4-29 醜い野獣
トリシューラは肩撃ち式のロケットランチャーを構え、塔の外壁に向けて発射した。戦車の装甲すら貫通する威力が炸裂し、轟音と共に爆発のエネルギーが撒き散らされていく。粉塵が晴れた後、無傷の外壁を見たトリシューラは舌打ちした。
「やっぱ無理か。『塔』ごと破壊するより直接本体をどうにかした方が早いみたい。相手のフィールドで戦わされるのは不愉快だけど、この際仕方無い」
トリシューラは不満げに唇を尖らせながらそう言った。
彼女の言うとおり、状況は切迫している。
暴徒たちが雪崩を打って押し寄せてきているのだ。
第五階層の住人たちは見境なしに暴れ、狂乱している。
アレッテ・イヴニルの扇動によってガロアンディアンとラフディという二つの勢力は相争うように仕向けられたが、人が入り乱れる観客席でそんな区別など出来ている者はいない。そこかしこで同じ勢力同士での乱闘が繰り広げられている。振り回した拳や網棒が狙った箇所に命中する事の方が珍しいほどだ。
より動きやすいスペースを求めて観客席からフィールドに溢れ出す暴徒たち。
しかしそこでもまた見境のない乱闘を繰り返す。
というよりも、地面に降り立った途端に更に凶暴化が促進されているように見えた。とくに、大地の民の荒れ狂い方が凄まじい。
目を血走らせ、大気を震わせる雄叫びを繰り返し、重量級の肉体で突撃する。
ちびシューラが分析を行った結果、足裏から膨大な呪力が彼らの体内に流れ込み、それが彼らを凶暴化させているのだと判明した。
アレッテが言っていた球神に血を捧げる儀式とやらの影響らしい。
アレッテの目的は不明だが、儀式が完遂されればより面倒な事になるのは目に見えている。速やかに塔の最上階にいるであろうあの魔女を倒して事態を収束させる必要があった。問題は、立ちはだかる大地の民がそれをさせてくれるかどうかだ。
「強行突破するよ!」
それでも道は一つだった。
アレッテの思い通りにさせれば何が起きるかわからない。
レオも同じ気持ちらしく、カーインに事態の解決に当たるように命じていた。
トリシューラが一人一人に指示を下していく。
「消耗が激しい蠍尾、牙猪、レスラーはレオを守りながら地下通路から脱出を試みて! アキラくん、銃士、道化は私についてきて! アルマとゼド、カーインも手伝ってくれる?」
それぞれが了承の意思を示し、一気に状況が動き始めた。
まずトリシューラが殺到する暴徒に向かって呪符を投げつける。
事前に警告されていた俺たちは目と耳を塞ぐ。直後、凄まじい音響と閃光が群衆を一瞬で無力化した。更に催涙ガス、電気銃といった非殺傷性の武器で次々と暴徒の大海を引き裂いていく。
「こんなこともあろうかと! 色々備えておいたんだよ!」
警備用のドローンたちも奮闘しており、暴徒の無力化は比較的順調に進んでいるように見えた。妨害者さえいなければ、全ては上手く行ったことだろう。
再生者として甦った大地の民――ラフディ側の戦士や呪術師たちは暴徒鎮圧用の装備で対処出来るような相手ではなかった。何度傷付いても立ち上がる耐久力に、不屈の精神。更には『マラード王とラフディの民を守る為に』という大義まで掲げているのだ。その士気は高く、こちらを殲滅する意思を投槍や呪術に込めて投げ放ってきている。こちらの呪符を無効化する呪術を幾重にも張り巡らされてしまっては、『杖』の大量生産呪具も意味を為さない。
「ここは私に任せて先に行って!」
迫り来るラフディの大軍勢の前に立ちはだかったのはたった一人。
アルマはユニフォームに身体を簡素に覆うプロテクターという軽装のまま、迫り来る大軍勢に拮抗しようとしていた。無謀にも見えるが、トリシューラは「任せた!」と一言だけ残してフィールド中央の塔を目指す。
丸盾を構え、鋭い槍を構えた一団が一斉にアルマに襲いかかる。圧倒的物量によってアルマが押し潰される光景を誰もが予想したその瞬間、彼女の普段の印象から離れた冷ややかな声が響いた。
「――凍れ」
同時に、アルマの目の前で何もかもが音もなく停止した。
正確には、彼女が前方に伸ばした手から発生している不可視の力場によって強制的に動きを止められているのだ。
(【氷盾】のステイシス・フィールドはアキラくんの【氷腕】とは比べものにならない防御力を持ってるから、アルマの心配はいらないよ!)
と、ちびシューラによる解説。
続けて、アルマは僅かに口の端を持ち上げてラフディの戦士たちに向けて侮蔑の言葉を送る。余りにもわざとらしいが、興奮した彼らには効果覿面だった。
「は、情けない。ラフディの戦士っていうのはその程度? そんなんじゃトントロポロロンズだって平気で跳ね返せるよ」
【嘲弄】の呪術だ。俺やカーインなんかも使う前衛にとっての基本スキルだが、あれほど上手く『引っ掛ける』のはかなりの技術がいる。アルマが熟練した前衛である証だった。
言葉だけではない。纏う雰囲気が既に他と隔絶していた。
ふと気が付くとアルマを視界の中に収めてしまう。
問答無用で意識が引き付けられ、結果として彼女へ攻撃してしまう――そんな存在感があるのだ。『目が離せない』。まるで呪的な力によって顔を鷲掴みにされているかのように。
(気をしっかり持って! 私たちは先を急ぐんだからね!)
ちびシューラの言葉で我に帰る。アルマがたった一人で大勢を引き付けてくれているうちに、先を急がなくては。
見境無しに暴れ、時折襲いかかってくる暴徒たちを撃退しながら進む。
ただ暴れ回っているだけの人々は対処が楽でいいのだが、問題は明確にトリシューラに狙いを定めている連中だ。
彼らは肉体の欠損を第五階層の物質創造で補っている――俺と同じ呪術的なサイボーグである。迷宮労災に加入もできずここに流れ着いた不法移民や貧困層――義肢を手に入れ、レオたち【公社】が援助することでその状況は改善された。
それは俺の浅はかさゆえの思い込みだったのか。
「破壊しろ! 我々から貴い労働の権利を奪う機械の魔女を打ち壊せ!」
煽動者の叫びに賛同しながら機械の腕を振り上げてトリシューラに襲いかかる暴徒たち。俺が足払いで目の前の男を倒し、グレンデルヒがつまらなさそうな表情で催眠呪術によって無力化していく。カーインの貫手が閃く度、次々と男たちが地に臥していった。
元探索者とはいっても、長く前線から離れて訓練もできなかった彼らはあまりにも呆気なく無力化されていった。しかし、その中に一人だけ異様な速度で動く者がいた。正真正銘の『怪物』――俺は一瞬、その男の姿を見失った。
カーインが側面からの一撃を受けようとして、ガードごと吹き飛ばされる。
追撃しようとしたその男に銃撃と呪術が集中。飛び退いて距離を取ったその男は、片手片足が白骨死体という再生者だ。顔には無惨な火傷の痕。一見すると無精髭が伸びっぱなしの穏和そうな中年男。だが垂れ気味の目は昂ぶる戦意と確信的な狂気に染まっている。
どこかでこんな目を見たことがあった。
純粋、潔癖、高潔。その究極たるグロテスクさ。
どこまでも善良に正義を信じ、その果てに傲慢な殺戮に至る。
聖なる狂信者。キロンに似ているのだ、この男は。
「分不相応な技術を破棄せよ! 不自然な機械は全て壊すべきだ! 機械女王トリシューラ、その偽りの命、今度こそ貰い受ける!」
ちびシューラは露骨に嫌な顔をした。
(『上』がこの混乱に乗じて修道騎士を送り込んできてる――ってわけじゃなくて、アレはただの暴走みたいだね。めんどくさいなあ)
守護の九槍第八位、ネドラド。
今は『元』が付くらしいが、極めつけに厄介な奴がやってきてくれたものだった。どうやら無自覚なまま操られてラクルラールの手駒になっているようだが、それを説明して引き下がるような手合いには見えない。
トリシューラの襲撃に失敗して以来、しつこく再襲撃の機会を窺っていたらしい。【ラッダイト運動】なる特殊な呪術武芸の使い手であるこの男はトリシューラの天敵だ。当然俺とも相性が悪い。まともに戦いたくない相手だった。
一撃でも喰らえば即座に戦闘不能になりかねない。
カーインが吹き飛ばされた今、俺たちとネドラドの間に障害は何も無かった。
男の身体が僅かに沈む。直後、その姿が霞んだかと思うと瞬時に真横を抜けられる。しまったと思ったときには既に遅く、ネドラドの拳がトリシューラを襲う。
「この愚か者共が!」
寸前で割って入ったのはグレンデルヒだった。トリシューラを突き飛ばしてネドラドの拳を受け止め、そのまま至近距離で極大の呪術を放とうとする。
しかし、あの男を機械の身体に憑依させていたのが失敗だった。
グレンデルヒは一撃でバラバラに解体され、瞬く間に無力化されてしまう。
距離を取ったのも束の間、続けてトリシューラを狙うネドラド。
その時、ネドラドの手が顔の前で閃いた。
白骨化している指先に、銃弾が挟み込まれている。
テンガロンハットを被った男が、両手に巨大な拳銃を構えてネドラドの前に立ちはだかっていた。ゼドは陰気な声で嘆息するように言った。
「――追加で割り増し料金を頂くぞ。この男相手に通常の護衛報酬ではとても割に合わん。急げよ、そう長くは持たん」
元守護の九槍と四英雄の激突を尻目に俺たちは塔へと急ぐ。
トリシューラが事前に武器を持ち込んでくれていたお陰で、ある程度の敵は接近される前に撃退できていた。暴徒鎮圧用のゴム弾であるため殺害には至らないが、その衝撃は相手を無力化するのには十分だ。
銃士があらゆる距離に対応できる高火力のバトルライフルをセミオートで撃ち続ける。引き金が動く度に上に跳ね上がる銃口。この銃を使いこなす為には正確な照準をし続ける必要がある。凄まじい反動制御、手ぶれの補正を自動で【サイバーカラテ道場】が行い、【弾道予報】が正確な照準を助けていた。
一方、同じタイプの銃をフルオートで全弾命中させているトリシューラは何かがおかしい。次々と障害を排除して、俺たちは目的地へと辿り着く。
塔の入り口、その前に門番のように立つ影が五つ。
いずれも再生者として甦った大地の民の精鋭たち。
ラフディーボールで対戦したチームの中核メンバーたちだった。
「来たか」
ルバーブは静かに口を開いた。
丸々とした見事なあんこ型の力士体型。
眼光鋭くこちらを睨め付け、落とした腰が地を踏みしめる足に圧倒的質量を押しつけ続けていた。今すぐにでも蓄えられたエネルギーを解放できる姿勢だ。
他の四人も漂わせている剣呑さが尋常では無い。追いついてきたカーインが交戦状態に入り、即座に銃士が援護射撃を放つ。
戦闘が始まっても、ルバーブは動かないままだった。
ただじっと俺とトリシューラを睨み付けている。
狙いはただ一つ。
頭を獲れば戦いは終わるのだ。
ふと、ルバーブの髪に変化が起きていることに気付く。
ざんばらで癖の強い乱れ髪。艶やかなマラードの長髪とは対照的な――口の悪い言い方をしてしまえば汚い印象のある髪だ。その至る所に、小さな棘球が引っかかっている。指で環を作ればその中に収まってしまうほど小さいが、恐らくあれはラフディーボール。当然、棘を炸裂させる機能を有した兵器なのだろう。
彼は髪に呪力を通して強度を高めることにより、大量の火力を保持したまま戦えるようにしているのだ。弧を描くように波打つ髪は、あるいは棘球を絡ませる為の癖毛であったのかもしれない。民族的な装飾のように揺れる大量の棘球がルバーブに爆弾じみた気配を与えていた。すなわち、一触即発。
「一応訊いておくね。アレッテ・イヴニルを倒しに行くところなんだけど、協力してくれない? あいつはあなたの主を騙していた、私たちの共通の敵だよ?」
トリシューラの問いに、ルバーブは一言で返した。
「おお、球神よ、我に加護を与え給え」
ネドラドと同じ目をしていた。
絶対的な規範を信じ抜き、唯一の正義、美しい善を貫こうとする気高い意思。
思考は無い。慣性のまま前に進むだけの存在だ。
戦いは避けられない。ルバーブはここで打倒する必要があるのだ。
「最初からこれが狙いか。ラフディーボールっていう競技の選択がまずかった――いや、そもそもこの『流れ』、私たちも操られた結果なのかな?」
トリシューラの呟きは一つの可能性を示唆していた。
これまでの俺たちの行動、その原因から結果まで何者かの掌の上であったという恐れがあるのだ。もしそのような存在がいるのだとすれば、そいつは遙かな高みで訳の分からない呪術自慢でもしながら操り糸を垂らしていることになる。
「考えても仕方無いだろ。その時はその時だ。操り手が見つかったらぶっ飛ばせばいいだけの話でしかない」
「だよね。前のラクルラールだって倒せたんだから、高次存在くらい幾らでもやっつけてやろう!」
さしあたってはアレッテ・イヴニルだと気合いを入れて、トリシューラは塔へと急ぐ。ルバーブが動くより先に俺は駆け出した。役割分担はこれ以上なく自明だった。俺はここでルバーブを。トリシューラはアレッテを。
「あとは任せる、トリシューラ!」
「ここは任せたよ、アキラくん!」
咆哮するルバーブの背後で、浮遊する黒い魔導書が項を捲り続けていた。
同様に、俺の背後でも同じ装丁の書物が鈍い光を放っている。
共に王の従者でありながら【断章】を保有しているのは、主の有り様を傍らで記録する役目を担っているからだろうか。王たちが【断章】を奪い合うというコルセスカのゲームの主旨からかなり離れてしまっていた。
見方によっては、この戦いは主の運命を背負ったものだと言う事もできる。
お互いに負けることはできない。
王の片腕として、王国を勝利に導くのがその責任だからだ。
防御に優れた右腕を前に、攻撃に優れた左腕を右腕の後ろに隠すようにして半身に構える。【氷腕】の機能は衰えているものの未だ健在だ。ルバーブの猛攻の盾となってくれることだろう。
(アキラくん、気をつけてね。大地の民に多い長い髪――掴むのは有効そうに見えるけど、自殺行為だから)
本体が離れていても俺の助言者として機能し続けるちびシューラ。頼れる相棒に言われるまでも無く、髪が強い呪力を帯びた呪物であることは骨身に染みて知っている。カーインなどは長い髪を振り回し、先端の髪留めを鈍器として使ってくる程だ。物理的な威力もそう馬鹿に出来ない。
「換装・五十番!」
(No.50――【エンバーディープ】エミュレート!)
蒸気機関の腕に換装して腰を落とす。
緩んだ膝。吹き上がる蒸気と間断のないピストンの音。義体の歪な重量バランスを補正しながらゆっくりと重心を前に移していく。
派手な義肢の目と耳を引き付けるギミックは虚仮威しだ。
形式だけの『架空のレトロさ』が生み出す偽りのリズムにルバーブが気を取られた瞬間、音の隙間を縫うようにして前進する。踏み出すと言うより滑り出す。摺り足に似た足運びで間合いを縮めていく。
ルバーブの応手は意外にも後退。
頭部を軽く左右に振って髪に絡まった棘球を数個ばらまいた。
脳内通信に【サイバーカラテ道場】からの警告。
【弾道予報】が最適な回避ルートを提示、同時に両手が閃いて幾つかの棘を纏めて弾き落とす。幸いと言うべきか、サイズが小さいため棘の威力も控え目だ。
銃士がかつて経験したという大地の民との交戦データが役に立っている。試合でも活用させて貰った棘が飛散するシミュレートはこちらへの被害を最小限に抑えてくれていた。
カーインと銃士が取り巻きたちと戦っているのを背景に、俺とルバーブは激しくぶつかり合った。
いつかの再現。
現代のサイバーカラテと古代のサイバーカラテが大地を震撼させていく。
ルバーブは最初、中距離で棘球をばらまいて牽制。こちらが怯んだ隙に一気に攻め込むという意外なほど慎重な攻めを多用してきた。
どうも様子がおかしい。前に戦った時は積極的に前に出てきて打撃や掴みを主とした近距離での戦い方を好んでいたような気がするのだが。
守るべき主がすぐ傍にいない今は、自ずと戦い方も変わってくるということか。
外見に反して動きは疾風のようだ。瞬く間に間合いを引き離して、とても拳が届かないような距離で拳を引いて構えをとる。その仕草に【サイバーカラテ道場】が反応する。膨大な呪術のデータベースに類似する動作がひっかかったのだ。
即座に回避行動に移る。予想通りルバーブの拳に異変が起きていた。手の甲に生えたごわごわとした体毛が急速に伸びていく。瞬時に硬化すると、それは凄まじい長さと量を誇る棘の束になった。全身の体毛を硬化させて武器にする【ラフディの棘の民】が得意とする呪術だ。毛は呪物。この世界の常識が俺に牙を剥く。
びっしりと束ねられた針先の奥には影が作り出されていた。
針先の表面に入射した光が隣り合う針先の表面で反射を繰り返していくと、針束の奥は真っ黒に見える――棘の束が抱えた闇が、更なる漆黒の棘を生み出した。
ルバーブはぼそりと呪文を唱えた。
「【影棘】」
実体の棘と、非実体の棘。銀と黒の刺突の嵐が猛然と襲いかかる。
背筋が粟立ち、記憶が刺激される。
魔将エスフェイルが多用していた、あの防御を貫通する黒い棘の連射呪術!
防御は無謀、かつてのように掴み取るのもこの物量では難しい。何より、実体と非実体が入り交じっているせいか軌道が次々に入れ替わって【弾道予報】が正確に機能しない――同じ呪術でも使い手が違うとこういうやりづらさがあるのか!
横殴りの集中豪雨とでも言うべき棘の弾幕を駆け回って必死に躱す。
外れた棘はフィールドで乱闘中の暴徒たちを次々に貫いていく。
響く絶叫。苦痛の大合唱を指揮棒のように制御するルバーブの棘は、敵味方など区別せずに貫通を繰り返した。
「お前のとこの国民も巻き添えか、見境なしだな!」
「民の血と苦痛は球神の供物となるだろう。それは喜ぶべきことだ」
冷酷な返答にぞっとする。
この男は、こんなパーソナリティだっただろうか。
俺が抱いていたのは、『マラードの民』を自分が傷つけることに抵抗感を覚えるような忠臣のイメージだった。
「さっきから球神球神って、そんなに信心深かったのか? お前が仕えているのはマラードと球神、どっちなんだよ!」
「王の権威とはすなわち神によって与えられしもの。その二つは同じこと」
王権神授――Divine right of kings.
古めかしい『権威の後付け』だが、ルバーブが言っているのは恐らくもっと古代の原始的な価値観だ。祭司を中心とした呪術社会。
眩暈のするような浮遊感。酩酊にも似た世界観の乖離。
足場は確かな筈なのに、大地はこんなにも頼りない――ここは俺の居場所ではない。トリシューラの『杖』が余りにも遠い。
母なる大地より冷たい金属の床が俺には馴染むのだと改めて実感する。
それもまた違う呪術性でしかないのだとしても。
「俺の主はトリシューラだ。お前の神とは相容れない」
「大地の加護あれ」
蒸気を噴き出す巨大な腕と大地を揺るがす掌打が激突し、無数の棘を氷の腕が停止させる。防ぎきれなかった一部の棘がこちらの肩を貫通し、幻肢操作アプリによって拳の形状に変化させた蒸気がルバーブを殴りつける。
互いに小さなダメージを刻みつつ、決定打には届かない。
破損が深刻な左腕を換装し、攻撃に変化を加えて勝負に出ようとする。
相手も同じ事を考えたのか、左腕を前に出して何かをしようとしていた。
また棘の呪術かと身構えたが、ルバーブは予想外の動きに出る。
「確か、このように唱えるのだったか――アトリビュート」
それは、良く知っている響きだった。
引喩系呪術。
外部の文脈を武器にする、あのキロンと同じ力。
「五十五番――【釘のナタリエル】」
それは、俺と全く同じ【キュトスの姉妹】を参照先にしたサイバーカラテの技術に他ならなかった。
しばしば呪文使いたちは『世界の語り手』を議論の対象にする。
この『今』は誰に語られているのか。
『語り手』とは神なのか、それは全知の存在なのか。
もしそんなものがいるとすれば、きっと部屋の整理整頓が得意だろう。そんなことを『誰か』が言った。世界を整えるとは、物を捨てることが上手いということ。
語られてしまった事はこの世の全てではない。
有限で不完全なものだけが世界を形作る。
『語り手』とは『語らないもの』を指す。
その視界の外には無造作に残骸が積み重なっているだけだ。
――だからここは残骸だらけなんだ。
走りながら、トリシューラはそんなことを『思った』。
塔の中には、無数の世界が広がっている。
墓が並び、霧が立ちこめる。湿った土に幽霊船が座礁して、消波ブロックが怨嗟の波を減衰させていた。死の波打ち際で魂の淡い光が散華して、微生物たちの中に還元される。新たな生命が産声を上げて、死想虫が特徴的な鉤状の翅で生命のスープを啜っていく。墓地と砂浜が融け合った異質な光景だった。
こんな寂しげな世界を幾つも巡ってきた。『寂寥』という観念に適合する外界の情報と『人らしさモデル』を照合して『悲しさ』『寂しさ』という再現性のある神経伝達物質の反応をシミュレート。複数の対案と比較検討した後に実行。表情テクスチャに『人の寂しさを理解しきれないトリシューラがそれでもその再現を試みようとする悲しさと寂しさの入り交じった表情』のパターンを出力。
トリシューラの光学モニタの隅で、ちびシューラが悄然とうなだれていた。『しょんぼりシューラ』と名付けよう。アキラくんに見せたらどのような感情を抱くだろうか。『憐憫』から生じる去勢された性欲で自己を慰撫するのだとすれば、その毒が回らぬよう露悪的に罵倒してつまらない罪悪感を消してあげなければならない――というような思考の流れが光の速度で巡っていく。
トリシューラは、走りながら『考えていた』。
ルバーブとの戦いをアキラたちに任せたトリシューラはアレッテ・イヴニルと雌雄を決するべく塔に突入した。思っていたよりも内部は広い。空間が歪んでいるのか、それともこの塔そのものが一種の異界――アレッテの浄界なのか。
異界と化した塔はさながら小規模な世界槍だ。
広大な世界を彷徨い、階段を見つけては登っていく。屋外にぽつんと配置されている階段は異様だったが、そんな不条理は世界槍の迷宮ではありふれたことに過ぎない。鉄屑の荒野を駆け抜け、鯨の腹の中に飛び込んで革靴工場を爆破して脱出。鋼鉄の摩天楼に潜入してデータを盗みだし、侵入者探知用のセキュリティレーザーの網をアクロバティックに突破。古代文明の遺跡から甦ったミュータントたちをヘッドショットで射殺して、大蜥蜴に騎乗して黄金色の草原を制覇する。
瞬く間に過ぎていく夢のような光景。
あるいはそれは一瞬のうちに見た幻なのかもしれなかった。
機械が見る幻――トリシューラの認知機能が人を模しているのなら、夢も幻も見ない理由は無い。勿論それは、彼女自身が望んだ欠陥なのだ。
真っ直ぐに前進する。かと思えば迷走して行ったり来たり。
遂には上下の区別すら曖昧になっている。
いつの間にか、トリシューラは果てしなく続く階段を延々と下り続けていた。
深く深く沈んでいく。暗い暗い根の国へ。
この『塔』は、上に向かおうと下に向かおうと必ず『異界』に辿り着く。アンドロイドの魔女にはそんな確信があった。天獄と地獄が共に『おぞましい世界』であるように、トリシューラは奈落に向かって突き進んでいるのだ。
ここは通路。ここは境界線。ここは暗い隧道。
冥道――そんな言葉が似つかわしい。
ふと気が付くと、トリシューラは河畔に立っていた。
深い藍色が流れる幻惑的な川だ。遙かなる源流は更に不可思議な青。大河の向こうには糸杉の森が広がっており、木々の足下には純白が並んでいる。死者の骨が絨毯のように敷き詰められているのだ。
そこから分岐した支流は氷河だった。寒々しい光景はあらゆる命を否定し、奪い尽くす死神のように恐ろしげだったが、トリシューラはその氷河にたとえようのない美しさを感じた。大河の支流には幾つもの種類があった。燃え盛る血と重油の川、存在しない鳥が昼と夜に羽ばたくことで互いの輪郭を規定する騙し絵じみた双子の川、過去へ過去へと全てを忘却の淵に押し流してしまう時間流、それに逆らうように未来へと機械のがらくたを運ぶベルトコンベアー、源流そっくりな静謐そのものといった小川、今にも氾濫しそうな八又の激流――。
同じように、彼女が見下ろしている河も森の大河から分かれた支流だった。
紅紫に濁った河だ。どぶのような汚水。せせらぎは耳障りですらある。
ステュクス、コキュートス、プレゲトン、アオルニス、レーテー、アケローン――最後の激流は何だろう。思いつく限りの『参照元』をピックアップしてみるが、この光景にどんな寓意が込められているのか判断しかねる。トリシューラは観察を止めて、濁った流れに銃弾を撃ち込んだ。
この川こそが、彼女の敵であることは明白だったからだ。
どこかで誰かが苦痛を訴える声と、恨みがましく毒づく声が聞こえた。
ざまあみろ、とトリシューラは『思った』。
遠くで、時間軸の先へと向かう鋼鉄の川がその流れを加速させた。
破滅的なほどの勢いで、どこまでもどこまでも。
水の匂い、霧がかかった視界。陰鬱な湿潤さにはうんざり。寒さというものは湿気と合わさると途端に詩情を欠いてつまらなくなる。煌めくような冬は遠い。
『そのように』『トリシューラは』『考えた』――。
階段を見つけた。世界の果てだ。
次の世界に進もう。
薄暗い世界から光差す天へ。それとも、照明に照らされた地下世界だろうか。
予感を全て覆して、トリシューラは意外な顔ぶれと鉢合わせした。
「――げ、トリシューラ」
「メートリアン?」
そこにいたのは見慣れた腐れ縁の協力者。眼鏡とスリングショットで武装して、つい先程まで戦っていたのか息を荒げている。その後ろから、ひょいと顔を出したのもよく知った相手だ。
「え、何で何で? らんらんじゃん!」
「ふしゃー! トリシューラ、ねえさまのてき! きらい!」
「リーナとセリアック=ニアまで? 何でこんなところに?」
墓石が並ぶ不気味な世界で、トリシューラは『呪文の座』の魔女たちと遭遇したのだった。
「ほへー。しゅーらんも色々あったんだねー」
「そうなの。とにかく今はアレッテを倒さないと――」
アレッテ・イヴニルによって異界に誘い込まれたメートリアン(普段はミルーニャと名乗っているようだがトリシューラにとって彼女はメートリアンだった)、リーナ、セリアック=ニアの三人。ガロアンディアンとラフディの強引な戦いを仕組んだアレッテを追ってここまできたトリシューラ。
お互いに状況を簡単に説明して情報を共有する。アレッテ・イヴニルを倒すという点で両者の目的は一致していた。『使い魔の座』に対抗する為の同盟は未だ健在である。そもそもメートリアンたちが第五階層に向かっていた目的の一つは、【死人の森】を巡る六王たちの戦乱に介入する為でもあった。
「ここ、時間の流れがおかしくなってるみたいですね。私たちがこの異界に侵入してからまだ半日も経過していない筈なのに、もう外ではそんなに――連絡無しのまま、ハルベルトやアズーリア様に心配をかけてるかも」
メートリアンはここに来る途中で敵集団の幹部を一人撃破していたらしく、そのせいか消耗が激しかった。トリシューラはメートリアンの前衛としての能力を高く評価していたが、この様子では当てにするのは難しそうだ。
とにかくこの空間を抜けだそう。話しながら移動していく。
そんなとき、リーナが脳天気な声で質問する。
「えっとさー、さっきの話でよくわかんないトコあったんだけど」
「なに? 説明するけど」
「六王ってなんだっけ」
あ、キレた。
メートリアンの小さな頭を見下ろしながら、トリシューラはちょっと愉快になった。この激しくも冷静な少女からこんなにもあっさり理性を奪えるリーナという存在はトリシューラにとって理解からほど遠く、大変興味深い。ついでにメートリアンが面白い。
「あのですね! さんっざん説明したでしょう! ていうか他人事じゃないんですよ、あなたパーン・ガレニス・クロウサーと勝負することになってるんですよそこの馬鹿のせいで! そこの馬鹿のせいで! そこの馬鹿と馬鹿使い魔のせいで!」
「ごめんね。でもアキラくんを悪く言うと許さないよ。悪いのアキラくんだけど」
真顔でそんなことを口にするトリシューラを凝視するメートリアン。不気味なものを見るような目だった。そんな二人をよそに、リーナはあくまでも暢気である。
「えー、でもさー、命の奪い合いとかじゃないんでしょ? なら『当代の空使いがどれほどのものか、俺が確かめてやる』『胸をお借りしますっ』『ほう、中々骨のある奴。これならクロウサーを任せてもいいだろう。そしてお前は中々可愛いのでおじいちゃんがお小遣いをあげよう』『ありがとー大好き!』『はははこやつめ』みたいな展開になるんじゃないの?」
「頭の中にお花畑の浄界でも構築してるんですか?」
「ひどい! だってさ、パーン・ガレニスってミブレルお姉様の弟子って話でしょ? じゃあ私にとっては兄弟子じゃん! 可愛い妹分にひどいことしないよ! 仮にしたとしてもそれは妹弟子を鍛えるための愛の鞭だよ!」
しきりにお気楽な未来予想図を主張するリーナをトリシューラは生温かい目で見守りつつ、やんわりと諭した。
「リーナはパーンがどんな相手か知らないから」
「あっそうだ! らんらんは面識あるんでしょ? 念写画像とか見せて!」
「いいけど。はい立体幻像」
指先を動かして集合無意識の浅い層から引っ張り出してきたパーンのイメージを幻影として表示する。ノンフレームの眼鏡をかけた、鋭い細身の男が表れた。銀色の右腕はアンバランスだが、容姿そのものはぞっとするほどに整っている。
「うわっ、超イケメンだ! すげえ! そして無闇にえらそう!」
リーナが大げさに叫ぶ。すると何故か三角帽子の上に乗っていたセリアック=ニアが反応した。
「にあ、パーンきらい!」
「同感ですね。嫌な感じがします。この似合ってない眼鏡が特に不快」
メートリアンまで同調し始める。
リーナは意外そうな顔で二人を見た。
「えっ、なんで? ていうか先輩も眼鏡してるじゃーん」
「メートリアンは似合ってるよ?」
「はあ? あなたに褒められてもぜんっぜん嬉しくないんですけど?! ていうか戦闘中だったから使ってるだけです! 普段は別に必要ありませんし!」
トリシューラはふと思った。
孤独に迷宮を彷徨っている時は異界の光景ばかり目に入ってきた。
けれど、こうしていると周囲の声や仕草、反応ばかりを情報として処理している。コルセスカやアキラたちといるときもそうだった。
ああそうか、とその時すとんと納得が胸に落ちる。
『寂しい』という意味が、その文脈が理解できたのだ。
それは、全く『寂しさ』を感じていない時に獲得した理解だった。
この塔は、ひどく寂しい場所だ。
その天辺にずっといる姫君は、果たして寂しくはないのだろうか?
そんなことを、トリシューラは『思った』。
――余計なお世話よ、がらくた。
私は――。
アレッテ・イヴニルとしての私は、【地位の断章】の項をめくって遙かな高みから『下位レイヤーの物語』を観察していた。語り手となって、俯瞰していた。
内心の独白すら私には筒抜けだ。
それが私という特権者の立ち位置。
【地位】という権威はそれほどの権力を有するのだ。
権力は権力を生み、それ自体が権威となる。
この【断章】はある意味では無限の力を持っていた。
その分、最も脆く覆されやすい権威でもあるのだけれど。
ここは塔の頂。あるいは地獄の底。冥道の果て。
いずれにせよ隔絶された世界だ。
少し『ずれた』場所では『物語の繰り手』がパーンと戦っている様子だけれど、あのぶんでは長くは保たないだろう。私も覚悟を決める必要があった。
ミヒトネッセはきちんとやり遂げた。
今も必死に戦っている。
正直億劫だけれど、せめてあの子の頑張りには応えてあげたい、力になってあげたいと思う。それに何の意味も無いのだとしても。
表舞台に立つ覚悟。
権力を振りかざし、己の出自を明かし、第五階層という混沌をかき混ぜる。
できるだろうか。私に――私なんかに。
ううん、これでは駄目だ。
気の毒なマラードを思い出す。どんな時も自らを美しいと胸を張る堂々たる姿――あれこそが美しさだ。私は、だから彼が羨ましく、悲しいと思う。
彼のように、王者らしく振る舞おう。
面倒でも、虚しくとも。
内心の怯えを振り払うために糸を手繰った。
たちまち『ベルグくん』と『ガルラくん』が私を励ましてくれる。
「大丈夫だよレッテ!」「僕たちがついてるよ!」
「ありがとう、二人とも」
頼もしい、私の騎士様。
私に忠誠と恋を捧げてくれる、可愛いらしい守護者たち。
石造りの最上階、埃を被った天蓋付きベッドに色褪せた調度品。
廃墟のような一室の扉が、吹き飛ばされるようにして開け放たれた。
ああ、やっと辿り着いたのね。
トリシューラ、メートリアン、リーナ、セリアック=ニア。
私と同じ、王権保持者たち。
女王の器を保つ者よ。
ゆっくりと勿体を付けて、私は芝居がかかった仕草と共に彼女たちを出迎えた。
余裕を持って、用意していた台詞を口にする。
「『どんなことが真理とか寓話とか言って、
数千巻の本に現れて来ようと、
愛がくさびの役をしなかったら、
それは皆バベルの塔に過ぎない』
――さて、私の塔はどうなのかしら」
きょとんとする一同。
一人だけ、三角帽子の上にいた小さなセリアック=ニアが声を上げた。
「にあー、げーて!」
「わ、ニアちゃん物知りだ!」
「またぞろ胡乱な猫語を。こういう手合いはあなたの専門でしょうトリシューラ。何とか適当な解釈こじつけて衒学呪力を貶めてやってくださいよ」
「ええ、困るよそんなの。こういう方面はセスカとかハルベルトの方が得意なんじゃないかなあ――」
そういう話でもないのだけれど。
異界の引用とはいえ、これはもっと普遍的な問題だ。
つまりはとても単純なこと。
「どうやら、ニア姫以外はみんな案外お子様みたいね」
くすりと笑う。こんな笑い方、演出以外でするはずもないが――それだけに効果的だった。苛ついた二人の顔が愉快で仕方が無い。リーナは思い当たることがあった様子で、少し真顔になっていた。訂正。彼女はちょっぴり大人みたい。
「さあ――【愛情】を巡る断章の戦いを始めましょう?」
【断章】の項がめくられて、溢れ出した呪力が形をなす。
俺とルバーブの背後で追随するように浮遊している黒い魔導書は原動機のようなものだ。あらゆる呪術を運動させる小規模な儀式場。捧げられた記述が供物となって神秘を構築していく。
「五十五番――釘のナタリエル」
ルバーブの左腕に異変が起きていた。体毛が急速に伸びているのだ。
剛毛という域を超えて硬質化した角質の塊。
それは角のように雄々しく伸びて腕に固定された武装と化した。
ちびシューラが叫ぶ。
(硬化ケラチン! 体毛の角質を硬くして武器にしてるんだ!)
ルバーブの武装はある種の獣――たとえばサイなど――が有するものと同じだ。
キュトスの魔女ナタリエルは地母神キュトスから『獣』と『大地』の属性を色濃く受け継いでおり、その性質は極めて球神ドルネスタンルフに近い。
同じではない。
しかし、必然から似てしまっている。
加護の収斂進化。体毛を棘に、槍に、矢にする大地の民。
ナタリエルの【釘】は全てを貫く最強の武装である。
それは爪。それは角。それは破城槌。
「往くぞ」
猛然とルバーブの左腕が突き込まれる。
武装を獲得し、間合いが広がった彼の刺突は驚くほどに速い。
回避が間に合わない。咄嗟に右手で『停止』を命じながらガードする。
しかし、次の瞬間俺は愕然とすることになる。あらゆる運動を停止させる【氷腕】の絶対防御は、その刺突の前には無力だった。
尖ったものは邪視を退ける力を持つ。
邪視の力を宿す右腕の防御を貫通して、氷の義肢に突き刺さる硬質な【釘】。
砕けこそしなかったが、衝撃と共に吹き飛ばされてしまう。
転がって受け身をとり、素早く態勢を立て直した。右腕を確認すると全体に亀裂が入っている。コルセスカとの繋がりは健在なので時間経過で修復されるとは思うが、しばらくは機能に制限がかかることだろう。
【氷腕】の『停止の盾』や『氷による呪的侵入の遮断』といった優れた守りは失われてしまった。【ウィッチオーダー】に頼るしかないということだ。長く戦えば肉体の呪力バランスを崩してしまう恐れもある。長期戦は避けたい。
「こっちもいくぞ、五十五番っ!」
第五階層という小さな宇宙が呼び声に応え、物質を創造する。
まず釘が出現し、俺の左掌に突き刺さった。
そして左手に沿うように出現する、途方もなく巨大な十字架。
側面に埋め込まれているのは煌めく四種の宝石。中央で妖しく発光しているのはトリシューラを思わせる紅玉髄。
それはあまりにも無骨な杭打ち機だった。
巨大な本体パーツを支える為、俺の掌を貫いた釘が手の甲から突きだして、途方もなく巨大な杭打ち機を固定している。圧倒的貫通力を実現するための原動機もまた実用性を無視した巨大さで、俺の肩を覆って背後に飛び出ている『弾倉』は十字架に似ていた。
(呪宝石による代替仏舎利聖釘! 高いんだから、大事に使ってよね!)
使い手が違えば、同じものを参照していてもその現れ方は異なる。
肉体の拡張部位としてシンプル極まりない【釘】を生み出したルバーブに対して、山盛りの文脈をぶちこんだ重武装というごてごてした【釘】を生み出した俺。
その差もまたわかりやすく、手数と速度を重視しているか、一撃の威力を重視しているかの違いだった。
再生者を聖性によって葬り去る釘が飛び出し、ルバーブの釘と交錯する。
懐に入ることに成功したのはルバーブ。
髪の毛に纏わせていた棘球を後頭部で起爆することで加速したのだ。自らの肉体が傷付くことを恐れぬ再生者ならではの無茶な突撃。鋭利な釘が俺の鳩尾に突き刺さる。飛び散る鮮血、燃えるような熱。密着した状態から釘を抉り込もうとするルバーブ。あらゆる苦痛が瞬時に遮断され、相手の動きを膝蹴りで妨げる。逃れようとした相手の髪を右手で掴んだ。【氷腕】の呪力に反応して棘球が炸裂する。氷の腕に入った亀裂が更に深くなるが、それでも離さない。
ルバーブの長い髪は呪力の源であるが、近接格闘では掴みやすい弱点でしかない。恐らくこの棘球はその対策でもあるのだろうが、ダメージを前提にしていれば多少は耐えられる。そのままルバーブを引き剥がし、喧嘩じみた攻防の後に距離を取る――途端、ルバーブが足からぐらついた。
髪を掴んだ時、足に蹴りを入れておいたのだ。ルバーブはそのウェイトゆえに足にダメージが蓄積すると崩れやすい。力士と形容したように彼の足腰は強靱だが、ラフディーボールの試合で最も運動量の多い中衛として走り回った後だ。そして先程の棘球による加速。彼の意思とは無関係に肉体が限界を迎えていたのだ。これは限界を超えて活動できる再生者の弱点でもある。非再生者にある苦痛。サイボーグにあるアラート。限界を認識する能力の欠如こそが明暗を分けた。
歯を食いしばりながら下半身を白骨化させて筋肉依存の動きではなく霊体と精神に依存した念動に切り替えようとするルバーブ。だがもう遅い。
「貫けぇぇぇ!」
聖釘による渾身の一撃。
巨大な質量が再生者を串刺しにして空高く掲げる。
勢い良く地面に叩きつけ、今度は頭部を叩き潰そうと左腕を振り下ろした。
寸前、急速に回転したルバーブの身体がごろごろと転がって離れていく。
丸々とした身体だとは思っていたが、まさか本当に球のように転がるとは。
さらにルバーブは奇妙な動きに出た。
自らの釘を胴体の真ん中に空いた大穴に突き刺してぐりぐりと抉り、その釘をフィールドの芝生に突き刺したのだ。
すると、信じがたい事に傷が見る見るうちに塞がっていく。再生者としても異常な速度だった。ちびシューラによる解説が入る。
(釘を傷付いたり病んだりしている部位に触れさせてから地面に打ち込むことで『穢れ』を地面に転移させて癒すという感染呪術だよ。その地面は踏めば傷と病が足裏から伝わる罠だから気をつけて)
思わず舌打ちする。
仕留めたと思ったというのに、これで振り出しだ。
足の負傷も同じようにして地面に移していた。
対するこちらは右腕の破損に鳩尾の貫通創と酷い有様で、しきりにアラートのやかましい音が鳴り響いている。視界隅でちびシューラが包帯と松葉杖というスタイルで「痛いよー」と苦痛を訴えていた。危険な状態である証だ。
優勢だと思っていたのは一瞬の事。
持久戦が得意な相手との戦いは精神に堪える。
じりじりと追い詰められている感覚に知らず笑みが溢れた。
――あの盤石の態勢を、どう切り崩してやろうか。
試合中もこんなことを考えていた気がする。
対峙する相手と長柄武器でぶつかりあい、ボールの行く先をも含めた無数の選択肢を提示し、フェイクを仕掛け、選び取っていく。時に押し時に引き、最適手を模索して勝ちを狙う極限の状況。
理性を失ったルバーブを、俺は直視した。
球神だ何だとおかしくなってしまったのだと思っていたが――ぶつかりあってわかった。この男はまだ大丈夫だ。
何故って、今俺たちは戦えている。
「一番――【路の女王ヘリステラ】」
ぞっとするほどに、手強い相手として。
ルバーブが口にしたのは、キュトスの長姉その人の名だった。
車輪というイメージから『転生』の力を引き出す俺とは違い、ルバーブが見ているヘリステラの姿は『路』という大地に近い側面だ。
釘を大地に突き刺すと、土が盛り上がり緑が割れていく。
大量の茶色がルバーブの周りで爆発し、発生した地震が無数の亀裂を生み出していく。幾何学模様を描く地割れは魔法円。円の周囲に輝く呪文が浮かび上がると、その儀式は完了した。
ルバーブの背後に揺らめく蜃気楼のような幻は巨大な円形。それは車輪であり、太陽であり、太陰であり、王冠であり、同時に全てでもあった。
獣の如き戦士は回転する円、すなわち車輪を牽いて吠える。
(戦車の業――信じられない、ルバーブは今、闘争の昂ぶりの中で魂を限りなく球神に接近させている。『行』によって紀元槍に到達しようとしているんだ)
それはつまり、半ば以上『紀人』に近付きつつあるということだ。
早い話、今のルバーブは俺やトリシューラといった『人を外れたもの』を完全に滅ぼし得る高次存在になりかけている。
猛烈な悪寒。釘を地面に打ち込んだ反動で横っ飛びに回避する。
直後、疾風が駆け抜けていった。
大地に刻まれていく『轍』。
凄まじい衝撃によって抉られた軌跡が茶色の路を作り出していた。
その外側には轢き殺された者たちの残骸が撒き散らされ、極彩色の塗料となっている。鮮血という供物を啜って歓喜する大地は飢えた野獣のようだった。
ルバーブが高速で通り抜けた傷跡は高密度の呪力によって大地色の光を放ち、近付くもの全てを弾き飛ばしていく。広大なフィールドを所狭しと駆け抜けていくルバーブは投げ放たれたラフディーボールのようだ。高速で飛んでいって凄まじい威力を炸裂させる。必死に回避するが、突進の精度が次第に上がっていく上に、彼が一度通過した空間には侵入できない。次第に俺は追い詰められていった。
ラフディ相撲が日本語として解釈されるに際して、あえて『相撲』という語が選択されている理由が分かった気がした。
一瞬で勝敗が決するからだ。
気を抜けば即場外。この世から押し出され、あの世へと足を踏み外すのみ。
ルバーブのこの上無くシンプルな『押し出し』を、俺はもう真正面から受けるしかない――元より、それが彼との正しい対峙の仕方だった。
「――私は、醜いだろう」
ルバーブの動きが止まっていた。
轢殺した者たちの返り血に濡れたルバーブは、もはや全ての退路を断たれた俺の前で身を低くして構えている。
俺は彼の顔を見た。そして、思わず笑みを深くする。
悪鬼羅刹の形相。
闘争と暴力の熱にあてられて、どうしようもないほどに愉しげに歪んだその顔は――『戦う者』の顔だった。
競技だ。これは競い合いであり比べ合いだ。
力を技を心を運を、全身全霊をぶつけ合いどちらが生き残るのかを試すという単純極まりない勝負なのだ。
命を投げ出して殺し合いを楽しめるルバーブにとって、この暴力の激突は競技大会の続きでしかない。
ああ、ようやくわかった。
そういう生き方がこの男の『本当』なのだ。
だからこそ彼は血や暴力の似合わない主を愛する。故にこそ忠誠を捧げる。
『それしかない』から、『それだけではない』を求めている。
渇望。
悪夢のような戦いの微睡みの中、俺たちはもう一つの夢を見ている。
目を離したら燃え尽きてしまいそうな危なっかしい流星に願いを託している。
俺たちは、そうなのだ。
「ああ、醜い」
「そうだろう。我が主の美しさとは比べものにならん」
「俺の主も負けてないけどな」
いつの間にか、ルバーブから球神への狂信が消え去っているように見えた。
球神のいる高みに近付き、操り糸を断ち切ることに成功したのだろうか。
ドルネスタンルフの加護によって主への忠誠心を思い出したというのなら、それは妙に皮肉なことであるように思えた。
互いに小さく笑い、そして身を沈め腰を落とす。
言葉は不要。
必殺の武器を構え、ただ次の一撃にだけ全身全霊を注ぎ込む。
次の瞬間、極限まで膨れあがった力と力が衝突した。
――真の『 』を取り戻せ、と大地の民たちが叫んだ。
血と暴力と狂騒の中、ふらふらと定まらない足取りで長い髪の男が歩く。
誰かにぶつかって弾き飛ばされる。
何かを言おうとするが、皆まで言えずに罵声を浴びせられてしまう。
男には力が無かった。
かつて全身に漲っていた圧倒的なオーラは影を潜め、線の細い身体はこのような修羅場では頼りない。繊細な顔立ちも表情の薄い今は美しさより人形じみた異物感が目立つ。圧倒的な美しさは、生命の躍動が無ければ異形でしかないのだ。頼りになる護衛たちも今はおらず、彼は孤独に歩く。
美しい髪だけが、マラードが王であることを証明しているようだった。
ぼんやりと彷徨う男は、一応は目指す場所があるようだ。
彼はフィールドの中心に聳え立つ塔を目指していた。しかし、そのおぼつかない足取りで辿り着けるかどうかはあやしいものだ。
またしても暴徒にぶつかる。体格のいい大地の民だ。
自らの民に押しのけられても、マラードは注意を払われることなく無視された。
まるで存在が希薄になったかのように。
死者よりも死者らしくなってしまったかのように。
ぐらり、と倒れそうになる身体。
そんな彼を支える者があった。
生気を失った美貌に、かすかな色が戻った。
「――おお、アルト王ではないか」
喜びの色。
つい先日まで敵対していた相手――いや、今も事の成り行き次第では敵対するかもしれない相手だ。しかし同時に、長い付き合いの友人でもあった。
「マラード王。まさか、ここまで――」
「ああ、心配は不要だ。どうも先程から少し調子が悪いようだが、こういう時がたまにあるのだ。じきに良くなる。いつも、ルバーブが来て治してくれるのだ」
そう口にするマラードの表情は信頼に満ちていた。
そんな彼を、痛ましげに見るアルト。
隻眼の王は友に肩を貸すと、塔への同行を申し出た。快諾するマラード。もとより、これ以上は自力で歩くこともままならなかったのだ。
「これ以上、大地の民たちが荒れ狂うこの場所にいては危険だ。元凶を排除せねば、お前たち二人の全てが手遅れになる」
アルトは小さく呟いて、塔の中へと足を踏み入れる。
石造りの中は狭く、延々と天へと螺旋階段が続いていた。
力無く足を運ぶマラードを気遣いながら、アルトは薄暗い塔の中で視線を彷徨わせた。ひとつきりの目が揺れる燭台に過去の幻影を見出す。
塔を見ると苦い記憶が甦る。
失われた赤眼騎士団。恩人であるディルトーワに報いる為になにものにも代えがたい至宝をくれてやったこと。選り抜きの精鋭たちを護衛に付けた。精強なるソムワムンをはじめとする英傑たちならば宝の安全は保証されるはずだった。だというのに、信じて送り出した宝がまさかあんなことに。
亜竜にとって、宝を失うことは我が身を切られるような苦しみであった。
心がぎしぎしと音を立てる。
それでも、行かねばならない。
王二人、心を、身体を、傷つけながら塔をただ登っていく。
階段に足を踏み出す。ただそれだけのことが、なによりも困難な試練となって立ちはだかる。少なくとも彼らにとってこの塔は悪夢の具現なのだった。
マラードの意識は時間の経過につれて曖昧になっていく。過去と現在の区別すら困難になっているのか、混濁した意識が紡ぎ出すのは支離滅裂な思い出話ばかりだった。アルトは静かに相槌を打って、瞳に浮かべた悲しみを深くする。
「なあアルト。あの頃は、楽しかったなあ」
「ああ、そうだな」
「麗しの女王に率いられ、死人の森と最強の六王があらゆる苦難を打倒する。死後も約束された永遠の繁栄。終わらない幸福。笑い合う屍たち」
「ああ。確かにそうであった」
「皆でジャッフハリムの狂怖どもを打ち倒し、呪祖の軍勢相手に勝利を重ねたものだ――俺は皆のように戦いは得意ではなかったが、ルバーブがいてくれた。激しい戦いの後、体調を崩した俺はあやつに勝利を告げられるとたちどころに元気になったものだった。ああ、きっとまた今回もそうなるだろう」
「――」
アルトは、口を開こうとした。
それは言葉にはならず、吐息として消えた。
塔の外では、ルバーブが激しい戦いを繰り広げていることだろう。
恐らく、全力を投じなければならない死闘だ。
余力を割くことすらできない、全身全霊を懸けた魂の激突。
アルトは、友人たちのことを想い、歯を食いしばって何かに耐えた。
それは果たして真実の重さにか。
嘘の罪深さにか。
もはや過去の思い出を柔らかな表情で語るマラードの存在そのものが、アルトの胸を掻き毟る凶器に他ならなかった。
「ああ、ルバーブ。どこだ、俺は、ここに――」
虚ろな目付きでうわごとを呟くマラードを見て、アルトは足を速めた。それが友の負担になるとしても、急がなくては手遅れになってしまうだろう。
もはや一目瞭然だった。マラードの限界は近い。
――今にも、糸が切れてしまいそうなほどに。
やがて、塔の最上階に辿り着く。
その一室は、驚くほどに煌びやかに彩られていた。
質の良い調度といい、豪奢な寝台といい、手狭さからは考えられないほどに絢爛で、まるで王族を持てなすために作られたかのよう。
人形姫は、寝台に腰掛けて退屈そうに髪を弄っていた。
ちらりと濁った目で二人の王を見ると、つまらなさそうに言う。
「植物神レルプレアっているでしょう。かつて獅子王に仕えた十二賢者の一人。『藍』の亜系統『緑』の色号を極めた大賢者は優れた言語支配者の多くがそうであったように、元々は人間――つまり現人神だった」
アレッテ・イヴニルは唐突に脈絡の無い話を始めた。
人差し指を顎に当てて、ちょっとした世間話でもするかのように。
「植物信仰は人の歴史と共に在る――だから彼女は最古の植物神ではない。そもそも彼女はより古い植物神の祭司だった。その古い植物神の名はガリヨンテ。けれどこの女神は植物全般というより、より限定的なものを司っていた」
必然的にティリビナの民を連想させられる話だが、それが一体今の状況とどう繋がるというのか。アルトの疑念にも構わずに、アレッテは続けていく。
「食物神、あるいは穀物神。『食べられる神』――食用奉仕紀神ガリヨンテ。人のあさましい業が生み出した、最も古い欲望の形。全ての母にして死と再生の循環を司る巡節の女神。不死の果実をつける大樹」
そこで、人形姫は嗤った。
ぞっとするような侮蔑を込めて。
この世の全てを呪うような視線と共に悪意を吐き出す。
「紀人レルプレアはね、自らが信仰を捧げた神を食べて紀神に至ったの。王殺し――神の捕食。食べるというのはつまるところ儀式。聖餐という呪術が崇高さをこの世に引き摺り下ろす。神性を掌握可能にする」
「お前の言う事はわけがわからんな。悪いが、友のために――いや」
そこでアルトは言葉を、そして態度を改めた。
マラードを壁際に横たえると、敵意を込めてアレッテを睨み付ける。
「お前は邪悪だ。無関係の者まで巻き込むその所業、断じて許すわけにはいかん」
「あら、じゃあ関係がある者だったら自分の都合で幾らでも巻き込んでいいってことね――なんて傲慢。ひどい男」
アレッテは、粘つくような憎悪を込めてアルトを見据えた。
マラードに対する視線にはどこか柔らかさが混じっているのとは異なり、アルトに対する感情はあからさまだった。
「死になさいよ」
倦怠、諦め、退屈――そうした普段の印象が全て消えて、殺意だけが膨れあがる。純粋な激怒が亜竜のかぎ爪となって具現化した。
竜爪眼。全てを石化させる束縛と停止の呪いがアルトを襲う。
対する亜竜王の邪視もまた同じ。こちらは氷の性質を持ったかぎ爪状の視線がアレッテの凝視と激突し、対消滅した。
「互角、だと――?」
わずかな驚愕を込めてアルトは呟いた。
亜竜王の邪視は同系統では並ぶ者がいないほどに強大だ。
それこそ伝説となり、単眼巨人という物語の怪物を生み出すほどに。
そのアルトと拮抗する同質の邪視を使うアレッテという魔女は一体何者なのか。
「いや――そもそも、その名はどういうことだ?」
アレッテ――アルトの女性形だ。
偶然と言うには出来過ぎている。あるいは、名前が似ているからこそ性質が似たのか。性質が似ているがゆえに名前を似せたのか。
人形の魔女は、侮蔑を瞳に乗せて吐き捨てた。
「まだ気付かないのね」
腕を振る。【線の嵐】が荒れ狂うが、アルトは冷静に回避していく。室内の調度が滅茶苦茶になっていくが、マラードのいる場所だけは斬撃が自ら回避していくように安全地帯となっていた。アレッテが彼だけは傷つけないようにしているのだとアルトは気付き、更に疑惑を深めた。この魔女は一体何者なのか。何を目的としてこのような騒動を起こしたのか。ふと、人形の口が小さく呪文を紡いでいることに気が付く。音の連なりを聞いて愕然とした。
「幼きビテロの樹、古き聖花都の死、天空、大地、稲妻、弑すること三首、メリアスの血槍を重ねること三叉、竜と乙女に穂先を突き立て、王の名に於いて流転と君臨の理を此処に示せ――」
それは、アルトがよく知る呪文だった。
他ならぬ彼自身が構築した極大呪文の詠唱である。
しかし、彼女の呪文には更なる続きがあった。
「――されど奴隷に逃げ場は無し。金枝は遠く、金鎖は砕けず、この身は塔から抜け出せず。天の金鎖に囚われるなら、この身は稲妻と共に地に墜ちよ。タークスターク、落っこちた。王さまの首が落っこちた」
「それは、パーンの?!」
人形姫の周囲で稲妻が弾ける。
気象を操作する空の民の秘術。王殺しと奴隷解放の神話に関わる呪文だ。
その名は『自由』。『失明』『隷属』『再生』に続く四番目の稲妻。
はじまりより四つに分かたれた稲妻の形、その一つがアレッテの周囲で一つの輪郭を形成していく。それは稲妻の大蛇。アルトのものよりも更に強大なオルゴーの滅びの呪文が牙を剥いた。
「さて――王殺しのお時間よ」
「舐めるな、小娘」
隻眼と幻眼が閃光を放ち、アルトの肉体が膨張していく。
霊長類体という殻を脱ぎ捨て、亜竜形態という真の姿になろうとしているのだ。
そうなれば狭い塔の一室は崩壊し、ここにいる全ての者は無事では済まないだろう。だがもはやアルトに選択肢は無い。余裕を失った思考に、一つの言葉が差し込まれる。それが亜竜王の思考を真っ白にした。
「名前で呼んではくれないのね――ひどいわ。『お父様』」
アルトはたった一つの目をこれ以上ないほどに見開き、アレッテを凝視した。
その全身から全ての力が失われ、全く無抵抗のままアレッテのオルガンローデをその身に受ける。常人ならば消し炭になっているであろう致命的なダメージを負って、アルトは膝をついた。全身から煙を吹き上げ、身体の至る所を炭化させている。それでも彼はただアレッテを愕然と見ていた。震えながら、信じられないものを見るようにして。
人形姫の細い身体。
その背後に伸びる影の形にアルトは気付く。
巨大な顎に獰猛な牙。前傾姿勢の巨体とは不釣り合いなほど小さな手と長大な尾――亜竜そのもののシルエット。
「お前は――まさか、そのようなことが」
「そうよ。だから私には資格があるの。憂鬱なことにね」
心底から不本意そうにアレッテは言って、それから目を閉じた。
アルトという王――民に慕われる名君を存在ごと否定するように。
その世界から消したのだ。
「直視するの、本当に疲れる。まず声が嫌いだわ。それから見た目も。臭いも多分嫌いよ。言動の全てが鼻につく。あなたという存在そのものが厭わしい。殺して誰かに墓でも建てられたら最悪。だからね――いっそ誰からも忘れ去られてしまえばいいと、そう思うのよ。ねえ、ベルグくんもそう思うでしょう?」
アルトは、頭上に何かがあることに気が付いた。
影が差す。巨大な質量の気配。
藍色の血に濡れた全身甲冑が、その巨躯を生かして途方もなく巨大な戦鎚を振り上げている。反応する間も無く、アルトは鉄槌によって押し潰された。
「【忘却】――これで終わりね。ああ、ベルグくんは『それ』から竜牙を回収しておいてくれる? 五将軍はこれからの戦いに必要だから――私なら、五大騎士団を掌握できるしね」
余りにも呆気なく六王の一人を下したアレッテは、ゆっくりと壁際のマラードに歩み寄っていく。優しげに手を伸ばし、こわれ物をあつかうようにして頬を撫でる。どぶの瞳に、アルトに似た悲しみの色が宿る。
「さあ、選択の時よ、マラード。可哀相な、私のマラード」
目を閉じて、意識を束の間の夢に彷徨わせていた美しき王は、ゆっくりと覚醒した。やがて瞳の焦点が合うと、安心できる顔がすぐ傍にあったことで安心したように表情を和らげた。アレッテは無理矢理に笑顔を作ると、静かに囁く。
「これから、貴方に道を示すわ。一つはこのまま消えていく道。もう一つは、美しきラフディの王として永遠を手にする道」
マラードは不思議そうにアレッテを見ていた。
どうして、彼女はこんなにも泣きそうな顔をしているのだろう。
人形姫は子供のような純粋な眼差しに怯えるように、おっかなびっくりその言葉を口にした。それが、全てを打ち砕くと知っていながら。
「活路はたった一つ。ルバーブを殺せば貴方は永遠を手に入れることができる。本当の意味で、ラフディの王になれるの」




