4-33 ガロアンディアンの真竜王
爆心地に天使の残骸が横たわっている。
ダモクレスの剣による王国の滅亡に巻き込まれたようだ。
――というより、巻き添えになるように誘導されたのだろう。
空を旋回する箒の魔女は人形たちを翻弄し、遂には天使すら破滅の渦へと誘い込んでしまった。その才気は留まるところを知らない。
「お、おおう。なんか勢いでやっちったけど、ちびシューらん情報によるとあれ、アルマさんなんだよね。大丈夫かなあ」
「にあ! 生きてる! へいき! 自己修復、もうしてる!」
「うっわまじだ。さすがは無情鹿鍋サリアせんせーの相方、半端無いわ」
少女たちが会話を交わすその真下。
巨大なクレーターの中央には、半ば土砂に身体を埋もれさせた二人の姿。
長い髪の王と丸い体躯の従僕。
二人はぼんやりと荒れ果てた周囲を見ながら言葉を交わす。
「終わったか。終わったのだな、俺の――」
マラードは何かを言葉にしようとして、やめた。
形にならないまま消えた言葉の正体はわからない。
それでも彼の中で何かが決着したのは確かだ。
ルバーブは静かに会話を繋いだ。
「悪夢は終わりました、陛下。ここからは御身が望む夢をご覧下さい」
いつものように、寡黙で忠実な彼の右腕として振る舞う。
見事な建築の全ては壊れ、解体された。
美しかったものは消え去り、それでも最後に残った基礎は確かなまま。
「夢を見ろ、か。なんともあやふやな言葉だ。それにな、ルバーブよ。俺ひとりではどうにも足下が危うい。今回のことでそれがよく分かった。俺には頼りになる支えが必要だ」
たとえ基礎すら砕けたとしても、そこに大地があるのなら、再建も叶うだろう。
新天地を探すことも、新たな創造を行うことも、きっとできると信じる限り。
「不肖未熟の身ではございますが、どうか私めに陛下を支える役目をお任せ頂きたく存じます」
「ああ、そうだな。任せたぞルバーブ。我が忠実なる従僕よ」
微睡みの中のような静かな語らい。
異形が跋扈する戦いはまだ続いている。
狂騒の中、爆心地だけが奇妙に静かだった。
しかし――。
「許さない、許さない許さないゆるさないっ!」
憎悪を掻き毟るような絶叫だった。
絶望、憤怒、悲哀、黒々とした感情を混ぜ合わせた熱量が溢れて炎と化す。
穴だらけの衣服、傷だらけの人形の身体を引きずりながら、アレッテ・イヴニルは濁った瞳に呪力を宿らせる。
「もういい。屈辱だけれど、諦めなければ打つ手がないものね――いいわ、やってあげる。せいぜい醜悪に演じて、あいつの存在を貶めてやる」
意味のわからない呟きが終わると同時、人形姫が行動を起こした。
対象を束縛する糸の邪視がマラードを捉えて引き寄せる。
力を失った身体は抗うことができずに呪縛されてしまう。
消耗した『私』もまた咄嗟に追い縋ることができない。
ラフディが崩壊した影響か――既に意識の主導権は『俺』の方にあった。ルバーブの主を守れなかったという後悔に実感が持てず、背後から自分の身体を眺めている自分がいる。
上空の魔女たちの前には傷だらけの人形が立ちはだかり、トリシューラは地の底から湧き出す異形への対処で動けないままだ。
「アレッテ――お前は」
マラードの視線には何の隔たりも無かった。
激情をぶつけてくる人形に対し、むしろいたわるような感情を向ける。
だが、選ばれなかった敗者にそれは苦痛に過ぎた。
「あなたが、そちらを選ぶというのなら」
万感の憎しみを込めて。
震える手で美しい男の頬に触れ、顎を掴み。
眼を大きく開き、呪うように見つめる。
「私の絶望で、あなたを奪う」
強引に顎を引き寄せた。
マラードが驚愕にまなこを見開く。
唇と唇がぶつかり、歯が硬い音を響かせた。
稚拙な接触、強引な求愛。
アレッテの口が人形には不要なはずの呼吸と共に相手を貪る。
ぎょろり、と。
人形は横目で『私』を見ると、嘲りの表情を浮かべた。
暴力的に唇と舌で王を穢していく。
それは両者の和合などではない。
強制的な侵略。一方的な強姦。
一個の人格として死のうとするかのような、融合の儀式。
見せつけるような口づけは殺人に似ていた。
拒絶しようとするマラードを無数の髪の毛が押さえつけ、ほっそりとした四肢に人形の糸が絡みついていく。長い髪は男を離さず掴まえて、無理矢理に二人の身体を密着させていく。
残酷なまでの束縛と支配。
アレッテの邪眼が爛々と輝き、紅紫に世界が染まる。
そして、それは始まった。
「聖婚」
アレッテが望み、アレッテが受け入れさせる。
そこにマラードの意思は介在しない。一方的な支配。強制的な隷属。
そして、同化。
青い流体が人形の関節部から湧き出し、二人を繭のように包んでいく。
融血呪。個と個の境界を対価に融合と共有の奇跡を実現させる禁忌の呪法だ。
全ては抗う時間も与えられないまま実行された。
最善を得たと安堵した直後、最悪の結末が訪れてしまう。
ありふれた展開、安い悲劇。
だが、最悪の底はこちらの想定を遙かに超えて深い。
赤と紫、両極からの光が虹となって一帯を取り巻いていく。
虹色の繭はゆるやかに浮遊し、やがて糸をほどく様にその内側を露わにした。
二つであった輪郭は既にそこには無い。
たった一人。
虚空を踏みしめて、その人物はそこにいた。
長く艶やかなグラデーションを描く髪。
かつてその色彩は青から白銀へと移り変わるものだった。
今や変化はつむじの赤から毛先の紫。紅紫の髪へと染まっており、更には男性のものであった肉体はより無性に近づいている。
無機質な裸身には球体関節。
肘や膝、つるりとした逆三角形の腰。それら関節部品の隙間からは青い流体が見え隠れし、ときおり周囲からの視線に反応するようにぎょろりと極小の眼球を形成して見返してくる。人形はひどく呪術的で生物的だった。
あらゆる者を魅了してやまない太陽の美貌には陰が差しているが、それでも魅力が損なわれた様子は無い。むしろ、別種の妖しさが付加されたことによりいっそう蠱惑的になったとすら言えた。
そして、大きく変化したのはその目だ。
右目に爪で引き裂かれたような縦のきずあとが走り、隻眼となっている。
左目はどぶのように濁り、この世すべてに絶望しているかのような視線で眼下を睥睨している。
(なにあれ。要素が、融け合っているの?)
小さな魔女の思考音声は困惑に満ちていた。
彼女にとってもこれは完全に未知の現象なのだ。
一つだけ確かなのは、あれが禁忌の呪いによって融合したマラードとアレッテであるということ。そしておそらく、行動の主導権を握っているのは――。
浮遊する奇妙な人形は、静かに上昇していく。
遥かな上空へと至り、ひとことだけ発した。
「傾聴せよ」
呪文で大気を振るわせているのか、声はよく響いた。
耳を傾けずにはいられなくなるような旋律。力強さから一瞬だけ男性のものかと錯覚しそうになるが、それは紛れもなく人形姫の声。それでいて響きの奥にマラードの息遣いが感じられる。
そして、宣名が第五階層に刻まれた。
「聞け、三界に住まう全ての者よ。我こそは紅にして紫、世界の歯車を回す第六彩域の天主にして第九紀竜アルト・イヴニルである」
第九の紀竜とは、人の手によって構成された大呪術のことだ。
『私』が王としての力を注ぎ込み、強固な因果で互いを結んだ大地の竜、美しきマラード王。彼が第九の紀竜であるということならばまだ理解できる。
しかしアルト・イヴニルとは何だ。アルトとは、アレッテの男性形であるはず。
そして天主とは確か『下』における有力な呪術師の称号だったか。
名乗りはあまりにも不可解だった。
(ジャッフハリム語で『彩域といえば、五つの色号呪力を生み出す基本領域のことだよ。古くからいる天主たちはこの彩域を統括しているの)
そういえば前にコルセスカとゲームをしている時に聞いた覚えがある。確か基本地形カードを寝かせるとか傾けるとかするとリソースが生み出せるとかいうルールだった。あのゲームが現実に即した設定だったのか、コルセスカがそういうゲーム的世界にしてしまったのかは今となってはわからない。
いつものように解説をするちびシューラもどこか歯切れが悪い。
(でも彩域は五つしかないはず。新しい天主が六番目を生み出そうとしているらしいけど、それに成功したって話は聞かない。あのひと、自分で六番目の彩域を作り出すって宣言してるのかも)
推測を裏付けるかのように、アルト・イヴニルと名乗った人形の王は両の掌から二色の燐光を放ち、それらを一つに重ね合わせた。
爆発的な発光。
紅紫の光が滴り落ちて、第五階層の荒れ果てた大地に浸透していく。
アルト・イヴニルの口上は続く。
「既に二つの王権はこの手にある。そうだ、私こそがガロアンディアンの真竜王。これより偽りの僣主は一人残らず駆逐され、最も強く美しい王だけがこの大地を統べることになるだろう」
この人形は、第五階層の支配権を巡る闘争に王として参戦すると言ったのだ。
それも、ガロアンディアンの真の王として。
名乗りの意味は明白だ。
トリシューラに対する不遜なる宣戦布告。
(何だろう、今ひとつ狙いが見えないな。つまりラクルラール派は、自由に傀儡として操れる王を立てたい? 王国が欲しいの? それが竜の構築に繋がってる? 世界側の秩序に干渉して――マラードをあんなふうにして何をするつもり?)
駆け巡る疑問の数々。こちらが訊きたいところだったが、素直に答えてくれるほどあの人形の王も優しくはないだろう。
どぶのような眼は、こちらに向けて凄まじい悪意を放射していた。
「これは運命。操り人形たるお前たちに垂らされた、神の糸と脚本であると知れ。抗うな。期待するな。未来に絶望しろ。ここには『未知の救世主』など現れない。俯き、目を伏せ、諦めながら生と死をやり過ごせ。諦観こそが救い。もういい、何もかも構いやしない、王国の運命など適当でいい。雑に壊れて死ね」
左目が爛々と輝き、紅紫の閃光が無数の糸となって襲いかかる。
物質化した邪視、鞭を振るうかのような瞬間的な攻撃。
両の義肢を交叉させて防御する。
十二番義肢は先程の激闘で完全に残骸となっていた。咄嗟に左腕を前に出す。
「換装・四十五番!」
知覚している世界全てが急速に遅くなっていく。
左腕の外側に光が収束し、創造されたのは丸い盾。外周部には呪文の列と時刻を示す数字が刻まれている。それは針の無い時計なのだった。
刹那、脳裏に広がる魔女のイメージ。
灰まみれの廃園に佇む、虚ろな目をした結合双生児の魔女。
全ての邪視は未だ届かず、その隙に盾を視線と身体の間に割り込ませる。
時間を狂わせる呪文によって神速の邪視が到達するのを遅らせているのだ。
丸盾の表面が輝き、立体呪文円を展開して邪視の猛攻を弾き返す。
更に盾の周囲に灰が散布されて左腕を中心に俺の全身にまとわりつく。
こちらの姿が隠れて視線が通りにくい状態になっているはずだ。
迫り来る邪視を減速させつつ自分は加速してやり過ごし、大きめの瓦礫を探して遮蔽物の陰に身を隠した。
消耗したこの状況では、戦力の不明な相手と正面からぶつかるのは避けたい。
俺の内側で『私』が主を取り戻せと主張しているが、一時的に感情を抑えて貰うしかなかった。
当然、アルトを放置するつもりはない。
今や奴は『トリシューラのガロアンディアン』にとって最大の敵だ。
――ごく自然に口にした名前。何か、忘れているような。
違和感はすぐに消えた。
上空から更なる脅威が襲来したからだ。
いつのまにか、アルトの背後には巨大な塔が屹立していた。
天を衝く塔の最上階からゆっくりと幾つもの影が降りてくる。
浮遊する異形。それらは途轍もなく歪な人形たちだった。
「ガロアンディアンが誇る魔戦人形師団、その中でも選り抜きの最精鋭たちが今、全て揃った。この機会に紹介しよう。集え、我神十二限界よ」
召集に応じて王の前にずらりと居並ぶ十二体。
奇しくもこちらのガロアンディアンが擁する精鋭たちと同じ集団の名だ――というよりおそらくはトリシューラを意識した命名なのだろう。
アルトの左右には常に人形姫の傍に侍っていた騎士と呪術師の人形。
前列には先程まで箒の魔女らと戦っていた人形たちが集う。
その数四体。不気味な肉塊、両目に杭の刺さった吟遊詩人、硝子でできた棘の王、目蓋と口を縫い合わされて大鉈を手にした処刑人。
ルバーブの知識によれば、彼らはいずれもラフディの歴史に名高い王や英雄たちなのだという。驚くべき事に人形たちがアルトに近付いた途端、戦いの傷が時間を巻き戻すようにして癒えていった。白い少女が舌打ちする。
「ああもう、倒したと思ったのに! ていうか私もうソムワムンの相手はイヤですよ! リーナやって下さい!」
「ええー私もあれはちょっと。シューらんにパス!」
(じゃあアキラくんにパス!)
緊張感をほぐそうとしているのか素なのか、魔女はわからん。
脅威はあれだけではない。
人形たちの更に前列に並ぶ五人――いや、五頭には見覚えがある。
「竜王国の五将軍――ラフディとの戦いであれだけ圧倒的な強さを見せていた奴らが敵に回るのか」
緑の大樹が動く。
密な樹冠を形成するキノコのような樹木は剣状の葉を揺らして周囲を威圧した。
竜血樹のティリビナ人の勇壮な姿を見て、苦境の中にあったティリビナ人たちは庇護を求めて駆け寄っていく。レオを慕っていたトリシューラ寄りの者たちまでもがこちらを去り、アルトの勢力に吸収されてしまった。
黄色い猫が吠える。
小さく可愛らしいと思ったのは束の間で、一瞬のうちに巨大化したかと思うと上顎犬歯が鋭く伸びて刃の如き牙となった。剣歯虎のサイズはこちらの目がおかしくなったのかと思わされるほどに自在に変わる。幻影にでも惑わされているのか――無数の姿の中に、一瞬だけ垣間見えたのは世界を取り囲むほど長く巨大な蛇だった。尾を喰らう世界蛇の幻影を背負い、長い牙の猫が唸る。
漆黒の巨大昆虫が滑空する。
常識を超えたサイズの蜻蛉が暴風と瘴気を撒き散らしながら空を舞う。背後に付き従うのは四体の虫。死番虫、虻、天道虫、蟷螂。いずれも劣らぬ呪力を有する怪物たち。空を舞う虫の王たちは感情の読めない目でこちらを観察する。不気味な目が放射する穢れが大気を淀ませていった。
白い頭部が飛沫を上げながら浮上した。
地面が波打ち、潜行していた首長竜が鎌首をもたげたのだ。両目は既に妖しく輝き、邪視が発動していることを示している。ちびシューラの分析によれば高密度の『扉』を全身に展開してあらゆるものを水のように透過しているらしい。首長竜にとってはあらゆる場所が主戦場である水中に等しいようだ。
蒼空を引き裂いて急降下してきたのは巨大な翼竜。
キリンのごとく長い首、鳥類のようなくちばし、膜構造の翼には半透明の羽毛が生えており、そこから青い炎を発生させていた。優美なフォルムは神々しさすら感じさせ、清浄なオーラとでも言うべき青い光が広がって地の底から湧き出てくる狂怖の群れを退けていく。
五頭の亜竜が雄叫びを上げる。
当然、その配下である竜王国の全戦力が彼らの号令で動き出すだろう。
六王の一人であるアルトを相手にしている以上、当然の展開だった。
(最悪だ。アルトとマラードが融合して敵に回るなんて)
――やはり、何かが頭からすっぽりと抜け落ちている、ような。
考えようとするが、何ひとつ思い出せない。
おかしいと言えばもう一つ。
マレブランケは十二人。ならば、あと一人の姿が見えない。
疑問に答えるかのようにアルトが妖しく笑う。
掌を下腹部に伸ばし、なめらかな人形の腹に触れた。スイッチを押すような音がして、扉が開くようにアルトの体内が露出する。そこにあったのは生々しい臓器などでは無く、子宮の断面図を模した門だった。
開ききった門の奥には無限の深淵。
暗黒の彼方に無数の光が生まれ、次々と飛び出してくる。
眩暈のするような王の出産。
天高く飛翔した正体不明の光はどこまでも遙かな空へと舞い上がった。
そして、美しき王が流星を招いたように。
――愛が降り注ぐ。
塔の頂から空へと広がっていく暗雲が一斉に泣き出した。
生命力を絞り出すかのような必死の泣き声は庇護者を求める全身全霊、安堵を得るまでけっして終わりはしない。
やがてただ待つことに耐えかねた一滴がぽつり、ぽつりと落ちてくる。
かくして豪雨が滝となって流れ落ちる。
泣き喚く赤子の死体が、次々と地面と激突していく。
衝撃で血肉を飛び散らせていく赤子たち。
時を遡るように元の姿に戻り、覚えたばかりの這い這いでじわじわとにじり寄る。真っ赤な眼、血に濡れた全身、再開される泣き声の大合唱。
ぱたりと下腹部の門を閉じて、アルトは言い放つ。
「【扉の向こうのエントラグイシュ】――九百九十九の魂魄から成る愛の亡者。祝福されなかった赤子、偉大なる大地と闇の王子たち。最強の死骸人形にして、個にして軍勢でもある可能性の種子」
絶叫が乱舞する。赤子とは思えぬばねと驚異的な跳躍力で飛びかかり、一瞬で生え揃った石製の歯で噛み付いてくるエントラグイシュ。首筋狙いの襲撃は軌道がわかりやすく回避は簡単だったが、数がとにかく厄介だった。
地上に落下した赤子たちは攻撃の失敗を知ると即座に唸り声を上げて側面に回り込もうとする。這い這いから立ち歩きに移行している個体も確認出来た。
「こいつら、成長して――?!」
グロテスクな光景が繰り広げられていく。
赤子の背から肉腫が盛り上がり、その中から巨大な赤子が誕生。
それらが結合し、多頭の赤子に変貌、口から激流としか形容のできない凄まじい勢いの嘔吐をして攻撃してくる。全力で回避。吐瀉物は遮蔽物を溶解させ、大地の上でぶすぶすと泡を立ててしばらくその場所に溜まっていく。
時間の経過と共に脅威度を増していく人形の軍勢。
俺も三人の魔女も数の暴力に押されて撤退を余儀なくされる。
アルトは満足そうに子供たちを褒めちぎった。
「良くやった、可愛い子供たち。お前たちのはたらきには私が永遠の愛で報いよう。そう――親としての責任は、この私が果たさなければ」
アルト王が展開する軍勢はどこまでも強大だ。
まず間違い無く勝てない。そう確信した俺とトリシューラは撤退を決定。
(あいつは必ず倒す。マラードも取り戻す。だから今は堪えて乱髪。シューラがアルトを倒して真のガロアンディアンの女王になるために、あなたの力は絶対に必要なの)
ルバーブの内心は荒れ狂っていたが、彼にはそれを制御出来るだけのたぐいまれなる忍耐心があった。野太い腕が震え、歯が食い込んだ下唇から血が流れる。そうして、自らを落ち着かせるように一度深く息を吸い込んだ。
「必ず、お救いします」
頭上のアルトに、そしてその中にいるもう一人に宣言する。
主を取り戻す。ただそれだけを至上の目標とする彼は、激情を抱くと同時に『現状それは難しい』という理性的な判断を下すことができた。
アルトのどぶのような独眼に一瞬だけ光が宿る。グラデーションを描く髪が青と白に切り替わり、唇が震えて誰かの名を呼ぼうとする。
「く、ああっ」
呻きながら頭を押さえるアルト。側近の人形たちが傍に寄って声をかけた。
「レッテ、レッテ、大丈夫?」
「やっぱり人格を保持したまま融合なんて無茶だったんだ! はやくお姉様の調整を受けないとレッテが消えちゃう!」
沢山の赤子たちも動きを止めている。
なんだか知らないが、今がチャンスだ。圧倒的兵力の壁を越えることはできなくとも、反転して彼らから逃げることはできる。
「転進するよ!」
本体のトリシューラが銃声と共に到着。
戦闘用の飛行ドローンに人形たちの足止めを命じて突破口を開く。呪文の座の魔女たちも合流し、人形と狂怖が入り乱れる混沌とした戦場を駆け抜けた。混乱は未だ収束の気配を見せず、第五階層は更なる暗黒の中へ落下し続ける。
追いかけてくる人形の軍勢から逃げる、逃げる、ひたすら逃げる。
ここは異形、奇形、死と退廃と醜悪と薄暗い美が融け合う世界。都市が融ける。戦場が歪む。ねじれて狂って吐瀉物を固めたような構造物が塔となって乱立する。あまりに大きな異常を許容できなかった都市が嘔吐しているかのよう。
ガロアンディアンは混沌を許容する。
この光景はその醜悪さに着目して描き上げた戯画だとでもいうのだろうか。
「不快だな」
青天の霹靂。彼は前触れもなく現れた。
雷撃が宙を走り抜け、まず人形の軍勢を、そして地の底から湧いてくる狂怖の群れを一掃した。稲妻を操る呪術師は重力を無視するかのような跳躍をすると、狂怖たちの中核であるイェレイドの頭部に軽やかに着地。
赤い眼が酷薄に揺らめいた。
「やっぱり混沌の温床であるジャッフハリムは敵だよ。ああもう、うんざり! 結局この時代でもこれの駆除をしなくちゃならないんだもの」
少年は軽く頬を膨らませ、兎耳を軽く動かした。
その背後で、半透明の三頭犬が牙を剥いて世界を虹色に染め上げる。
多彩な呪力を帯びた光の矢が乱舞してイェレイドを貫通、蹂躙して塵にした。
狂怖という名は彼の前では安っぽい言葉に過ぎず、あれほど恐ろしげだった化け物たちは珍しいだけの動物に堕する。
真に恐るべきは理性を持ちながら正常に狂っている存在だ――そんなことを思わされるほどに、ヴァージルという少年が纏う雰囲気は異様なものだった。
俺たちには見向きもしない。トリシューラを敵として見ていないのか、ヴァージルは錯乱から回復してこちらを追いかけてきた同格の王を睨め付ける。
「不快なのはあなたもだよ、アルトおじさん。いや、アルトおばさんかな?」
言ってからおかしそうに小さく笑う。
「むかし言ったよね。ガロアンディアンは、いずれ言震を引き起こすって。僕はそんなの許さない。あんな悲劇はもう二度とごめんだ」
「それを防ぐための予防局、そして精神加工だ。マラードの力が手に入ったいま、ガロアンディアンが崩れる要因は無い」
「へえ? ほんとに?」
向かい合う二人の間には奇妙な緊張が漂っていた。
舞台の上では知ることのできなかった因縁。
長い年月を死人の王として過ごし、女神の下で戦い抜いてきた二人の対話が何を巡るものなのか、咄嗟には理解し難い。
ヴァージルは両手を広げて身体全体で感情を表現していく。
「人々が引き裂かれ、怯え、理不尽に全てが狂い、美しい世界が崩れていくあの光景。なんてひどいんだろう。僕はそんな混沌を否定する。世界にふさわしいのは秩序と完全なる統合だ」
ヴァージルは右手に漆黒の『断章』を、左手に青い髪のラクルラール人形を乗せてまっすぐな言葉を紡いだ。魔導書が夥しい量の呪文の列を吐き出し、ラクルラールがカタカタと口を開閉してアルトが支配する人形たちの制御を乗っ取っていく。驚くべき事に、ラクルラール人形はヴァージルによってクラッキングされたことにより管理者権限を完全に明け渡してしまっている。
「誰もが健やかに人生を歩める優しい世界。人と人とを繋いでくれる古く絶対なる『ことば』の力で、僕は王国に平和をもたらす」
(絶対言語の探究が目的ってことかな? あらゆる言語魔術師の悲願だけど、ヴァージルはそんな典型的な目的で動いてるのかな?)
ちびシューラは不審がっている。美しい少年が真剣に口にする美辞麗句を素直に受け取れない彼女は心がねじ曲がっている。当然、俺も同じ意見だが。
ヴァージルは、レオではないのだ。
真っ赤な目は血のような光を湛えて世界を映している。
俺は彼の物語を知らない。
サイザクタートを通したヴァージルというフィルター越し、しかも核心となる本人の物語にはその断片に関わったに過ぎない。
他の王たちも似たようなものだが、ヴァージルのそれは他にも増して焦点がぼやけているというか、本人に焦点を当てることを拒まれているような感じがあった。
彼がどんな王なのか、俺は全く知らないと言っていいのだ。
「世界が平和になって、みんなが手と手を取り合えればいい」
美しい言葉は呪文だ。醜いものを退ける聖なる祈りでもある。
ヴァージルの理想に満ちた言葉が狂怖によって汚染された一帯を浄化していき、穢れた異形たちは次々と消滅していく。全ては少年の純粋さがなせる業だ。
心が綺麗なものが聞けば、あるいは発言者と心の距離が近ければ、響きもするのだろう。あいにくと、俺たちは違う。
「『不変なる言語』――唯一無二の呪文によって創造される王国の法。僕は、それが見たい。ヴァージル・エリーワァ・イルディアンサの望みはそれだけなんだ」
「下らない妄想は終わったか」
「あなたが邪魔だ、はりぼての王」
「全軍、前へ」
アルトとヴァージルが激突する。
呪文と呪文が空中で炸裂し、仮想使い魔と人形が破壊を撒き散らした。
異形の軍勢に対抗するように、幾何学的な水晶の板が幾つも飛来して雷撃の呪文を放つ。整然とヴァージルの前に並ぶ秩序だった砲列にアルト側が押されていく。
「人形使いが王さま気取り? トライデントだっけ。センスが無さ過ぎる細胞名じゃない? 髪の毛だなんて、発想が時代遅れだよ」
「お前もまた過去の遺物だと教えてやる。『健康』などという幻想が、現代で通用すると思うな」
対抗するように異形の人形たちを前進させるアルト。
球体を奇形的、グロテスクに組み合わせた異様な人形たち。
二つの下半身を持つ人形。眼球の関節。複数の乳房が関節部分に嵌った胴体。結合双生児。捻れたり膨らんだりした異形の人形。切開された傷口から黄色い胆汁が流れて膿となる。包帯からは饐えた匂い。
『健康』というミームを否定するかのようなドールたち。これはデザインによる思想攻撃。両者はお互いに決して相容れない敵同士だった。
苛烈さを増していく王たちの戦い。
混乱に拍車をかけたのは再起動した炎の天使。
自己修復を完了した意思無き破壊者は、新たな敵を殲滅すべく呪力反応を追ってここまでやってきたのだ。
聖なる炎が呪文の雷とぶつかり合って、金色の鎖がヴァージルの腕に絡みつく。
あらゆる呪文を無効化する炎天使に少年の攻撃は全く通用しない。
「――へえ?」
何故か、ヴァージルは愉快そうに笑みを浮かべた。
次々と有利不利が入れ替わる戦場では、もはやアルトも逃げていく勢力を気にかけている余裕は無い。いくらかの手勢を追っ手として割くことはしたが、その程度ならば十分対処可能だった。
激戦に背を向けて、俺たちは逃走を続ける。
ヴァージルがあの場面で介入してきた意図はわからない。
勢力の均衡を考えてのことかもしれないし、全く別の目的があるのかもしれない。いずれにせよ、油断して良い相手ではなかった。
「じき別働隊と合流できる! みんな、もうちょっとだから頑張って!」
トリシューラが後続を励ましの声をかけた。
続く説明によれば、なんでもレオや蠍尾たちと連絡がとれたらしい。この近くにはトリシューラが各地域に建設した呪術医院が存在しており、地竜が暴れたあと散り散りになったトリシューラの部下たちは拠点であり避難所でもあるその場所に集まっているとのことだ。
しばらく移動を続ける。
トリシューラとルバーブの身体に宿る俺、地上から来た三人の魔女、それから負傷しながらも逃げ隠れしつつしぶとく生き残っていた銃士をはじめとした少数の兵士たちは、揃って大きな呪術医院に到着した。
敷地を覆う鋼鉄の外壁は上空にまで呪術障壁を張り巡らせ、電子的・呪術的な監視網を完備。対呪術戦用の妨害装置まで揃っている上に完全な生体・霊体認証により内側から崩れるリスクも低減させている。
城砦の如き門を潜り抜け、幾重にも張り巡らされた認証の網を通過して敷地の中に入る。広大な敷地が狭苦しいほど大きな白亜の病院が俺たちを中に誘う。
一目でルバーブが俺であると理解したレオと互いの無事を喜び合い、当然のように五体満足で生きていたカーインが俺を胡乱げな目で見ながら「紀人というやつは――」などと嘆息する。マレブランケの別働隊がトリシューラに改めて対面で状況を報告し、トリシューラもまた矢継ぎ早に行動を指示していく。
怪我人の収容と治療、避難者への対応、物資の確保、戦況の把握。
やることは山積みで、おそらくはこれから更に増えていくだろう。
「女王陛下。お耳に入れたいことが」
そんなふうにトリシューラに耳打ちしたのは牙猪だった。
知らせを聞いて、トリシューラと俺は首を傾げつつある病室に向かう。
理由はわからないが、優先順位が高い問題であると判断可能だったからだ。
その個室には簡素な病人着を身につけた一人の男がいるのみだった。
知っている男だ。多分。そのはずだ。
「瓦礫の下から救助ドローンが救い出してきたのですが」
困惑したように牙猪。俺もどう反応すべきかわからずにいた。
寝台の上で上体のみを起こしている屈強な体格の男は、隻眼だった。右目には爪で引っ掻いたような傷痕がある。ふと、マラードとアレッテが融合した真竜王アルトを思い出す。六王の一人にして今や俺たちガロアンディアンの名前と存在を上書きしようとしている最大の敵。
――やはり、何かがひっかかる。
ぼんやりと窓の外を見つめる隻眼の男を知っているような気がして、俺は声をかけた――かけようとした。そして失敗する。
「『 』?」
口を開いた瞬間までは、名前を知っているような気がしたのだ。
記憶はある。再演の舞台で演じたことも、グレンデルヒやゾーイとの激戦も、愉快な食事会も、その後のブウテトを中心とした騒がしい日々も。
しかし、その中から『 』の名前だけが欠落している。
そして、何度見てもこう思ってしまう。
『これは誰だ?』と。
男はこちらに気付き、困惑したように呟く。
「ああ、もしや、この病院のかただろうか」
トリシューラが肯定して、電子カルテを見つつ直接の症状を訊ねた。
どうやら外傷は無いようだが、トリシューラの表情は険しい。
「どう説明すればいいのかわからないのだが――その、まずはここがどこなのか教えてもらえないだろうか。それから、いったい何が起こっていて、何があったのかも教えて欲しい。何しろ何も思い出せなくてな。もしや、『 』の――」
そこで男は口をぱくぱくとさせてもどかしそうな表情を作った。
それから諦めた様に首を振り、
「ああ――だめだ、駄目だ! 考えようとすると、視界がぼやけて意思が強く持てなくなる。いったい誰がこの世界を見ている? ここはどこだ。わ、わた――『 』とは、誰なのだ?」
隻眼の男は――『 』は、何もかもを失っていた。
過去を、立場を、同胞を、そして己自身を。
残ったのは、何者でもない空っぽの残骸だけ。
そこには、荒廃した設定群があった。
打ち捨てられた物語、最初から最後まで死んでいる登場しない登場人物。
画期的な舞台装置は死蔵され、小道具たちは一度も舞台に上がらない。
舞台裏では音響機材が軒並み機能を停止し、破壊の嵐が豪奢な衣装を無残な布きれに変えてしまっていた。
パーン・ガレニス・クロウサーが仰向けのまま虚空を漂っている。
機械の右腕は肩口から失われ、義肢の破片は周囲に散らばり、傷だらけの肉体が力なく宙に浮遊しながら倒れている。
彼の前には片足で立ち、両手を互い違いに頭上に持ち上げた奇妙なポーズをとる男性型の球体関節人形がいた。四番目のラクルラールと名乗った存在は無傷のまま口を開く。
「奴隷は奴隷――造物主には抗えぬ」
人形の指が目に見えない糸を手繰った。特に物語に関わることのない設定の群れが淡い輪郭を形作り、幻影の人形となって男の周囲を踊る。
狼の魔将を倒すためにそれぞれの野望を抱えて集まった三人の探索者それぞれの来歴、草の民社会における因習と次期族長を巡る暗闘に巻き込まれた青年の苦闘、亜大陸の闇を這いながら癒しと救いを求める治療師の巡礼、盗賊王の庇護を離れて神敵との戦いに身を投じるようになった拳士の戦歴、魂無き少女が色の無い部屋で生まれて育つようになった顛末、平和を訴えていた学生が弾圧と絶望を経て教会を破壊しながらツアーライブを行う悪魔崇拝メタルバンドを結成する長い旅路、迫害の歴史を背負う隠れ人狼の少女が恋をして愛を失い老いたのち義理の娘と激動の世界を生き抜いていく記録――。
それらは亡霊となって糸の導きに従う。
死せる設定だけの人形たち。形無き亡霊を操り、語られざる物語を支配する。
それが第四のラクルラールが展開する物語空間であった。
ゆらぎ重なり合う神話の中には生かされることなく、生まれただけで放置され、そのまま忘却された設定と言葉の群れが幾らでも存在する。
その物量。いかに万夫不当の六王といえど、そう抗えるものではない。
ラクルラールはパーンから関心を失ったように真下を――位置関係としてではなく、観念的な下位の世界を――見下ろした。
「虐殺には文法がある――人間集団の傾向や性質が一定の枠内に収まるのなら、その振る舞いを理解することで新しい虐殺の呪文を唱える事ができる筈」
彼が見ているのはラフディという王国の顛末。
滅び行くさだめの夢の王国。
丸い大地に神を見出す、堕ちてきらめく流星の国。
その美しさと醜悪さ。
王が創り出す都市の栄華と場当たり的な愚かさの正義が生み出す虐殺の零落。
ラクルラールは実験室でマウスを眺める研究者のようにそれらを眺める。
「サイバーカラテ、集合知の幻想、叡智の妖精、混沌の申し子。毒と薬は違う角度から見た別の顔に過ぎん。敵を駆逐する武力は容易く暴力に――虐殺に堕するということを、そろそろあれらも正しく理解できただろうか」
くるくると踊る。
手首を折り曲げ、肘で弧を描き、片足立ちのまま奇妙なバランスを維持し続ける。狙って妙な姿勢を維持しているようにも見え、それに纏わる裏話もまた表には出ない死んだ設定として彼の操り人形となって具現化していく。
「既に幾人かの『シナモリアキラ』たちは目覚め、サイバーカラテの真なる最適を模索し始めている――プロメテウスはじき役目を終える。次世代へと椅子を明け渡す時が来たということだ」
視線の先の下界にいくつかの光が灯る。
ミニチュアの箱庭、第五階層に蠢く無数のサイバーカラテユーザー。
理論派のインドアユーザー、実践派のアクティブユーザー、議論トピックにおいて存在感を示すユーザー、粘着と迷言を次々と繰り出す名物ユーザー、劇的な演出や巧みな話術を用いた配信で人気を高めるアイドル的ユーザー、そしてランキング上位で切磋琢磨する真の強者たち。
そうした多様なサイバーカラテ、シナモリアキラ性を有するあらゆる存在に付与されていく属性がある。それは虐殺者。それは殺人鬼。それは破壊者。
「終末。末世。致命的な破局――すなわち言震。それこそが、『最後の救世主』を誕生させるための呼び水だ。わかっていような、塔の人形姫よ。諦めと絶望こそがお前が操るべき人形なのだ」
誰かに確認するかのように、男は神妙な口調を作る。
「過日の地上での騒乱――魔将復活によってこの世界槍の秩序には確実に亀裂が入った。あと数手で世界を砕ける。戦乱、暴動、虐殺、それら全てが終わりを加速させていく。そして救世の紀人は現れる。世に求められるが故に、必然として」
あるいは、誰かに説明するように。
誰に? この独り舞台を見ているものに。
「下位の『細胞』を幾つか失ったが、彼らの犠牲は無駄にはならない。流血と屍がトリアイナ様の降臨を促すのだ。そう、無力な奴隷どもは神の運命には抗えぬ。流れに従い、全てをゆだねるのみ」
そして瞑目する。
遺言のように言い残した。
「己の屍、己の敗北もまた無駄ではない。この身もまた供物となろう。あとは頼んだぞ、過去と未来の垣根の上に立つものよ。たとえ塔の外に諦めの荒野しかなかったとしても、最果てに救いがあると信じるのだ」
直後、遥かな天上より途方もなく巨大な構造物が落下してラクルラールを叩き潰した。ありとあらゆる機械の残骸を寄せ集めて際限なく質量を付け足していったかのような塔、ビルディング、あるいは墓標のような何か。
底部から延びるカーボン製チューブが触手のようにうねって残骸を捕獲。人形だったものを構造の中に取り込み、ゆっくりと本体の下へ戻っていく。宙に浮かび気を失っているパーンの肩口へと。
それは塔などではなく、巨大な義肢だったのだ。
自己改良型の杖式オルガンローデ。
『残心プリセット』によって予め起動準備がされていた逆転の切り札。
かつてパーンの義肢はマッスルコントロール方式――筋肉の微弱な電位差を感知して動く筋電義肢だった。加えて電波による命令を飛ばすことで規定の動きをスムーズにこなすことのできるロボットアームでもあったから、これは古代の義肢としては常識外れなオーバーテクノロジーだ。とはいえ、ブレインコントロール方式のガロアンディアン製義肢に比べるとどうしても見劣りしてしまう。
パーンは現代に甦ったあと、『サイバーカラテ道場』経由で『残心プリセット』を義肢に組み込み、仮想使い魔を義肢内部に常駐させることで半自律的に作動するドローンアームを完成させた。パーンにとって義肢とは体の一部であると同時に使い魔でもあった。古代と現代、呪術と異界の技術、それらが渾然一体となったサイバーカラテの力を十二分に使いこなしているパーンに隙は無い。
付け加えれば、パーンは生前にトロルの王ベフォニスを倒し、紀人ラウスの右腕を強奪している。彼の代名詞でもある『右腕』は紀人にも届き得る。
そして拡張と自己改良を繰り返す機械義肢とはサイバーカラテの産物に他ならず、それはシナモリアキラの属性を有する。万人に開かれたサイバーカラテ=シナモリアキラという存在は、誰であろうと紀人に挑み打倒する機会とその土台を作りだしているのだった。
静寂に満ちた空間で、パーンが緩慢に目を開く。
わざとらしく欠伸をしながらひとりごちた。
「なんだ、寝ている間に終わったのか――ふん、相手が弱すぎるというのも困りものだな。退屈過ぎて寝てしまった」
たとえ実際にはそれなりの激闘を繰り広げ満身創痍に追い込まれるも起死回生の布石が機能したことによって勝ちを拾ったという事実があったのだとしても、そのような現実そのものを否定して無かったことにしようという強い意思を感じさせる呟きだった。自分自身に向けた呪文。認識が肉体を変革させ、邪視が『我』という宇宙を変容させていく。
圧勝だった。
傷一つ無いまま、パーン・ガレニス・クロウサーはラクルラールという羽虫を一瞬で叩き潰した。敵の姿は塵一つ残っておらず、紀人として普遍化した存在も矮小化している。僅かに残った『名前』という存在を、青い流体が取り囲んだ。
禁呪とも呼ばれるクロウサーの秘術の一つ。
融け合う呪いは共有の呪い。
与えることと奪うことを同時に行うが、パーンという圧倒的に強固な『我』がそれを使えば、与えようが奪おうが結果は同じだ。
パーンが全てを塗りつぶす。
融血呪で一つになれば、『強い方が残る』という単純な結果だけが残る。
それは『個々の強い部分だけが残る』ということにも繋がり、歪に融合した結果として個体としてのバランスを欠いた異形をも生み出しかねないのだが――。
「我が名はパーン。『全て』である者。下らん端役が、俺の覇道を妨げるな」
内側から自我を侵食しようと蠢動するラクルラールを、パーンは強引にねじ伏せた。ギリシア語あるいは英語由来の名はこの世界でも確かに力を有し、彼に己の力に対する確信を与える。とはいえパーンは己の名が何に由来するかなど知らず、
「全ての生命の起源、パンゲオンに由来する名だ。俺の宣名圧は他の六王を圧倒し、女神たるフェロニアのそれに迫る。羽虫に抗えるはずもない」
と常識的な解釈をしている。神話における万物の祖パンゲオンに由来する名前は彼の生きていた時代にはそれこそ五人に一人という割合で存在していた。
そしてその意味もおおよそ『全て』ということになっているので、特に問題は発生していない。来歴が消え、結果だけが同じものとして残っていた。
完全な勝利を収めたパーンだが、その表情は険しかった。
アストラルの腕を伸ばして巨大な機械腕から部品を引き抜く。スクラップ同然のそれらがパズルを組み合わせるかのようにごく普通のサイズの義肢を構築した。
「勝ったな――勝ったように思える。だが、この下らぬ戦いで得たものは何だ? 消耗と禁呪からの侵食。そしてトライデントとやらの因子の吸収。結果として俺が連中に近付いただけだ」
トライデントは使い魔の魔女。関わりが広がり、深まり、強い個体と繋がるほどその力を増す。たとえばパーンのような。
彼は無意識のうちにトライデントという総体に奉仕している。
パーンはパーンのまま、存在を許容されながら飲み込まれつつあるのだ。
ここに至って、彼もまた漠然と大いなる意思を感じていた。
安らげる胎内に回帰してよいのだと囁かれるような心地。
あるいは、融血呪という禁戒の代償とは――。
「クロウサーの奴隷、ラクルラールの奴隷、トライデントの奴隷。そんなものに甘んじる俺ではない。ならば『俺』を固定化する中和剤が必要だ――なるほど、それが氷血呪というわけか」
一瞬の閃きのみで結論に辿り着いたパーンは独り芝居を続ける。
誰もいない彼だけの空間は、彼の脳内世界のようなものだ。
整理された思考が台詞という形で彼の周囲を巡っていく。
遠く、下界を見つめる。
第五階層の中央にそそり立つ、品の無い形の巨塔を睨め付けた。
「俺の『自由』を勝ち取らねばな」
鋭い眼光が敵を見据え、青い睥睨が獲物を貫いた。




