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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ
143/272

4-31 王と物乞い




 死人の森の断章は、失われた言葉を代弁する。

 悲しみ、苦しみ、喜び、慈しみ――ありとあらゆる想い。

 激しい怒りの熱量さえ、余さず全て燃焼させていく。


 【愛情】は怒りに震えていた。

 激情の矛先は、高みから下界の悲劇を嘲弄する悪意に向けられている。

 運命の操り糸を垂らしながら、邪悪な魔女が芝居めいた口上を述べた。

 糸が繋がるのは紋章の刻まれた呪石。

 魔女が王に護符と偽って預けていた呪いの道具だ。

 それが哀れな人形の王を操っているのだ。

 底の無い悪意。濁ったどぶのような声が美しいものを破壊していく。


「嗚呼、なんてかわいそうなマラード。美しいという自負だけが貴方の支えで、王としての自我の基盤だったのに。けれどそれはまやかし。砂の上に作られた脆い塔に過ぎないわ。だって貴方は本当は醜いのだから」


 違う、と存在しない喉が振動した。

 だが、その為の魂は既に失われてしまっている。

 崩壊した円形競技場の中央で、王は大地の槍で串刺しにされていた。

 聖と俗、貴と賤の交換という欺瞞。

 主従逆転の人形遊び。


 嘘という呪術が破綻した結末は、術者の死という型どおりの悲劇だった。

 ラフディの王ルバーブは死んだ。

 唯一絶対であったはずのマラードとの絆が壊れ、命が、魂が、心が砕けてしまったのだ。たとえ奇跡が起きて甦ったとしても、失われた絆は二度と戻らない。

 そしてルバーブにとってはそれこそが死よりも重大な破滅に他ならなかった。


 世界に破壊をもたらしているのは言葉通りの醜い怪物だ。

 悪意によって傷つけられた偽王の成れの果て――かつてマラードと呼ばれていた地竜が嘆くように吠える。荒ぶる爪が、猛る尾が、大地と建造物を粉砕していく。


「大地の民はまあるいものを美しいと感じるの。だから本当はルバーブのような体型こそが美しさの基準。細く整った容貌などにどんな価値があるでしょう。ラフディでは男女問わず、丸く力強いことが美しさの基準なのに――みぃんな、滑稽な貴方のふるまいを見て陰で嗤っていたわ」


 嘘だ。丸く力強いものは美しい――それは確かに古代ラフディに存在していた価値観には違いない。だからといって、その他の美しさが否定されるということにはならない。だが世界を変容させるほどの断定――『邪視』によって全てがねじ曲がっていく。地竜は恥辱に震え、血の涙を流しながら暴れ狂った。


 彼を害するのは言葉と視線の悪意だけではない。猛火が天を席巻する。稲妻と灼熱が雨のように降り注ぎ、大地を焼き尽くしていく。空から舞い降りた炎の天使。恐るべき御使いの怒りによって傷つけられ、地竜は既に満身創痍だった。


 心身を責め苛まれ続けながらも、巨大な質量は進撃を続ける。

 唯一無二の本物を求めて。彼が信じられるたった一つを信じて。

 地竜は今、信じていた全てを失って深く傷付いているのだろう。

 足場から世界が崩壊する衝撃に耐えながら、必死に拠り所を探している。


「どんな物語でも、竜の振る舞いは似たり寄ったり。あなたも同じね、かわいそうなマラード。お姫様を探しに行きましょう。財宝を奪いに行きましょう。残酷な時の流れは待ってくれないけれど、永遠の美しさはきっとこの先にあるから」


 アレッテ・イヴニルの言葉は終わらない。

 呪いのように世界にまとわりつく言葉を、いますぐにでも消し去りたい。

 だがその願いはもう叶わないのだ。

 体は既に死んでいる。

 心と魂、忠誠と信頼は砕けて散った。

 ならばもはや未練すらも朽ちていくことだろう。

 絶望のまま、失意すら土の下へと落ちていく。


 ――本当に?


 問う声はどこから聞こえてきたのか。

 誰が問いかけてきているのか。

 失われたはずの意識が、知覚が、どうして未だに継続しているのか。

 あり得ないという疑問――それに答えるように、一冊の書物が現れる。

 その名は【知識(リコグニション)】――第八の断章。

 担い手の名は、機械女王トリシューラ。


 ――さあ、『 』。新しい――


 鮮血のアンドロイドが操る禁呪は、死を踏破した先に未来を作り出す。

 ゆえに。

 屍と血、記憶と過去の全ては、踏みしめるべき足場に他ならない。

 冬の森で命が終わる。その後に始まるものは果たして何か。

 地の底で眠る種だけがそれを知っていた。




 時間を遡る。

 記憶が逆に流れていく。

 すらりとした美しい男と、丸々とした醜い男。

 二人は常に共にあった。


「ヴァージルは、俺に父親になって欲しいそうだ」


「彼は危険です。あの毒婦もですが、同盟者は慎重に選ぶべきでしょう、陛下」


「しかし、機械女王に対抗するには二人の力は必要ではないか? 見ろ、この黒く染まった妖精と、力ある紋章を」


 狂えるヴァージルからの贈り物は邪悪に染め上げられた『小さな妖精』――機械女王トリシューラの分身たちだ。それを使って女王に攻撃を仕掛けるのだという。

 だが、あの少年は他の六王たちにもこの邪妖精をばらまいているらしい。

 彼の力を使うのはいいが、逆に利用されるのも危険だった。


 そしてより危険なのはもう一人の魔女――アレッテ・イヴニルである。彼女が陛下に渡してきたのは紋章の刻まれた呪石だった。

 国旗に描かれているのと同じ盾の紋章(エスカッシャン)――四分割され、右上が真球、右下が九本の針、左上が赤眼の亜竜、左下が黒い狼となっている。

 それぞれラフディの歴史に深く関わった図像だが、とりわけ左上の【魔眼竜(バーガンディア)】は建国神話にも登場し、この国と竜王国との力関係を決定付ける理由となっている。


 亜竜王アルトは家臣の一人ディルトーワに救われた礼として、娘のバーガンディアを褒美に取らせた。アルト王は降嫁した姫君とディルトーワに当時名付けられていなかったラフディの地を任せ、後にそこは王国となった。


 遡れば、ラフディ王家はアルト王の血脈に連なっていることになる。

 『ラフディは竜王国の月である』と口さがないものは噂する。

 的を外した意見でもなかった。


 亡き姫君の両目を核に作り上げた対の至宝『紅紫の瞳』は両国の絆を証明するものであったが、長い年月の中で失われて久しい。竜王国との関係性は曖昧なまま、歴史家や吟遊詩人たちの呪文によって揺らぎ続けている。


 陛下に渡された魔女の呪具は、竜王国との関係を利用して亜竜王アルトに呪詛をかけるというものだ。陛下と魔女は共謀してアルトを弱体化させようとしていた。


「俺はアルト王を尊敬している。あの偉大な男をどうして敬わずにいられようか。だが、それでも譲れぬものがある。愛すべきカーティスにも、憎きオルヴァの奴にも、俺は負けたくない。六王で最も弱く愚かと侮られることが我慢できないのだ。わかってくれ、ルバーブ」


 真剣な表情。切実な願い。

 これは過去だ。失われた記憶。


「セレス姫は俺に未来を示してくれた。無数に存在し、無限に作られていく見果てぬ恋の道を。平面の世界に広がる架空の恋物語を」


 遡る。陛下と交わした言葉を。


「だが俺はやはり唯一の物語が欲しいのだ。俺にとってセレス姫は唯一無二。彼女の遊戯を、彼女の物語を、我がものにしたいと願うのは傲慢だろうか?」


 その願いを、『私』はどう受け止めたのだったか。

 たしかそう――こう答えたのだ。


「それを傲慢と呼ぶのであれば」


 きっと、私は自らのことを語っていただけだったのだろう。


「世の恋は、全て罪深い悪徳に堕するでしょう」


 それでも、我が主はその答えを深く噛みしめていた。


「そうか。いや、たとえそうであっても構わぬ。罪を抱えて悪徳を追い求めてみせようではないか。そうあることで欲しいものに手が届くのなら、俺は邪悪で良い」


 だが、やはり間違いだったのだ。

 魔女の甘言に耳を貸してはならなかった。

 その先には破滅しかない。

 呪いに縋る弱さが招き寄せるのは、幸いではなく災いなのだから。


 記憶が次々と通り過ぎていく。

 古い光景は加速していく。ぐるぐると廻って落ちていく。

 これは夢だ。

 かつての栄光、色鮮やかな幸福。

 失われた未練、その光景。

 落下の衝撃。

 転落の末に辿り着いたのは、最も古い『私たち』の記憶だった。




 土の声が聞こえる。

 乾いた砂と共に風に吹かれてやって来るその匂いが、しきりに訴えかけるのだ。

 お前は一体何をしているのだ、と。

 叱責から逃れるようにして、ふらりふらりと歩き出す。


 言い訳をするように硬い大地を踏みしめ、あても無く市街を彷徨い、やがて薄暗い路地裏へと迷い込んでいった。暗闇で糧を探す土竜もぐらのように。

 明るい表通りから一歩道を逸れてしまえば、そこには闇が広がっているのみ。

 人狼をはじめとする移民たちが目に炯々と火を灯し、捨てられた子供たちが身を寄せ合って警戒の視線を向ける。ぼろ切れを纏った老爺が歌うようにうわごとを呟き続けていた。


 ラフディの始祖ディルトーワは偉大なる地竜王と讃えられ、その妻バーガンディアは慈悲深い美姫と称された。長命の支配者たちは百年の栄華をこの大地にもたらしたが、その実態はけっして無批判に賛美できるようなものではなかった。

 功罪相半ばする王の施策。それに対する批判で最も多いのは、王としての権威をそのまま他国に預け、依存していることだった。


 竜王国によって与えられた国土と王権、そして王族の血。

 始祖ディルトーワは亜竜王アルトの許しを得てこの大地に王国を築いた。大国の王であったアルトは娘である魔眼竜バーガンディアをディルトーワに与え、王族の血統という名の権威を授けたのだ。更には姫君の護衛という名目で近衛騎士団を送り込むことによって『力』までもを与えた。しかしそれはラフディにおける王権の神秘性と軍事力を竜王国が掌握するということに他ならない。


 加えて多種族共生を掲げる竜王国の理念をそのままラフディに持ち込んだ王妃は、人狼種族の大規模な移民受け入れ政策を実行した。様々な神話で大地の民と親和性が高いとされる種族ではあるが、急激な変化は相応の歪みを生み出す。その反動は、確実に後代に響いていた。


 繁栄する王の都、その影に蠢く無数の人狼たち。

 今は亡き悲劇の王妃が遺していった負債が『これ』だった。

 ここは掃き溜めだ。

 掏摸(すり)が、たかりが、強盗が、詐欺師が、薬物中毒者が、狂人が、入れ替わり立ち替わり現れて金と命を要求する。


 哀れみと怒りを感じながら球貨を地面にばらまいた。途端、誰もが熱心な物乞いに早変わりする。足早にその場所を立ち去って、複雑に入り組んだ路地裏を彷徨い歩く。迷路じみた曲線の道を進む目的は特には無かった。ただ、この場所を見ておきたかった。目と耳で知っておかねばならないと感じていたのだ。


 それがこの身に課せられた責務。

 重い、あまりに重い呪い。

 こんなものはいらない。『これ』は、ふさわしい者の手に渡るべきだ。

 自分の居場所はここではない。

 ずっと、足場の頼りなさに不安を抱き続けてきた。


 迷路を歩く。心を映し出すように、世界は暗く入り組んでいる。

 と、腹のあたりに衝撃を感じて立ち止まった。

 小さな何かがぶつかり、反動で跳ね飛ばしてしまったらしい。弾力のある腹部に激突すれば自然とそうなってしまう。


 地面に倒れた相手を見下ろして、驚きに目を見開いた。

 少年だった。驚愕すべきはその容貌である。

 やせっぽちの幼い体つき、強気にこちらを見上げる視線、向こう見ずな負けん気の強さ、大人に見下ろされているという恐怖に打ち勝とうとする意思の強さ――なにより、輝かんばかりに愛らしい顔の造作。泥で汚れ、不健康に青ざめた顔色であってもその価値は損なわれることなく、むしろ一層の輝きを見せていた。


 だが――周囲を通りがかる者たちはその子供を見ると顔を顰めて舌打ちし、唾を吐いて罵倒する。土に汚れて乱れた長い髪が不格好であるというのがその理由だ。髪の美しさは魂の美しさ。たとえその日の暮らしに困っても髪の手入れは怠るなというのが大地の民に伝わる教えだ。少年に蔑みが向けられるのも無理は無い。


 知った事か。

 誰もがその価値を否定しようとも、自分だけは知っている。

 これは輝きを煤で覆い隠された宝玉なのだ。

 誰も暗闇に目を凝らそうとしない。

 それは愚かなことなのだと、本当の意味で理解する。


 少年の境遇を思い、痛ましさに胸が張り裂けそうになる。

 足の鉄環に千切れた鎖。逃亡奴隷に違いない。握りしめた木の枝は武器のつもりなのだろうか。威嚇するようにこちらに向けている。貧民街での生活のためか、長い髪は薄汚れてしまっている――それこそはあらゆる国宝と引き替えにしても惜しくない絶対の美であるというのに。


 世界は今、その意味を失っている。

 全てはたった一つの答えの為にあるというのに、世界は本来の姿をまだ取り戻していない。本当の王に玉座を預けていない。

 王国が抱える歪み、己が足下に感じていた不安、全てはこの為に用意された布石だったのだと確信した。


 欲しい、と思った。

 それは根源的な欲望だった。

 余りにも醜く、余りにも邪悪で、余りにも罪深い。

 許されざる大罪。ゆえに感情を殺し、思考を巡らせる。

 しばらくして、言い訳のように口が開かれる。

 うすら寒い台詞がすらすらと流れ出した。


「ひどいものだ。労働移民への差別、貧困層の暮らしぶり――私はこの国を本当に知っているとはとても言えぬ」


 怪訝そうな視線。

 当然だろう、この場所でそんな事を口にするのはよほどの篤志家か喧嘩を売りに来た命知らずのどちらかだ。いずれにせよどうしようもない阿呆である。そう思ったのか、少年は関わり合いになるまいと一歩後退る。


「私と入れ替わってみないか、少年」


 足が止まる。逃がすまいと放たれた言葉は、狙い通りに少年を掴まえた。

 堕落を感じた。心を言い訳で固めながら、正しさを偽装する。

 大義名分が必要だった。この身の醜さを肯定し、欲望を叶える為に。

 少年の無知と哀れな境遇につけ込んで、邪悪を達成する。


「王となればどのような望みも思いのままだ。君は何を為したい?」


 権威を証明する。土塊から作り上げた輝く王冠を、囁くように音にした地の底を鳴動させる宣名を、少年はへたり込んだまま怯えて見聞きしていたが、やがて顔を上げて言い放った。


「なら俺は、ぶっ壊したい」


 激情を炎と燃やして、真っ直ぐにこちらを睨む。

 幼い瞳に、はっとするような煌めき。

 それは星に似ていた。


「このくそったれな場所を無くしてやりたいよ」


 壊したい、と少年は言った。

 それは怒りであり敵意であり恨みであり憎しみであり――同時に輝くような希望でもあった。少年が願う破壊には、未来があったからだ。


「嫌なもの、全部無くせば、もう苦しくなくなるだろ。もう嫌なんだ、バカにされるのも、唾を吐かれるのも、蹴り飛ばされるのも! だから」


 その願いを、引き上げてみせよう。

 幼い意思を磨き上げたなら、それはどんな輝きを放つだろうか。

 瞬間、小さな煌めきに無限の可能性を夢想していた。


「できるものなら、俺をここから連れて行ってくれ!」


 この人生の全ては、いまこの瞬間に彼を攫うためだけにあったのだ。

 確信は得た。さあ、呪いを始めよう。

 王に跪く惨めなルバーブ――私の生は、この瞬間から始まる。

 手始めに、自らの髪を惨めに汚す所から始めよう。

 真に美しいものは、ひとつでいいのだ。




 室内に足を踏み入れると、眩暈のするような極彩色が目を襲い、続いて誘うような香りが鼻をくすぐった。煌びやかな飴虫模様に彩られた外壁は絶え間なく色彩を反転させ、床に敷かれたハイダルマリク風の織物は渦を巻くようにして中央に獲物を引き摺り込もうとする。ドラトリアの猫目石が埋め込まれた浮遊円柱は不可視の力で半球状の天蓋を支え、こちらを見て一礼するサーク・ア・ムントの裸体像たちの笑顔は相変わらずぎこちない。


 跪く。拳を床に落とし、然る後に手を開いて上に向けた。まじないに満ちた室内の敵意が和らぎ、蠢く調度品の数々が停止する。不作法者は異国風の部屋に喰い殺される定めだ。


 スキリシアから伝来した青麝香アオジャコウの白粉にも似た空気が漂う室内は、甘く、苦く、そして微睡みを誘うような平穏で満たされている。目を眩ませるまじないが消えた後に残るのは、魅惑する芳香のみだ。


「面を上げよ」


 主の言葉に従い立ち上がる。ここではまだ顔は上げない。

 背を丸めたような姿勢のまま歩いていく。正式な作法では丸まって前転を繰り返すのが良いとされるが、廃れた風習だ。完璧な球形に変化できる者も数を減らしてしまった。時代は移り変わる。


「どうした、忠実なるしもべよ。俺たちの間で何を遠慮することがあるだろうか」


 二度の許しを受け、ようやく顔を上げる。

 そこに、この世の至宝があった。

 かんばせは太陽に等しく、直視するには眩し過ぎる。

 完璧な形を保った頭部から大地に降り注ぐのは陽光にも似た輝く長髪。


 髪は呪的な力を宿す。

 美しく艶めく髪ならばその呪力は一層高まるという。

 王の髪が纏う妖しき呪力は、およそ古今東西の呪物が束になってすら匹敵するかどうかという程である。この世で最も美しい髪の持ち主とは誰か? その答えを知らぬ大地の民はいない。


 ――これが、かつて路地裏で土埃に塗れていた髪だとは誰も思うまい。


 世界は騙されている。偽りの呪いが王国を覆い尽くしている。

 入れ替わりは実現した。大賢者オルヴァの指導を受けて習得した『王の交代劇』という大呪術は世界の全てを欺き、今となっては王であるマラードすら真実を忘却している。事実そのものが改変されているのだ、誰も入れ替わりを正しく認識することなどできはしない。

 王の秘密を知っているのは、この世にたった一人。

 秘密の独占。暗い喜びが胸中を満たしていく。


 天頂の採光窓から降り注ぐ光が王の髪を煌めかせる。幻想的な青が光の滝を作り出し、次第に白銀へと変遷していく。王の頭髪は毛先に向かうにつれて色彩が移り変わる。季節のようだと詩は語り、昼と夜のようだと歌が讃える。

 いずれの形容も正しい。彼は世界の全てなのだから。

 最も美しい王。

 その語り部という栄誉を賜った私は、この上無い果報者だ。


「お許し下さい、王よ。私のような卑しい生まれの者が御身を直視することは、いわば太陽を目で捉えることにも等しい難業なのでございます」


「身分など。何を気にすることがあるだろうか」


 マラード王は愉快な冗談を聞かされた子供のように笑った。それから、様々な『前例』を引き合いに出していく。


「ラフディの歴史書には荷担ぎから将軍にまで上り詰めた英雄ゴガベズや、平民出身ながらもディルトーワの技術を受け継いだ王宮付き人形師キーキゼリスといった偉大な者たちがたびたび顔を出すではないか。お前もその一員であるのだと、そろそろ自覚してもいい頃ではないか?」


 マラード王は学ぶことが苦手だ。招かれた高名な家庭教師たちの言葉には耳を貸さず、遊び暮らしている。しかし英雄たちの『物語』――とりわけ身一つで立身出世を成し遂げるような話は好ましく感じられるらしく、学ぶべき歴史を学ばず枝葉末節の脱線した逸話ばかりに食いつく悪癖があった。


 仇敵カシュラムと幾度となく激戦を繰り広げた英雄や歴代の王たちの話には目を輝かせて聞き入るため、どうにかある程度の『王としての知識』は伝える事ができた。そもそも文盲であるという事実を隠すのは困難を極めたが、ある程度までなら呪術で誤魔化せる。強引に取り繕い続ければ、『そういう王』であると周囲に納得させることは可能だった。


 それでも彼は完璧な大地の民の支配者だ。美的なものごとに対する鋭い感性を持ち、大地に愛されるがゆえに土を自在に操り、都市を美しく整えるすべに長けている。ラフディの王に必要な資格とは、賢さよりも大地の加護、加えて美と愛だ。


「私などが宮仕えを許されているのも、全ては陛下の英明さと慈悲深いお心があってこそ。卑小な身ではありますが、この下僕めの全てを陛下に捧げさせて頂く所存でございます」


 跪いて感謝の意を示す。

 その光景に、周囲は善き王と忠実なる臣下という物語を見出して、王国の美しい未来を幻視する。ここは舞台の上なのだ。我々は役者だった。


 貧民街を廃し、王都を美しく作り替えた偉大なる王マラード。彼は能力さえあれば階層に関わらず重用するということを卑しいルバーブを側近とすることで証明して見せた。ここにあるのは完璧に整えられた、善き王のための世界。

 美しき王が治める王国は美しくあらねばならない。

 彼の純粋な心根のように、無垢で清浄な有り様こそがラフディには相応しい。


 満足だった。王の有り様に、己の身分に、『これこそが本来の立ち位置である』という確信を抱けている。私は卑しく醜いルバーブ。王に傅き、その美貌を際立たせる忠実なしもべ。貴いものに従属する幸福を噛みしめる日々。

 美しきマラード王とその王国に栄光あれ。




 時間の感覚がひどく曖昧だった。

 今はいつで、ここはどこだろう。

 断片的な記憶が夢のように瞳の表面を駆け巡る。

 そして、なにより不思議なのは。

 これは、『誰』が語っている物語なのだ?


 再生者としての二度目の生は打ち砕かれた。

 『私』は既に死んでいる。語る口など、真の死者は持たない。

 だというのに、どうして私はもう戻らない日々を追想できているのだろう。

 疑問を抱えたまま、懐かしい景色が回り続ける。




 時は優雅に流れていった。

 入れ替わりの首尾は上々。陛下の奔放な振る舞いには振り回されっぱなしであったが、それはとても心地良い体験だった。苦労も苦痛も、美しき王によってもたらされていると思えば甘美な恍惚に変わる。


 来る日も来る日も、彼に仕えて過ごす。

 なんと幸せなことだろう。

 そんなことを思いながら、今日もまた王に奉仕をする。


 湯船に、糸杉の精油を九滴落とした。

 落ち着いた木の香りに、痺れるような芳香が混じっている。普通の感覚ならば九滴も垂らすのはやや多すぎるというものだが、我が王は豪奢な暮らしを愛した。

 漂う香りに、心まで洗われていくようだ――そう思ったとき、


「まるで心が美しく清められていくようだな、ルバーブ?」


 そんなことを言われたものだから、主は私の心の中を見透かされているのだろうかと不安になり、身を震わせた。すぐに返事をするべきであったのだが、私の口から発せられたのは言葉にならない無様な溜息の出来損ないのみ。


「ふ、俺が美しすぎて声も出ないか。まあ当然のことだ。ああ、今度画家と彫刻家を呼んでこの完璧な姿態を形にして残させようか――どんな優れた芸術家であっても、この完璧な美を再現することは不可能であろうがな」


 長い髪はただでさえ土埃で汚れやすい。

 土地の乾いた大気と荒々しい風は繊細な髪を痛めつけてしまう。

 だからこそ、艶やかな髪は貴重なものとして尊ばれていた。

 天然の宝を、慈しむように撫でさすり、薬液を馴染ませていく。

 同時に、自らの呪力を気付かれないように浸透させた。


 王の身の回りの世話――という名目の、呪力の注入。

 人外の賢者は『人形のぜんまいばねを撒くが如し』と揶揄するが、我々の『今』を維持する為には必要な行為だった。定期的にこうして私の力を陛下に注ぎ込むことで世界を欺くという大呪術が可能になっている。


 本来ならば召使い人形にやらせるようなことだ。

 生身の者に触れさせるには、王の身体は余りに繊細過ぎる。

 この滑らかな肌に傷一つでも付けられたなら、私はその咎人に生まれてきたことを後悔させるほどの苦痛を与えることだろう。


 事実、今はそうした愚か者を血祭りに上げた直後だった。

 ある式典の最中のこと。陛下を狙う暗殺者の兇刃を防いだは良いが、返り血が飛び跳ねて陛下の身を汚してしまったのである。私は常に陛下に張り付いてお守りすることに決めた。身を清める最中であっても離れようとしない私を、陛下は当然といった態度で従えて進む。堂々たる裸身は王者の風格を備えていた。


 その誇らしげな表情に、ふと翳りが差す。

 陛下は先程まで血の付いていた頬に触れながら、独白するように言葉を紡いだ。広い浴場に声が広がっていく。


「先程は大儀であった。戦いとなるとルバーブは本当に頼もしいな。我が国の守護神と呼ばれているお前を見ると誇らしい気持ちになる」


 反響する声は低く沈んでいく。

 まるで陛下の心を映し出す鏡のように。

 浴場の鏡は、全て湯気で曇ってしまっているのだが。


「――だが同時に、不安にもなるのだ。お前が俺の知るルバーブではなくなっていくような、そんな不吉な予感を覚えてしまう」


 戦場での私は、本来の『大地の加護』を引き出して戦っている。

 王には幾つかの側面がある。

 象徴、祭司、霊媒、統治者、将――私は軍事力の全てを陛下に委ねてはいない。

 それは危ういからだ――彼には暴力は似つかわしく無い。

 血に濡れるのは私だけでいい。

 元より、私はそういう王だった。


 かつての栄華を誇ったラフディも古びた栄光の残骸と成り果て、積み重なった負債は王国を責め苛む。削るに削れない贅肉に圧迫される、肥満体の国家がラフディの正体だった。時の王家は『強い王』を求め、賢者の知恵を借りて禁忌に手を染めた――その成果が私という怪物だ。


 臣民を屈伏させ、絶対なる支配を確立し、純粋で強いラフディを取り戻す。

 他国を飲み込み、異物を排除し、精強なる大地の民による千年王国をこの地上に再臨させる。そんな妄執が鎖となって私を雁字搦めに縛っていた。

 私は壊すことしか知らない。だから願った。全て壊れてしまえと。

 

「お前は、本当はどちらを望んでいるのだ?」


 陛下の声には不安が滲んでいた。

 私は安心させるように笑顔を作り――作ろうとして、醜い私などが笑顔を作れば更に見苦しいことになるだろうと気付いて表情を引き締めて言った。


「私の魂は陛下と、陛下の王国に捧げられております」


 壊したいと少年は言った。

 だが彼は私とは違う。破壊の後の創造を知っている。

 繁栄の中で享楽に耽る楽しみを知っている。

 ラフディの呪わしい髪に、醜い暴力ではなく美しい魔力を秘めている。


「ラフディの全ては貴方の為にあるのです、この世で一番美しいお方よ」


 だから私はこの方に仕えるのだ。

 この魂の全てを懸けて。


「そうか。ならば存分に尽くせ。そして幸福であるがいい。美しい私に忠誠を捧げられるお前は、最高の臣下なのだからな」


 柔らかな声が響き、湯気と共に天井に昇っていく。

 水音と共に、全ての不安が洗い流されていった。

 私たちには、もはやなんの不安も無かった。

 栄光の千年王国は、もうここにあるのだから。





 ――いったいこの国はどこで間違ってしまったのか。

 ――王とは誇り高き戦士たちの長でなくてはならぬ。

 ――柔弱な王など不要。

 ――見よ、あのか細い身体を。押せば倒れてしまいそうではないか。

 ――男とは強くあらねばならぬ。

 ――弱き王を廃する必要があるだろう。

 ――弱き王は要らぬ。

 ――弱さは醜さ。

 ――醜さは弱さ。

 ――醜い醜い、見苦しい。目障りな王など殺してしまえ。


 不快な音が響く。

 王宮の至る所からそれは聞こえてきた。

 私の精神を逆撫でするように。

 殺してくれと懇願するかのように。


 陛下に仕えるというこの上無い幸福を享受する日々の中、不快感は着実に心の深いところに堆積していった。

 それは凝固し、粘ついた怒りと憎しみへと変質していく。

 王国を動かす『貴き血』――その全てに吐き気がした。

 

 際限なく黒い感情が膨れあがる。遂には陛下の前で傅いている時でさえ、不意に叫び出したい衝動に駆られるようになっていた。

 お前たちにはあの美しい光景が見えないのか。


 高みから王都を望んだ者はみな一様に息を呑む。

 偉大なる王が作り上げたこの上無く美しい都の完成形がそこにあるからだ。

 白く滑らかな丸屋根の建物が建ち並ぶ柔らかい景観の中を、整然と広い道路が走っていく。雑然とした街並みが『都市の裏側』を作りだしてしまわないように、計画的に管理された区画。王都の全ては陽光の下にある。


 至る所に見られるのは円と球。

 箒や絨毯、白骨牛車などが淀みなく通過していく環状交差点はラフディ特有の光景だ。高速車両の運行を円滑に進め、球神の加護によって交通事故を防ぐ道路――その内側には小さな庭園。噴水と選定された植え込みが美しい中央島は貧民街で暮らしていた者たちに管理させている。


 かつてのラフディは破壊された。

 徹底的に、痕跡も残さず滅ぼされたのだ。

 圧倒的な権力、我を通して望みを成し遂げる意思。

 これこそ正しく王者の振る舞いであろう。

 だというのに。


 ――なんと無駄なことを。

 ――あの愚王は国を傾けようとしている。

 ――我らに身を切らせ、その上で臣民からも搾り取ろうとは。

 ――醜い若造め、今に目にもの見せてくれる。

 ――醜さは罪。

 ――罪を重ねるあやつに王たる資格は無い。


 陛下の美しい居城に巣くう害虫たち。

 私を形作り、王族という血の呪縛でこの美しいラフディを蝕む邪悪。

 老醜をさらすだけで飽きたらず、我が王に害を為すというのなら。

 構わないとも。そんなに望むのなら殺してやろう。


 そんな決意を固めていた矢先だった。

 深夜、人狼の衛兵たち以外が寝静まった王宮の中庭で、私は愕然と立ち尽くしていた。信じられない光景が目の前で繰り広げられている。


 ラフディにおいて王に次ぐ権威と権限と有する貴き血の者たち。

 かねてから王に叛意を持ち、いずれ排除せねばなるまいと思って来た老人たちが、残らず血の中に沈んでいた。

 やったのは私では無い。彼らは一様に奇妙極まりない死に方をしていた――まるで呪殺されたかのようにおぞましく。


 一人は口の中に松明を飲み込んで。

 一人は荒縄で首を吊って。

 一人は槍で串刺しにされて。

 

 全て自殺。しかしそれぞれがそれを何度も繰り返したのか、遺体はいずれも激しく損壊していた。死した後も自らを殺し続けたとでも言うのだろうか。

 総勢十二人の屍がその場所に横たわる。

 狂いきったその場から離れようと一歩後退る。


「おや、帰るのか。折角来たというのに」


 どこからとも無く響いてくる声。

 死せる十二人の死体が、急速に朽ち果てていく。

 時が加速するように老いていく屍の群。

 それらはやがて灰となり、風に舞い上がる。

 不可思議な力に導かれるように、灰はひとところに集まった。

 それは一人の男の姿を形作る。


「嗚呼、終端はまだ遠い――お前にとってもそうであるようにな。ルバーブよ」


 白地の長衣が揺れ、その上で紅紫の色彩が踊る。

 血に濡れたカシュラム十字。

 病的に白い肌色、端整さの中に陰気さを孕んだ容貌、線の細さ――いずれの特徴も、我が王の華やかさや麗しさとは逆に頼りなさを感じさせる。


「オルヴァか。相変わらずだな」


「お前も息災で何よりだ。人形も上手く動いているようだな」


「陛下を人形と呼ぶのを止めろ」


 怒りを込めて睨み付ける。

 十字の瞳が真っ直ぐにこちらを見返してきて、逆に気圧される。

 人のような感情がまるで感じられない、超然とした輝き。

 理性や叡智というよりは、根本的に異質な思考の怪物と相対しているかのような感覚にぞっとさせられる。


「人は皆、運命の操り人形だ。私も、お前も。だがあの人形――マラードは少なくともお前の糸で操られている。それは幸福なことではないか」

 

 何かを言い返す必要があった。

 だが、私の開きかけた口からは掠れた吐息が漏れるのみ。

 私自身の欲望、身勝手さ、傲慢さ、怠惰さ――罪の全てを暴露され、その上で許されたような最悪の気分に陥る。


 彼の純粋さにつけ込み、心を操り、運命を弄ぶ。

 それは許されざる大罪だ。

 私は陛下に――彼に裁かれなければならない。

 だが、全てを明かせば我々の『今』は破綻する。

 私はどうしようもない嘘の上で怯えながら生きていくしかなかった。


「この惨劇、どう始末をつけるつもりだ」


「お前の手間を省いてやったというのに、ずいぶんな言い草だが――簡単なことだ。死せる貴族たちの魂を宝珠に封じ、人形と化して動かせばよい。もとより肉体など不要な者たちだ。頭脳と魂だけを働かせ、王に尽くさせればそれで良いではないか。王国は滞りなく動いていくというわけだ」


 オルヴァは確かに私の手間を省いてくれていた。

 助かったのは事実だ。彼はその十字の瞳で未来を見る――より厳密には、『未来を過去の記憶として思い出す』ことができる――ため、こうして先回りした行動でこちらを助けてくれることがよくあった。


 陛下との入れ替わりもこの男が授けてくれた知恵のお陰で成り立っている。

 得体の知れない男だが、中原にその名を知られた十二人の大賢者の一人でもあるのだ。頼りになることは認めざるを得ない。


 普段ふらふらとどこぞを彷徨っているこの男は唐突に現れてこうして私を助けに来る。不可思議な瞳の奥に秘められた思惑はまるで読み取れないが、一度だけどうして私を助けるのか、と尋ねてみたことがある。


「我々は『お前の死』以来の長い付き合いだ。親身にもなる」


 一度聞いただけでは理解しがたい理由だった。

 未来から過去へと歩むオルヴァは、たまにこうした奇妙な発言をする。

 要するに、我々は終生の付き合いになるらしい。

 うんざりすべきなのか感謝すべきなのか、判断に困る相手――それが大賢者オルヴァという男だった。


「それにしてもオルヴァよ。毎度毎度、もう少しましな現れ方はできないのか。既に命ある人としての形を捨てているというのはわかるが、十二人も生贄を要求するというのは尋常ではないぞ」


 苦言を呈すると、ずれた答えが返ってくる。いつものことだった。


「『十三階段』というのはクロウサーが持ち込んだ死の象徴だが、私もそれを利用することくらいはできる。十二という数字はカシュラムにとって聖なる数字。四方に配置された完全なる均衡は大宇宙の安寧を形成するのだ」


 カシュラムの象徴たる十字の印は、四方向を示すがゆえに数字の四を暗示する。

 それに完全や安定といった意味を内包する三を重ねて、十二。

 下らない数字遊びと言ってしまえばそれまでだが、整った形、綺麗な配置というのは美的でもある。そして数字と美しさ、そして神秘性は不可分なものだった。


 ラフディにおいてもそれは同じ事。

 私の右耳を貫く環状の耳飾りは、ラフディにおいて呪術の暗示である『十字を囲む円』の紋章を象っている。車輪にも似た太陽十字は、大賢者オルヴァより授かった秘宝だ。これこそが世界を騙す王権交代術の要であった。


 オルヴァは私の耳飾りを手に取ってその十字の瞳でくまなく観察した。

 どうやら呪具の点検が本来の目的だったらしい。

 真剣な顔をしていると普段の頼りなさげな印象がなりをひそめるが、陛下の凛々しさに比べるとやはり一段落ちる。


「思えば奇妙な縁だな、ルバーブ? 王座を追われた古のカシュラム王と、王座を嫌った現代のラフディ王。その二人がこうして友誼を結んでいるというのは」


 オルヴァはなにがおかしいのか、くつくつと喉を鳴らして言った。

 彼の言う事は私も感じていたことだった。

 代々の先祖はこの大賢者が治めていたカシュラムと幾度となく争っていたが、そのカシュラムも滅びて久しい。


 生きているか死んでいるかもわからないオルヴァと私が敵対する意味は無い。

 私にとってオルヴァは呪術の師であると同時に腐れ縁の友人のようなものだ。

 互いの境遇について、何かしら思うところがあるのだろうとは思う。

 それをはっきりとした形にしたことは無いし、するつもりもなかった。 


「どうやら今のところ目立った綻びは無いようだ。しかしこのまじないが不安定な『ままごと』であるという事実は忘れない方がいい。『王の権威』が揺らげばそこから全ては破綻するだろう」


「わかっている。だからこそ、私が陛下をお守りしなければならない」


 あの方の栄光を妨げる全てから彼を守れるのは、この私だけなのだ。

 肩にのし掛かる重い責任は、息苦しさよりも誇らしさを私に与えている。

 そうだ、私はこの罪深い『今』を楽しんでいるのだ。

 罪を重ね続ける醜悪で怠惰な王。

 それはまさに私のことを指しているのだった。


「どうでもいいではないか。罪や裁き、道徳や愛情――全て滅びの前では儚き塵埃に過ぎぬ。やがて万物は大いなるブレイスヴァに飲み込まれて消えるのだ。始まりはブレイスヴァであり、終わりもまたブレイスヴァである。我らはただその狭間の中で滑稽に踊れば良い」


「それは、お前自身の事を言っているのか、オルヴァよ」


「そうだな。私もかつてはつまらぬ世俗の事柄に心を乱すような若さを持っていた――だが、それも時間と共に薄れていく。そんなものにこだわるより、己の欲する一瞬を追い求めることだ。全てを斉しい虚無であると割り切ることは、マシュラム人には難しいであろうからな」


 達観したような――事実として全てを悟りきっている大賢者はそう言って儚げに微笑んだ。この超然とした男も、人らしい苦しみを抱えていた時代があったのだろうか――そう思うと不思議な気分になる。オルヴァは古い記憶を思い出すかのように――いや、彼にとっては未来を予言するかのように、過去を語って見せた。


「私を翻弄した盟友ウォレスと十二の使徒たち、我が心を引き裂いた妻キシャル、幾度となくぶつかり合ったラフディの戦王カルメダージ、悪夢のような外敵レストロオセ、運命を同じくする十一の賢者、全ての神々を拒絶し破壊せんとする白髪赤眼の有翼王メクセト、偉大なる我が君キャカラノート――全てが懐かしい」


「キャカラノート王――か」


 私は喉元まで出かかった問いを飲み込んだ。

 『お前は、一体いつから生きている?』――答えは決まっている。

 『ブレイスヴァがどうのこうの』とかそういったどうでもいいたわごとが返ってくるのだ。オルヴァに呪術の知恵以外を求めてはならない。


 途方もない年月を生き続けている(あるいは死に続けている)この賢者は、どのような角度からも線の細い青年にしか見えない。だがオルヴァの時計は異常を来している――あるいは彼の言動よりも遙かに狂っているのだ。


 カシュラムが興るのは獅子王キャカラノートの時代が終わり、覇王メクセトが神々に戦いを挑んだ戦乱時代の後だ。最盛期のラフディと互角の戦いを繰り広げたという古き強国は、長い歴史を重ねた末に唐突に滅び去った。最後の王の名はオルヴァ――最も奇妙で、最も有名なカシュラム人の名前だ。


 呪術に満ちたこの世界において、たびたび歴史は混乱する。

 修正され改竄され、時空は幾度となく塗り替えられてしまう。

 カシュラムは滅びた後も幾度となく歴史の中に姿を現し、またカシュラムが興るよりも前の時代にカシュラムの痕跡が発見されることもあった。

 いずれのカシュラムであっても、そこにはオルヴァの名が遺されている。

 カシュラムはあらゆる時代で滅びていた。終わりを象徴するオルヴァと共に。


 オルヴァに教わった呪術は私を救っていたが、同時に彼の存在はどうしようもない不安を抱かせる。オルヴァからは破滅と終焉の臭いがするのだ。

 消しがたいその臭いは、きっと私にも染みついている。

 いつか、どうしようもない運命に追いつかれる。

 その予感を、予言の賢者は肯定も否定もしなかった。

 私には、『今』しか無い。




「結婚?」


 思わず眉を顰めた。

 ある日、陛下に降って湧いた婚約話――勿論、王族である以上は避けては通れぬ『政の一部』ではある。しかし、私はどうしようもなく心を乱されていた。


「お前は結婚というものに対して幻想を抱いていないらしいな、ルバーブよ。お前ほどの勇士が未だに妻も持たずにいるというのが不思議でならなかったが、何か理由でもあるのか?」


 不思議そうな表情の陛下は、瞳に興味を宿しながら首を傾げた。美しい髪が重力に従って滝のように流れ落ちた。

 最近の陛下は、恋愛や結婚というものに関心を示されるようになってきた。

 良い傾向、ではあるのだろう。

 だが、私は結婚という呪術的儀式に対してあまり良い印象を持っていない。


「陛下。結婚をするには、まず相手となる男が必要でございます」


「男? 女ではないのか?」


「いいえ。結婚とは男と男、父と父、家長と家長の『血の交わり』のことにございます。王国や血族を背負った男同士が繋がりを作り、互いの足場を固める為の外交手段が結婚です。それに伴って持参金――財産の贈与や交換が行われる。贈与される財産の中心となるのが娘というだけで、本質的には男同士の儀式なのです」


 少なくとも、当世の価値観ではそうなっている。

 女人禁制の神聖な結婚式で、父と父は向かい合って球神に誓いを立てる。

 裸身となって身を清めた後、互いの胸に己の血で文字を描き、杯を酌み交わす。

 そうすることで血と血を一つに融け合わせる家族の――『使い魔』の儀式。

 家と家が結びつき、男たちは互いを無二の家族として受け入れる。


 つまり――陛下が結婚をするということは、その父親が相手となる父親を見つけなければならないということだ。そしてそれは不可能だった。

 彼の本当の父は不明だし、いたとしてもそれを明らかにはできない。

 私の父はとうにオルヴァが殺して人形にしてしまっている。


 そして一国の王が結婚するとなれば、相手は有力な貴族か異国の王族。

 その中には強い呪力を有する一族もいる――というよりそうした呪術的な強さを目当てに結婚は行われるのだ。見返りもあるが、呪術に長けた者と相対すれば秘密が露見してしまう恐れがあった。危険は冒したくない。


 代理人を立てることもできるが、適当な人材が思い浮かばない。

 秘密を知るものはもはや私とオルヴァくらいのものなのだ。

 とにかく言い訳を並べて時間を稼ごう。思いつくままに言葉を紡いでいく。


「それに陛下、結婚とはある意味で残酷なものでございます。贈り物である娘は陛下の持ち物となりますが、心弱き娘であれば故郷を離れたことで不安を覚え、心身を衰弱させてしまうこともあるのです」


 その果てに待つのは国家繁栄ではなく、忌まわしい死だ。

 会話を交わす部屋の窓に視線を向ける。

 すると、王宮の隅にひっそりと聳え立つ尖塔が目に入った。

 王国を呪縛する忌まわしい遺物。その象徴があの塔だった。


 始祖ディルトーワは亜竜王アルトから娘を下賜されてラフディの王となった。

 バーガンディアは竜王国の文化や思想をこの国に根付かせようと精力的に活動したが、それは彼女が疎まれる原因を作ってしまった。陰湿な仕打ちに始祖王は気づけず、日に日にやつれていく妻にうんざりしはじめたという。


 美貌が翳る様が見ていられないと、ディルトーワはバーガンディアを塔の中に閉じ込めた。何かと国政に口を出してくる妻を黙らせ、自分が竜王国の傀儡ではないと貴族や臣民に証明する意味もあったのだろう。強き夫という自らの在り方を印象づける為、彼はバーガンディアの護衛でありラフディの軍事力の要であった『赤眼騎士団』を残らず処刑した。


 王妃の解放を訴える騎士団長ソムワムンに、残酷なディルトーワ王は王妃と姦通したという疑いをかけて死罪を言い渡した。忠実な処刑者スメーキフはまずソムワムンを拷問して精神を狂わせ、連座で精強なる騎士たちを斬首。その首を塔の天辺に飾った。滴る血の音は王妃を震え上がらせ、以来彼女は抗議の声を上げることもなく部屋に閉じこもりきりになってしまった。


 閉ざされた塔からは、時折『帰りたい』『どうして誰も来てくれないの』という寂しげな声やすすり泣きが聞こえてきたというが、非道な王を恐れて誰も近付く事はできなかった。塔に出入りするのは身の回りの世話をする人形たちだけ。


 一説によると、それは王妃の為に命を落とした騎士の屍で作られた『死骸人形』であったと言われている。余りのおぞましさから、我が国では死体操りの呪術は禁忌とされるようになった。死体の操作は皮肉にも王妃が王国に招いた人狼たちが得意とする闇の呪術であり、彼らが迫害される遠因となった。それすらもディルトーワの思惑通りであったのかどうかは判然としない。


 哀れなバーガンディアは誰からも見捨てられ、哀れ塔の中で一生を終えた。

 その最期は世を儚んでの自害であるとも、衰弱の果ての病死であるとも伝えられている。芝居などでは定番の題材だ。


 しかし、王宮で育った私は事実がそうではないことを知っている。

 かの魔眼竜は、正確には死亡が確定してはいない。

 行方不明なのだ。

 ある日、人形が塔の最上階に食事を運びに行くと、王妃の姿は忽然と消えていたという。以来、バーガンディアの姿を見た者はいない。


 だが、人々が彼女のことを忘れることはなかった。

 時折、幸福そうな夫婦が誰かに引かれるようにして転落死するのは、バーガンディアの魂が未だに彷徨っていて怨霊と化しているからではないかと考える者もいた。祟りである、呪いであると――まことしやかに囁かれている。

 新たな妃を迎えたディルトーワ王の最期が墜落死であったということも、その伝説に一層の信憑性を付加した。


 いずれにせよ、噂が真実味を帯びてくれば呪いは事実と化す。

 王宮では結婚はある種の恐れと共に語られるようになっていった。

 『恋愛』というものがもてはやされるようになったのも『妻から恨まれることへの恐怖』が根底にあるのかもしれなかった。


 若い陛下はそのようなことは知らない。

 ただ楽しさだけを追い求めて女を侍らせる。

 永遠を夢見させてくれる、恍惚の一瞬を探し続けていた。


 退廃的な『女遊び』――人形を並べて侍らせる『ままごと』。

 私が操る、彼を愛する女の振りをした偽りの恋人。

 貴き彼の身に何かが起きてからでは遅い。

 暗殺、籠絡、庶子が生まれた事による王位継承権を巡る争いの勃発、そしてバーガンディアの呪い。

 彼を守る為に、結婚を遠ざけなければならない。


 欺瞞に満ちた答えをどうにか内心で捻り出す。

 必死に自分を誤魔化している。

 自覚していても、途中でやめることはできなかった。

 ふと、声が聞こえた。


 ――さて、どうだったかな。お前は彼を欺くことに耐えられなくなり、それを止めたのでは無かったか。そして、生まれてしまった赤子を一人一人――


 ――黙れオルヴァ。


 気が付くと視界の隅に立っている賢者を一睨みする。

 曖昧に目を細めてオルヴァは消えていった。

 陛下はそんな私を不思議そうに見ながら、政治と切り離せない結婚の面倒さにうんざりとした様子で溜息を吐いた。


「やはりしばらくは自由の身が良いな。恋を楽しむのにも身軽な方が良いだろう。結婚は真実の恋の在処を見つけてからでも遅くない」


 それから話は飛び、何故か私の結婚話となる。

 これ幸いと飛びついた。ひとまずは私が結婚してみせることで彼の興味を代わりに引き受けるのだ。手頃な相手を見繕い、陛下の見守る中で結婚は成立した。卑しい貧民は貴族の身分を得て、名実共に陛下の傍に侍る資格を得たのだ。誰に文句を言われる事も無く、陛下に仕えることができる。そうして私は幸福な結婚をした。




 幸福――そのはずだった。

 時は加速する。全てが色褪せ、老いていく。

 老いが美しさに翳りをもたらす。

 失われていく美しさを救えるのは、別種の美しさだけだ。

 すなわち、滅びの美。


 破局は突然に訪れた。

 恐るべき外敵、霊王フィフウィブレスの襲来。

 死霊を操るという闇の呪術を使いこなす強大な敵を、私たちは賢者の助けを借りてどうにか撃退することに成功した。


 しかし皮肉にも、ラフディの土台が揺らいだのは危機が去った後だった。

 地の底から呼び起こされた亡霊たちは墓の下に封じ込められたが、それらを管理する為に死霊を操る技術者たちが必要とされた。


 夜と死、闇と影――そういったまじないに秀でた人狼たちの力が自然と必要とされ、彼らの発言力が日に日に増していく。

 霊王襲来の混乱の中、『人狼が敵と内通した』『人狼が大地の民を襲っている』などという噂に踊らされた一部の軍人や市民が人狼を殺害したという事件も影響し、ラフディには張り詰めた空気が漂うようになっていた。


 坂を転がる球のように、事態は悪い方へ悪い方へと落ちていく。

 外敵である霊王フィフウィブレスとの戦いで功績を上げた英雄シェボリズ。

 中原でその名を知られた人狼の部族長である。

 英雄の名声は高まり、我々にとっても無視できないほどの存在になっていた。

 人狼たちは陛下に掃き溜めから救って貰った恩を忘れ、調子良く人狼種の英雄とやらを持ち上げている。


 陛下を排除しようとする勢力は全てが滅びたわけではない。

 一切の不満を抱かれない王などいるはずがないのだ。

 その一部に、シェボリズを担ぎ上げて陛下を排除しようとする動きが見られた。

 国は乱れている。

 誰よりも美しい王の素晴らしき統治。

 それを脅かそうとする者を、許すことはできなかった。


 私は――。

 私は、陛下に『進言』した。

 そして、人狼はラフディから姿を消す。

 私が消したのだ。


 最も厄介だった英雄シェボリズは、卑劣な手段で罠にかけて無力化した。

 長らく子に恵まれずにいたというシェボリズは、つい先日このラフディで連れ添いとの間に子をもうけた。シェボリズ自らが『無』から捏ね上げたという子供はまだ目も開かない幼さだったが、躊躇いは無かった。


 私はエスフェイルと名付けられた子供に呪詛をかけた。

 死病の呪いに冒されたエスフェイルは絶えず肉体が腐っていくという苦しみに苛まれ、更には近付く者に死を振りまいていく。シェボリズは子供を救う手立てが国内には無いと知ると、より優れた呪術医を求めて中原に旅立った。


 風の噂では、シェボリズは自らの呪力の大半を子供に注ぎ、死の呪いを中和し続けているのだという。人狼の英雄はラフディを遠く離れ、子供を生かすために弱体化した。もはや私の行動を妨げられる者は国内には皆無だった。


 この手を血に染めて、逃げ惑う人狼たちを追い立てていく。

 恐怖と憎悪が伝播し、流布された噂によって臣民たちも人狼を迫害し、積極的に排除を行った。人狼たちは離散し、あてもなく流浪することとなる。


 これは私の罪だ。

 だが、もし陛下が全てを知ってしまったならば、彼は自らを責めるだろう。

 己の足下で起きていた事実を何も知ることができなかった――知らされていなかったという裏切りを、呪うだろう。


 全ては私の欲望がもたらした災禍。

 彼は私の傲慢に付き合わされただけの被害者でしかない。

 被害者を加害者に仕立て上げるという最も悪辣な手段によって、彼は無自覚に罪深い王として振る舞い続けなくてはならない。


 私は自分自身の邪悪さを自覚していながら、それでも美しい王を見上げることをやめられなかった。

 私の心には一欠片の忠誠も無い。

 偽りの臣下、穢れた寄生虫。

 真実の私は、欲望に塗れた最悪の外道だ。


 第六断章、その名は【愛情】。

 結局の所、それは邪悪な暴力であり、権力でしかないのだ。

 黒々とした欲望によって翻弄された無垢な少年が、操り糸を断ち切って自らの足で立とうとする。それは当然のことでしかない。


「全てに納得していると? 物分かりが良いのだな、我が友よ」


 十字の瞳に理性を宿して、賢者オルヴァが語りかけてくる。

 もはや時間と空間の感覚は定まらず、曖昧な記憶が流転する不可思議な世界で私たちは相対していた。


「私はそれだけの罪を重ねた。彼の意思がそれを望むのなら、受け入れるほかあるまいよ。むしろ、遅すぎたくらいだ」


「その結果があの惨状か」


 オルヴァが虚空のある一点を指で示す。

 そこに広がっていたのは、巨大な怪物が暴れ狂う光景だった。

 舞い降りる炎天使、全てを嘲弄する人形姫――そして慟哭する大地の竜。


「あれが、彼の望んだ『今』だと?」


 オルヴァの言いたいことはわかっている。

 アレッテ・イヴニルを許すことは出来ない。

 しかし、私にはもはやどうすることもできないのだ。

 死者には、敗者には、弱者には、偉大なる王を助ける英雄としての資格は無い。

 もとより私は卑劣な罪人だ。惨めな今こそが似合いの結末だ。


「ならばお前の感情は全て――その罪深い欲望すらも『その程度』だったということなのだな」


「何を、今更」


 十字の瞳は強い邪視で全てを見透かすようだった。

 視線が私の全てを詳らかにしていくようで、ぞっとして身を震わせる。


「彼に注いできた情念、妄執、執着――それらが生み出す呪力。髪に込めた怨念じみた不気味な欲望すらも、つまらないものだったと」


「だからそうだと言っている!」


 苛立つ。この会話は何だ?

 一体何の意味があって、こんな分かりきったやりとりをしなければならない?


「では、彼を輝かせていた呪力もまた偽りで――彼の美貌もまた偽りだったと言う事だ――あの魔女の言うとおり、マラードは本当は不器量な王でしかなかった」


 腰を低く落とし、存在しないはずの大地を踏みしめ、全身の重量を前へと滑り出させる。突き出された掌底がオルヴァの細い身体を突き飛ばした。


「訂正しろ」


 言ってから、乗せられたことに気付く。

 起き上がったオルヴァは珍しく愉快そうに笑っていた。


「それがお前の真実だ――ルバーブ」


 答えは唯一、それだけなのだと。

 言われるまでも無く、頭よりも身体がそれを理解していた。

 何も分からずにいたのは、この不格好な頭だけというわけだ。


「お前は、どうして」


「短い付き合いだったが――これから長い付き合いになるからな。六王同士、敵ではあるが友でもある。それだけだ」


 普段のブレイスヴァの名を呼び続ける狂態がなりを潜めたと思ったら、今度は混乱した時制での物言いが前に出て来る。

 悠久の過去を知り、未来もまた同じように知るオルヴァ。

 生も死も無く、始まりも終わりも全てはブレイスヴァに喰われてしまうという世界観の彼にとって、『これから友人としての時を積み重ねる』私という存在は肩入れするに値するということなのだろう。


「感謝する。ではさようならだ、未来転生者オルヴァよ」


「はじめまして。これからよろしく頼む。何者でも無い我が友よ」


 それは――過去と未来、どちらに向けた『よろしく』だったのか。

 いずれにせよ私はここで終わり――私たちはここで出会ったのだ。

 何もかも、もはや取り返しがつかない。

 それでも私には欲望だけが残っていた。


 ずっと、そうだったのだ。

 ただ『今』の欲望だけを追い求める。

 あさましくも醜い獣が私だ。


 記憶の渦から浮上する。

 泡として世界に保存されていた悪夢が弾け、泡沫の時間は消えていく。

 私の残された長いようで一瞬の猶予は終わりを迎えようとしていた。

 しかし私は、遙か頭上から聞こえてくる声に気付いていた。

 それは黒い書物から響く声。

 直前までは敵対していた、もう一人の魔女の言葉だ。


「力が欲しい? 伸ばすための手、大地を踏みしめるための足、願いを叶える為の心――欠けているものを、私は補ってあげられる」


 それは悪魔の囁き。

 契約を持ちかける、悪辣な詐術の罠。

 応じたが最後、私の全ては『彼』のものではなくなってしまう。

 それはルバーブという存在の完全な死を意味していた。


「魂を対価に捧げる覚悟はある? 名前、存在、そしてあなたにとって最も大切な想いさえも。全てをかなぐり捨ててもう一度戦うことを望む?」


 それでも。

 『美しい王マラードに仕える醜い忠臣ルバーブ』という甘美な嘘を捨ててでも、私はその道を選びたかった。

 あの美しさを、否定させはしない。


 決意は言葉よりも確かに世界を伝わっていった。

 【知識】の断章が輝き、私の死体を解体していく。

 一人の魔女が――否、『女王』が戦場に降り立つ。

 女王は揺らめく鮮血の衣を翻しながら醜悪な球体を手に取った。それは生首。血に濡れた鋼鉄の指が頭部を握りしめ、高々と天に掲げる。


「その欲望、確かに受け取ったよ」


 鮮血の女王トリシューラが、流動する赤を周囲で踊らせながら言い放つ。


「無駄な足掻きを――いいわ、貴方も私のマラードで壊してあげる、がらくた!」


 アレッテ・イヴニルが高みから宣言する。

 炎天使を束ねた糸で追い払い、地竜を操ってこちらにけしかけようとしていた。

 更に、『王』でもある彼女を完璧に滅ぼそうとより強大な呪術を発動させる。


「生ける者も死せる者も、斉しく天を仰ぐが良い! これより王の選定を開始する。真の王には栄冠が、卑しき僣主には刃の裁きが下るであろう!」


 人形姫が叫ぶと天が揺れ、刃が落ちてくる。

 天に揺れるダモクレスの剣。

 罪を切り裂き、悪しき権力を裁く、僣主殺しの大呪術。

 あれが落ちれば、罪深い王たちはまとめて滅び去るだろう。

 だが、その時聞いたことも無い声が割って入った。


「いいえ。王に真も偽もありませんよ――振り下ろされた裁定の剣は、力によって掌握すればいいだけのことです――そうでしょう、トリシューラ!」


 空に尾のような軌跡を残して飛翔するそれは流星――否、箒だ。

 乗っていたのは三人。

 見知らぬ少女たちの一人、眼鏡をかけた少女が私の目を引き付けた。

 背中が開いた衣服から飛び出す巨大な翼、伸び上がる異形の尾。

 白すぎる巻き毛は翼と同色で、瞳は血のように赤い。

 大賢者から伝え聞く古の覇王とそっくりな特徴を持つ少女は、黒い書物を手にしていた。間違い無い。あれこそは所在が不明だった最後の『王の資格』。 

 第七の断章――【富】だ。


「アレッテは私たちが抑えます、貴方はそっちを! 手伝ってあげるんですから、しくじったら許しませんよ!」


「わかってる、ありがとねメートリアン!」


 感謝には舌打ちが返された。

 苛ついたように魔導書を開き、捲られていく項を輝かせながら少女が呪文を世界に刻んでいく。

 文字の群が巨大な剣を取り巻いて束縛し、更には地竜を操っていた糸に絡みついて人形姫の支配に干渉する。


「邪魔をしないで!」


 怒りの声を上げながら、箒に乗った少女たちに糸による斬撃を放つアレッテ・イヴニル。全てを断ち切る死の一閃は、しかし容易く弾かれた。

 箒に乗った一際小さな少女――異形の耳を生やした少女が、爪を長く伸ばして人形姫に対抗しているのだ。


「く、セリアック=ニアには勝てない――おいでなさい、【棘の王カルメダージ】、【処刑者スメーキフ】、【扉の向こうのエントラグイシュ】! 荒ぶる戦王、残虐な処刑者、祝福されなかった赤子たちよ! 猫の足止めを!」


 天上で熾烈な戦いが繰り広げられる一方で、地上では奇妙な呪術儀式が執り行われようとしていた。幾層にも重なる呪術の円と廻る文字列はガロアンディアンの漢字に似ているが、流動する意味は漠然として捉えがたい。


「ごめんね、私は『こういうの』得意じゃないから――メートリアンたちに頼り切りになっちゃうけど。それでも、貴方の大切なものはまだ終わりにはなってない。終わらないって、証明してみせる」


 冷酷なはずの機械女王の、不可解な振る舞い。

 私に肩入れする理由など彼女には無い。

 ならばその思惑は打算尽くだ。この身に残った権威の残骸。

 屍を利用して、アレッテ・イヴニルの支配下に置かれているラフディを打ち崩そうとしているのだ。


 私の決断はラフディに害を為す。

 それでも、あのもの悲しい咆哮をただ聞いていることなどできない。

 トリシューラが言葉を繋ぐ。


「私のペットがね、貴方を――ううん、貴方の信じるものを肯定したがってるの。だからこれは、私がいい飼い主でいるための自己満足なんだよ」


 流れる鮮血が、蠢く文字が、我々の意思に呼応して光輝く。

 『我々』とは誰か――それは鋼の女王、それは死せる大地の王。

 そして、もう一人。


「マラードの拒絶が起きてしまった事実でも、貴方たちの物語はまだ終わってない。語られなかった想いを、切り捨てられた感情を、無かったことになんてしなくていい。残酷な決断とか非情な選択とか、そんなのを強いられるのは絶対に嫌!」


 我が侭な欲望をまっすぐに叫ぶトリシューラ。

 それは罪深さであり、彼女の強さだ。

 私は。

 俺は、既にそれを確信している。


 人形姫に操られて反転した地竜が迫り来る。

 巨大な足が大地を砕き、震える足下は大震災の最中のようだ。

 だが女王は巨大な竜を前にして一歩も退かない。

 敢然と立ち向かい、高々と首を掲げる。


 天上では人形姫と異形の獣が激突し、箒の上で二人の少女が声を揃える。

 それは世界を書き換える呪力。

 白と藍の輝きが第五階層を塗り替えた。 


「言理の妖精――」


「――語りて曰く!」


 確定した事象を覆す、呪文の神秘。

 響き渡る色鮮やかな歌声の下、地上に立つ女王は力強く宣言する。


「天に掲げるは黒金の王冠、万人よ聞け卑しき宣名、告げるは終末の十二使徒! 鮮血のトリシューラの名において、今ここにマレブランケの叙任を執り行う! 汝が名は『乱髪(スカルミリョーネ)』――醜き愛を喰らう者!」


 契約の名の下に、私は悪魔のような相手に全てを売り渡す。

 欲しいのは力。死を踏破する確かな足、敵を見据える鋭い目、そして。

 拳を握りしめる為の、鉄と氷の偽りの両腕。

 女王は生首を振りかぶり、勢いをつけて投擲した。

 『私』は回転しながら何かに激突し、そして。


「お待たせ、新しい『アキラくん』だよ!」


 ――『俺』は目を見開いた。


 背後の声を聞きながら、目の前の脅威に立ち向かう。

 全ては主の為。この世で最も美しいと信じたもの、己の欲望の為だけに。

 呼応する思考と鼓動。

 『俺』の歯車と『私』の車輪ががちりと噛み合う。

 腰を落とし、上体を下げ、手を地に着け、視線はまっすぐ前に。

 やることは単純だ。

 地竜を殴ってマラードを取り戻す。

 ならば発する言葉は一つでいい。すなわち――。


「発勁用意――NOKOTTA!!」





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