌むべき過去でしかない。そうでなくてはならなかった。だがヴァージルは向けられた憎悪に負けない――むしろそれを上回るほどの悪意を瞳に込めて返す。
「僕はただ王国をより良い場所にしたかった――あの、汚濁だらけの汚い太陰を。今のこの世界、第五階層、ああ、ガロアンディアンみたいなさあ。そういうのが本当に本当に本当に我慢できなくて、できなくてできなくてできなくてできなくて」
真っ白な肌に、うっすらと浮かぶ黒い血管。
呪紋のように肌を這い回るそれは秘境の部族たちがボディペイントを行うような密度で白い肌を覆い尽くし、漆黒のインクに塗りつぶされた少年の全身が痙攣する。兎の少年は存在全て、血の一滴に至るまで呪われていた。
黒い血。夜闇の如き水。
血管は複雑に蠢き、力ある異界の文字となってヴァージルに苦痛を与えながらも絶大な呪力を与え続けていた。白目を剥いたヴァージルはファルの攻撃ではなく、己の身にかけられた何らかの呪いによって苦しんでいた。
「ああ、母様、母様、どうして、僕を――」
――裏切ったのですか。
そんな言葉を最後に、ヴァージルの意識が途絶える。
反旗を翻したイアテムの斬撃が、ファルが操るベフォニスの拳が、ファルの解体呪文が、そしてパーンのオルガンローデが、嵐となって剥き出しになったヴァージルの表層人格を砕き、再起不能なまでに打ちのめした。
決着と共に戦場の天空に幻の大剣が浮かび上がる。
具現化した僣主殺しの刃は支配者の資格を失った者をその王国諸共に断罪する。
糸がぷつりと切れて、巨大な質量がそのまま堕ちる。
かつて狂王子が地上に失墜したのと同じように。
『ダモクレスの剣』は完膚無きまでにヴァージルの王権を破壊した。
「俺の勝ちだ、ヴァージル」
勝利宣言と共にその力を周囲の有象無象に向けようとするパーン。
その背後から、穏やかな声が響く。
「見事な勝利だったぞパーン。ゆえにお前の役割はここまでだ」
幼い胸が血を吹き出し、細い手が心臓ごとパーンの魂を貫き砕いた。
血塗れの手は球体関節の人形で、返り血に染まった髪はそれでも紅紫の艶やかさを保ったまま。パーンの背後にいつの間にか立っていた何者かは、男とも女ともつかない声で続けた。
「役目を終えた人形は舞台から退場するものだ。疾く捌けろ」
断末魔の声すら上げられず、不可視の斬撃によってその身を細かな肉片に変えられるパーン。極めて細い糸を操る男は隻眼を眇め、周囲を睥睨する。どぶのように濁った邪視が無造作にヴァージルだったものを襲い、その魂を糸で絡め取った。
「やめろ、これ以上彼を傷つけないでくれ!」
少年の前に立ちはだかったのは三首の番犬サイザクタートだった。主の意思を無視して強引に顕現したことで自己の存在を毀損し、その姿はラグでちらついて今にも消えそうなほど弱々しい。襲撃者は健気な忠犬にも容赦をせず、無造作に糸を手繰って仮想使い魔を引き裂いた。
男根城に降り立ち、瞬く間に場を掌握した者の名をどう呼ぶべきか、誰もが図りかねていた。複数の六王を打倒し、『健康』と『技能』すら略奪して幾つもの断章を背後に従える王ならざる王。アルト・イヴニルと名乗った魔女にして人形、人形にして竜。手繰る糸が呪力を帯びてサイザクタートから、ヴァージルから、パーンから『何か』を吸収していく。不死者たちへの『解答』のひとつ、存在の吸収を行っているのだ。パーンがラクルラールに対してしたように。
アルトの歩みを誰も止められない。
彼は部屋の奥に辿り着くと、巨大な氷塊の前に立った。
氷に突き刺さった骨の剣――クレイと呼ばれていた存在に手をかけると、無造作に引き抜いた。すると同時に氷が砕け散り、力無くコルセスカが床に倒れる。
「ベルグ。女王をお連れしろ。丁重にな」
「わかったよー」
暢気な声と共にアルトの背後から巨大な影が現れる。
血に汚れた古びた全身甲冑。藍色の戦鎚を背負ったその姿は見るものを威圧する純粋な質量の暴力だ。騎士は意識のないコルセスカを抱き上げるとアルトの背後に控えた。隻眼の男は血のような髪を靡かせて周囲を睥睨する。
「断章は得た。門番の権能もまたこの手に――これで冥道は私のもの」
骨の剣を床に突き立てたアルトの傷付いた瞼が震える。
閉ざされた方の目がゆっくりと見開かれ、月色の光と共に解放された。
傷の中から現れたそれは月の宝石。
十字の形をした瞳が黄色く輝き、口元にはどこか少年じみた幼さの笑みが浮かぶ。アルトの魔糸はヴァージルの亡骸から形の無い何かを吸収し続けており、それが彼の変貌を引き起こしているのだと知れた。
気付けばその右腕にも変化が訪れている。人形の腕を『創造』の光が覆い、機械的な鎧のような装甲が追加されていく。変化は構造そのものにも及び、アルトの右腕は関節を無数に持つ長い義肢へと作り替えられた。
怒濤の如き展開に誰もが言葉も無い。
海の民たちは突如現れたアルトに警戒の視線を向けて呪術を構成しつつ互いを守ろうと身構える。そんな彼らを十字の瞳が見下ろして一言。
「下らない」
あからさまな侮蔑に気色ばむ戦士たち。
イアテムの刃がアルトに向けられるが、それを一顧だにせず魔糸使いは指先を複雑に動かして何かを手繰り寄せようとしていた。
「家族、絆、英雄像、戦士たる家父長、男根と剣――ああうんざりする。だが儀式の遂行についてはご苦労様だ。劇の中に於けるお前たちの役目は終わった。退場しろ陽根の担い手ども。既にクレイはお前たちの呪力を『覚えた』――三手の副肢を削ぎ落とし、主肢に全ての力を注ぐ時だ」
「わけのわからぬ事を――」
もはや我慢ならぬとイアテムが剣を振るおうとしたその時、アルトの指先が動きを止める。響く呼び声が全てを終わらせた。
「殺せ、ガルラ」
「そうだね、殺そう。皆殺しだ」
いつの間に現れたのか。
朱色のローブを纏った長身の呪術師がアルトの背後から進み出て、同じく朱色の宝玉が嵌められた杖を掲げる。フードに隠された顔は闇に覆われて窺えないが、その内側から放射される殺意はその場にいる全ての者に絶望をもたらした。
ガルラと呼ばれた呪術師が放った絶大な呪力は無数の光線となって中空を走り、海の民たちを次々と殺戮していった。たった一撃でその頭頂部から足下までを貫かれ、そのまま眠るように意識を失って微睡みのままに消えていく。最期の瞬間、彼らは故郷で幸せに暮らす穏やかな夢を具現化し、その景色の中に溶けるようにして消滅していった。
即死の呪いが海の民たちを一瞬にして壊滅させていた。例外はファルに突き飛ばされたセージと、『公社』の部下たちに庇われたイアテムのみ。
ファルはベフォニスを操作してけしかける。だがアルトが腕を一振りすると岩肌の大男の全身は無惨に引き裂かれて倒れ伏した。
同胞を殺されて激怒するイアテムが反撃しようとするが、手も足も出ていない。
自らの分身を使い魔として解き放ち物量攻撃を試みるも、時間稼ぎにしかなっていないのだ。彼我の実力差は圧倒的だった。
しかし、それでもイアテムは撤退を選ばなかった。
無数のイアテムの一人がただ一人残った同胞――セージを見て、それから少女を庇うファルを睨み付ける。
「癪に障るがやむを得まい。そこの中傷者、セージを頼むぞ」
眼鏡の少年はぎょっとして顔を強張らせた。
イアテムは仇敵だ。そんな相手に助けられて逃げる時間を得るということが、ファルの心に躊躇いを生んだ。
そしてそれはセージにとって同じ。
復活したばかりの再生者――ようやく再会がかなった『公社』の仲間たちの無惨な姿を見て、セージは「でも」と何かを言おうとする。イアテムの怒声がそれを遮り、少女は身を竦ませた。
「口答えするな、殴られねばわからんか!」
セージは男の怒声に怯えて縮こまってしまっている。ファルは怒りに打ち震えた。「これは我の戦いだ。女子供はおとなしく守られていろ」などと調子の良いことを言うイアテムが許せなかった。この男は窮地に陥った時にセージを無理矢理に戦わせた卑劣漢だ。それがどの口で「セージを頼む」などと言うのか。
だがファルは苦虫を噛み潰したような表情で「お礼は言いません」と吐き捨てると逃げるようにセージの手を引いた。この場で自らの怒りを露わにすることに意味は無い。未だ迷いを残しているセージを強引に引っ張ってその場から離脱する。
その姿を見送ると、イアテムは生き残った同胞を逃がすためにアルトに立ち向かい、無惨に引き裂かれていく。
夥しい数のイアテムが散り、水となって床を塗らしていく。
そんな中、戦場に乱入する影があった。
稲妻のように壁を走り、倒れ伏したヴァージル――既に物言わぬ骸となった狂王子を抱き上げてその場から離脱を試みる。アルトの邪視とガルラの呪術が追撃するが、そのことごとくが展開された障壁によって遮られた。
ビーグル犬の若者がヴァージルの遺体を抱いて走る。
すでに狂王子は絶命している。再生者に訪れた完全なる滅び。しかしレミルスの目はまだ諦めに染まってはいなかった。
「よし、片方だけだ。『彼』さえ無事ならまだサイザクタートも再現できる。他の『司書』と合流さえ出来れば!」
裂帛の気合いと共に放たれた雷撃がアルトたちの攻撃を一瞬だけ押し退けた。レミルスは訪れたときと同じように稲妻の如き速度で疾走。ヴァージルの屍を抱いたままその場から離脱した。
「逃がしたか。まあ良い。王権を失ったヴァージルは『断章』を巡る戦いに参加する資格を失った。今回の舞台にはもはや奴の居場所は無い」
アルトは十字の瞳を閉じながら言った。
もはや彼に歯向かう者は一人として残っていない。
背後に従える魔導書は合計で六つ。
『技能』『地位』『健康』『道徳』『愛情』『生存』――残りは『杖の座』が保有する『知識』と『呪文の座』が保有する『富』だけだが、アルトはその二つには頓着しない。暗く濁った瞳は足下の影を見据えていた。
「これで儀式が執り行える」
「やったねアルト! あとはカーティスから『尊敬』を奪うだけだよ!」
「そうだね、あと少しだよ。頑張ろう」
左右から騎士と呪術師の人形が声をかけてくる。
アルトは少しだけ表情を柔らかくした。
「残るは一人と一振り。六王の因子は揃いつつある。私の完成は近い」
握りしめた骨の剣とベルグが抱く冬の魔女を交互に見て、アルトはどこか遠い目をした。死闘の末に疲弊した両者を討ち取り、最大勢力となったアルト・イヴニルは今の所もっとも勝利に近い王だ。しかしその表情は陰鬱な諦めに満ちている。
そんな彼の心をまぎらわせるように、左右の従僕たちが明るく騒ぐ。
「全ての権力をアルトの手に集め、冥府の霊廟で儀式を完遂すれば、この世に満ちる支配の呪い、王国の鍵が手に入る!」
「パーンが主だったラクルラールを片付けてくれた今こそが好機。儀式の瞬間が勝負の時だよ、僕たちのレッテ」
二人の言葉に頷いたアルト、あるいはアレッテは、剣を握っていない方の手を翳した。人形の指に絡みつく、透明な青い糸。か細いそれはどこかから絡みつき、その動きを支配している。六人いるラクルラールのうち半数が脱落した今もなお、最上位に君臨するラクルラールの支配は続いている。
第六位であるアルト・イヴニルもまた、その支配から逃れられない。
全ては予定調和であり、運命によって定められた脚本通りの展開に過ぎない。
退屈と諦めに倦んだ暗渠の瞳が揺れる。
出し抜けに骨剣が振るわれた。
青い糸が切断され、束の間だけ人形は糸から解放される。
即座に虚空から出現した青い糸がその身を支配しようとするが、糸が絡みつく直前の一瞬、アレッテは小さく呟いた。
「待ってて、ネッセ。もう少しで」
糸が絡みつき、どぶのような瞳が諦めに染まり切った。
アルト・イヴニルは紅紫の髪を靡かせながらその場を立ち去る。
骨の剣を携え、幾多の魔導書と人形の従僕を従えながら。
氷のような姫君は何故か眠りについたまま、覚醒の時を先延ばしにしていく。
薄い唇がかすかに動き、「あと300秒」と寝言を紡いだ。
男根城と呼ばれていたその場所から命の気配は消えた。
廃墟となったその場所を呪術灯の光だけが照らす。
もはや何の意味も持たない役目を終えた舞台――そこに、黒衣が舞い降りる。
フードの内側には長い髪の青年――あるいは女性。
どちらともつかない中性的な面差しは夜の民特有のものであり、それは男女どちらでもなくどちらでもあるということの証明でもあった。
「動けるか、パーン」
「気配は感じていたが、まさか本当にお前だったとは。変わらないな、ミシャルヒ」
夜の民は死者の名を呼び、死者は当然のようにそれに応じた。
殺害され、存在をアルト・イヴニルによって吸収されたはずのパーンは何事も無かったかのようにミシャルヒの隣に立っている。幼くなった状態のままだが、取り立てて不便は感じていないらしい。失われた腕を『創造』した腕で補っているのも『杖』の力が衰えていない証明だった。
「余計な手助けだったか?」
「いや、今回ばかりは助けられた。お前相手に謙虚に振る舞う事を惜しむ気も無い。感謝してやる。俺の窮地に駆けつけられた幸運を喜ぶがいい」
あくまでも尊大に振る舞うパーンはその姿も相まってどこか幼い。
ミシャルヒはわずかに目を細めた。
「そうしていると、出会った頃を思い出すな」
「馬鹿を言え。俺がお前と出会ったのはもう少し背が伸びてからだ」
「そうだったか?」
のんびりと昔話に興じる二人。
死を潜り抜けたというのにそんな雰囲気は微塵も感じさせない。
昔なじみと出会って旧交を温めている。ただそれだけの光景だった。
「それにしてもアルトの奴、取り込んだ俺が『二重存在』であったことに最後まで気付かなかったな」
「完全に同一だからな。実際の所、奴の目的が『六王を取り込む』ことであるとすればそれを達成されている。もう一人のお前は確かに死に、奪われたのだ」
幻姿霊であるミシャルヒはある幻想の原型を映し出す存在だった。ドッペルゲンガーと呼ばれる『もう一人の自分』の言い伝え。
確かな形を持った幻想を自在に具現化するその能力によってミシャルヒは『もう一人のパーン』を生み出したのだった。
「それで、パーン。お前はこれからどうするつもりだ? 再び戦いに身を投じるつもりなら、ここで別れることになる。私は私で今の主から別命を帯びていて」
「今の主? おい誰だそれは」
聞き逃せない、という風に険しい顔でミシャルヒを睨み付けるパーン。
夜の民は少し気圧されたように下がって、
「ジャッフハリムの聖妃、レストロオセ様だ」
と言った。たちまちパーンの眉が危険な角度に吊り上がる。
「レストロオセだと? あの穢れた化け物に仕えるとはどういう了見だ、とうとう知能がバグったのかお前は?」
「いや、話せば長くなるのだが今のレストロオセ様はあの頃とは違うのだ。いや、あの頃のおぞましい怪物も名を変えて我らと共に天獄と戦っているのだが」
「もういい。説明下手のお前やオーファの言葉を聞いているとイライラしてくる。カーインがいれば話は早いが、とにかく今はいい。どこか休める場所に案内しろ、話はそこで追々聞くことにする」
肩を怒らせながらその場を立ち去ろうとする幼いパーン。
声にどこか疲れたような気配を感じ取って、ミシャルヒは確かにと納得してその場を移動することに決めた。自然、パーンの一歩後ろをついていくような形になる。背後から近くに用意している隠れ家のマップデータを眼鏡端末に送信。
パーンの眼鏡に表示される『サイバーカラテ道場:道案内アプリ』の文字。拾ってきたベフォニスのアストラル体をナビゲーターのちびシューラと交換してちびベフォニスに変更。アストラル義肢の制御AIとして運用する。
「私からも礼を言おう。ベフォニスはお前が回収してくれなければ完全に消滅していた。アストラル体だけでも生き延びることができたのは幸いだ」
「使えそうだったからな。こいつは俺の右腕と相性がいいようだ。しばらくは使わせてもらうぞ」
あくまでも利己的な理由。
たとえ二重存在が消えたとしても、パーンという絶対なる個我は唯一無二だ。
尊大に振る舞うパーンを見て、ミシャルヒは問う。
「パーン。敵に報復するつもりか?」
「いいや。今回は俺の負けだ。『断章』を奪われたのだから潔く負けを認めて引き下がるのが勝負のルールというもの。しばらく高みの見物と洒落込むつもりだ」
意外と言うべきか、あっさりと第五階層を巡る戦いから身を退くことを宣言するパーン。ミシャルヒは驚きに目を見開くが、パーンは馬鹿馬鹿しそうに手をひらひらとさせて続けた。
「それに、ラクルラールを取り込んだ瞬間にこの『喧嘩』の意味が分かった。付き合うだけ馬鹿らしい上に首を突っ込むのは野暮というものだ」
幼い表情に浮かぶ感情は呆れの色が強い。
もはや興味は無いとばかりに『断章』や『王国』、そして『女王』といった物語の中心に手を伸ばすことを止め、移り気な瞳は次なる獲物を探して期待に光る。
「こんな茶番よりもっとふさわしい舞台で暴れたいものだ。たとえばだ。近々、第五階層の外部まで巻き込んだ派手な祭りがあると聞いた」
「歌姫の来訪か」
ミシャルヒが答える。彼もまたその催しに対して何らかの思惑を秘めているのか、表情に暗い色彩が混じる。それには気付かぬまま、パーンは楽しげに言った。
「地上が絡めばクロウサー本家も動く。子孫どもとの勝負はその時までお預けとしよう。祭りは盛大な方がいい」
そこまで言うと、パーンは糸が切れたようにふらついて前のめりに倒れる。
小さな身体を柔らかく支えたミシャルヒはそっと少年を抱き上げた。
激戦による消耗はパーンの想定以上に『少年であるパーン』に負担をかけていた。目覚めた後、計算違いの昏倒を知ればきっと彼はそれを恥と感じて八つ当たりのようにミシャルヒを詰るだろう。その子供じみた表情を想像して、夜の民は淡く笑った。抱き上げた身体は羽のように軽い。
「おやすみ、パーン」
それから、出会った時もお前はこんな風に小さかったよ。
囁きは影の中に溶け、二人の姿は幻のように消え去った。
廃墟に残るものは、今度こそ何も無い。




