4-21 皆殺しのデーデェイア
「私の手番! ドロー! 【繁茂】を実行して更にドロー! 先程増大させた生命点を支払ってドロードロードロードロー尽き果てるまでドロー! 【愚者の天秤】を発動、我が空の図書館と貴様の図書館の枚数は等しくなる! 次のターン、貴様は図書館の魔導書を引けずに敗北する!」
私は高らかに勝利を宣言し、有象無象の雑魚どもの最後の一人を蹴散らした。愚かなイアテムの上にゴミクズが放り出される。積み上がる虫けらどもの山を見よ。この私の強さを証明するようではないか。
完全勝利だ。ふ、どうかなこの新生グレンデルヒ=アルレッキーノの実力の程は。初期コンセプトに原点回帰してカード使いとして戦う私に隙は無い。今の時代、カードゲームもゲーム理論と統計的データを駆使したメタゲームとなるのが常識。サイバーカラテ道場カード師範として君臨する私は無敵。更に玩具販促アニメ経由で子供たちの人気も集められるため呪力供給は常時安定!
勝利の美酒に酔っていると、ゴミの山からうめき声が上がった。
「ぐ、やはりまだ届かないか――だが我は二代目グレンデルヒとして、間違った先代を打倒しなければならない!」
ほう。負けた言い訳にしてはそれなりだイアテム。成長物語として世代間抗争を演出すれば、敗北は再戦を期待させ、興行としては盛り上がるだろう。
その意味で、試合という形式を選んだのは良い手と言える。殺し合いにまで発展させないという道が選べるからだ。そも、不死者だらけのこの世界で『真剣勝負』というのはほぼ全て信用や名誉といった形の無いものを賭けることになる。そこで重要になるのは『負けた時の言い訳』を用意しておくことだ。
「負け犬にしては上等だイアテム。興が乗った、その趣向に付き合ってやろう。貴様の正義、どこまで貫き通せるか、この先代が見届けェ――がっ、ギギギ――おいちょっとお前そろそろ黙れ!」
私/俺は存在の支配権を奪取して、グレンデルヒの意識を無理矢理抑え込んだ。
シナモリアキラという意識がグレンデルヒを殴り飛ばし、道化服を着た壮年男性が仮想的なサイバーカラテ道場の片隅に吹っ飛ばされて昏倒する。
もう少しで完全に奴が主人格になるところだった。
敵が集団で一人だとか詭弁を抜かしてきたのでこちらもシナモリアキラ=サイバーカラテ道場=グレンデルヒという理屈を捏ねて応戦したのだが、圧勝したものの別の意味で危険な目に合うという結果になってしまった。
グレンデルヒは自我が強すぎる。アルレッキーノという【マレブランケ】としての名前で束縛してもなおこれだ。イアテムらを自分ルールに引き摺り込んでカードだけで圧勝した実力は凄まじいの一言だが、取り扱いには細心の注意を払わなければならないだろう。
気付くと、道化服を着て逆さまに浮遊し、目の前に手札を展開した状態だった。慌てて着地して衣装とカードを仕舞い、不敵な笑みを浮かべる蓬髪の壮年男性という顔を消去して元に戻る。グレンデルヒはもう復活して虎視眈々と俺を乗っ取る機会を窺っていた。本当に危険な男だ。ちびシューラが縄でグルグル巻いて逆さ吊りにする。厳重に封印しておこうということで合意が形成された。
「まだだっ! まだこのイアテムは負けてはいない! いや、負けるわけにはいかぬのだぁっ!」
切実な感情を叫びに乗せて、イアテムが立ち上がる。
既に道場破りの結果は出た。正面から純粋な実力差にねじ伏せられた男にできることは無いはずだが、それでも戦いを続けなければならない理由があるのか。
「第五階層は我々が見つけだした最後の楽園だ!」
それを見事な覚悟だと受け止めた者。
見苦しいトップの悪足掻きだと受け止めた者。
イアテムが融血呪で繋がった部下たちの中で、明確に態度の差が生じていた。融血呪が切り離され、『我々』という認識で一つになっていた集団が自壊していく。過半数から求心力を失ったイアテムから、組織の指導者として集約されていた大量の呪力が離れていった。
「我ら海の民は地上では踏み絵の如く異教の悪魔デーデェイアを崇めさせられている。南東海を蹂躙したあの怪物に屈服させられ、槍神教の支配に甘んじた。そうしなければ『聖絶』の対象となるゆえに、屈辱を耐え忍んできたのだ!」
英雄は弱体化していた。
傷ついた名誉、失われた信用が存在の『零落』を引き起こしているのだ。
一歩間違えれば、俺にも訪れていたであろう結末。
だが、イアテムは純粋な紀人ではなく生身の海の民。
醜態を晒しながらも現実に食らいつくことができる。
「だがこの場所では今、大いなるハザーリャの信仰が復活しつつある! 新たな教団、そして新たな共同体! 【眠れる三頭】が、地上に居場所の無い者たちの逃げ場となる。その為には確かな足場が必要なのだ」
イアテムは戦略を切り替えたようだ。負けられない理由をアピールすることで同情を買い、求心力を取り戻そうとしている。
(わかりやすい物語をくっつけて正義の主人公として振る舞おうとしているんだね。キロンとの戦いと似てるかな)
ちびシューラが冷静に分析し、妨害するためのプランを提示。物理的に言葉を止めるのはイメージ戦略としていかにも悪者風だ。都合の悪いことを言わせないようにしていると受け止められたら終わり。ここは衆人環視の中なのだから、振る舞いは堂々としたものでなくてはならない。
(なら、相手の事情を聞いた上で、こっちにも正義があるし譲れない事情がある、って感じに迎撃しよう)
問題はイアテムが――というか海の民が虐げられる弱者として振る舞っているように見えることだった。
そして実際、地上ではそれに近い立場に置かれているらしい。とすれば。
「『公社』を排除し隷属させた僭主トリシューラ、そしてハザーリャを冒涜し権能を占有している簒奪者ブウテト! 邪悪なる魔女どもを廃し、第五階層の覇権をこの手に取り戻す! この地を最初に支配したのは我ら地上の勢力。ならば大義はこちらにあり!」
彼らの排除は、多種族混成国家ガロアンディアンの理念に反する。
背後で動きがあった。
亜竜王アルトが前に出てきたのだ。小さな王を守るようにチリアットが続く。
「待たれよ。勇士イアテム、貴殿の事情、よく分かった。だが少しばかり待って貰えぬか。このガロアンディアンは、そう窮屈な王国ではない」
当然、そうくるだろう。この王は、イアテムの事情を斟酌して和解と共存を望む。チリアットも同じだ。
しかし、俺とちびシューラは内心で舌打ちをした。
イアテムはかつて【変異の三手】の副長だった。つまり、グレンデルヒの一部を構成していたのだ。それもかなり主要な役割を担う形で。
(多分、主肢グレンデルヒはミヒトネッセが露悪的に演じていたと思うけど、左右の肢の『グレンデルヒ性』は組織全体の傾向とトップの舵取りに影響を受けていた。つまり、こいつが一番グレンデルヒっぽいメンバーなはず!)
かつてのグレンデルヒの言動は、全てとは言えないまでも少なからずこの男に責任があるということ。
ちびシューラの筆致鑑定で、雑誌『男の暴君』にコラムを掲載しているグレンデルヒ名義のゴーストライターはイアテムであるという調査結果が出ている。
(リーナをバカにして思い切り前時代的な価値観を主張してくるような奴はキライ! こいつらは全ての魔女の、女神たちの敵なんだから!)
嫌いだから拒絶する。女王としては明らかに正しくない感情論だが、『嫌い』はトリシューラの自我を脅かす。
魔女殺しの剣を扱うイアテムは、文字通りの意味でトリシューラやブウテトにとって受け入れがたい天敵だった。
つまり、俺の敵だ。排除しかない。
(でも、アルトを敵に回すわけにはいかない!)
「女王トリシューラよ。今一度、我ら共通の理念に立ち返り、彼と対話の道を選ぶべきではないだろうか」
「アルト王、それはブウテトの望みなのか?」
アルトが迷い無く『我ら』という言葉を使ったことに苛立ちを感じた俺は、考えるより先に言葉を発していた。アルトがはっとした表情でこちらを見る。
ガロアンディアンの理念、つまりアルトの欲求を満たす行動がブウテトや【死人の森】の害になるのなら、彼への評価を改めなくてはならない。
「ぶうぶう。彼らのハザーリャ解釈は、リザが女王だった最悪の時代と同じ悪しき信仰ぶひ。ヒュールサスの退廃をもう一度引き起こすわけにはいかないですぶう。信仰を捨てるか、信仰を周囲に害を与えない形に修正するかしてくれないと共存は無理だぶう」
ブウテトが鼻をふごふごと鳴らしながら言った。
イアテムはそれを聞いてふんと鼻を鳴らした。
「ふざけるな。貴様ら抑圧者はいつもそうだ。やれ文明だ、やれ人権だと自分たちの中だけで作り上げた理屈を押しつけ、我らの伝統や文化、繋がりや誇りを奪っていく! そうやって破壊されてきた海の民の信仰や文化がどれだけあると思う?! そんなことは許容できん!」
この世界において、自分が所属する共同体の文化は極めて重要なファクターだ。呪力資源であり、時にはほとんど自分自身の精神に等しいと考える者さえいる。彼ら海の民は、そうした傾向が特に強いらしい。
信仰と居場所。それを求める欲望はひたすら切実だ。
なにしろ第五階層にはここ以外に逃げ場が無かった者たちが行き着く最果ての地でもある。イアテムの必死さに理解を示すアルトのような人道主義者が現れることは想像に難くない。凋落したイアテムの権威が回復していく。
厄介な事に、ガロアンディアンとしてはそれこそが正しいのだ。トリシューラは自ら選んだ王国の形に呪縛されて動けない。決定的な行動を選べず、指示も下せない状況。
なら、俺が独断で動くべきか。
いかに同情に値する境遇であったとしても、こちらを排除してくる相手を受け入れてやるわけにはいかない。
力には力を。高まる緊張。激突は不可避かと思われたそのときだった。
「そーいうわけで、ごめんなさい」
真上から、突発的な豪雨が降り注ぐ。
呪力に満たされ加速のついた水滴が銃弾となって落ちてくるが、気づいたブウテトが鼻息だけで吹き飛ばす。
完璧な奇襲を仕掛けてきた『敵』は頭上にいた。
「できればレオくんは傷つけたくないし。降伏して欲しいっていうか」
蝶の翅を背に広げ、上空に浮かぶ闇妖精。
少女趣味のワンピースを着て大きな熊のぬいぐるみを抱き抱えた女の子が、周囲で海水を流動させながら言った。
レオとカーインが悲しげに眉を寄せる。
想定できたことだが、こうして構図がはっきりすると、お互いにやりきれないものがあるのだろう。
レオの仲間だったはずの少女は、敵に回ったのだ。
「セージ」
レオが、透明な声で語りかけた。
びくりとセージが身を竦ませる。少年は黒い猫耳をぴくぴくと動かしながら、【心話】で語りかけた。
「それは、二人で決めたこと?」
レオの言葉は、その意味がよく掴めないものだったが。
言われた当人は劇的な反応を見せた。
最も触れられたくない部分を抉られたように顔をくしゃりと歪ませて、ぬいぐるみを強く抱きしめた。
セージは明らかに葛藤していた。おそらく自分の中で二つの異なる意見を戦わせているのだろう。
二者択一を迫られて揺らいでいるセージ。
そこに高圧的な声がかかった。
「何を逡巡している? 迷う余地などなかろうが!」
「ひぅっ」
イアテムが激しい口調で少女を糾弾する。かっと目を見開いた形相は上から下へ、力で押さえつける者のそれだ。
「ロドウィたちの仇はどうした。師への恩義を忘れたか。贄の血族の分際で司祭にして戦士の血族たる我に逆らうというのか? それとも、まさかとは思うが」
激しい口調が一転。粘ついた響きの声になったイアテムは、魚のような感情の読めない目でぎょろりとある一点を見た。レオがいるその場所を。
「男。そうか、情欲に溺れたな?」
イアテムの指摘は事実を正確に言い当てていた。セージは頭を抱えて「ごめんなさいごめんなさい」とおびえきった声で謝罪を繰り返す。イアテムは再び憤怒の形相になって激しく叫んだ。
「恥を知れ毒婦め! 卑しい雌豚の分際で、何を勘違いしているのだ! 誰が、いつ! そんなことを許した? それも汚れた猫憑きとは、正気か?!」
「あぅ、ごめんなさい」
「いいや、謝っても許さぬ。躾が必要だな、セージよ。身の程というものを弁えぬ放埒な女には、厳格な管理が必要だ。お前たちに自分を律する強い精神など無いのだからな」
イアテムの目が爛々と輝くと、途端にセージが悶え苦しみ始めた。身をくねらせ、両足をぎゅっと寄り合わせ、切なげな苦悶の声を上げる。
「ふぁっ、あぅ、いやぁっ」
「淫らな雌めが。それがお前の本性だ。恥ずべき魔女として生まれてきたことを罪深いと自覚し、慎みを持って生きよと何度言わせる気だ?」
イアテムは傲然と言いながらセージに何らかの呪術をかける。見ただけでそれとわかる力関係。しかし、これはあまりにも酷すぎる。セージの様子を見ても、自発的にあちら側に付いたとは言えないような気がする。
レオが感情の無い声で呟く。
「カーイ」
「お前ぇっ! セージさんに、何をしたぁぁぁっ!」
絶叫しながら飛び出したのはファルファレロだった。
眼鏡の少年は両腕に呪文の帯を纏わせ、イアテムに掌打を浴びせようとする。イアテムは軽く間合いを離して回避すると、掌から水流の刃を生み出した。
反撃の一閃。
ファルの胸が袈裟懸けに裂かれ、呪文が弾け飛んでいく。両者の呪文使いとしての技量の差が出ていた。
倒れ伏したファルが呻く。
「そんな、前は勝てたのにっ」
「八億の息子たちは優秀だが、我が技量の完全再現はできん。どうしても強さにむらが出てきてしまうのだよ」
グレンデルヒに一蹴されたせいでわかりづらいが、イアテムの強さは以前よりも向上していた。
とはいえ、あちらは敗北を受け入れず戦いを続けようとしている。これは明確にあちらのルール違反だ。
(道場破りチャレンジは一月に一回! 連続挑戦は遠慮するのがマナーです! ちびシューラとの約束! 破ったらぶち殺すよ♪)
ちびシューラからの指令が【マレブランケ】各員に伝わり、悪足掻きをするイアテムを包囲。この数で一気に仕掛ければひとたまりも無いだろう。ファルが注意を引きつけてくれている隙にセージごと無力化すれば全て解決だ。
ところが、それより先に動いたものがあった。
音もなくイアテムの背後に回り込んでいたカーインが、槍のように貫手を放つ。分厚い筋肉質の背中、脊髄に近い箇所にめり込んだ指先がごり、と抉られて、イアテムが背筋を反らせた。
「おごっ」
吐血するイアテムは痙攣しながらも水流だけを操作して斬撃を背後に放つ。カーインは身を低くして回避すると、地面に手をついて足払いを仕掛けた。転倒した相手の頭部に再度の貫手。
確実にイアテムを倒せる一撃を放ったカーインを水滴の弾丸が襲う。カーインは咄嗟に腕を引き戻し、交差させてガードした。切れ目の無い連射に耐えきれずに大きく飛び退いていく。
邪魔をしたのは苦しげな表情のセージだった。
「ご、ごめんなさい。いつもレオくんと一緒で羨ましいから消えろって思うし絶好の機会って感じだけどレオくんに悪く思われたくないから不本意だけど謝るフリくらいはしとくし。でもカーイン死ねばいい」
何かどうしようもない事を言っているセージに、カーインは静かな殺意に強ばらせていた表情を緩めた。
「ふ、調子が出てきたようだな」
「うっさいし! ぶっころす! 死体ぐっちゃぐちゃにミニマム改造してぶち犯してやるし! あ、こども死体カーイン、いけるかも。ふひひ、レオくんとこどもカーイン、ああっやばいやばい色々漏れるしっ」
「それでいい。所詮、生まれという呪縛から自由にはなれぬものだ。ならばせめて、宿命を楽しむのも一興」
セージの立場に、何か思うところでもあるのだろうか。
カーインが少女に向ける感情は、不思議なほど透き通っている。セージはびっくりしたような顔で目を瞬かせた。
「何をやっているか雌豚がっ! 本気で戦え! 我らの為にその身を捧げよ! 同胞の、家族の為に全てを差し出すしか能が無いのだろうがっ」
イアテムが呪術で自らを治療しながら叫ぶ。カーインにやられたダメージのせいで動くことすらままならないため、「命に代えても我を守れ」などと倒れたまま喚いていた。唾がセージにまで飛ぶ。
「許可する。『あれ』をやれ」
「え、あの、でも」
「口答えが許されるとでも思っているのか馬鹿者が!」
罵声、怒声、恫喝、威圧。
イアテムの単調な『呪文』はあまりにも原始的で俺でもできるような最下級の呪術だったが、セージはそれを聞いただけで条件反射のように竦み上がり、唯々諾々と従ってしまっていた。
(『呪文』っていうか、『使い魔』だね。あれは)
ちびシューラが冷ややかに分析する。セージは涙を流しながら、それでもイアテムに逆らおうとはしなかった。
ファルではないが、以前の戦いでは彼女は師に反抗していたはず。この短い期間でそれが出来ない理由ができたのだろうか?
「えぐ、ううっ。怖いよう、でもやらなきゃ、やらなきゃっ」
あれはどういう心理が働いているのだろう。
義務感、強迫観念、あるいは恐怖?
(はいはい、余計なこと考えてないでぶっ殺そうねアキラくん。色物アストラルババアの過去なんて後で適当に捏造して感動消費しとけばいいよ。今は排除するのが先。総員、攻撃開始)
命令が下り、俺たちは一斉に攻撃を仕掛けようとする。だがその瞬間、凄まじい呪力が真上から叩きつけられ、全員の動きが強制的に停止させられてしまう。
空が裂け、漆黒の闇が口を開ける。
その中から、ゆっくりと巨大な剣が降下してきたのだ。
(【ダモクレスの剣】! けど、今までと様子が違う!)
幻影の剣はその形状を一変させていた。
シンプルな直剣から歪にねじ曲がった反りのある刃へと変化し、禍々しい装飾が追加されている。柄に嵌め込まれているのは不気味な頭蓋骨だ。
付け加えれば、単純に放たれる呪力がかつてとは桁違いだった。
「ぶうぶ! ぶうぶ!」
意味をなさないブウテトの叫び。だが言わんとするところは理解できた。巨剣を吊り下げている糸は蜂蜜色に輝いている。長い髪の毛を何本も結んで長い糸にしているのだ。
「まずい、ブウテトの呪力を付与したあの剣は、ガロアンディアンだけじゃなくて【死人の森】も滅ぼせる! 敵の狙いは私たちだけじゃない!」
トリシューラが注意を促したことで、クレイや六王たちがブウテトの周囲を固める。上からの重圧で膝をついていた俺たちも立ち上がろうとするが、そうしているうちに、セージの呪術は発動してしまっていた。
それは、泣き叫ぶような宣名だった。
「我が祖は人魚、異教の悪魔に捧げられるべき忌まわしき贄! まことの名を【海雌豚】! 貪られるべき供物なり!」
直後、莫大な宣名圧が吹き荒れ、灰緑色の輝きがセージを包み込んでいく。
何もないところから吐き出される激流がセージを取り巻き、白い泡が少女の全身を覆い隠す。無数の白い泡が弾けると、少女の肉体が露わになっていった。
(何、異界神話の参照? それも海神系統――これって)
ちびシューラは、セージの周囲にイルカの幻影が現れたのを見て顔色を変える。半透明のイルカは甲高い声で一声鳴くとどろりと溶け、少女の肉体を構成する新たなる部位となっていった。
それは巨大な蛸だった。
青い色、おびただしい数の触手、その中心には獰猛な牙を備えた口。触手の反対側からはセージの上半身が生えており、青く染まった裸身をくまのぬいぐるみと蝶の翅で申し訳程度に覆い隠している。
「あ、う、ああ」
理性の感じられない声。白目を剥いて口から泡を吹くセージの腹部から立て続けに三つ、何かが飛び出した。
それは三体の使い魔。基本は馬だが、前足には蹄の代わりに水掻きがあり、下半身はそれぞれ魚、イルカ、タツノオトシゴという異形になっている。
(召喚師! セージは悪魔や精霊を召喚して使役する魔女術の使い手だったんだ! それも、あれは大神院の序列では第四位の――よりにもよってあれを呼び出すとか、あいつら気は確かなのっ?! 人造ペレケテンヌル作ってたグレンデルヒがまともに見えるよ!)
「ああ、ぅぐぁ、レオ、くん――こどもカーイン、うごぁ――」
完全に理性を失った状態で、それでも最後に残ったのがあの二人への想いだったのか――いやちょっと邪念入ってる気もするが。
もしかすると再三に渡り俺の外見を十歳前後にするように要望を出してきていた【美少年は至宝】さんは彼女だったのかもしれない。
(アキラくん気をつけて。あれは海の民にとって最も恐るべき異教の悪魔にして、槍神教が彼らを恐怖と力で縛るための守護天使。皆殺しのデーデェイア!)
セージの眼球がぐるんと裏返る。
赤一色に染まった目が輝き、苦悶の声が消えた。
少女は柔らかく微笑むと、
「ああ、現世は久しぶり。呼び出されることなんていつ以来でしょう――あら。あらあらあら? 懐かしい気配がありますね」
上品そうな口調でそう言って、ゆらりと動き出した。
真っ直ぐに、ブウテトに向かって。
本体の動きは緩慢だったにも関わらず、誰もその動きを止められなかった。
長く伸びた青い蛸足を目で捉える事が出来なかったからだ。
吹き荒れる触手の乱撃は嵐の具現。
押し寄せる圧力は凝縮された波濤そのもの。
まずトリシューラが操作する戦闘用ドローンが全てスクラップに変えられて、抗いようのない暴力によって一人ずつ叩きのめされていく。
カーインがガードした左腕ごと全身の骨を粉々にされながら吹き飛ばされ、チリアットとカニャッツォが血反吐を吐いて錐揉みしながら宙を舞い、トリシューラとカルカブリーナの銃撃は全て触手で弾かれ、俺とマラコーダは三体の使い魔との戦いを強いられて身動きが取れない。ファルファレロはそれを見て失禁しながら気を失った。
ブウテトの前に立ち塞がったクレイが一撃で吹っ飛んでいき、小さな六王たちもあっさりと薙ぎ払われてしまう。
地上の守護天使――古き神をその身に降臨させたセージは余りにも強すぎた。
というより、あれは既にセージとは呼べないのだろう。
受肉したデーデェイアがブウテトをまじまじと見つめながら両手を合わせた。
「まあ、キュトス様じゃないですか! それにハザーリャも一緒なの? あら、ミクニー様とペレちゃんの気配もありますね。あと、えーと、ティー、ティーアなんとか様? しばらく見ない内に随分いろいろと混ざったのですね」
長いこと会っていなかった旧友に話しかけるように友好的に近付いたデーデェイアは、笑顔のまま触手をブウテトの腹部に突き刺した。
槍のごとき先端がブウテトの腹部から背中へと抜けて、鮮血が飛び散る。
赤い雫を頬に浴びながら、恍惚とした表情になるデーデェイア。
「キュトス様って何度殺しても死なないから素敵。神群の皆さんがわたくしのことを遠巻きに見ている中、貴方様だけは普通に接してくれましたね」
触手が蠢き、ブウテトを細切れの肉塊に変えていく。
骨まで粉微塵に砕かれるが、地面にばらまかれたブウテトの欠片は一瞬にして時間を巻き戻したかのように再生した。生と死を司る女神としての力だろう。
だが、復活した直後に叩き潰されて即死する。
その繰り返しがしばらく続いた。少女の上品な声が軽やかに響く。
「本当にいい――何度潰しても、引き裂いても、殺しても殺しても殺しても! 貴方様は殺されながら生きていてくれる。わたくしを肯定してくれる!」
「ぶひっ」
ブウテトは鼻から凄まじい暴風を噴出させて距離を取ると、細い指先を前に出してぐっと握りしめた。途端、地面が割れてそこから無数の死人たちが這い出してくる。白骨が蠢き、腐乱した肉塊がデーデェイアを包囲して束縛。悪臭を放つ粘性の豆や不吉な鳴き声のカラス、虹色の芋虫に泡の鎧を纏った珊瑚角の蛙、白骨化した猪に腐乱した豚といった使い魔たちが現れて一斉に攻撃を仕掛けた。
「『軍勢』による全力攻撃ですぶー。古き神を降ろしたといっても、不完全なアストラル体だけの二級霊媒では圧殺されるしか――っ?!」
ブウテトの言葉が途絶える。
死人の軍勢を吹き散らした蛸の触手がブウテトの全身を掴んだのだ。
「言われてみれば、確かに身体が鈍いですね。というか、わたくしへの贄の他にも妙なものが混じっているような。ミクニーの子供と、あとコレ何でしょう? にゃんこさんですか? にゃにゃーん?」
小首を傾げながら死人たちを踏みしだき、ブウテトの四肢をぼきりぼきりと砕いていくデーデェイア。ブウテトを二度、三度と華奢な腕で殴打するが、直後に自らの腕が砕けてしまっていることに気付いてぱちぱちと瞬きする。
「あらあら、脆いこと。困りましたね。器が壊れてしまっては殺せないじゃないですか――ねえ、そこの方、ちょっとよろしくて? わたくしを呼び出した海の司祭は貴方でいいのですよね?」
凄まじい速度で伸縮した触腕が倒れていたイアテムを掴み、デーデェイアの近くに引き寄せる。みしみしと骨が鳴り、イアテムが悲鳴を上げた。
「そっ、そうだ! だからさっさと我らが怨敵を打ち倒せこの怪物が!」
デーデェイアはそれを聞くと、少し困ったように眉根を寄せた。
「敵、敵ですか。ええと、あまり細かい注文はわたくし苦手で――お訊きしたいのですけれど、わたくし、一体誰を殺さなければいいんです?」
「決まっているだろう! 我らは殺すな、そんなこともわからんのか!」
イアテムは罵声を吐き続ける。召喚の呼びかけに応じた以上、この古き神は自分たちを絶対に傷つけない――そんな確信があるのだろう。
デーデェイアは「なるほど」と頷いた。
「つまり、貴方やそちらの方々を殺さず、それ以外を根絶やしにせよ、と」
言いながらブウテトを五度殺害しついでに六王を叩き潰したデーデェイアは、触手を嬉しそうに蠢かせながら可憐な笑みを浮かべた。
「久しぶりの皆殺しですねっ、嬉しいですっ! この小世界の生命は全て叩き潰していいのですよね? 内蔵を破裂させ、血を沸騰させ、脊髄を抉り出し、それらを鈍器にして脳漿をぶちまけてもよろしいのですよねっ!」
「い、いやそこまでは――僣主どもさえ排除できれば後は我らが第五階層を支配するのだから、ぎぇぐっ?!」
言いかけたイアテムの顔が青紫色に変色する。
触手の先端から伸びた針のようなものがイアテムに突き刺さり、何かを注入しているのだった。デーデェイアは更に触手をうねらせてグレンデルヒに敗北したイアテムの部下達にも同じように何かを注入していく。
「なっ、なっ、貴様ぁっ、何をっ」
「え、ですから、致死毒を」
「はあぁぁぁっ?!」
殺すなと言われた直後の凶行に、その場の全員が愕然とする。
召喚の呪術によって降臨した神は狂っていた。
「大丈夫です。直ぐには死にません。血液を溶かしながら骨と神経を腐らせ、臓器を侵しながらじっくりと長い時間をかけて死に至らしめる毒ですから。勿論、わたくしが皆殺しを終えて帰った後に。毒を注入して放置しただけですし、勝手に死んでしまったらそれは本人の努力不足ですよね? わたくし、何か間違った事を言っています?」
不安そうに眉を下げ、周囲の様子を窺うように気弱な視線を巡らせるデーデェイア。仕草や物腰は線の細いお嬢様といったふうなのだが、ブウテトが使役する死人を虫を扱うかのようにぷちぷちと潰していく様子は常軌を逸していた。
デーデェイアは、触手を繊細に動かして生きたまま人体をバラバラにして放置する、奇怪な響きの呪詛によって老衰寸前まで対象の時間を進める、全身を拘束したまま召喚した怪物の前に放り出すなどの所業を繰り返し、しきりに自分は手を下していないと強弁する。
「神格としてのわたくしは駆逐か殲滅か、いずれかの願いを聞き届けます。殺して欲しいと願われたなら殺戮しましょう。殺さないで欲しいと願ったのならわたくしが直接手を下す以外の手段で殺戮しましょう。殺すなということは、直接殺さなければ何をしてもいいということですよね?」
凄まじい詭弁だが、デーデェイアにとってそれは『殺した』ことにはならないようだ。直接触手を振るえないことが悔しいのか、唇を尖らせて不満そうな顔をしていた。その所為か、力加減を間違えてイアテムを触手で握り潰してしまう。
「あっ、わたくしとしたことが、うっかり」
頭部ごと粉砕されたイアテムは、断末魔すら無いまま絶命した。
致死毒によって確定していた死が早まっただけとはいえ、あまりにも呆気ない最期。イアテムが分身を作れることを知らないデーデェイアは「どうしましょう」と緊張感の無い困り声で言った。
「古き神ともあろうものが、決まり事を破ってしまうなんて。存在が零落したら、また本の神さまに叱られてしまいます――まあでも、別にいっか♪ わたくしに『殺すな』とか、難しいお願いをする人の子が悪いのです。わたくし悪くないのです。権能は皆殺しだけですもん。わるくないったらわるくなーい♪」
ぺろりと舌を出しながら笑顔を浮かべる破壊と殺戮の女神。
俺は銃を構えたトリシューラと背中合わせになって使い魔たちと戦いながら、その場の誰もが感じているであろう疑問を口にした。
「なあ、イアテムはどうしてあの女神を呼び出そうと思ったんだろうな?」
「呼び出せば敵を倒せると思ったからじゃない。実際、その見立ては正しいよ。制御できるようなものじゃないってことと、敵味方問わず皆殺しにされるってことを度外視すればね」
ちびシューラの補足情報によると、神には天災などを司る荒ぶる高次存在としての側面があるという。しかし、いくらなんでもこんなキ印女神を呼び出すとかイアテムは頭が悪いとしか思えない。これに比べたらトリシューラの悪辣さとかブウテトのアレさに目を瞑って女神として信仰を捧げられる。実際に信者みたいなもんだが。コルセスカは何かもう天使。
(降格されてるよねそれ。っていうかアキラくんセスカとシューラで差をつけすぎだよー! ずるい、シューラも天使がいい!)
視界隅で憤慨した二頭身が翼を生やしてエンジェルシューラになる。
同時に【サイバーカラテ道場】を経由して最適な戦術パターンを展開。
右腕から【氷】を使い魔の一体に叩き込んで侵入、制御を乗っ取るともう一体の使い魔にけしかけ、トリシューラが苦戦しているマラコーダに支援を行う。射撃によって使い魔の動きが制限され、身を低くして滑るように敵に接近したマラコーダが尻尾を使い魔に突き刺して【呪毒】を発動。
三体の使い魔が悲鳴を上げるが、古き神の眷族は耐えきってみせた。
それでも無傷とはいかなかったようで、かろうじて対抗できるレベルに弱体化していた。マラコーダが傷付きながらも立ち上がりつつあった【マレブランケ】のメンバーを率いて使い魔を足止めしている隙に、俺は左腕を換装して走り出す。目指すはデーデェイア。あれを何とかしなければこちらに未来は無い。
そして俺たちには殺す事にさして躊躇いは無いが、古き神が寄り代としているのはここしばらくの間レオたちと行動を共にしていた少女のものだ。
このままではセージの肉体は遠からず崩壊する。
血塗れで倒れているカーインにレオが近付き、声をかけていた。
「カーイン、お願いだから――」
「――今すぐにでも、アレを叩き出してセージを解放します」
額から血を流しながらふらつく足を押さえ、カーインが立ち上がる。
どこにそんな力が残っていたのか。気息を整え、全身に力を漲らせてカーインが疾走、俺に並ぶ。更に横合いから声がかかった。
「支援してやる。不本意だが陛下を助ける為だ。合わせろ屑ども」
心底忌々しげに吐き捨てたのはクレイ。
触手の一撃を貰って足下がふらついているようだが、気力でどうにか持ち直してすっと背筋を伸ばして姿勢を美しく保つ。と、両腕が優美な曲線を描き始めた。くるくると回転し、足が地面を叩き、リズムは次第に激しくなっていく。
「ほう、これは」
カーインが目を見開き、俺も驚嘆して自分の身体に起きた変調を確かめるように足を強く踏み出した。
俺とカーインは同時に地面を砕き、これまでとは比べものにならない速度で疾走する。デーデェイアは振り向きもせずに触手を叩きつけてくるが、俺たちはそれを片腕で受け流しながらどうにか耐えきった。
「あらら?」
背後でクレイが激しく舞っているのを感じた。尻尾のような黒い髪房が宙を跳ね、全身が躍動するにつれて俺たちの身体能力が強化されていくのを感じる。
クレイの肉体言語は他者の強化もできる。性格的に似合わない術のようにも思えるが、ブウテトを救出するという共通の目的が彼にこの手段を選ばせていた。
カーインが折れていない片腕を構え、貫手の形にした指先でデーデェイアを狙っているのが見えた。恐らく彼は神であるデーデェイアを狙うのではなく、セージという肉体に必ずある経絡秘孔を狙うはずだ。
古き神を追い出す為のアプローチとしての本命はカーインの手段。
なら俺は、形無き高次存在を揺さぶってカーインの仕事を助けよう。
要するに幻肢で直接ぶん殴って隙を作る。
肩の煙筒から蒸汽を吹き上げる左腕で掌打を放つと、触手が目にも留まらぬ速度で動いて義肢を粉々にしてしまう。だがそれは囮。本命の攻撃はここからだ。
(ここからが【エンバーディープ】の真骨頂だよ! 呪術行使支援アプリ【幻肢の力】起動! 幻肢憑依・汽力発勁!)
破損した義肢の内部でタービンが逆回転し、水蒸気に憑依した俺の幻肢が雲の両腕を作り出した。加熱された水蒸気がデーデェイアに襲いかかる。
不定形の腕はデーデェイアの触手による防御をすり抜け、その全身を包み込むようにして熱を浸透させていく。
「茹でダコになりやがれっ」
加熱による攻撃と同時に呪的発勁。足裏で大地を踏みしめ、外力を伝達していくような感覚で自分自身を騙す。鋼鉄の拳を振るうような気持ちで幻肢を小柄な少女の内部に突き入れた。
宙に浮かんでいたデーデェイアがぐらりとよろけ、高度を落とす。
力が弱まった触手が捕らえていたブウテトを解放し、地面に落ちた女王を駆けつけたトバルカインがギリギリで受け止めた。
そして俺は、少女の霊体の奥、その魂の根源とも言える場所を見定め、そこにいる異物を排除すべく幻影の掌打を放った。
凄まじく巨大な質量を殴りつけたような手応え。
幻肢がびりびりと痺れ、反動で全身が悲鳴を上げる。
感覚の腕であるため、この痛みばかりは遮断不可能。
泣き喚きそうになる表情をアプリで制御しつつ機械的にやせ我慢して攻撃を続行。足止めによって古き神の注意はこちらに向いたままだ。
そして、カーインの貫手が放たれる。
片手のみで突き出されたにも関わらず、それは複数に見えた。
残像を生むほどの速度でセージの全身を立て続けに指先で突いていく。
点穴は僅かでも誤差があれば成功しない、精密さを要求される技術だ。
それをあれだけの連続して行って完全に成功させるカーインの実力は卓絶している。少なくともこの第五階層では『並ぶ者無し』と呼べる程に。
クレイの舞踏によって強化された身体能力が可能とする超高速の連撃が終わり、都合四十四もの打撃を一瞬のうちに放ったカーインはそこで力を使い果たしたかのようにぐらりと倒れ伏す。
と、同時に俺もまた手応えを無くして身体が傾く。
見れば、セージの身体から力が失われ、異形となっていた下半身がどろりと溶けて地面に滴り落ちた。マラコーダたちが戦っていた使い魔も消失している。
気を失ったセージに上着がかけられる。
レオがいつの間にか近付いて来ていた。
「アキラさん、どうもありがとうございました」
「いや、単に力押しで殺すのが難しかっただけだ。それに今回きちんと仕事したのはカーインだ」
「はい、わかりました。――カーイン、ありがとう」
珍しく、と言ってしまってもいいのかどうか。
花のような笑顔を向ける主を、カーインは恐ろしいものを見たような目で凝視していた。それこそ先程の古き神にも向けないような恐怖の視線だ。
「カーイン? 僕は普通にお礼を言っただけなのに、何でそんな顔するんですか? そんなに変ですか?」
猫耳をへなりとさせて項垂れるレオに、カーインが額から血の混じった汗を流しながら何か言おうとする――が、激痛の余り咳き込んでしまう。触手の直撃が骨と内臓を傷つけているのかもしれなかった。
(とりあえず、負傷者を治療しないと。えっと、敵はもういないよね? イアテムがまたどこかから分身飛ばしてきそうで怖いんだけど)
ちびシューラが頭髪をアンテナのようにしながら周囲を警戒する。
天を見上げた。そこには未だ巨大な剣の幻影がある。
あれがあるということは、イアテムはまだどこかからこちらを狙っているのか? しかし、今の奴には打つ手が無いはずだ。
恐らく切り札であろうデーデェイアはどうにか撃退できた。
消耗したとはいえ、今の俺たちにとってイアテムは単体だろうと群体だろうと敵ではない。ファルファレロは一度遅れをとったが、集団で連携すれば十分に圧殺できるレベルだ。
だがそれでも不安は消えない。
どうにも敵の行動が大雑把過ぎる気がする。
正面から堂々と攻撃を仕掛け、それが失敗するとより強力な戦力を投入し、制御しきれずに自滅。
ここから単純な奇襲だけで第五階層を手に入れるつもりなのか?
そもそも、二人いる女王のどちらかを倒しただけでは第五階層の覇権は狙えない。こう言っては悪いが、イアテム程度の器では二人を立て続けに撃破するのは無理であるように思える。
気になるのは、ラクルラール派の動向だ。
同じトライデントの細胞――あの勢力が未だ動いていない。
ミヒトネッセによって奪われたブウテトの髪の毛が巨大な剣を支えているということは、イアテムとは協力関係にあるはず。
奴らは今、何を企んでいる?
疑問が浮かび続ける。
そんなとき、異変は起こった。
「陛下? どうされたのですか?!」
クレイの切迫した声。
端整な顔が不安に包まれ、瞳には恐怖が浮かんでいる。
無理も無い。彼は自分の主に起きた異変を目の当たりにしてしまったのだ。
「ぶう」
そこに豚がいた。
豚鼻の美しい女王ではない。
雌の豚である。丸々とした四足歩行の豚が蹄をとことこと鳴らしてこちらに近付いて来ていた。
「ぶっぶっ、ぶひっ」
「陛下、そんな――何故そのようなお姿に」
クレイの声が哀れみを誘う。様々な感情が渦を巻くクレイの顔は今にも泣き出しそうだった。ちょっと可哀相だ。
そんなことには頓着せず、豚となったブウテトがとっとこ俺の足下に到着。ふごふごと鼻を鳴らす。
(前にも完全に豚化してたよね? 何か条件があるのかな。呪力の消耗? 月齢とか? 気温とか湿度の条件?)
ちびシューラが首を傾げる。
ブウテトは湿った鼻で俺の足下を探るように動き、しきりに臭いを嗅いでいるようだ。つぶらな瞳でこちらを見ると、「ぶう」と鳴いた。
何故か落ち着きが無いように見える。
(んん? まさか、いや、でも――ちょっと試してみよう)
何かを察したちびシューラが本体と同期。実体のトリシューラがブウテトに歩み寄り、突然その背中に飛び乗った。
「貴様、何を!」
手刀で斬りかかろうとするクレイを必死に止めながら、俺もトリシューラの行動に戸惑ってその様子を窺う。
これで俺とトリシューラはかなり重量級だ。あんなふうに乗ればブウテトは確実に嫌がるはず。下手をすれば怪我をしかねない。そう思ったのだ。
だが、何故かブウテトは耳をぴんと立てたまま抵抗しない。
しばらくじっとブウテトの様子を観察していたトリシューラは、ブウテトをそっと抱き上げて俺に近づける。
するとブウテトはぶひぶひと鳴きながら俺から顔を背けた。
というか、なんかお尻を足に押しつけられているような――。
「こ、これは!」
「どうした?」
愕然とした様子のトリシューラ。問いかけると、
「背圧反応を調べたの! やばいよアキラくん、これはもう背中に乗っかられてもいいモードだよ! 一度に十はオッケーで効率いいけど大変だよ!」
「落ち着け。何言ってるかわからん」
(雌性ホルモンであるエストロゲンやプロゲステロンがドバドバで、大前庭線液の大洪水秒読み段階だよー! ど、どうしよう?!)
トリシューラとちびシューラが揃ってわけのわからない錯乱の仕方をしている。つまりどういうことだ?
ブウテトは振り向いてちらとこちらを見ると、恥ずかしがるように俯いて顔を隠してしまう。本当に何が起きているのだろう。
「おい、まさか」
クレイが眉根を寄せた。
トリシューラが口に手を当ててはっと何かに気付く。
「これってもしかして、ミヒトネッセの【摂取】――いや、逆? そうか、【投影】!」
その瞬間、致命的な声が響いた。
「遅い。我が魂は既に勃起している」
それはとても軽い音だった。
ブウテトの背中から、水流の刃が飛び出している。
それが幾重にも分かれて俺とクレイの胸に突き刺さっていた。
咄嗟に動いた俺の腕がトリシューラを突き飛ばしていたが、水の刃は切っ先から吐き気のするような濃密さを持った呪力を注ぎ込んできた。
俺とクレイが同時に倒れ、そして体内から刃で貫かれたブウテトも同様に鳴き声を上げて横に倒れる。
(やられたっ! 自分の情欲を相手に押しつける催淫邪視。男根の視線。相手の精神そのものを書き換えるタイプの投影呪術だ!)
ブウテトは、死に近付くようなダメージは受けていなかった。
むしろ逆。生を指向するような――性的な衝動をかき立てられていたのだ。
それは彼女が生と死の両方を司る女神であるがゆえの、不可避の脆弱性。
強みでもあるため、女神という機構の仕様であると言ってしまっても良い。
あらゆる精神に働きかけて情欲を昂ぶらせる陵辱の刃。
それゆえに魔女殺し。
俺とクレイもまた、激しい衝動に襲われていた。クレイなど苦痛の余り唇を噛み切って頭を地面に打ち付けている。その視線はブウテトに向けられており、そうした自分に気付く度に激しい後悔に襲われてこの世の終わりのような悲鳴を上げる。地獄のような光景だった。
俺もまた、倒れたトリシューラから目を離せなくなっている。
突き飛ばしたトリシューラ。この腕力で突き飛ばし、倒せるのだという事実に驚くほど『可能性』を感じ始めている。
凶暴な衝動が目の前で手招きしていた。
トリシューラと視線が絡み合う。
緑色の瞳が怯んだように揺らいだが、それは一瞬の事。
その目はすぐに激怒に染まり、立ち上がって俺の頬を強く張った。
「この駄犬っ! 去勢してないのは言いつけを守れる賢いペットだって信じたからだよ! きちんと自分を制御してっ!」
膝蹴りが金的に命中し、俺は目の前に星が散るのを見た。
拘束帯があるとはいえ、重い振動が直に響いた。
その上、今はその、ちょっと状態が色々とこうデリケートというか。
うずくまって呻く俺の頭部を足蹴にしてトリシューラが憤慨する。
「よくも私のペットに手を出してくれたな――アキラくんの心をかき乱したなっ! 殺す、最大の苦痛を与えながら殺してやるっ」
「遅い――既に我が大業は成し遂げられた」
何かが、湿った音を立てて這い上がってくる。
『公社』が管理している下水道と繋がっているマンホールの蓋が持ち上がり、その男は姿を現した。薄い水の膜が全身を覆い、それが彼の気配を完全に遮断している。音も呪力の波も立てず、静かにイアテムが戦場に復帰した。
「ゲス野郎――海の民きっての英雄が聞いて呆れるよ。江湖にその人柄を知られた好漢ってのは自分で作った風評? 呪文の腕だけは一流みたいだね」
「英雄好漢が何であるかをお前たちが上から押しつけるな」
イアテムは怒りを込めて吐き捨てた。
腰には簡素な布一枚だけを身につけ、全身がじっとりと湿っている。
「お前たちの傲慢によって蹂躙された部族の伝統文化――そして男の誇り。先進国や槍神教は文化侵略と経済支配を繰り返し、我らの本来あるべき姿を貶めてきた。我らは耐えてきた。耐えて耐えて、屈辱に耐え続けてきた、今の今までな」
男の視線は、デーデェイアが行った暴虐の痕跡をなぞっていく。
押しつけられた守護天使。
あのような暴虐をその身に受けること。それ自体がイアテムが辿ってきた足跡であり、彼を構成する怒りと動機なのだろう。
「野蛮だと? お前たちこそ野蛮ではないか。何故、一方的に否定されなければならないのだ。我らは我らの世界で生きてきただけだ。そちらの論理によって圧殺されて良い筈がない。かの『事件』で、我らが同志は地上に対する抵抗の意思を見せてくれた。失敗に終わったとはいえ、その魂の迸りを途絶えさせてはならない。今一度、ハザーリャの再臨を!」
イアテムは遠く離れた場所から異なる文脈を持ち込んでこの戦場に立っていた。こいつは他者だ。俺たちとは全く関係の無い異物。
それでも、『居場所が欲しい』という願いゆえに対立は起きる。
「死ね」
トリシューラの銃弾がイアテムを射殺する。
その影からイアテム、倒れたそばからまたイアテムが次々と出現していく。
イアテムに果ては無い。まるでそれは、寄せては返す波のようだった。
「だからもう遅いと言っている。魂は屹立し、とうに昂ぶり果てている」
「キモいからこの世から消えてっ」
「八億の生存競争。劣った分身たちは淘汰され、生き残った者が真の『我』となる。果てしない試行錯誤を繰り返す、圧倒的な回数の暴力。それこそが英雄の条件だ。お前は我を強くするための試練でしかない」
「自慰なら部屋に篭もってしてろっ」
「自慰? 違うな。あれは克己の為に行う魂の情交。世界と対話し、弱い自分自身を乗り越える儀式なのだ」
銃弾がイアテムを否定し、その度にイアテムが自己を肯定して立ち上がる。
この男はどこまでも自分を肯定し、倒れることを知らない。
イアテムにとって、敗北は敗北ではないのだ。
【マレブランケ】のメンバーも戦いに加わりイアテムを倒していくが、出現し続ける英雄の群に終わりは無い。戦いはどこまでも引き延ばされる。
「ぶう、ぶーう!」
ブウテトの悲鳴が長く響いた。
トリシューラは焦ってイアテムを撃ち殺し、マラコーダが【呪毒】で大量殺戮を行う。だがそれでも駆逐しきれないほどにイアテムの数は膨大だった。
上空から不吉な音が聞こえてくる。
もう時間が無い。
いつか聞いた、【ダモクレスの剣】の発動条件。
剣に選ばれたイアテムの刃は、既に【死人の森】を統べるブウテトに突き立てられている。呪術儀式は既に発動し始めているのだ。
「死ね、死ね、死ねっ!」
トリシューラの銃声が虚しく響き、
「イェツィラー、おお、イェツィラー! 英雄の一撃、その身で受けるがいい――【魂の絶叫】!!」
イアテムが歓喜に身を震わせる。
腰の周囲に纏わりつかせた融血呪が、白濁した色から黄ばんだ色へと変化し、その悪臭が更に強烈になっていく。
濁流となった融血呪が天へと昇っていくと、それは巨大な剣に届いた。
巨剣を吊している蜂蜜色の糸が、ぎしぎしと悲鳴を上げている。
「おお! 遂に、遂に長年の悲願が成就するのか――大いなるハザーリャの解放! この小宇宙こそ降臨に相応しき聖地! やったぞ! 我らの勝利だ! この英雄イアテムが成し遂げたっ! 【死人の森の女王】、討ち取ったりっ!」
蜂蜜色の髪がふつりと切断されて。
【ダモクレスの剣】が、王国に落ちてくる。
豚の悲鳴が、長く響いた。
【投影】
欲望を『投影』する呪術。
『誇り高き男』としての自己を守るために自らの情欲を否定し、相手が自分を欲望していると思い込む邪視的な防衛機制。
『自分は淫らな女に誘惑されている』
『けしからん身体をしおって』
『襲ってくれと言っているようなものだ』
『無防備な方が悪い』
などの呪文で強化する場合もある。
【名誉殺戮】
イアテムの部族に伝わる、自分の家族を生贄に捧げて一族の呪力の格を維持する切断処理系結界呪術。イアテムは部族に伝わるこの伝統的呪術を近代呪術【投影】と組み合わせ、【イアテムの呪いの剣】という呪術基盤を完成させた。
【イアテムの呪いの剣】
身の内から湧き上がる情欲を断ち切らなければならない。故に己の内なる悪を断罪する為にその剣は振るわれる。
自らが強く正しく在るための術。
情欲を生み出す諸悪の根源――すなわち誘惑する淫らな魔女を殺して成長するための、英雄に相応しい克己の剣。




