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幻想再帰のアリュージョニスト  作者: 最近
第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ
136/272

幕間 左右一対の邪眼姫


 夜を貫く光の柱は、太陰(イルディアンサ)と地上とを繋ぐ天空の回廊。

 月齢によって閉じたり開いたりする気紛れな天地直通の軌道昇降機エレベーターに、私たちは滑り込むようにして突入する。


「良かった、間に合った!」


「急ぎますよ、見失う前に片を付けてアズーリア様と合流します!」


 相方と声を掛け合って、箒に二人乗りしたまま一気に加速。

 流線型の呪術障壁が大気を切り裂き、不安定な二人乗りの姿勢を制御する。

 地上に向かってくるくると舞い降りていく私たち。

 錐揉みしながら真っ逆さまに、天から落ちる二つの光。


 三半規管を翻弄する重力の制御を妹に任せ、私は左手の投石器スリングショットを前に突き出した。腰に巻いた白とピンクのアウトドアポーチから赤色の呪石を取り出す。

 狙うのは目の前の標的ただ一人。

 呪石弾ビーンズが流星となって熱と衝撃を撒き散らそうとするが、巨大な呪力が展開された呪文を強引に握り潰してしまう。

 即座に発動する呪石弾を上回る速度と強烈な制圧力。

 人形のような瞳が爛々と輝いていた。


「どうせ無駄なのに、滑稽ね」


 標的――邪眼の人形姫アレッテ・イヴニルが紅紫の髪を靡かせながら嘲笑う。諦観に満ちた世界観が空間そのものに干渉して全てを減速させていく。

 亜空間となっている『回廊』の外壁は石化して朽ちていく。停滞や停止といった世界観が具現するのは凍結か石化、それか塩化のいずれかだ。

 嫌いなタイプ。死ねばいい。というか殺します。


「リーナ、このままじゃ引き離されます! もっと加速できないんですか?!」


「これで目一杯だよー! 停止してないのが不思議なくらいなのに!」


 舌打ち。飛翔術で地上へ逃げようとする人形姫はリーナと比べれば呆れるほど遅いが、厄介なことに邪視によってこちらを減速させることができる。こちらの飛翔速度はいつか魔将と戦った時に比べれば亀の歩みにも等しかった。


「解呪を試みますっ」


 私の意志に応えて黒い装丁の魔導書が目の前に出現。自動的に呪文を紡ぐ。溢れ出した黒い文字列が停滞の邪視を破壊して、箒が僅かに加速し始めた。

 同時に、魔導書に追記され続ける二人分の『一人称記述』をざっと流し読みして仲間の状況を把握する。二人とも、今のところ問題無し。共に単独でも自力で何とかできるだけの実力者だが、万が一ということがあるので胸を撫で下ろす。

 

 【死人の森の断章】――その第七。名を【トラスト】。

 本体の魔導書は私ことミルーニャ=メートリアン・アルタネイフの手元にあるが、管理者権限は他にもアズーリア様とリールエルバが保有している。

 早く目の前の敵を片付けて二人の救援に駆けつけないと。

 進行方向へ真っ逆さまに落ちていく。重力に引かれるように、私の呪石弾が【断章】の呪文によって強化されて流れ落ちる。


「だから無駄だって」「言ってるのに」「馬鹿だねメートリアンは!」


 声が三重になって響く。

 人形姫の左右から玩具の鉄槌を持った騎士人形と爪楊枝のような杖を持った呪術師人形が飛び出してくる。

 即座に呪石弾を投射。

 あっけなく迎撃されてしまうが、それくらい折り込み済だ。


「わあ!」「なんだこれ?!」


 炸裂した呪石弾が光り輝く帯を展開し、護衛の双子人形を束縛する。

 アズーリア様が封じ込めた【陥穽】が威力を発揮していた。

 その隙に本命の一撃を叩き込む。取り出したのは黄色に輝く呪石。

 琥珀にも似た透明な石の中で、小さな影が動いたような気がした。


「心配しなくても、今暴れさせてあげますよ!」


 反撃の邪視を発動させた人形姫目掛けて呪石を投射。

 全てを停滞させる邪視が世界の理を歪め、可視化した呪力は巨大な亜竜の鉤爪となって私たちを襲う。迎え撃つはちっぽけ極まる石ころ一つ。

 呪石は黄色い光に包まれたかと思うと、次の瞬間、


「にあ!」


 とても小さな猫耳の少女になる。掌に乗るほどのサイズだが、それは紛れもなく聖姫セリアック=ニアだった。後ろでリーナが叫ぶ。


「名付けてニア姫弾! ドルネスタンルフ系の加護持ちは死ぬ!」


 密着するほど近くで叫ばれると流石にうるさい。

 セリアック=ニアが小さな指先から光の刃を伸ばして人形姫に襲いかかる。

 アレッテ・イヴニルの竜爪と、セリアック=ニアの猫爪が激突。


「うみゃあ!」


 拮抗すらしなかった。人形姫の邪視は一撃で粉砕され、堅牢で知られる球神障壁が紙のように引き裂かれてしまう。あらゆる球体は【(アウターゴッド)】にとって掌で弄ぶ玩具でしかない。


 光の爪が人形姫を蹂躙せんと奔る。

 束縛を強引に抜け出た二体の人形が割って入るが、魔戦人形師団最強を誇る双璧すら猫の取り替え子チェンジリングを前にしては見た目通りの人形でしかない。球体関節人形は絶対に猫には勝てない。


「うわーん!」「くそう、合体すればお前らなんて!」


 負け惜しみを言いながらバラバラに砕けて外壁に叩きつけられる人形たち。

 縦横無尽に振るわれるセリアック=ニアの五指がアレッテ・イヴニルの腕を切断し、足を貫き、胴体を砕いていく。フリル付きの可愛らしい衣装は既にぼろ切れと化している。


「ああ、そう。『私の方』はここで終わるのね」


 人形姫の瞳に諦めが浮かんだ。

 余りにもあっさりと絶望し、簡単に死を受け入れる。

 その在り方に、少しだけ苛立たされる。

 少しだけ。それ以上の感傷は不要だった。

 リーナの【空圧】で加速したセリアック=ニアの爪が人形姫に止めを刺そうと振り上げられる。全てを諦めた人形姫が目を瞑り、次の瞬間。


「にー?」


 小さな猫姫が、粉々に砕け散った。

 直後、腰のポーチの中でがさごそと動く気配。


「先輩のばかー! また時間切れじゃん! ちゃんとした石用意してあげてよ、ニアちゃんまだ本調子じゃないんだから!」


 背後でどこかのお嬢様が何かを言っている。

 『かちん』ときて、思わず叫び返した。


「どうせ粗悪な呪石しか持ってませんよ! ごめんなさいねニアを完全体で復活させてあげられなくて! ていうか呪宝石とか消耗品として使えるのは貴方たちみたいな大金持ちだけです! そんなことしたら破産しますよ私!」


「えー? じゃあクロウサー家の財力にモノ言わせて――」


「セリアック=ニアと遊ぶためだけに呪宝石浪費しまくって手持ち尽きたでしょうが! この迂闊お馬鹿リーナ!」


 ぎゃあぎゃあと言い合いながら落下していく私たち。

 そうしている間に肝心の人形姫はいつの間にか遙か彼方へと逃げ去ってしまっている。気付いた時には既に遅い。


「この馬鹿! さっさと加速する!」


「えー、今のは先輩も悪くない?」


「うぐ。ああもう、悪かったですからさっさと加速!」


 黄色い呪石弾を再び投射。

 光の中から顕現した小さなセリアック=ニアは勢いのまま人形姫を追撃する――かと思いきや、くるりと反転して私に襲いかかる。

 べちっ、という音がして、視界が遮られる。

 セリアック=ニアが私の顔に張り付いているのだ。


「にゃあ、りーにゃ、わるくない! みるーにゃ、きらい!」


「ちょ、ちょっと! そんなことやってる場合じゃ――」


「そーだそーだ! 私は悪くないぞー! 横暴なおねーちゃんの圧政に反対!」


「せりあもそうおもいますにゃ」


 ああもう子供が団結すると手に終えない!

 わあわあと喚いているうちに、完全に人形姫を見失ってしまう。

 その上、


「リーナ、箒の様子が」


「ありゃ?」


 どうにか猫姫を引き剥がした私は、箒の端に長い髪が巻き付いているのを確かに見た。紅紫の長い長い糸を。

 ぐん、と箒が急激に引っ張られて、私たち二人と一匹は縦方向に回転を始める。不意打ちだった為かリーナは制動をかけることに失敗し、そのまま滅茶苦茶に振り回されながら墜ちていく。


 大気障壁や重力制御の呪術が妨害されているのか、振り落とされないようにしがみつくだけで精一杯。目が回りそうな中で、妹と猫姫を離さないように必死に抱き寄せた。


 『回廊』が歪み、口を開けた暗闇の中に飲み込まれていく。

 闇の中に、紅紫の薄明かりと天に届く巨大な塔が見えた。

 それを最後に、意識が途絶える。




 恐らく数秒ほどの意識の消失だったのだろう。

 空気の質が違う。

 紅紫の夕焼け空、薄汚れた霧に包まれた世界、遙か彼方に細長い塔。

 眼下に広がるのは途方もなく広大な霊園で、朽ち果てた墓石が並んでいる。


 位相の異なる世界、ゼオーティアと隣り合う内世界にでも飲み込まれたようだった。【扉】の類を通過する際に稀に起きる事故だが、今回は偶然ではなく仕掛けられた罠に嵌った形だ。


 恐らくアレッテ・イヴニルが『回廊』に穴を空けたのだろう。

 セリアック=ニアが言う事を聞いてくれれば負ける要素は無いが、誘い込まれた場所で戦うというのは不安が残る。箒が切り裂いていく大気はどこか淀んでいて、不気味な感じがした。


「ちょっとリーナ、前を見て下さい! ぶつかります!」


 あちこちに老朽化した高層建築が並んでいるのがまずい。

 ふらふらと飛行する箒は不安定で、今にも朽ち果てた塔に追突しそうだった。

 意識の無いリーナが力無く横に傾いたので、咄嗟に庇うように身を乗り出す。

 額に衝撃が走り、そのまま流れた頭がリーナと激突。後頭部にも衝撃。


 建物の窓から突き出た欄干は結構硬く、リーナはそれ以上に石頭だった。

 痛い。

 幸いそのお陰で居眠り運転手の目は覚めたようだけれど。 


「うわあお姉ちゃんごめんー!」


「いいから前見て運転して下さいあと先輩と呼べ!」


 どこに行っても騒がしいのはともかく。

 私たちは一度状況を整理しようと適当な場所を見つけて着陸することにした。

 霧に包まれた世界はどうしようもなく不吉で、冬の寒さが身に染みる。

 セリアック=ニアはすっかり機嫌を損ねた様子で、リーナの肩に乗って警戒の視線をこちらに向けている。


「にあー」


 暢気に鳴いて、三角帽子の鍔をいじりだす猫姫。

 感情はそこまで長く持続しない。今の彼女は余り複雑なことは考えられないのだ。復活させた直後はリールエルバを助けに行くと言って十匹ぐらいでにあにあ騒いでいたので、今でもまだ言う事を聞いてくれるようになった方ではある。


 立場上、アズーリア様は第五階層に不用意に関われない。

 現時点で自由に動けるのは私とリーナだけだ。

 ドラトリアの姉妹姫もまた立場の重さから気軽な行動はできない。

 ガロアンディアンが窮地に置かれていることは分かっている。ハルベルトのライブを行う必要がある以上、あの場所の安定は私たちにとっても必須だ。


 そんな時、リールエルバの誘拐とセリアック=ニアの殺害が起きたことは、まさしく幸運だった――と言うと色々な方面から文句を言われそうだが、本人がそう言うのだから仕方無い。【断章】を通じて伝わってくるリールエルバの意志はむしろ活き活きとしている。


 誘拐されているという状況は、彼女を立場から自由にしている。

 今のリールエルバはあらゆる縛りを超えてガロアンディアンを援護できる状況にある。カルト教団が思ったよりも手強いようだが、このまま教団を全て隷属させてしまえばそれはそのままガロアンディアンへの援軍にできる。


 ドラトリア本国は指一本動かす必要が無い。

 そして同じように、公的には死亡したことになっているセリアック=ニアもまた『東方の聖なる姫君』という肩書きを取り払って身軽に動ける。

 完全に復活させると『生きている』ことが確定してしまい本国に捕捉されてしまうため、生死が曖昧なまま必要に応じて呪石弾で召喚する形で利用させてもらっている。宝石の中にある内世界に遍在するセリアック=ニアは今の状態なら何体でも召喚できるし死んでも再召喚できる無敵状態だ。


「みあー」


 その代わり、ちょっとおつむが緩くなっているのが玉に瑕だが。

 リーナがセリアック=ニアの顎の下を撫でると、気持ちよさそうに目を細めていた。リーナはどうも猫姫のご機嫌をとる手練手管に長けているようで、頬や耳の後ろなどを優しく触ってはごろごろさせている。


「よしよし、ニアちゃん良い子だねー」


「にあー♪」


 リーナは調子に乗ったのか、今度はセリアック=ニアの腰に手を回し、お尻の少し上のあたりをとんとんと叩き始めた。途端、蕩けるような顔になるセリアック=ニア。え、ちょっ、それいいんですか?


「みゃあぉーう♪」


「ニアちゃん可愛いー!」


 セリアック=ニアはふんだんにフリルのあしらわれた上品な服のまま、はしたなくもお尻を高く突き上げた。リーナにおねだりするように臀部を振り出す聖なる姫。なんとなく、雌猫、という単語が思い浮かんだ。


「にあ、りーにゃ、すき!」


「私もニアちゃん大好きー♪」


 何故か、いらっとした。

 私を置き去りにして、リーナはセリアック=ニアをひたすら可愛がる。

 腰のあたりをとんとんと触る度に猫姫が身をよじり、甘い声を上げて悦ぶ。

 ――ちょっと、やり過ぎは良くないような。


 軽く咳払いすると、リーナは我に返って動きを止めた。猫姫は構わずリーナに甘えているが、そろそろ真面目な話をしなければならない。


「ニア、ネイル整えてあげます。こっちおいで」


「にー?」


 呪石を追加投入してセリアック=ニアの体格を子供くらいの大きさまで引き上げる。私の腰くらいの位置にある頭の上で三角耳がぴくぴくと動いていた。視線には警戒心。緊張を解きほぐすようにリーナが後ろから首筋を撫でると大人しくなった。今のうちだ。


 セリアック=ニアは火力と瞬発力は十分だが継戦能力に不安がある。呪爪の出力を低下させて召喚可能時間を増やす方がいい。眼鏡で視力を強化して猫姫の手元を覗き込む。小さく繊細な手、手入れの行き届いた美しい爪。少しだけ見とれる。リーナと同じ、育ちの良い手だと思った。


 私はポーチから速乾塗料や筆、ブラシなどを取り出して小さなセリアック=ニアの左の爪に呪紋を描いていった。ちょっと遊び心が出てきたので、右手は趣向を凝らしてみる。


 白で下地を作り、ジェルで『もこもこ』とさせていく。ネイル呪術アートでスキンケアや感染症、爪が薄くなるなどの問題は解決出来る。その上、ペリグランティア製薬が開発した新しいジェルの乾きはとても早いのでこういうことはいつでもどこでも手軽にできるのだ。

 スティックで格子状のラインに沿うようにして極小の呪石を散りばめていく。


「にあ♪」


 セリアック=ニアは爪の上できらきらと輝く呪石ストーンがお気に召した様子だった。宝石のような瞳が呪石を映して輝き出す。


「みるーにゃ、すき!」


 ちょっとだけ得意になる。

 どうだ、とばかりにリーナを見てやると、何故か期待の眼差し。


「先輩せんぱい、私もシール貼って!」


「はいはい、後でやったげますから――いやそれくらい自分で出来るでしょう」


「じゃあニアちゃんと同じやつ!」


「あのですね、貴方は近接戦闘とかしないんだからいいでしょう別に――今は我慢して下さい」


 気を取り直して周囲を見渡す。

 視界が悪い。

 索敵用の天眼石を置いて警戒しているが、高位呪術師が本気で姿を隠したら接近に気づけるかどうかはわからない。


「貴方の感覚が頼りですよ、セリアック=ニア」


「にあー!」


 小さな手を振り上げる猫姫が、今はとても頼もしい。

 自由に動ける私たち三人に今できること。

 それは第五階層の覇権を奪い合う戦いに介入すること――ではない。

 王の座を巡る戦いは、その資格を有する者たちが自分の力だけで行うべきだ。現代に甦ったという古代王朝の亡霊程度に負けるようなら、あのきぐるみ女もそこまでのがらくただったというだけのこと。


 『呪文の座』と『杖の座』はあくまでも共通の敵と対峙するための一時的な同盟だ。だから私たちが戦う相手は六王ではない。

 使い魔の座――トライデント。

 そしてラクルラール派の企みを妨害することが優先すべき目的だ。


「アレッテ・イヴニルはまだ遠くへは逃げていないはず。何としてもここで倒しておきましょう」


「それなんだけどさー。結局あいつ、太陰で何してたの? 観光? それとも単に海水浴したかったの?」


 リーナが不思議そうに首を傾げた。

 確かにそれは私も疑問に思っていた事だった。

 トリシューラに変装して彼女が捕縛されたことを隠しておく為というのは勿論あるだろうが、それだけにしては妙な動きが多かった気がする。


 正体が露見した後、私たちの追撃から逃れる際にもおかしな行動をしていた。

 太陰の各地を巡り、あちらにもこちらにも痕跡を残していたのである。

 各地には砕け散った岩石の山と、何らかの呪術儀式を行ったと思しき跡。

 詳細は調べられなかったが、明らかにアレッテ・イヴニルは何かの明確な目的を持って太陰で暗躍していたのだ。


「――安易に殺すより、尋問した方がいいかもしれません」


「あら、簡単に言ってくれるのね」


 どこからともなく響く声。

 濃い霧に包まれた周囲を見渡しても声の主は見当たらないが、間違い無く近くにいる――アレッテ・イヴニル。

 私は投石器を、リーナは大学ノートの魔導書を構え、セリアック=ニアが威嚇するように唸り声を上げる。


「遊んであげる。適当に、ほどほどにね。これでも忙しい身だけれど、私の方はやることが終わったから暇なのよ」


 訳の分からない事を言う人形姫。

 構うことは無い。意味は倒した後で聞き出せばいいのだから。


「リーナ!」


「了解!」


 リーナは大学ノートの項を千切ってばらまいた。

 途端、私たちを中心にして風が巻き起こる。

 空の民が得意とする大気操作の呪術、【旋風】が辺りの霧を吹き散らしていった。視界が確保され、状況がはっきりとしていく。


「うえ」


 リーナのとびきり嫌そうな声。

 そこは朽ちた墓石が並ぶ霊園だった。

 黒い土は軟らかく、湿った臭いが漂ってくる。

 紅紫の不気味な空の下、飛び回るのは片側だけに複眼が付いた奇形の羽虫。

 そして大地を這い回り、墓石を溶解させる緑色の液体を吐き出す長虫。

 いずれも身体のどこかに霊長類の顔が浮かび上がっているのが異様だった。


「この内世界――まさか」


「ままぁぁぁぁ!!」


 絶叫しながら飛来してくる人面の甲虫。

 呪石弾が命中する距離ではない。私はナイフを取りだして横薙ぎに引き裂くと、背後から音を殺して迫っていた虫を裏拳で潰す。巨大な長虫はセリアック=ニアに任せ、下から這ってきた百足を踏み潰す。


 息の根を確実に止めるべく、ナイフで人面を念入りに潰していく。断末魔の声が止むまで破壊していると、青ざめた表情のリーナががくがくと震えていた。


「先輩、さっきのネイルで急上昇していた女子力が今ので急降下だよ」


「馬鹿言ってないで、さっさとこの場を離脱しますよ。私の知識が正しければ、恐らくこの世界はアレッテ・イヴニルの――」


 ざわり、と世界が蠢動した。

 何かが来る。

 予感に導かれるように空を見上げた。

 紅紫の空が、黒や緑、赤や紫といったどぎつい色に染め上げられている。


「これ、今飛んだらやばくない?」


 リーナの声がいつになく引きつっていた。

 空を埋め尽くす色彩の正体は、大挙してやってきた虫の大群だった。

 蝗――それも顔や手足を備えたジンメンイナゴ。

 呪殺刑によって永劫に異界で苦しみ続ける生ける墓場の亡者。

 異界監獄に閉じ込められた囚人たち。


 よりにもよって最悪な内世界に辿り着いてしまった。

 いや、誘い込まれたと言うべきか。

 虫の大群の中央に、巨大な影が浮遊しているのが見える。

 恐らくはあれが中枢。

 そして、私はその名を知っていた。


「ねえ聞いてよ、今日の朝ご飯がね、朝ご飯がさ、試験の開始時間が大抵定員に達しているから、約束した通りに二人を誘ってコンサートホールに行ったんだけど、レッテったらもっと可愛い水着がいいのにドーラーヴィーラなんて微妙じゃない、なんて言うからミヒトネッセも困っちゃって、困っちゃて、朝ご飯がね、朝ご飯、普通栄養を考えて朝ご飯をしっかりとることが重要だって試験の前にね、対策としてはこれからいい大学に行っていい就職をして、なんて道を辿っても生涯の年収が幾らかって言うと――」


 肥満体の男性を雑巾を絞るように捻り、頭頂部に金属製のチューリップを括り付けて蝶の翅を生やしたらこんな生き物が出来上がるだろうか。

 ほとんど禿げ上がった頭部に生えた髪の毛は全て紫色の芋虫で、伸ばされた長すぎる両腕からぼとぼとと赤い繭が落下している。地面に落下した繭は砕けて中から不定形の怪物を生誕させた。それは変態しきらぬ芋虫とも蝶ともつかない、赤子の顔を備えた生き物だった。


「【毒吐き喇叭のソムワムン】――魔戦人形師団のゲテモノ隊長が、よりによってここで来ますか」


 呪術師のおおよその力量の目安として用いられる標準位階で、第六階梯に相当すると思われる怪物たち。

 人形姫本人と双子の護衛を除けば、最も厄介な人形だ。

 極めつけに面倒なのは、あの個体は例外的に球体関節人形では無いのでセリアック=ニアの優位性が活かせないこと。


「えっと、ちなみにそれはあのキモイのだけなんだよね?」


 恐る恐るリーナが質問してくる。

 気が重いが、答えなくてはならない。


「隊長格は十二体です」


「もうやだおうち帰るー!」


 涙目のリーナ。

 私だって泣きたい――が、ここで泣き言を言うわけにもいかない。

 一歩前に出て、爪をそっと摘む。


「良い機会です。ここで全軍叩き潰してやりましょう――右手親指、解錠(アンロック)! 【盲目の守護者像ブラインド・ガーディアン】!」


「ニアアアアッ!!」


 私が出現させた石像兵と飛び跳ねた猫姫が勇ましく先陣を切る。

 アレッテ・イヴニル率いる魔戦人形師団との戦いが始まる。

 最悪な状況だが、悪い事ばかりでもない。

 ここで私たちが人形姫と戦っているということは、彼女は第五階層に手出しできないということだからだ。間接的な援護くらいにはなるだろう。


「あとは貴方次第ですよ、トリシューラ」


 小さく呟く。

 私に勝っておいて、無様に負けるなんて許さない。

 邪魔者は排除してやりますから、せいぜい必死で足掻いて女王でもなんでも名乗ればいいんです。勿論、上から目線で調子に乗ってる貴方をいずれ蹴落としてやりますけどね。




 ※




 流星は恋に似ている。

 抗いようのない重力に惹かれて墜ちて、激しさに耐えかねて燃え尽きる。

 願いを託す夜の空、煌めきは儚く消えて。

 大地に辿り着いた一滴は、破れた恋の涙のように残酷に散る。

 故に、流星(こい)の運命とは常に残酷さと隣り合わせだ。

 

「嗚呼――愛が降り注ぐ」


 そこに、『美』があった。

 かの王を中心に、世界が生まれる。

 最も美しき彼という根源が踏みしめる大地も流れる髪の真上に広がる夜空も、全ては王という人物画の主役を引き立たせる為の背景でしかない。

 世界という絵画の主題は既に決まっている。

 

「叶わぬ恋と知りながら、お前たちは俺に愛を捧げに来るのだな。ならば俺のこの美貌は――罪なのか。俺という存在が生まれてしまったことが既に悲劇」


 いいえ。

 それは違います、我が王よ。

 貴方という美しさ、それは祝福。

 我らの歓び、それは全て貴方様があってこそのもの。


 だからこそ貴方という偉大な王の語り部となることを許されている事を、私は誇りに思うのです。

 王の道を見届け、王の歩みを助け、王の身を守り、王の物語を紡ぐ。

 その役割を担う私――ルバーブは、漆黒の書物を手に陛下の偉業を確かに記録していった。私の意志が力ある言葉として形をとり、空白の項を埋めていく。


 偉大なるラフディの王、マラード陛下はあらゆる大地に愛される。

 故に彼が流し目の一つも夜空に向ければ、起きる事象は明らかだ。

 天に散らばる無数の隕石たちが、次々と大地に降り注ぐ。

 流星群の大半は我が王の下に辿り着く前に燃え尽きるが、せめて少しでも役に立とうと奮起した愛の奴隷たちはその身を擲って陛下の敵へ突撃を敢行し、その速度と質量で恐るべき破壊をもたらすのである。


 天空より来たるのは、ほぼ無差別にすら思える爆撃の集中豪雨。

 恋する流星群が、荘厳な神殿とその周辺一帯を破壊していった。

 ガロアンディアンとの戦いを優位に進めていた陛下は戦線を拡大することを決定した。あちらは何を企んでいるのか『球技大会』などという催しを企画すると宣言し、こちらにも参加を呼びかけてきた。


 友好的な態度に、和睦の申し出か、はたまた罠かと訝しんだが、『球技』という明らかに我々ラフディに有利な競技を選んだことは、こちらへの歩み寄りに違いない、という陛下の判断により一時的な休戦が成立していた。


 ――楽観である、と諫言は聞き入れて頂けなかった。

 危急の際には私が盾となり陛下をお守りしなければならない。

 それを苦とは思わない。それが星が燃え尽きる事を厭わないのと同じだ。

 陛下は球技大会が開催される前にカシュラム侵攻を終わらせる心算のようだった。第五階層南方を完全に制圧し、ガロアンディアンと同規模の領土を確保しておけば対等な立場で対峙できるというもの。


 球技大会とは言うが、そこではラフディとガロアンディアン、そして竜王国とスキリシアの首脳を交えた会談が行われると見て良いだろう。

 何らかの交渉を行うのならば、こちらの勢力は強大である方が良い。

 そして、カシュラムに対する勝算は既にこちらの手にあった。


 カシュラムの領地が、炎上している。

 こちらの兵が火をつけたのではない。

 内側から、カシュラム人たちが自ら放火したのである。


「相容れぬ立場、敵味方に引き裂かれた恋人たち――あらゆる物語にあるように、苦難こそが恋を燃え上がらせる」


 陛下が長く美しい眉を痛ましげに下げた。

 敵でありながら陛下に恋をしてしまった愚かな愛の奴隷たち。

 彼らは最悪の裏切りと知りつつも、邪恋の暗い炎を燃え上がらせてしまうのだ。それは彼ら自身にすらどうしようもない呪いなのだった。


 炎上し、崩落していく神殿の内部から白い衣と纏った男たちが駆け出してくる。カシュラムの高位神官――オルヴァ王の十二人の側近たちは、壮絶な修羅場を演じていた。裏切った男はマラード陛下への愛を叫びながら仲間を錫杖で殴り殺し、激昂した別の男が裏切り者を短剣で刺殺する。


「やめろ、お前たち何を考えている!」「おお、ブレイスヴァよ!」「マラード様、この愛すらブレイスヴァの前では――」「終端が、終端が弑されたのだ」「オルヴァ王はいずこに?」「神殿が燃えている――」「聖骸を避難させるのだ!」「予言はやはり真実であった! 賢者スマダルツォンを信じよ!」


 狂乱、狂乱、狂乱。

 降り注ぐ流星は止むことを知らず、次々と大地に突き刺さっては凄まじい衝撃と共に大地を陥没させ、強大な呪力を持つ筈の神官たちを灰燼に帰していく。

 無慈悲な死が荒れ狂うカシュラムは、滅びを迎えようとしていた。

 歴史をなぞるように。

 かの国は、内部からの裏切りによって滅んでいくのだった。


「おお、終端は来たれり――ブレイスヴァよ!」


 血の涙を流しながら、一人の男がよろめきながら現れる。

 配下たちの屍が足下に並んでいることにも気付かず、天を仰いで震える手を高く伸ばしている。白い衣と繊細なかんばせは煤に汚れているが、男の周囲だけは不思議と荘厳な雰囲気が保たれていた。


 流星は彼を避けて墜ち、熱波は畏怖するかのように道を空ける。

 こちらを認識しているわけではない。

 だが、それでも直観するままに真っ直ぐこちらを目指して歩いてくる。

 彼もまた、紛れもなく王なのだ。


「カシュラムは喰らわれた――そう全てはかの者の腹の中。炎の舌がこの日我らを食らい尽くすことを、私は既に知っていた。無論知っていたとも」


 そこで、ようやく男は天を仰ぐことを止めた。

 視線が、こちらに向く。

 輝く十字の瞳。

 ノーグの血脈が伝える恐るべき眼光。

 大賢者オルヴァの眼差しが、全てを見通すようにこちらを貫いていた。


 陛下が、一瞬だけ身を竦ませるのが判った。

 私は即座に前に出て身を盾の代わりとする。

 更に左右に展開させていた合計五十の石像兵に命令を下し、前進させる。

 手練れであっても一人一体がせいぜいの巨大石像兵。

 それを同時に五十体、ただ大地に甘い言葉を囁くだけで何の呪術も使わずに従わせることができるラフディ王の威光は、カシュラムの賢王に十分比肩しうる。


「陛下、ご命令を」


「あ、ああ。そうだな――よし、全軍前へ! 敵は丸裸だ! 今こそ好機である! カシュラム王を討ち取れ!」


 戦いが始まった。

 大地を激震させながら進撃する巨大な石像兵たちが一斉にカシュラムに攻め入る。残っていた兵士たちをその剛腕で、巨大な足の踏みつけで蹂躙していった。


 ただ大きく重い。

 それだけで、戦いを制するには十分であった。

 反撃の為に果敢に突撃する者は、陛下を目前にして奈落へと飲み込まれていく。陛下の身を案じた大地が地割れを発生させ、無数の亀裂が回避不能の罠となって敵兵を喰い殺していく。跳躍や飛翔で逃れた者も、鋭く伸び上がった岩石の槍によって貫かれて無惨な屍を晒していった。


 一方的な殺戮が吹き荒れる中、ただ一点のみ、酸鼻極まる運命を回避し続ける空間があった。

 そこは死の空白地帯。

 白い衣がふわりと踊り、一瞬前までそこにいた筈の王の姿は消えている。

 誰もいない空間に叩き込まれる巨腕の一撃。


「発勁用意――」


 小川のせせらぎのように流れていくオルヴァ王の細い身体が岩石の巨体の囲みを抜けていった。白い手が左右で重ねられて振り抜かれていた。

 直後、石像兵が尽く粉砕され、崩れ落ちていく。

 オルヴァ王の背後には瓦礫の山が積み上がるのみ。


「な、何が起きた?!」


 愕然と叫ぶ陛下の望む答えを、私は持っていない。

 ゆえに、できることは一つきりだ。


「わかりませぬ――陛下、まずは私めにお任せ下さい」


「そうか。お前に任せるぞルバーブ。流星や大地の槍は未来を見るあの男には当たらない。頼りになるのはお前のラフディ相撲だけだ」


「御意――発勁用意」 


 ラフディ相撲――古流サイバーカラテ。

 その真髄をここに示す。

 大地を滑るようにして進み、ゆっくりと迫り来るオルヴァ王に肉薄する。

 未来を見る――その恐るべき力は脅威だ。

 しかし、知っていれば対処の方法はある。


「NOKOTTA!」


 詠唱と共に呪力を解放し、足裏から大地に呪力を流し込む。

 足下から伸び上がる大地の槍。ラフディの民にとっては基本とも言える呪術だが、それだけに予測は容易い。オルヴァ王は事前にその発動を知っていたかのような動きで安全な位置へと逃れていく。だがこれはまだ準備に過ぎない。


 続けて頭髪を十数本抜き取り、硬質化させて頭上に投擲。

 更に待機させていた予備兵力、再生者の弓兵部隊に合図を送って側面からの射撃を行わせる。下から、横から、真上から、全方位から襲う刺突の嵐。


 分かっていても避けられない攻撃ならばさしものオルヴァ王と言えど対処しきれまい。私は渾身の呪力で無数の槍を制御して大賢者を攻め立てる。仮に防御障壁を展開されても、動きが止まれば私の手は障壁を掴むことができる。そのまま大地に投げ落とし、相手の重みを利用して首をへし折る投げ技で勝負を決める。

 だが、その狙いはあえなく潰えた。


「発勁用――」


 囁くような声だった。

 目視すら叶わぬ凄まじい破壊。

 白い手掌が風を切り裂いて空間を抉り取り、前後左右から面として迫る刺突の雨を強引に削り取っていった。


 全てが消滅した空白地帯の中心で、オルヴァ王が両手で花のように――あるいは獣の口を模すような形にしながら佇んでいた。

 遠目に見ただけでは絶対にわからない。

 だが私の目は辛うじてそれを捉えていた。


 オルヴァ王の両手は恐るべき速さで全ての攻撃を食らいつくし、矢や岩石の残骸を手首の奥に広がる光の消失点へと飲み込んでいったのだ。

 非効率としか思えぬ構えにも関わらず、あの速さ。

 何らかの呪術的な作用が働いていることは間違い無いが、その正体が掴めない。獣を模しているように見えるが、この世のどのような猛獣になりきればあれほどの速度が実現できるというのだろうか。


 まるで止まった時の中を一人だけ自由に動くかの如き圧倒的速度。

 いや、速さというならばそれだけではない。


「発勁――」


 発声が、短い。

 まさか、と背筋に氷を突き込まれるような恐怖を覚える。

 サイバーカラテ特有の『発勁用意、NOKOTTA』という発声。

 呪文詠唱にも似たこの作法を、オルヴァ王が操るブレイスヴァカラテは切断している。高位呪術師が可能とするという詠唱の短縮。発勁用意の終端は喰らわれたのだ――そう、ブレイスヴァによって。


「発――おお、ブレイスヴァ!」


 あの叫びが、彼らの奉じる神への祈りであるのか、『ブレイスヴァカラテ』という言葉の終端が喰らわれて短縮形となったものであるのかは既に定かでない。

 いや、二つは既に同じものなのだ。

 サイバーカラテはブレイスヴァであり、ブレイスヴァとはオルヴァ王にとって唯一無二の武芸となっている。


 もはや発声すら必要としない呪的発勁が巨大な幻の顎を出現させる。

 全てを食らい尽くす口が石像兵を、兵士たちを次々と飲み込んでいった。

 退避した私の鼻先で、鋸のような巨大な歯が上下に閉じる。

 私を標的と定めたオルヴァ王の牙が追いかけてくる――これは幸運と言えた。


 陛下、どうか今のうちにお逃げ下さい。

 そう願った直後だった。

 私と迫り来る大顎の間に岩盤の壁が立ちはだかる。

 大地の障壁は一瞬で食い尽くされるのだが、次々と隆起してはオルヴァ王の視界を遮るため、いつしか私は恐るべき牙から距離を取ることに成功していた。


「陛下、何故」


「見損なうな。お前を見捨てて逃げる王を、美しいと誰が認める?」


 一瞬でも非難するような視線を主に向けたことを、私は恥じた。

 陛下は常に美しい。

 その振る舞いも、当然のように最も尊いのだ。

 ならば王の美しき振る舞いを危険なものにしているのは、私の身の至らなさが招いた事に他ならない。

 私は自分の弱さを再び恥じた。


「さて、勝ち目は無さそうだが――まあ何とかなるだろう。何せ俺にはお前がいるからな、忠実にして有能な王の守護者ルバーブが」


「は。一命に換えましても、カシュラムの王を打倒してご覧にいれましょう」


 勝算など無い。

 だが、この身に充溢する気力が恐れを打ち払う。

 背を押すのは信頼、両足を支えるのは忠義。

 大地を通じて、足裏から呪力が送られているのを感じる。

 陛下が大地に命じて、私を全力で支援させているのだ。


 陛下を背にして負けるわけにはいかぬ。

 再生者としての生が終わりを迎えようとも、必ずや食らいついてみせる。

 決意と共に足を踏み出した直後、正面の障壁が粉砕される。


「おお、ブレイスヴァ!」


 大顎の両手が迫り、私が前傾姿勢をとって前に飛び出そうとしたその瞬間だった。それは何の前触れも無く現れた。

 空間を切り取って、円形の穴から巨大な何かが出現する。

 【扉】と呼ばれる空間を渡る呪術だった。


「よろしくお願いするわ、【扉の向こうのエントラグイシュ】、それに【棘の王カルメダージ】――まあ、カシュラム王の相手なんて適当でいいけれど」


 年若い女性の声だった。

 直後、オルヴァ王の口がぐるりと回転し、扉のように外側に開く。

 歯や口腔内は一枚の絵のように平坦となり、扉の向こうには爛々と輝く瞳。

 のそり、と赤子の顔がオルヴァ王の口から出て来ると、低い声でこう言った。


「いなーいいなーい、ばあ」


 十字の眼球が、内側から破裂した。

 そればかりではなく、細身の身体の内部から無数の棘が突き出て、その命と共に鮮血が流れていく。オルヴァ王は声すら出せずにいた。喉からも棘が突き出ていたからだ。


「僕たちは、傷つけ合わずにはいられないんだ。ハリネズミのジレンマ。そう、壊れやすいハートを抱えた繊細な硝子人形、それが僕たち――」


 子供の声はすれど、姿は見えず。

 無数の棘が引っ込むと、骸となったオルヴァ王の身体が【扉】となった口の中に吸い込まれていく。破壊を伴うその行為は美しい姿態を砕き肉塊へと変貌させ、扉の向こうに潜む異形の赤子の餌となり果てる。


「ぼく、すききらいしないよ、えらいでしょ」


 不気味な声を最後にオルヴァ王の骸が喰われ、最後に残った口すらも口自体に飲み込まれて完全に消滅する。

 後には無が残った。

 ブレイスヴァが全てを飲み込み、最後には自分さえも飲み込んでいくという伝承の通りに――カシュラムは完全に滅び去った。


「自らの伝承や文脈によって戦う者は強いけれど、同じ文脈に沿って同じ伝承を利用すれば滅ぼせてしまうというリスクを負う――呪術戦闘の基本だけれど、研究の進んだ後世の私たちがそれを言うのは卑怯かしら」


 私は、そして陛下は声のする方を見た。

 そこに、紅紫の髪を揺らす女が一人。

 左右には小さな人形が浮遊していた。

 見ただけで卓越した人形遣いだと分かる。

 しかも、あの呪糸の手繰り方はもしや。


「窮地を救って貰ったこと、感謝しよう、名も知らぬ美しき姫君よ。ときに、不躾なことを訊ねるが――もしや貴方は我が国に伝わるディルトーワの技術を受け継いでいるのでは?」


 陛下の言葉に、人形のような瞳の少女はにこりと笑って答えた。


「まず、礼には及びません。だって当然の事をしたまでですもの。そして、次の問いにはその通りですと答えましょう。差し出がましくはありますが、私はこういう者です――偉大なる我が父祖、マラード陛下」


「何」


 驚愕の声は、どちらが発したものだっただろうか。

 少女を膝を折って一礼し、名乗りを上げた。


「号は瞳の紅紫、性質は塔のお姫様、起源は冥道の模造品。アレッテ・イヴニル・ラプンシエル・ディルトーワ=ベルラクルラールは、マラード・ディルトーワ・アム=ドーレスタ・エフ=ラフディ陛下にお力添えすべく推参致しました」


 少女が柔らかく微笑んだ。

 『どぶ』のように濁った瞳が髪色と同色の光を宿す。

 花のように妖しく、蕾のように美しく。

 陛下が、そして生き残った兵士たちが陶然として溜息を吐く。

 魔性の美しさ――それはどこか、我が主に似ていた。


 にもかかわらず、私は。

 その微笑みを、吐き気がするほどに忌まわしく感じていた。

 紅紫に煌めく邪眼――それは、美しい光を宿していてもやはり濁った水面には違いないのだ。


 本質から美しくない者は、どのように偽ってもどこかから醜悪さを溢れさせてしまうもの――この『魔女』からは、私と同じ悪臭がする。

 予感があった。

 これは、滅びを招く傾国の魔女だという、確信めいた予感が。


 だが私は、いるはずのない末裔の存在に歓喜する陛下の顔を見て、口を閉ざしてしまう。抱擁する二人をただ見ていることしかできない。

 私は、常にそうだった。

 紅紫の女が、こちらを見た。

 表情は柔らかな微笑みのまま。

 しかし、その瞳は無力な私を嘲笑しているように思えてならなかった。

 




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