弱者男性認定証
「あの……これ、お返しします」
おれはそう言って、カードを男のほうへ静かに押しやった。薄汚れた畳の目に沿って、黒いそれがすっと滑る。
男は細めた目の奥で、かすかな笑みを浮かべた。その笑みと、ゆっくりと首を傾げる仕草に、どこか既視感を覚えた――ああ、そうだ。あの日、このカードを差し出されたときも同じような表情をしていた。アヒル口気味で、どこかおれを――。
「こんにちは。――さんですね? 私、市役所のほうから参りました――」
ある日の昼過ぎ、家に役人を名乗る男がやって来た。
特に警戒することもなく玄関を開け、「は、はあ……」と、そのまま奥へ通すと、男は畳の上に静かに正座した。おれもつられるように正座し、向かい合った。
男は封筒を開け、一枚のカードを取り出した。指先を丁寧に揃えると、畳の上をすすっと滑らせて、おれの前に差し出す。
「これをお届けに参りました。どうぞお受け取りください」
おれはカードを手に取り、しげしげと眺めた。厚みがあり、表面はドブ水のような濁った黒。裏は白地で、おれの顔写真が貼られている。そして、そこにはこう印字されていた。
「弱者男性認定証……?」
「はい。このたび、あなたは“弱者男性”として正式に認定されました。その証として、そのカードをお渡しします」
「は? は……?」
理解が追いつかず、おれは鳥みたいに何度も首を傾げた。男は少し困ったように眉を下げたが、すぐに慣れた調子に戻り、事務的な口調で説明を始めた。
弱者男性とは、定職に就けず、容姿に恵まれず、友人も恋人もおらず、精神的な不調を抱える男のことを指すという。ネットやテレビで何度か見聞きしたことはあったが、脳の裏側を撫でられるような、ざらっとした嫌な響きで、どうにも好きになれない言葉だ。
「でも、おれがそれに該当するというのは……」
「ああ。では確認させていただきますね。まず、あなたは現在、定職に就いていませんね?」
「え? あ、はい……」
「アルバイトもしていない」
「まあ、ちょっと前まではやっていたんですけど……今は……」
「三十歳以上ですね?」
「あ、はい」
「友人は五人以上いますか?」
「いや……高校のときはいましたけど、無職になってからはちょっと……ね……声をかけづらいというか……ははは……」
「当然、交際中の女性もいない」
「当然というか……まあ、はい。昔はいたんですけどね……」
「精神疾患を抱えている」
「それは、まあ、躁うつ病かもしれないとクリニックで言われたことはあります。でも正式には……どうなんでしょう……」
「コミュニケーションが苦手」
「そう、ですね……」
「そして、容姿が悪い、と」
「いや、断定しないでくださいよ……」
「親と暮らしては……いないみたいですね」
「ええ、少し前に亡くなりまして。今は遺産で一人暮らしです。まあ、大した額ではありませんけど。この通り、狭いボロアパートですから……」
「なるほど。やはり、あなたは間違いなく“弱者男性”です。おめでとうございます。認定カードをお受け取りください」
男はうんうんと頷いた。
「いや、これ、なんなんですか? 全然意味がわからない……」
「政府の新しい社会保障制度の一環です。そのカードを提示すれば、施設の利用や生活品の購入が無料で行えます」
「えっ、無料!?」
おれは思わず声を上げ、カードをまじまじと見つめた。確かに、どこかマイナンバーカードに似ており、ICチップと磁気ストライプが埋め込まれている。
なるほど。おそらく、これは生活保護に代わる、あるいは並行して設けられた新制度なのだろう。犯罪に走らせないためのセーフティネットだ。『弱者男性』という言葉には引っかかるが、もらえるものはもらっておくべきだ。
そう考えたおれは、男に軽く頭を下げてカードを受け取った。
だが、実際に使おうとすると妙な緊張が込み上げ、手が震えた。『自分は弱者です』と、わざわざ相手に伝えるようなものだ。羞恥と悔しさが入り混じり、顔が熱くなり、後頭部がむずむずとかゆくなる。
自分が弱いと認めること、それはもはや強者なのではないか――などと妙な理屈を頭の中でこね回しては開き直り、いざ使おうとしても、結局はセルフレジで現金払い。
だが、いつまでも親の遺産だけで食べていけるはずもない。早めに慣れておいたほうがいい。そう考えたおれは、ある日覚悟を決めてスーパーへ向かった。
念のため、家からかなり離れた、これまで一度も行ったことのない店を選んだ。しかし、慣れない場所のせいか妙に緊張し、レジでカードを差し出したものの、手の震えは止まらなかった。本当に使えるのか。喉がひりつき、唾を飲み込んだ。
店員は眉をひそめ、無言でカードを見つめた。嫌な沈黙が流れる――カードをひったくって逃げ出したい衝動に駆られたが、おれは必死に堪えた。
やがてカードがレジを通り、ピッと音が鳴った。その瞬間、おれはほっと息をついた。気づけば、息を止めていたらしい。安堵が込み上げ、おれは頬を緩めた。しかし――。
「申し訳ございません。こちらとこちらの商品は、このカードではお買い上げいただけないようです」
店員は申し訳なさそうに、両手で丁寧にカードを差し出した。
「え、あ、はい……。じゃあ、買えるやつだけで……」
おれは戸惑いながら商品を受け取り、足早に店を後にした。顔は火照り、頭がかゆくてたまらなかった。握りしめたスポンジのように、ぎゅっと縮こまっていた胃が、徐々に元の形へ戻っていく感覚があった。
確かに、このカードは本物のようだ。だが、買えないものがある――それは、どういう基準なのだろうか。
おれはその後も、おそるおそるカードを使い続けた。そして、あることに気づいたのだ。
「このカード……どうして本は買えないんですか?」
おれは男に訊ねた。週刊誌は買えるが、小説や専門書など、小難しい本はエラーが出て買えない。一部のライトノベルや、腕を組んだ著者の写真が表紙に大きく載った自己啓発本は通る。
米やスナック菓子、惣菜、弁当は問題なく買えたが、野菜や果物はだめだった。ネットカフェは利用できたが、銭湯では使えない。美術館や博物館、動物園も利用不可。他には健康食品、筋トレ道具、サプリメントもだめ――制限があまりに多すぎるのだ。
「そりゃ、たとえば高級時計やブランド品、遊園地の入場料が対象外なのはわかりますよ。セーフティーネットという名目なら、贅沢品に制限があるのは当然です。でも、スーパーの野菜が買えないのはおかしいじゃないですか。肉だって安いものしか買えないし」
「それは、あなたに“ふさわしくない”からですよ」
「……はい?」
男は薄い笑みを浮かべたまま続けた。
「働きアリの法則というものをご存じですか?」
「え? えっと……アリの巣には、まったく働かないアリが一定数いるって話ですか……?」
「その通りです。働き者が二割、普通が六割、働かない者が二割。働くアリだけを集めても、必ず一部はまた働かなくなる。その理由は、リスク分散や緊急時の対応のための待機。まあ、そのほうが組織を維持するうえで効率的だという話です」
「はあ、それがこの話とどう関係しているんですか?」
「人間社会にも“働かないアリ”は存在しますよね?」
男はおれをじっと見つめた。おれは何か言おうとしたが、喉に言葉を詰まらせ、誤魔化すように咳をした。
「ですが、人間の場合は事情が異なります。……ところで、働かないアリは他のアリからどう見られていると思いますか?」
「え? いや、アリ同士なら、別に何も感じていないんじゃ……」
「ええ、そうでしょう。では、人間なら?」
「どうって……それはその……まあ、好意的ではないでしょうね……」
「そう。我々はこう考えたのです。働かないアリは、蔑まれるために存在するのだと」
「蔑まれる……ために」
「ええ。あなたも耳にしたことがあるでしょう。『氷河期世代』『子供部屋おじさん』『ニート』『引きこもり』『チー牛』『弱者男性』」
「ええ、まあ……。ネットや、テレビのワイドショーとかで……」
「どれも、見下すニュアンスで使われていますよね。出演者もどこか楽しそうに、ニヤついた顔で」
「ああ、まあ……」
「あれは社会の装置なのです。国民に“見下す対象”を与えることで、安心を提供している。『自分はまだマシだ』とね。同時に『ああはなりたくない』という感情を抱かせることで、働かせ、結婚させ、子を作らせ、税を納めさせるのです」
「つまり、ガス抜きや潤滑油ってことですか……? でも、それとカードの制限がどう繋がるんです?」
「単純な話ですよ」
男は膝を擦り、ずいと体を寄せてきた。
「弱者には、弱者にふさわしい生活を送ってもらわなければ困るんですよ。筋トレ器具なんて買われて、筋肉をつけられたら困るんです。本を読んで、知恵をつけられたら困るんです。野菜なんて食べないで。スナック菓子を食べて太ってください。風呂に入らず、不潔で、不健康で、不細工で、不能なあなたのままでいてください。それが、社会にとって一番都合がいいんです」
「……いや、あんた、滅茶苦茶なこと言ってますよ」
おれは思わず身を退いた。気づけば、脇にじっとりと汗がにじんでいた。変な動悸がする。不安――だが、腹の底からふつふつと怒りが煮え立ってきた。
男は、どこか陶酔したような笑みを浮かべていた。そうだ、この目だ。あの日、カードを渡されたときも同じ目をしていた。この男もおれを見下していたのだ。
「ずっと弱者のままでいてください。それが、あなたに与えられた唯一の社会的役割です」
「ずっと、このまま……」
「ええ、このまま」
男は部屋をぐるりと見回したあと、カードをこちらへ突き返した。ずっとこのまま――この汚く狭い部屋で、ゴミに囲まれ、ずっと一人で……弱者として見下され続ける……。
ドアが閉まる音がした。男は部屋を出ていったらしい。
おれはふらりと立ち上がり、キッチンに向かった。包丁を手に取る。そして――。
――また“弱者男性”の犯行ですか。怖いですねえ。
――誰でもよかった、というやつでしょう。社会への不満と孤独が背景にあるんでしょうね。
――身勝手で独りよがりな動機ですよ。
家を飛び出し、男の背中を追いかける間、そんな声が耳の奥で反響していた。
「カードは返す。持って行ってくれ。本気だぞ」
おれは男を呼び止め、包丁を見せながらカードを突き出した。もちろん刺すつもりはない。ただ、自分が本気だと示す方法が、それしか思いつかなかっただけだ。こうでもしなければ、大人しく持って帰ってはくれないだろう。それに、刃物を握っていると不思議と体の震えが収まる。
だが、違う。おれは通り魔なんかじゃない。そんな連中と一緒にしないでくれ。おれは確かに弱い人間だ。でも、誰かを傷つけたりなんかしない。そんなことをするくらいなら、一人で死んでやる。おれは――
男が、ふっと微笑んだ。その目は、もうおれを見下していなかった。どこか安堵しているような――えっ。
「きゃ、きゃああ!」
「うお、と、通り魔だ!」
「刺されたぞ! 警察! 警察!」
どうなってる、どう、どう、おれはどうなってる? 男は突然、おれの手の上から包丁を握りしめた。そして、そのまま自分の喉に突き立てたのだ。何度も、何度も。
ちが、血が、違、違う、おれは、おれじゃない、おれはやってない――。
「これ……これが……役割……」
血まみれで崩れ落ちた男は、震える手でポケットから一枚のカードを取り出した。おれは呆然と、それを手にした。
そこには、男の顔写真とともに、こう印字されていた。
“自殺者カード”




