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亡骸群落  作者: yuki
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亡骸群落~第五話:呪われた街~

『噂の幽霊ビル』の一件から、一週間が経過した。

川島葵は、まだ退院できていない。

黒い靄に噛まれたという足の怪我は診察の通り大したことはなく、身体へ後遺症を残すようなこともなく、ほぼ完治しているそうだった。

しかし、その怪我による影響は、身体面ではなく、葵の精神面にダメージを与えていた。

入院中の葵を見舞う為に、彩子は病院を訪れた。

「葵ちゃん。お見舞いに来たよ」と病室の葵に声を掛ける。

だが、返事はない。

葵は病室のベッドの上で体を起こし、外を眺めていた。

…眺めている、という表現は少し違った。

葵は病室の窓から外に目を向けている。それだけだった。

窓の外の何かを見ている、そういうわけではなかった。

曖昧な瞳のままで、ただぼんやりと、意味があるのかないのかわからないままで外の景色に目を向けている。それだけだった。

「葵ちゃん…。」

「意識はある。怪我も大したことはない。でもな、なんというか…心ここに在らず。そんな状態らしい。」

葵を見舞う彩子の後ろから声が聞こえた。刑事の葛籠だ。

葛籠が葵の病状を伝える。

「食事もほとんどできていないそうだ。点滴で栄養はなんとか摂れているが…。」

葵は一週間前に比べて、明らかにやつれている。

病院の看護師によれば、向精神薬を使うにしても、病態がはっきりしないため、診断・処方が難しいとのことだった。

「私の責任です…。」

そう落ち込む彩子の姿を見て、葛籠は彩子を病室の外に連れ出す。

院内の休憩室。葛籠は自動販売機で缶コーヒー二つを買い、そのうちの一本を彩子に差し出した。

「彩子の嬢ちゃんは、葵の嬢ちゃんを行かせまいと止めたんだし、助けにも行ったんだ。…まあ、こうなったのは葵の嬢ちゃんの自己責任もあると思う。」

缶コーヒーのプルトップを引きながら、葛籠はそう口にする。

「…そうでしょうか」俯く彩子。

葛籠の言葉は、彩子をこれ以上落ち込ませないように配慮してのこともあったのだろう。しかし、葛籠の見解は、それだけではなかった。

葛籠は言葉を続ける。

「あの幽霊ビルは撒き餌だった。黒づくめ連中も言っていただろ。葵の嬢ちゃんは、奴らの張った罠に掛かっちまったんだ。」

「でも…。」

「だからよ。彩子の嬢ちゃんが罪悪感を持つことなんてな、一片たりともないんだよ。解ったか。」

「…はい。葛籠さん、ありがとうございます」と彩子は頭を下げる。

彩子独りに責を負わせない。それが葛籠の気遣いだった。しかしそれも当の彩子本人は見透かされているのだろう。それを察している葛籠は、缶コーヒーを飲み干すふりをして彩子から顔を逸らす。

「そう言えば、葵の嬢ちゃんと、彩子の嬢ちゃんは、同じ会社の同僚なんだっけか」とついでに話も逸らす。

葛籠の言葉に彩子も「そうです」と頷く。

「会社の同僚さん達が、葵の嬢ちゃんの見舞いに来てる姿、見かけねぇなぁ。」

「葵ちゃんが入院していることは、社内ではあまり話題になってないみたいで。」

「…まぁ、会社なんて他人様の集まりなんだからな。そんなもんかね。」

世知かれぇなぁ。そう呟きながら、葛籠は苦笑いを浮かべる。

…葵ちゃんの社内での交友関係は広い。葵ちゃん自身がそう言っていた。葛籠に言われて思ったが、確かに社内で葵ちゃんの入院が話題に上らない意外だった。

「しかしだなぁ。」

葛籠の表情に真剣さが戻る。

「実際、今、葵の嬢ちゃんに何が起こっているんだ?」

空になった缶コーヒーを握りしめながら、葛籠は彩子に尋ねる。

「怪異体験のショックで落ち込むにしては葵の嬢ちゃんの様子は尋常じゃない。何か他の要因があるのか?」

「他の要因…。」

「そうだな。例えば、怪異による『呪い』とか。」

「呪い、ですか。」

葛籠の言葉に、彩子は思案に耽る。

「呪いって言っても、色々な見解があるんです。お婆ちゃんが教えてくれた見解だとですね…」と彩子は、高明な霊能者である祖母、神懸小夜の考え方を葛籠に伝える。

祖母曰く。

人間という存在は、『三位一体』で構成されている。

『肉体』と『霊』。

そして『精神』。

そして呪いとは、この『三位一体』のいずれかに作用するものである。

それが祖母の考え方であった。

その『三位一体』を自動車で例えるなら…。

肉体が、自動車の車体。器や外殻とも言える。

魂が、運転の制御システムやエネルギー。車体を動かす為の駆動系やガソリンに該当する。

そして精神。これは運転手にあたり、言わばエネルギーを用いて器を操作する『意思』となる。

これを人への『呪い』に置き換えた時。

肉体への呪いとは、物理的な身体的損傷を与える事。

魂への呪いとは、病的・機能的な要因で生きる為の精力や活力を枯渇させる事。

そして精神への呪いとは、その本人の意思を揺さぶる行為。人の価値観や自身を律するものに悪影響を与える事を指す。

「おそらく、葵ちゃんは、その精神を蝕まれている状態なんだと思います。」

「つまり…」と葛籠が言葉を挟む。

「缶コーヒーで例えるとしたら、硬い缶の本体が肉体。中に入っている液体が魂。それで中に入っている液体が熱いか冷たいか…その性質が精神。そう言うことだな?」

「え…えぇ。その理解で合っていると思います。」

三位一体を缶コーヒーで例えられるとは思わなかった。

「しかし、精神への呪いかぁ。えげつないな、それは。」

「はい。肉体や魂は、言わば外的要因で改善できるものです。でも、精神は違う。自身の価値観や存在感を揺さぶられた時、人間は自分の力で…文字通り己の意思で立ち直るしかない。でも今の葵ちゃんには、それが難しい…。」

「その呪いを解く方法は、あるのか?」

「解りません。この呪いは、例えば祈祷とか呪術によるものとか、そういった霊的なものとは異なる種類であるように感じます。もっと直接的で、物理的な…。」

「物理的な…要因か。」

「葵ちゃんから聞いた話では、ビルの地下フロアで白い煙…みたいなものを吸い込んでから、気持ちがおかしくなったって言っていました。…でも、人間の精神に作用する煙なんて、私は聞いたことがありません。」

「…もし麻薬の類のものなら、検査で引っかかるだろうしな…。」

自身の不甲斐なさに彩子は拳をギュッと握る。

なんとかしたい。

だが何にもできない。

その手段を知らない。

その彩子の雰囲気と立ち振る舞いには、悔しさが滲み出ていた。

葛籠も、これ以上問うたところで、彩子を追い詰めるだけだと判断し、話題を変える。

「例の不動産会社の裏の繋がりについて、羽佐間さんが調査を継続している。そのうち情報を得れるだろう。」

「裏の繋がり、ですか…」考え込む彩子。

「ああ。なんせ土地が絡む話だ。金も掛かる。そうとう規模のでかい企業が裏にいるはずなんだ。必ず尻尾を掴んでやるさ。」

「…それなら、これが捜査の役に立つかも知れません。」

そう言って彩子は、何やら模様が描かれたメモを葛籠に渡す。

「これは?」

「あのビルで見かけた黒づくめの人達が身につけていたマークです。記憶を頼りに描いたものですが…。何かのヒントになると思います。」

「なるほどなぁ。よく覚えていたな。」

「はい。ちょっと気になることがあったので。」

「このマークには、何か意味があるのか?」

「北欧神話とかに出てくる世界樹…ユグドラシルの意匠によく似ていました。細部は異なりますが…。」

本来の世界樹の意味するところは、『世界を支える大樹』。しかしこの意匠が示すものは『世界を喰らう大樹』である。

それが奴らの意匠から彩子が読み取ったイメージだった。

「何かわかったら、真っ先に知らせる。待っていてくれ。」

そう言って葛籠は病院から去っていった。

会社に同期で入社した葵ちゃんは、未だ入院中。

だが、葵ちゃんの容体とは関係なく、社会人に一員である神懸彩子は会社に出社しなければならない。が…。

「…気が重い。」

そんな呑気な事を考えていては、入院中の葵ちゃんに申し訳ないが…。

「葵ちゃん。早く元気になってね。」

思えば、社内で頼りにしていた葵ちゃん不在での出社は就職当初の時期以来だ。

そして会社での彩子の様子はというと…。

「ちょっと。書類が違うわよ!」と先輩。

「もっと早くできないの!」と同僚。

「さっき言ったばかりですよねこれ!」と後輩。

怪異やオカルト方面以外での彩子は、かなりのポンコツであった。

「す、すみません!」頭を下げる連続である。

葵ちゃんがいれば、影に日向に、さらに後程の精神的フォローまでカバーしてくれていた。

「ああ、ごめんね、葵ちゃん…。」

こんな呑気なことを思っていては、またまた入院中の葵ちゃんに申し訳ないが…。

「早く元気になって~。」

再度、心からそう思う。

そんな慌ただしい午前の仕事がひと段落して。

彩子は、1人、屋上のベンチでお弁当を食べる。

そう言えば先日。

葵ちゃんとお弁当を食べている時、屋上に子供の幽霊がいた。

彩子はふと、その幽霊が佇んでいた屋上の影に目を向ける。

視線の先に、子供の姿はなかった。

そこには黒いカビが蔓延る冷たい灰色のコンクリートの地面があるだけ。

きっと、うまく成仏できたんだろう。

たとえ幽霊が視えたところで、私には何もできない。

でも、天国に行けたのなら良かった。彩子は心からそう思っていた。

思えば、この街に自分が越して来て、まとも(?)に関わることができたのは、幽霊の人たちだけだった。

…そう。葵ちゃんと会うまでは。

葵ちゃんは、私の初めての友達だった。

葵ちゃんと出会わなければ、今でも私は会社の環境や空気にすら馴染めていなかっただろう。

…空気。

そう言えば。

…葵ちゃんは、街の空気とやらを気にしていた。

お昼の休憩時間が終わった。

午後の仕事の最中。彩子は何気なく、本当に何気無く、同僚の先輩に尋ねてみた。

「せ、先輩。あ、あの!」全く何気無くなかったが。

「何よ、神懸さん。」

面倒そうに返事を返す先輩社員。

その先輩は、社内の中でも噂や流行りに敏感な人物だった。

「あ、あの。街外れの、…幽霊ビルの噂って、し、知ってますか?」

先日、彩子達が探索した幽霊ビル。葵が言うには、その幽霊ビルの噂は街の中では有名だったらしい。

だが。

「知らないわよ、そんなの」と先輩。

…知らない?

「えっと、最近、その、ビ、ビルが解体されたらしいんですよ。し、知ってました?」

「だから知らないって。興味ないわよ、そんなこと」と、身も蓋も無い。

知らないなんてことがあるのか…。訝しむ彩子は同様の質問を他の同僚にもしてみた。

中には「聞いたことあるよ」という者もいた。だがその後の話が続かない。

「どうでもいい。」

「それがどうしたの。」

「ニュースにもなってないよね。」

「ネットで流行ってるの、それ?」

等々。

例え記憶にあったとしても、全く話題にならないのだ。

「周囲の誰もが興味を持たない。ネットやニュースの話題に上らない。みんなが関心を示さない。みんながそう認識している。だから、その事態に誰も注目しない。これは、そういうことなの?」

それが、葵の言うところの『空気』なのだろうか。

退勤の時間になった。

慌ただしい、かつ心的圧力を受け続けた職場から解放され、彩子は帰路に着く。

職場の建物を出たところで、ふと彩子は、葵と知り合えたきっかけとなった電柱に目を向ける。

彩子がこの会社に就職してしばらくした頃。その電柱の近くの道路で不幸な交通事故があり、少女が一人亡くなった。

そしてその少女は幽霊となり、手向けの花が活けられた小さな花瓶と一緒に佇んでいたのだ。

いつの頃か、少女はその姿を消し、電柱は黒いカビの蔓延る苔むした花瓶が置かれてるだけとなっていた。

自宅に向かう中。

電車の横長の座席で、その身を左右に揺らしながら、彩子は考える。

今にも仕事の疲労で眠りに落ちてしまいそうだったが、車窓から見える都会特有の早くも遅くもない速度で流れる街並みを視界に入れながら、彩子は思考を続ける。

幽霊ビルが消滅した今、怪異の足取りを追うヒントは、例の黒づくめ集団のシンボルマーク…意匠しかない。

あのビル内の怪異や失踪事件に関わる現象全般、そして葵から聞いた地下の穴から生えていた遺跡様の壁群。それらは全て、ナニカで繋がっている。

正体不明な、ナニカ。

しかし思い返せば、例の黒づくめ集団は…多分、そのナニカに名前をつけて呼んでいた。

『シオウ』。

そう呼称していた。

失踪事件に係る怪現象。その根幹に存在する何者か。それが恐らく『シオウ』と呼ばれていたものなのだろう。

では、その肝心の『シオウ』とは何なんのか。

電車内の横揺れが、彩子の疲れた身体を微睡みに誘う。

いずれにしても、それは現実の科学の域を超えたオカルトの領域であり、普通の警察では対応できない類のものだろう。

テクノロジーでは解明できない一件。

オカルト方面からの捜索でしか答えに辿りつけない。

それは反面、彩子やトクシンの刑事さん達のような怪異方面に対応できる人種でしか解決できない、ということだ。

今この瞬間にも、奴らの侵食は進んでいるのかも知れない。

刑事さん達と協力しながら、これ以上の被害を防いでいかなければならない。

仕事疲れの微睡の中、そう決意しながら、彩子は眠りに落ちた。

翌日。会社にて。

同僚の会話が耳に入る。

特に聞き耳を立てていたわけではない。葵ちゃんが不在である関係か、気が紛れず、どうしても他者の声が耳に入ってきてしまうのだ。

同僚は、アプリ『MutualAid』について話をしていた。確か、葵ちゃんがそのアプリを使って流行りの鞄を安値で手に入れたと言っていた。個人売買に関するようなフリマアプリみたいなものだと記憶している。

「見て見て、このネックレス。MutualAidで手に入れたんだぁ。」

欲は誰にでもある。安く良いものが欲しいと思うのは当然だ。

と思っていたが…。

「わぁ凄い。でも高そう…。幾らかかかったの?」

「欲しかったやつを書き込んだら譲ってくれたんだ。だから無料ただ。」

…無料?

フリーマーケット方式のやり取りならば、交渉の結果、極端に安くなる事は十分にあり得る。しかし、無料とは…。世の中には、変わったお金持ちもいるものだなぁ。

などと思っていたが…。

「実は私も。MutualAidで彼氏ができたんだ!」

「え~、いいなぁ。私も書き込もうかな。」

…彼氏も?

どうやらMutualAidはマッチングアプリも兼ねていたようだ。このアプリが満たすのは物欲だけではないらしい。

昨今のテクノロジーは、彩子に知らないところで、より便利に進化し日常に浸透している。

アプリ『MutualAid』。その和訳は、相互扶助。共済。力を合わせて助け合うという意味。これも相互扶助の一つの形なのだろう。

葵のお見舞いに病院に訪れ彩子。

刑事の葛籠から連絡があり、話したいことがあるらしく、病院で落ち合う事にしたのだ。

病室のベッドに伏せる葵の傍で、彩子は葵に、「早く元気になってね、葵ちゃん」そう語りかける。

そして、「会社のみんなも心配していたよ」そう言葉を続けた。

しかし葵の返事はない。彩子も葵の傍に暫く付き添った後、葛籠との待ち合わせに向かった。

病室から彩子が去った直後。

伏せる葵。その口元が僅かに動く。

「…嘘だ。」

凍てつく程の。

そして、決して誰にも聞かせたくない呟きが、寝具に包まる葵から聞こえた。

見舞いの後。病院の敷地内の公園で、葛籠は手にした缶コーヒーの一本を彩子に渡す。

「この街で発生している失踪の件数が、他の土地と比べて高い。その話を前にしただろ」と、葛籠が話し始める。

「はい。それが葛籠さん達がこの街に来たもともとの理由でしたね。」

「ところがな、ここ最近になってわかった事があるんだよ。」

「失踪件数以外で何か異常な事があったんですか?」

「ああ。この街で発生する自殺者が急増しているんだよ。」

自殺者が増えている?

行方不明でもなく。

死傷事件でもなく。

自殺件数の増加?

「…自殺の原因は何なんですか?」

よもや、それもシオウとやらと関係ある事なのだろうか?

「自殺の原因ははっきりしている。金銭関係や人間関係…ほとんどは生活上の問題で追い詰められて死を選んじまったケースばかりだ。まったく。死んでも何にも解決しないのになぁ」そう言いながら葛籠は手にしていた缶を握り締める。べコリと缶の軋む音がした。

「他殺ではない。捜査も必要なしと判断された。しかし…その人数が多過ぎる。」

「…葛籠さんは、この街に、人を自殺に追い込む何かしらの要因があると思っているんですね。」

「ああ、その通りだ。彩子の嬢ちゃんも、何か気づいた事があったら教えてくれ。」

数日後。

彩子の勤める会社の社員が、自宅で自殺した。

その社員と彩子は特別親しかったわけではない。

しかし、社内の噂でその社員に関係する情報は望まずと耳に入ってしまう。

自死を選んだ理由は、『もう生きていけない』『全てを失ったから』そう遺書には書かれていたそうだ。

真面目に働き、普通に給料を得て、一般的に暮らしていた人間が、全てを失う状態にまで追い詰められ、死を選ぶまでに、一体何があったのだろうか。

金銭絡みのトラブルに巻き込まれた?

不相応な借金をしてしまった?

犯罪を犯した?

全て想像の域を出ない。

そして、同じ頃。

同僚の一人が突然、会社を辞めていった。

それは先日、アプリ『MutualAid』を使って高価なネックレスを得ていた社員だった。

辞めた理由は、『もう働く必要がない』『なんでも手に入るから』そう言い残していったらしい。

それはつまり、働く必要がなくなった…給料をもらう必要がなくなったという事だろうか。

まさか、MutualAidを用いて?

そして、同僚の自殺。

自殺者の増加という先日の葛籠の言葉が気になる。

一方の人間は全てを失い。

他方の人間は富を得た。

この奇妙な符合はなんだ?

これと同じ状況が、街の規模で発生しているとしたら?

仮に。

想像の域を出ないが、仮にだ。

アプリ『MutualAid』が、人間の物欲や性欲を、更には金銭欲まで満たすものだったとしよう。

その目的が、人の欲望を満足させるためにあるのだとしよう。

『MutualAid』の意味は、相互扶助。

それは尊い考え方である。

持つ者が持たない者へ富を分ける。かつ対価なく。相互扶助。それは本来素晴らしい行為のはずだ。

しかし、現代社会でその相互扶助の精神が万人に普及する事はない。

なぜなら、資源は有限だからである。

カネ・モノや名声、権力を奪い合うことが前提であり、かつて高名な哲学者も著書リヴァイアサンにて『万人の万人による闘争』状態こそが人間にとって普通であると述べていた。

彩子も、幼い頃から両親にそう教えられてきた。

もし彩子の想像通りであれば、これは、相互扶助の域を超えている。

アプリ『MutualAid』が人間の欲望を完全に満たすことを目的としているとしたら…。

帰宅した彩子は、部屋着に着替え、自室のテーブルに向かっていた。

ペンを走らせながら、ここまでの状況を整理する。

欲望。

欲望を抱くことは、人間にとって普通である。

それを叶えようと努力する方が健全な場合もある。

欲望が問題になる時。それは『欲望が膨らみ過ぎる』事に起因する。欲とは際限が無いもの。

欲を完全に満たす事など、資源が有限な限り、それが奪い合う対象な限り、絶対に不可能なのだ。

その膨張する欲望を無理に満たそうとする時。人間関係に歪みが生まれ、犯罪につながる事もある。

つまり、結果として破滅が待ち受けているのだ。

更には、決して満足しないであろう他人の欲望を完全に満たそうとすることなど、与え続けることなど、絶対に不可能である。

底の無い他人のコップに自分の富を与え続けるようものである。そこに待つのは、やはり破滅である。

だから普通は、踏みとどまる。自制する。

与え続けるなんて選択肢は選ばない。自分が追い詰められるほど与え続けるなんて有り得ない。

なぜなら、人には『判断力』があるからだ。

歪み切ってしまう前の踏み止まる精神がある。

しかし、だ。

何かしらの手段で、その判断力という精神・価値観を歪めてしまうことができたとしよう。

そして、自身の財産を、全て他人に与えたとしよう。

結果、与えられた側の者の欲は、一旦は満たされる。

そして、与えた側の者は全てを失い…自殺するかもしれない。

アプリの形をとって、仕組みを活用して、人の欲望を叶えるために、モノを奪い合わせる。その結果が自殺者の増加…。

それが、アプリ『MutualAid』の本質なのではないか。

欲望とアプリ『MutualAid』、そして自殺との関係。それらを推測した彩子。

しかし、まだ謎は多い。

それは、なぜこの街だけ自殺者が増加しているのか、だ。

その謎を確かめるためには…。

「実際に使って見るしかない、よね…。」

彩子は自身の携帯電話を手にした。

画面を操作して、アプリショップでMutualAidを検索に掛ける。

あとは、インストールを待つだけだ。

携帯電話の画面から彩子は一旦目を離して、窓から夜景を眺める。

葵ちゃんの入院している市民病院が見えた。

前にお見舞いに行った時は、食事もできていなかった。

彩子も以前に入院した事がある。その時の彩子も食事がほとんどできておらず、命に関わるレベルで衰弱した。回復できたのは祖母のおかげである。

葵ちゃんに掛けられた『呪い』は、おそらく精神を蝕むもの。それが葵ちゃん自身の価値観や判断力を歪ませ、生きる気力を奪い続けている。

…判断力?

嫌な予感がした。

また、奇妙な符合である。

ブイン。

アプリのインストールが完了した音だ。

彩子は携帯電話の画面を覗き見る。

そして、その画面に映ったモノを見て。

…戦慄した。

アプリのアイコン。

そのデザインは、とある意匠とよく似ていた。

北欧神話に伝わる、世界樹。ユグドラシル。

それとよく似た、世界を蝕む歪んだ大樹。

アプリのアイコンは、それそのままだった。

つまり…。

アプリのアイコンは、黒づくめ集団の、そしてシオウとやらのシンボルマークと酷似していたのだ!

脳天に不意打ちを喰らったような衝撃を受ける彩子。

何が、街を守る、だ。

何が、これ以上犠牲者を出さない、だ。

既に、手遅れだったのだ。

奴らは、もう最初から、私達の身近に侵入し、侵食していたのだ!

しかも奴らは、現代社会の文化やテクノロジーに精通している。

現代技術を使いこなす巨大な背景を持つ集団なのだ。

彩子の指が、反射的にインストールしたばかりのアプリを削除しようと動く…が、思い止まる。

まだこのアプリに私個人を特定するような情報は入力していない。

逆に、このアプリが敵の正体を掴むヒントになるかもしれない。

怖気に耐えながら彩子はアプリの消去を止めた

そのまま、震える指で葛籠に電話する。

このアプリの詳細を調べてもらう必要がある。おそらく、このアプリは、街の怪異と無関係ではないのだ。

「彩子の嬢ちゃん。例のマガトキ不動産の裏にいるモノが解ったぞ。」

彩子がアプリ『MutualAid』についてを刑事二人に伝えた翌日の夜。

刑事の葛籠から電話があった。

刑事の羽佐間が調べていた、失踪事件に関係していると推測されている不動産会社。その裏にある繋がりとやらが判明したのだ。

「彩子の嬢ちゃんが教えてくれた黒づくめ集団の意匠…えっと、ユグドラシルとやら。それと、…携帯電話のアプリの…みゅぅーちゅある?…とやらが捜査の後押しになった。」

「役に立って良かったです」と彩子。

「マガトキ不動産の後ろ盾…いわゆる母体は…一般的な企業じゃなかったんだ。」

「企業じゃない?」

「ああ。いわゆる宗教団体だ。ある新興宗教団体が母体だったんだ。」

「宗教…団体…。」

その言葉を聞いて、彩子が一瞬、口を閉ざす。

その時の彩子の表情は、深く眉を寄せ…今まで見せた事のない程…苦痛に歪んでいた。

その彩子の表情は、他人に見せた事のないモノで…少なくともこの街に来て誰にも決して見せた事のないモノだった。

「…どうした、彩子の嬢ちゃん?」

通話先の向こう側で、葛籠が彩子の沈黙を察する。

「…いえ。大丈夫です。」

彩子は小さく深呼吸をして心を落ち着ける。

「それで、その教団のシンボルマークが…。」

「ああ。ユグドラシルの意匠だったよ。例のアプリの運営会社も、その教団と裏で繋がっていた。」

「…その新興宗教の名前は?」

天祓禍神教アマツハラエノマカガミキョウ。そういう名前だった。」

天祓禍神教。

それは彩子にとっては初めて聞く教団の名前だった。

いわゆる新興宗教とは、既成の宗教に対して、新しく興った宗教の事を刺している。

日本では、おもに第二次世界大戦後、全国的に教勢を拡大した宗教をさすことが多く、この国だけでも300~400団体は存在すると言われている。

その数の変動も激しく、最近できたばかりのものもあれば戦後から脈々と伝わっているものまで様々であり、一定の土地のみで流行っているものもあったりと、その数と名称の全容を把握するのは難しい。

それら新興宗教において共通している事は、既存の宗教(例えばキリスト教や仏教等)とは異なる信仰の対象が存在していることが挙げられる。

それは、その信仰における『神』であったり『狭義』であったり『(御神体のような)物質』であったり、人を神と崇める『現人神』であったりと、これも様々である。

幽霊ビルで遭遇した黒づくめ集団や不動産会社。それらと天祓禍神教には繋がりがあった。

そして、黒づくめ集団の会話から知り得た、相次ぐ失踪事件の根幹としてビルの地下に救っていた存在『シオウ』。

その天祓禍神教とやらの信仰の対象が、シオウと呼ばれるものなのだろうか?

いずれにしろ、その信仰宗教団体は…怪しい。

「なぁ、彩子の嬢ちゃん。」

電話口から葛籠の声が聞こえる。

「俺と羽佐間さんは、その天祓禍神教とやらが一連の失踪事件の鍵を握っている…というか元凶だと睨んでいる。それでな、その宗教団体の成り立ちを調べてみたんだがな…。」

電話口で説明を始めようとする葛籠。だが彩子はその葛籠の声を遮るように、

「宗教団体なんて、みんな碌なものじゃないです!」

その彩子の感情的な口調には、確信、というよりは断定。嫌悪すら混じっていた。

直後、彩子は我を取り戻す。感情的になってしまった事を恥じる。

「す、すみません、葛籠さん」と、話を遮ってしまった事を電話口に謝る。

「…続けるぞ。」

「はい。」

葛籠が語るところ、その信仰宗教団体は4年程までにこの街に突如現れ、街の中に宗教施設を建設したという。

当時、施設の建設予定計画の段階で街の住民による猛反発が起こり、住民の幾人達は市長や県知事に嘆願書を提出したり地元メディアに訴えかけていたが、宗教団体側が自治体に条件を提示し、建設は強行された。

その条件については様々な憶測や噂が飛び交ったが、おそらく過疎化の気配が漂っていた街に多額の寄付と継続的な援助、つまり裏金のやり取りがあったと言われている。

大掛かりな工事を経て街の郊外近辺に建てられたその施設はかなり巨大なもので、東京ドーム以上の大きさを誇る。過疎化が進んでいた街の土地は安かったのだろう。

その巨大施設は街の景観的には異質なものではあった。が、結果、斜陽に瀕していた街が再び活気づいたことは事実であり、その成り立ちからも、宗教団体とこの街は密接な繋がりがあると言えた。

天祓禍神教の成り立ちを聴き、彩子はひとまず葛籠との電話を終えた。

葛籠の話によれば…。

これで失踪事件の黒幕がその教団であると掴めたこと。

その教団は県や市に多額の献金を行なっていること。

街どころか地方自治体レベルでの話になりかねないこと。

想像以上に黒幕の規模が大きいため、葛籠と羽佐間の二人では手に負えない可能性があり、二人の刑事は一旦警視庁のトクシン本部に戻ることを告げた。

「敵は…新興宗教団体…。」

自室のベッドに彩子は身体を横たえる。

「宗教団体なんて、みんな碌なものじゃない。」

先程、つい漏れ出てしまった言葉を、彩子は再び口にする。

それは、彩子のまごうことのない本音だった。

「あいつらは、甘い言葉を吐いて人の弱みに付け込んで、利用する。」

彩子は、自分が良く知る新興宗教団体を思い出す。

「人を助けることが目的じゃなかった。そんなことはこれっぽちも考えていなかった。」

それは、彩子がよく知る組織だった。

「全部、お金のためだった。」

彩子が宗教団体に向ける嫌悪の感情は、その自身の記憶が源泉だった。

「その人が聞いて心地良いだけの言葉をもっともらしく伝えて、たくさんの人を騙してきた。」

記憶の中の彩子は。

「罪の意識なんて、全く持っていなかった。」

そして、愚かだった。

「私は、最低だ。」

彩子は両手で顔を覆う。

涙を流す資格すら、私は持っていない。

私の両親は、とある新興宗教の開祖だった。同時に管理者であり、運営の中心人物でもあった。

その宗教団体の本部は、今、私が住んでいる街から遠く離れた場所にある。この街で入信者は見かけない。だから私はこの街に越してきたのだ。

両親が新興宗教を興したのは、私が生まれる前だった。

私は生まれた時から、その宗教団体が身近にあった。共にあることが当たり前だった。その環境に何の疑問も持っていなかった。

両親の運営する宗教団体は巨大だった。

インターネットで新興宗教を検索しても探すのに手間がかかるような地方の一団体だったが、その資産だけは国家クラスと言っても過言ではなかった。

その巨額な資産のみなもとは、信者からのお布施である。

「あなたの家族に危険が迫っている」「あなたは先祖の悪行によって不幸になる」「あなたの子供は呪われている」

そうやって恐怖を煽り、不安を募らせる。

そして「しかしこれを身に付ければあなたに幸福が訪れます」と優しい言葉で籠絡し、巨額のお布施を支払わせる。

霊能や霊感、神通力等を根拠に相手に重大な不利益を与える事態が生ずる旨を示して不安を煽るなどの行為により契約を締結させる商法…。いわゆる霊感商法である。

通常であれば、この手の商法はいずれ限界が来る。何故なら、霊感を基とする霊能云々の話の大半は、嘘だからである。

事実、両親には霊能的な才覚は皆無であった。

しかし、その宗教団体は違った。

霊感。霊能。神通力。それら本来は形の無いモノに根拠を与える説得力が、二つあったのだ。

それ故に、両親の宗教団体はその勢いを維持できていた。

その理由の一つ目。

それは、宗教団体の運営者の肉親が、本物の霊能者だったことである。

本物。それは私の父の親。同時に私の祖母。…お婆ちゃんだ。

霊能者として祖母は多くの者を救っていた。結果、祖母の関係者や恩義を感じている者の多くを宗教団体に取り込めた。

祖母も両親のやり方に思う所はあっただろう。だが止めることはなかった。

親としての一人息子への甘さ。何よりも、自身の霊能者としての才覚が実の息子に引き継がれなかった事の後ろめたさも関係していたのだろう。

そして。

理由の二つ目。

それは、私の存在。

『視える』才能を持つ私が生まれた事。

両親にとっての私は祖母よりも御し易い存在であり、理想の傀儡であった。

私の霊能への才能を利用し、私を宗教団体の本尊に祭り上げた。

生まれた時からそこにあった環境もあって、私は無自覚に本心のままに何の疑問も抱く事なく、心から両親を信頼していた。

両親から言われるがままに、信者に偽りの言葉を吐き続けた。

「信じろ。捧げろ。さすれば其方は救われる。」

私は、両親の宗教団体を巨大にすることだけを目的に育てられてきた。

宗教関連の知識や、信者を増やすための戦術を教育として教え込まれた。

それらを子供としての人間関係や義務教育よりも優先させて覚えさせられてきた。

「貴女は特別な子なのよ」そう母に言われ続けてきた。

「お前は特別な人間だ」そう父親に言われ続けてきた。

比較できる身近な友達も存在せず、何の疑問も持たなかった。それどころか、それが常識だと信じ、両親に感謝すらしていた。

私の口から発せられた霊験あらたかな神言を耳にして熱狂する集団を見て、本当に人を救済しているのだとすら思っていた。

カミ無き世界でカミサマのモノマネ活動をしていたのだ。

全くそれは滑稽であり、心底、愚かな行為だった。

そんな私が15歳になった頃のある日。

石を投げられた。

それは、恥ずかしげも無く『現人神』として街頭で宗教団体の宣伝活動をしていた時だった。

一人の男性が、私の頭に石を投げ付けた。

「あんたのせいで、俺は全てを失った!」

男はそう私に叫んだ。

幸い、御神体の衣装であるフードを目深に被っていた為、怪我は軽かった。

私に石を投げたその男は、見たところ30代くらいだろうか。

額を流れる血のせいで視界は狭まり、男の姿ははっきりと見えない。妙に高身長であることだけは認識できた。

「俺だけじゃない。これが証拠だ!」

男が私に紙束を叩き付けた。

何が起こっているのか。何故この男性は怒っているのか。その認識も曖昧まままで、私は投げつけられた紙に目を通す。

そこには、両親の宗教に巻き込まれた結果、財産や信用、親しい人間を失った多くの者の不幸の顛末が記されていた。

私から流れ出た赤い血が、舞い散る紙束を染める。

私はただの人間。

たくさんの人間を不幸にしてきた、ただの人間。

そこで私は初めて、自分が本当は何者であり、何をしてきたのかを知ったのだった。

全く本当に。私は滑稽だ。そして心底、愚か者だ。

純粋に人を救う宗教は、たくさんある。

しかし金儲けを目的にした悪質なものも確かにある。

私の両親がそうだった。

病で苦しむ人に奇跡を見せてモノを買わせる。

周りの皆も協力し、平気で嘘を吐き利益を分け合う。

ねずみ商や霊感商法に似た手法で信者と資金を増やす。

両親は救済など求めていなかった。

ただただ、利益を求めて。…金のためだった。

娘を現人神と祀り上げ、お布施を差し出させる両親。

私というシンボルを利用して幸せになれるという命題で操作される信者。

「私がこの狂った集団を作ってしまったんだ。」

私は、私自身が、嫌になった。

そのまま5年が経過する。

精神的に磨耗した私は、食事も取れなくなり入院。命の危険すらあったという。

その事態に、祖母が動いた。

両親を説得し、私を宗教団体から逃してくれた。

その説得には長い時間を要し、父と母から激しく罵られたともいう。

そんな中でも、「あんたは悪くない」。祖母はそう私に言い続けてくれた。

祖母のおかげで、私は両親の宗教団体が活動する土地から離れることができた。

お婆ちゃんには、本当に感謝している。

知り合いもおらず、知らない土地に越してきた私には、何もなかった。

他人との関わり方も解らなかった。

詰め込まれてきた知識も全く役に立たない。

それでもなんとか今の会社に就職できた。

しかし、私は『普通』ではなかった。まともに関わることができたのは、言葉も交わせぬ幽霊の人たちだけだった。

そんな私にとって、葵ちゃんは、初めての友達だった。

祖母から電話があったのは、葛籠刑事達が本部に戻ってから数日後だった。

「久しぶりだね、お婆ちゃん!」

過去、私を救ってくれたお婆ちゃんには本当に感謝している。声を聞けるだけでの嬉しい。

「彩子。あんたの周囲に危険が迫っている事は、婆ちゃんも知っている。」

祖母は早速、私に要件を伝える。

その霊感からか、祖母は私の置かれた状況を察していたようだった。珍しいことではない。

祖母の声を聞いているだけで心強さを感じる。すぐそこに実際に祖母がいるような…、言霊というやつなのだろうか。

「あれは、あんたの手に負えるモノじゃない。それどころか人間にどうにかできるモノでもないかもしれない。」

「…えっ?」

「葛籠が謝っていたよ。孫を巻き込んで申し訳なかったってね。話を聞くに警察での介入は難しいだろう。すぐには動けない。」

葛籠も同じような事を言っていた。

「お婆ちゃんは、この街で起こっていることの正体を知っているんだね。」

「…ああ。よく知ってるよ。昔からね。それでもここまで活動が活発になったのは、5年程前からだがね。」

「そう、なんだ。」

「奴は太古の昔から存在していた。それこそ、あたしが生まれるずっと前からね。」

この街に巣食っている奴は、それほどの存在なのか。

電話を掴む手が震える。

「彩子。あんたの事は心配だが…あたしはすぐにはその街にはいけそうにない。」

解っている。祖母は忙しい。

「あたしが行くまで、危険だからあんたは何もしちゃいけないからね。」

祖母は、いつだって、誰かの為に、社会の為に、多くの人間の為に、体を張っている。

だから、すぐに来れなくても仕方ない。

心細い。

けれど、耐えなければならない。

しかし、彩子の緊張が、電話口を通じて祖母に伝わったのだろうか。

祖母は言葉を続ける。

「さっき、あんたに『お守り』を送った。じきに彩子の手元に届くだろう。」

「お守り?」

「ああ。とある『刃』の欠片だよ。それがあんたを守ってくれる。肌身離さず身につけておくんだよ。必ずね!」

その祖母の言葉は、強要…というか、まるで彩子に使命を課すかのような強制力があった。

「彩子。」

「うん。」

「あんたは私が守護まもる。絶対にね。」

[エピローグ]

川島葵が入院する市民病院の一室。

彼女はベッドに力無く身を預けていた。

食欲は消え失せ、液体すらも喉が拒絶する。

腕の血管に刺さる点滴が無ければ、一切の栄養を取れていない状態であった。

窓の外に目を向けるその瞳も視線は定まらず、秋風に揺れる樹々をぼんやりと視界に入れているだけ。しかし、その唇は僅かに揺れていた。

その呟きは、窓の外で鳴る風の音にすら消されそうな、小さなものだった。

誰に聴かせるでもない。

誰かに聞いて欲しいわけでもない。

「…私は悪い事をした。」

幼い頃から溜め込み続けた、誰にも語れない、老人への罪悪感。

「…あの時は仕方無かった。」

自責の念は確かにあった。しかし周りの空気に真実を言い出せなかった。

「…嫌われちゃいけない。」

それからもずっと、慎重に周りの空気を読みながら、他者から嫌われてはならないという強迫観念。

「…逃げることなんてできなかった。」

忘れよう、無視しようと考えても、自身の心に荊棘のように絡みつき、僅かなきっかけで苦い記憶と自身への嫌悪感が呼び起こされる。

それは葵にとって、まさしく呪いだった。

「…特別には、なれない。」

その苦痛から自分を誤魔化すために、街の怪異に立ち向かい、彩子のような『特別』になりたかったという願望。

だが、結局それも上手くいかず、他人に迷惑をかけてしまった。

「…でも、もう、どうでもいい。」

思考も判断力も曖昧なまま。

葵は、そう自分に言い聞かせていた。

これ以上、もう苦しみたくない。

これ以上、もう考えたくない。

もう、どうでもいい。このまま自分がいなくなったって構わない。

葵は、今の曖昧なままの、考え悩む事を放棄した自分を受け入れていた。

その時。

コツコツと廊下を歩く何者かの足音が聞こえた。

堅い革靴の底から鳴るその音は、病院の看護師のシューズの音とは全く違う。

病院の関係者ではない何者かが、葵の病室に近づいてきているのだ。

ゆっくりと病室の扉が開く。

その瞬間。いつか嗅いだ事のある…甘い香りがした。

扉の向こう側から香るその匂いに反応し、葵が病室に入り口に目を向ける。

漆黒のスーツを着た壮年の男がそこにいた。

色白の肌に緑のメッシュが入ったオールバックが特徴的だった。

「怪しい者じゃないよ。この病院には『知り合い』が多いんだ。快く君の部屋を教えてくれたよ。」

あなたは誰。私に何か用があるの?

葵がそう口にしたわけではない。

しかし男は、葵の疑問を最初から解っていたかのように、答えを口にする。

「私は、君を『救い』に来たんだ。」

男の年齢は、見た目、30歳半ば辺りだろうか。しかし、その口調は老練しており、外見通りではない事を感じさせる。

そして、葵が知る由もない事だが…その高身長なシルエットは、あの噂の幽霊ビルの屋上で、神懸彩子が遭遇した人物と、よく似ていた。

男性は葵の反応に構う事なく言葉を続ける。

「君は、呪われている。」

呪い。

その言葉に、葵の背筋がびくりとする。

「君だけでない。この街は、呪われている。」

…呪われた、街。

「川島葵。24歳。」

名を知られていた。

「両親は街から引っ越しており一人暮らし。今の会社に入社して3年目。…OL。」

プロフィールを知られていた。

「君のことならなんでも知っているよ。」

なんで?

「私は、君の事を気にいっている。」

私を?

「だから私は君を『呪い』から救済に来た。」

救済。呪いからの、救い…。

「君は今、悩むことから解放され、苦しみから救われていると思い込んでいるのだろう。しかしそれは違う。それは君にとっての幸福ではない。そんなことでは君は救われない。」

あなたはなんでそれを知っているの?

その疑問を言葉にする前に、それは葵を包む甘い香りに塗り潰された。

「君の心を追い詰めたものは、この街だ。いや。この街だけではない。人間。他人。社会。…際限の無い個人の欲に塗れ、形の無い空気に支配されている世界そのものだ。」

地位も名誉も権力も財産も。我々が欲望を向けているものの多くは、実は自分にはどうにもできないものばかりだ。確かに努力すれば手に入ることもあるかもしれない。しかしそこには必ず俗な人間の意思や意向、運が絡みつく。誰かを羨ましく思っても自身の裁量ではどうにもならないものばかりだ。

にもかかわらず、他人の成功や繁栄を見て羨望の念を抱き不必要な競争に駆り立てられ、結果として自分が苦しむ。それは間違いなく愚かなことだ。

男性はそう語る。

「その呪いから人間は容易には逃れられない。」

言葉にせずとも、男の思考が甘い香りと共に葵の脳裏に入り込む。

「私は、その呪いから君を救いに来たんだ。君が見たことのない世界を君に見せよう。私が君の居場所を創ろう。そこで君は、真の解放と救済を得る。」

既存の社会を超越した管理と支配。そして万物に訪れる終焉を司るおうへの帰還こそ、真の救済。

「死と支配。それこそが、『死皇』の意思。」

葵の唇が、動く。

はっきりと、言葉を口にする。

「…あなたは、誰?」と。

葵の言葉に、男は応える。

「私の名は、枢樹蘭堂くるるぎらんどう。『死皇』祀ろう天祓禍神教。その指導者だ。」


第六話に続く

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