亡骸群落~第一話:禁じられた洞窟~
数年前の事である。
都会の街から離れた山奥に、一つの集落があった。
交通機関の整備も追いついていない不便な土地ではあったが、住民は明るく、互いに支え合う精神で平和に暮らしていた。
いたって普通の、田舎の村。しかし一つだけ、その村…土地には『特別』なことあがった。
付近の山麓にある洞窟の存在である。
その洞窟について、村には一つの言い伝えがあった。
『絶対に近づいてはいけない』
それは、この村ができる遥か以前からの伝承であるとう。
…
人は生きていれば、不幸は平等に訪れる。
きっかけや大きさ、置かれた状況は違えども、必ず不幸はやってくる。
その集落で暮らす男性に、一つの不幸が訪れた。
最愛の息子を不幸な事故で失ってしまったのだ。
誰が悪い訳ではない。運悪く、村近くの崖から滑落してしまったのだ。
やり場のない悲しみを抱えたまま、感情のやり場を探して、男は山麓の森を彷徨っていた。
鬱陶しい程の日差しが森の木々の隙間から木漏れ日を差し込ませている。
森の中を当てもなく歩き続ける男。
そして偶然にも『絶対に近づいてはいけない』洞窟の付近に足を踏み入れた時。
男の視界の隅に、ゆらゆらと揺れる黒い影が映った。
男がその黒い影に注視した時。その影はぐにゃりと霞み、…男にとって馴染みのある形にその姿を変えていった。
…亡くした息子がそこにいた。
まさかと息を呑む男。
男の視界の先で、子供の形をした影が歩き出す。
子供の影の歩む先には…あの洞窟があった。
息子の形をした影は洞窟の中に消えていく。
男も子供を追って洞窟に足を踏み入れた。
『絶対に入ってはいけない』伝承があった事など、男の脳裏から消え去っていた。
洞窟に入った瞬間。強い香りが男の鼻腔を刺す。それは、甘い、とても甘い、甘すぎる程の花の香りだった。
香りに気押され、一瞬、男は顔を顰める。
岩肌だらけの洞窟から香る花の臭い。その不釣り合いさに不可解さを感じる。
しかし、その程度では亡き子供の姿を追う男の歩みは止まらない。洞窟の岩肌に触れながら、苔むした地面を踏み、奥に向かって進む。
そして、洞窟の入り口から差し込む太陽の光と、洞窟の奥から迫る闇の境目に辿り着いた辺りで。
「っ痛!」
岩肌に触れていた掌に激痛を感じ、男は苦痛の声を挙げる。
掌は血だらけになっていた。
なんだこれは?
薄暗い中、男は目を凝らした時。男の掌を傷付けたものの正体に気付く。
先程まで男が触れていた、洞窟の冷たい岩肌。
その岩肌が、いつの間にか、岩でないモノに変わっている。
壁面は針のように鋭くささくれ立ち、歯朶を拡げ、百足のように畝る刃となっていたのだ。
洞窟内に入った時は、間違いなく普通の岩壁だった筈である。
しかし、男が気づいた時には既に、洞窟内の壁は、見渡す限り棘の刃と化していた。
その変貌ぶりと、掌の痛みにたじろぎ、男は尻餅を突く。
両の手を地面に付いた瞬間。更なる衝撃が男を襲った。
変貌したのは岩壁だけではなかった。
洞窟の地面もその姿を変え、長細いべちゃべちゃとした水気を含む触手が地面一面に群がり生えていたのだ。
その触手は男の四肢に絡みつき自由を奪う。抗おうと身を捩るが、刺されたような痛みが男を襲う。
同時に、まるで麻酔薬でも注射されたように四肢から力が抜けていく。
一体何が起きているんだ!
男の混乱は頂点に達していた。
悪寒。吐き気。耳鳴り。呼吸困難。麻痺。混濁。朦朧。不快を表現する全ての感覚を用いても言葉にできない。
痙攣する喉が声帯をも麻痺させ、叫び声も出せない。
…その時。
混乱の極みの中にいる男の視界の先に、一つの影が見えた。
その影は…子供の姿をしている。
男は救いを求めるように影に手を伸ばす。
それを察したように、影が男に近付く。
もう触れられるほどの距離に子供がいる。
全身を覆う苦痛の中。
男が僅かに安堵の表情を見せた…その時。
影の顔面が真横に裂ける。
その裂け目が作った空洞が三日月の形になる。
…影は、笑っていた。
それは、微笑みではない。邪悪な笑みだった。
その変化に戸惑う男の視界の先で。
子供の影が形を変える。
大きく、大きく膨張し、人型のシルエットのまま、巨大に変貌する。
その四肢は丸太のよう。その体躯はドラム缶のよう。その爪は抜き身の刃のよう。その牙は拷問器具のよう。
その暴力を体現したようなその姿は、男が幼い頃に遭遇した野生の獣によく似ていた。
膨れ上がった巨大な肉食哺乳類の姿を模した影が、身動き取れない男を覆う。
黒く染まる視野の端、男が見た最後の光景は、壁に茂った針の歯朶の中に生えた、冷たいニンゲンの顔面だった。
…
穴の奥の奥の、更にその奥に、男の肉体はあった。
身体の自由は既に奪われている。僅かに動く眼に映る自身の体躯は巻き付く無数の棘に差し貫かれ喰われる事を待つだけの木偶人形と化している。
その思考も既に愚図と化し、恐怖と懇願の叫びを挙げる筈の本能も奪われた。
最後に残された男の精神が視たモノは、何よりも大切だった幼子にバリボリと喰い尽くされる自分の姿であった。
しかし、同時にそれが自分にとっての救済でもあった事を、男は自覚できていた。
…
…
「電話でお話しした通り、この村では『神隠し』が続いているんです。」
「はいはい。で、その神隠しに、この洞窟が関係しているかもしれないとね。」
「ええ。それで、村長だった祖父の知人で、高明な霊能者である貴女をお呼びしました。」
「全く。年寄りをこんな場所に呼び出してからに。」
「いやぁ、申し訳ありません。他に頼れる方が思い付かず…。」
「まぁいいさね。さてと。『視て』みるかね。」
「…。」
「…。」
「…どうですか?」
「…。」
「何か見えるんですか?」
「これは…。ダメなやつだね。」
「え?」
「早くここから離れるんだよ。」
「は、はぁ。」
「そうさね、こんな洞窟はさっさとコンクリートで埋め立てなさいね。」
「えぇ!」
「いいかね、絶対だよ。」
「は、はぁ。…それでこの洞窟には何があるんですか?」
「忘れた方がいい。これは人間が踏み込んではならないヤツだよ。」
…
…
老いた体躯を安楽椅子に預けながら、彼女は新聞を手にする。
手にした地方新聞に、問題の記事は掲載されていた。
『集落の集団失踪』『原因は不明』
溜め息を吐く彼女。
「だから、早く埋めろと言ったのに…。」
静かな口調ではあった。
が、彼女をよく知る人間が聞けば解る。そこには、後悔と、そして怒りがあった。
安楽椅子から「よっこらせ」と彼女は立ち上がる。そのまま彼女は箪笥を開け、小さな箱を取り出した。
その箱は幾重もの布に包まれ、厳重に封されている。
箱を膝の上に置き、彼女は天井を仰ぎ見て彼女はつぶやく。
「…遣り合う時が来たのかの。」
彼女が抱える箱の中には、とても、とても小さな刃の欠片が入っていた。
第二話へ続く