プロローグ『始まりは誰にもわからない』
自由の箱庭よ。永久にあれ。
『この度、当社サービスのVRMMO[FreiheitOnline]のサーバーの一部がダウンしました。原因は現在調査中です。サーバー自体は本日10時頃に復旧しましたが、その際全体の約5%のプレイヤーデータに破損が確認されました。現在該当データの修復を試みておりますが、修復不可能と判断された場合につきましては――』
そんな主旨のメールが突然POD――正式名称パーソナル・オンライン・デバイス。携帯ゲーム機に携帯電話の機能を組み込んだ複合ハードデバイス――に送られてきたのは、学校の授業中、ちょうど昼休み直前で色々な意味で余裕のなくなってくる四限終了の十分前だった。
「――はぁ!? サーバーダウン!?」
冒頭の一文を見て驚きのあまり立ち上がった拍子に、椅子が盛大な音を響かせて床に倒れ、俺以外のクラスメイトの視線が集中する。
おい、誰だ今「さすが九条、タテワキの授業でやらかすとは」って言ったの。聞こえてるからな。
もちろん授業終了十分前である今は、当然の如く授業中であり――――教壇に立っていた厳格で有名な化学教師楯脇が無言で廊下を指差した。
「すいません」
再び教鞭を取り始めた教師に頭を下げ、倒れた椅子を戻した俺は、大人しく教室の後ろの扉から廊下に出る。
社会全体がデジタル化し始めているこの世の中、未だに黒板とチョークを使っているこの学校は時代に乗り損ねかかっているのだろう。
現在、生徒会が動いているらしいが、うちの学校は年配の教師が多い。もしかすると、下手にオンラインデバイスとモニターに変えたら教師の方がついていけなくなるのかもしれない。
廊下でひとつため息を吐いた俺は教室の中にそっと覗き、教師が板書に取りかかった隙を突いて、教室からさほど離れていない場所にある男子トイレに駆け込み、一番奥の個室を占拠した。
普段は普通に罰も受ける優等生なのだが、今はメールの内容の方が気にかかったのだ。ちなみに体罰食らってる時点で優等生じゃないだろう、とかツッコンだ本物の優等生は黙っててもらおうか。
俺の教室に最も近いトイレは隣の教室の正面にあり、その入り口は陰謀の如く教壇に立つ教師の視界に入っている。
だからこういう緊急時にはたいてい一計を案じる必要があるのだが、今日に限っては天が味方してくれたようだった。
洋式便座に腰かけ、ポケットから再びPODを取り出すと、上部の起動ボタンを押してしばし待つ。
「もう入れるんだよな……」
PODの起動を待つ間に、俺は別のポケットから取り出した腕輪状の端末を手首に嵌め、コードでPODと接続する。
この端末は神経制御輪。
腕の神経系を謂わば導線のようにして擬似的な外部刺激情報を電気信号で脳に送り、『擬似的な仮想世界』を創り出す。そして実際に身体を動かすために脳が出す電気信号は神経制御輪に集め、コードを通してPODで情報処理を行い、肉体の代わりに仮想現実の自分を動かす。
要するに自分の思った通りにもうひとつの身体を動かせるのだ。
もう代替的な感覚器官と言っても差し支えないほどに進化したこのシステムは、早々と二十一世紀最大の発明とまで謳われている。
俺は目を閉じて、深呼吸で心の準備をすると、
「感覚接続」
『声紋認証。[FreiheitOnline]を起動。アカウント[シイナ]でログインを開始します』
ゲームスタンバイ状態のPODが俺の声を自動認識し、専用アプリを起動すると、同時に視界が暗転し、やがて無数の光が星のように瞬き始める。そしてふわっと身体が浮くような感覚と共に、
「とっとと……」
俺が現実の他に、また違った日常を送っている世界、[FOフロンティア]に降り立った。
現在地は、最後にログアウトしたFOフロンティアのホーム。要するにソロプレイ用の活動拠点である自宅の中だ。
ソロプレイ用のホームを使ってはいるが、俺こと[シイナ]は別にソロプレイヤーじゃない。一応ギルドには所属しているが、ちょっとした事情でそのギルドの集合活動拠点――ギルドハウスを使うのが嫌なだけだった。
ここはトゥルムという街にある高級マンションの一室。
最初こそ、どうせ仮想現実ならもっと未来然としたデザインはなかったのかとも思っていたが、見慣れた感じの落ち着ける部屋の方がいいことに気がついたのは最初に入ったフィールドのボス戦の後だった気がする。
この部屋を買ってからは武器防具の為にばかり金を使っていたため、家具の類はかなり少なく、非常に殺風景だ。せいぜいテーブルとベッド。マジでそのぐらいしかない。
とは言え持っているアイテムは全部アイテムボックスに入れられるこの世界での生活に不都合はなく、家具はインテリアとしてあるだけのオブジェクト。金持ち(あるいは暇人)の道楽に近いものがあり、家具を現実と同じように全て揃えている奴はあまりいない。
とりあえずログインできたことに一安心もといひとつ安心すると、突然半透明のメッセージウィンドウが出現した。
『[竜☆虎]さんから1件のメッセージが届いています』
『[†新丸†]さんから1件のメッセージが届いています』
『[刹那]さんから1件のメッセージが届いています』
同じギルドに所属している全員から一通ずつメッセージが来ていた。
三人の内の上二人、リュウとシンの二人はベータテストからの、刹那は本サービス開始からの付き合いだが、三人共親友だと思っている。
俺はその三つのウィンドウに指で触れ、同時に開く。
『[竜☆虎]大丈夫か? 俺の方はデータに損傷はなかったが、とりあえず入ったらいつもんトコで会おうや』
『[†新丸†]武器データが幾つか吹っ飛んだぜ(泣 防具も天地一式消えてるし、マジありえない! まだ数えてるとこだけど、そっちはどうだった?』
『[刹那]私はスキルがいくつか吹っ飛んだんだけど、シイナは?』
「壊れるデータにも色々あるみたいだな……。俺も早めに確認しておくか」
正直、武器がいくつか個別で消えるというのも不思議な話だが、俺がそれを考えたところで何が変わるわけでもないだろう。
授業が終わるまであと数分。それまでに色々と確認しておきたいところだ。授業終わって廊下に俺が立ってないのバレたら、逆に放課後呼び出されたりして無駄な時間食いそうだし。
視界右下に浮かぶ小さなボタンに触れ、メニューウィンドウをポップアップさせると、[アイテムボックス]の文字に軽く触れ、その中からさらに[装備品]のボックスを開いて――――絶句した。
(ちょ、待て……)
思わず目を擦り、再び視線を戻す。
装備品ボックスに入っていたはずの武器、防具、アクセサリー。ちょっとしたコレクターとして集めていた相当数全てが、無機質な表面に赤いバッテンが描かれたアイコンに変わっていた。
つまりは――――破損データ扱い。
気にしていた時間も忘れ、必死に下の方までスクロールする。俺の装備品ボックスはベータから始めているだけあっていくつものページがある。それを正常なアイコンを探して、ずっとスクロールしていく。
しかし、俺が苦労して集めた業物も防具も、砕けて意味を成さなくなったデータの残骸になっていた。
「まさか……!」
絶望的な現状を叩きつけられた俺は装備品ウィンドウをドラッグして視界の外に放り投げ、続いてステータスウィンドウを呼び出す。俺が直前まで保有していたスキル数は百七十三個だった。
それを確認するため――――だったのだが。
【0】
無機質に。
無情に。
無慈悲に。
淡々と浮かび上がるスキル一覧のウィンドウの左上端にひとつだけ表示される数字に思わず悪態を吐きそうになる。
嫌な予感に後押しされて、アイテムボックスを再び開く。
指が、震えてきた。
武器でも防具でもアクセサリーでもないもうひとつのアイテムボックス。
日用品やモンスターの素材等を収納するための素材品ボックスには、既に破損データのアイコンすら入っていない、あるのは『このボックスに素材品は入っていません』のシステムメッセージだけだった。
武器、防具、アクセサリー、アイテム、スキル。
その全てが消滅した。
これまでこのVRMMORPG[FreiheitOnline]で俺が培ってきた努力の成果をほぼ全てを――。
自分がインナーしか装備していないことに何故気付かなかったのだろう。
かろうじて残っていたのは、現時点では着ける装備品もないのに無駄に高いプレイヤーレベル。
そして少し前に武器収集率を上げるため、不必要なものから初心者用の低レベルの武器まで買えるだけ買って残った端金。
それらの武器すら消えた今この時に限っては、あの時使った金は捨てたようなものだった。結果的には捨てたのと同じだった。
俺は自然と、床に膝をついていた。
そして込み上げる感情の波に声が震え、視界が潤んで歪んだ時だった。
(……あれ? 誰だ、この声……)
今にも溢れようとしていた涙が引っ込み、頭が混乱してくる。
目の前の床に突いた手。
すべすべとした白くキメ細かい肌に細い指。
綺麗に切り揃えられた爪。
すらりとした華奢な手首や腕。
オレンジがかった茶色の長い髪。
これは誰の手だ?
俺のアバターは色黒の若い男だ。
種族は獣人種で、頭に耳が生えていて、長身でがっしりとした体格で、こんな――――こんなに細い手じゃない。
俺はすぐさま立ち上がり、部屋の隅に最初から設置されていた全身鏡『移身の姿見』の前に立って、
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――ッ!?」
直視できないほどの謎現象に思わず絶叫した。
Tips:『仮想現実』
共通認識として客観的に実在する世界“現実”に対して、人工的な感覚刺激によって脳が知覚する本来存在しない世界もしくはその技術の総称。人間の脳機能を利用したサイバースペースであり、バーチャルリアリティ(VR)などとも称される。VRMMOはその技術を用いて構築したサイバースペースを多人数で共有することで成立し、仮想の肉体であるアバターを主観的に操作して遊ぶ体感ゲームのことである。