表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡骸群落  作者: yuki
4/11

亡骸群落~第四話:噂の幽霊ビル~

この街には、数年前から一つの噂があった。

『幽霊ビル』の噂である。

その噂を川島葵が始めて耳にしたのは、今から1ヶ月前だった。

タイミングとしては、例の心霊写真に関する出来事に一段落(?)がついた頃に一致する。

それは偶然ではなく、川島葵自身が『街の怪現象』に興味を持ち始め、情報収集のアンテナを張っていたからこそ耳に入ってきたのだろう。

幽霊ビルの噂とは…。

街の外れにある旧商店街。既にシャッター通りと化してしまったその地域には、もう開いている店舗はほとんどなく、周囲には数軒の住宅地と畑などの耕地のみであり、人気ひとけも少ない。

そんな街外れに建てられた一軒の5階建てビル。それが噂の舞台であった。

以前は商店街の人気ショッピングセンターとしてブランド衣類店などの様々なテナント店舗が入っていたが、商店街の衰退とともに店舗は撤退。

そして、現在は取り壊し予定となったそのビル。

そのビルに…『出る』という噂があるのだ。

曰く、そのビルの中には真っ黒な幽霊が現れる。しかも、目撃する人によって男性の幽霊だったり女性の幽霊だったり…獣の形をしている事もあったりと、違う姿で現れるらしい。

曰く、そのビルの屋上で妙な黒い格好をした集団を見たという噂があり、更にそいつらは奇妙で怪しい儀式をしていたとう。

そして。

曰く。そのビルに面白半分で侵入した人間は…、失踪したらしい。

…『失踪』。

川島葵が幽霊ビルの噂に興味を持ち始めたのは、その失踪という言葉が原因でもあった。

「あ!、その鞄ずっと欲しがっていたやつだよね。手に入れたんだ。」

「うん。人気でもう無理かと思ってたんだけどね、運が良かったよ。」

川島葵と神懸彩子が務める職場の屋上。

終わる気配のない残暑がやっと終わり、寒さの到来を感じさせ始める秋の中頃。

少し厚めの上着を羽織っていれば屋外での食事には丁度良い時期だった。

「前に彩子に教えた例のアプリ…『MutualAid』を使って手に入れたんだよ。」

「あのアプリ、そんなことができるんだ…。」

「うん。自分が欲しいものを設定すれば、誰かがそれを安値で譲ってくれる…フリマアプリみたいなやつなのかな、これ。」 

「ふぅん」デジタル機器が苦手な彩子はあまりこの話題に興味がないようだった。

葵も、この手の個人情報登録が必要なものは好きではなかったのだが。…同僚に勧められては断れなかったのだった。

さて、と。

葵は本題に入る。屋上には彩子と葵の二人だけであり、怪しい話をするには都合が良かった。

「彩子、聞いて欲しい事があるんだ。」

「なぁに、葵ちゃん。」

「幽霊ビルの噂って知ってる?」

早速、葵は彩子に要件を伝える。

「うん。聞いたことがあるよ。それがどうしたの?」

「私、そのビルが、怪しいと思うんだ。」

「怪しいって…。どういうこと?」

と無難に答える彩子であったが、葵の言いたいことをなんとなく察してはいた。

「うん。その噂によれば…、そのビルでは『人が消える』んだって。」

「で、まさか葵ちゃん、そのビルを探索したいなんて言うんじゃないよね?」

「その通り! あの事故物件と一緒なんだよ。怪しいと思わない?」

…やっぱりか。彩子の予感は当たった。

数ヶ月前。葵と彩子は一枚の心霊写真をきっかけに、とある事故物件と関わりを持った。

そしてその時、葛籠と名乗るサングラスの男性が言っていた言葉、『この街の失踪者の人数は異常である』。その言葉を聞いて以来、葵が怪現象に興味を抱き続けている事を、それからの葵の言動を見て少なからず予想はしていた。察してはいた。

…そういえば、あの時、葛籠と名乗る男性が、私に見覚えがあると言っていた。あの時は覚えが無かったが、今思うと、私もあの男性に見覚えがあるように感じている。子供の頃にでもあったことがあるのかもしれない。

…いや、今はそんなことはどうでもいい。まずは目の前の葵ちゃんの行動をやめさせなきゃ。

「葵ちゃん。私、前も言ったよね。その件は危険だから、近づいたらダメだって。」

例の事故物件に関する事案に関われば、命の危険すらあるかもしれない。

その危険を、彩子は事故物件の地下室で直接肌で感じていた。

「ねぇ葵ちゃん。例えば大きな建築物に危険な霊が取り憑いちゃう時って、どんな場合か知ってる?」

葵の行動を止めるきっかけになればいいと思い、彩子は、いわゆる、一般的に『出やすい』場所についての説明を始める。

「ううん。知らない」と葵が首を振る。

「大勢の人達の思い出が集まりやすい場所って、幽霊が集まりやすいんだ。集まるっていうか、その場所に住んじゃうイメージかな。でね、思い出は良いものも、悪いものもある。そんな思い出が何度も思い出されるたびに、悪い思い出が負の感情となって吹き溜まる。それが積み重なっちゃうと、ちょっと良くない幽霊…他者に害を与えたちゃうような幽霊、地縛霊とかに呼ばれるものになっちゃうの。」

「…地縛霊。聞いたことがあるよ。」

「そういう人たちは、…祓わなければならない。あの幽霊ビルにいる人たちも、そういうものかもしれないんだよ。とても危険なの。わかる?」

「でも…。街の為にも放ってはおけないよ。彩子もそう思わないの?」

…確かに、放ってはおけない。しかし、葵を危険に晒すような選択をするわけにはいかない。

「絶対に、だめ」と彩子は葵に念を押す。

しかし、葵も食い下がる。

「私、そのビルについてちょっと調べてみたんだ。聞いてよ。」

「…なぁに。」

「その噂のビル、解体の予定があるんだけどね。」

…解体予定があるのはいいことだ。物理的に建物がなくなれば葵ちゃんも探索にしようもない。

そう彩子は思ったが、続く葵の「でもその解体工事も、何か事情があって滞っているんだって」の言葉にがっかりする。

「でね、ここからが本題。私が調べたところによれば、その工事を管理しているのが…」葵が説明を続ける。

「あの『マガトキ不動産』なんだよ。」

「え?」と彩子もその説明に素直に驚く。

『マガトキ不動産』。それは例の事故物件の管理会社だ。

失踪事件にもなんらかの形で関わっている。葛篭と名乗る男性もそう言っていた。

「あの事故物件と同じく、そのビルも絶対に街の失踪事件に関係しているはずでしょ。怪しいと思わない?」

…確かに怪しい。しかし、だからこそ、なおのこと危険だ。

「あの不動産会社が関係しているなら、もっと危険だよね。それはわかるでしょ?」

「う、うん。そうだけど…。」

「何度でも言うよ。絶対に、葵ちゃんは関わっちゃ駄目。」

そう強く言い放つ彩子。しかし葵の表情を見れば解る。葵のその表情に諦める態度は全く見えない。

何故、葵が街の怪現象に対して、危険だと解っていても、ここまで興味(?)、情熱(?)を抱き続けるのか。その理由はなんなのか。

この時の彩子には、葵のその『理由』を知る由もない。

だから、葵の行動を説得で止められるものと思っていた。

「例の事故物件に関係しているとしたら…。命に関わるかもしれない。それほど、あの地下室に巣食っていたモノは得体が知れないんだよ!」

「ねぇ、彩子。…あの地下室にいたモノって、なんだったの?」

「んん…」その疑問に彩子は息を呑む。

例の地下室で感じた恐怖は、彩子自身も思い出すことを憚られるモノだった。しかし、葵を止める為には話さなければならないようだ。

「…うん。あのね、私があそこで視たのは…。」

彩子があの時、あのアパートで眼にした最初の異常。それはあの猫だった。

子猫の亡骸。黒い靄に包まれていた小さな亡骸。

その子猫の遺体の下半身は…彩子が目にした時にはもう…猫ではないモノに変貌していた。

カサカサとした、しかし何とか猫の下半身の形を保っていたソレは…出来損ないの木彫り人形のようだった。

「その変貌した猫の半分は、もうこの世のものでは無くなっていた。そこから出してはいけない。そう思った私は…。」

彩子は、その場で猫の半分を自分の手で、千切って、その場に置いてきたのだと言う。

だから、猫は上半身しか無かったのか。

しかし…。猫の亡骸を自分の手で半分にした。その感触を想像して葵は顔を顰める。

「…それは…辛かったね…。」

「うん…。」

その後、彩子は猫の亡骸を上着で包み抱き、階段を下に進む。この先にあるナニカを見極めなければならないと思ったからだ。

階段を降りきり、地下室の中を眼にした時。

ソレはソコにいた。

地下室いっぱいに…ライトの光も通さない程に…。

部屋の中は黒い靄で充満していた。

それは、まさしく、蠢く闇。そのものだった。

唖然とする彩子の目前で、その黒い靄が更に密集する。

部屋の中央で、空中を舞い散る塵をぎゅうぎゅうに集めて塊にするように、黒い闇が集合していく。

そして、その形は…。

彩子に見覚えのあるモノに変化していった。

そのモノの形を見て、彩子は息を飲んだ。

…何で、ここにいるの?

その姿は…、彩子の両親の形をしていた。

シルエットだけでもそれが解る程、鮮明に、はっきりと、記憶の通りの、彩子の両親の姿をしていた。

あり得ない。

「あの地下室に父と母がいるわけない。関係しているはずもない。」

その時の彩子の顔は、今まで葵が見た事もない程、無表情だった。

「さっき、地縛霊の話をしたよね。あの人達は、いろいろな理由でその場所に囚われてしまった悲しい人達なの。」

「うん」さっき教えてもらった『出やすい場所』の話だ。

「でも、あの地下室にいたアレは違った。アレは、あの黒い靄は、人間を傷付ける為だけに存在しているナニカだった。」

「なんなのよ、それ…。」

「わからない。でも、葵ちゃん。好き好んで人間の心を弄ぶ存在を何て呼ぶか知ってる?」

その質問に、葵は首を振る。

「『邪悪』。…あのナニカは、とても邪悪で危険な存在なんだよ。」

邪悪なナニカ。危険なナニカ。

それが、あの地下室に関係することに私を近付けたくない理由…。

しかし、ふとそれと同時に、彩子の心にそれほどの衝撃を与えた両親の存在も気になった。

彩子の過去。両親と何が合ったのか。家を離れて一人で暮らしていることとも、何か関係があるのだろうか?

何か、辛いことがあったのだろう。

…過去、か。

それをきっかけに、葵の脳裏にも、自分自身の辛い記憶がフラッシュバックする。

夏の公園。

泣き叫ぶ犬。

涙を流す老人。

…そうだった。私は…。

変わりたいんだ。

「私は、彩子みたいに『視える』才能も無いし特別でもない。でも、街の為に、人の為に、できることはしたいの!」

それは葵自身の偽れざる本心ではあった。

しかし、その葵の言葉…霊が『視える』事を『才能』や『特別』と一括りに言われる事に対して、彩子の表情が曇る。

「好きで視えているんじゃないよ…」と彩子は小声で呟く。

「え、何か言った?」彩子の呟きは葵に耳には聞こえなかったようだった。

「ともかく!、私は協力しないよ。葵ちゃんを危険に晒せないから!」

珍しく彩子は葵に対して声を荒たげる。それで怪異についての彩子と葵の会話は終わった。

会社の帰り道。昼間と異なり夜の秋風が体に染みる。

…彩子にあれほど強く拒否されるとは。

彩子も街の怪異をこのまま放っておこうと考えてはいないだろう。危険な事も理解している。

だが、私だって彩子ばかりを危険な目に遭わせたくない。

彩子の協力が得れれば怪異の探索も円滑に進められると思い、声を掛けたのだが…。

見通しは甘かった。

暗い道を独り歩く川島葵は、溜め息を吐く。

「過去、かぁ…。」

…そうだ。あの日もこんな秋の夜だった。

葵の脳裏に、とある過去の記憶が蘇る。

葵が小学生の頃である。

街に、子供から『ケン爺さん』と呼ばれる老人がいた。

「おい、またケン爺が道を掃いてるぜ」「話しかけられないように近づくなよー」「葵ちゃんも早く逃げよー」

同級生の遊び友達は、ケン爺さんを変人と決めつけ、あからさまに悪口をくちにする。

私自身はこの老人を嫌いではない。しかし、同じ学校の友達とは話を合わせないわけにはいかない。だからいつも曖昧な態度でその場をやり過ごしていた。

何故、この老人は『ケン爺さん』と呼ばれているのか。そこに大した理由はないと思う。おそらく老人の本名から付けられた渾名なのだろう。

若い頃の仕事は知らない。だが厳つい体格をしており、体を動かす仕事をしていたのは想像できた。口数は少なく、むしろ無口と言ってもいい。しかし子供を怒るようなことはない、穏やかな老人である。

そんな老人は、子供にとって格好のからかい相手であった。

老人の住まいが何処にあるのかも解らず、家族も見たことがない。ホームレスに近い生活だったのかもしれない。しかし、いつも箒等の掃除道具を持ち歩き、街の公園や神社等をまめに掃除してくれている。

そんな偏屈な老人ではあったが、ケン爺さんは私には優しかった。

私が一人でいる時は、いつも微笑んで挨拶をしてくれた。

私が学校で嫌な思いをした時も、話を聞いてくれた。

しかし、他の同級生がいるときは、絶対に話しかけてはこなかった。それも私に対しての配慮だったのだろう。

老人自身も、自分が社会から変わり者と見られている事は十分に理解しており、私に迷惑をかけてはならないと気を付けてくれていたのだ。むしろ聡明とも言える。

そんな老人を、私は嫌いではなかった。公園や神社を、毎日欠かさずきちんと掃き清めてくれていたし、池のゴミをすくったり、壊れかかっていた公共物を直してくれていることも私は知っている。

むしろ、人が嫌がる仕事を黙々と進んでこなす、自分に厳しく真面目な人だと、感心すらしていた。

いつの日かは忘れたが、口数の少ない老人が私にだけ教えてくれたことがある。

「自分はな、ずーっと前にな、子供に非道いことをしてしまったんだ。今でも忘れられない。だから、この街の子供の元気な姿を見ると嬉しいんだよ。」

うろ覚えだが、そんなことを言っていたのだと思う。

そんなケン爺さんを、私は嫌いにはなれなかった。

しかし、両親は私とその老人が話すことを嫌がった。

私の親だけでない。得体の知れない老人に対しての街の大人達の対応は冷たかった。

いつの頃からか大人たちは老人を陰で『ゼンカモノ』『ハンザイシャ』と呼び始め、自分たちの子供を近寄らせなくしていった。

それだけではない。

誰もがその老人に余所余所しく、地域の輪に入れることもなく、街の集会にも呼ばず、話すことすらも避ける。公共の場を掃除していても感謝の言葉すらかけず無視をする。

ゼンカモノ。

その意味を当時の私は知らなかった。

しかし、ハンザイシャ。

この言葉の意味するところは少しは理解できた。

それでも、私にとってのケン爺は、優しく真面目な人物だった。

少なくとも、その老人は、私の前では悪いことなど一切していない。

だが、時が経つにつれて、大人の姿を真似て、子供たちも老人の目の前で遠慮なく悪口を言うようになっていった。むしろ、子供の方が残虐だったとも言える。

いつの間にか、老人を迫害する空気が、街の住民に浸透していったのだった。

そして、その空気は私自身にも影響を与えていった。

みんながそこまで敬遠している人物と親しくすることに、私自身も抵抗感を感じ始めてしまったのだ。

きっかけなんて、何もない。

ただみんながそう言っているから。

いわゆる、感化。空気に染まっていった。

そんな理由で、私も老人から距離を置き始めた。

学校の帰り道。老人がいそうな場所を避ける。

図らずも顔を合わしてしまったら、急いで顔を逸らす。

哀しそうな、寂しそうな、しかしどこか諦め切ったようなその老人の目を、できるだけ見ないようにしながら。

そんな私の態度がきっかけになったのかはわからないが、老人は犬を飼い始めた。

近所に住み着いた野良犬を拾ってきたのだろう。

自宅では飼えないのか、公園で餌をやり、そこで世話をするようになった。

それは飼っている、というより行き場の無い犬と公園で共に暮らしている。そんな感じだった。

血統の良い犬ではなかったのだろう。気性は荒くすぐ吠える。顔は醜くいつも涎を垂らしている、可愛げの無い犬だった。

それでも老人は犬を可愛がった。丹念に撫でてやり、手入れをして、常に話しかけていた。

しかし当然、公園で不法に犬を飼っている事を町内会や役場の人間は許さない。保健所に連れて行くべきだ。そう街の人間は主張した。

だが、どんなに周囲の人間が文句を言ってきても、その老人にしては珍しく、頑として犬を引き渡さなかった。

寂しかったのだろう。

たとえ醜く獰猛であっても、自分に懐いていた犬の存在が老人にとってどれほど心の慰めだったか。

確かに、その犬も老人が近くにいる時は唸り声ひとつ挙げることもなく、おとなしかった。

その姿に街の人間も一旦は納得し、その鉾を収めたのだった。

…しかし、それから数日後。

悲劇は起きた。

学校帰り。私が男女数人のグループで下校していた時だ。

「なぁ、ケン爺のバカ犬をからかいに行こうぜ」男子の一人がそう言い出した。

他の子供達も「いいね」「やろうぜ」「私も行く」と同意する。

そのグループにいた私も…当然、断れなかった。

それが悲劇の始まりだった。

公園に繋がれた老人の犬を、子供達は集団で棒切れを使って、ちょっかいを出したのだ。

老人は不在だった。その行為を止めるものは誰もいない。

枝の先で突かれるたびに、犬は嫌な顔をして涎を撒き散らす。

それが面白くて、子供達は変わるがわるに犬を小突き回した。

私も棒切れを渡された。断れなかった。犬を虐げる空気を拒絶できなかった。

グループの空気には逆らえない。このグループ内で、私の教室で、小学校で孤立することは、当時の私のとっては世界の終わりと同一なのだ。

そして。

私の棒切れが犬の顔に触れた時。

悲劇は起こった。

「っ痛!!」

突然、右足に痛みが襲いかかってきた。

私の右足に、犬が噛み付いたのだ。

犬にとっては邪魔な子供を威嚇したに過ぎないかも知れない。

しかし子供にとっては犬の牙は凶器そのものであった。

後で知ったことだが、傷はそれほど深くはなかった。思い返してみれば、痛みもそれほどではなかったと思う。しかし、突然の出来事と噛み傷からの出血に、小学生だった私は突発的に悲鳴を挙げてしまった。

その声に反応して駆けつける大人達。

唸り声を上げ続ける獰猛(に見える)犬。

飛び散った私の血液。

サイレンを鳴らして近づく救急車。

全てが悪い方向に転んでいった。

救急車で病院に運ばれ、治療を受ける私。

幸いにして大した傷ではなく、傷痕も残らない程度の裂傷だった。

母親に連れられ、私は病院を後にして家路につく。

夕方になり、空が赤く染まる中。病院からの帰り道。

私は犬が飼われていた公園を通りかかった。

そこからの光景は、今も忘れられない。

老人と犬。そして大勢の大人達が公園に集まってた。

町内会や役場の人間が、一人と一匹を囲んでいる。

「あんたの犬のせいで街の子供が怪我をした」「また同じことが起きたらどうする」「そんな危険な犬は早く保健所に引き取ってもらえ」等と、ここぞとばかりに、大人達は老人を責め立てている。

街の大人たちから見れば、老人が勝手に飼っていた獰猛な犬が幼い子供を襲ったことになっている。

しかし真実は違う。子供達が、私が、犬にちょっかいを出して怒らせたのだ。

だが、もとより老人の存在を疎んでいた大人達にはそんな理屈は通じない。大人達にとって、老人は悪人なのだ。ゼンカモノのハンザイシャなのだ。

「どう責任を取るんだ!」と、大人の一人がそう口にした時。

突然、老人はかがみ込み、地面に落ちていた棒切れを手にした。

その老人の行動に周囲の大人達は何事かとびくりと身をすくめる。

しかし老人は、そんな大人達に目を向ける事なく、犬の近くに歩み寄り…。

棒切れを振り下ろし…愛犬を、撲殺した。

寸前まで、犬は老人を甘えるように見つめていた。信じ切っていた筈だった。

そんな犬を、老人は怖いくらいの無表情で、殴り殺した。

何度も何度も棒切れを叩きつけ、飛び散る返り血で老人の服は真っ赤に染まっていく。

そして、犬が事切れたことを確認した老人は。

紅く濡れたその拳を握りしめたまま。

周囲の大人達を睨みつけた。

「これでいいか。」

広がる血溜まりに横たわる犬の亡骸を凝視しながら、老人がポツリと漏らす。

その姿に気押された大人達は、一人、そしてまた一人と、その場から去っていった。

公園に残されたのは。

老人と犬の亡骸だけになった。

その光景を見て母親は顔をしかめて足早にその場を去ろうとしていた。

だけれど私は、老人から目を離せなかった。

周囲の人間が去った後も、老人は自らが殺した犬の亡骸をじっと見つめている。

唇を固く噛み締めて。

そして。

不意にその口から嗚咽が漏れた。

肩も震えている。

老人は、泣いていた。

口を真一文字に閉じまま。瞼をじっと閉じたまま。黙ったまま。

一見、泣いているかもわからないような、静かな嗚咽だった。

だがやがて、感情が決壊したかのように、その嗚咽が号泣に変わっていった。

夕日の赤色が老人と犬の亡骸を染め上げる中。

老人は、声を上げ、身体を震わせ、全身で泣いていた。

私は、恥も外見のなく大人が号泣する姿を、初めて目にした。

その悲痛な姿に、私はかける言葉が見つからない。

本当は言うべきはずの言葉が、出てこない。

ふと、老人が私の姿に気付いた。何かを言おうとしていた。

しかし私は、逃げるようにその場を立ち去った。

その後。

その老人を目にした者はいない。

多分、この街から去っていったのだろう。

あの老人は、社会に尽くしていた。

まるで修験者のように、自らを罰するように、街の為に働いていた。

だが、誰からも相手にされず、誰からも無視され、誰も感謝すらされなかった。

そして、社会から憎まれ、社会から侮辱され、社会から追放されていった。

あの老人がどこへいったのか。誰も知らない。誰も興味はない。

そんな老人に対して、同情する人間は誰もいなかった。

いつしか誰もが老人の存在を忘れ、どうでもいい過去になっていった。

その原因は…。

私なのだ。

あの老人は、何も悪くなかった。それどころか、大切な家族ともいえる存在を自分で撲殺したのだ。

犬に噛まれたことなど悲劇などでは全くない。私は悲劇の主人公ではない。

真の悲劇の主人公は、自分自身で犬を撲殺せざるを得なく、そして街から追放されたあの老人なのだ。

私が、老人の味方でいれば良かったのかも知れない。

私が、犬への虐めをやめさせれば良かったのかも知れない。

私が、老人は悪くないと声高々に言っていれば良かったのかもしれない。

私が全部悪いんです。そう言えていれば良かったのかもしれない。

しかし、それは不可能だった。

空気がそれを許さなかった。

今更、「老人は悪くなかった」なんて言えなかった。それを口にした事はあったが「お前は悪くない」「悪いのはあの老人だ」そんな空気に黙殺された。

全部、あの時の空気が悪いのだ。

あぁ、これからも私は、この空気に合わせて生きていくしかなのだろう。

もしかしたら、みんな解っていたのかもしれない。老人だけが悪いのではないと。

「私も悪かった」「俺も悪かった」「みんな悪かった」「みんなのせいだ」

だから。

「誰も悪くない」

それがあの時の空気だった。

その空気に抗う選択肢は無かった。

今思えば、それはどこにでもある、極めて一般的な空気だったのだろう。

だが、そんなことは老人にとってはどうでもいいことだろう。

あの老人を追い詰めたのは、私なのだ。

あの老人は、きっと私を恨んでいる。

…違う。私のせいじゃない。

私は周りに、空気に合わせただけ。

私は悪くない。

あの老人が街の人間の言うことを早く聞いていれば良かったのだ。

空気を読まなかったあの老人が悪いのだ。

私は、あの老人みたいにはならない。なりたくない。

決して集団から迫害されないような、誰からも好かれる人物になろう。

そう思うことでしか、私は私自身の精神を守る方法がなかった。

川島葵は、そうやって自分自身を守り続けてきたのだ。

しかし。

同時にその罪悪感を葵は抱えたまま生きている。

葵は、老人に謝る永久に機会を失った。「ごめんなさい」。その一言が言えなかった。

自身の罪悪感を払拭する手段を持たないまま、葵は今まで生きてきた。

罪悪感に蓋をして生きていくしかなくなった。

「嫌われてはいけない」「他人に尽くさなければならない」

葵のその強迫観念は、実は罪悪感から生じたものであることを葵自身も理解はしている。

だが同時に、長くその感情に蓋をしてきたため、その感情から逃れる術を持たない。

承認欲求に支配された日常の日々を送ることで、自分の本心を自分自身で誤魔化し続けるしかなかったのだ。

そんな毎日の中。葵は彩子に出会った。

街の怪異に立ち向かう。そして、彩子のような『特別』に存在になりたい。

それは、葵にとって日常からの脱却願望の足掻きであり、社会や人の為に何かをすることは、老人への罪滅ぼしの感情が深く結びついていた。

「なんで昔のことを思い出したんだろう…。」

一人ぼんやりと夜道を歩いていた葵がぼそりと呟く。

ふと、周囲を見渡すと、小さな公園が目に入る。それは、記憶の中の、あの公園だった。

…あぁ、大人になって改めて見ると、この公園ってこんなに小さかったんだ。

一人の老人と犬の亡骸。記憶の底に閉じ込めておきたいけど逃れることもできない過去。その過去に葵は今も囚われている。

「…まるで呪いだよ。」

呪い、か。

そう言えば、例の幽霊ビルに入った者は呪われるという噂もあった。葵の背筋に怖気が奔る。

情けないけれども、私一人で噂の幽霊ビルに行くのは…怖い。

協力者は必要だ。しかし、彩子は協力してはくれない。

怪異の探索に誘えるような人脈もない。

…諦めるしかないのかな。

そう思って、ふと公園に目を向けた時。

一人の男性がベンチに座っている姿が目に入った。

「あっ!」その男性の姿を見て驚く葵。

一瞬、公園のベンチに座る男性が、あの老人…『ケン爺』に見えたのだ。

しかしよく見れば違う。もっと若い男性だ。

薄手のビジネスコートを着込んだその男性は、夜の公園の街頭に照らされながら地面を見つめている。

あの老人ではない。しかし葵はその男性に見え覚えがあった。

その男性は…、先日、事故物件を案内してくれた『マガトキ不動産』の社員…上川だった。

上川は、この街の失踪事件について何かしらの情報を持っている可能性が高い人物だ。

しかし駅前にあった『マガトキ不動産』は一晩で撤去してしまい、当然、そこの社員であった上川の行方を葵が知る手段は無かったのだが…。

…まさか、このタイミングで再会するとは。

この機会を、葵はチャンスと捉える。

「上川さん、ですよね?」

ベンチで項垂れる上川に声を掛ける葵。

「え?、あなたは…。」

葵の声に顔を挙げる上川。

不動産会社で見た時の上川は()り手のビジネスマンに見えたが、今の上川は声に張りもなく、頬も痩け、生気がない。よく見れば羽織っているビジネスコートも薄汚れている。

「…あなたは、ええと、確か…お客さんの…」呼び掛けに反応した上川は葵の顔に目を向ける。

「はい。先日お邪魔した、川島です。」

「ああそうそう。思い出したよ。…そうだ、もう一人の子は一緒?」

もう一人の子とは彩子のことだろう。

「…今日は彩子はいません。私一人です。」

「そうか、残念だ。もう一度彼女に会いたかったよ。」

「あ…そうですか」この上川という男性にとっても、彩子は『特別』に映るのだろうか。葵はちょっとむっとする。

そんな葵の気持ちを察すれるはずもなく、上川は口を開く。

「あの日、あの子に怒られて…気付いたんだ。僕は、間違ったことをしていたって。謝っても謝り切れないことをしてきたって。」

堰を切ったように上川は言葉を吐き続ける。

「…上川さん。あの不動産会社は…」と葵が疑問を口にする。

「会社はクビになったよ。…というか、会社自体が消えてしまった。」

葵の質問が聞こえたか聞いていないのかは判別が付かなかったが、川上は自身の近況を語り出す。

「不動産会社に勤めていた時の事は、あまり覚えていないんだ。前の会社で失敗して、なんとかあの不動産会社に再就職できて…。認められるために一所懸命に働いたよ。でも今は上司の顔すらも思い出せない。」

この人も、この人なりに一所懸命に働いていたのだろう。しかし、結果としてそれは他者に害を与える行為であったことは皮肉である。

「何かマズイことをしている自覚はあったんだ。けど、悪いことをしていると思ってなかった。思えなかったんだよ。なんでだろう…。」

上川が一方的に語る近況の説明。それは、悔恨の独り言のようだった。

「あぁでも、会社のメンタルヘルスとかで定期的に来ていた面接官の顔は覚えている。その時に、何か…甘い匂いのするモノを嗅がされたなぁ。その臭いを嗅ぐと、何故か悩みがスッと消えていくんだ。」

…何やら物騒な事を言っている。麻薬でも嗅がされたのか?

「悪い事を悪いと感じられなくなってしまっていたんだ。罪悪感に蓋をされていた。そんな感じだった。」

罪悪感…。罪悪感に蓋をしていた。その言葉に葵はドキリとする。

「以前の会社でね、毎日の残業でおかしくなっていたんだと思う。その頃のことはよく覚えている。組織の中に身を置き、なんの反感も抱かず、ただ黙々と一緒懸命に働けるならどんなにいいことか。組織で長く働くには、自分の感情を律し、感情と現状のせめぎ合いを誤魔化しながらそれでも常に仕事に前向きでなければならない。」

それは大半のサラリーマンが抱く感覚なのだろう。葵自身にも覚えがある。

「そうやって自分を殺していくうちに、おかしくなってしまった。病んでいたんだろう。会社のお金に手を付けてしまったんだ…。正常な判断なんてできなくなっていた。魔が刺してしまったんだよ。未遂で済んだから法的処置は取られなかったけど、当然解雇された。社会的には犯罪者だ。」

突然、話が過去に飛んだ。上川は何を話そうとしているんだ?

「僕の父親も犯罪を犯してしまったらしくてね。家族を置いて消えてしまった。残された家族は苦労したよ。それで、親父みたいにはならないと誓って、会社に尽くしてきたんだけどね。おかしいよね。」

…そこまで立ち入った話を聞きたいわけではない。しかし、葵は黙って上川の言葉に耳を傾ける。

「少し前に、その親父が見つかったんだ。遠くの街でホームレスみたいな生活をしていて、病気で倒れて保護された。僕が父が再会した時はもう手遅れだったよ。父は僕の目の前で亡くなった。」

彩子が上川に言っていた『亡くなった人』とは、この人の父親だったのか。

「最後の時、少しだけ親父と話ができたけど…、満足した人生だって。そう言っていた。他にもいろいろ言ってたけど…、ふざけるなと思ったよ。あんたのせいで俺の人生はめちゃくちゃだってね。言いたかったよ。言えなかったけどね。」

一時、上川は言葉を切り、夜空を仰ぎ見る。

「それから暫くして、マガトキ不動産に就職してね。頑張ったよ。社会に評価される為に。認められる為に。親父のことを忘れるために。で、結果はこれだ。僕はまた罪を犯した。」

上川の話が再び現代に戻ってきた。

話が飛び散り気味な上川の話を整理すると…。

上川は、元来真面目な人物なのだろう。それは父親の存在が強く影響していた。

以前の会社で頑張って働いていたが、疲れ果てて失敗しクビになった。

新たに就職できたマガトキ不動産でも、真面目な上川は仕事に精を出した。

自分が『良くない事』をしていることは解ってはいたが、その…甘い香りだかなんだかに正常な判断力を奪われていた。

そこで、彩子と私に出逢った。

上川の挫折と後悔の過去。その流れを葵は頭の中でそう整理した。

上川の独白は続く。

「それで先日。君の友達の…彩子さんに親父のことを言われてね。忘れようとしていた親父の最後を思い出した。親父は、自分の人生は後悔と過ちだらけだって言ってた。家族を捨てたこと、他人を傷つけたこと、望まない罪を犯したこと…。それでもなんだかんだ、満足だって言いながら死んでいったよ。なんだそれ。ただの自己満足じゃないか。」

夜空を仰ぎ見ながら上川が立ち上がる。手に抱えていた鞄が地に落ちた。

「…自己満足。じゃあ、俺の満足ってなんだろう。そう考えた。で、考えた結果、自分の罪に向き合おうと思ったんだ。」

それが、自分のしてきた事に対して、迷って苦しんで得た上川の結論。

罪を償いたい。それが上川の結論なのだ。…でも。

「…でも、どうやって?」と葵が疑問を挟む。

その疑問に応じるように、上川は地面に落ちていた鞄から一枚の紙切れを取り出した。

「これだよ。」

取り出しだ紙切れを葵に渡す。

それは、一枚の建物の見取り図だった。

「…ビルの…見取り図ですか?」

この類いの紙面を見慣れていない葵だったが、その図面がどこかのビルであることは理解できた。

「君達と会った夜。不動産会社に大勢の人間がやってきた。きっと本社の人間だったんだろう。あっという間に社内の荷物が全て撤去されていったよ。唖然としたね。」

それには葵達も驚いた。一晩で不動産会社の支部が綺麗さっぱり無くなっていたのだから。

「あの会社が無くなった瞬間。僕とあの会社の繋がりは切れてしまった。本社に行っても門前払いさ。でもね、会社が片付けられた時、あいつら、この書類を落としていったんだ。それがこの見取り図だ。」

一体、この見取り図に何があるというのか。

「ここをよく見て欲しい。走り書きがしてあるだろう。」

上川が指差した箇所には、何やら文字が書き込んである。

『実験No.5』『優良物件:A判定』『贄の想定人数達成:成果に寄与』

『想定外に穴が肥大:制御困難』『実験中止』『近日解体予定』

意味不明な言葉の羅列であった。しかし気になる言葉も散見している。更には、地下室と思わしき位置には大きく赤丸がされていた。

「…この書き込みに、どういう意味があるんですか?」

「僕にもわからない。でも、このビルで何かが起きている。きっとそれは、僕があの不動産会社でしてきてしまった事と無関係ではないと思うんだ。あの会社の謎を解き明かし世間に公表する。それが僕の償いだと思っている。」

会社との繋がりを切られてしまった上川だが、会社がしてきたこと…失踪事件の真相を説き明かすことが、今の上川の目的であり、それが上川自身の…自分の過去との向き合い方なのだろう。

…正直、葵にとって上川は全くの他人であり、初対面に等しい。それなのに突然自分語りを始めた上川のその言動は、精神的に不安定にも見える。

しかし、葵は上川のその動機に、何というか、肯定の気持ち…共感を感じていた。

私も協力します。そう返事をしようか迷ってしまっていた時。

その見取り図に記されたビルの住所を眼にして、葵の迷いは一瞬で決着がついた。

「上川さん。私も協力します!」

そのビルの所在地。

それは、葵が探索に行こうと考えていた、あの『噂の幽霊ビル』だったのだ。

結果、葵と上川の利害は一致した。そのままその場で、幽霊ビル探索の日取りを決める。

決行は明後日の夜。

あとは…。

上川と再会し、噂の幽霊ビルの探索の日取りを決めたその夜。

葵は彩子へ電話を入れた。

上川という協力者を得た事もあり、幽霊ビルに彩子を連れていく気持ちはない。

しかし…本音では彩子と一緒に探索したかった願望はある。頼りにもしている。

だから…そう、念の為だ。念の為、彩子にだけは、自分がこれからすることを伝えておきたかった。

「上川さんに再会した。上川さんも幽霊ビルに興味を持っている。明後日の夜、幽霊ビルに行ってみる」そういった内容を、葵は電話で彩子に伝えた。

だが、案の定。「葵ちゃん、その件にはもう関わっちゃダメだって言ったよね!」と激しく探索を止める彩子。

「ねぇ、どうして解ってくれないの!」と彩子は声を荒たげる。

しかし葵も折れない。危険なのは解っている。彩子が必死で止めようとする気持ちも解らないでもない。それでも葵には諦めたく無い理由があった。

それは彩子に説明しても伝わらない理由だろう。

彩子は『特別』なのだ。私の悩みなんて理解できるはずがない。

しかしそれでも葵は、…そう、これも念の為だ。念の為、彩子にだけは、その理由を伝えてきたかった。聞いておいて欲しかった。

「彩子。話したいことがあるんだ…。」

そう言って、葵は彩子に自身の思いの丈を伝え始める。

私は、この街の空気が嫌いだ。

一人の人間が消え去ってしまっても、たくさんの人間がいなくなっても、それを誰も気にしない空気が、この街にはある。

それが私を苛つかせる。

私自身もそうだ。一時の間だったけど、親しくなった人物が失踪してしまって、気にはなっていたけど、心から心配するような感情は湧かなかった。

それは、周りの人間が誰も気にしていないから。そういう空気があったから。

…他人だけじゃない。私も、もうとっくに、この街の空気に染まっている。

それが私を苛つかせる。

子供の頃、私は悪い事をした。その相手にはもう謝る事もできない。私が弱かったからだ。勇気が無かったからだ。

でも私にはそれが『普通』だった。その『普通』の空気に抗えば、私はその『普通』の空気に潰し殺されていたろう。だから抗うことを諦めた。罪悪感から逃げ出した。それ自体が間違ってるだろうという感情すらも否定した。

もし私が、彩子みたいな『特別』な人間だったなら、逃げずに抗えたかも知れない。

私は、彩子のような『特別』になりたい。勇気を持って危険に立ち向かえるような人間になりたい。

それが、私の『理由』。

これが、私が『特別』に抱く感情。

話の最中。彩子はそれを黙って聞いていてくれた。

話が終わった後も、彩子は何も言葉をくれない。

…きっと、嫌われただろうな。

…もう、友達じゃ無くなっちゃうかな。

話すだけ話した葵は、「じゃあね」と言って電話を切った。

切られた電話の向こう側で、彩子は、葵の葛藤を飲み込もうと、黙って携帯電話を握りしめていた。

この街の中心。高層ビルが建ち並ぶビジネス街で。

濃い目の茶色いスーツを着込んだ男性が、目元のサングラスを掛け直す。

若干白髪の混じった髪をオールバックに纏めている頭に手をやり、そのまま額に移す。行き詰まった時の癖だ。

「はぁ。ここもはずれか」。

夏の日差しは陰りを見せ始め、サングラスで遮光する必要はない。しかしその男はサングラスを外すことはない。

昔からの願掛け…というかお守りみたいなものだ。

『幽霊はねぇ、目があったもんに惹きつけられるんだよ』

昔に知り合った霊能者にそう教えられ、今の『部署』で仕事をする時は必ず着用している。それは既に葛籠つづらのトレードマークのようになっていた。

…まぁ、効果のほどは良くわからんがな。

「さて、と。」

歩き出す葛籠鐡道つづらてつみち。この仕事は歩き回るのも仕事のうちなのだ。

この街で相次ぐ失踪事件。

その失踪事件に『マガトキ不動産』とやらが関わっているらしいことは、先日の『ハイツ・クイルビー』での一件でわかった。しかしそれ以上の捜査が進まないのだ。

あの時はつい調子に乗って上川とやらの社員にイキってしまったが、まさかその翌日にあの不動産会社が…支社の一つだったんだろうが…『ハイツ・クイルビー』諸共綺麗さっぱり消え去るとは思わなんだ。

後に本社を訪ねてみたが、表向きは普通の不動産会社だった。

しかも失踪事件は殺人事件と違って強制的な捜査はできない。この国で毎年受理される行方不明の捜索願はおよそ10万人。そもそも捜索願を出さないケースもある。そのうち97%が単なる家出や放浪癖ですぐ見つかるし重複も多い。つまり、事件性を帯びない場合がほとんどななのだ。

しかし、一晩で支社の一つが消え去るのは確かに異常だ。だが今のところ、街中にある関連不動産会社を一軒一軒回ってはいるが有力な情報は入ってこない。

ここらで手詰まり感を感じるのは否めない。

「この手の事案はいつもこうだ…。」

歩道沿いの自動販売機で缶コーヒーを購入し、溜息混じりに口にする。

熱く苦い液体が喉を流れる。どんな時期でも葛籠は缶のホットコーヒーしか飲まない。

出張捜査は基本的には2名で事にあたる。危険な事案なら尚更である。

今回も葛籠は相棒と共にこの街に来ているが、その相棒は別の路線から事案を追っており、今は別行動中であった。

だが葛籠も相棒も、この街の土地勘がない分、捜査が進展し辛いのが現状である。

ただでさえ、元来秘匿部門であるトクシンの捜査には、地方の警察は非協力的な傾向が強い。

せめて、この街にこういった案件に詳しい協力者がいればなぁ。

何気なく、飲み終えたスチール缶を握り込む。先程まで熱い液体が注ぎ込まれていた缶は、まだ熱を持っていた。

中に入っている液体が熱いか冷たいか。外見の金属製の缶はその特性を変える。中にあるモノが外側に影響を与える。その上、缶は頑丈で溢れづらい。

歳を取ろうと、幾つになろうとも、俺もそんな熱い刑事デカ魂を持っていたいもんだ。

…自分の信念を缶コーヒー1本で例えられるなんて、なんて安上がりな信念だろうか。葛籠は苦笑する。

「さてと。どうするかな…。」

協力者が必要だ。葛籠がそう思った矢先。

ビル街をぼんやり歩く女性を見かけた。

葛籠はその女性に見覚えがあった。

「あれは…。」

葛籠は自分の脳味噌から記憶を呼び起こす。

「もしかして…。」

先日のアパートの一件で言葉を交わしたお嬢ちゃん。

いや、それだけじゃあない。もっと以前に、あのお嬢ちゃんに会った事がある。

…あ!

思い出した!

葛籠は、そのお嬢ちゃん…神懸彩子に声を掛けた。

「やぁ、お嬢ちゃん。久しぶりだな。」

葛籠の呼び掛けに、彩子は「ひぃ!」と声を挙げる。

「え、えっと…。あ、あなたは確か葛籠さん、でしたっけ。こ、こんにちは。」

相当ボンヤリしていたようだった。何かあったのだろうか。

「あんた、もしかして、小夜さんところの彩子ちゃんじゃないか?」

「えっ! お婆ちゃんの事、知ってるんですか?」素直に驚く彩子。

神懸小夜かむかかりさよ。それは彩子の尊敬する祖母の名前だった。

「ああ。昔、仕事で世話になったんだ。その時、まだちっちゃい彩子ちゃんに会った事がある。」

「あ…。もしかして、葛籠さん…。刑事の葛籠さんですか!」

「おう。やっと思い出したか。じゃあ改めて。久しぶりだなぁ、彩子の嬢ちゃん。」

「はい。こちらこそ。忘れていてすみません」と彩子は頭を下げる。

「いやいや、それはお互い様だ。」

「そうですね、あはは」昔の知人に出会い、彩子も表情を綻ばせる。

「小夜さんは元気かい?」

「はい。相変わらず忙しいみたいで。しばらく会っていませんが、私もお手伝いしています。」

「元気なら何よりだ。彩子の嬢ちゃんは今はこの街に住んでるんだなぁ。ご両親は元気かい?」

「えっ…と。」返事を言い淀む彩子。表情が曇る。

「あっと。すまねぇ。ご両親とは…あれだったな」何事かを思い出し慌てて葛籠は謝る。

「いえいえ、いいんです。気にしないでください」と微笑む彩子。

「ところで…葛籠さんは、この街には捜査で来ているんですか?」

「ああ。アパートの一件の時にも言ったが、この街の失踪事件について『トクシン』から派遣されてきた。」

正式名称は警視庁警備局警備部特殊心霊対策室所属心霊事案担当。

通称『トクシン』。

長い名称だが、最大限簡単に言えば、『怪奇現象を捜査する部署』だ。

これでも正式な(と言っても公にされていないが)警視庁管轄である。

立ち位置としては、怪奇現象への初動捜査…心霊現象に特化した機動捜査隊のようなものだ。

葛籠が若くして刑事になった数年後。めでたく念願の警視庁捜査一課に配属されていた時。葛籠は突然『トクシン』に引き抜かれた。何か素養があったらしい。

実は、その素養とは『霊現象への耐性』。…つまり『鈍感』だということを後で知った。クソが。

そして『トクシン』に配属されて3年目。大きな事件に巻き込まれた。そこで彩子の嬢ちゃんの祖母…神懸小夜さんに出会った。同時に助けられ、今でもその恩義は忘れない。

しかし、その事件をきっかけに『トクシン』は解散の危機を迎え、葛籠も捜査一課に戻された。

そして数年前。再び『トクシン』が正式に再編成された。きっかけはわからないが、何か裏で大きな動きがあったようだ。詳細は知らない。

そして、心霊経験が豊富(たかが三年間だが)で、素養(鈍感なんだとよ)もある俺はめでたく(めでたくない)、『トクシン』に再配属されたのだった。

「あの…」と彩子の嬢ちゃん。

「刑事さんの葛籠さんに…お願いが…」何か言葉の歯切れが悪い。

そうえいば、彩子の嬢ちゃん、さっきもえらくぼんやりと…落ち込んでいたようだったな。

「何かあったのか?」葛籠は彩子に尋ねる。

「えっと…」返事を躊躇う彩子。本当に頼っていいものか、そう逡巡しているのだろう。

「そういえば、今日は、あの時にいたもう一人のお嬢ちゃんはいないのか?」

ふと気になった葛籠は、刑事の勘…というよりお節介で彩子に尋ねる。

「はい。葵ちゃんは…。」

彩子も、葛籠のそのお節介に甘える形で事情を話す。

葵ちゃんが、街外れにある幽霊ビルを探索しようとしていること。

そのビルでは、失踪事件が頻発しているという噂があること。

例の不動産会社が関係している可能性があること。

「危険だって伝えても、葵ちゃん、諦めてくれなくて…。」

葛籠も状況を理解する。

「で、葵の嬢ちゃんは、いつその幽霊ビルに行くつもりなんだ?」

「はい。明日の夜だそうです。」

「それはまずいな…。時間がない。」

「…私も明日、幽霊ビルに行って、もう一度直接話をして、諦めてもらうつもりです。」

「よしわかった。俺も協力しよう。葵の嬢ちゃんを止めるぞ。」

葛籠は、彩子に協力することを決めた。

世話になった小夜さんのお孫さんが困っているなら助けたい。それは葛籠の本音ではある。

しかし、マガトキ不動産が関係するかもしれないビルの探索は、捜査の重要な手掛かりに繋がる可能性が高く、更には彩子という協力者を得られるという打算もあった。

「しかし…」葛籠はふと疑問を口にする。

「どうしました、葛籠さん。」

「その葵とかいう嬢ちゃんが、そんなに怪奇現象に興味を持っているとは…意外だったなぁ。」

「そうですか?」

「ああ。もっと、慎重で、大人しい子に見えたよ。」

「私もそう思っていたんですが…。葵ちゃん、何かに苦しんでいるみたいで…。」

その悩みの片鱗を、彩子は葵から聞いてはいたが…それを葛籠に語るのは流石に憚られた。

「それに、葵ちゃんが言っていたんですが…。」

「ん?」

「失踪事件が続いているのに、この街の人間はそれを気にしない。そんな空気が嫌だ。そう言ってました…。」

…空気か。それはこの街にとって新参者である彩子の嬢ちゃんも、門外者の俺も、感じるとる事はできないものだ。

今まで気にしていなかったが。『マガトキ不動産』とこの『街』には、何か大きな繋がりがある?

刑事の勘が働き出した。葛籠はその勘を、別件で捜査をしている相棒にも伝えることにした。

斯くして、偶然と必然に導かれ、期せずして、OLの川島葵、刑事の葛籠鐡道、現在フリーターの上川拓也、そして神懸彩子の四人は、噂の幽霊ビルに向かうこととなったのだった。

噂の幽霊ビル探索の当日。

夜19時。

現地に到着した葵と上川がビルを見上げる。

周囲に街頭はほとんど無く、古びたビルを照らすのは夜空の月明かりだけ。

わざわざ夜の時間を選んでしまったのは、決して、肝試し感覚ではない。解体が近いことを上川から見せられたメモで知り、急ぎ探索の日を決めた為だ。

この場所に彩子はいない。彩子は来ない。葵はそう思っている。

今、彩子が葵を止めるために、葛籠とともにこの場所に向かっている事を知らない。

葵と上川は、用意してあった懐中電灯を点灯する。工具店で購入した高ルクスタイプの懐中電灯だ。

その強力な光源に、五階建てビルの入り口エントランスが照らし出された。

子供の頃、葵はこのビルに来た事があった。

葵が幼い頃。私鉄の駅近くのこの辺りは商店街であり、その頃は繁華街として、ずいぶん栄えていた。

このビルにもいくつかの有名店のテナントが入っていたこともあり、子供の頃、買い物にきた事がある。しかし時は経過し、JRの駅ビルが栄えると客足はそちらに流れ、繁華街も衰退。シャッター街になった。このビルも価値が減り、今は朽ちるを待つのみのなったのだろう。

手にしたライトの明かりを道標に、葵はビルの入り口扉に手を掛ける。

閉鎖されたビル。鍵がかかっていての不自然ではない。そんな予想に反して、扉はギギギと錆びた音を立てながら、しかし思ったよりスムーズに開く。

「…上川さん。行きましょう。」

葵が上川に声を掛ける。

「ああ。…葵さん、怖くはないのかい?」

怖くないわけではない。しかし、ここまで来て引き返すのは有り得ない。

「怖いですけど…」葵は彩子の勇気を思い出す。

「勇気を出さなきゃ」と、開け放たれた扉をくぐり、葵はビルに侵入する。

その姿に上川も、女性に遅れをとるまいと後に続く。

ビルの中の光景を見て「うわぁ…」と葵。改めて過去のビルの風景と現在の姿との変化に戸惑う。

暇潰しの肝試しに来訪した者か、又はヤンキーの溜まり場になっていた時期でもあったのか、ビル内の床にはゴミが散乱し、テナントの壁にはイタズラ書きが酷い。ショーウインドの窓ガラスも殆どが破られている。

「えらく荒れ果てているね…。これは酷いな。」

「昔来た時は、もっと綺麗な場所で…。子供だったから凄くドキドキしたんですけど…。今は別の意味でドキドキしてます。」

「うん。わかるよ、その気持ち。」

葵と上川は顔をも合わせ、微笑み合う。一人で来なくて良かった。

「さて。どこから探索しようか?」

ビルの噂によれば、このビルには真っ黒な幽霊や、屋上に奇妙な集団が『出る』らしい。

しかし他に、気になる場所が葵にあった。

「上川さん。もう一度、このビルの図面を見せてもらってもいいですか?」

頷く上川が鞄から図面を取り出す。

「私、この赤丸がされた場所…地下が気になるんです。」

「…地下か。確かに怪しいね。よし、行ってみよう。」

葵と上川は、ビルの地下フロアを取り敢えずの探索の目的と定め、歩き出す。

ビルの電灯は全て切れている。おそらく電気も止められているのだろう。

入り口近くのエレベーターも、当然動かない筈である。

目的と定めた地下への階段は一階テナントゾーンの奥にある。

歩く二人の足底で、パキパキと床に落ちたショーウインドの割れたガラスの欠片を踏む音がする。

放置された長椅子には埃が積もり灰色に色褪せている。

床に散らかるチラシなどの紙ゴミは、薄汚れ風化し、今にもぐずぐずに崩れかかっている。

以前はテナントの広告でも貼ってあったであろう、掲示板は傾き、今にも落下しそうだ。倒れたストール棚は中身を撒き散らしてひしゃげている。

下手に触れれば怪我をする恐れもある。

葵と上川は、ゆっくりと、慎重に歩みを進める。

「足元に気をつけよう。」

そう語りかける上川。暗闇の中でのその声は、山彦のように耳にキンキンと響く。

自身の聴覚が鋭敏になっていることが解る。

割れた窓から入ってくる風の音すらも、オウオウと人の叫び声に聞こえる。

電気も止められた廃ビル。明かりは手にした懐中電灯のみ。当然、視界は最悪。

全然奥が見えない通路の暗闇から、いつか観た映画の幽霊、…そう、両目がでんぐり返った黒髪長髪の悪霊とか、血だらけで床を這い回る怨霊とかが突然出てきたらどうしよう…。そんな空想をしてしまい、背筋が冷たくなり腕に鳥肌がザワザワと立ち上がる。

「もう少しで地下室への階段だよ。」

手にした図面を懐中電灯の灯りで照らす上川が口を開く。

その時。

…オオウ…オオウ…。

鋭敏になった葵の聴覚に、奇妙な音が響く。

その音が文字通り音速で両の耳から脳味噌に届いた瞬間。

風の音ではあり得ない…かつて聞いたことのないような…まるで叫び声のようなその音に、葵の全身にゾクリと怖気が奔る。

いつか感じた安全圏と危険域の瀬戸際。一瞬、葵の足が止まる。

逃げ出そうと思えば割れた窓から脱出することだって可能だったろう。

しかし隣の上川は葵のその戸惑いに気付く事はない。置いていかれないよう歩みを止めるタイミングを失った。

壁に掛けられたビル内の案内板が目に入る。

地下駐車場。そう書かれた地下への矢印。

目前には、地下空間への階段。

安全圏と危険域の瀬戸際。この時点で、葵と上川の二人はその境界をとうに超えていた。

目の前には、一階通路に比べれば狭めの階段。

ふと、葵は足元を見る。

廃ビルの階段であれば、当然、埃が堆積している筈の、階段。

その筈なのに、その階段には埃は殆どない。

よく見れば、ある筈の埃は、幾つもの足跡で散っていた。

さらによく見れば、その足跡の殆どは…、″下に向かっていくもの″が圧倒的に多かった。

それの意味するところは…。

足元がぐらつく。体勢を支える為に、葵は階段の壁に手を付く。

手を付いた瞬間。

「…え?」その壁の感触に葵は小さく戸惑いの声を挙げた。

真っ平な筈の、ビルの壁。当然、その手触りは、滑らかな筈である。

しかし、その壁は違った。

ざらざらと…尖った表面が葵の掌に食い込む。

その感触は…巨大な樹木のような…そんな手触りを連想させた。

葵は、恐る恐ると、懐中電灯の明かりを壁に向ける。

頼りない明かりの円形の中。

ソレが見えた。

壁の表面は、手触りから感じたように…、樹木の表面のように、太々と肥大した畝りが寄り集まって渦巻きのように、木の捩れのようになっていた。

そして、その畝りが集まり突出した部分が…、″顔″に見えた。

魚類のように楕円に開き切った対の穴。

その対の穴の下方へ縦に伸びる一本の筋。

筋の先にある小さめの黒い穴。それも対になっている。

それは、目と、鼻。

点と線が偶然逆三角形に配置されている時。人間の脳味噌はそれから人の顔を連想するという。シミュラクラと呼ばれる現象だ。

そう、偶然だろう。しかし、その″顔″は、畝る捩れが集まった部分に広く分散し幾つもあって…。

階段の壁びっしりと、その″顔″がえている。

そう葵には見えた。脳がそれを認識してしまっていた。

それと同時に。

葵の嗅覚が異質な臭いに反応する。

それは、いつか感じた臭い。

強烈な腐葉土のような…土の腐った臭い。

何人もの人間が失踪したという『ハイツ・クイルビー』。

その中で感じた臭い。

その臭いは、それと同じ臭いだった。

「彩子の嬢ちゃん。ここがその噂の幽霊ビルなんだな?」

「はい。葛籠さん。」

葵と上川がビルに侵入して10分後。

彩子と葛籠がビル前に到着する。

本当はもっと早く着きたかったのだが、彩子の仕事の都合で到着が遅れてしまった。

職場での普段での仕事の丁寧さが裏目に出た。もっと要領よく仕事しないとダメだよ。そんな葵のアドバイスが身に染みる。

「で、葵の嬢ちゃんはどこにいるんだろうな?」

彩子がビルの入り口に目を向ける。その扉は開け放たれていた。

「玄関ドアが開いています。もう中に入っちゃったのかもしれません。」

「それはやばいな。俺達も行くぞ!」そう言って葛籠はビルの入り口へ向かう。彩子も葛籠に続く。

しかし、ふと、ビルを眼前に彩子は立ち止まる。

「…何か視えるのか?」と葛籠。

「…いいえ。誰もいません。」

ここでいう彩子の「誰も」とは、幽霊はいない事を示している。

そう葛籠は想像し、少し安心した。彩子の嬢ちゃんがいてくれて良かった。

しかし、彩子の感じていることは、葛籠の想像とは少し異なっていた。

幽霊は…地縛霊は、見えない。

しかし、あのアパートで感じたような…形容し難いのだが、嫌な流れを彩子は感じていた。

何か、嫌な予感がする。

彩子は鞄から懐中電灯を取り出し、ビルの周囲を照らす。

「う!」と息を飲む彩子。

照らし出されたビルの周囲の道路や空き地。

そこには、無数の鳥が横たわっていた。

烏。鳩。雀。その他無数の鳥の亡骸。

その大量の死骸を見て、彩子は恐怖を、いやそれ以上に、その光景に畏怖を感じる。

『生きている事を許さない』

ビルに近付く命は全て、周囲に張られた蜘蛛の巣に捕獲された昆虫のように、命を絡み取られて餌食にする。

それ程の怨念が其処に在る。そんな想像を彩子は脳裏に感じていた。

「…葛籠さん、早く葵ちゃんのところに向かいましょう。」

恐怖を押し殺し、彩子は葛籠と共にビルの中に足を踏み入れる。

このビルは五階建て。闇雲に探しても時間がかかるだけである。

玄関ロビーで、彩子と葛籠はうち合わせをする。

「葵の嬢ちゃんはどこにいるんだと思う?」

「…確か、噂によれば、ビルの屋上に『黒づくめの幽霊集団』が出るんだとか…。」

「よし。取り敢えず上に昇ってみよう」と、葛籠は目的を決めた。

上階に向かうには…。

ふと、葛籠の視界に玄関ロビー付近のエレベーターが目に入った。

「おいおい、このエレベーター、動くぞ」と葛籠。

「他の電灯は切れているのに…。このエレベーターだけ電源が通っているなんて。おかしいですね。」

「ああ。ビルの電気系統を操作できるような人間が出入りしているのかもな。」

「…時間が惜しいです。乗りましょう。」

危機感はあった。しかし彩子と葛籠は捜索を優先し、エレベーターで屋上に繋がる5階に向かった。

腐った土の臭いに顔を歪めながらも、葵と上川は地下に続く階段を降る。

図面によれば、地下フロアは地下駐車場として利用していたため、かなりの広いスペースとなっていた。

無機質な柱とコンクリートの広々とした空間が広がっている。そんな想像をしながら葵は階段を降り終えた…、その時。

葵の想像とは全く異なる光景がそこにあった。

階段を異質な捻れた壁にしたものがそこにあった。

怪異の根本がそこにあった。

「なに、これ…。」

地下駐車場のコンクリートの地面。

そこには巨大な穴が開いていた。

穴は20m以上はあるだろうか。底は全く見えない。暗黒の空間がぽっかりと口を開けている。

しかし、異質な光景はそれだけではない。

その暗黒の穴からは…。

遺跡…のようなモノが、えていた。

幾何学的な木目調の表面をした土褐色の巨板…壁が、穴から無数に、無作為に突き出て、駐車場の壁や地面に張り付き…一体化している。

葵はその壁の模様を見て、昔見たテレビ番組で特集されていたペルーの遺跡マチュピチュの石壁を思い出す。

もちろん、色も質感も異なるのだろうが、しかしその壁面の群れを目にした時、何故か葵は古代文明で造られた遺跡を連想してしまった。

しかし、一つ違ったのは…。

その壁には、階段でも目にした、顔の形をした瘤が無数に張り付いていることだ。

顔の生えた壁は葵たちが降りてきた階段にもその侵食を伸ばしており…。

それはまるで、地下空間から上階に向けて根を伸ばしているかのようであった。

「なんだよ、何が起きていんだよ…」隣の上川もその光景に絶句している。

その時。

二人の目前で、遺跡に動きがあった。

穴から飛び出ていた遺跡壁の一枚が、葵と上川に向かって移動を始めたのだ。

一見して強堅に見えるその巨壁がウネウネを蠢く光景に、逃げることも失念し呆然とする二人。

目の前に迫る遺跡壁。

その壁面が眼前の迫る時。

信じられないモノが葵の目に映った。

目前の遺跡壁から、ソレは生えていた。

ソレは人の形をしていた。

再び葵は昔見たテレビ番組で特集されていた遺跡を思い出す。

ポンペイ遺跡。

かつて、その街に住む人々は、近隣の火山の噴火により全員が生き埋めになり、火砕流の高熱で一瞬にして灼かれた人々は火山灰の中で腐敗消滅していった。その結果生じた人型の空洞に石膏を流し込んでみたところ、苦痛に悶えるカタチのままで残されたヒトガタが多数見つかることになったという。

遺跡壁から生えた無数のヒトガタは、それとよく似ていた。

いや違う。

葵の脳裏に半分になった猫の亡骸が蘇る。

生えているのではない。

喰われているのだ!

腰から下は、壁に喰われているのだ!

それに思い至った瞬間。

葵から思考が消える。真っ白になる。

驚愕と共に脳味噌がショートする。

恐怖によるその脳機能のショートは、あと1秒もしないうちに回復するだろう。

その回復と同時に、葵は恐怖の叫び声を上げるだろう。

真っ白な自身の精神の中で葵はそう感じていた。

しかし、現実は違った。

葵の目前の、喰われかけたヒトガタの口腔がカパリと人形のように開く。

開かれたその口腔から、想像もしなかったモノが…一本の蕾がえた。

その蕾もまた獣の口のようにカパリと開き、真っ赤な一輪の華を咲かせ…。

美しくも醜悪な華は、その枝をウネウネとした触手のように歪ませ、葵の顔面に迫る。

その光景に、その恐怖に、葵の精神の再起動は更に遅れた。

そこに追い討ちをかけるかの如く、華はクパリと一瞬縮み…破裂。真っ白な煙…花粉が撒き散らされた。

強い香りが男の鼻腔を刺す。それは、甘い、とても甘い、甘すぎる程の、怖気と嘔気を感じる程の、香りだった。

その悍ましい香りが葵の鼻腔を通り恐怖に侵食された脳味噌に届いた瞬間。

叫び声を挙げようとしていた葵の意思が停滞する。

臓腑の底から絞り出されたであろう叫び声が声帯にすら届かず消滅する。

本来、その人間の小さな精神で感じる筈であろう巨大な恐怖という本能は、更に巨大で邪悪な精神が侵食し…。

葵の精神は、穢される。

エレベーターを使って、彩子と葛籠がビルの五階に到着する。

付近の階段を登れば、そこは屋上だ。

「…彩子の嬢ちゃん。止まれ。」

しかし、階段を登る途中。葛籠が声をひそめて彩子を静止する。

「誰か屋上にいる。慎重に行くぞ。」

彩子には解らなかったが、そこは刑事の勘というやつなのだろう。

葛籠の指示で音を立てずに慎重に移動する。

階段を上がり切ると、踊り場のような空間があり、屋上に続く扉があった。

扉をゆっくりと、静かに、微かに開ける。

屋上には葛籠の言う通り、三人の人間がいた。

あれが、噂のビルの屋上に出るという『黒づくめの幽霊集団』?

しかし…。

「葛籠さん。あの三人、見えてますよね?」

「当たり前だ。あれは幽霊なんかじゃない。実物の人間だ。だけどあれは…。」

屋上にいる三人の人間。その格好は、噂通り黒づくめの姿をしていた。

中世の黒魔術儀式に出てくるような真っ黒なローブを見に纏い、真っ黒なフードを眼深に被り顔は見えない。

なんというか、中世ヨーロッパが舞台のオカルト映画に登場する、地面に魔法陣でも書いて悪魔召喚でもするような、絵に描いたような異様な集団だった。

しかし、よく見れば文明的なモノも身に付けている。

フードに隠れた顔の部分をよく見れば、口元にマスクをしている。しかしただのマスクじゃない。

顔の下半分をすっぽり隠すほど大きい仮面のようなマスク。さらにそこから短い二対の筒が伸びており…、ガスマスク。それに似ていた。

ガスマスクの用途といえば、有毒ガスや粒子状の物質から呼吸器を保護する為にするものだが…。こんなビルに、そんな装備がなぜ必要なのか。

「なんですか、あの人達…」彩子はその三人組の姿形に驚きを禁じ得ない。

三人の黒づくめ集団。よく見ればそのシルエットには随分差がある。

一人目は、肩幅の広いがっしりとした目立つ体格の、おそらく男性。

二人目は、日本人離れした一際身長の高い人物。

三人目は、他の二人に比べればかなり小柄な、おそらく女性。

「…何か話をしているな」そう言って葛籠は聞き耳を立てる。

彩子も耳に神経を集中する。ボソボソとした声であったが、なんとか断片的な言葉が聞き取れた。

「準備…終わったか?」と高身長の人物。男性のようだ。

「はい。地下…穴の…末端も回収可能です」と小柄なシルエットの人物。やはり女性の様だった。

「実験…成功です。供物…十分です」と、肩幅の広い男性。

黒づくめの三人は幽霊ではない。やはり生きている人間なのだ。

しかし、その会話は…。

「全てはシオウの為。」

聞き慣れない言葉に彩子は眉を顰める。

シ オ ウ。

それは、彩子が生まれて初めて聞く言葉だった。

にえも良きかてとなりました。今宵…ビル…滅する…。」

更には、贄とか、糧とか…。まるで生物に餌を喰わしているかのような表現だ。

『シオウ』。それの意味するところが、このビルの噂…それだけではなく、この街の失踪事件に大きく関係しているのではないか。そう彩子は連想する。

「しかし、何故もっと早く…解体…しなかったのですか?」と黒づくめの女性。

互いの言葉使いから想像するに、高身長の男性が三人の中で目上の人物のようだった。

「噂に引き寄せられる餌もいる…と思ってね。」

「…は?…それは…。」

「…『撒き餌』みたいなものだよ。」

盗み聞きの中での会話であり、全てがはっきりと彩子達の耳に聞こえたわけではない。

しかし、『実験』とか『撒き餌』とか…。そして『シオウ』…。この世のものと思えない荒唐無稽で奇々怪界な会話に、彩子は言葉を失う。

地下フロアに開いた巨大な穴。

その穴から生えた遺跡壁。

壁に喰われているヒトガタの口から咲いた真紅の華。

その華から吐き出された花粉のような白い粒子。

その白い粒子を葵は顔面に浴びてしまった。

白い粒子が葵の鼻腔から侵入したその瞬間。

葵の精神は曖昧になり、思考が乱される。

この状況下で葵が最も抱いていなければならない感覚…恐怖感が麻痺したのだ。

「…ゴホ…。葵さん、大丈夫かい?」

葵と共に地下フロアに降りた上川の声が葵の耳に聞こえる。

華から白い粒子が吐き出された瞬間、葵の隣にいた上川も白い粒子を浴びたが、その量は少なかったのだろうか、上川の言動は正常の様だった。

「葵さん、早くここから逃げるよ」と上川は葵の腕を掴み、階段に後退する。

精神の感覚が鈍麻し状況判断ができなくなっていた葵であったが、しかしそれでも、ここから逃げなければならないという危険に対しての最低限の本能は働いていた。

葵もなんとか足を踏ん張り、上川に引き上げられる様に階段を上がる。

その時の葵は、自身の目前で、そして自身の身に起きていることを、曖昧なままでしか認識できていなかった。最低限の思考は働いているが、それでも自分から何かしようとする気力…能動性を消失していた。

空っぽの理性。感情の空洞。虚となった精神という名の器。

まるで、それがテレビドラマの一幕のような…画面の向こう側で起きていることを淡々と見ているだけにような…、そんな状態と化していた。

そんな葵であったが、葵を守ろうと上川は葵の身体を強引に上階に引っ張り上げる。

遅々として進まない移動だったが、それでも階段を登りきって一階に着くまで、あと数段のところに来た。

しかし。

「まずい!」

脱力し朦朧とする葵を振り返ったその瞬間。上川はそれを目にした。

元々、階段は闇に包まれていた。その闇を取り払い続けていたのは、二人が手にしていた懐中電灯のみであった。

その強力な光源で階下を照らした時。

闇が、闇の黒が、蠢いた。

懐中電灯の強烈な発光でも、その闇が払われる事はない。

それは、質量を持った闇。

黒いもやだった。

地下フロアから、煙のような黒い靄が昇ってきているのだ。

曖昧なままで、葵がその黒い靄を目にした時。

これがあの事故物件で彩子が見たという黒い靄と同じものであることを直感する。

きっとこの黒い靄は、地下フロアにあった穴から出現したのだろう。

おそらく、あのアパートの地下室にも、更に地下に通じる穴があったのだ。

このビルの地下フロアは、あのアパートの地下室と同質のもの。

そして、その穴は『街から人が消える』ことと無関係ではなく…元凶なのだ。

闇に驚愕する上川と、その闇を無意識に冷静に分析する葵。二人にその闇が這い寄る。

焦った上川は葵を掴む腕にさらに力を込め、階段を登る。

引っ張られる葵の視線は、階下から迫る黒い靄に向いたままだった。

あの黒い靄がなんなのか。低下した思考の中で、葵はそれだけを考えていた。

ガクン。突然、足の底が引っ張られる感覚を覚えた。

「な、なんだこれ!」上川が驚愕の声を挙げる。

二人の靴の足底が、階段の床面に捕らわれていたのだ。

床からびっしりと湧き出した小さな触手。その粘つく触手が二人の足に絡み付いてる。

触手の束縛から逃れようと脚に力を入れ身を捩る。しかしその粘着は強く、二人を逃さない。

階下から迫る黒い靄。

その時。

葵の目前で。

黒い靄が形を変える。

階下に広がる黒い靄が、中空の一箇所に凝縮する。

触れられるはずもないと思っていた胞子状の粒子が、形を成していく。

集まる靄が、四足獣の脚の形を成す。

獣の前脚が、葵の脚を掴む。

「…ヒ!」ひと時だけ、恐怖心が蘇る。心の奥底が震える。

同時に、ハッと気付く。

この黒い靄は、人に触れられる。

そして、彩子にだけ『視える』ものではない。

つまり、この黒い靄は、幽霊といった類のものではなく…。

物質として実在している…この世界に存在しているモノなのだ。

それが今、私を襲おうとしている。肉食動物が小動物を喰らうように。

ビルという巨大な生物に捕まって捕食される虫を連想する。

…私は…無力だ。

葵の精神が再び微睡みに沈む。

葵の視界の先で、凝縮した闇の中から、獣の頭部があらわれる。

その黒い獣は…。

あの時の、公園の、老人に撲殺された犬によく似ていた。

葵の過去と同じように、獣が彼女の脚に牙を立てる。

壁の顔が歪み、せせらわらう。獲物を得て、喜びうたう。

恐怖心は再び麻痺したままだった。

上川の叫び声が聞こえる。「おい!」「葵さん、しっかりしろ!」

しかし葵は返事を返さない。叫び声すら挙げれない。

今、葵の目前には叫びたいたいほどの恐怖があるはずだった。

しかし、恐怖を司る脳機能が丸ごとごっそり削り取られているかのように、その恐怖も不安も抑制されてしまっていた。

通常、不安や恐怖といった感情は脳の中の神経伝達物質ノルアドレナリンが司る。この脳内物質は基本的に常に体の中にある物質であり、不安や恐怖が簡単にゼロになることはない。

唯一の例外があるとすれば、脳が事実と感情を分けて記憶をさせる作業の時…レム睡眠中。つまり夢を見ている時だけである。

よって、何らかの理由により脳機能が正常に働かない時。例えば、先程葵が吸い込んでしまった花の粒子が脳内の神経伝達物質の分泌を阻害しているような時。

人間は、生き残るために必要な恐怖と不安が麻痺してしまう。

自分が闇に襲われていることを、黒い獣に喰われかけていることを、葵は認識はできていた。しかし抗うことを忘れていた。

抵抗のすべを考えることもできず、…例えるならロイコクリディウムに寄生され捕食者に喰われるだけの餌と化した蝸牛かたつむりのように。

その時。

恐怖に染まる心の底で。恐怖に蓋をされた思考の中で。

たった一つ。ともる。

しかしそれは、決して希望のあかりではない。

『誰か』が、葵の心の壁を強引にこじ開ける。

その隙間から視線が注がれる。

葵の不快感など構うことなく、心の中を、覗く。

嫌だ。見ないで。覗かないで。視ないで!

「面白い。」と、記憶を覗き見たソレが、葵の脳髄に囁く。

「後で君を迎えにいく」その声に葵はぞわりと全身を震わせる。

その言葉を最後に、ソレは覗き見ることを止めた。再び心の壁は築かれる。

体が揺れている。

一体何が起こったのか。

「葵さん、大丈夫かい!」心配する上川の声。

葵は上川に背負われて通路を移動していた。感じていた振動はその為だった。

「…何が、あったの?」

「…君を襲っていた黒い塊だけどね、急に君から離れていったんだ。同時に階段の床も普通に戻った。その隙に僕は君を担いで、急いでここまで逃げてきたんだよ。」

周囲を見渡すと、そこはビルの一階だった。

地下フロアから伸びた触手や黒い靄は見えない。

理由はわからないが、葵と上川は危機を脱したようだった。

「うっ」と葵は痛みで顔を顰める。

背負われたままで、自分の右足に目を向ける。

右脛には、大きな裂傷ができていた。

咬み傷にも見えるその傷からの出血は、幸い少ない。

上川は一旦葵を背から下ろし、持っていたタオルを包帯代わりにして傷口を保護する。

しかしこの足では、移動もままならない。どうやらこのまま、葵は上川の背を借りて移動するしかないようだった。

取り敢えず危機を逃れた葵と上川は、一階のテナントゾーンに辿り着く。

上川の背中に背負われている葵の呼吸は乱れ、小さく喘ぎ続けている。

「…すみません、上川さん」喘ぎ声とともに葵は上川に謝る。

「いや、僕がもっとしっかりしていれば良かったんだよ。すまない。君を巻き込んだんだ…。本当に申し訳ない…。」

早くこのビルから抜け出さなければならない。

葵を背負ったまま、上川は急ぎビルの玄関ロビーに向かう。

背中の葵は、女性と言えども成人女性。上川の移動もスムーズではない。

しかしそれでもなんとか、玄関ロビーに到着する。

息を乱したまま、上川が入り口の扉に手を触れようとした時。

上川は反射的にその手を引っ込めた!

「なんだこれ…。」

上川と葵の二人は、確かに、この扉からビルに入った。その時、扉に鍵は掛かっていなかった。それだって妙だとは思ったが…。

今、その玄関扉は…、いや、その扉の向こう側は、もっと妙な事態になっていた。

玄関扉の先が、壁で阻まれているのだ。

その壁は、先ほどの階段で目にした階段の壁と同じような、樹木の表面のようになっていた。

上川の脳裏に、さっきの階段での出来事が蘇る。

素手で無理やりに突破できるものではないだろう。それ以前に、この壁に触れるのは危険だ。

「閉じ込められた…?」

このドアから出るのは不可能。そう判断し、別の脱出手段を考える。

どうしようか。

葵ちゃんは怪我をしている。無闇に動かすわけにはいかない。

だが、早く葵ちゃんを病院に連れて行かなければならない。

あの黒い靄も追ってくるかもしれない。

急がなければ…。

誰か、助けを呼べないだろうか…。

そうだ!

周囲を警戒しながら、取り敢えず、上川は葵を連れて入り口付近のテナント店内に身を隠す。

「葵さん。君の携帯電話を借りるよ。」

そう断りを入れて、上川は葵の鞄を開けた。

屋上に通じる踊り場の影に身を隠しながら、屋上の黒づくめ集団が話している内容を隠れ聞く彩子と葛籠。

長身の男性が、屋上の端から階下を見下ろす。そして、

「地下フロアへ向かう。その後、ビルから脱出する。」

と、他の二人の人物に声を掛けた。

黒づくめの女性と体格の良い男性も「はい」「わかりました」と頷き、三人は踊り場に向かって歩き出した。

エレベーターで階下に向かうつもりなのだろう。

今、この三人に見つかるのは、まずい気がする。

葛籠と彩子は、急ぎ踊り場の端に向かう。

息を殺し、身を縮め、できる限り黒づくめ集団の死角に入り込むように身を隠す。

黒づくめ集団が、二人の至近距離を通り過ぎた。

その時、彩子と葛籠の視界にきらりと光るものが映った。

黒づくめ集団の三人のローブ。その肩に留められている…バッジ。

そのバッジには、何かのマークが刻まれていた。

上半分には、地球儀を上下にカットしたような模様。

下半分には、その地球儀の半球を支えるように絡み付いた樹木が描かれている。

見覚えのあるデザインだった。彩子はそれとよく似た意匠を知っていた。

世界樹。またの名をユグドラシル。

世界は一本の大樹に支えられて成り立っているという概念を現したもので、北欧神話等の世界各地の神話に登場する有名な巨木である。

黒づくめ集団が身につけている意匠は、それとよく似ていた。

これが、黒づくめ集団に関わる何らかのシンボルマークなのだろうか。

…けれど。それだけではない。他にも最近、それとよく似たマーク(?)を目にした気がする。

どこで見たのだっけか…。

そんな事を考えている中、黒づくめ集団はエレベーターに乗り込み、階下に去っていった。

行き先は、地下フロアだろうか。

「ふう。何なんだ、あの集団は?」葛籠が安堵の息を吐く。

「わかりませんが…。危険な予感がします。早く葵ちゃんと合流しなくちゃ…。」

と、その瞬間。

彩子の鞄が震える。

緊張が解けていなかった彩子が「わっ!」と小さく声を挙げた。

振動の正体は、鞄の中に入れていた携帯電話のバイブだった。

「どうした?」

携帯電話を取り出した彩子がディスプレイに表示された名前を確認する。

「葵ちゃんから…電話です。」

葵ちゃんに何かあったのだろうか。彩子は急ぎ通話の操作をする。

「葵ちゃん!大丈夫なの!」

思わず声を荒たげてしまう。

隣の葛籠も、その通話に耳を向けた。

「葵ちゃん!…違う。上川さん?…何で葵ちゃんの携帯を?…え!葵ちゃんが怪我をした!…今どこにいるんですか?…一階のテナントに隠れている?…わかりました。私と葛籠さん…刑事さんもビルに来ていて…はい。今、屋上にいます。これからそっちに向かいます。」

葵の所在と状況を把握した彩子と葛籠。二人は頷き合う。そして、

「それと、上川さん。ビルの中に怪しい集団がいます。見つからないように電灯を消して身を隠していてください。」

そう携帯に向かって指示を出す。

電話の先で上川が驚きの声を挙げる。

「…誰なのかは解りませんが…危険な雰囲気はします。気をつけてくだ…?」

会話の最中。突然、携帯電話が「ガガガ」と奇妙な電子音を立てて切れてしまった。

「切れちまったのか?」と、隣の葛籠も怪訝な顔をしている。頷く彩子。

「葵の嬢ちゃん、やばい状況みたいだな。」

置かれた状況を把握ずる葛籠。

「…応援を頼もう。少し待ってくれ。相棒の刑事に電話をしてくる。」

そう言って葛籠は屋上に向かう。少しでも電波が良い所を探してるのだろう。

屋上に端っこで、葛籠は携帯電話を取り出して通話を開始する。

「あ~羽佐間はざまさん。俺だ、葛籠だ。ちょっとまずい状況なんだが…。そう、例のビルだ。怪我人がいる。応援を頼みたい。」

羽佐間とやらが、葛籠とともにこの街に来ているという相棒の刑事なのだろう。

「そう。早く来てくれ。それと…ん?」

通話の最中。葛籠の言葉が停止する。電波切れではない。

電話の最中に、何気なく屋上からビルを見下ろした時。

葛籠は言葉を失った。

ちょいちょいと彩子に向かって手招きをする葛籠。

その行動に、何事かと彩子も屋上の端に向かう。

葛籠が指先を下方に向けた。下を見ろ。そう言っている。

ビルを見下ろす彩子。

「…なにこれ」と、彩子の瞳も驚きで見開く。

五階建てのビル。

彩子と葛籠が見下ろしたそのビルの側面が、樹木の表面のような太々と肥大した畝りで覆われていたのだ。

隙間なくびっしりと、とぐろのような太々とした硬い触手が、ビル全体に巻き付いている。そんな光景であった。

見える範囲の窓も全て塞がれている。

あの黒づくめ集団が言っていた『準備』が『終わった』とは、このことなのだろうか。

葛籠の手にした携帯電話から″どうした?″と相棒の声が聞こえる。

その言葉で我を取り戻した葛籠。電話口に向かって、

「チェーンソーを持ってきてくれ。出来るだけ早くな。」

冗談なのか本気なのか解らない。そう言った後、葛籠は再び言葉を失ったまま通話を切った。

何とか冷静を無理やり取り戻した彩子と葛籠は、階下へ向かう。

エレベーターは使えない。階段で下るしかない。

途中、階段に備えられた窓も目にしたが、肥大化した蔓のような触手の壁で全て塞がれていた。

電話も通じなくなってしまった。ビルを覆う壁が原因なのだろうか。

階下に向かった黒づくめ集団に見つかることなく、一階に辿り着く。

葵と上川が身を隠しているテナント店の場所は、先ほどの電話で解っている。

しかしそれでも不安は収まらない。焦る彩子。

葵ちゃん、どうか無事でいて!

心底、そう願いながら、彩子は急ぎその場所に向かう。

目的のテナント店に到着した時。

葵と上川はそこにいた。

テナントの奥で。葵は壁に背を預け力なく座り込んでいる。

足にタオルを巻いていたが、命はある。呼吸も穏やかであり、苦痛も出血もそれほどではないようだ。

葵の姿を確認して、彩子は安堵の吐息を漏らす。

「彩子さん。来てくれたんだね。」

上川も二人の姿を見て表情を綻ばせる。

「救急車を呼ぼうと思ったんだけど…電波が通じなくて…」と上川。

「それに、出口も…。」

「塞がっていたんだな…。知ってるよ。窓も全てダメだった。」と葛籠。

「刑事さん…。」

「葛籠だ。葵の嬢ちゃんを守ってくれてありがとな。」

「はい…。でも全部、僕のせいです…。」

「その話は後だ。あんたには聞きたいことがたくさんあるしな。」

「はい…。」

「応援を呼んである。もう暫くすれば来ると思うんだがな…」

だが、応援が来たとしても、どうやって入り口をこじ開けるか…。電話が通じないことが悔やまれる。

「葵ちゃん。怪我の具合はどう?」

何はともあれ、彩子は最優先で葵の元に駆けつけ、具合を尋ねる。

その彩子の声が着付け薬となったのか、葵が意識を取り戻す。

「…うん。大丈夫だよ。」

「良かった…」安堵で地面に膝を付く彩子。

「…やっぱり来てくれてたんだね。」

「当たり前だよ。私達、友達だもの。」

「愛想を尽かされたと思ってた。」

「私も嫌われたと思ってたよ。一緒だね。」

葵が口元を僅かにあげて、力無く微笑む。

「迷惑をかけてごめんね…。」

「そんなこと、ないよ。」

「…勇気を出したんだけど…。私は彩子みたいになれなかったよ。」

この怪我は迂闊に怪異に足を踏み入れた葵が原因な面もある。しかしそれを止められなかった彩子の後悔も強い。

「何があったの?」

「うん。私達は、地下に行ったの。」

そこで葵と上川が遭遇したものについて、葵はぽつりぽつりと彩子に説明する。

階段の壁が変貌したこと。

壁に張り付いた無数の木目顔。

地下駐車場に空いていた巨大な穴。

その穴からえていた遺跡壁の群れ。

遺跡壁に喰われるヒトガタ。

そして、地下から逃れようとした時。

「彩子がアパートで見たって言ってた…黒い靄がいた。その黒い靄は…獣の姿に…記憶の底にあるはずだった犬の姿になって、私を襲ってきた。」

「記憶の…犬…。それが葵ちゃんにも見えたんだね。」

「うん。見えたし、噛みつかれた。触れることもできる。あれは…。」

「幽霊じゃない。」

「うん。あれは…もっと邪悪な何かだ。彩子が言っていたこと、解ったよ。」

邪悪な、幽霊ではない、実態を持つ、何か。

『シオウ』。その単語が彩子の脳裏にチラつく。

「逃げようと思ったんだけど、逃げられなかった。私ね、地下で変な白い煙を浴びたんだ。それからずっと、気持ちが、おかしいの。」

その時に感じた恐怖を思い出してか、葵の精神は再び曖昧な領域に溶け込んでいく。

「私は、覗かれた。心を、視られた。気持ち悪い。あれは、邪悪な、視線だった。ああ…私は、汚された…。」

「葵ちゃん!どうしたの!葵ちゃん!」と肩を揺する。

しかし、再び葵は微睡の中に沈んでいった。

どうすることもできない。

今、彩子にできることは、葵に呼びかけ続け、葛籠の相棒とやらの助けを待つだけだった。

「なぁ、上川さんよぉ。」

薄暗いテナント店の地面にへたり込む上川に、葛籠が声を掛ける。

「はい、刑事さん…いえ葛籠さん。何ですか?」

「あんた達がこの場所に隠れている最中、黒づくめの集団が来なかったか?」

「ああ、そういえば電話でも言ってましたね。見かけてませんよ。」

…ということは、奴らはまだビル内にいるのだろうか。

そういえば地下フロアに行くと言っていたか。

しかし、葵の嬢ちゃんの話を聞くには、地下は危険らしい。

あの会話から察するに、その危険を奴らが知らないはずがない。

…奴らは、その危険から身を守る方法を、もしくは襲われない手段を知っている?

それがあの奇天烈な黒づくめの衣装に関係しているのか?

そんな予想を葛籠は抱く。

それに加え…。今このビルは玄関も窓も封鎖されてしまっている。この状況で奴らはどうやって脱出するんだろうか。

このまま、この玄関近くで待っていれば、奴らが来るかもしれない。脱出の方法も解るかもしれない。

そう葛籠は目算する。しかし…。

奴らの行動を待つにしろ、迎え撃つにしろ、こちらの戦力は心伴い。

女性2名に一般人1名。戦力は自分1人。しかも相手は3人とは限らない。

…隠れて奴らの行動を見張るのが得策だろう。

そう考えをまとめる。

だが、まだ不安…というか、不確定要素がある。

『撒き餌』。『餌』。

奴らのリーダー格が口にしていた言葉だ。

…奴らは、このビル内に、自分達以外の何者かが侵入していることに勘付いている節がある。

ふと、上川に目を向ける。

葛籠の視界の先で、上川が頭を抱えていた。

「あんたも具合が悪いのか?」

「ええ、まぁ。葵さんが吸ってしまった煙みたいなものを、僕も少し吸い込んでしまいましてね。ちょっと頭が重たくて。」

「お、おう。大事にしてくれ。」

「それに、あの匂い…。どこかで嗅いだことがある気がするんですよね…。どこだったかな?」

上川の体調も万全ではない。しかし不安はそこではない。

「ところで、なぁ上川さんよぉ。」

「は、はい。」

「あんたはなんで、このビルに来たんだ?。危険な場所かもしれないってのは、解ってたんだろ?」

「…葵さんやあなた達を巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思ってます。」

「…あぁ。」

「なんでここに来たかと聞かれれば…。罪悪感に向き合うため。そう答えるしかないです。」

「罪悪感に向き合う、か。それは、俺に『逮捕される』とかとは違うことなんだろうな。」

「はい。…僕には何もありません。家族もいません。つまらないサラリーマンです。離れて暮らしていた父も先日亡くなりました。逮捕されて刑務所に入るのだって、受け入れます。」

「…だが、それでは自分が納得できない。そういう感じかな。」

「さすが刑事さん。お見通しですね。僕が逮捕されたって、僕からは何の証拠も出てこない。せいぜい詐欺罪でしょう。それではこの街の失踪事件は解決しない。そう思います。」

「…多分、その通りだ。で、あんたは自分で、この街の失踪事件の真相を暴き、その原因をあわよくば取り払おう。そう考えたんだろう。」

「その通りです。」

「見上げた根性じゃないか。俺が刑事じゃなかったら褒めてやりたいところだ。」

だが、それが正しい事だと言えるかは、また違う問題だ。一般人の上川にこの一件は荷が重すぎる。

しかし、上川の決意が本物だとは信じてやりたい。

「為すべきことを為せ。そして与えられた仕事を全うしろ」上川が呟く。

「何だそれは?」

「僕が子供の頃に、父が言っていた言葉です。その頃の思い出はほとんどありませんが、それだけは覚えていました。」

「へぇ。あんたの親父さん、刑事みたいなこというじゃないか。俺の先輩にもいたぜ、そういう仕事一筋で頑固な刑事がな。」

「…その刑事さんは?」

「運がなかった…と思っている。嫌な事件に巻き込まれてな。何も悪くなかったはずなんだが、本人は罪悪感いっぱいで…警察を辞めたよ。あとは音信不通だ。誰も行方は知らない。亡くなったって噂も聞いたよ」

「そうですか…。」

「まぁ、なんだ…。あんたの信念は理解した。」

「はい。」

「だったら!」

葛籠が上川を睨みつける。

「はい?」

「俺の期待を裏切るんじゃねえぞ。」

「…約束します。」

葛籠の同僚が助けに来る。そうすればビルから脱出できる。

暗闇の中、時間を浪費するしかなかった。

屋上で遭遇した黒づくめ集団は、おそらくまだこのビル内にいる。見つかると面倒なことになる。

4人は入口付近のテナントに、物音一つ立てることも許されない中で時が過ぎるのを耐えるしかなかった。

その時。

事態に変化があった。足音が聞こえたのである。

ビル一階の奥。地下フロアに通じる階段があった方角から。

静寂していたビル内にコツコツと無機質な音が響く。

足音は数人分。多分、3人分。

方向的に、ビルの入り口を目指しているのだろう。

コツコツと響く足音が、4人が身を隠してるテナント店に近付いた時。

その足音が、止まった。

ビルの入り口ではない。

間違いなく、4人のいる場所の近くでその歩みを止めたのだ。

この状況に焦る葛籠。戦力は俺1人。奴らの戦力は未知数。ビルの奥にはバケモンが控えていて、さらに出口は塞がれている。しかもこちらには怪我人がいる。強引に逃げることは不可能に近い。

こりゃ絶体絶命。やり合うしかないか…。

葛籠がそう覚悟を決めたその瞬間。

身を隠していたテナント店内に、光源が疾った。

何事かと葛籠が驚いたその時。

隣にいた上川が唐突に立ち上がる。

光源の発生元…ライトを点けたのも上川だったのだ。

その上川の行動に、隣の彩子も目を丸くする。

しかし、葛籠や彩子の姿を気にする様子もなく…というより一瞥もくれず、上川はテナント内から歩き出て、黒ずくめ集団の目前に身を晒した。

「あら、あなたは…。」

テナントの影から突然現れた上川の姿を目にして、黒づくめ集団の1人…小柄な女性と思われる人物が声を挙げた。

「確か、マガトキ不動産の社員よね。」

葛籠と彩子は、ことの成り行きをテナント店の影に身を隠しながら聞き耳を立てる。

上川が、黒づくめ集団の知り合いだった?

まさか、裏切られたのか?

そんな予感を彩子が覚える。

「あ、ああ、あなたは…カウンセリングの先生、ですよね。こ、声で解ります。お、お久しぶりです!」

上川の動揺には、純粋な驚きを感じる。

まさか上川自身も、相手が覚えのある人物とは思わなかったのだろう。

「どうしてあなたがここに?」と黒づくめの女性。

「え、えっと、いえね、このビルもうちの不動産会社の管轄でしょ。それでちょっと気になって…というか、なんというか…。」

上川は、わざと集団の前に出て囮になったのだ。

そして偶然にも、上川と面識にある実物が相手側にいたことが幸いした。

葛籠の刑事の勘がそう言っている。

だが、言い訳が苦しい。

その時。

「今、あなたは1人ですか?」

と、黒づくめ集団のリーダー格と思われる男性が、上川に質問を投げ掛ける。

「は、はい。僕1人です。」

「あんた、ここで何か見たか?」と体格の良い男性が質問を続ける。

「いえ、なんにも見てません。」

「本当に、何も見てないのね?」

嘘がバレかけている。

まずいか。

だが、またその時。

「それくらいにしよう。あなたは十分に役目を果たしてくれましたから。」

リーダー格の男性は、意味深な言葉を発し、上川を疑う2人を静止した。そして、

「時間も近い。あなたも早くこのビルから出たほうがいいですよ。」

そう言って、上川を含めた4人はビルの出口に移動していった。

…取り敢えず、遭遇の危機はやり過ごせた。ありがとよ、上川さん。

葛籠は心の中で囮になった上川に感謝を述べる。

しかし。

出口は壁で塞がれたままだ。

あの集団は、どうやってこのビルから脱出するつもりなんだ?

テナント店の陰から黒づくめ集団の動向を覗き見る葛籠と彩子。

リーダー格の男性が、出口を塞ぐ壁の前で、手をかざす。

少しの間の後。出口を塞ぐ歯朶の壁が動いた。

絡み合った蔓が解きほぐされるように、口を開け…大人1人が十分通過できるほどの穴が空いた。

その光景に彩子が驚きの表情を浮かべる。

葛籠と彩子が凝視する中、黒づくめ集団と上川は、ビルから脱出していった。

黒づくめ集団達がビルから出ていった後、再び出口を歯朶の壁が塞いでいく。

小さく彩子が呟く。

「あいつらは、この怪異に直接干渉できる…。怪現象を管理できている。そんなこと、あり得るの?」

隣の葛籠も小さく嘆く。

「見つからなくて正解だったな。ここは奴らの腹の中も同然だ。」

上川の機転により、怪しい黒づくめ集団との接触は回避できた。それは暁光である。

しかし、上川を除く3人は、今だビル内に閉じ込められたままであった。

やはり、外部からの助けを待つほか無いようだ。

「上川さん。あの黒づくめの人達の知り合いだったんですね。」

「どうだろうな。偶然にも知った中だったってところだと思うが。上川も普通の精神状態じゃなかったような気もするし…。」

「…上川さんのおかげで助かったんですかね、私達。」

「まぁ、裏切ったわけじゃないだろうし、陥れた訳でもないだろう。俺の刑事の勘がそう言っている。」

ここは取り敢えず、葛籠の刑事の勘とやらを信じよう。だが…。

「また閉じ込めれちゃいましたね、私達。」

「ああ。奴らと同じ方法じゃあ出れないだろうし…。どうするかな…。」

と、その時。

ビルを取り巻く静寂に、突然ギュイィィィンという聞き慣れない爆音がこだました。

「な、なんだ!」

音のもとは…ビルの出口。

その出口を塞いでいた壁に、火花が奔る。

外側から切り裂かれているのだ。

「な、なんですか、あれ!」突然の事態に彩子も素っ頓狂な声を挙げた。

火花散る壁を2人が驚きの表情で凝視する中、壁に真四角の穴が空いた。

その穴の向こう側からのっそりと姿を現したのは…。

羽佐間はざまさん!」

そこにいたのは、葛籠よりも一回り歳上と思われる年配の男性だった。

葛籠の反応から察するに、この人が相棒の…刑事さんなのだろう。だがその格好に彩子は目を丸くする。

年配の男性…というより、お爺ちゃんと言っても差し支えない見た目であったが、さらに驚くことに、その両腕には老人に似つかわしくないサイズのチェーンソーが抱えられていた。

このチェーンソーを使って壁を破壊したようだ。

「いきなりでかい音出して入ってくんじゃねえよ!、心臓が止まるかと思ったぞ!」

「ははん。俺よりも歳下の若造が生意気を言ってんじゃない。だいたい、チェーンソーを持って来いと言ったのは、葛籠。お前さんだろうが。」

「…そうだけど。」

老人と思えぬほど過激な…なんともファンキーな方のようだった。

羽佐間が彩子の顔を見る。

「あんたが葛籠の言っていたお嬢ちゃん…彩子くんだね。儂は羽佐間時雨はざましぐれ、見ての通り、死に損ないの老刑事だ。」

「チェーンソーを振り回す死に損ないがどこにいるってんだよ…」葛籠のぶつぶつ声が聞こえる。

「トクシンには、儂のような死に損ないの老人の方が向いているんだよ。なんせ、あの世に半分足を突っ込んでいるんだからね。」

そんな台詞を彩子に向かって言う。

「い、いえそんなことは…」彩子も言葉に詰まる。

なんとも元気な人だ。羽佐間のパワフルさに彩子はお婆ちゃんを思い出す。懐かしささえ覚える。

「さて。怪我人がいるんだったな。早く出ようかね。」

「羽佐間さん。ビルの周囲には誰もいなかったか?」

「ああ。怪しい奴らとも会わなかったよ。」

どうやら黒づくめ集団は既にこの場から去ったようだった。

「外に車を停めてある。行くぞ、葛籠。」

「ああ。羽佐間さん。」

葛籠は意識が朦朧としたままの葵を背負い、羽佐間の開けた穴からビルを出ていく。

彩子もそれに続く。

ビルの外…。やっと出れた。

彩子は安堵して胸を撫で下ろす。

夜の静けさとやや肌寒い風を感じながら、新鮮な空気を鼻からいっぱいに吸い込んだ。

ビルの中で起きた怪異が嘘のような夜の静寂。

緊張の糸が解れ、どっと疲労が体に伸し掛かる。このままこの場で倒れてしまいたいくらいだ。

しかし、今優先するべき事は違う。

何よりも先に、葵ちゃんを病院に連れていく事。それが最優先事項だ。

刑事2人が、葵を車に乗せてシートベルトを装着する。

「葵の嬢ちゃんには申し訳ないが…、扱いとしては、他人のビルに不法侵入しての怪我だ。面倒ごとにならないように、病院へは警察の俺達も一緒に行く。いいよな。」

「はい。葵ちゃんをお願いします。」

「よし、行くぞ。彩子の嬢ちゃんも乗ってくれ」と葛籠が後部座席の扉を開ける。

…でも。

彩子は、今出てきたばかりのビルを振り向く。

そこには…醜く変貌したビルがあった。

このビルで起きた怪現象は…紛れもなく現実だった。

一体何が起きているのか。

そして、これから何が起こるのか。

『実験は終わった』

『今夜、このビルを解体する』。

奴らは、そう言っていた。

今、これからこの場で起きる事態を確認しておかなければならない。

知っておかねばばらない。

そうしなければ、葵ちゃんが命を賭けた意味も、傷ついた意味も無くなる。

「私は、ここに残ります。」

彩子が刑事2人に言った。

「なんでだ!危険だぞ!」葛籠が止める。

「私の事は構いません。お二人は早く葵ちゃんを病院に連れて行ってください。」

「しかしだ…。お嬢ちゃん1人残して行ける訳ないだろ?」

彩子の選択に葛籠は渋る。刑事としては当然だ。

と、羽佐間が運転席のドアを開けた。

「…葛籠。運転を変わってくれ。俺が彩子くんとここに残るよ。」

「羽佐間さん…。解った。葵の嬢ちゃんのことは任してくれ!」

葛籠の運転する車が、葵を乗せて走り去る。

残された彩子と羽佐間。

「残ってくれて、ありがとうございます。羽佐間さん。」

「なぁに。あんたのお婆さんだって、同じ選択をしたさ。」

「…お婆ちゃんのことを知ってるんですか?」

「ああ。古い知り合いだ。葛籠よりも、もっと古くからのね。」

「…じゃあ、私の事も?」

「彩子くんの昔のことは誰にも言わないよ。当然、葵くんにも絶対言わない。安心してくれ。老人は口が硬いんだよ。」

「…ありがとうございます。」

残った二人は、改めて、かつてビルだった物体を見上げる。

長方形の商業ビルである。

闇夜の中では単なる廃ビルに見える。

が、よく見れば、ビルの四方外郭全てに、歯朶状の物質がびっしりと畝り絡みついている。

歯朶状の物質で覆われたその廃ビルは、何かに似ていた。

…樹木。

5階建ての建築物サイズの、巨木。

彩子の目にはそう見えた。

先程遭遇した黒づくめ集団のマーク、…ユグドラシルの意匠がそれを連想させたのだろうか。

「彩子くん。」

隣に立つ羽佐間が彩子に話し掛ける。

「どうしました?」

ビルを見上げながら羽佐間は言う。

「俺の趣味は盆栽でさぁ。」

羽佐間が突然、妙な事を言い出す。

「でさ、このビル。でっかい木みたいだよな。」

羽佐間も彩子と同じ感覚を抱いたようだった。

「木ってさぁ、″動けない″んじゃなくて″動かない″んだってさ。盆栽の本にそう書いてあった。」

「そうなんですか。」

羽佐間の話に特に深い意味はないのだろう。ただなんとなく蘊蓄を語っているだけだ。

「光合成とかでエネルギーさえ得れる形状であれば″動物″みたいに必死になって全身を運動させる必要はないそうだ。」

植物は、動く事なく生きる為の栄養を得れるということか。

「そんでな。決して″不死ではない″が、一つの個体の中で″死んでいる部分″と″生きている部分″が共存できるんだとさ。植物ってな、逞しい生きもんだよなぁ。」

そんな事を話していた時だった。

ミシリ。

空気が軋む音がした。

その音は、建築物が立てる家鳴りによく似ていた。

しかし、その音は家鳴りとは比べ物にならない程に空気を揺さぶった。

一瞬だった。

廃ビルに変化が起きた。

2度3度の瞬きの間しかなかったと思う。

その僅かな瞬間で。

目に前に廃ビルは。

消え去った。

5階建てのビルが、外側から押し潰されるように凝縮して、枯れ木のように細くなり、地面に吸い込まれていったのだった。

ビルのあった場所は、濃い黄土色をした更地のみとなっていた。

「彩子くん…」と隣の羽佐間。その光景に、さすがの羽佐間も驚きを隠せないでいた。

「はい…」と彩子。今、彩子の頭の中では、目の前で起きた事態を必死に受け止めようとしていた。

一瞬でビルが消えた。それは『取り壊す』とか『解体する』とかとは全く違う現象だった。

もし仮に、あと少しでも、あのビルの中に居れば…。私達はビル諸共、大地に吸い込まれていたのかもしれない。その想像に、彩子はゾッとする。

…例の事故物件。それを一晩で更地にした方法が、解った。

怪異の証拠も失踪者の形跡も。こうやって、消し去ったのだ。

「彩子くん…。今、儂の目の前で起こった事をありのままに言うぜ。」

「はい。」

「ビルが地面に吸い込まれていった。」

「はい。」

「枯れ木が土に還る様を何倍にしたような速度で、だ。」

「…いえ。少し違う気がします。」

「…どう言うことだ?」

黒づくめ集団の意匠であったユグドラシル。

そのマークには、少しだけ、本来のユグドラシルの意匠と異なる部分があった。

本来のユグドラシルの意匠は、『大樹が世界を支える』ものである。

しかし、あの意匠はそれと異なることを現していた。

半球の地球儀。その地球儀に絡みつく…大樹の枝。

大樹は、世界を支えているのではない。

「ビルは、地下にいるナニカに、喰われたんです。」

ビルに巣くったナニカ。

そのナニカに干渉できる黒づくめ集団。

その集団が身につけていた意匠。

それは、『大地の下の巨木が世界を喰らっている』事を示していたのだ。

ビルから脱出したあと、川島葵は刑事の葛籠に近隣の市民病院に運ばれた。

幸い、足の傷は思ったほど深くはなく、命に別状はない。

だが、精神的に参っているようで、しばらく入院することとなった。

当然だ。今までに体験した事のない程の恐怖をその身に味わったのだから、そのショックも大きいのだろう。

同様に、葛籠も途方に暮れていた。

失踪事件の証拠の塊だと思っていた幽霊ビルが、これまた一晩で文字通り消滅したのだ。

再び事件の捜査は行き止まる。

「また振り出しに戻っちまったよ。けれど、この失踪事件には確かに大きな裏がある。人間が関与していることもはっきりした。まだまだこれからだ!」

と、やる気を奮い立たせている。

取り敢えずは、相方の羽佐間刑事が担当している調査を待っているという状況だそうだ。

…こうして、噂の幽霊ビルの一件は、一旦の幕を閉じたのだった。


第五話へ続く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ