亡骸群落~第三話:危険な事故物件~
彩子に心霊写真についての相談をしてから数日後。
空は晴天。しかし、私の彼氏は未だ行方不明のままである。
私と彩子は、彼氏の住んでいたアパートに向かっていた。
会社用の服装ではない私服の彩子は…地味だった。
野暮ったいスカートとTシャツに白いパーカーを合わせただけの目立たない出立ち。相変わらずおしゃれとは無縁な格好だ。
彩子と連れ立って電車に乗って数駅。彼氏のアパートの最寄り駅に到着。そこから歩いて20分程で目的地だ。
夏の猛暑は過ぎ去り、暑過ぎない爽やかな空気が頬を撫でる。
『ハイツ・クイルビー』
一見、一階建の集合住宅。両隣に似た外見の住宅が連なっている。
「ここが、葵ちゃんの彼氏の家、だね。」
「うん。彼氏も、ここに住み始めて、まだ1ヶ月くらいだったみたいだけど。」
さっそく、彩子が玄関ノブに触れる。…が、玄関は開かない。
「葵ちゃん、鍵持っている?」
「持ってないよ」当然、鍵がなければ家の中には入れない。
「家の中に入ってみないと、何もわからないね…。」
彩子の言う通りだ。とにかく鍵が必要だ。
私達は、自分のスマホを使って、アパートの名前から目の前の集合住宅を管理する不動産会社を検索する。
検索の結果、管理会社の名前が確認できた。
『マガトキ不動産』。
最寄りの駅前にある不動産の支社だった。ここに向かう道中で看板も目にしている。
もともと世話になる機会は少ない不動産の関係の会社であり、耳にする機会は少なかったが、インターネットによれば近隣地域に幾つか支社があり、その本社もこの街にあった。
不動産には関係に詳しくはないが、もともとは平野や野畑が多く、昨今開発途中のこの地域には、住居を求める参入者や土地のやりとりが多く、不動産関連も需要があるのだろう。
私達は一旦来た道を戻り、駅前に向かった。
道中、彩子と家の中に入る為の算段を練る。
「管理会社に、私の彼氏の家だから入れて欲しいってお願いしても、素直に家の中に入れてくれるかなぁ?」と私。
「うーん、厳しいかもね。…アパートを探してると言って、内見のふりをしようよ。」と彩子。
「うん。言い出したのは私だから、任せておいて」
そんな打ち合わせを私達は交わすのだった。
…
駅前の『マガトキ不動産』に着く。その店舗はテナントビルの一階スペースに構えており、支店規模なのか、さほど大きな会社ではないようだった。
店舗内に入った私達は、さっそくカウンターにいる事務員に要件を伝えた。
「あの~、アパートの内見を希望したいんですが…。」
「はい。担当の者を呼んできます。お待ちください。」
そう言ってカウンターの事務員が席を外す。
「上手くいきそう。内見のふりするなんて方法、よく思いついたね」と私は声を潜めて彩子に耳打ちする。
「うん。ちょっと前に、事故物件にお邪魔する時に使った手段」と彩子。
「事故物件…。聞いた事あるなぁ。」
事故物件とは何か。彩子が簡単に私に小声で説明してくれた。
事故物件とは、いわゆる心理的瑕疵のある物件であり、心理的瑕疵とは、不動産の取引に当たって、借主・買主に心理的な抵抗が生じる恐れのあることがらをいう。
心理的瑕疵とされているのは、自殺・他殺・事故死・孤独死などがそれにあたる。
又、その物件の以前の住人が、自殺などにより退居した場合、その有無を心理的瑕疵として提示し、隠匿してなはらないという決まりがある。
…との事であった。
事故物件かぁ…。お婆ちゃんの手伝いも大変だ。そんな感想を私は抱く。
そんな会話をコソコソしているうちに、店の奥から男性が現れた。
男性の首に掛かるネームプレートには『上川』と書かれている。
歳は40歳前半といったところだ。この男性が、例のアパートの管理人なのだろうか。
「こんにちは!、アパートの契約及び管理を任されている上川と申します。本日はよろしくお願いします! ささ、奥のテーブルへどうぞ!」
溌剌とした口調で、上川と名乗る管理人が私達に深々と頭を下げ、私達を冷房の効いた店内の席へ案内する。
「は、はい。よろしくお願いします」と私。
「内見のご希望だそうで。どちらのアパートになりますでしょうか?」
きっちりと着こなしたスーツや立ち振る舞い、そしてその笑顔は、やり手の営業マンのようだった。
「はい。ここから近くの『ハイツ・クイルビー』というアパートなんですが…。」
私がアパート名を告げると、管理人の口元の広角は更に釣り上がり、その笑顔が深みを増す。まさに満面の笑顔というやつだろう。
「『ハイツ・クイルビー』!、あそこは良い所ですよ。集合住宅ですが周囲に自然も多くて敷地も広い。おすすめの物件です!」
「あの、間取りを見せて頂けますか?」と彩子が私の横から口を挟む。
「間取りですね。ええっと…」管理人が手元のファイルを捲り、間取り図が書き込まれた紙面をテーブルに広げた。
彩子も身を乗り出し、間取り図に目を向ける。
玄関から正面に中央廊下。
廊下の途中には左右にトイレや浴室等の水場。
短い廊下の奥は、リビングやダイニングに繋がっている。
マンションなどでよくある1LDKの間取りだ。
彩子は、広げられた間取り図をじっと見つめて…、
「階層が二つありますが…、二階建てなんですか?」
と質問する。
彩子の言う通り、居住スペースが2ヶ所ある。
さっき直接アパートを目にした時は、一階戸建てに見えた。
「いえいえ、なんとこの住宅、地下室があるんですよ。」
「地下室、ですか。」
「はい。正確には、半地下のスペースをロフトとして活用できるようにしています。それがこの住宅の最大の売りなんですよ。特にお若い方に大人気でして。」
「そうなんですね」と私。地下室があるとは確かに珍しい。音楽関係の仕事をしていたという彼氏にもうってつけだったのかもしれない。
「地下室への入り口は…、リビングとキッチンの間の階段…。」
改めて彩子が間取りを確認する。…そう言えば、彼氏が送ってきた心霊写真の撮影場所はリビングだった。
何か思うところがあるんだろうか。
「さて、内見の前に、お客様にアンケートをお願いしたいのですが…。」
と、管理人が申し訳なさそうな表情で私に申し出る。
「アンケート…ですか」とやや戸惑う私。その態度を察してか、管理人は、
「形式的なものですよ。ご気楽にお答えください。」
と頭を下げながら、一枚の用紙とペンを差し出した。
まぁ、断る理由もない。これも内見のためだ。協力しよう。
そう思い、私はペンと用紙を受け取り記入を始める。
彩子も横からアンケートの内容に目を向ける。
そのアンケートの内容は…。
一人で住む予定か。
他の家族は遠くに住んでいるか。
仕事は何か。
…ここまではいい。普通の質問だ。しかし、そこから先の質問内容を見て、私は驚いた。
周囲との人間関係に問題はあるか。
いじめを受けているか。
周囲に相談できる人間はいるか。
重い病気を患っているか。
精神に疾患や鬱病などの症状はあるか。
社会で孤立していると感じているか。
経済的に困っているか。
多額の借金はあるか、等々…。
「あの!」アンケートへの書き込みを待つ管理人に彩子が声を挙げる。
「どうされました?」
「この質問、アパート探しに関係あるんですか?」
「はい。必要な情報です。」
彩子の疑問への返事は即答であった。私達の戸惑いを意に感じることなく、管理人の態度に変化はない。
訝しげな表情を浮かべる彩子。
私もやや不可解さを感じてはいたが、アンケートへの回答を続けるしかなかった。
しかし、アンケートの最後の質問見て、さすがの私も目を見張る。
最後の質問。それは、
あなたは死にたいと思っているか。
であった。
…
回答を書き込んだアンケート用紙を管理人に渡す。
当然、アンケート用紙への私の回答は、ほとんどNOだった。
奇妙な質問ばかりだった。だが目的の為なら、小さな不可解さには目を瞑ろう。これで目的のアパート内見への扉は開かれた。
…と思っていたのだが。
管理人は手にしたアンケート用紙を暫く眺めた後、「お客様、申し訳ありませんが…」と口を開く。
「内見を希望していたアパートなんですが…。ちょっと手違いがありまして。本日は内見できなくなりました。」
「はぁ?」その返答に驚く私達。
「大変申し訳ありません。お帰りください。」
先程までの営業スマイルはどこへやら。
「別の不動産会社をお尋ねください。では私はこれで。」
管理人の表情から笑顔は消え去り、もう用事はないから早く帰ってくださいと言わんばかりの接客態度に豹変した。それは、明らかにアンケートの内容を目にしての変化だった。
しかし、彩子が食い下がる。
「どうか、少しだけでも家の中を見せて頂けないでしょうか!」
「しかしですね…」管理人が拒絶の姿勢を見せる。
「こ、今度、他の友達を連れてきます。私、一人暮らしの友達多いんですよ。だからお願いします!」
と、彩子は有りもしない友達を連れてくると嘘を吐きながら懇願する。
その懇願に管理人も「…仕方ないですね」と折れる。
「入り口から見るだけですからね。」
管理人は渋々と答え、「アパートまで車を出します」と言って、テーブルから席を外した。
「葵ちゃん」管理人に聞こえないように、彩子が私に耳打ちする。
「あのアンケートの質問内容って、『失踪しやすい人の特徴』だよ。」
「…そうなの?」
「うん。」
…そう言えば、彼氏もお金に困っていた。借金もあったのかもしれない。
「この不動産会社は、何かおかしい気がするの。放っては置けない。」
それは、普段鈍臭い彩子が見せない強い口調だった。
…私が巻き込んだ件とはいえ、彩子は何故、この不動産会社に拘るのだろうか。
「…彩子。なんでそんなに協力してくれるの?」と疑問を口にする。
その質問について、彩子は迷うことなく返事を返す。
「友達の為だし…。それに、もし人の命に関わる危険があるなら、なんとかしなきゃ」と。
それは、『視える』彩子だからこその、独特の使命感なのだろう。
…
私達を乗せた車は、例のアパート『ハイツ・クイルビー』に到着する。
「着きました」と管理人に降車を促され、私達は車から降りた。
「今、案内ができる住宅はここだけです」と、管理人は失踪した彼氏が住んでいた住宅を指さす。その口調は事務的で、早く要件を済ませたいという態度が如実に現されていた。
「早く終わらせましょう」管理人はそう言って、玄関のドアに鍵を刺す。
「あの!」と彩子。
「この住宅には、誰も住んでいないんですか?」
葵の彼氏は失踪扱いであり、彼氏の荷物や家財道具はまだある筈である。それなのに内見を許可した管理人に彩子は違和感を感じたのだろう。
「構いません。以前の住人の荷物はありますが、近々業者が片付けに入る予定ですから。」
「片付けって…。住人はどうなったんですか?」
「もう帰ってきません。そう聞いています。」
「何故、そんな事がわかるんですか?」
「上の者からそう聞いています」と管理人が平然と答える。
「上の者って誰ですか?」
「上の者は上の者です。無関係なあなた方に答える必要はありません。そんなことより、内見はしないのですか?」
「…お願いします。」
管理人の応対に不可解さはあったが、こちらから無理に内見を希望している手前、無理は言えない。
「見るのは玄関から見える範囲だけですよ。中には入れませんからね」そう釘を刺した上で、管理人は玄関ドアを開く。
私と彩子は、開かれたドアから住宅の中を覗き見た。
玄関からは廊下がまっすぐ伸びており、廊下の左右にはトイレと浴室と思われるドアが見える。そして廊下の先には、一際存在感のある格子状の模様の入ったドアが目に入る。
「奥のドアはキッチンとリビングに繋がっています」私達の後方に控えている管理人が間取りの説明をする。店舗で見せてもらった間取りの通りだ。
ということは、地下室への階段は、リビングとキッチンの間…、あの扉の向こう側にあるのだろう。
私と彩子は、玄関に一歩、足を踏み入れた。
その時。
突然、鼻腔に刺激が奔る。
家の中から、嗅ぎ慣れない変わった臭いがしたのだ。
最初は腐敗臭かと思った。
しかしよく嗅げば、違う事がわかる。
もっと泥臭く、カビ臭い…。例えるなら、枯葉が腐って土に混ざるような…。
そう、腐葉土の臭いを何倍にしたかのような、そんな臭気が住宅の中から漂ってくるのだ。
薄暗い廊下の奥から臭う腐葉土の匂い。それは違和感以外のなにものでもない。
彩子の顔に警戒の色が浮かぶ。
「彩子…、何か、視えるの?」私は彩子の上着の裾を掴みながら問う。
「ううん。何も視えない。でも、ここには、何かある…。」
「どういうこと?」
「見えない。けど…説明しづらいんだけど、何か、嫌な『流れ』を感じるの…。」
「な、がれ…。」彩子の説明の意味はわからない。
しかし彩子は明らかに警戒心を強めている。
彼氏の失踪に関係する何かが、ここにはある。漠然とだが、彩子はそう判断している。
この家の奥には、彩子でもはっきりと解らないような、日常では決して有り得ないナニカがあるのだ。その非日常な事態に、私の胸の動悸が速まる。
と、その時、私達の視界を遮るように管理人が割って入ってきた。
「もう十分でしょう。閉めますよ」と管理人は鍵を手にしている。
「少しだけで良いんで、中に入れないでしょうか」と食い下がる彩子。
しかし「入り口から見るだけという約束ですから」と、管理人はにべも無い。
その時である。
「あ~、お取り込み中にすまないんだが…。」
私たちの後ろから声がした。
誰かと思い振り返ると、そこには見たことの無い男性が立っていた。
歳の頃は50歳代だろうか。濃い目の茶色いスーツに身を包み、若干白髪の混じった髪をオールバックに纏めている。目元は薄めのサングラスをしておりはっきりと見えないが、切り揃えられた顎鬚が、その出立ちに貫禄を滲ませている。
「ええっと…、どなたでしょうか?」
管理人にも見覚えのない人物のようで、戸惑っている。
只者ではないその風体に、私は一瞬、ヤクザかと思ってしまった。
男が「そこのあんた。このアパートの関係者かい。と管理人に問い掛ける。
見た目によらず、サングラスの男性の口調は意外と砕けたものだった。
「は、はいそうです。」
「今、アパートを探しているんだけどよ、ちょうど良かったぜ。」
アパートを探しているという言葉に反応して、
「あ、あぁそうなんですね!」
と管理人の態度が一気に営業モードに変わった。
「いいアパートだ。ここに住みたいんだが…。」
どうやら、このサングラスの男性は住居を探しているらしい。
営業モードに入った管理人は、玄関に佇んだままの私達を無視して接客を始める。
なんとこの住宅、地下室があるんですよ。正確には、半地下のスペースをロフトとして活用できるようにしています。それがこの住宅の最大の売りなんですよ。特に男性の方に大人気でして。
などなど、先ほど耳にしたばかりの営業トークが管理人の口から飛び出ている。
男性も頷きながら、「一人暮らし」「家族はいない」「この街には初めてきた」などの返事を返していた。
「ささ、ここは暑いので話の続きは私の車の中でしましょう。」
管理人の興味は、完全に男性に移ったようで、二人で管理人の車へ行ってしまった。
どうやら既に私達は眼中にないようだった。
そんな私達の目の前には、鍵を閉めずに開いたままの玄関。
…チャンスである。
私達は無言で頷き合う。
…
管理人が男性のお客さんと話をしているうちに、このアパートを調べよう。
期せずしてチャンスが訪れた。
しかし、だ。
目の前にあるのは昼間とは思えない程に薄暗い廊下。
私は玄関脇の電灯のスイッチに触れる。
が…何故か天井の蛍光灯は灯らない。
およそ人が住む家とは掛け離れた臭気が漂う家屋。
『視える』彩子が警戒するほどの嫌な雰囲気。
数メートル歩けば着くはずのリビングの扉が遥か向こうに感じる。
これは普通のアパートではない。その目の前の非現実さに、私の胸の動悸は再び速まる。
中に入って大丈夫なのか。逡巡する私。だが。
「葵ちゃんはここで待ってて。中に入るのは私だけでいいよ」と彩子。
「でも…。」
この家には得体の知れないナニカがある事はなんとなく解る。はっきり言って、足が竦む思いだ。しかし、だからと言って、彩子だけに押し付けるわけにはいかない。しかし…。
「お願い。葵ちゃんは入らないで。屋内に入らなければ安全だと思うから。」
お願い。そう懇願するような言葉を用いながらも、そこには逆らうことができない強さがあった。
「…わかった」彩子の勢いに気押された私は、頷くしかなかった。
彩子は靴を脱ぎ廊下に挙がる。
廊下には埃が堆積しており彩子の白いソックスを茶色く汚す。しかし、彩子はそれを気にすることはない。
彩子の視線は、ただ一点を…廊下の奥のリビングへの扉を凝視していた。
「じゃあ、行ってくる。」
廊下を進む彩子。その小さな背中に緊張感が奔っていることは目に見えて解る。
玄関から差し込む太陽の灯りだけが、舞い散った埃を照らし陰影を作る。
その灯りも奥に進むにつれて届かなくなり、彩子の姿を闇が包み始めた。
慎重に、ゆっくりと歩を進める彩子。
浴室の扉を通り過ぎる。
リビングの扉まであと少しの距離だ。
「彩子、大丈夫?」私は彩子に声をかける。
「大丈夫。でも、臭いは強くなってるみたい。」
私に背を向けたままで彩子が答える。
リビングに通じる扉に辿り着いた。
扉のノブに手を掛け、ゆっくりと開く。
玄関にいる私からも、リビング内のテーブルがちらりと見える。
彩子の姿が、リビングの扉の向こう側に消える。
「彩子ー、そっちはどうなっているのー」大声で呼びかける私。
「薄暗くて何も見えない」と彩子の返事が聞こえる。
大した距離でもない筈なのに、その声は闇に吸い込まれているかのように小さい。
「彩子ー。携帯電話のライトを使ってー!」
室内の彩子に届くように大声で呼びかけ続けた。
「わかったー。そうしてみる。」
同じく彩子が大声で私に返事を返す。
ドアの隙間から電灯の明かりが漏れる。彩子が自分の携帯電話のライトを点灯させたのだ。
携帯の明かりがリビングの奥に移動したのが見えた。
このままでは、声も届かなくなる。彩子が心配だ。何か会話できる手段はないか…。
…そうだ!、電話だ!!
「彩子ー。携帯で私に電話できるー?」
「葵ちゃん、いいアイデア!」と彩子も大声で返事を返す。
直後、彩子からの着信。ハンズフリーモードで通話を始める。
これで、彩子の安否は確認できるようになった。
リビング内に移動したと思われる彩子の声が電話から聞こえる。
「あ、この場所、見覚えがある。彼氏さんの写真に写っていたところだ。」
どうやら彩子が今いるリビングは、彼氏が送ってきた心霊写真の撮影場所のようだ。
「何か、視える?」と私は電話を通して彩子に尋ねる。
「何も、…視えない。誰もいないみたい。」
彩子の言う『誰も』とは、いわゆる普通には見えない幽霊も指すのだろう。
その後、1分程の間、携帯電話からは何の音も声も聞こえなかった。
長い1分だった。
しかし、携帯電話のライトから発する光の位置はチカチカと変化しており、彩子がリビング内を探索している事がわかる。
「…なんだろう、これ。」
光の動きが静止した。
彩子が何かを見つけたのだろうか。
「彩子、どうしたの?」
「…床に、黒い…染みがあるの。」
黒い染み。
一瞬、私の脳裏に、例の心霊写真の画像が蘇る。
心霊写真に写っていたモノも、黒いナニカだった。
そして、その黒いナニカは、彼氏を後方から覆い被さるように…人を襲っているようにも見えた。
ふと、私は考える。
これは本当に現実の出来事なのかと。
…現実だ。夢でも幻でもない。しかし、私の脳味噌は目の前の非日常の光景に着いていけておらず、ふわふわとしていた。
「染みがキッチンに向かっている…。違う。キッチンとリビングの間の…地下室に続いている。」
彩子の声で我に帰る。
この家には、地下室がある。
その地下室へはリビングとキッチンの中間にある階段で繋がっている。
間取り図にはそう描かれていた。
地下室へ続く黒い染み。
それは、彼氏の失踪と関係があるのだろうか。
「私、地下室へ行ってみる。」
危険な予感がする。しかし、止めても無駄だろう。
「気を付けてね。何かあったらすぐに戻ってくるんだよ!」
私に言えるのはそれだけだった。
携帯電話からは、彩子が室内を移動する物音だけが聞こえる。
「地下室への階段に着いた。これから降りてみる。」
「うん。」
「…黒い染みは、階段の下に続いている。ん…、臭いがすごく強くなった。腐ったドブみたいな臭い…。」
声を聞いているだけなのに、携帯電話を握りしめる私の掌に汗が滲む。
「…何あれ?」
「なに!、何か視えたの!?」
「階段の途中に…、黒い…塊り?。違う。なにかブヨブヨした…動いている?」
不定形な黒い塊り?が彩子の目に視えたらしい。
「…塊りじゃない。形が、変わっている。あれは、集まって蠢いている?。蝿の群れ?」
彩子は黒い不定形な何かの姿を説明しようとしてるが、表現がはっきりしない。
「違う。もっと小さな…靄とか霧みたいな…あ!」
「どうしたの!」
「…脚が、視える。小さな…脚…。あ、だめ!」
彩子の叫び声と共に、ドタドタと階段を踏み鳴らす音が携帯から鳴り響く。
その通話を最後に、彩子との会話が途切れた。
「彩子!」私は携帯電話に叫ぶが、通話は途切れたままだ。
私は玄関から屋内に目を向ける。
静寂。
物音ひとつ、しない。
焦る私。彩子は無事だろうか。
私も家の中に入って捜索した方がいいだろうか?
それとも、離れた車にいる管理人に助けを求めたほうがいいだろうか?
もしも、もしもこのまま彩子が戻って来なかったら…。
失踪。
その言葉が頭を過ぎり、血の気が引く。
フワフワとしていた非日常への感覚が、恐怖に変わる。
彩子は言っていた。屋外であれば危険はないはずだと。つまり今、私は安全圏と危険域の瀬戸際に立っているのだ。
それはまるで、決して牙の届かない位置からロープに繋がれた凶暴な犬の前に立つような、そんな戦慄に似ていた。
彩子の安否を確かめなければならない。しかし恐怖に支配された私には、その一歩が踏み出せない。
だが、彩子はその一歩を難なく…、いや、勇気を出して踏み出せていた。
彩子、ごめんなさい。私は彩子みたいな勇気が出せない…。
携帯電話を握りしめながら、私は膝を崩し顔を伏せる。
あぁ、このまま彩子が消えてしまったら私のせいだ!
背中に冷たい汗が流れる。日常という名の足元の地面が崩れ、奈落の底に落ち込むような感覚。その恐怖の中で、恥ずかしながらも私は、彩子の勇気に尊敬すら覚えていた。
思案した時間は実際には数分だったのだろうが、体感的にはもっと長く感じた。
ガタン。廊下の奥から物音がした。
びくりと私は顔を挙げる。
私の視界の中。奥のリビングの扉が動いた。
ああ!
扉から出てきたのは…彩子だった!
薄暗い廊下のせいではっきりと見えないが、何故か上着のパーカーを脱いで丸めて腕に抱えている。
だがそんなことは取り敢えずどうでもいい。彩子の姿を見て安堵する私。引いていた血の気が戻り、ほっと胸を撫で下ろす。
私が声をかける前に、家の奥から逃げるように廊下を駆け出す彩子。
早く、早くこっちに戻ってきて!
玄関まで辿り着いた彩子が急ぎ靴を履き、家の中から飛び出る。そして、勢いよく玄関のドアを閉めた。
…その鬼気迫る勢いは、まるで中にいるナニカを閉じ込めるようだった。
ともあれ、彩子は無事だった。怪我もしていない…と思ったが、彩子の両腕と、その腕に抱えていたモノを見て驚く。
彩子の両腕は赤茶けた色に染まり汚れている。その赤褐色は腕に抱く白いパーカーも汚していた。いや、赤褐色…ではない。
もっと赤黒くて…。それは乾いた血の色をしていた。
そして、彩子が抱えていた上着からは、…小さな脚が生えていた。
特徴的な掌をした小さな脚…。
それは猫の前脚だった。
彩子は一匹の猫を抱いていたのだ。
「もう死んじゃってる。埋めてあげなきゃ。」
自身の服が汚れることも厭わず、猫の遺体を掻き抱く彩子。
その時、私は疑問を覚えた。
上着に包まれているためだろうか、その猫の遺体は妙に小さく見える。
子猫なのだろうか。それにしては脚の大きさが…。
そこで私は、はっと気づく。
その猫は、…半分しかなかった。
下半身が、無かったのだ。
…この猫に…何があったというのか…。
「アパートの中で…何があったの?」
震える声で私は彩子に問う。
「うん。あのね…」彩子が説明を始める。
「地下室への階段の途中に、黒い靄の塊りが、何かに群がっていたの。そこから、この猫の脚が見えた。助けなきゃって思って、階段を駆け降りた。その時に携帯電話の通話が切れちゃったの。ごめんね、心配させて。」
「いいよ、そんなの。彩子が無事で良かった。」
「それで、黒い靄に私が近付いたら、その靄がブワーッて広がって、階段の下…地下室に吸い込まれていった。この猫は、その黒い靄に、…襲われていたんだと思う。」
「…その黒い靄って、なんなの? 幽霊?」
「わかんない。その時にはもう…。猫はこの姿で亡くなっていたの。」
…では、その黒い靄が、猫に…何かしたというのか?
「早く猫を外に出してあげなきゃとも思ったけど…。黒い靄の正体も掴まなきゃって思って、そのまま地下室へ降りてみた。」
そこで彩子は両肩を掻き抱き、身震いする。
「…何かあったの?」
恐る恐る問う。
「地下室は…。」
「うん。」
「真っ暗だった。ライトで照らしても、なにも見えなかった。」
「どういうこと?」
「地下室は、黒い靄で、いっぱいだった。」
彩子には幽霊が『視える』。彩子の視界には、地下室はその黒い靄で埋め尽くされているように見えたのだろう。
「それで、地下室いっぱいの黒い靄は、私が見ている前で地下室の真ん中に集まって、凝縮して、形を変えて…。」
「?」彩子の表現が急に解りづらくなった。
「集まって、形を変えて、それで…。」
彩子はそこで説明を止めてしまった。
顔を伏せ、これ以上は話たしたくないとばかりに口をキッと結ぶ。
数秒後。彩子は一言だけ、吐物を吐き出すように、言葉を漏らす。
「アレは人間が触れちゃいけない闇だった。」
そう語る彩子の顔色は真っ青であり、今にも叫び出したい衝動を噛み殺しているかのようだった。
「…このアパートは危険だ。誰も近寄ってはいけないんだ。」
それが、家屋内を探索した彩子の出した結論だった。
「葵ちゃん。」
「どうしたの?」
「管理人さんは、この家が危険である事を知っていると思う?」
…管理人の妙な言動を鑑みるに、知らないということはないだろうと推測できる。
猫の遺体を胸に抱いたまま、彩子は管理人がいる車に向かった。
…
彩子が管理人の車の窓をどんどんと叩く。
「管理人さん、話があります!」
「な、なんですか。あなたたち、まだ居たんですか。」
どうやら管理人は新たな商談に夢中で、私達のことは既に頭から消えていたようだ。
彩子の剣幕に、渋々といった表情で管理人が車から降りてくる。
「あのアパートは異常です。あなたは何か知っているんでしょ!」と管理人を問い質す彩子。
「あ、あんた、まさか無断で家の中に入ったのか!」
「そんなことは今はどうでもいいです!。それよりも、あのアパートの地下室にいるアレはなんですか!」
「…地下室のアレ? 何のことですか? 商談の邪魔をしないでください。」
彩子の質問に付き合う気を全く見せない管理人。
それでも彩子は食い下がる。
「あのアパートに住んでいた私の友達の彼氏が行方不明になっているんです。無関係な筈がありません!」
「だから、何のことだか知りません。あそこは普通のアパートですよ。」
「普通なわけないですよね。今だって、中で猫が襲われていたんですよ!」
「私は上の者の指示で仕事をしているだけです。」
「じゃあ、上の者とかいう人と話をさせて下さい!」
要領を得ない管理人の対応に、彩子も負けじと強固な姿勢を取り続ける。
と、その時。
「あ~、ちょっといいかな。」
口を挟む男性の声。
声の主は、車内から私達のやりとりを見ていたお客さん…、50歳ぐらいのサングラスの男性だった。
サングラスの男性は車から降り、彩子の隣へ歩み寄る。商談の邪魔をしている彩子に文句でも言いにきたのだろうか。
側から見守る私もハラハラする。
「あ~、管理人さん。」
先ほどと同じ砕けた口調だが、その声は先ほどとは打って変わり、腹の底から押し出してきているかのような迫力があった。
「あんたに聞きたいことがあるんだがね。」
男の質問は、管理人に向いていた。
「は、はい」男性の迫力に、管理人も緊張したように畏まる。
男性が目元のサングラスを指で下げる。
ずらされたサングラスの隙間から覗く瞳。その眼は、管理人を凝視して…いや、射抜くように睨みつけている。
「あのアパートは、本当に『普通』のアパートなんだよな?」
「は?」
「あんた、まさか俺に事故物件を売りつけようなんて思ってないよな?」
管理人を睨みつける男性。その眼力は全ての嘘を見抜くような胆力を秘めている。
事故物件!
まさか目の前の男性からそのワードが飛び出るとは思ってもいなかった。彩子も驚きの表情を見せる。
「え、いや、いえ…、事故物件なんかじゃないですよ。お客さん、何をおっしゃっているんですかねぇ」
戸惑いの色を隠せていない管理人。
空惚ける管理人の嘘を、男性は見逃さない。
「そこのお嬢さんが言うには、あのアパートで失踪事件があったそうじゃないか。」
「いやいや偶然ですよ。」
「偶然かぁ。確かに、住人が失踪しただけじゃあ、事故物件…いわゆる心理的瑕疵には該当しないよなぁ。」
「そ、そうですよ」目を泳がす管理人。
「しかし、だ。アパートの中には猫の遺体があって、しかも地下室に奇妙なモノがあったというじゃねぇか。」
「そ、それはそこのお嬢さんのでっちあげですよ。困ったモノですね、ははは。」
「それにだ、あんたが俺にしてきたアンケートだ。」
「は、はぁ。」
「あの質問項目なぁ。あれは、失踪しやすい人間の特徴と一致する。」
アンケート。私にもしてきたやつか。
「あのアンケートは、失踪しても騒がれることの少なそうな人間をピックアップするためのものなんだろ?」
「いや、あれも上の指示でして…。」
「それに何よりも。この数年間。あんたのところの不動産会社に関連する物件で、何人もの人間が失踪している。あんた、それは知っているんだろ?」
男性の言葉に、私は驚きの表情を浮かべる。
彩子も同様だった。失踪事件は、このアパートだけじゃなかったのか。
「日本国内での原因不明の行方不明者は年間で10万人近い。失踪は珍しいことじゃあないとも言える。しかし、この街の失踪者の人数は他の土地と比較しても異常だ。この街で相次ぐ失踪事件。俺はそれを調べにきたんだよ。」
…この男性は、彼氏を含む相次ぐ失踪事件の存在を知っていて、この管理人…『マガトキ不動産』に接触してきたのか。
もう、言い逃れはできそうにない。そう管理人は悟ったのか、得意の営業スマイルも消え去っていた。
「で、あんた、このアパートで何が起きているのかを知っているんだろ?」
有無を言わせぬ口調で質問を繰り返す男性。
その迫力に怯みながらも、管理人は何とか声を絞り出す。
「わ、私は何も知りません…。上の者に聞いて下さい。」
それきり、管理人は口を閉ざす。
「…そうか。じゃあ、その上の者とやらに当たってみるよ。」
これ以上質問を繰り返しても無駄と悟ったのだろう。男性も質問を止め、背を向けてその場から歩き出す。
「あの!」その場から去ろうとする男性の背中に向かって、彩子は駆け出し、声を掛ける。
「あなたは誰なんですか?」
と、彩子は当然の疑問を男性に問うた。
事故物件に詳しく、失踪事件を調べる男性。
その立ち振る舞いから、事件を調査する探偵か何かだろうか?
彩子の言葉に、サングラスをかけ直した男性は振り向く。
「あぁ、お嬢ちゃん達には礼を言わなきゃな。おかげで手間が減った。」
「…あなたは探偵さんですか?」と尋ねる私。
「う~ん、訳あって身分は明かせねぇんだけどな。名前は葛籠だ。」
「葛籠さん…。」
「しかし、危ないことはするんじゃねえぞ。若い身空で何かあったら親御さんが悲しむからなぁ。」
そう言って、葛籠と名乗る男性は再び歩き出した。
…と、ふと何かを思い出したかのように葛籠の歩みが止まる。
「なぁ、お嬢さん」
彩子に向かって男性が語り掛けた。
「あんた、どこかで会った事、あったかな?」
「え?」その質問に首を傾げる彩子。
「…違ったか。歳をとると物覚えが悪くなっていけねぇや」そう言って、葛籠は再び歩き出し、その場から消えていった。
彩子も、記憶を探るように暫く考え込んでいたが、ふと、腕に掻き抱く猫の遺体に目を落とす。
小さな遺体。奪われた小さな命。
それを掻き抱き、彩子は何を思っているのだろうか。
顔を挙げた彩子は、フリーズしたパソコンのように呆然としたままの管理人のもとに向かった。
そして、
「管理人さん。…いえ、上川さん。」
管理人の胸元のネームプレートを確認し、彩子は管理人を本名で呼んだ。
しかし、管理人の返事はない。
「この猫は、あなたが管理していた住宅の中で亡くなっていました。私は、このまま猫を埋葬してきます。あなたはどうしますか?」
彩子に抱かれている失われた小さな命。
猫の命だけではない。あの住宅は、もっと多くの命を脅かしてきたのかもしれない。そしてこの管理人は恐らく、その命を脅かす行為に加担し続けてきたのだろう。
彩子の質問に対して管理人の返事はない。が、モゴモゴと口の中で何かを呟いていた。
耳を凝らしてみると、「仕事だから仕方ない」「上の者の指示だから仕方ない」とぶつぶつ呟いている。それはまるで、自分に言い聞かせているかのような…自分に暗示を掛けているかのようだった。
「あの家の地下には、危険なナニカが巣食っています。あなたはそれを知っていたんですか?」
反省の色など皆無な管理人に対して、彩子が詰問を繰り返す。
が、やはり明確な返事はしてこない。「仕方なかった仕方なかった」と独り言を繰り返すだけだった。
彩子の表情が一瞬、険しくなった。しかし、唇を噛んで無表情を保つ。彩子は今、多分、怒りの感情を顔に出すことなく押し殺したのだろう。
「…上川さん。最後に一つだけ、いいでしょうか。」
モゴモゴと呟き続ける管理人に向かって、彩子は声を掛ける。
「…貴方は最近、近しい方を亡くしたと思います。」
彩子のその言葉に反応し、管理人の独り言が止まった。
管理人の視線が彩子に向く。なんでわかる。その瞳はそう言っていた。
「私には、それが何となく解るんです。」
近しい人を亡くした。管理人には思い当たる事があるのだろう。
「あなたの仕事は、その方に顔向けできることなんですか?」
怒りを押し殺したまま、無表情のまま、彩子は言葉を続ける。
「不動産を扱う中には事故物件もあるでしょう。それは仕方ない事です。人が住む所には不幸が起きる事がある。それは必然です。けれど、危険があると知っていて、黙って売りつけてきた行為は許せません。あの家はもっと早く封鎖するべきだったんです。」
彩子が猫の遺体を掻き抱く。この猫も、彩子の言う『危険』の犠牲になったのだ。
どこまでも、彩子は命に真摯であった。
伝えるべき事は伝えたのだろう。彩子は管理人に背を向ける。
「行こう。葵ちゃん。」
歩き出す彩子。
「…うん」その言葉に、私は従うしかなかった。
ふと、私はチラリと後ろを振り返る。
一人残された管理人は、夏の空を仰ぎ見ながら動く事はなかった。
その空を仰ぐ管理人の姿に、私は何故か見覚えがあるように感じた。
…
こうして、一枚の心霊写真から始まった事故物件騒動は終わった。
ここからは後日談である。
事故物件からの帰り道。私達は近くの神社で猫を埋葬した。
小さなお墓に口を真一文字に結んで掌を合わせる彩子の姿が印象的だった。
「ねぇ彩子。猫も幽霊になるの?」
「うん。でも、この猫の魂は、地下で見つけたときにはもういなかった。きっと成仏したんだと思う。」
そんな会話をして私達は帰路についた。
…
翌日。仕事の後。
私は再び『マガトキ不動産』に向かっていた。昨日の出来事の行方が気になったのだ。
で、その顛末だが…。
駅前でテナントを構えていた『マガトキ不動産』は…。
閉店していた。
店舗の入り口は閉じられ、テナント募集の貼り紙がされている。
中はもぬけのからで、誰もいない。机一つなく綺片付けられている。むしろ、昨日まで不動産会社があったのが嘘のようだった。
一晩のうちに、店舗が一つ、消えたのだ。
昨日会ったサングラスの男性…葛籠とやらが何かしたのだろうか?
念の為、私はあのアパートにも足を伸ばした。たぶん、あのアパートも立ち入り禁止にでもなっているのだろう。そう想像する。
しかし結果は、想像以上だった。
アパートは…。
無くなっていた。
立ち入り禁止なんてレベルじゃない。
家屋は取り壊されたのかように丸ごと消え去っていた。
敷地も土で埋め立てられいた。
一晩で一軒の住宅を跡形も無く消し去る。そんな事が可能なのだろうか。
…
翌日。私は彩子に、例の事故物件と不動産会社の顛末についてを話した。
彩子は、神妙な表情で私の話を聞いていた。そして一言。
「葵ちゃんはもう、この件には絶対に関わっちゃいけない」。
そして、「これ以上関われば、命を落とすかも知れない」とも続ける。
「私も、お婆ちゃんに相談してみるから。」
そう言って以降、彩子からこの件について話題にする事は無かった。
…
事故物件に関わって数日が経過した。
あの日の記憶は、衝撃は、まだ私の脳裏にこびり付いている。
自宅のベッドでタオルケットに身を包みながら、私は例の事故物件での出来事を思い返す。
腐葉土のような腐った臭いが漂う怪しい住宅。
彩子が見たという黒い靄と猫の遺体。
友達を失うかもしれなかったという戦慄感。
それはまさしく、日常とはかけ離れた普通ではない体験であった。思い出しても恐怖に胸が冷える。
しかし同時に、そんな心霊現象に真っ直ぐ足を踏み出せる彩子の勇気に、私は畏敬の気持ち…尊敬すら覚えていた。
職場での彩子は、仕事ができる人間ではない。愛想笑いすらも上手くできず、その場の空気に自分を合わすこともできない。要領も悪い。
誰にも嫌われたくないとスキルを磨き続けてきた私とは、ある意味正反対のタイプだった。事実、私自身も今日までは、彩子を幽霊が『視える』だけの鈍臭い人物だとイメージしていた。
しかし、私は知ってしまった。
彼女の優しさを。
命に対しての真摯さを。
怪異に立ち向かう勇気を。
人を助けようとする力強さを。
彼女のその勇気の根幹は、命に対しての優しさなのか。それとも霊能力者で恩人でもあるという祖母の影響による義務感なのか。
事故物件の場で、葛籠と名乗るサングラスの男性が言っていた。
『この街の失踪者の人数は異常』であると。
そしてそれは、例の事故物件とは無関係ではない。
それだけではない。
この数日間。街の失踪事件を意識しているうちに不可解な事に気づいた。
失踪した私の彼氏(?)は、今も行方が知れない。しかし、それを気にしている人間が少ないのだ。少ないというよりも、すでに誰も気にしていない。話題にすらのぼらない。
彼氏を紹介してくれた先輩にも聞いてみたが、「警察も探してくれているし」の一言で済まされてしまった。「もともと問題の多いやつだったからね」とも言っていた。
…そんな人物を私に紹介するな!とも思ったが、それは置いておいて…。
確かに、葛籠と名乗る男性は、『いなくなっても問題になりにくい人間が失踪している』という類のことも話していた。
それにしたって、頻発しているという失踪事件が街で話題になっていないなんて、それこそ異常である。
「この街で、何かが起きている。」
寝返りをうち天井の模様に目を向けながら、私はポツリと呟いた。
そして、失踪事件自体が問題にならない空気がこの街にはある。
その空気を平気で受け入れているこの街に対して、私は強い苛立ちを覚えていた。
しかし、それと同じくらい、別の感情が私の中に生まれていた。
「私にも、何かできることがあるかもしれない。」
彩子みたいに。
その感情は。
神懸彩子という特別な存在への憧れ。
それに近しいものだった。
第四話へ続く