4-38 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ5
少年は母親が大好きだった。
いずれ妻となる女性と同じ名前をした、初恋の相手。
柔らかな膝の上も、ふくよかな胸の中も、たまらなく愛おしかった。
目を隠すようにという言いつけは少しさびしかったけれど。
母親との触れ合いも語らいも、彼の世界を輝かせる宝石箱。
小さな頃、幼いオルヴァは母の乳房を咥えて安らいでいた。
母親はかわいいわが子をあたたかく見守っていたが、突如としてその表情を歪める。異常に気付いた侍女が医者を呼びに行った。たちまち宮廷は騒ぎとなる。
幼い王子が王妃の乳首を噛み切り、飲み込んでしまったからだ。
激昂する王。だが母親は苦痛の中に歓喜を滲ませてこう言った。
「まあ、ぼうやったら。自分がブレイスヴァと一つだということにもう気づいているのね。でも駄目よ、まだ何もかもが貪られる時ではないの。終わりに至るまで、ブレイスヴァの訪れを辛抱強く待つのですよ――しかしいま貪られるも待ち続けた果てに貪られるも同じ! 全てはブレイスヴァの中に! おお、ぼうや、なんと良くブレイスヴァを恐れ、正しく理解している子なのかしら?!」
聡明な王妃の言葉によって人々は蒙を啓かれた。
崇高な何かを感じ取り、それぞれが涙を流して祈り、跪く。
そしてその名を称えるのだ。「おお、ブレイスヴァよ」と。
小さな子供は、既にして誰よりもカシュラム人であった。
次代の王こそ、歴代のあらゆる王と未来の全ての王たちの中で最も偉大な存在として歴史に名を刻まれることであろう。ブレイスヴァに捧げる無為なる王国の繁栄に幸あれ。繁栄と幸福にブレイスヴァの貪りあれ。おお、滅びよ!
早くに乳離れをした少年は母から離れ、言葉と世界を得る。
かくしてオルヴァという王が誕生した。
ミルーニャ、リーナ、セリアック=ニアの三人は、トリシューラに与えられた部屋の中で今後の方針について話し合っていた。ミルーニャとリーナは第五階層製の『おこた』に足を入れて、セリアック=ニアはリーナの掌の上でぬくぬくしている。
「どうやら、リールエルバは既にドラトリアから移送されていたようです」
ミルーニャは端末上に幾つもの幻影窓を浮かび上がらせながら複数の調査結果を二人に示した。ドラトリアの調査機関と『星見の塔』、そしてトリシューラの監視網を使った総当たりの捜索。結果としてわかったのは二つ。
ひとつは、数日前にドラトリアの首都で起きた大規模な時空断層はカーティスやサリアが何者かと激突した結果発生したものだということ。ドラトリアは国の威信をかけて壊滅状態にあるというカルト教団の拠点を捜索しているようだが、リールエルバは見つかっていないらしい。教団の残党は第五階層に移動したという情報もあり、ドラトリアの捜査当局はアルセミットに世界槍内で捜査を行う許可を求めているという。だがいくら一国の要人を助けるためとはいえ、テロ対策部隊や誘拐対策部隊といった武装した警察の活動を許可することは容易ではなく、動きは鈍い。
もうひとつ、カルト教団と戦っていたリールエルバがどうも偽物らしいということがわかっている。最初に気づいたのは映像を見ていたセリアック=ニアだったが、他の二人もすぐにはっとなった。
「にあ! ねえさま、もっときれい!」
「リールエルバ、あんな風に跳ねたり踊ったりできないよ」
「というか服着てますし」
親しければすぐにでも気付けるような齟齬。
何らかの狙いがある敵の陽動だということはすぐに知れたが、カーティスやサリアは既に敵地に向かったあとだ。三人は『ではどこにリールエルバがいるのか』と考えて探すことにした。
ミルーニャが着目したのは、カルト教団の教主の名前だった。
「これ、私も知らなかったんですけど――『塔』の末妹候補にラリスキャニアってドラトリア人がいたみたいなんです。夜の民で、触手を切り離して他人を模倣するのが得意技。あっさりと脱落したようですが。その後、ラクルラール派のあずかりになったという情報もありますし、怪しいと思いません?」
「へー、何々。ドラトリア貴族でリールエルバの身代わり王族? うわっ、超因縁とかありそう! ニアちゃん、この人のこと知らない?」
「にあ?」
猫耳の少女はリーナの掌の上で不思議そうな顔をした。
小さくなってちょっと頭が緩くなっているのだ。記憶力に期待してはいけない。
――単に眼中になかっただけかもしれないが。
それはともかく。
「それからこれはトリシューラ情報ですが、ほぼ同じ時期に外部から『扉』の接続記録があったようです。かなり強引な侵入で、スキリシアを経由してます」
「怪しさ爆発だ! どこに繋がったの?」
「白骨迷宮――この第五階層の地下に広がるという再生者たちの奈落です。死せる生者たちの練兵場だとか、債務者たちの労働の場だとか、犯罪者たちの刑務所だとか、そういう話ですよ」
神妙な口調で言うミルーニャ。
リーナとセリアック=ニアは身を寄せて表情を強張らせた。
「こわー」「にあー」
「そして古の王たちの副葬品や呪術師たちの遺品が大量に眠っているとも――」
「わくわくする! いいじゃん、チョコレートリリーらしい話になってきたよ!」
「にあ! せりあもぼうけんしたい! ねえさまもいっしょ!」
たちまち表情を輝かせるお気楽娘二人。
ミルーニャは嘆息する。きっとこうなるだろうと思っていたのだ。
「あのですね。一応、リールエルバを探すのが最優先ですからね? それにパーン・ガレニス・クロウサーとの勝負もあります。競技場の設営班が到着次第、こちらも準備をしていかないと」
「じゃあそれまではリールエルバ探そう! むしろそっちのが大事だし!」
リーナの言葉はもっともだったので、ミルーニャは仕方なさそうに頷いた。セリアック=ニアもうんうんと頷いている。今後の方針がまとまった所で、ふとリーナが話題を変えた。
「ところでさー、某シナモリ氏、なんか大変らしーじゃん?」
「みたいですね。サイバーカラテの拡散に伴って、本人も分散されたとか」
「にあ! ぜんめつ、みなごろし! いなくなれ!」
物騒なことを言い出す猫娘をなだめながら、リーナは続けた。
「どうどう。シナモリ氏はリールエルバをとったりしないよ。でも怖いよねー。人がいっぱい分裂して拡散しちゃうとか第五階層の常識はどうなってるんだ」
「全くですね。その点、アズーリア様は私たちでしっかり神秘性を囲っているから安心です。幼馴染という強固な文脈はそうそう崩れたりしませんから」
「にあー」
得意げに言うミルーニャに、しぶしぶながらも同意するセリアック=ニア。
リーナは想像を絶する第五階層の異様さに戸惑いを隠せないようだ。
突然、セリアック=ニアがリーナの手の中から飛び出しておこたの上から飛び降りる。じっとしていたので動き回りたくなったのか、おこたの中に入ってみたくなったのか。小さな姫君は大胆にスカートを翻しながら跳躍したが、カーペットの上で勢いよくバウンドするとそのまま部屋の隅へ飛んでいく。運の悪いことに、そこには先ほどトリシューラが「みてみて、これ凄いでしょう。リーエルノーレスお姉さまを参照した武装だよ。量産計画進めてるんだけど、よかったら使用感聞かせてくれる?」と言ってミルーニャに手渡した大型チェーンソーが。不具合なのか、唐突に自動回転を始めた刃にセリアック=ニアが直撃。小さな体がバラバラに引き裂かれて四方八方に飛び散った。
「に、ニアちゃーん!」
リーナの悲鳴。細かい破片となって飛び散った猫姫がきらきらと輝き、一瞬前までそれらがひとつの命として躍動していたことを示す。
「あーあ、散らかして。リーナ、回収あなたがしてくださいよ」
「うおお、まじか。ていうかシューらん、安全装置付けてくださいお願いします」
呆れ声と呻き。二人の周囲に散らばった破片が粘土のように丸くなり、それらが独立して人型に変形していった。それぞれが飛び跳ねて騒ぎ出す。
「にあ!」「とりしゅーら、あぶない!」「りーにゃ、はなれてー」「にあにあ」「おなかすいた」「ねえさま、さがす!」「おひるねー」「おこた! おこた!」「みるーにゃ、あそぼー?」
更に小さくなったセリアック=ニアがちょこまかと部屋中を動き回る。
収拾がつかない。リーナは情けない顔で、
「ニアちゃんがいっぱいで大変だよー」
と言った。ミルーニャは素知らぬ顔をしている。
「いつだったかのアズーリア様みたいですねえ」
小さな猫姫たちは互いにじゃれあったり喧嘩をしたり仲直りしたりと忙しい。ほのぼのとした情景に和みつつ、ミルーニャは口調を真面目なものに戻した。
「まあシナモリアキラが意味不明な事態に陥っているのは私たちとは関わりのないことですが――いちおう、私もサイバーカラテユーザーなんですよね。似てるところなんて全く無いので影響はありませんけど――これ、場合によっては使いようがあるかもしれません」
「どゆこと?」
リーナが不思議そうに尋ねる。掌や肩の上に乗っかった小さな猫たちも真似して小首を傾げた。ミルーニャは顎に指をやりつつ慎重に答える。
「私たち、いつの間にやらすっかり第五階層を巡る戦いに組み込まれている感じじゃないですか。迷惑極まりないですが、考えようによってはこちらの陣営強化につながるかもしれない」
「シナモリ氏召喚とか、憑依させて格闘能力向上とかそういうの?」
「あとは六王たちへの呪的侵入。場合によっては、シナモリアキラを介して再演改竄を仕掛けることも考えておいた方がいいかもしれません」
無論、そうした行為には相応のリスクも伴うだろう。その時に危険を買って出るのはミルーニャになる。この中でサイバーカラテへの適性が最も高いのはミルーニャだからだ。
来たるべきパーンとの戦い、そしてリールエルバ救出に関わってくるであろうカーティス。そして、太陰の王族であるヴァージル。実に六王の半数が黒百合の子供たちと何かしらの関係性がある。
「おお、ほんとだすげえ。もしかしてラフディとか竜王国とかカシュラムとかの繋がりがあったりする?」
「いえ、それは無いでしょうね」
リーナが疑問を述べると、ミルーニャがそれを否定した。
眼鏡を押さえながら順番に検討していく。
「大地の民は私たちの近くにはいませんし、天眼の民が蜥蜴や亜竜に近い種族とはいってもメイファーラはリト系、つまり『透徹なるシャルマキヒュ』に仕えた戦乙女たちの末裔です。『黒死のカズキス』に連なるダーカンシェルの血筋とは関係無いかと。カシュラム系も、地上には無貌の民かノーグ家くらいしか残ってなかったはずですよ」
すらすらと出てくる種族や血統に関する知識。
感心するリーナだが、ミルーニャは眼鏡型の端末で検索をしているだけだ。
ふんふんと頷きながら、ふとミルーニャを見つめるリーナ。
たじろいで、
「な、なんですか」
「あのね。やばそうだったら私も『道場』入れるからさ、一緒に」
「やめてください。どうせそういうの苦手なんですから、不要なリスクは抱えないで。リーナはリーナでやるべきことをやるように。言っておきますけど、私より危機的状況にありますからねリーナは!」
パーンとの頭首を懸けた勝負について、自覚を促すと共に色々なものを誤魔化そうとするミルーニャ。リーナはやや不満そうにしていたが、最後にはしぶしぶ頷いた。そんな二人を、セリアック=ニアたちは不思議そうに見つめている。
「なかよしなのに」「いっしょにしない?」「ふしぎ」「せりあはねえさまといっしょがいい!」「りーにゃもみるーにゃもいっしょがいい!」「みんないっしょー」「にあにあ」
「ああもう、そういうのは要らないですから!」
騒がしくなる室内。
外部で起きている異変は、まだこの場所までは届きそうも無かった。
部屋の片隅、魔女の名を冠したチェーンソーが、再び何かに共鳴するかのように一瞬だけ微弱な呪力を放ち、すぐに静かになった。
呪術医院四階、関係者用の宿舎は正面エントランスとは反対側にある。
その部屋の扉を破壊して、廊下に飛び出した二人の格闘家。
ブルドッグの大男と仮面の武術家の激戦が決着を迎えようとしていた。
技量、手数、速度、そして与えたダメージ。
仮面のシナモリアキラ、サイバーカラテマンはそれら全ての面で狆くしゃ=プーハニア・トストンスを凌駕していた。
しかし戦いを優勢に進めていたのはブルドッグの巨漢の方。
理由は単純明快。彼が巨漢だったからだ。
仮面男の身体能力は常人のそれより上で、的確に肉体の弱所を攻める技術も有していた。しかし、それでも圧倒的なウェイト差と相手のタフさはどうしようもなかった。いくらダメージを与えてもプーハニアは耐えきってしまう。差を埋めるための何かが必要なのだ。
互いにサイバーカラテユーザーであり、片やブレイスヴァカラテ、片やレスリングに重きを置いた戦法をとるが、掴み、組み打ち、投げて叩き伏せることを得意とする方が大きく重いというのは、相性が悪すぎるとしか言いようが無い。かつてシナモリアキラはゾーイとの戦いで強化外骨格や呪術義肢、六王の力を駆使してどうにか渡り合うことができたが、本来体格差とはそうした反則技を使わなければ埋められないほどの絶対的な溝なのである。
「ぐうっ」
投げ飛ばされて床に転がる仮面の男。プーハニアはふんと鼻息を鳴らした。口ほどにもないとはこのこと。幾らシナモリアキラを自称しても、所詮はアマチュア。プロのシナモリアキラである狆くしゃ=プーハニアとはレベルが違うのだ。
「俺はこれでも給料貰ってシナモリアキラやってんだ。にわか仕込みの痛いコスプレ野郎なんかに負けるかよ」
つい先ほどまでは『狆くしゃ』という名をあれほど嫌がっていたというのに、男の胸には再び自信が湧き上がりつつあった。やはり頼りになるのは己の肉体と信念のみ。勝利を積み重ねて誇りを取り戻していくしか道はないのだ。それが、実際に戦いの中に身を置いてよくわかった。ブルドッグの男は生まれながらにして戦う者なのだ。そこから逃れることはできない。
「ヒ、ヒーローは、くじけない――」
「何がヒーローだてめぇも迷惑行為野郎だろうが。俺がクソだからてめぇのクソさが免罪されると思うなよ。おう、おとなしくしろ、『私は他人の名前を騙って好き放題やった痛いコスプレクソ野郎です』って札付けてさらし者にしてやるぜ」
お前も社会的制裁を受けろ――プーハニアは昏い正義感に取りつかれていた。自分が責められるのは仕方ない。だが自分がレスラー協会を除籍となり、裁かれるべき悪党がのうのうと暮らしているのは我慢がならない。悪党は全員裁かれるべきだ。それが公平と言うものだし、自分が悪党を懲らしめことは贖罪行為に繋がるはず――そんな理屈を心の底で積み上げていく。
大きな掌で頭を掴み、無理矢理に仮面を剥がそうとする。
ブルドッグの顔に暴力的な笑みが浮かんだ。
「どんなブサイクな面してやがんだぁ? 御開帳だぜ、アマチュアさんよ」
「や、やめろっ」
本気で嫌がるような声。
嗜虐の火が煽られて炎となった。
一気に引き剥がされた仮面。床で硬質な音が跳ねる。
ブルドッグの目がきょとんと疑問を呈していた。
「あん?」
顔は見えている。
だが、何があるのか認識できない。
瞬きして目をこすっても同じだ。
虹犬という種族は邪視適性に優れている方だが、その眼力をもってしても相手の正体がわからなかった。仕方なしに『道場』に尋ねてみる。キーワードを取ってこいと投げると、仮想視界の奥の方からシューラ犬が幾つかの検索候補を咥えて持ってきた。ちなみにプーハニアが実家で飼っていた犬に似ている。
「無貌の民――『上』の眷属種ってやつか。へぇ、随分と序列が低いんだな――あ? 島に外壁に山間部に――隔離? 特別区っておい、なんだこりゃあ」
思わずぎょっとするような情報が目に飛び込んできたものだから、ブルドッグの男は動揺してしまう。荒くれ者というような風体をしてはいるが、『下』で生まれ育った彼は『上』とは違う常識の中に生きている。不快感を覚えつつも怖いもの見たさのような気持ちでさらに検索を続けようとすると、正体不明の男が粘ついた声で敵意を吐き出した。
「俺は、お前たちのような利己的な悪魔どもとは違う。人ならざる超人、純粋な力の具現! 絶対的な英雄として戦って、『みんな』を助けるんだ――!」
声に引き寄せられて、どす黒い感情が濃縮されていった。男の認識できない顔に黒い靄が集まっていき、虚空に開いた穴から更なる漆黒が立ち込める。
認識阻害の霧――『未知』や『夜』といった神秘を強める夜の民の高位呪術だということが『わからない』ゆえに推測可能になり、シューラ犬が吠えた。
「ぐおおおっ」
プーハニアは闇に飲み込まれ、見当識を失う。
何もわからない。一切があやふやになり、自分自身の肉体すら確かなものではなくなっていく。
そして夜が訪れる。
誰かに呼ばれた気がして、プーハニアは目を開いた。
気が付けば宿舎棟の廊下、壁に凭れ掛かって気絶していた。
戦闘の破壊痕をドローンが修復している。
いったい何が起きたのか。戦闘があったというのに仲間の誰もかけつけてこない。医院を囲む外壁に寝泊まりしながら防衛の陣頭指揮をとっているルバーブはともかく、他の幹部やトリシューラがこのことに気付いていないとは思えなかった。
「あの、大丈夫ですかっ」
そしてあの正体不明の男。
闇が広がったあとのことを何も覚えていないのが妙だった。
自分が気を失っていたというのなら、幾らでも攻撃できたはず。なのにこうして放置したままどこかへ姿を消してしまうとは、幾らなんでも何か狙いがあるとしか思えない。警戒心が胸から腹へと落ちて、背筋がぞわりと震えた。
「もしもしー?」
「お、おおう」
弱い力で引っ張られて、ようやくプーハニアは気付く。
先ほどから自分を呼び掛けていた知らない声。
きちんと視界の正面におさめると、やはり知らない相手だった。
「そのお、わたしぃ、迷ってしまって――そしたらあなたが倒れてるじゃないですか。しかもあちこち壊れてるし。何かあったのかなって心配になって」
おどおどしながら言うのは、プーハニアと同じ虹犬種族の女性だった。
同じといっても氏族は異なる。
ブルドッグの強面とは似ても似つかない、小柄で人懐っこい雰囲気。
立ち耳は上品で、つんと尖った鼻先が愛らしく、ふさふさした白い体毛は密生しておりとても暖かそうだ。虹犬用のスカートのお尻からは巻尾が垂れて、首から背にかけてもふさふさした被毛が見られる。
その愛らしさから同種族、他種族を問わず人気の高いポメラニアン氏族。
少女を見たプーハニアは思わず呟いた。
「可憐だ」
「――はう?」
とぼけた声を出しながら首を傾げるポメラニアン。
プーハニアはしばらくのあいだ呆けていたが、突然はっとなって、
「お、お嬢さんっ、っこ、ここは危ないので表にご案内しますよ。どちらに向かう予定でしたか? 避難スペース? それともどこか悪いのかな、なら俺、いや私から院長に話してもいいですが」
と凛々しい声で話しかける。
それを聞くと、ポメラニアンの女性は喜んでこういった。
「わあ、院長先生とお知り合いなんですか。顔が広いんですね~」
「いやあ、それほどでも。まあちょっとした仕事上の付き合いというやつですよ。他にも有名ファッションブランドのデザイナーやモデル、プロの(e-)スポーツ選手や芸能人なんかとも親しくさせてもらってます。まあこういう世界で生きていると何かと機会がありましてね」
調子のいいことを喋りだすプーハニア。
好みの女性を前にするとこうなるのが彼の性格だった。
散々じらした挙句、「随分と逞しいですよね、何かスポーツや格闘技をやっているんですか」という質問を引き出し、満を持して「実は私、こういうことをやってましてね」と得意げに端末から自分の試合映像(もちろん華々しい勝利ばかりの名シーン集である)を見せて「すっごーい」と言われるのがプーハニアの密かな趣味であった。『安産型』は公衆の面前、しかも調子に乗り過ぎていたのが祟ったが、こうした振る舞い自体は悪いと思っていないプーハニアである。
己の力を誇示して得意になるのは当然の権利だ。
その恩恵にあずかり、ちょっとくらい女性にちやほやされるくらいのささやかな楽しみ、許してくれてもいいではないか。あくどい事はしていないし嘘も言っていない。安産型は言った。今は反省している。
嫌なことばかりだが、せめてこの子と仲良くなってできれば連絡先を交換とかしたり――妄想を膨らませるプーハニアはそこではたと気づいた。
レスラー協会から追放された自分は、既に自慢できる地位を失っている。
愕然とした。自分が誇っていたものは、楽しみにしていたことは、こんなにも容易くなくなってしまう。資格を失ったという実感は正直湧いていなかった。彼自身は力強いままで、その肉体に由来するプライドは保てていたのだ。その気になれば実力でいつでも這い上がれる。事実、あの仮面の男は倒せたではないか――それが、こんなところで気付かされた。社会的制裁とはこういうことだ。自分の位置づけ、立ち位置に対して与えられた罰。傷ついているのは肉体ではなく足場だった。
急に不安が襲ってきて、委縮してしまうカニャッツォ。
耳がぺたりと力を無くす。
そんな時、追い打ちをかけるように女性が言った。
「わたしぃ、いなくなっちゃった彼を探してるんですけどぉ――良かったら、一緒に探してもらえませんかぁ? なんだかここ、とっても広くって。『杖』オンチだから、ナビとかの使い方もよくわかんないし」
「え、あ、はい。彼、彼というのはカレ、つまり恋人、みたいな」
「そうですぅ。彼、珍しい狐系の虹犬で。とってもかっこよくて、色々な変身ができるからどんな種族からも人気があってー。尻尾も九本あってふっさふさなのー」
そこまで詳しく聞いていないのに、恋人の話をまくしたてる女性。
なんでも、突然「愛され過ぎてつらい」と言い残して彼女の下を立ち去ってしまったらしい。その直後、包丁を持った女性が押しかけてきた上に警察を名乗る眼鏡の男が現れて包丁女に手錠をかけて連れ去っていったということだが、プーハニアには何が何やらわからない。
「わたしぃ、彼を見つけたくて――なんていうかぁ、彼ってほっておけないところがあるじゃないですか~」
そんなことを言われてもその相手のことを知らない。
真顔で返すことができればよかったのだが、いい顔をされないのは経験上わかっていたから曖昧に頷いておいた。女性は甘い声で次から次へと恋人の話を繰り出してくる。拷問のようだとプーハニアは思った。
「それでぇ、わたし以外にもたくさん仲のいいひとがいたから、私なんかがいいのかなって思う事もあったりしたんです。そういうとき、わたしの全部を受け止めてくれるみたいな優しい顔で笑いかけてくれたりして、すっごくあったかくてぇ」
のろけに次ぐのろけ。胸やけがしそうだった。
「彼って優しすぎて傷付いてしまう人なんです。自分がかっこよすぎるから、世の中の顔が不自由な人たちを苦しめてしまっているんだって。そうやって心を痛めてる彼って、ほんとうに繊細で素敵だなあって」
「殺してえ」
「えっ」
「あ、いや、素敵な彼に何かあったら俺が許しませんってことです! まあ無事に探してみせますから、安心して下さいよ!」
「わー、頼りになる男の人って素敵ですぅ」
どこか間の抜けたやり取りをしながら二人は歩いていく。
廊下に伸びた二人の影。
その形が、異形に捻じれていった。
その頃。
「ねえねえ先輩。みんなに聞いたんだけど、前はちょくちょく『なんとかですぅ』『ミルーニャはぁ、きゃるーん♪』みたいな痛いぶりっ子してたんだよね? もうしないの?」
「あれはアズーリア様を馬鹿にしてたんですよ。煽ってたともいいます。だからあの共感馬鹿触手にイラついた時以外はもうやりません」
「ああ、なるほど? でも様は付けるの?」
「いやだっていまさら全部外すとマジっぽくて恥――何言わせてんですか」
「ぎゃあああああぐりぐりやめてー!」
などというやりとりがあったが、特に直前の一幕とは関係ない。
プーハニアは、目の前の女性に対して恐れを抱いている自分に気が付いた。女性はか弱く、自分なら容易く身動きを封じてしまうことができるだろう。あるいは恫喝すればたちまち怯えてしまうだろうし、性的なほのめかしをすれば恋人のいる彼女を傷つけてしまうかもしれない。そうすれば先ほどの謝罪会見に逆戻りだ。
それは遠いようで、あまりにも近い。
その気になれば簡単に行けてしまう場所なのだと彼は知ってしまった。
早々に彼女から離れよう。エントランスホールまで送って、あとは案内ドローンかなにかに放り投げればいい。これ以上は自分自身の精神に悪い。
しかし、妙なことに先ほどから院内通信が機能していない。
敵対勢力の攻撃によるものなのか、それとも想像もつかない異常事態が起きているのか。誰ともすれ違わないのも気になる。人の気配がまるでなかった。
一刻も早く状況を確かめなければ。
焦っていてそれに気付けなかったのは痛恨の極みと言えた。
「う――」
ポメラニアンの女性が震えながらプーハニアの背後に隠れる。
長く続く廊下の前方に、生臭い肉塊が横たわっていた。
死体のようでもあり、動物のようでもあり、植物のようでもあり、鉱物や魚類、昆虫などにも見え、同時にその全てをごたまぜにしたような異形そのもの。
怖気を振るう異質性の獣、狂怖。
「まさか、『火車』って野郎かっ」
途端、表情を引き締めて周囲を警戒するプーハニア。
話を聞いた限り、相手は最もオリジナルのシナモリアキラに近い『アストラル体』だ。その動きは自由自在、どこにでも侵入できる上に死体を操って狂怖にしてしまうという恐るべき力まで持っている。
今ここで戦えるのは自分だけだ。背後の女性だけは守らなければ。
決意するブルドッグは、そこで奇妙なことに気付く。
目の前の肉塊――あれは死んでいるのでは?
そうしているうちに、肉塊が黒ずんでいき、細かな粒子となって消えていく。
死亡して間もない狂怖はしばらくその場に残ることがある。
だとすればなぜ死んでいたのか。
誰かと交戦していた? 仲間たちが迎撃したのか。
それとも、まさか『別のシナモリアキラ』が侵入していたのか?
真っ先に思いついたのは仮面の男。
シューラ犬によれば識別コードは『鵺』。
『鵺』と『火車』が激突した結果、あの場所に狂怖が残されていたということなら納得は可能だ。状況を掴めないもどかしさが、不安を募らせていく。
それからも行く先々で肉塊と遭遇した。
それらは二人が近づくと灰となって消え去るが、確実にそこに置かれていた。
まるで、彼らを怯えさせるために存在するかのように。
異常はそれだけではない。
「なんだよ、こりゃあ」
院内から、人の気配が消えていた。
あれだけいた避難民も病院のスタッフもトリシューラの部下たちも、全ていなくなっていたのだ。通信も繋がらないまま。
外に出ようとするが、自動扉は開かない。対呪動装甲ライフルにすら耐える強化呪術ガラスは全力のタックルでもびくともしなかった。
「はうう、怖いぃ」
「あ、安心して下さいよ、俺がいますから!」
内心ではプーハニアも不安になっていたが、か弱い女性が後ろにいることでかろうじて虚勢を張れた。
どうにかこの病院から抜け出そうと歩き回る。
しかし脱出の糸口すら見つからず、
「もうだめぇ、歩けないぃ」
遂にポメラニアンの女性がへたり込んでしまう。
彼女は先ほどから「疲れた」「足が痛い」と不満を訴えていたのだが、プーハニアは「もう少しで外に出られるから」と我慢を強いていたのだ。歩幅も体力も違う。そうしたことは頭では理解できていた。しかしふわふわした声を聞くたびに彼はいら立ちを募らせた。
「あのなぁ、休んでる場合じゃねえんだって――」
つい強めの口調になってしまう。言っている途中で後悔したが、ポメラニアンは涙目になって身を縮こまらせてしまった。
「はうっ、ご、ごめんなさいぃ、おこんないでぇ」
「あ、いや、そんなつもりじゃ」
「うそぉ、怒ってるぅ」
大げさな怯え――ブルドッグの大男にはそう映った。
強面と巨体は彼にとって誇りであったが、それゆえに好意を抱いている相手にこうした態度をとられるのは不本意で、自覚は無かったものの傷ついてもいた。
「別に、怒っちゃいませんよ。俺がいじめたみたいな顔すんのはやめてください。俺は弱いものいじめはしない男です。むしろか弱い女性を守るヒーローと言ってもいいくらいだ」
「ほんとにぃ?」
「本当ですとも!」
力強く胸をたたいて見せる。
できるだけ快活に、恐ろしくないように笑った。
それでも女性はおずおずと、
「ほんとのほんと?」
と問いかける。
「もう、疑り深いなあ」
「――それ、誓える?」
「え?」
突然、女性の声が落ち着いたものになる。
はっきりとした抑揚。切れ味鋭いことば。
つぶらな瞳が、まっすぐにプーハニアを見ていた。
「あなたは、強いのにいじめないの? ヒーローの資格がある人なの?」
「何を言って――あれ、そういやお嬢さん名前は?」
「その力を使うのは、正しいことのため?」
ポメラニアンの黒い瞳に、視線が吸い込まれる。
暗黒の夜空のように深いそこから、黒々とした靄が広がっていき、世界全てが闇に染まっていった。無限の暗闇に放り出されたプーハニアは必死にもがき、確かな者を探そうとする。
「正義とは何だ」「誰かを守ること?」「信念を貫くこと?」「秩序を維持すること?」「お前の正義はどこにある」「その正義が何であるのか、お前は本当に理解した上で掲げているのか」「英雄という」「正義という」「特権者の地位を」
四方から聞こえてくる声は、ポメラニアンの女性のものにも、仮面の男のものにも、自分自身のものにも聞こえた。「もうやめてくれ」「なんなんだよこいつは」「おい、いい加減にしろ」――叫ぶ巨漢の言葉が無限に反響する。闇が形をとり、世界が変容していった。
誰かが笑っている。
自分の事を、嗤っている。
視線は刺さるように痛い。
言葉は殴られたように響く。
「よぉ、安産型」「安産型さんちーっす」「安産型ブルドッグとかうける」「ていうか何でいるんだよあいつ」「うわきも」「普通言えないだろ、勇気あるわー」「アホなだけだろ」「てかそこに注目する? っていうね」「『俺のガキを産めそうだなぐへへ』とか思ってたんじゃねーの」「うっわそれうっわ」「最低」
耳を塞ぐ。
座り込んで、蹲って、目をきつく瞑った。
知らない。何も分からない。何もかも関係無い。
肩を叩かれる。
振り返ると、そこに。
「あなたは気軽に言ったのかもしれませんが、私は一巡節前に子宮の摘出手術を受けたばかりだったのです。知らなかったのでしょうけれど、私はとても傷付きました。謝罪して下さい」
「す、すみませ――」
「あと人の体型をそういう観点から評価するのはどうかと思います」
「はい、改めます」
「それに視線が舐め回すようで嫌でした。凝視はやめて下さい」
「はい」
「あと」
「まだ、ありますか」
恐る恐る顔を上げる。
特徴的な耳のパピヨン氏族。
気位の高い、強く美しい女性だった。
「先日していただいた交際の申し出ですが、お受けできません」
冷ややかに、きっぱりとした拒絶。
プーハニアは深く傷付き、丸くなった。
学生時代の失恋が連鎖するように思い出される。
あの時はそう、軽々しいボディタッチが嫌がられたのだ。
大きな身体の彼が小柄な女性に対してするそれは、ひどく威圧的であったという。逆らえずに身を竦ませているのを、「相手も満更ではない」のだと思い込んで調子に乗っていた。当然、上手く行くはずもない。
「何でこうなんだ、俺は」
昔は良かった。子供時代は身体が大きいこと、力が強いことが絶対だった。
皆が自分に一目置いていた。鈍重ではなかったからスポーツも得意。
学級の中心で、いつも頼りにされていたのだ。
「――本当に、そうだったか?」
自問する。
現在と過去が混濁し、曖昧になる。
学校の、机。そこに落書きされた『安産型』という文字。
馬鹿な、あの頃にはそんなことは言っていない。
そもそもそんな言葉は知らなかった――いや、知っていた?
覚え立ての言葉を使いたがる子供の習性が祟って、若い女性教師にその言葉を使ってしまったのでは? 男性教師に怒鳴られてから渾名が『安産型』に変わったということが無かったか? あまりにも酷い記憶を忘却していなかったか?
わからない。正しいことは何だ。
記憶も夢もごちゃごちゃと入り交じり、全てが不確かに融けていく。
ふと気付くと、子供の姿で初等学級の教室にいた。
「へーい、パス!」
放物線を描いて、箱のようなものが飛んでいく。
あれは、自分のペンケースでは?
慌てて追いかける。
「返せよ!」
怒鳴っても、相手はにやにやと笑うばかり。
数人でペンケースを投げ合って、いくら追いかけても取り返せない。
勢い余ってつんのめり、机に上半身を投げ出してしまう。
「うわそれお前の机じゃーん、きったね、安産型菌付いてら」
からかうような声が飛ぶ。
すると机の持ち主はわざわざ机に手で触って、友人たちに手を触れようとする。
「はい感染ったー! 安産型ー」
「安産型になんだろ、マジでやめろって最悪だし!」
不可視の『穢れ』を接触感染させられた子供が激怒した。共通理解の下に行われた儀式を通して、瘴気が具現化して子供たちの間に蔓延していく。
子供たちはまじない使いだった。
無数の視線、無数のルール、無数の穢れ。
大勢の闇が世界に満ちて、それは決して消えることは無い。
プーハニアは闇の中に独りで佇む何者かを幻視した。
それは普遍している。瘴気は人類と共に在る。
緑色の髪に長い牙、大勢にして孤独。
その名前を、プーハニアは知っている。
大勢の中で独り。その先には破滅しかない。
「え、どれどれ?」
「ほら、あいつだって」
「へー」
隣の教室から、遠くの教室から、珍獣を見物するような視線がやってくる。
小さな眷属たちが悪意を込めて笑った。
心底から愉快そうに。
牙を剥き、拳を握った。
「てめえらああああ!!」
「うわ、安産型がキレた!」
拳を振り回し、椅子を持ち上げて投げる。
悲鳴、悲鳴、悲鳴。
暴れていると、恐ろしく強い力が腕を鷲掴みにする。
見上げると、そこに巨人がいた。
「なにをやっとるかぁっ」
違う。自分が小さいのだ。
気付けば足下には額から血を流して泣き喚いている子供がいる。
プーハニア少年の腕を掴んでいるのはドーベルマンの教師だった。
牙を剥き出しにして怒鳴り、思い切り突き飛ばされる。
机と椅子を吹き飛ばしながら床に倒れ伏す。背中と腰に激痛。
「どうだ、プーハニア! これがお前がやったことだ! 力が強いからといっていい気になるな!」
一方的な言い分にかっと頭が熱くなる。
「あいつらが、あいつらが悪いんだ!」
「言い訳をするなっ!」
今度こそ拳で殴られた。
理不尽だ、こんなのはおかしい、そう思いながらも圧倒的な腕力の違いを思い知った今、反抗などできるはずもない。
涙が出た。教師に引きずられて生徒指導室へと連れて行かれる。
背後で、くすくす笑い。
泣いていることへの嘲笑。
『穢れた』机を誰が片付けるかで一悶着。
それら全てが、ただ厭わしい。
圧倒的な寒さ。
恐怖の底で、プーハニアは更なる奈落を見た。
足下に、無数の視線。
緑色の髪、長い牙、仮面、認識出来ない顔、顔、顔――。
大勢の誰か。
孤独に並び立つ『無数』がより醜悪な瘴気によって窒息していた。
プーハニアのいる所はまだ瘴気が薄く、かろうじて高所に逃れる事ができそうだ。まだどうにかなる。挽回できる。ここから逃げ出せばいいのだ。
しかし、足下の彼らは逃げられない。奈落の底で窒息し続けている。
プーハニアは、足場にしている男を見た。
仮面の男。シナモリアキラを名乗る誰か。
『鵺』は、プーハニアがもがき苦しむ様を見ながら、自らも苦痛に喘いでいた。既にブルドッグは気付いている。これは『鵺』の精神攻撃、幻術の類だと。しかし、相手を一方的に術中に嵌めるのならともかく、自分も苦痛を味わうというのはわけがわからない。ふと彼は気付いた。
「これは、お前の記憶なのか」
シナモリアキラが二人の共通項だった。
しかし、それ以外にもあったのかもしれない。
プーハニアの現在と『鵺』の過去が融け合い、共感が呪いを増幅する。
苦痛が伝染し、奈落に引き摺り込まれていく。
「これは、お前の痛みか」
仮面の奥が見える。認識の闇の彼方、見えないはずのもの。
今なら、それが見える気がした。
巨漢は気付く。『鵺』の背後に、同じように仮面を付けた人々がいることに。
それらの仮面が外れると、そこからぞっとするほど濃い瘴気が溢れ出る。
「我らは」「無貌なりし『悪疫』に連なり」「大勢である『■■』に属するもの」「レギオン」「その血統」「そのまことの名こそは」「見よ」「見よ」「見よ」「闇の奥を直視せよ」「そして問いに答えよ」
『鵺』がこちらに手を伸ばす。
無貌の民たちが無数の手を伸ばしてくる。
「我らは、人か」
言葉は呪文となって世界を染め上げた。
曖昧な形が変容していく。
「それとも、異獣か」
仮面の下に存在していたのは、捩れた肉塊と無数の生物を組み合わせた異形。
真性異獣、狂怖の姿。
嫌悪感を抱かせる悪夢の具現。
その最前列に立つ『鵺』は、頭は猿、手足は虎、身体は狸、尾は蛇という姿で、夥しい量の異界の呪文を全身に纏っていた。漢字と思われるそれらがシナモリアキラとしての性質を強化して、怪物としての形を際立たせる。
「我ら『悪疫』の血統は壁の中に押し込められた忌民。槍の少年に始祖が討たれたのちはブレイスヴァの滅びに縋り、ただ静かに終わることを願い続けてきた――しかし、事情が変わった」
瞳の中の虚無に、プーハニアは言葉を失う。
奈落の底にある汚泥を掬ってもここまでどす黒くはならないであろうという、絶対的な暗黒。一切の安寧が奪われた苦痛の沼に使っている者の目だ。
「激化する天地の争い――そして、遂に現れた概念的『悪』としての異獣。形而上の恐怖と嫌悪が物理世界に落とした影。ある『邪視』の結果として出現する終末の獣たち――ある日、我々は自らの姿がそれに変化しつつあるのを悟った。その変化は止まることが無く、身内のみで処理することも難しくなってきた」
何を言っているのか、全く分からない。
想像を絶する、なにか巨大な問題が進行していること。
漠然としたイメージが膨らむばかりで、具体的な思考が働かない。
考えたこともない、それはつまり、自分とどう関わりがあるのだ?
「槍の少年に連なる僧兵たちは正義を掲げて我らを管理した。その数は減り続け、幾つかの『壁の中』からは誰もいなくなったと聞く」
正義。正義と言ったか。
プーハニアには『上』のことはわからない。
だが、ひどくおぞましい気配だけはわかる。
これ以上聞きたくない。
「だからこそ、『俺』が立ち上がった。変化は不可逆だ。ならばせめて、概念的な絶対悪の根源、大魔将イェレイドを討つことで同胞たちへの手向けとする」
それは、自殺ではないのか。
問うと、肯定が返ってくる。
「そうだ。俺たちは自ら滅び、ブレイスヴァの下へ向かうのだ。正義が定めた悪性を、俺たちの手で打ち倒す。そうすることで奴らの正義と価値を根底から砕く」
『鵺』の瞳に炎が灯る。
激しく燃えるその意思が、じりじりとブルドッグの巨体を退かせていった。
それは強大な力に対する恐怖ではない。
高潔な決意に対する、圧倒的な畏怖だった。
「魔将の邪悪を、守護の九槍の正義を、強大な英雄を凌駕したシナモリアキラという純粋な暴力こそ、この俺に相応しい。全ての価値を破壊し、否定し、超越する。俗な正義や悪などどうでもいい。理不尽な力こそが正義だ。俺はそれを振るって英雄になる。力の傲慢そのものに、俺はなる」
鷲掴みにされた腕。
腕力では勝っていたはずのプーハニアが手も脚も出ない。
もはや逃げることもかなわず、圧倒的な意思力によって投げ飛ばされた。
闇が裂け、誰もいない病院の廊下に叩きつけられていた。
異形と化した『鵺』が叫ぶ。
「『マレブランケ』、全ての『シナモリアキラ』、そして『三叉槍の魔女』――そのことごとくを凌駕して、俺は完全なる紀人となり悪と正義を根絶する」
今や男は完全なる異獣と化していた。
異獣でありながら異獣を敵と定め、その根源を滅ぼす為に戦う英雄。
異形の精神が狂気となって男を蝕み、強大な意思力を飲み込もうとする。
苦痛に呻きながら、それでも必死に自我を保とうとする『鵺』。
負けそうになりながらも立ち上がり、最後には己と敵に打ち勝つその姿に、プーハニアはかつて夢で憧れた英雄の姿を見た。
「俺は、過去の俺を超えていく――!! 使います、ピトス博士。あなたに貰ったこの力! 『創造』せよ、四十四番『ネクロゾーン』!!」
光の粒子が収束していくと、男の腰に牙や爪などの意匠が盛り込まれた禍々しい革のベルトが装着された。前のホルダー部分に端末を差し込むと、まばゆい閃光を放ちながら機械音声が流れだす。『鵺』は力強く叫んだ。
「超・越!!」
それは一瞬のことだった。
異形の怪物が光に包まれたかと思うと、漆黒の霧が集い人の輪郭へと押し込めていく。まるで怪物を拘束具の中に封じ込めるかのような過程。
『鵺』は苦痛に呻く。肉が引き締まり、骨を圧迫され、血が止まり、内臓が収縮して全身が砕かれていく。激痛の中で巨大な怪物は変形していく。
光が消えたあと、そこに立っていたのは霊長類型のシルエット。
『鵺』という異界の怪物の特徴を随所に持ちながらも、生物的なスーツを身に纏った人と異形の狭間に立つ存在。
「いくぞ『火車』の怪人ども。お前たちの正義と悪、まとめて砕く!」
変身を果たした『鵺』の宣告でプーハニアは気付く。
自分がいつの間にか異形の怪物になっていることに。
身体の自由がきかない。勝手に動き、人形のように操られるがまま。
いつの間に。いつからだ?
横に並ぶのは首無しの死体。蠍尾と銃士という同僚たちが同じような異形となって『鵺』に襲いかかる。
プーハニアは、耳の奥で響く声を聞いた。
――お前が俺を求めたんだろ? 『マレブランケ』は俺だ。どこにいようと、自在に手足として扱える。なあ、狆くしゃ?
そうだ、仮面の男に勝利した時。
プーハニアは全能感に包まれ、力を肯定した。
『火車』は欲望を肯定する。ゆえに両者はひとつとなった。
プーハニアは自ら『火車』を受け入れたのだ。
プーハニアとしての意識が抵抗する。
違う、自分は怪物ではないと。
だが全ては無駄。
『火車』というシナモリアキラは最も紀人アキラに近い存在だ。一度でもその影響下に置かれれば抜け出すのは容易い事ではない。
――そいつは俺の天敵で、俺がそいつの天敵だ。『鵺』は殺す。お前たちで排除しろ。怪人集団『マレブランケ』の諸君。悪としての立ち位置を忘れるなよ。
奇声を上げながら飛びかかっていくプーハニアたち。
迎え撃つ『鵺』は異形のまま自らの中の爆弾を押さえ込みつつ戦う。
最強最悪のシナモリアキラ『火車』を打倒し、その裏で全ての邪悪を統べる大魔将イェレイドをその拳で砕くために。
その戦いの終わりは見えず、果てること無く続いていく。




