亡骸群落~第九話:『シニイキルモノ』その参~
川島葵を新興宗教・天祓禍神教団の施設本部から連れ戻した神懸彩子。
葵を無理矢理タクシーに乗せ、彩子は葵の自宅を目指していた。
教団本部を出たところで運よくタクシーを拾えたのは僥倖だった。
だが、施設の建物を出た時から、葵の様子はおかしい。タクシーの後部座席に座ったまま、項垂れ額に両掌を当てている。
葵の呻く声がタクシー内に小さく響く。幸い運転手は葵の様子を気にする様子はない。
後部座席の隣に座る彩子は、うずくまる葵の背中に手を当て、優しくさする。
薬が切れて禁断症状に苦しむ麻薬中毒者。大仰に言えば、葵の姿はそれであった。
教団施設内に蔓延していたと思われる『死皇』の粒子。それから切り離された影響が、早くも葵に出現しているのであろうか。
申し訳ないと思いつつも、葵を教団施設から連れ出したことに後悔はない。あそこに長くいてはいけない。それは確実だった。
後部座席に揺られて30分程が経ち、タクシーは葵の自宅に到着する。
運転手に礼を伝え運賃を払い、葵の肩を支えながら、車を降りる。
「葵ちゃん、家に着いたよ。あと少しだけ頑張って。」
そう葵に声を掛けながら、葵の自宅であるアパートのエレベーターに乗り込む。
…閉まるエレベーターの扉に遮られ、タクシーの運転手が携帯電話を手に取り何処かと通話している姿は、彩子の目には入らなかった。
…
葵の自宅に入るのは、初めてではない。お泊まりもしたことがある。
葵をベッドに横たわらせると、勝手知ったる我が家のように、彩子は食事の用意を始める。
この街に来た当時。孤独を受け入れまともに会話できる人物もいなかった彩子が、まさか友達を持ち、他人の家の台所で料理ができるまでになるとは。彩子自身が一番驚いたものだ。
道中のコンビニで買い込んだ食材を使って、有り合わせの調味料で味を整えて作った、なんちゃってスタミナ料理を、ベッドで横になっている葵の元へ運ぶ。
当の葵の様子はと言うと…。
「ありがとう、彩子。なんだか目が覚めた気分。」
タクシーの中にいた時とは違い、意識はしっかり持っていた。
やはり、教団施設と距離を置いたのは正解だったようだ。
一人暮らし用の小さな卓を囲い、二人は料理を食べ始める。
黙々とスプーンを動していた葵。その手が止まる。
暫くの間の後。葵はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「あの施設にいた事、もうなんだか遠い昔みたいに思える。でもね、あそこにいた時の記憶ははっきり残ってるの。あそこは…」と、葵が言い淀む。その顔には深い陰影が浮かんでいる。
「あそこは…居心地が良かった。」
「そう…なんだね。」
「あそこが普通でないことは、頭では解っていたの。私ね、正直言うと、新興宗教なんて、その名を借りた詐欺やインチキ集団だとばかり思っていた。それにのめり込む者は、何かに縋りたいだけの心の弱い人間達なのだと、差別的な視点を持っていた。」
宗教という入り口を構え、人を集め、情報を手に入れ、そしてさらにそれを転売する。世の中にはそうした悪徳宗教は確かに存在する。
個人情報というのは、悪事を働く者たちにとっては、喉から出るほど欲しいもの。
信者達の身辺を徹底的に調べ上げるのなんて普通。高額商品を売りつけるような組織だったり、架空の投資話を持ちかける輩だったり、振り込め詐欺グループにも信者の情報を売り渡すケースもあるらしい。
「でもね。私の身の周りにいた人たちは、私に優しくしてくれた。必要としてくれた。」
「…うん」切々と話す葵の言葉に、彩子は頷く。頷くしかなかった。
「…葵ちゃんは、まだあの教団に戻りたいと思ってるの?」
「…戻りたくないと言えば嘘になる。あの教団の人間にも、良い人はいる。でも、その優しい人達はきっと、あの教団の裏の顔を知らないんだと思う。」
「うん。」
「私はもう、あの教団には戻らない。」
「そうだね。それがいいと思うよ。」
「戻るべきじゃない。それが正しい。でもね、彩子…。」
「なぁに、葵ちゃん。」
葵が手にしていたスプーンを握り締める。指に柄が痛々しく食い込む。
「情けないんだけどさ…。」
彩子は、葵の次の言葉を、ただ、待つ。待つしかなかった。
「これから私は何に縋ればいいの…。」
嗚咽と共に吐かれたその嘆きの言葉を絞り出す葵。
その問に答える言葉を、彩子は持っていなかった。
何に縋れば良いかなんて、簡単に示してはいけない。しかしそれ以上に、彩子は葵に問いたい事があった。
「葵ちゃん…。一体何が、葵ちゃんをそこまで追い詰めているの。教えて。」
葵の過去。幼い頃から葵が抱き続けたという罪悪感。その正体を彩子は知りたかった。友人への恩義。そして真に葵の助けになるために、だ。
彩子の言葉を受け、葵は語る。幼い頃の自分の罪。そして罪悪感を。
それは、とある老人との関わりの記憶。
何も悪くない老人の、大切なものを奪ったこと。撲殺された犬に亡骸。咽び泣く老人。
自分は、それを止められた筈だった。自分がきっかけを作ったのだから。悪いのは自分。でも止められなかった。
街から追い出されたその老人の行方は知れない。知る手段も無い。
…もう謝ることはできない。
でも、私は周りの人間が怖かった。空気には逆らえなかった。悪くないと言ってくれた周囲に甘えた。
空気が怖かった。嫌われたく無かった。だから空気を読んで他人に尽くしてきた。
「私は本当にだめな人間。彩子と仲良くしていたのも、ただの優越感。もう彩子とも、友達ではいられない。私は意図的に他人を傷付けた。邪悪な人間なの…。」
葵の罪悪感。それは強い自己嫌悪、そして歪な自己肯定感と表裏一体の感情。
「そんな私を、あの教団は必要としてくれた。もう悩まなくて済むんだ。嫌われなくて済むんだ。『特別』になれる。そう思わせてくれる場所だった。」
葵の心は、今も教団に囚われている。間違っていると理解していても、『特別』な存在に成るという甘い未来を示して、間違った選択をさせようとする程に。
葵の精神は、まだ教団施設に蔓延する死皇の粒子に侵されているのだ。
…邪悪。
人を傷つける存在は、邪悪。
葵は自分自身をそれだと言う。
彩子は思う。だったら私もだ、と。
「ねぇ葵ちゃん。私の話を聞いてくれる?」
「…え?」彩子は普段、自分自身の話をしたがらない。それは葵の前でも同じだった。
そんな彩子が、突然、自分の事を話そうとしているのだ。
葵は、黙って彩子の話に耳を傾ける。
「私ね、昔、たくさんの人間を騙してきたの。詐欺師だったんだ。」
「は?」
葵の反応は当然だった。
「何人騙してきたか…。数えきれない程の他人の人生を狂わせ続けてきたんだ。誤り切れるような数じゃない。」
「彩子が詐欺師…。嘘でしょ?」
「その上、それが正しい事だと恥知らずにも信じて疑わなかった…。」
「…。」
葵は、無言で驚きの表情を彩子に向ける。
「葵ちゃんが自分を邪悪と言うのなら、私はもっと邪悪な人間。」
そう語る彩子の両手の指の爪は、彩子自身の太腿に血が滲む程に食い込んでいる。
「そこから逃げて、この街に来て。一人ぼっちになって。私を見てくれる人は幽霊だけになった。でもそこで葵ちゃんに出会った。とても心強かった。頼りにしていた。」
「彩子…。」
「葵ちゃんが何を思おうが、私は葵ちゃんが大好き。尊敬している。感謝している。必要としている。だから、私と一緒にいて。」
彩子の語った話。詐欺師だったという過去。それが真実かどうかを確かめる手段は、葵には無い。
しかし、彩子が自分の為に、辛い過去を、自身の秘密を打ち明けているのだということを、葵ははっきりと感じとっていた。
暫しの沈黙の後。
「…ありがとう、彩子」葵は彩子の誠心に、そう応えた。
…
夕食を食べ終わり、2人で洗い物をして。
お喋りをして。他愛のない話で笑い合い。
職場の屋上でのランチの時間のような、2人だけの穏やかな時間を共有し。
2人は寝床についた。
「私はもう逃げないよ。」
寝具を被る葵が、おやすみの代わりに、彩子にそう告げる。
葵ちゃんは、きっと大丈夫。
葵の穏やかな寝息を聞きながら、そんな期待と予感を抱く彩子。
寝具に身を包みながら、ふと彩子は携帯電話の画面を開く。
彩子の唯一の心残り。それは、祖母との電話が未だに繋がらないことであった。
…嫌な予感がする。
…
…
葵の自宅で、疲労感に包まれながら眠りに就く彩子。
その鼻腔に、甘い香りが触れた。
それは、木々繁る森の土と樹々の臭い。
その中に僅かに芳る、花の甘い匂い。
葵の部屋に侵入する、死皇の粒子の負の臭気。
彩子の精神は負の記憶の夢に蝕まれていった。
…
漆黒の二つの影。そのシルエットは彩子の両親。
両親は言う。「君は神の子」だと。「奇跡の者」だと。
善悪の分別付かない幼い彩子は両親の声に疑問も持たず、ただ従う。
彩子は魂を視る力を用いて信者に奇跡の光景を観せる。
奇跡のショーを観せられた信者は彩子に魅せられ彩子をイコンとして盲信する。
現人神となった彩子は信者に語る。
「私が貴方を救ってあげる」「私だけを信じなさい」。
信者に見つからないように隠された耳元のイヤホンから聞こえる両親の指示の通りに。
「私だけを信じて従いなさい」。
愚かにも神の似姿を纏う幼い彩子は、信者の耳元でそう囁き続けた。
「また一人、私を信じてくれる人が増えたんだ。」
信者が増えるたびに。
「たくさんお金を置いていったね。」
大金が手に入るたびに。
両親は喜んだ。
私を「産んで良かった」と褒めてくれた。
必要とされて。両親の役に立てて。
私は、嬉しかった。
それは、私が15歳になり、信者の家族から石を投げられ、真実を知るその日まで続いた。
私は、邪悪。
自らの目的の為であれば他人などどうでもよく、その悲劇すら無視できてしまう。
自らの都合の為だけに、人間を害する為だけに存在するモノ。
今まで騙してきた数多くの人達にとって、私は、まさしく、邪悪な存在。
「こんなの、私じゃない!」
彩子は叫ぶ。
「こんな人生、私のものじゃない!」
剥き出しの感情。叫び。
自分自身と、その人生の、全否定。
声無き慟哭が彩子を支配する。
詐欺師。
恥ずかしげも無く神様のふりをして何百人もの人間を騙してきた。
その罪悪感を人一倍…どころではない。誰よりも、普通の人間の何十倍、何百倍もの後悔を、彩子は抱き続けている。
冷静でいられるわけがない。
彩子が普段からあまり感情を表に出さないようにしているのは、自分の過去に、過去の記憶に、罪悪感に向き合うことから逃げているだけだったからだ。
向き合えば、身を貫く程の後悔が彩子を襲う。感情そのものを殺し続けることでしか、彼女は自分自身を保っていられない。
例えるなら、器ギリギリに注がれた液体だ。
溢れれば一挙に溢れる。無理やり蓋をすれば器そのものが破壊される。
それほどに、彩子は追い詰められていた。
誰よりも、他の誰よりも、彩子は自分自身の過去の罪悪感に囚われているのだ。
あの時を思い出せば、今でも膝から力が抜け、今にも蹲りそうになる。
何人の人間を不幸にしてきたのか。今更、自分の罪の数など数えきれない。
失敗が怖い。自分が他人の人生に害を与えてしまう。それに怯えるようになった。
他人と必要以上に関わりたくない。自分を見せたくない。孤立しているほうがむしろ都合に良い。
時が過ぎれば忘れるという人もいた。でも私には不可能だ。全ての人間が自分を責めている。有りえない。でもそう感じでしまう。これ以上無い程リアルにその光景が思い浮かぶ。
いっそ、精神が壊れてしまえばいいのに。だが彼女にはそれが出来なかった。何故狂えないのか。お婆ちゃんに心配をかけたくない。こんな自分を心配してくれる人がいる。だから、狂えない。
当時未成年であった自分が詐欺師として罪に問われるか。それは微妙なところだろう。むしろ罪があるとすれば両親である。しかし両親が逮捕されて良いと思えるほど、彼女は達観していなかった。
彼女にとって最悪なのは、彼女の両親の新興宗教団体は未だに運営されていることだ。彩子自身は現人神としての立場は退いた。しかし彼女をイコンとした新興宗教自体は、その教えは、残ってしまっている。
つまり現在進行形で彼女の罪は増え続けているのだ。
だが、それに対して、彼女ができる事は何もない。思い浮かばない。
つまりそれは、罪から逃げ出した…罪に向き合わない。そういう意味なのだ。
でも。
過去の忌まわしい記憶と、その記憶が精神を蝕む中で、彩子は思う。
葵ちゃんは違った。
葵ちゃんは、自分の罪悪感に向き合おうとしている。
向き合うために、今も苦しんでいる。
それは私にはできなった事だ。
葵ちゃんは凄い。でも私は違う。私は逃げているだけ。
罪悪感から逃げて、この地に来たのだ。
心の器は、一度でも罅が入れば、元の形には戻らない。
彩子の器は、もうとっくの昔に、傷だらけで、ボロボロに、壊れていた。
「私はもう傷付きたくない。」
それが、過去に歳悩まされる続けた、一人の女性の本音であった。
…
逃げ出したい記憶を負の方向に増幅させるかのような夢。その悪夢の根源たる死皇が囁く。
「お前はどうすれば救われる?」と。
「救い…。」
夢現の彩子はその問いに答える思考を持たない。
彩子に代わり、死皇が言葉を続ける。
「ならば、神が救いの道を示そう。」
「…。」
「傷付きたくない。それがお前が望む救済なのだろう?」
傷付きたくない。
だから逃げ出した。
逃げ続けてきた。
「…はい。」
「ならば、これからも、何もせず、ただ安寧と、何とも向き合わず、ただ怠惰に、逃げ続ければ良い。」
「…逃げ続ける…。」
「それがお前が救われるただ一つの手段。お前にとっての望ましい未来。お前は神が与えた救済の道をただ享受すれば良いのだ。」
特別だと思い込み続けてきた消し去りたい過去。そして罪の痛み。それらを無理矢理に消し去り、安寧の奈落に引き込もうとする甘い香り。全てが混ぜこぜになり振り回される彩子の感情。
「全部どうでもいい…。」
思考に疲れ、考える事を放棄した彩子は、そう呟く。
自分が楽になれる道を誰かが示してくれるなら、自分はそれに従えばいい。
他人の精神を覗き込み、安易で安寧な道を示し、望むがままに、『導く』。
そして、支配する。
それこそが死皇の欲望。
死皇の粒子に精神を蝕まれた彩子は、その死皇の甘い言葉に誘われる。
が。
その瞬間。
♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪!
頭元で鳴り響くベル音。それは携帯電話の着信音。
音に驚きハッとした彩子は、無意識に携帯電話を手にする。
着信の画面を開く前に。着信の操作をする前に。
「馬鹿者が!!」
肝が飛び出るほどの音声が携帯電話から飛び出た。
それは、彩子が最も信頼する人の声。
彩子と同じく『視える』瞳を持つ人物。
人を救う事を信条とする高名な霊能者であり。
そして、彩子の祖母でもある。
神懸小夜。その人の声であった。
携帯電話から、もう一度、祖母の声が木霊する。まるで言霊の如く。
「この馬鹿者が!」
「お、お婆ちゃん!」
祖母の声は、孫を叱り飛ばすそれであった。
「邪神なんぞに心を乗っ取られおってからに。もっとしっかりせんかい!」
「で、でも…。私、もうどうすればいいのか、わかんなくなっちゃったんだよ…。」
涙声の彩子。祖母の声が、ふと優しくなる。
「…彩子。幼いお前がしてきたこと、お婆ちゃんはよく判っている。お婆ちゃんのせいでもあるからね。」
「私はどうすればいいの? 逃げ続けちゃダメなの?」
誰がどう言おうと、彩子が犯した過去の罪は消えない。今も続く罪を終わらす手段も持たない。
だから、彩子は、邪神の甘い言葉に縋りたかった。
誰でもいいから、縋りたかった。
「…お婆ちゃんが彩子に言える事は、一つだけだ。」
「…」祖母はいつだって、私の味方だった。
祖母の言葉であれば、私は迷う事なく従える。
「迷って、悩んで、逃げたっていいさ。でもね。」
「…」彩子は黙って祖母の言葉に耳を傾ける。
過酷な現状からの脱却。そして救済への期待を願って。
しかし、祖母の言葉は…。
「自分で決めなさい。」
もっと過酷な言葉であった。
「でも…私…」そんな彩子の弱音を無視して、祖母は言葉を続ける。
「他人に自分の意思を売り渡してはいけないんだよ。進む道は、絶対に自分で決めなきゃダメなんだよ。」
それが、人としての成長。
それが、子供から大人になる事の第一歩。
そして。
「この先、彩子の足を進ませるのは、過去の贖罪じゃない。自分で選んだ『自分の道』を全うする、その責任と覚悟なんだよ。しっかりしなきゃダメだ。」
祖母の力強い言葉に、彩子は頷く。
「…孫に厳しいんだね。」
「そりゃそうさ。私はあんたのお婆ちゃんだからね。」
「でも、私はお婆ちゃんみたいに、自分の使命とか、よくわからない。」
「そんなもの、お婆ちゃん自身だってよくわかってないさ。お婆ちゃんはね、ただ大切な者を守りたいだけだ。」
「大切なもの?」
「そう。その為に今まで生きてきた。今も後悔は全くない。それに最後に彩子とも話ができたしね。」
「?」
「まぁ、お婆ちゃんの事は今はどうでもいい。悪い神様の言うことなんて一切無視して、さっさと邪神が魅せる夢から醒めるんだよ。」
「うん!」
私には、やりたいことも、成すべきことも全くない。何も見当たらない。
でも、お婆ちゃんみたいに、自分の為すべき事を探していきたい!
今はまず、死皇の侵食から逃れて…。
そうだ、葵ちゃん!
葵ちゃんを守らなければならない!
早く、早く目を覚さなきゃ!
…
…
元々、霊能的な素質を彩子は持っている。
祖母の言葉もあって、彩子は死皇の魅せる夢から目覚めることができた。
汗びっしょりの体を寝具から起こした時。パジャマの下の胸元に温もりを感じた。
温もりの元は、先日に祖母から送られてきた『刃の欠片』。
祖母の言いつけ通り、その『刃の欠片』を彩子はお守り袋に入れて首から下げ、肌身離さず持ち歩いている
…守ってくれた?
守り袋を握りしめながら、部屋を見渡し葵の姿を確認する彩子。
葵は…ベッドで寝ている。しかし。
「…ごめんなさい…ごめんなさい…。」
葵の表情は苦痛に歪んでいる。悪夢にうなされているようであった。
「葵ちゃん、目を覚まして!」
彩子が葵の体を揺する。
同時に、室内に蔓延する甘い香りに気づく。
これは、死皇の粒子の香りだ。これのせいで私達は悪夢を魅せられた。
香りの元を辿ろうとしたその瞬間。
ガシャンと、葵の部屋の窓ガラスが割れた!
その割れた窓から、数人の人間が侵入してくる。
突然の非日常的な光景に驚き、彩子は微動だにできないでいた。
部屋に侵入してきた、数えて5人程の男達。
皆、マスクを被り顔は見えない。しかしその中の一人の背格好に彩子は見覚えがあった。
一際肩幅のがっしりとしている、日本人離れした体格の男性だ。
彩子は、その男性の姿を目にしたことがある。
1度目は、噂の幽霊ビルの屋上で。
2度目は、例の教団の壇上。教祖枢樹蘭堂の傍で。
その位置から、彼は枢樹蘭堂の側近的な立場なのだろう。
同時に、窓を破って女性の部屋に侵入するような強引な手段を用いることのできるような…。教団の暴力装置のような存在なのではないかと推測する。
そして、その目的は…。
教団から離れつつある、川島葵の強奪。
または、もしかしたら死皇の存在を知る彩子自身の拉致?
お婆ちゃんに電話を!
刑事さん達に連絡しなきゃ!
そう思い携帯電話を手にするが…携帯電話の電源は完全に切れていた。
「え…。さっきまで使えたのに…」そう彩子がつぶやいた瞬間。
彩子の口元に布が当てられる。
数瞬の後。彩子の意識は途切れたのだった。
…
…
途切れ途切の意識の中。
夢現の川島葵の耳元で。
枢樹蘭堂の声がする。
君の罪。それは容易に許されるものではない。謝る相手も償う相手も、既にいないのだからね。許されるわけがないんだよ。
君は他人に嫌われないように振る舞い続けた。忌避する空気に無理矢理自分を合わせてでも。それが君が成してきた努力の形。
でもね、君の会社の同僚から聞いたよ。君は同僚から嫌われていた。煙たがられていた。君が入院しても、誰も心配していなかった。
君の努力は、全くの無駄だったんだ。君はそれを受け入れねばならない。
「…じゃあ、私はどうすればいいの!」
私が教えてあげよう。君が罪から許される方法を。
「神に、従いなさい。神に、身も心も、捧げなさい。そうすれば、君は『特別』になれるんだ。」
「特別…。私は…『特別』になる…。」
死皇の粒子に蝕まれる中。
川島葵は枢樹蘭堂の言葉に抗う意思を持てなかった。
…
…
薬品によって眠らされたのも初めてであり、その目覚めの最悪さを体感するのも初体験であった。
「…ここは、どこ?」
朧げな目覚めの中、彩子の視界が戻る。
葵ちゃんの部屋では無い。
しかし見覚えのある部屋だった…。
曖昧な脳味噌に喝を入れ、彩子は記憶を辿る。
そうだ。ここには昨日の昼間に訪れた覚えがある。
…天祓過神教団教祖、枢樹蘭堂の私室だ。
私はなんでこんな所に…。
確か、葵ちゃんの家に泊まって…。
悪夢を見せられて…。窓を割って男達に家の中に踏み込まれて…。
拉致されて!。
…教団施設に連れ戻された。そういう事か。
葵ちゃんは、どこ?
目眩と頭痛に悩まされながら、葵の姿を探し、部屋の中を見渡し続ける。
部屋の中は、昼間に見た時とほとんど同じ。殺風景な、仕事部屋。
シンプルで機能的なデスク。無駄な作りの無いパソコン。棚に並べられたファイルと蔵書。簡素だが巨大なモニター類。
彩子は鈍重な身体をなんとか引き起こす。腕や脚を縛られたりとかの拘束はされていない。
眩暈も引いてきた。彩子はもう一度、周囲を見渡す。
部屋の中に、葵ちゃんはいない。
その時。
キシリ。
金属とプラスチックが擦り合う音がした。
彩子は自然と音の鳴った方向に目線を向ける。
後ろを向いていた椅子が、こちらを向く。
その椅子に座るのは、…この部屋の主人。
枢樹蘭堂。その人であった。
…
「もう一度、君に会いたかった。」
椅子に座りながら、枢樹は両の肘を机の上に置く。組まれた両の指が口元を隠す。
「無理矢理連れて来ておいて、よく言いますね。」
枢樹の口元がわずかに動く。笑みを浮かべているのだ。
「あなたが私みたいなただの小娘に何の用事があるって言うんですか?」
この男は何故か、私にも興味を持っている。そうでなければ、この場所には連れて来ないだろう。
「君は僕に見覚えはないかな?」
枢樹の唐突な質問。
覚えの無い彩子は「いえ」と答える。
「…そうか」彩子の返事を聞いて、枢樹は少しだけ、残念そうに目を伏せる。
そんな枢樹の所作を気にする状況ではない彩子。
「葵ちゃんは無事なんですか?」と詰問を続ける。
「ああ。彼女はこの教団に必要な人間だからね。」
「だからって無理矢理拉致するなんて…。どうして葵ちゃんにそんなに執着するんですか?」
詰問を続ける彩子。
…本来、彩子は他人との会話を好むタイプではない。しかし何故か、枢樹と同じく、彩子自身もこの男に関心を抱いている。葵の所在を確かめるという目的もあるが、会話自体が苦痛ということは無かった。
「それは、宗教をビジネスチャンスと捉えている貴方の考えですか。それとも、邪神の眷属である貴方の意思ですか。」
今日の昼間。この部屋で、枢樹は宗教団体運営を優れたマーケット、ビジネスチャンスだと語っていた。
同時に、彩子の発した『死皇』というキーワードに少なからず動揺を見せていた。それは枢樹が死皇の関係者…邪神の眷属であることの証左であろう。
しかし、枢樹自身からの言葉として、死皇との関係を明かしたわけではない。
先程、この男は、教団にとって葵は必要な存在だと言っていた。
教団に必要。つまり、死皇にとって葵が必要ということになる。
失踪。そして、喰らう。嫌な言葉が彩子の脳裏に過ぎる。
葵の行方を確かめるには、敵の正体…死皇の存在と目的を確かめる必要がある。
そう考えた彩子は、枢樹に対して更に揺さぶりを掛ける。
「この施設の地下に、死皇がいるんですよね?」
昼間、彩子は施設の地下に続く階段の前で重く暗い巨大な存在を感じ取っていた。
「神懸彩子君。」
「は、はい!」突然、枢樹に自身の本名を呼ばれ、驚いて返事をしてしまった。
「君が川島葵君にとって大切な友人であることは、彼女から聞いている。君の名もね。」
「…そうですか。」
「昼間と同じ質問を繰り返すが…。君は何をどこまで知っているのかな。私に教えて欲しい。」
…ここまで教団に踏み込んで、何も知らないふりはできない。それに、何を言ったところで、今度は簡単に逃がしてくれるとは思えない。
なら、出し惜しみはしない。
そう考え、彩子は、自身の知り得る死皇と、この教団に関する自身の考察を枢樹に語る。
そんな彩子の話に耳を傾けようとしている枢樹の態度は…。
昼間、この部屋で交わした教団の教義についての論議の時と同じく、会社の後輩からの疑問に真摯に耳を傾けようとする先輩の所作。又は、志を同じくする同志への眼差し。
そのような温かみのあるものであった。
そんな枢樹の態度に、再び困惑しつつも、彩子は話を続けた。
死皇。それは太古の世界に降臨した神。かつては『黄金の王子』と呼ばれ、その残虐さ故に、他の神々に助力を受けた人間達に魂を殺された存在。
しかしその魂を殺されてなお、その肉体は滅びること無く、現在も邪神の眷属に崇め祀られている。
「ふむ。君は一体誰からそれを聞いたのかな」と枢樹。
死皇の情報の出所はどこなのか。当然、枢樹はそれを知りたがる。もちろん彩子は祖母の存在を明かす気はない。枢樹の疑問には答えること無く、彩子は話を続ける。
肉体だけになった死皇は、更に姿形を変えて…死にながら生きているような…そんな存在になって、この街の地下に潜んでいる。
地下に潜む死皇の亡骸。それは群落のような形をとり、植物由来の特性を持っている。
教団は、その死皇の亡骸群落の上にこの施設を建てた。そして教団は人々を攫って死皇に喰わしてる。
教団と関わりの深い不動産会社を利用して、死皇の根を拡げ、人を攫う。
教団からの献金により、警察や自治体も失踪事件の揉み消しに協力している。
教団が信者の欲望を刺激して組織の巨大化を図っているのも、死皇に人を喰らわせる為のネットワーク作りが目的
全ては死皇の為。邪神の眷属が目指すのは、死皇の復活。
「邪神の眷属。そして教団の管理者たるあなたは、その首謀者。葵ちゃんも死皇に捧げようとしている。そんなんでしょ、枢樹蘭堂さん。」
彩子は自身が知り得る死皇についての事柄を全て吐き出した。
「…素晴らしい。」
枢樹が小さく呟く。それは彩子への賞賛であった。
「おおよそ、正解だ。」
そう言って、枢樹は椅子から立ち上がる。
「君の言う通り、この街は死皇の餌場なのだよ。」
「葵ちゃん死皇に喰わらせるつもりなの!」
「…葵君の役割は、それだけじゃないけどね。」
「?」
「彩子君。君は本当に聡い。君には全てを教えよう。」
枢樹は、両の腕を左右に大きく広げる。それは道化師が噺を語るような仕草だった。
「この教団を巨大な組織にする。そこに嘘はない。言わばそれが教団の管理者としての私の表の顔。」
「…。」
「そして私には、もう一つの顔がある。それは、邪神に仕える教団の教祖としての私。言わば私の裏の顔。全ては死皇の為。その為に環境を創り上げてきた。君はよくぞそこまで辿り着いた。嬉しいよ。」
枢樹が両手を合わせて叩く。拍手しているのだ。出来の良い後輩を褒めるように。
「…。」
「どうしたのかな?」
「…枢樹さん。」
「なんだい、彩子君。」
「でもまだ、私には解らない事が二つあります。」
「…ほう。言ってくれたまえ。君に隠し事はしないよ。」
「…。」
今。
彩子は枢樹に対して、奇妙な感覚を抱いていた。
それを無理矢理に言葉にするのであれば…。
『敬畏』であろうか。
ここに連れ戻される直前。携帯電話で交わした祖母との言葉が脳裏に過ぎる。
…『自分で選んだ「自分の道」を全うする、その責任と覚悟。』
「どうした、彩子君。私に聞きたい事があるのだろう?」
「枢樹さん。私にとって、あなたの裏の顔とか表の顔とかはどうでもいいんです。」
「ははは。手厳しいね。」
「でも…。」
「うん?」
「経営者として、ここまで教団を巨大にした事。そして街一つを巻き込む規模での暗躍。そこまでの環境を創り上げてきたあなたの努力は、本当に凄いと思います。」
「…っ」まさか、彩子に賞賛されると思っていなかったのだろう。彩子の前で枢樹が言葉を失った。
「だからこそ、疑問があります。」
「…」眉を顰める枢樹。それは困惑の現れだろうか。
「昼間にもお聞きした事です。懸命なあなたが、どうして『欲望』という決して達成できない理想を教団の教義として掲げているのか。そして、どうしてその為に労力を惜しまないのか。不自然さを感じるんです。」
「…ふむ。」
「何よりも、あなたの努力には信念を感じる。そうでなければここまで出来る筈がない。あなたは強い意志を持って行動している。でもそれが、眷属の使命だとか邪神の為だとか、そんな『誰かに言われたから』みたいな理由では測れないような…、魂の凄みを感じます。」
「…。」
「あなたにはもっと…『やりたい事』があるような…。自分で選んだ『自分の道』を全うする、その責任と覚悟があるような気がします。」
「…。」
教団管理者枢樹蘭堂の私室に、暫しの沈黙の時間が流れる。
「…かつての君はどうだったんだろうな。」
そう小さく呟く枢樹。
「え?」
その呟きは彩子の耳には入らなかった。
枢樹は、自らが発した小さな呟きに、自嘲気味に「ふ…」と笑う。
そして、彩子の疑問に答えるために言葉を続ける。
「…君の言う通りだ。私には、一つの理想がある。この街はその為の実験場でもある。」
実験。そう口にした枢樹の表情は、至って真面目であった。
「人間。他人。社会。この世界は、際限の無い個人の欲に塗れ、形の無い空気に支配されている。この街もそうだ。その呪いから人間は簡単に逃れられない。」
枢樹は何を言おうとしているのだろうか。
彩子は彼の言葉に耳を傾ける。
「川島葵君を追い詰めたのも、この街の空気なのだろう。だからこそ、この街は私の実験の場に相応しい。」
葵の名が枢樹の口から出てきた時。
彩子は死皇について以前から気になっていた事を枢樹に問うために口を挟む。
「葵ちゃんは、幽霊ビルの地下で花粉を…、いえ死皇の粒子を吸い込んでしまってから、様子がおかしくなりました。」
「…そうだね。」
「その死皇の粒子はこの教団施設にも蔓延しているし、私達を拉致する時にも使われたのでしょう。」
あの粒子は、人間の精神を侵食する。彩子もそれを過去の悪夢という形で身を持って体験した。
しかし、植物由来の特性を持つ死皇の機能の中で、あの粒子だけが違う。
人間の精神に作用する花粉なんて、書籍をどれほど調べても載っていなかった。
「あなたの言う実験とは、あの死皇の粒子が関係しているんですか?」
「…」彩子の質問に枢樹は沈黙している。
答えようか迷っている。そんな風にも見える。
「それは、あなたが掲げる『欲望』という教義とも関係があるものなんですね?」
枢樹は、その質問に答える代わりに「彩子君」と目の前の女性の名を呼ぶ。
「…何ですか。」
「君の質問に答える為には、この映像を見る必要がある。」
「…はい?」
「覚悟はいいかな?」
そう言って、枢樹はデスクのパソコンを操作する。
カタカタとキーボードを操作する音が、枢樹の私室内に響く。
その操作によるものか、部屋に備えられていたモニターの画面に、とある映像が映し出される。
枢樹が彩子に向かって視線を向ける。その視線は、モニターに映し出された映像を『見ろ』と促していた。
枢樹の促しに従い、彩子はモニターに目を向けた。
画面に映っていたのは…。
巨大な地下空間であった。
その地下空間には樹々が繁り…。そしてその森と一体化した遺跡群が犇めき並び立っていた。
これは、この宗教施設の地下の映像なのだろうか。では、この遺跡群が…。
「この地下空間全てが、君の言うところの、死皇の亡骸の群落。亡骸群落だ。」
やっぱり。それにしたって、こんな巨大だなんて…。予想以上だった。
「しかし君に見せたものはこれではない」枢樹が不敵に笑う。
「あなたは私に何を見せようとしているんですか?」
その彩子の疑問に枢樹は答える。「儀式。そして死皇の粒子の正体だ」と。
画面が切り替わる。そこに映し出された映像は…。
人を喰らう巨大な遺跡壁。真紅の雨に歓喜する眷属。枯れ果て真白な粉と成り果てた生贄。
それは、悍ましく、凄惨な、饗宴の光景だった。
…
「こんなの、人のやることじゃない…。」
その惨たらしい映像に、彩子は耐えきれない嘔気を覚え、涙を流す。彼女の身体が怖気に震える。
「当然だ。彼らは邪神の眷属。最初から人間ではないからね。」
「一体あれは何をしているんですか!」
反射的に口から疑問が吐き出されたが、その答えは聞くまでもない。
死皇に、生贄を捧げ、喰わしているのだ。
映像の中で、数人の人間が遺跡壁に喰われていた。
教団は、生贄を捧げる。死皇は、人を喰らう。
幸か不幸か、捧げられる寸前で意識を取り戻し泣き叫ぶ人もいた。しかし抵抗虚しく眷属達に押さえ付けられ、遺跡壁に開いた真っ赤な口に捧げられた。
そして、最後に。
白装束に包まれた女性が連れて来られ…。寝台に寝かされ…。肉塊となり…。木偶細工のように皺がれ…干涸び…崩れた。真っ白な、粒子となって。
「それが、これだ。」
枢樹の手には、大きめの水筒程のサイズの、銀の筒が握られていた。
その銀筒の中身を想像し…。
「やめて!」そう叫び、彩子は枢樹から目を背ける。
「説明を続けよう」彩子の動揺と、そして嫌悪と怒りを無視して、枢樹は言葉を続ける。
「君が見たものは、この筒の中に入る入っている粒子の、その作り方だ。この粒子を作るためには、選別された『特別』な生贄が必要になる。」
それが、あの凄惨な儀式の意味だとでも言うのか。
「この粒子こそが、私が発見した死皇の真の意思。私は真の意味での神の復活を願っているのだよ。」
「…神の真の意思?」
「そう。意思だ。死皇の魂は太古の神々により滅された。そして死皇の不滅の肉体は地下深くで形を変えて存在を続けている。では、死皇の意思は何処にあるのか。」
『三位一体』。『肉体』と『霊』、そして『精神』。
「その答えがこれ。私が発見した死皇の粒子なのだよ。」
そう言って、枢樹が死皇の粒子が詰め込まれた銀筒を掲げる。
新興宗教団体の経営管理者としての表の顔。
邪神を崇拝するカルト組織の教祖としての裏の顔。
それらの立場を利用して創り上げた、天祓過神教という集団。
それらを持ってして、枢樹蘭堂は何を成そうとしているか。
「ビジネスライクに簒奪を。」
枢樹は、自身の『真の目的』を彩子に語り始めた。
…
「彩子君。君は死皇の事を、他の生命を貪るだけの異形の存在…邪悪な怪物だと思っているのではないかな?」
「あなたた違うと思っているんですか?」太古の神はその神聖をとうに失い異形の怪物と化している。祖母からはそう聞いていた。
「それは当たらずとも遠からず。私も死皇の存在を知った時、SF映画に出てくるようなモンスターの一種だと認識していた。しかし死皇について調べるうちに、それは間違いだと気付いたんだ。」
枢樹曰く。死皇の粒子を発見した時。枢樹自身が抱いていた死皇のイメージが変わったのだという。
「邪神は魂を滅され不滅の肉体のみの姿となった。しかし死皇の意思は人間の支配を望んでいる。」
『支配』。それこそが神の願望であり邪神の心理。
彩子は思う。
これから枢樹は、死皇に関する真実を、欲望を教義とする教団の意義を、そして枢樹自身の真の目的を語ろうとしている。
枢樹蘭堂という男が、何を持って、何を願って、弛まぬ努力の先に蛮行を望むのか。
彩子は枢樹の言葉を、一言一句逃さず、理解に努める。
…
「この教団を創った理由。その一つ目は…。」
例え邪神と言えど、不滅の肉体を持てど、その形態を如何に変えようと、邪神は肉体を持ち存在している。しかし例え強大な能力を有していても、太古の時代とは異なり現代の科学兵器や核兵器でも持ち込まれれば滅びざるを得ない。
死皇はまだ、現代文明が作り上げた兵器群に相対できるような力を今はまだ持っていない。進化の途上なのだ。
では、進化の真っ只中である死皇を、如何に防衛すればいいのか。
答えは、死皇を守護する盾を、要塞を造ればいい。
軍事力ではない。組織の力で、だ。
社会との繋がりと立場を強固にすれば、暴力での介入を封殺できる。現に、この街や自治体は今や教団の思うがままだ。
言わばこの教団は、邪神の防衛群そのもの。
そして、この死皇の粒子も教団の発展に貢献している。
「神の粒子が人間の脳まで侵食を果たした時。どんな変化が起こるか。それを教えよう。」
人間の脳と動物の脳では大きく異なる部分がある。それは、人間の脳は理性を司る機能を有する事だ。
脳の中で考える場所はどこか。それは主に大脳の前頭葉にある前頭前野になる。
前頭前野は、人間と動物の脳を比較すると大きく異なり、人間のそれは大脳の約30%を占めているが、チンパンジーでは7~10%程度しか無い。それが野生動物と人間の脳機能の決定的な違いとなる。
前頭前野は、言わば脳の司令塔。考える、記憶する、アイデアを出す、判断するなど、文明社会に照らし合わせれば脳の中でも特に重要な働きをしている。 それだけではなく、前頭前野は『抑制の脳』とも呼ばれ、行動や感情を制御する機能にも秀でている。
反対に、前頭前野と比べて、感情を司るのは大脳辺縁系の扁桃体と呼ばれる場所。感情を司る扁桃体を含む大脳辺縁系は言うなれば古い脳。恐怖や嫌悪、欲望などの根源的な感情を司る野生の脳とも言える。
死皇の粒子は、脳のそれらの部位を変質させる。
理性を司どる前頭前野を萎縮させ、同時に欲望を司る扁桃体を肥大させる。
「理性と抑制の箍を外された人間がどうなるか。それを君は、この教団施設の中で目にしてきただろう。」
…
「死皇。私はその成り立ちと経緯を、邪神の眷属に伝わる文献から知った。」
太古では『黄金の皇子』と呼ばれていた邪神であり、その巨大な荒ぶる暴力で人間を支配していた。まさに邪悪な神そのものだった。
そして、魂を殺され肉体が変異した今も、その意思は支配を求めている。人間の精神に作用するこの死皇の粒子がその証明。
「絶対的な支配への欲求。それは私自身が望むものでもある。私の目的を叶える為には、絶対的な支配が必要。その点で、私は神の意思と同調した。すべての宗教を超越し、神が支配する世界を作る。それが私の理想なのだ。」
では、神にとっての支配とは、どのようなものなのか。それがこの教団を創った二つ目の理由となる。
「重要なのは、人が抱く『欲望』だ。」
この教団は、人の欲望を満たす事を教義としている。だが君の言う通り、人間の欲望全てを叶えるなど不可能。愚かな思想だ。
その上で、教団が欲望の充足に拘るには理由がある。
欲望を満たす行為。
それは、邪神が示す支配の入り口でしかない。
邪神にとっての支配とは、信徒の『生殺与奪』の権利を握る事。それは言わば、恐怖を煽ることで律する究極の管理。
人の恐怖は、命や財産…持てるモノを奪われる危機感に晒された時に生じる感情だ。
詩王は、人間が丹念に積み上げ続けたモノをその荒ぶる力で奪い去る時に愉悦を感じる。恐怖を与える行為そのものに歓喜する。それが邪神の本能。そのように出来ている。
その権力で持って人間を管理し、仮初の富と繁栄を与え欲を満たし、そして絶対的な暴力で簒奪する。
簒奪の危機に晒された者は恐怖を覚え死皇に平伏す。
それこそが、死皇の支配。生殺与奪の権利の簒奪。
「それと同じ事を、私はこの教団に取り入れた。」
生殺与奪を握られた人間は教団に協力する。
得た富を手放すことを避けたい。
奪われることを許したくない。
欲望を享受し続けるために、喜んで生贄の供給に協力する。教団の繋がりを強固にするために協力する。
「私は、この教団でその仕組みを作り上げたのだ。」
彩子は思う。
枢樹の理想の達成には邪神が必要。神の支配欲を満たす為には枢樹と教団が必要。どちらかがどちらかに寄生しているのではない。
言わば、邪神の亡骸と枢樹という一人の男との共生関係。それも死皇の亡骸群落の一つ。そういうことか。
…
「死皇にとっての生贄とは供物。餌であり、エネルギー源だ。」
定期的に生贄の血肉と魂を供給する事で、死皇の亡骸は育まれ、進化する。
「私はこの教団に、死皇の餌場として機能する仕組みを取り入れた。」
富を与え、欲を満たし、簒奪される危機感を与え、恐怖で管理する、その仕組みを。
「君は組織の中で有意義に機能する仕組みを作る方法を知っているかな。それは、人の愚かさを受け入れることだ。」
他人の優秀さに期待してはならない。愚かさにビジョンを合わせなければ仕組みは容易く崩壊する。
「私はまず、信者に階級を与え区別した。」
教団の信者は、三つの階級に分けられている。
一つ目は、私の言葉を純粋に信じ、僅かな欲を満たすだけで充足できるような、無垢な信者達。
二つ目は、教団の奥に設置した際限の無い欲望を叶える仕組みを是非とする集団ども。
そして三つ目は、教団の心奥である死皇とその儀式の存在を知る上位階級に所属する者達。この階級には一般社会の中で大きな権利を持ち、その権限を活かして教団に貢献している者達も含まれる。
「次に私が示した仕組みは、その上位階級の者達に、教団の支配を委ねたこと。」
教団の支配とは、即ち『生贄を決める権利』。
生贄を供給するための手段を考える立場。
上流階級の者達同士で生贄の選定を行い、その仕組みと管理を行う為の集い。
「私はそれを『簒奪会議』と呼んでいる。支配を望む死皇の元で行われる集いの名として、相応しいだろう。」
教団の中での彼らの生殺与奪の権利は絶対だ。与えることも奪うことも意のまま。
いわば彼らが、教団の暴力装置。教団が持つ武闘派や、死皇の能力も利用できる。
彼らが、不動産会社の活用や廃ビルの利用といった生贄供給の仕組みも考えてくれた。
「彼らは教団と死皇の発展に寄与してくれる。良き協力者達だ。」
…
そこまで話を聞いて、ついに彩子は言葉を漏らす。
「普通の人間に、そんな残酷なことができるなんて…、私には信じられません…。」
その彩子の言葉に対して、枢樹は答える。
「人はそんなに愚かじゃない。そう言いたいのかな。それは違う。人は皆、愚かなのだ。」
君だって、この施設の中で行われていた際限のない欲望の饗宴を目にしてきただろう。枢樹はそう語る。
「私はね、そんな愚かな彼彼女らにも、支配と言う名の死皇の優越を味わって欲しかった。」
「人間は、そんな簡単に支配されません!」と彩子。
その言葉を耳にした枢樹の表情が、ほんの一瞬、歪んだ。
「君がそれを口にするか。」
その言葉と顔には…、苛つきがあった。
「…え?」その予想外の枢樹の反応に、彩子は戸惑う。
「…まぁいい」枢樹の表情は、もう元の怜悧な顔に戻っていた。
「そう。確かに人間の中には簡単に支配をされない者もいる。しかし、私にはこの死皇の粒子がある。」
欲望と支配に抗おうとする人の精神。その精神の制御の箍を壊す。死皇の粒子がそれを後押しする。
粒子の中毒性は麻薬に等しい。少量づつでも体内に取り入れるうちに、知らず知らず教団の虜になっていく。無理矢理に断てば、軽くはない禁断症状に苦しむことになる。
君は麻薬の禁断症状を見たことがあるかな。
例えばコカイン。その乱用は寄生虫妄想、つまり体内に小さな虫や寄生虫が存在し、これが這い回ったりさしたりするという妄想を生じさせる。
禁断症状が発生すれば、一日中耐えがたい蟻走感に皮膚を何度も描きむしる。瘡蓋と、治りかけた箇所を再び掻きむしることで悪化した潰瘍に全身が覆われる。
さらに繰り返し襲ってくる震え、めまい、筋肉の痙攣に悶え、床を転げ回る。不断の発作に、睡眠と食欲を奪われ、皮膚と皮になるまで痩せ細るという。
死皇の粒子がもたらす精神の侵食の結果、果てない人の『欲』は『次』を求める。目前に餌があるのだから求めない筈がない。
欲を叶えるには限界があることなど、考えればすぐにわかること。刹那的な快楽でしか無い。しかし粒子で鈍った頭では、それすら判断することも叶わない。
「判断力、つまり倫理とモラルを失った人間達は、根源的な欲求に従う。君が先程面しいた儀式の様子。簒奪会議に参加した連中は、自らが差し出した生贄が殺される光景を観て、楽しんでいると聞く。そんな彼らはもう既に邪神の眷属と同類になったのかもしれない。」
先の儀式の映像で目にした、人の悲鳴と血の雨に狂喜する眷属独特の歓喜と狂気の饗宴の光景。
奪う側の愉悦。安全という名の快楽。
安全な場所で、他人の不幸を眺める行為。それだけで人間はしみじみと幸せを感じられるらしい。
「自分はセーフティという感覚。安全であることの愉悦。それは思っているよりも甘美なものらしい。心理学者アブラハム・マズローも言っていた。安全への欲求は、人間の根源的な欲求の一つだとね。」
吐き気を催すような邪悪な言葉を吐き続ける枢樹。
嫌悪感に晒され続けた彩子だったが、そんな枢樹に対して、一つの疑問を覚えた。
枢樹は、邪神を崇拝し従う、邪悪な眷属の一人。
そう彩子は認識していた。そう思って枢樹の話に耳を傾けていた。
しかし今。枢樹へのイメージが少し変わる。
枢樹の言葉からは、死皇への畏敬の念が全く感じられない。むしろ、仕組みを構築する為のパーツ。道具。そう感じてしまうような言葉を並べていた。
そこには眷属が持つサディスティックまでの独特の歓喜と狂気を感じない。
ビジネスライクな簒奪。枢樹のその思想ゆえなのか。
彩子の疑問。…枢樹蘭堂という男は、本当に邪神の眷属なのか?
「枢樹さん。あなたも眷属なんでしょ。あなただって、人間が喰われる姿を見て喜んでいる側の一人じゃないんですか?」
彩子は疑問を言葉にする。
その質問に、枢樹は反射的に何かを口にしようとして…止めた。
そして少しの間の後、枢樹は言葉を返す。
「私は儀式には興味がない。あんなものは欲望で脳みそが歪んだ常軌を逸した老人らの余興。気品も威厳もない、物怪の類の戯れ。言わばパフォーマンスだ。」
と言い、更に言葉を続ける。
「私が興味があるのは生贄の供給システムの管理と運営。それだけだ。」
何かを隠すように、枢樹はそう口にした。
…
天祓過神教と死皇の関係。教団の設立理由。そして、枢樹蘭堂の思想。
それらを一息に説明した枢樹。その姿は、まるで企業のプレゼンだった。と言っても、そのプレゼンへの参加者は彩子だけだが。
彩子に背を向け、枢樹は椅子に腰掛けて一息つく。
枢樹は間違いなく彩子に関心を抱いている。その理由は解らない。
彩子自身も、無理矢理拉致されて教団施設に連れ戻された身ではあるが、教団の成り立ちや枢樹の目的に関心と疑問を持ってしまっていた。
そして、枢樹の話を聞き…。
ビジネスライクに簒奪を。それを語る枢樹の話から、彩子は概ねその目的を理解できた
しかし枢樹がどんな思想を語ろうと、理解は出来ても同調はできない。生贄の必要性など、彩子が持つ倫理観の範疇外もいいところだ。
彩子はいったん思考を切り替える。
そうだ。枢樹から教団の秘密を聞き出そうとした理由は…。
葵ちゃんの救出。そして教団本部からの脱出。それが私が今、成すべきことだ。
その為には…。
「枢樹さんは、どうして葵ちゃんに執着するんですか?」
冒頭の質問を、もう一度枢樹にぶつける。
枢樹は、教団にとって葵は必要な存在だと言っていた。教団に必要。それはつまり、死皇にとって葵が必要ということになる。
「葵ちゃんも、死皇の生贄にするつもりなんですか?」
何故、葵ちゃんなのか。
葵ちゃんをどうしようというのか?
もし、葵ちゃんを生贄しようとしているのなら、絶対に止めねばならない。
椅子に腰掛けたまま、枢樹は彩子に目を向ける。
「そうだったね。生贄供給の仕組みについて、君にはもう少しだけ教えてあげよう。」
彩子が聞きたかったのはそこではない。だが、枢樹の説明は止まらない。興奮を覚えているようにも見える。まるで自身の理論の理解者を見つけたかのように。
…
「生贄にも品質がある。」
そう言って、枢樹は生贄の供給の仕組みについて語り始めた。
死皇にとって、人間は食糧。エネルギー源だ。
しかし、生贄にも2種類のランクがある。
無作為に攫ってきた人間は、ただ死皇に喰わせるだけの『餌』。遺跡壁に喰われるだけの者達だ。
しかし、餌の中には選ばれた者だけが成り得る『特別な餌』がある。
その品質の高い『特別な餌』を死皇が摂取した時のみ、邪神は粒子を生み出す。
邪神の粒子を生産するには、『特別な餌』の存在は必要不可欠となる。
そんな枢樹の説明に、彩子の顔が嫌悪に歪む。
「『特別』…。特別な存在になれる。あなたはそう言って葵ちゃんを教団に取り込んだんですか!」
「その通りだ。彼女は私が求める『特別』に相応しかった。」
葵ちゃんは『特別』という存在に対して、強いコンプレックスを抱いていた。
枢樹はそのキーワードを使い、葵ちゃんの精神を刺激したのか。
払拭できない罪悪感と、間違った空気に流されてしまった自分に対する嫌悪感。そして嫌われてはならなという強迫観念を抱える葵。その苦痛からの脱却の為に、葵は、例えば彩子のような『特別』になるしかない。そう思い込んでいた。
その結果、葵は自ら怪異に手を出し、心身共に傷付き、『特別扱い』してくれる教団に取り込まれた。
それは、誰にでも有り得て、人間ならば誰もが抱える悩みであったろう。しかし葵は、良くも悪くも、真面目で純粋であったのだ。
「…教団の言う『特別』では、葵ちゃんは救えません!」
しかし教団は、そんな葵ちゃんを利用しようとしている。そんな『特別』に意味などあるものか!
「うん、そうだろうね。」
「は?」
「私にとっての『特別』。それは『特別な愚者』を指す。」
「愚者?」
「そう。本来の意味での『特別』とは、普通一般と差異のある事を言う。しかし私が望む『特別な愚者』とは、『自らの精神の支配を手放した者』を指す。」
…自分の支配を手放す?
「他人に合わせることしか出来ず、空気に流され、他人の物差しに自身の価値を委ねるなど、自分の精神すら支配できない事と同義。まさしく愚か者の極みだ。」
「葵ちゃんがそうだって言うんですか!」彩子が再び激昂する。
「その通りだ。川島葵。彼女には何も無い。何処にでも居るような、誰もが抱えるような下らない悩みを持つ普通の女。凡人。だから扱いやすかった。」
「…!」
「そういう愚かな魂こそ、死皇に喰らわす意味がある。彼女は特別。しかし特別ではない。彼女は愚か故に、特別になり得るのだよ。そんな『愚か者の支配』こそが死皇の精神。人を蔑む邪神の喜び。神の好物となる。そして、より多くの邪神の粒子を育む。」
葵を『特別な生贄』として死皇に捧げる。
枢樹はそう言っているのだ。
「そんなこと、絶対にさせません!」
「君が目を覚ます前に、私は彼女と話をしたよ。彼女は、自ら生贄になること了解した。私が彼女の罪悪感を揺さぶったからね。死皇の粒子に犯された彼女は、実に従順だったよ。」
「!」じゃあ、今の葵ちゃんは、また洗脳された状態になっている?
「なんてことを!」
「…さて、そろそろ君との会話も終わりにしよう。有意義な時間を送れた。」
彩子の怒りなど露とも気にする様子はなく、枢樹は小さな塊を床に放り出した。
ガシャンと、プラスチックが歪む音がする。
私の携帯電話!
「通報でもされたら面倒なのでね。壊しておいた。」
…これで祖母との電話も不可能となった。
「閉じ込めておけ。」
枢樹がそう言うのと同時に、屈強な男性が部屋に入ってきた。見覚えのある男性…葵宅に侵入してきた奴らの一人だった。
暴力も厭わない男性の太い指が、彩子の小さな腕を取る。
抵抗も無駄と悟り、男性に連れられて教祖・枢樹の部屋を後にする彩子。そのまま彼女は教団施設の奥深くにある部屋に幽閉されたのだった…。
第十話へ続く