(16)『水橋苗』
新たな出会いは不覚の再会。慢心油断は己に返る。
「九条くん……ちょっとだけいいですか?」
月曜日。
いつものように朝の予鈴と本鈴の間のシビアな五分間に教室に滑り込んだ俺を出迎えたのは、普段ならあまりないような現象だった。
俺を名指しで、クラスメイトの女子に声をかけられたのだ。
席に着いたばかりの俺の元にやってきたのは、こういうのも失礼かもしれないが、あまり目立つタイプの女子ではない。顔立ちこそ整ってはいるが、小柄なせいかどちらかと言うと幼げな印象を憶える。
俺はその女子の名前を思い出そうとして、目を泳がせる。
確か――。
「三橋さん……だっけ……?」
「水橋です。水橋苗です」
「し、失礼しました」
名前を間違えるなんて失礼な、と思うだろうが、個人差はあれ席が近いわけでもなく同じクラスというだけの控えめで目立たない生徒の名前と顔が一致しないのは男女問わずそれなりに共通認識だろう。
今でさえ、何の用で話しかけられているのかに全く心当たりがない。
「それで、何かな?」
急に辺りが静かになって気が付くと、周りで親しい同士の輪を作って談笑していたいくつかのグループがこっちを静観していた。
この子が目立たなくても、俺には目立つ理由があるのだ。ある種仕方ないことなのだろうが、とりあえずチラッと視線を送って牽制しておく。
「おい、水橋さんが……」
「九条の……」
「……って可愛いし……」
「くっ……さか俺の……が……」
周囲から聞こえるひそひそ話やその空気に気付いていないのか、水橋さんはおどおどとした控えめな態度で、朝の喧騒にかき消されそうなぐらいにこそこそと声を潜めて、
「あの……ご相談があるので昼放課屋上に来てもらえませんか?」
そんなことを言ってしまわれました……!
「やはり、そう来たか水はっちゃん……!」
「どう出る、九条……!」
「こんなところでうちのクラスの裏アイドルを……!?」
「水橋さん、意外とやる時は……?」
「男子うるさい……!」
「え~、まさか九条くん……!?」
男女問わず色めき立ったり殺気立ったりするクラスメイトの方々。後で数人にはちょっとした粛清が必要そうだが、それは一先ず置いておいて、水橋さんの台詞をもう一度冷静に斟酌する。
これは告白フラグか待ち伏せリンチフラグかどっちなんだろう。あるいは水橋さんは仲介だけで、誰かが俺を呼び出す目的でも考えられる。俺を呼び出すようなのは大抵男子なのだが、ほとんどが俺がどうしても目立ってしまう理由に直結しているため面倒だったりする。
前者もマトモな経験がないため後者とそれほど変わらないが、さてどうするか。
チラッと水橋さんの表情を観察すると、意を決してさっきの台詞を出したような真剣な光が瞳に映っていた。
これは単純に本人に用があると取っておくべきだろう。
「わかった」
短く簡潔にそう言ってやると、周囲がどっと騒がしくなる。
そこで初めて周囲の目に気がついたのか、水橋さんは慌てた様子で「ありがとうございますっ」と頭を下げ、小柄な身体を巧みに駆使して自分の席に素早く戻っていった。
なんなんだ……? と思いつつもさっきこそこそと気になることを言っていたクラスメイトの顔を捕捉し、拳を握りつつ席を立つ――。
「お~し、席着けよ~」
――がそこで教師が襲来した。
席に戻り始めるクラスメイトたちに視線を遣りつつも、仕方なく俺も席に腰を下ろす。
昨日は十一時のメンテナンスを待ってログインし、三時過ぎぐらいまで向こうにいたから疲れも残っているし、少し眠い。
段々と薄れ始める意識の中でHRを乗り切った俺は、一限目が始まる頃に眠りの世界に引き込まれていった。
そして気がつくと四限目が終わるところだった。
我ながら都合のいい睡眠欲だなと思いつつ顔を上げると、教壇に立っていた数学の女性教師が『やっと起きたか』とばかりに睨みつけてくる。
その教師から目を逸らして机の上を見ると、『人が我慢できない欲は食欲なんかじゃない。睡眠欲だ』なんて言葉が机の上に書かれていた。俺の字だし、きっと寝る前にそんな真理を書き残していたのだろう。
あまり意味はないが。
その落書きを消しているとチャイムが鳴り、教師が「適当に終われ」なんてことを言い残して教室を後にすると、途端教室が騒がしくなる。
あまり腹は減っていなかったが昼食でも買いに行くかと立ち上がった時、不意にとある人物が視界を横切って教室を出て行った。
(っと、水橋……)
そこで朝の約束を思い出す。
水橋さんはお弁当と思われる小さい袋と水筒を抱えていた。つまりは屋上で食事も済ませてしまうつもりなのだろう。
少なくとも朝考えていた後者はなさそうだ。元々そんな荒事の起こるような学校ではない上、狙われるような心当たりもないので大して本気にはしていなかったのだが。
おそらく先に行って俺が来るのを待っているつもりなのだろうが、食事を行動予定に入れているということは長い話になる可能性がある。長い時間を予定しているならすぐに行った方が水橋さんとしてはありがたいだろうと俺は昼食の調達を放棄して、水橋さんの後を追う。
そして思った以上に歩くのが早かった水橋さんに追いついたのは、二階上にある屋上に通じる扉の前だった。
「もしかしたら来てくれないかも、って思いました」
「一応約束はしたしね」
俺がそう言うと、少し嬉しそうな顔をした水橋さんは扉を押し開けてそこそこの広さがある屋上に出た。
雨が降っていたのか少し水たまりができていたが、水橋さんは構うことなく手近なベンチに向かい、濡れていないかを確認してそこに腰を下ろすと、持ってきていた弁当箱と水筒を隣に置いた。
そして黙ったまま突っ立っている俺を見上げてきた。
「どうかしましたか?」
「いや、何で俺はここにいるのかな、と思って」
本題に切り込む。
刹那のおかげで多少耐性がついてきたとは言え、女子にはまだ苦手意識がある。思考回路が理解できないのもあるが、行動論理もさっぱりだ。
昔から結構玩具扱いされていた、というのも根底にあるだろうが。
「それは……私がお呼びしたからだと思いますけど……」
一瞬戸惑ったような表情を見せた水橋さんから返ってきたのは、質問の意図とは少しズレたそんな言葉だった。
「いや、そうじゃなくて……。えっと、それで用ってのは何?」
いいのかな、と思いつつも弁当箱と水筒を挟んで水橋さんの隣に座り、水橋さんに直接的な言い方で聞き直す。
「あ、はい。九条くん、[FreiheitOnline]って知ってますよね?」
予想外の方向だった。
「うん、まぁ知ってるというかやってるけど……」
「私にそのゲームのこと、教えてくれませんか?」
そう言って、水橋さんは制服のポケットから神経制御輪とPOD、そして接続ケーブルを取り出した。
「最近始めたばかりなんですけど、説明書だけじゃよくわからなくて。あんまりこういうゲームって慣れてないですし、それでこの前他のプレイヤーの方に迷惑をおかけしてしまって。それでクラスの方に聞いたら、九条くんが一番詳しいかもって言ってましたので」
誰だ、めんどくさいからって俺に押し付けたヤツは。FOフロンティアでならいくらでもケンカ買うぞ。
「あの……」
黙っている俺をどう解釈したのか、プルプルと弱々しく震えながら不安そうに見つめてくる。
「いや……。それで、それはつまり俺に教えて欲しいってこと?」
「あっ、はい。お礼は……えっと、ちゃんとします」
「ん~、まぁ、別にいいけど」
現実ではともかく、FOのことではさすがに断れなかった。
ビギナーに教えられるようなことなんてよくわからないけど大丈夫か……? とそんなことを思っていると、水橋さんはいそいそと神経制御輪を腕に嵌め始めた。
今から少しでも、というつもりだったのだろう。
聞き直すのも気を遣われそうだし別に暇だから構わないか、と俺も何も言わずにポケットから神経制御輪とPODを取り出して用意をする。
「じゃあ、まず感覚接続して。あっちで教える方がかなり楽だし。場所は……トゥルムってわかる?」
「あ、はい」
「じゃあ、あそこの第一広場の入り口の辺りのベンチで。わかる?」
「はい」
PODを操作して真面目な顔で位置指定を始める水橋さんに思わず和む。慣れれば考えるだけで位置指定はできるのだが、始めたばかりの水橋さんにそこまで求めるのは酷というものだろう。
「じゃあ、俺は先に行ってるから。感覚接続」
『声紋認証。[FreiheitOnline]を起動。アカウント[シイナ]でログインを開始します』
身体が浮き上がるような感覚の後に目を開けると、俺は指定しておいた巨塔前の第一広場、そのベンチに座っていた。
「何も変わらない……か」
一回りも二回りも高くなった声。
確認するが、アバターにも破損データの方にも変化はない。アレからログインは四回目だが、入るたびに確認してしまうのが悲しいところだ。
――ジジジ。
ベンチの隣の空間がノイズのようにわずかに乱れ、一人のプレイヤーがログインし、この世界に降り立つ。
「――ってネアちゃん?」
「え? あ、あれ……? シイナ……さん?」
そこに偶然ログインしてきたのは、土曜の夕方に知り合ったばかりのビギナーの女の子[ネア]だった。
「あれ?」
ネアちゃんはキョロキョロと周りを見回すと、首を傾げた。
そして、俺の方をジーっと見つめ、
「九条……くん?」
ネアちゃんは俺の名前を――俺の現実の名前を呼んだ。
一瞬頭がフリーズするも、多少覚えていた一致感が頭の中で急激に組み立てられ、俺は事態を的確に理解した。
まさか、水橋さんがネアちゃんだったなんて――。
「なんで頭抱えて目を逸らすんですかっ!?」
「俺にも色々あるんです……」
衝撃の事実発覚。
九条椎名十六歳、学習能力皆無。
Tips:『央都トゥルム』
FO世界の中心にある最大の都市。中心部の巨塔ミッテヴェルトから放射状に伸びた大通りと同心円状の道路に区切られた規則的な構造が特徴で、ギルド・NPCオーナーの専門店・インフラ設備などあらゆる面で最上級クラスのものが揃っており、街を囲うように建てられた城壁周囲では定期的に最大規模の街襲撃イベントが行われたり、各所で大規模ギルド同士の争いや上位プレイヤー同士の決闘が頻発していたりと『退屈しない街』として有名。街自体に政治的な要素はまったくないため、トゥルムに居を構えるプレイヤー次第でどんな街にもなりうる。




