第5話 傾国の姫
この国に激震が走った。まだ尾張一国も収めることもできていない、織田信長という若者が“東海一の弓取り“と恐れられていた今川義元を打ち取り、更に松井宗信、久野元宗、井伊直盛などの有力武将をも討ち取ってしまったのである。特に甲相駿三国同盟を結んでいる、甲斐の武田信玄、関東の北条氏康、2人の戦国大名は驚きを隠せずにいる。だが武田信玄は
「これは我らも海に出られるかもしれんの〜」
と今川の領地に食指を伸ばし始める算段を始め出した。
1日にして戦国の雄として名前が上った織田信長。尾張に戻ると何かと目障りになったのが隣国三河の松平元康、のちの徳川家康である。その元康は今川義元の横死後、今川の駿府には戻らず父祖の地、岡崎に入る。その後は織田の小城を落とすなど今川方として動くが、織田方の叔父、水野信元の進言に今川と手を切り、信長と同盟を結びその後は三河の統一、遠江の奪取へと動き始める。
“さあ、信長・・次は何をする・・信長・・もっと、もっと大きくなるのじゃ・・・一つ贈り物をやろう・・楽しみにな・・ははははは・・更に強く大きくなり我が恨みを晴らすのじゃ・・・“
「殿! 美濃の斎藤義龍、急死との知らせがありました!」
「何!誠か・・・死因はなんじゃ!」
「は、それが・・夜中、急に白蛇が! と喚き出し卒倒したとのよし」
「何!・・白蛇か・・・・・」
“うーむ・・夢のお告げか・・・・“ まあ、悪い知らせではない。それどころか、義龍の後継は子供のはず。好機到来である。
「お市を呼べ」
信長の甲高い声が響く。しばらくすると着物をする音が近づき、信長の妹、“お市“が現れた。
「兄上様、お呼びでございますか」
「おーお市、良い話じゃ! 良いかお市、北近江の浅井長政に嫁ぐことに決まった、良いな」
兄、信長の命令は絶対である。嫌とは言えぬ。ただお市は何か含んだような目をして信長を見つめた。
「兄上、かしこまりました。お市は喜んで浅井の元へ参りまする。ではござりまするが、兄だけに話したい事がござりまする」
「うむ?なんじゃ・・・ わかった、皆のもの席をはずせ」
広間には2人だけになった。
「突然になんじゃ」少しイラついた信長の声が響く。するとお市が信長の近くにするっと近寄り、耳元で何かささやいた。
「・・・ややこが・・・・」
信長は一瞬、この男には珍しく怯んだ。しかし怒るようにお市から離れると逃げるように広間から出ていった。
「ほほほほほほほほほ・・・・」お市の笑い声が広い部屋にいつまでも響いていた。
東への憂いが無くなった信長。いよいよ美濃、稲葉山城攻略に打ってでた。まずは清洲の城は美濃に攻め込むには遠く、不便でありもっと美濃との国境近くに城を築きたい。しかしこの時代、信長の尾張といえども、武士達に“一所懸命“つまりは先祖代々の土地に命を懸ける精神が少なからず残っており、土地の移転を嫌がる者は多い。ましてや新しい城に人はもちろん、モノ・金など全てを移そうと信長は考えている。
「猿!居るか!」
「お殿様〜ここに控えてます」
猿、木下藤吉郎は桶狭間の合戦後“足軽大将“に昇進。今では200人の足軽の長である。
「猿、何か良い案はあるか」
信長も猿、猿と呼びながらも困ったことがあると アイデアを聞きたがる。
「はい、予定している小牧山よりもっともっと遠くに行くことにしたらよいかと・・例えば二ノ宮山なんていかがかと」
「猿! ヨシ! 城下に二ノ宮山に移転らしい!と噂をふれ回れ」
「はい〜 お任せ」
「あ! 猿! あとな・・・・・・・」
と、何やら藤吉郎に耳打ちした。
効果はすぐに現れた。
「家臣一同、二ノ宮山への移転は反対じゃ!」
と多くの武将たちが反対した。特に佐久間信盛など父祖時代よりの諸将は土地から離れるのを嫌がった。
信長は反対の声が大きく盛り上がってきた時に合わすように、重臣を集め、怒りあらわに
「なら、そちたちはどこなら良いのじゃ!」
と甲高い声で尋ねた。すると丹羽長秀が、
「殿! せめて小牧山あたりでいかがかと」
他の者に意見を言わさないよう煥発入れずに返答した。もうこれ以上遠くには動きたくない諸将。
お互いに“うん うん“と頷きあい、結局信長の思いのままに決した。
決まれば早い。ほとんど強制的に移転を進めた。中々動かない家臣に対しては信長本人が屋敷まで出向きなんと屋敷に火をつけた。後になって火を付けられた屋敷の持ち主は家財道具全てを持ち出した後でのことで、早く移転させるための芝居であった事が知れる。
過去にこの様に城、城下町全てを動かすような移転を成し遂げた大名や領主がいただろうか。武力侵攻などで領地が拡大しても、主城はそのままで占領地に支城を建て重臣に任せるのが一般的である。今川義元は駿府、武田信玄は躑躅ヶ崎館、北条氏政は小田原城、上杉謙信は春日山城とほぼ全ての大名が本拠地を変えていない。果たしてこの時点で信長が天下布武を考えていたのかは謎だが、新しい国づくりが芽生えていたことだけは確かなようだ。
いよいよ天下取りの第一歩、美濃攻めが本格的に始まろうとしていた。
桶狭間の合戦から4年後の永禄7年。北近江、現在の琵琶湖北岸一帯を治めている浅井家の当主、浅井長政と織田信長の妹、お市の婚儀が浅井家の主城である小谷城御殿で盛大に行われている。お市といえば三国一の美女と噂される通りの美しさで浅井の家来衆が一目見たいと次々と入れ代わり立ち代わりと出入りが激しい。お市の夫となる長政も満足げで笑顔が絶えない。
婚礼の夜、長政の父“久政、母“小野殿“が部屋に戻り、婚礼の疲れか早くも寝支度を始めている。小野殿が何か言いたげな素振りを見せる。
「阿古どうした。何かあったか」
と久政が妻に問いかける。 しばらく何か思案していたようだが、意を決したように小声で
「お市でございますが・・・・・・・・・」
「うん? お市がどうした」
「ええ、女の勘ではあるのですが・・・・・・」
「なんだ、早う言え」
「はい、もうすでにお腹に赤子がいるのでは・・・・」
「何・・・阿古・・余計なことは言うな」
「でも、あなた様・・・・・・」
「よい よい そのままで・・・・・もう口に出すでないぞ」
翌年、長政とお市の間に初めての子が誕生する。侍女が久政と小野殿の居間へ報告に向かった。
「お知らせいたします。先ほど女の子、無事にお生まれあそばしました」
すると、母の小野殿が
「そおか・・女子か・・よかった」
と返事をした後、マズイと思ったか
「あーめでたい!よかった よかった」
と手を叩いて喜んだ。
「早産ではありましたが、元気な赤子が生まれました。長政様、父上、母上よりのお名前を頂戴したいとの申し出でございます」
父、久政は少し間をおいて、
「茶々(ちゃちゃ)と命名する、その様に伝えよ」
侍女は少し首を傾げ、
「初めてのお子ですが、その名で」
「うむ、茶々が良い、のう阿古」
「茶々。。良い名ではないですか」
と小野殿も相槌をうった。
前々からその名に決めていたのか、色々と含みが絡み合った命名ではあるのだが。
侍女が茶々の生まれた産屋に戻り、長政に命名のことを伝えた。
「茶々とな・・・・・他に何か申していなかったか」
「いいえ、お互いに良い名だと、お喜びでした」
「うむ、そうか・・・・下がれ・・茶々・・か・・浅井家で長女には“初“をつけるが・・」
産後の様子があまり芳しくないお市、寝ているふりはしていたが、
“どうも義母は前々から奥歯に物が詰まったような接し方と思っていたが何とそうか・・・でも夫の長政は疑っていないようだ!まあ良い・・・“
その後お市は、産後の調子が悪いとしばらく義父夫婦には会わないようにしていた。
お茶々・・のちに天下人“豊臣秀吉“の側室となり後継の秀頼を産む“淀の方“誕生である。