第6話 神々のゆううつ
毎年10月になると国中のあらゆる国津神たちが、出雲の大社に集まってくる。すると神々が出払ってしまうのでこの月を神無月という。対して神々が集まる出雲の地では神在月と呼ぶのだが。
ある神は、ゆっくりのしのしと大きな腹を抱えながら歩いてやってくる。絹の衣をゆらゆらさせながら飛んでくる女神もいる。大きな帆を広げた大黒船に揺られながら団体旅行のようにやってくる神もいる。船の中ではもうすでに酒を片手に神々たちの酒宴が始まっている。
「のう、最近また天津神たちが騒がしいのう」
と、上野地方の神が独り言のように言った。
「そうだな、400年ほど前に北条某に天罰が落ちたとき以来だ
「鎌倉幕府2代目執権の義時か・・・」
「そうそう やつは皇室を滅ぼそうと企んでおった」
「義時に恨み神が乗り移っていただけではないのか・・・・」
「恨み神が現れたようだの」
ほんとうか! と周りにいた神々の視線が一斉に集まる。
「すると、天津神がまた降臨するのか・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「恨み神は誰についたのじゃ・・・」
「わからん が・・・もうきっと動き出しているよ」
「恨み神が乗り移ると運が転がり込んでくる が・・・」
「しっ・・やめとけ 酒が不味くなる・・・」
わさわさと出雲の大社に集まった神々。いつもの年と違い空気がなんとなく重い。その重さを感じた神々は普段は出雲に来るなり酒盛りを始めるのにその様子はない。
“ドーン ドーン ドドーン”と太鼓が響き渡った。
いつもの太鼓の叩き方ではない。
「お出ましー お出ましー」
と焦りにも感じた神音が聞こえてきた。
天照大神様~お出まし~
ええ~と神々の驚き声とともに八百万の神々はひれ伏した。
「なぜここに来られたのだ」神々はひれ伏しながら囁きあった。
目の前には見ることなどできぬ眩い光が燦燦と輝きを放っている。
「国津神の皆々方よ この地に国を亡ぼす輩があらわれる。我ら天津神がまかり出るまでもなかろう。よいかそれぞれの地におる力者を使い対処せよ」
それだけを発するとその光はみるみるうちに小さくなり消えた。
消えたのを見届けると1柱の神が泣きそうな顔をしながら
「いやや~いやや~どうせ戦う相手はナガスネヒコだろう・・・いやや~」
「ナガスネヒコだって我らと同じ国津神じゃぞ・・・・・」
「地の人々を使うとはいえ、また終わりのない殺し合いを招くぞ・・・」
今年の神在月はどの神々も肩を落とし、疲れた様子で己が地域に戻っていった。
美濃の国(今の岐阜県)稲葉山の頂に建つ岐阜城天守の最上階では信長が城下を眺めながら後ろに控える配下の報告を聞いている。
「殿、越前朝倉氏の食客 明智光秀 という者、先に三好三人衆らに誅された13代の将軍足利義輝様の弟であります義昭様、その後ろ盾を願いたいとの申し出でございます」
信長はしばらく返事をせずに城下の一点を見つめている。
・・・足利義明・・・使えるか・・・「よし、通せ!」
信長は返事をするとゆるゆると山のすそ野に建つ大御殿へと降りて行った。小半時(約1時間)はかかるであろう。大広間に出ると下座に伏した明智光秀の頭が目に入った。・・・
金柑みたいな頭をしておる・・・・
「表を上げ」信長の声が響き渡る。 「明智光秀と申すもの、許す 述べよ」といくら何でも足利家の使いに対する態度ではない。しかし、頼みとした越前の朝倉義景が領国を守ること以外全く興味を示さず梨も礫の状況が続いている中、ここは尾張、美濃2国を領する新進気鋭の大大名“織田信長”を頼る以外の手が見つからない。他の大名たちは朝倉義景と同じく領国を守るのが手一杯で京都に上り将軍の元で天下政治を仕切ろうなどとはツユにも思わぬ。その様な状況の中、信長に白羽の矢を立てたのは、この光秀である。美濃の豪族時代に斎藤道三から
「我の息子たちは将来必ず信長に跪くであろう」
と聞かされていたことを思い出したのだ。当時は尾張半国程度の小童で道三の娘婿とはいえ冗談半分で聞き流していた。ところがあれよという間に隣国の大大名“今川義元”を打ち破り、光秀の故郷でもある美濃をも征服してしまったのだ。信長など田舎の小大名としか思っていない足利義明は嫌がったが、右腕の細川藤孝の押しもありしぶしぶ従うことになった。
「御上、足利義明様よりの口上にござりまする。我を京に案内し、第15代将軍として奉れとの申し伝えにござります」
光秀はそれだけを一気に話すと、顔をあげたがそこには不機嫌そうな信長の顔がそっぽを向いている。これはダメか・・・・と諦めかけたとき
「明智よ、足利義明様にはこの信長、京まで案内仕ると伝えよ」
「この上なき良きご返事、ありがたき幸せ 御上に成り代わりお礼申し上げます」
光秀は思わぬ返事に喜びを隠せずにいると、
「ところで明智光秀よ、おぬし京の習いに詳しいと聞いている。今後の足利義明様とのやり取りはお主に任せる 良いな!」
嫌とは言わせぬ物言いで光秀を圧倒する。しかし今後、足利義明と織田信長のやり取りはすべて光秀に任されることになる。将来の出世が約束されたようなものである。光秀は喜び勇んで足利義明の待つ越前へと戻った。
その後、足利義明はもちろん、明智光秀も思わぬほどの凄まじく早い展開を迎えることになる。翌年の永禄11年(1568年)7月には足利義明を上洛させるべく織田信長の居城、岐阜に来るように促している。岐阜に到着した足利義明は京に上洛するまでの御殿を所望するが、
「すぐにでも京に上るので不要!」
と返事があり、義明も少なからず機嫌を損ねる。
ここで、この国の中心部の状況を記す。
まず、織田信長 尾張の隣国美濃を 永禄10年(1567年)に征服し大大名に名を連ねる。
“美濃を制す物天下を制す”と当時は言われており、京に最も近い大名と言える。
美濃の京側は琵琶湖が中央を占める近江、今の滋賀県。この国は南部に六角氏、北部には信長の妹、お市が嫁入した浅井長政が領している。そして日本の中心地である京都。当時室町幕府の実権を握っていたのは三好長慶の死後に三好政権を支えていたのは三好長逸、三好宗渭、石成友通の三好三人衆である。
美濃の東には武田信玄率いる信濃、その北には上杉謙信率いる越後。この両者は幾度と死闘を繰り返しており京に上ることなど実質上できる状況ではない。京都の西側には中国地方11カ国を収める毛利元就。すでに老齢になり、息子の3人に今の領地をしっかり守り、それ以上を望まない(天下を望まない)よう申し付けている。このような状況のなか、足利義昭を奉じて信長が颯爽と京都に進軍しようとしている。