02
此れ池荘の壁は薄い。
隣の住居との壁もそうであるが、外部に面した壁もまたこれでいいのかと言うほど薄い。
これは暑さ寒さに対して住人に厳しい上、遮音という面でも申し訳程度しか役に立ってくれない。
未だ薄暗い朝の時間、自分には嫌な軋み音しか聞かせてくれない外廊下を、コツコツと規則正しく、どこか軽やかな音が響く。それが205号室の前を過ぎ、と思うと間も無く止み、次いで聞こえるノックの音に、206号室へ用のある人物であることが窺える。
それから声量を抑えた声が二、三流れると、戸を開け閉めする音が一度だけ鳴った。
「ぎゃあぁあぁぁぁぁぁ!!」
目覚ましにしては些かぶっそうな悲鳴に、もうそんな時間かと信士は眼を覚ました。
住み始めた当初はそれに血相を変え何事かと隣に確認にいったものだが、いやはや慣れとは恐ろしいものである。
ゆっくり上体を起し、軽くノビをすると、外からはささやかな、申し訳程度の日差しと、小鳥たちのさえずりが鼓膜を心地よくくすぐり、今日もいい天気だなぁと、ほのぼのと寝起きの時間を感じていた。
「死ぬ! 死ぬから!! いや、それは無理だから!! ちょっ、やめてやめぎゃあぁぁああぁぁぁ」
そんな声も時折聞こえる中。
外に出て井戸へと向かい、水を汲み上げ顔を洗う。冷えた水は微かな痛みを残して信士の眠気を退け始める。
「無理! もう三回くらい死んだし! ほんと、ほら血ぎゃあぁぁぁ……」
今日は終わるのが早かったな、とタオルで顔を拭い断末魔の終焉を聞き終えると、先程出てきた自室の隣に目を向ける。
それから間も無く、ガチャリとその戸が開かれた。
視線の先に姿を現したのは、信士よりも年上に見える人物。
赤黒い髪は腰まで伸び、佇まいも其の顔に浮かべる表情もぴしりと整えられており、生真面目というよりはむしろ潔癖なという印象が浮かぶ、すこし怜悧な雰囲気を持つ女性。
華奢な、というほど腕や脚は細く、それでいて身長は170前後の自分と同じくらいであるため、どこかスラリとした印象を感じさせ、それでいて出るところは出ているために、初対面時は酷く赤面した覚えが有る。
顔の造詣もその雰囲気に似つかわしい作りであり、其の上で美人としか言いようのない整った物であるだけに、そんな美人なお姉様とお知り合いだという隣人に最初はかなり嫉妬の念を向けたものである。
「おはようございます」
「おはようございます、毎朝このような騒ぎで、ご迷惑ですよね?」
「最初は戸惑いましたけど」
慣れましたと苦笑を浮かべて見せれば、伏せ目がちに申し訳ございませんと返してくれた。
206号室の沙丹さんは、自分がここに住み始めて一ヶ月は経つのだが、未だに謎だらけの隣人である。
住む場所も行く当てもなかった自分に手を差し伸べてくれた恩人ではあるのだが、余り付き合いらしい付き合いが少ない為、どんな人物なのかが良くわからない。
「これからギルドへ?」
そんな考え事をしている間に、隣まで来ていたその人、リヴィアさんは、井戸で水を汲みながら話しかけてきた。
「そうですね、何分、稼がないといけないし、腕も鍛えておきませんと」
無理はしないように頑張ってくださいね、と返ってきた言葉の声音に、少し微笑みを浮かべて話しかけてくれたんじゃないこれ?と期待を込めて其の表情をちらりと見れば、其の顔は206号室に向けて
「私も頑張って『これ以上は聞きたくないです』、それではまた」
はい、それではとリヴィアさんに辞意を告げると、自分もその場を後にした。
この世界の創りは、熱意と時間を注ぎ込んでいたゲーム、『天上転華』にかなり似ている。
町並みも時代背景が様々入り混じった作りであったり、その住人もまた多種多様としか言えないほど様々な姿を見かけ、それらはやはりゲーム時代もそうであった記憶がある。
石造りの家もあれば、木造の家もある。そのうえブリキ製のものまであり、目に飽きない眺めが続く。
布製のテントらしき出店もみかければ、荷車らしき出店もあったりと、店舗形態も様々である。
そこで声を張り上げる姿は、完璧な人型もあれば、やや獣も混じった姿もあったり、武具を扱う店に目を向ければまた小人の様で鉄を打つ姿や、それを熱心に眺める獣の姿をした人影も見られる。
『天上転華』のゲーム世界での住人は、人間のほかに、エルフ、ドワーフ、獣人、悪魔、幽霊、精霊、そしてそれらのハーフやら亜種など、数え上げて行くと多岐に渡る。
その種族特徴もまた判りやすくする為の配慮からか、容姿の特徴から得手不得手まで判を押したような飲み込みやすい設定。
初期プレイヤーとして選べる種族は人間だけであるが、このゲームのひとつのポイントとして存在するのが種族転生というものである。
このゲームはレベル制であり、また人間種には上限レベルがある。
MAXが99であり、そこまでレベルを上げると天上世界へと行くことができ、そこで種族転生することができる。
転生後に選べる種族はエルフ、ドワーフ、獣人、悪魔のうちの何れかで、純血の人間種は選べなくなる。人間を選ぶとすれば、上記の何れかとのハーフで、となる。
エルフは魔法を遠距離技能を得意とし、近距離技能が苦手。
ドワーフは作成技能を得意とし、戦闘技能が苦手。
獣人は近接技能を得意とし、遠距離技能が苦手。
悪魔は戦闘技能を得意とし、作成技能が苦手となる。
人間は万能であるが、其のどれを取っても得意としているものには及ばない。
ハーフとなると、その得意技能を半分だけ受け持つ形となるが、苦手技能は影響を受けない。
エルフとのハーフならば、遠距離技能をやや得意とする、という形である。
そして、このゲームには職業というものが存在しない。
剣を装備できるのは戦士、魔法を扱えるのは魔法使い等という明確な線引きは存在しない。
戦闘スキル、作成スキル等というものは存在するが、其のスキル取得はゲーム内に存在する数多くあるダンジョンのクリア報酬という形で取得可能となっている。
ダンジョンにはレベル制限が無い場所が多い。
とはいえ、そのダンジョン内に跋扈するモンスターを倒せるだけのレベルは必要ではあるが。
変わった場所では人数制限のある場合がある。
人数制限。共に行動し、戦力調整、安定行動、踏破効率を図るためのシステムに、パーティーを組むというものがあり、その上限は 六名までとなっている。
通常のダンジョンのほかに、特殊ダンジョンという物もある。
特殊ダンジョンとは最上位技能を取得できるダンジョンであり、入場にキーコードという物を使用する。
人数制限が三名迄~四名迄というものは、基本的に作成技能取得の場合である。
戦闘技能の取得できる特殊ダンジョンには、一名迄の入場制限という場所も存在し、その攻略難易度は高い。
さらには転生キャラクター限定や、其の上での人数制限ダンジョンというものもある。
そしてそれらの特殊ダンジョンの入場権限、つまりはキーコードを預かるのがギルドという組織である。
ギルドといわれる其の組織は、その仕事の大半が情報屋という活動であり、街の片隅にヒッソリと居を構えている。
ゲーム時代はその建物内にて様々な依頼と言う名のクエストが存在し、またその他に数多くのダンジョンの情報を扱うためのスペースが設けられている。
地下へと続く階段を下りると、其の情報を扱う者がひっそりと佇み、そこへの来客を待っている。
その場所では情報を聞くために一定額、またその鍵を得るために一定額支払って、それから漸く件のダンジョンへと入場可能となるわけである。
カツコツ、と足音を鳴らしながらその地下へと足を進め、露になり始める薄気味の悪いその人物の姿に、少し腰が引け気味の、なよっと見える足取りで近づく信士が、まさに目の前まで辿り着いたとき
「いらっしゃい、どんな情報をお望みだい? どの情報も高くしとくよ?」
そんな低くくぐもった言葉が向けられた。
206号室、そう書かれたプレートを前に、魔王はもはや絶望に似た挫折感を顔に浮かべる。
「サタン様。今日よりあなた様の牙城は此方となります」
毅然とした態度でそんな絶望を突きつけるのは自分の右腕たる側近のリヴィア。
「魔王城は差し押さえられました。あ、レンタルは可能だということです。よかったですね」
当分はここで来訪者という愚者を処理しましょう、とそう告げると、勝手に決められた自身の住処となる206号室と掲げられたその部屋へ、自分を差し置いて入室していた。
「さぁサタン様。今日から此方があなた様の居城です。
これからは、ここに乗り込んでくる魔王討伐等とのたまう輩を消していきましょう」
「…ここに、乗り込まれる、のか……」
「それが嫌なら稼いでください。買い戻すのは無理でもレンタル料位なら工面できるでしょう」
どんよりと俯くそのサタンの足元には、小さな水跡が悲しげに数を増やし始めていた。