4-43 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ10
滅びの先に、違う未来があることに気付く。
回帰を繰り返す中、オルヴァは色違いの賢者たちと様々な知恵を交換し合った。
そうして得たのは異なる未来を手繰り寄せる術。
オルヴァは好奇心に負け、罪深い行いと知りつつ予見をねじ曲げてしまう。
それはブレイスヴァの大顎から逃れる未来。
キシャルと生きるという、もう一つの結末だ。
死せる者たちの王国、再生者の楽園、その名は死人の森。
生の躍動と死の儚さ、誕生の喜びと末期の悲しみ。
そこには彼の愛する全てがあった。
「だがこれは冒涜ではないのか。再生者とは、ただの怠惰な繰り返しなのでは?」
終わるからこそ美しいものもある。滅びが常に傍にあるだけでは、生と死はつまらないものに堕してしまうのではないか。
オルヴァは危惧を抱きつつも、暖かな慈母の抱擁から逃れられずにいた。
大いなる女王は母のようであり妻のようでもあり、オルヴァに原初の安寧を思い起こさせた。幼い頃に飲み込んでしまった乳首――失われたあの優しさが、女王には備わっている。しかもそれは、貪ったあとでもそこに残り続けるのだ。
生きている死として、死に寄りそう生として。
オルヴァは求めた。矛盾の中で、彼女を愛し続けた。
いつだったか、ルバーブと滅びについて話したことがある。
正確には、破壊と創造について。
彼は友であり、弟子でもあった。ルバーブは自らの主の創造がいかに美しいかを説き、オルヴァはそれらがいかに美しく終焉を迎えるかを力説した。美しきマラードの求める煌めきも、やがて失われていく。
燃え尽きる流星が見せる最後の輝き。
オルヴァは転倒した主従にそんな儚さを感じていた。
ラフディの王とは共感することもあれば反発することもあった。
思えば六王たちとはずっとそんな関係性であったように思う。
オルヴァは、そんな時間がさほど嫌いではなかった。
永遠の王国。
その夢の中で、オルヴァは生前のように民に役目を与えていた。
起き上がったカシュラム人たちは自分が未だブレイスヴァの口の中にはいないことを理解して、やがて訪れるブレイスヴァを恐怖した。そんな彼らの絶望と恐怖を紛らわせるために、様々な役目や職業を割り振っていく。それらは全てブレイスヴァへの恐れを紛らわせるための麻薬なのだった。
オルヴァはその権能によって『死人の森』における地位を定めた。
頂点に『上王』たる冥府の母。
その下に六人の王。
それは秩序を定め、権威を生み出し、『王国』の礎となった。
オルヴァは自らの強大な力と叡智を『王国』という枠組みに浸透させていく。
上から下へ、滴り落ちる聖なる油。
聖油の王と『王国』はふたつでひとつ。
彼は人を超え、時空を超え、歴史と同化していった。
死せる制度、腐乱した地位、頽廃の秩序、内破されるべき権威。
生と死を繰り返す、永遠の王国。
それがオルヴァという存在だった。
オルヴァ王の生み出す腐敗は破滅を招く。
ゆえに他の王たちは彼を幾度となく殺害した。
カーティスが無視できないほどの病巣を複製。
パーンが自由と解放を謳って現行秩序の全てを破壊。
ヴァージルが暴走した再生者たちの粛清と洗脳を実行。
アルトが正義と悪とを切り分け、順守すべき道徳を再定義。
マラードは焼跡に新たな都を創造、ルバーブがそれを固定。
大いなる母はそれを見守り、優しく赦しを与えた。
オルヴァはそのたびに死に、生まれ、滅び、復活した。
そのようにして『王国』の季節は巡っていく。
王国における地位を定め民草の天命を示していく中で、オルヴァはあることに否応なく気付かされた。彼さえその気になれば六王における最上位をオルヴァ自身に定め、他の王たちを下位に置くことすら可能。だが『母』だけは違う。
『母と子』であることはあらかじめ定められている。
それを変えることはできない。それは時のことわり、因果のさだめだ。
永遠不滅、滅びも循環も無い運命そのもの。
「本当に?」
オルヴァはそれが知りたくなった。
ブレイスヴァでも滅ぼせないものがあるなどと考えたことは無い。
だから自分の本心がどちらなのか、考えるまでもないと思っていた。
『母子』という関係性の終焉か。
それとも、永遠の『母子』で居続けたいのか。
愛か、恋か。
母は妻のようで、妻は子宮のぬくもりのよう。
その『地位』は――『家族』とは、果たして。
全てのものはブレイスヴァの前に滅び去る。
ならば、自分たちは何であるのか。
問いを虚空に投げかけて、オルヴァは静かに思惟の中に沈む。
『上』――というのは物理的な上方でも二大勢力の一方のことでもなく、観念的な『上位』のことだが――から巨大な気配が降下しつつあった。第五階層で様々な思惑を巡らせる者たち全てを押し潰さんばかりの呪的なエネルギーが、流体のように滑らかに、しかし階層中央の『海』とはけして混ざり合わずに世界を外側から覆い尽くしていった。
聖なる名はしだいに鮮明となり、厳かな宣名が世界に浸透する。
そして、聖油が滴り落ちた。
まずはアストラル界。不滅にして永劫の賢者、その魂が構築されていく。
しかるのちにマテリアル界の依り代に降霊し、転生者あるいは再生者として再臨を果たす。魂、アストラル体、精神、意思、そうした心的現象が形を成していき、『器』である『件』の神経細胞を組み替えようとする。だがその寸前、少年の声が柔らかく響いた。
「駄目だよオルヴァ。不変の秩序、永遠の安寧こそがあるべき『死人の森』なんだから。その理想は僕たちの姫君の否定でしかない。二者択一なんてばかばかしいよ」
アストラル界にふわりと降り立ったのは狂王子ヴァージル。
彼はオルヴァの魂へ誘うように幻影の手を伸ばすと、甘い睦言を囁くように呪文を吐き出した。シナモリアキラと同化するなど馬鹿馬鹿しいと嘲笑う。
「お母さんに恋して、お母さんを愛してあげればいいんだよ。僕たちはもう、永遠のお腹の中にいるんだから」
血のような瞳が妖しく揺れる。
ヴァージルは織り上げた呪文を束ねて幾つもの六角柱を作ると、それらをまとめて肩の上に持ち上げた。ジェスチャーに連動して浮遊する呪文柱。振りかぶり、全身を使って投げる。投槍となった呪文は鋭くアストラル界を飛翔して、完成しつつあったオルヴァという巨大な構造物の中に食い込んだ。
シナモリアキラの一人、『件』を器として降臨し、かの紀人と同化しようとするオルヴァ。高次から低次へと降りるまさにその一瞬に生じた隙をヴァージルは見逃さなかった。呪文の楔はそのまま予言王への攻撃を開始する。
同時に狂王子の呪文が第五階層に広がっていく。
十二人のシナモリアキラとカシュラムの伝承にある我神十二限界――その果てにさまざまなヴィジョンとして立ち上がってくる十三人目。四方に配置された聖なる三が十字の中央に集める巨大な呪力が結晶化し、アストラル界に激震が走る。
カシュラム王降臨の儀式はヴァージルの画策によって歪められ、逆にオルヴァの方が紀人特有の脆さを突かれて存在が揺らいでいった。
少し前からサイバーカラテ道場には新たな戦術プログラムがアップロードされていた。それは巧妙に偽装された『ヴァージルの呪文』であり、利用することで知らず知らずのうちに紀人シナモリアキラだけでなくヴァージルの承認につながってしまうというものだ。
『サイバーカラテ道場』というアプリケーションにただ乗りして少しずつ呪力を掠め取る。通常の意味での命を持たない紀人に対する効果的な戦略のひとつ、『寄生』だ。ヴァージルはグレンデルヒのような乗っ取りは企てない。ただ密かに干渉し、自分の都合のいいように利用するだけだ。
オルヴァに対しても、シナモリアキラに対しても同じこと。この少年の紀人に対する意識は、『いつでも利用できる便利なツール』という程度のものでしかない。実際、紀人はパブリックドメイン的性質を持つ。
「オルヴァ。君はけっして僕に勝てない」
ヴァージルの背に水晶の板が出現し、放射状に広がった。
透明な石版、あるいは六枚の羽。その内側に閉じ込められているのは月明かり。アストラル界を照らし、狂気の呪力が溢れ出す。眩惑的な光が物質世界に漏れ出していくと、翼の内側に『下界』の様子が映し出された。
何らかの呪術を実行しようとしているヴァージルの動きを阻止すべく、オルヴァがついに動き始めた。その姿を曖昧に揺らがせながらも少年に向かって手を伸ばす。しかしそんなオルヴァのアストラル体に突如として裂傷が走った。
ヴァ―ジルの背後で、水晶の翼が一人の男の顔を映し出す。
複数のピアスに派手な染髪、愉快犯の殺人鬼『鎌鼬』は『大蛇』と交戦している最中に、何故か唐突に虚空に向けてナイフを振るっていた。
「お? なんか当たったんじゃね?」
何が起きているのか、殺人鬼は把握できていない。
しかし、確かに『鎌鼬』のめくらめっぽうなナイフ捌きは偶然にもオルヴァのアストラル体を切断していた。架空の痛みに呻くオルヴァ。ヴァージルに向いていた攻撃の意思が『鎌鼬』に向かう。不可視の『何か』が殺人鬼の真上でがばりと口を開けた。圧倒的な呪力を前にして、『鎌鼬』は真上を見上げてぽつりと呟く。
「あ、これやべーわ。マジ死ねる」
『鎌鼬』の行動は迅速だった。
ナイフが閃く。左腕を自ら切断し、禍々しい刃が切り離した腕に呪詛を刻み込む。左腕は感染呪術の法則に従って『鎌鼬』の使い魔として飛翔、呪波汚染を撒き散らしながら周囲の全てを手当たり次第に呪い殺そうとする。
直後、オルヴァの大顎が閉じて空間が圧縮された。
閃光が迸り、凄まじい爆発が一帯を吹き飛ばしていく。
跡形も無く消し飛んだかと思われた殺人鬼だったが、彼は生きていた。
切断した腕に刻んだのは自らの名。自分の一部を囮とすることで大顎の狙いを逸らし、その隙に手近なマンホールから下水道へ逃げて行ったのだ。オルヴァは追撃の手を緩めなかったが、『鎌鼬』のナイフが妖しげな光を放つとなかば自動的に使い手の腕を操って下水道に呪詛の刃を放っていく。殺人鬼が円形に切り裂かれた床から闇の中へと降下。左手の断端から大量の血を迸らせて第五階層地下に広がる『白骨迷宮』へ向かう。
自殺も同然の行動だったが、殺人鬼の目はまだ死んではいなかった。なにより、あの異様なナイフを手にしたままだ。飲み込んだ者を喰い殺す恐るべき迷宮を逃げ場に選んで生き延びる自信があるのだろう。
オルヴァの追撃はそこで一度停止した。不可視の大顎が、黒々とした闇によって阻まれたのだ。それを見ながら、ヴァージルは小さく笑った。
「あの人もなかなかしぶといよね。もう、人の形をとどめているのか怪しいけど」
少年は両手を広げ、変転する下界の光景をオルヴァに見せつけていく。
上位世界の存在は、下位世界の存在に縛られる。ヴァージルが下界の動きを制御している以上、それはオルヴァを支配しているのにも等しいのだ。
「人の可能性って素敵だよね。だからさ、僕たち王は彼らを上から押さえつけるんじゃなくて、上手に手綱を握って方向付けしてあげなくちゃいけないんだ。地位と権力が肥大化すれば制度の腐敗と反逆を招く。それってすごく無駄じゃない? 健全で緩やかな管理と統制で平和的に前に進んでいくのが一番なんだよ」
持論を展開しつつ、王としてオルヴァと対峙するヴァージル。
彼らは高みに立って相対してはいるが、実際に激突しているのは下界のシナモリアキラたちだった。彼らの戦いとは、そういう性質のものなのだ。
ヴァージルの背の水晶板が新たな光景を映し出す。
横たわる屍と血の赤を、降りしきる白が覆い尽くしていく。
空気はどこまでも冷えていくというのに、戦場は際限なく加熱し続ける。
狂怖の軍勢とトリシューラ勢力の死闘は佳境を迎えつつあった。
『鵺』の跳び蹴りがイェレイドの顔面を打ち据え、炎天使の右拳が『火車』を殴り飛ばす。アストラル体のアキラは氷の義肢の呪力を浴びて、小さく「く、コルセスカ――」と呻いた。遠く、第五階層の中央に聳え立つ塔を憎々しげに睨み付けたが、不意に冷静になったように息を整える。無論のこと彼は呼吸などしていないのだが、振る舞いは精神を規定する。『火車』は透徹たる表情で上空から戦場を俯瞰。イェレイドらの劣勢を見て取ると、決然と宣言した。
「イェレイド、俺は第六階層に撤退する。いま、流れはあちらにあるようだ」
「あらあら、意外に冷静ですのね。いえ、そちらが本来のあなたなのかしら」
『マレブランケ』や『鵺』から度重なる攻撃を受けてなお平然としているイェレイドは、欲望のままに動いていたはずの『火車』の変化を受けて瞳に興味深そうな色を浮かべる。砕けた頭蓋から脳漿を零しつつ、穴だらけの巨体を引き摺ってゆっくりと『火車』の前に出るイェレイド。彼女は第六階層にいる本体の『分け身』である。自分の命を使い捨てにできる駒として考えているイェレイドは、『火車』を逃がすためにその身を盾にしようとしていた。
炎天使が追撃しようとするが『件』の鉄球がそれを阻む。
『マレブランケ』たちの攻撃がイェレイドに集中する中、『火車』はまんまとその場から逃走を果たそうとしていた。そんな彼を追う姿が二つ。
「わたしにーさま!」
「逃がすか、悪は破壊する!」
『大蛇』の晶と『鵺』のアキラが『火車』に肉薄する。
『火車』は『鵺』がイェレイドよりも自分を優先して追いかけたことが意外だったのか、飛翔の速度を僅かに緩めて声をかけた。
「焦るなよ。お前の相手はまたいずれしてやる」
「悪に魂を売ったクズめ!」
アストラル体の男はピントのずれた非難を鼻で笑った。
「それが『俺』であるということだ。トリシューラやコルセスカの物語に巻き込まれるんじゃない。俺が俺としてシナモリアキラの物語を始めるためには、俺はこうあるのが正しいんだ。お前らだって、自分の物語を生きてるじゃないか?」
『鵺』は言葉に詰まった。それは反論不可能な事実であり、彼らシナモリアキラたちの『非シナモリアキラ性』であったからだ。
『何者か』であろうとすればするほど、彼らはシナモリアキラから遠ざかる。
だがしかし、彼らの戦いとは『何者か』になろうとする運動でもある。
ジレンマの中で懊悩する『鵺』を、『火車』は嘲笑する。
「欲望を肯定しろ、シナモリアキラ! 人は悪しきふるまいにこそ本性が宿る!」
堕落に誘う悪魔のように、シナモリアキラは言い放った。
そこには迷いも不安定さも一切が無い。
抑圧されていた感情を弾けさせながら激しく己の欲望を語り続ける。
「敵は殺す! 女を手に入れる! そして全て終わったら地上も地獄も叩き潰す! 俺とイェレイドの目的は完全に合致している。すなわち醜悪さの全肯定だ! お前も来いよ、こっちは最高に楽しいぞ!」
『火車』にとっては、ジャッフハリムに付くのが唯一の正解なのだった。
トリシューラを自分のものにするため『王国』を破壊する。
コルセスカを自分のものにするため、六王を破壊する。
そして最大の敵である松明の騎士を殺すためにはジャッフハリムの力が必要だ。
最終的にコルセスカの願いを叶えるのなら、ジャッフハリムを打倒するだけの力と悪意を併せ持つイェレイドと組むのが最適となる。
少なくとも、『火車』はその時点で自分に取り得る最善を選んでいた。
「第五階層は至る所に爆弾を抱えている。俺たちはそれが爆発する勢いを利用すればいい。まだまだ本番はこれからなんだからな」
『鵺』の拳を打ち払い、遠ざかっていく『火車』。
そこに、横合いから水流が襲いかかる。
呪力を伴った激流を片手で防ぎつつ、『火車』は長い黒髪の晶を見た。
訝しげな表情。明らかに相手の存在に戸惑いを覚えている。
対照的に女性の晶のほうは薄い微笑みを浮かべてやけに上機嫌だった。
「見つけた。わたしのアニムス。ねえわたしにーさま。わたしを殺して?」
「は?」
今度は『火車』が絶句する。
『大蛇』の女はそんな相手をじっと見つめて続ける。
「殺してくれないの? 殺意も覚悟も足りない。失格だからお前が死ね」
「なんなんだこいつ!」
意味不明な論理を自分の中だけで展開し勝手に完結する。
戸惑う『火車』に水でできた蛇が次々と襲いかかる。
「もうわたしにーさま以外のわたしにーさまじゃ満足できない。わたしを殺すかわたしにーさまが死ぬか、ふたつにひとつよ。わたしたちは互いを超克することでアダム・カドモンとして成長する!」
「くっそ意味がわからん! 魔女連中みたいなことを言いやがって!」
隣の『鵺』には目もくれず、恋する乙女のようなまなざしで『火車』を見据えながら、他の女に目を向ける憎い恋人に対するような殺意で拳を振るう晶。
対話不可能な相手の性質を理解した『火車』は言葉を交わすことを諦めて全力で撤退していった。遠ざかり、そのまま階層境界部の『門』へと向かう。
グレンデルヒらがイェレイドを倒したのはそれとほぼ同時だった。
また別の光景が水晶の内側に広がる。
カーインが気絶した自警団員たちを拘束して地面に横たえていた。
「殺さないんですか」
虹犬の若者がカーインを睨み付けていた。敗北して気を失っていたレミルスはつい先ほど意識を取り戻したばかりだ。カーインは飄々とした態度で肩を竦めた。
「その必要はない。君はもうシナモリアキラではないのだろう」
「腹の立つ人だ。後悔しないで下さいよ」
そう言ってレミルスはその場から姿を消した。主のもとに戻ったのだろう。
カーインは、暗雲立ちこめる空とはらはらと風に舞う白い雪片を眺めながらほう、と溜息を吐いた。
「さて。最後に残った君は賢王となるのか、狂王子となるのか、はたまた機械女王の使い魔として復活を遂げるのか」
いずれにせよ、カーインがすることはひとつだけだ。
人差し指と中指を伸ばした手を引いて、天を睨みつける。
まるで上空の何かを貫こうとしているかのような構え。
口の中で小さく呟く。それはカーインが隠し続けているとある秘密だ。
いつか悪鬼の泥の中で差し伸べた手を、もう一度伸ばす。
「制約抜きで戦えるまたとない機会だ。君がどんな姿であっても構いはしないが、愉しませてくれることを期待する」
一陣の風が吹いた。男の四肢は跳ねるように宙を裂いていく。
その神秘は形無きものを捉えることができる。
その秘密は存在しないものを形として象る。
光輝く左手が、誰も居ないはずの空間に触れた。
無人の屋上でカーインは独り舞い踊る。
演武は凄まじい速度で行われ、あたかも仮想の敵手と激しく攻防の応酬を重ねているかの如きありさまだった。カーインの額に汗が浮かび、防御や受け流しの際にはまるで重い一撃を受けたかのように息を乱れさせる。
苦しげな表情は、しかし同時にどこか愉快そうでもあった。
アストラル界に存在するオルヴァもまた、激しい演武の真っ最中だった。
虚空に向けてブレイスヴァカラテの型を繰り返す。基本動作である套路を繋げ、連続した動きが硬直時間を作らずに次々と環を作っていく。自然に移り変わりよどみのない動きは空を泳ぐ雲や流れる水の如し。
架空の貫手を躱しつつ掴む。存在しない確かな感触を捉え、もう片方の手が架空の顎を突き上げるように鋭く伸びた。交叉する腕がブレイスヴァへの信仰を増幅。十字の形が呪力を生み出し、アストラル界とマテリアル界の壁を越えて異なる位相に存在するカーインを打撃する。
演武を行うオルヴァとカーインは、互いを仮想敵とすることで実際に死闘を演じているのだ。オルヴァ=シナモリアキラと敵対することでトリシューラ=シナモリアキラと共闘する――カーインの選んだ方法は彼にとって合理的な道だった。
激戦を眺めつつ、ヴァージルは満足げに頷いた。
背中の水晶には地上で荒ぶる『件』と『乱髪』のルバーブが激突する光景や、八本の尾を持つ狐がポメラニアンの虹犬に抱きしめられている光景も映っている。少年は楽しそうに飛び跳ねた。重力を無視してふわり、ふわりと大きく上昇と下降を繰り返す。
「シナモリアキラという生贄がカシュラム王の存在を強固にする。けど、なら十二人がひとりずつ死んでいくという流れを歪めるだけだ」
ヴァージルの腕にいつの間にか髪の長い人形が抱きかかえられていた。
ラクルラールはカタカタと口を開閉させながら青い髪の毛をあちらこちらに伸ばしている。この人形が持つ支配の能力は第五階層全域に及ぶ。
ヴァージルによって隠蔽されていた『文脈操作の糸』が起こり得るあらゆる事象を改竄する。全ては自分の掌の上だったと少年は語った。それが事実であるかどうかはともかく、宣言は他者の現実を押し退けるだけの呪力を有していた。
「君は不完全な形で顕現するんだよ、オルヴァ。そしてシナモリアキラ共々、この僕の使い魔になるんだ」
ヴァージルという少年は、ラクルラールとイアテムを支配下に置き、『百々目鬼』やワルシューラを軍門に加え、更にはオルヴァとシナモリアキラまで従属させようとしている。彼の陣営が完成すれば、他の六王たちが一方的に押し潰されてしまうという展開もあり得るだろう。あるいは、死人の森すべてが少年に呑まれるかだ。
「さて。新しい君は、どんな顔をしているのかな」
狂王子は透明な微笑みを浮かべると無数の仮想使い魔をオルヴァに差し向けた。
オルヴァはカーインとの死闘を演じながら破滅を幻視。知覚した全てを抹消していく。だがヴァージルたちは余裕を持って邪視の射程外に逃れていった。
「きみと純粋な力比べなんてしようとは思わないよ。敵わないし、時代遅れだ」
狂人と賢者の闘争はどこまでも噛み合わない。
歯車がずれたまま、互いにわけのわからぬことを自分勝手にわめくばかり。
オルヴァが破滅と終焉、ブレイスヴァについての未来を語れば、ヴァージルは穏やかな口調で現在から地続きとなった将来へのビジョンを語る。
「人はみなそれぞれに違う。不寛容から生じる争いは止まらない。シナモリアキラがそうであるように。同じ人格、同じ属性を持っていてもこんなふうに争ってしまうんだ」
「四方の三に真芯の一、おおブレイスヴァよ! 全ては虚無に帰るだろう!」
「世界はどうしようもなく失敗している。人類はもう夢を見るには歳をとりすぎた。オルヴァ、君は老人だからそんな風に諦めを語るの? そんなのは嫌だな。なら僕は『王子』でいい。まだ人類は健全な未来へ進めると信じたい」
「ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ!」
「アストラルネットの海がこんなにも広がった現代では、制度としての王国はもう古いんだよ。個人はどこまでも分断され、『使い魔』が繋げている共同体は瓦解と再構築を不毛に繰り返すばかり。カシュラムが失敗したように」
「ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ! ブレイスヴァ!」
「国家への帰属意識が薄れた現代人に求められているのは「ブレイスヴァ!」利便性、ツールとしての共同体「ブレイスヴァ!」大衆を特権的な言語魔術師たちが方向付けして「ブレイスヴァ!」ああもう! 聞けよ!」
珍しく頬を紅潮させて怒鳴るヴァージル。
常に余裕を崩さない少年にしては珍しいことだった。
幼い表情に癇癪じみた怒りを浮かべて、手を横に一振りする。
半透明の仮想使い魔たちが大挙してオルヴァに殺到し、強大な王の力を完全に押さえ込んだ。やや強引に決着をつけにいったヴァージルは、ふうと息を吐いて後ろに向き直った。視線は下界、トリシューラ=シナモリアキラに向けられている。
「さあ、いっしょに行こう?」
オルヴァに続きシナモリアキラも支配すべく、ヴァージルの圧倒的な呪力がアストラル界を、そしてマテリアル界を席巻する。
ラクルラールの糸が蛇のように宙を這って炎天使を強襲。
それに対し、叫びが二つ。
炎の翼を広げて空を飛ぶ機械天使に続くように、水の大蛇に乗る黒髪の乙女が駆けつけて鋼鉄の義肢を変形させていた。
「ウィッチオーダー起動。五十七番『リーエルノーレス』、木材を創り出せ」
「ウィッチオーダー・プロト/アゴニスト起動。四十八番『ミュリエンティ』、絶対なる偶像を彫り出し無為なる祈りを捧げよ」
ヴァージルに対抗すべく、炎天使のアキラに加勢した『大蛇』の晶。
共闘する二人の気配はひどく似通っている。
とりわけ左腕の呪力はほぼ同一といって良いくらいに相似形だった。
似ているものは呪術的に引かれあい、共鳴する。
並行して発動したウィッチオーダーの力が極限まで高められていった。
「へえ」
興味深げに成り行きを見守るヴァージルは、指先を軽く曲げて数十の呪文を瞬時に構築。小手調べとばかりに投げつける。
対する二人のアキラは左腕の換装を終えていた。
炎天使の左腕がチェーンソー型。生き残っていた狂怖を次々に切断していく。
晶の左腕はレーザー照射装置をはじめとした多機能型の彫刻用義肢。切断されて『材木』となった異獣を『加工』していく。灼けた臭いが立ちこめて、異形の死体を用いた醜悪極まるオブジェが完成。邪神崇拝の偶像じみた死体彫刻。
融血呪の糸は呪力の塊のような彫像に全て吸い寄せられてしまい、支配するはずだった戦場からラクルラールの呪力が消えていく。二人のアキラ、二つのウィッチオーダーによる連携が凄まじい吸引力を持った囮を創りだしたのだ。
直後、ヴァージルによる死の呪文が殺到する。
いずれも中規模なオルガンローデに匹敵するだけの破壊力を有し、直撃すれば二親等以内の祖父母や孫まで巻き添えになって即死するほどの悪質さを持つ呪詛だ。
前に出た晶は顔色一つ変えずに左腕を掲げて呪文を詠唱。
「『崇拝』」
呪文が発動するとほぼ同時、ヴァージルの呪文が全弾直撃する。
真正面から受けた晶は確実に絶命したと思われたが、幻の爆炎が晴れたあと、肩で息をしながらも彼女は五体無事なままでその場に立っていた。
左腕が震えて、表面に彫られた微細な刻印の上を光が走っていく。
象牙じみた白くなめらかな素材。
まるで美術品のようで、戦いの場には相応しくない義肢のようにも見える。
しかし、それが実行している呪術現象は異様の一言に尽きた。
晶の呪文に呼応して、醜悪な彫像が超高速で姿を変えつつあった。
邪神像は薄く引き延ばされたのち、無数に裁断されてから丁寧に重ねられる。屍によって作られたおぞましい魔導書――邪神崇拝の聖典が完成。自動的にめくられていく項が無意味な教えを垂れ流してあらゆる神を否定する。
『ミュリエンティ』の持つ不可思議な機能がヴァージルの呪力に影響を及ぼし、死の運命を覆したのだった。消耗した晶の前に、今度は炎天使が進み出る。
「聖典崇拝のミーム。それ、何かの皮肉?」
「私/俺は、お前の言葉を信用しない」
炎天使が二重になった男女の声を発する。
ヴァージルはラクルラールと共に更に大量の呪文を紡ぐ。
「それは残念。でも安心していいよ。僕の世界にもきみたちの居場所はちゃんとあるから。可愛いワルシューラとして、永遠に遊び続けるといいよ」
呪文の嵐が吹き荒れ、雷撃と暴風が言葉と共に炎天使を襲い、増幅されていく悪意がネットの海を波立たせていった。
狂王子の力は明らかに炎天使を上回っている。
悪足掻きのように、ちびシューラが呪文を拡散させた。ヴァージルの大波に比べればさざ波にも等しいが、それは戦場を迂回して階層の中央へと進んでいく。
「何を?」
訝しげに呟いたヴァージルは遠く離れた彼の拠点、すなわち男根城に異変が起きつつあることに気が付いた。
トリシューラは先程の呪文で中傷者をインドアユーザーの一位に設定していた。更に『ヴァージルの鉄壁のセキュリティをかいくぐれば実際にあの城に侵入した中傷者を超えることができる』という風説が広まり、男根城の防壁突破がインドアユーザーたちの目標となる。
たちまち暇人と愉快犯たちの遊び場と化す男根城。
アストラルネットによって増幅された悪意が絨毯爆撃を行う。
「面倒だな」
不快そうに眉根を寄せるヴァージル。
直後、その表情が凍り付く。
衝撃が第五階層を揺るがした。塔の根本にある二つの半球状のドーム。
左側の球体が不可視の暴力によって脆くも崩れ去っていく。
何者かが『巨人の腕』を振り回して破壊の限りを尽くしているのだ。
「『塗壁』は最強の座を得るためにファルを仕留めることを優先するつもりみたい。上手く生き残ってくれるといいんだけど」
勝利条件はトリシューラの手によって追加された。『中傷者を倒す』という目標は、実践派ユーザーにとってみれば赤子の手を捻るように容易いと思えるのだろう。血気盛んな者たちが『我こそは最強のシナモリアキラ』だと楽に証明するため男根城に殺到していく。
状況を掌握すべくヴァージルは対抗策を講じようとするが、状況は更に激変する。その場に犇めく『王』たちの強大な呪力に加えて、同格かそれ以上の『波動』が第五階層を揺るがしたのだ。聞き覚えのある哄笑が響く。
「ハ! 隙だらけだぞヴァージル! 女王は俺が頂く!!」
第五階層南ブロック、呪術医院よりも更に辺境にある階層周辺部に『気象庁』はあった。天候を制御して雪を降らせている事象改変装置にしてトリシューラの『王国』を維持するための拠点、そのひとつ。
要塞の如き巨大な建造物が、轟音を立てて浮上しつつあった。
周辺の岩盤を引き剥がし、地割れを広げながら下部の噴射孔から大量の炎を吹きだし、稲妻を迸らせながらぐんぐんと上昇する。高らかに反響する男の笑い声。
「いいぞ、上出来だトリシューラ。これならば俺が利用するに相応しい。利用されてやる、ありがたく思え。『流星気象庁』、飛翔せよ!」
パーン・ガレニス・クロウサーの増幅された音声が第五階層を震わせ、巨大建造物が彼の意思に呼応するように天上のある一点で制止、それからゆっくりと前進を開始した。角度をつけながら、最高点から斜めに階層中央を目指して。ヴァージルの呪文も、ラクルラールの糸も、全てをはね除けながら巨大質量は空を飛翔する。
「状況は全て自分のコントロール下にあるって思ってた? それとも対処したつもりになっていたの? 私にだって無理だよ、完璧なパーン対策なんて」
だからこそ切り札にもなりうる。そう言って、炎天使は左のチェーンソーで使い魔の群れを切り裂いた。ヴァージルの戒めが破壊され、オルヴァが自由になる。暴れ出したオルヴァは狂犬のように炎天使とヴァージルの双方に襲いかかった。
パーンが起動させた『気象庁』はその宣名の通り流星の如く一直線に突き進み、呪術障壁を突き破って男根城右側ドームに墜落。
激震と爆発、吹き上がる土砂と炎、蒸発していく雪と海水。
アストラルの海が割れて大波と大渦を作りネットワークがかき乱されていく。
制御不能の六王は、『巨人の腕』を解放して右側ドームを完全に崩壊させた。
暴れ狂う二つの『巨人の腕』によって左右の球体を失った塔。
陽根に突き刺さった巨大質量は幾度となく爆発を繰り返し、塔は大規模な火災に見舞われる。ヴァージルは鋭く炎天使を睨み付けた。
「この戦闘は陽動か」
「ううん。両方とも本命だよ。二正面作戦みたいな?」
少年はしばし迷いを見せたが、塔で再び爆発が起きた上にオルヴァと炎天使から挟撃されるに至り、使い魔たちを引き連れて一瞬で姿を消す。
狂王子ヴァージルと言えど、アストラル体をこちらに集中させたままパーンの前に無防備な本体を晒す気にはなれないようだった。何より、確保しておくべき『女王』があの場所に眠っている。
「さて。じゃあこっちはこっちで片を付けようか」
炎天使シナモリアキラは、どこか女性的な仕草で半身になって構える。
アストラル界から大地へと降り立ったオルヴァは、『件』の肉体を完全に支配して現世に再臨を果たす。転生した賢者は十字の目を輝かせて言った。
「戦いの果てにシナモリアキラはこう叫ぶだろう。『ブレイスヴァ』と!」
「はいはいブレイスヴァブレイスヴァ。速攻で片付ける!」
不可避の予言を自らの文脈に取り込んで、炎天使が予言王と激突した。
『大入道』マイカール・チャーラムは、暗闇の中で膝を抱えて蹲っていた。
ごうごうと、何かの駆動音が聞こえている。
熱と重油の臭い。鋼鉄の気配に満ちた胃袋の中。
彼はゆっくりと消化されていた。身の内から生命力を吸い出されているのがわかる。それでもここは暖かい。なにもないが、心地良く微睡んでいられる。
彼は望んで闇の中に身を置いていた。
機械女王との対話の中で得た答え。それがこの選択だったのだ。
「話しづらいなら、ワンクッション置いてみようか。これなんかどう?」
回想の中で、トリシューラは箱庭のようなものを差し出してきた。
過去の罪をいつまでも吐露できないマイカールを急かすでもなく、あくまでも穏和に朗らかに接する。それは機械的な優しさで、だからこそ彼は安堵できた。相手が自分に対して何の感情も抱いていないことが理解できたからだ。
箱庭、あるいは環境のミニチュア。様々な象徴や素材を組み合わせて空間を作っていく、砂場遊びにも似たゲームだった。立体幻像装置も組み込んだ最新式の玩具であり、心理療法用の医療機器でもある。
二人の間で行われたのはごっこ遊び。
当時の光景を再現するために、トリシューラはゲームマスターとして状況と目標を設定する。ミッションを完遂するために、マイカールは部隊を編制し、兵站を整え、異獣たちを殲滅していく。
台詞や身振り手振りも交えて、当時のふるまいを再現した。
段々と演技にも熱が入るようになってくる。
敵を槍で貫き、高く掲げて神の威光を知らしめていく。
それはまさしく神の戦士たちの輝かしい記憶だった。
「うんうん。楽しく、気軽にね。ゲームなんだから」
敵を倒せば経験値が手に入り、ポイントに応じて報酬が獲得できる。
一定数まで経験値が貯まるとレベルアップ。ステータスやスキルが上昇する。
こうすれば効率的、というプレイングを覚えてそのために最善の行動を選択し、ステージごとに変化する環境にも見事に対応していく。
ルーチン化した最適解を求める思考。
ゲームも現実も同じだ。限られたリソースを運用してより良い結果を目指す。
最適な手段は最善の結果を生むに決まっているのだから。
見せしめによる示威行動は多くのケースで有効だ。好戦的な異獣は反撃に出て来るが、それさえ挫いてしまえばあとは楽に進められる。
問題は地域を制圧したあとだった。
辺境に駐屯した部隊が、ゲリラからの報復に怯えてしまうのだ。
地域住民の嫌悪や恐怖に満ちた視線も誇りある戦士たちの自尊心を損ない、慣れない亜大陸の気候や海を越えた南東海諸島の潮風は心身に堪えた。
部隊の士気を維持するために最適な行動を模索していく。
最も良いのはストレスの発散と示威行動を同時に行える略奪だ。
許可をすると、効果は覿面だった。
歯止めのきかない場面も多かったが、異獣相手にすることだから問題は無い。
いつの間にか風紀は乱れ、地域特有の麻薬が部隊内に蔓延するようになっていたが、実際それは大変素晴らしいものだった。マイカールは上司には状況を報告せず、草を咥えて煙を吸い込むことで面倒を忘れた。
「そっか。その時に最善だと思った行動を選んだわけだね?」
頷く。記憶の中で、トリシューラは笑顔のままだった。
海の民たちの戦意を挫くために最も必要なことを行った結果として『このようになった』。ティリビナの民たちの信仰心を破壊するために最善を尽くした結果として『あのようになった』。マイカールたちは一貫している。誰が扇動したわけでもなく、ごく自然に皆がそれを正解だと感じたからそう動いた。
じっさい、それは上手く行った。
上手く行ったではないか。
「どこかで、違う視点に気付いちゃったかな?」
そう、そうかもしれない。
だからこそ、答えを求めた。
気が付くと、彼の前には朱金の鎧が立っていた。
ぼんやりとそこにある神々しい炎天使。
松明の紋章を刻まれた、金鎖に飾られる聖なる乙女。
滂沱と涙を流しながら、マイカールは鎧の女性に手を伸ばす。
「私は、私は正しかったのでしょうか? 我らの聖戦とは、無慈悲な虐殺だったのですか? 正義と信じたあの勇気ある闘争、それは」
そうではない、と彼は叫びたかった。
あの恐るべき戦いの数々!
南東海諸島から大挙してやってきた海の民、とりわけ水の剣を振るう勇者にはさんざん苦しめられ、五十四名という犠牲者が出た。
亜大陸の殲滅戦では、その犠牲者は二百五十にも及び、その後も残党たちによる散発的な襲撃で死者や負傷者が増えていった。
全て尊い犠牲だ。本国では国葬が行われ、松明の騎士団には国民からの非難が殺到した。人が死ぬということ、その重さがマイカールを打ちのめした。
「彼らの犠牲は、正しかったはずだ!」
度重なる襲撃は苛烈を極めた。
同胞の巻き添えすら厭わない狂気の自爆攻撃は修道騎士よりも一般市民に多くの犠牲者を出した程だ。ああ、密林に紛れて襲い来る樹木人の悪意! 水面に引き摺り込まれる善良な信仰者たち! そこは異界だった。平和な都市から遠く離れた未開の地、過酷な異世界。彼らは恐れた。たったひとりの死で新参の修道騎士たちは錯乱し、熟達の戦士たちでさえ悲しみに震えた。だが野蛮な敵は違った。屍を積み上げながら次々と、狂ったように押し寄せる。だから殺し続けるしかなかった。
悪夢のような戦場に修道騎士たちは恐れを抱き、精神を病む者、錯乱する者まで現れ始めた。彼らは身を守らなければ生きていけなかった。
仲間を守らなければ。生死を共にする部隊の同胞たちと生き残らねば。
襲撃に先んじて、異獣共を殲滅する必要がある。
おぞましい異界ごと、徹底的に。
それは祈りだ。マイカールは縋り付くように左右の義肢を組み合わせた。
「その通り。あなたは赦されています」
機械的な音声が朱金の鎧から流れ出した。
かつての総団長、松明の騎士だった聖なる乙女は、あの戦いの日々と変わらずに無感情な声でマイカールを導く。正しい方向を指し示して全てを肯定する。
「父なる槍神により全ては赦されています。神罰を執行し、異獣を殲滅しなさい。あなたは赦されています。あなたは赦されています。あなたは赦されています」
「おお、おお!!」
かつてと同じだ。
あの時も、彼の総団長はこんなふうにして松明の騎士たちを全肯定してくれた。
神々しい微笑みで、全く同じ言葉を繰り返しながら祝福の炎を撒き散らしてあらゆる不浄を迷いと共に焼き払ってくれたのだ。
愚かな不信心者のように懊悩していたのが下らない事に思えてくる。
「あなたは赦されています」
この言葉さえあれば「あなたは赦されています」世界は美「あなたは赦されています」神の「あなたは赦されています」「あなたは」正しさと「赦され」――。
気付けば、両耳を義肢で押さえながら蹲っていた。
そんなマイカールを見下ろしながら、トリシューラは言う。
「肯定を、赦しを求めているということが既にあなたの結論なんだよ。そこがあなたのアキラくんと似たところ。救いを恐れ、疑ってしまうのは弱さかな、それとも愚かさなのかな。ねえ、本当の赦しが欲しい?」
顔を上げる。そんなものが、どこにあるというのだろう。
求めていた救いは、やはり想定していた通りの救いでしかなかった。
マイカールにはどうしようもない予定調和しかない。
過去も未来も、己の命の全てが罪深いもののように感じられる。
「裁きはここにはないよ。赦しもね。それができるのは、私でも彼女でもない」
そう言ってトリシューラは答えを口にした。
マイカールは、それを恐れながらも納得して受け入れる。
行き止まりの中で、その道はとても単純明快で、それしかないと思えるものだったからだ。なにより、そこにしか自分の答えは無いと思えた。
「あなたは戦いの中で生きてきた。戦いの正否は、戦いの中で見つけるんだよ」
記憶の中、その言葉だけが反響する。
熱狂と力の激突。次第に戦いの興奮が甦っていく。
生み出すのは稲妻。
左腕が加熱し、右腕が冷却を行い、巨人としての圧倒的呪力が巨大な質量が飛翔するだけのエネルギーを発生させていく。
トリシューラの思惑に乗せられているだけと知りながらも、マイカール・チャーラムは『気象庁』を一条の流星として目的地へと運んで行った。
凄まじい衝撃と爆圧。だが雲の身体は小揺るぎもしない。
粉塵の中からゆっくりと外へ這い出した。
そこは既に敵地だった。怒号と敵意が一斉にこちらを向く。
それが裁きだ。
判断を下せるのは、結局のところ当事者だけなのだ。
マイカールは口の端を持ち上げた。自然と笑い声が漏れ出す。
同行者は先に奥へ向かったようだ。構いはしない、目的は別々なのだ。
機関室から飛び出した『大入道』は、炎上する世界で雄叫びを上げた。
迷いは消えていた。自分の本質がさらけ出されていくのを感じる。
ここには気配がある。異教徒の、異端者の吐く息がそこら中を穢している。
ならば殺せ。この魂が命ずるままに、全てを焼き尽くせ!
「貴様――きさま、は――」
掠れた声が聞こえた。
そこには、海の民の特徴を備えた上半身裸の男がひとり。
屈強な肉体を誇示し、腰には弓を、背には矢筒を、手には水の剣を携えて、昔語りの英雄のように巨大な『大入道』に立ち向かおうとしている。
だが、勇者として振る舞うはずの男の顔はどす黒い感情で染まっていく。
「何度――夢にまで――許さぬ、許さぬ、貴様だけは――」
「愚かなり。主の慈悲により眷族種に列せられておきながら、再び天に唾を吐くか、海の勇者イアテム! 異端者め、悔い改めよ!」
「死ねええええええ!!」
狂ったような絶叫が炎上する世界に響き、戦場が呪いで埋め尽くされた。
勇者、英雄、虐殺者、敵、悪、それら全てが激情と暴力に飲み込まれて無意味なノイズに成り下がる。両者の間にはただ闘争のみがあった。
戦いに次ぐ戦い。
炎と血の赤が破滅を招き、『それ』は次第に鮮明な姿を取り戻していった。
刃が天から降りてくる。
ひとつ。呪術医院の真上に狙いを定めて先端をきらりと光らせた。
続けてふたつ。異形の塔の直上で、裁きの時を待ち構える。
終わりを待つ二つの巨剣。
王国に破滅をもたらすため、第五階層にその姿を現した。
「ダモクレスの剣。終わりが始まるのですね」
呪術医院の屋上の縁に腰掛けながら、夜の民の魔女はそっと呟いた。
ヴェールの奥で、瞳が濡れたように揺れる。
「誰かの敵であることは、なんと残酷なのでしょう。平凡な人が悪役として生きるのは、とても息苦しいもの。ましてやそれが身の丈に合わない巨悪なら」
遠くで争い憎み合う誰かを見ながら、魔女は悲しそうに言う。
それで何かが変わるということはないけれど、そうせずには居られないというように。その優しさもまた残酷さを孕んでいた。
「勇者だとか英雄だとか、正義が裏返って悪になるなら、それはとても悲惨です。わたくしたち魔女は弱者、悪、そして罪として生まれついたから、その痛みを想像することしかできません。あなたたち英雄はその理を鉄と力で定めました」
つまりは自傷です、と目を伏せる。
涙を零しそうなほどに、ラズリという女は感情を沈ませていた。
憐れみ。弱い相手に、高みから向ける感情だ。
憎悪をぶつけ合い、愚かに戦い続ける人間たち。
その醜悪な有り様を、彼女は愛おしげに、悲しげに見つめる。
「わたくしたちは自ら魔女であることを、悪であることを選びました。在り方を選べない残酷の、なんて悲しいことでしょう」
両手を組み、祈るように瞑目する。
争いと憎しみ、血と炎の絶えない世界を嘆き悲しみながら。
くすり、と小さく笑って。
「悲しい哀しい。でも、それはそれで捗りますね?」
斜め十字の瞳を爛々と輝かせながら、魔女は世界の残酷に絶望しながら歓喜を抱く。増幅され続ける暗い感情の連鎖。それすらも『楽しい』と肯定して。
ラズリ・ジャッフハリム。
彼女もまた、この呪われた第五階層の住人なのだ。




