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或る秋の日の夢

作者: さざれ

長編作品(未発表)の雰囲気を掴むためにプロトタイプとして書いたものです。

「お兄様?」

 軽い足音を立てて、一人の少女が階段を下りてきた。どこか懐かしさを誘う、古典的なヴィクトリアン・ハウスの木の階段だ。少女の上品な服装も相俟って、セピア色の写真から抜け出してきたような古雅な雰囲気が漂う。

 少女は整った高貴な顔立ちをしており、ダークブロンドの髪が細波のように背に流れている。しかし、その瞼は固く閉ざされて開かない。

「ああ、ナタリー。お早う、僕の可愛い妹」

 階下にいた青年が振り返り、妹を抱きしめる。上質なフロックコートがよく似合う、優しげな美青年だ。柔らかな茶色の髪に、灰色の瞳。妹を慈しむように細められている瞳の色を、しかしナタリーは見ることができない。

「怖い夢は見なかった? 夢魔も悪魔も、可愛い子が大好きだから」

 連れ去られてしまうんじゃないかと気が気じゃない、と言う兄のデイヴィッドに、ナタリーは微笑みかけた。瞼は開かないが、薄く色づいた唇が弧を描いて真珠色の歯がこぼれる。

「厭ね、お兄様ったら。わたくしはどこにも行かないわ」

 応えるように、兄は妹を再び抱きしめた。ややあって名残惜しそうに離れると、デイヴィッドは卓上の花瓶から大輪の薔薇を抜き取ってナタリーに手渡した。

「ほら、ナタリーのために花を摘んできたんだ。朝露もまだ乾かないうちに、朝いちばんに摘んだ赤薔薇だよ」

 棘は処理されており、手を傷つける心配は無い。

「わあ、いい香り」

 ナタリーは微笑んだ。

 目が見えないことなど些末だと思えるような、満ち足りた日々。大好きな兄との幸福な日々は、この先も永遠に続いていくのだろう。ナタリーは何の疑いもなく、そう信じていた。


 そんなある日のこと。

 玄関のベルが重々しい音を立てた。来客は滅多に来ないし、兄はもちろん自宅に帰るときにベルを鳴らしたりはしない。

 誰だろう、どんな用事だろう、ナタリーは少し怯んだが、再び鳴らされたベルに急き立てられるようにして玄関に向かった。兄が不在のときに間が悪いとは思ったが、仕方ない。兄とナタリーは二人暮らしで、来客を出迎える使用人の一人も置いていない。

 ドアを開けると、冷たく湿った風が流れ込んできた。雨が降っているのだ。

「不躾な訪問をお許し願いたい。しばらくの間、どうか雨宿りをさせてくれないだろうか」

 ナタリーは顔を少し上向かせた。見えはしないが、声と気配で若い男性だと分かる。兄と同じくらいの年齢だろうか。兄と同じように優しい人だろうか。

 話す言葉のアクセントから、上流階級の人間だろうと思われた。軒を貸すから玄関先で雨止みを待て、などと邪険に扱っていい人物ではなさそうだ。もちろん、階級に関わらず、誰に対してもそんな扱いをしていいわけはないのだが。

 ――いいかい、僕がいない時は誰も家に上げてはいけないよ。危ないからね――

 そのように兄から言い聞かされたことを思い出す。そのときはただ素直に頷き、その通りにしようと思った。その言葉に背くようなことはしたくないのだが……

 冷たい秋雨がそぼ降り、街路樹の葉を落とす十一月。雨をしのぐ軒を求めた紳士を、どうして追い返すことができるだろう。

 断りの返答をためらう理由は、そればかりではなかった。

 なぜだか確信できる。この人は悪い人ではない。それどころか、安心できる――

「どうぞ、お入りください」

「すまない。礼を言う」

 ナタリーの返答に、紳士が軽く礼をした気配が伝わってきた。次いで、雨滴の付いたコートを脱ぎ、玄関のコート掛けに掛ける気配。

 不意の来客に不安と興奮を等分に感じながら、ナタリーは応接間へと青年を誘った。

 椅子を勧め、お茶の用意を整えて部屋に戻る。目が見えなくても、このくらいの事は造作もない。

「外は冷えるでしょう。どうぞ」

 温かい紅茶と焼き菓子を勧めると、青年が身を固くした気配があった。歓迎でも恐縮でもなく、困惑。ただの拒絶ではなく、警戒の気配。

 何か失礼をしてしまったのだろうか。まるで見当がつかず、ナタリーは曖昧に微笑んだ。

「お気に召さなかったのね。仕方ないわ」

 すぐに下げるのは失礼に当たるだろうか。少し考え、間を持たせるために、ナタリーは座って自分のカップに手を伸ばした。

「やめろ、飲むな!」

 突然、青年が乱暴に腕を掴んだ。ナタリーの腕が大きく震え、紅茶が零れてカップが落ち、くぐもった音を立てて絨毯の上に転がった。

「いきなり何をするの!」

 ナタリーは腕を振り払った。理由もなく青年に親しみを覚えていたのだが、裏切られたような気持ちだ。兄のように優しいかもしれないなどと期待してはいけなかったのだ。

「紳士だと思っていたのに、見損なったわ。出て行って!」

 叫んだナタリーに、青年は小揺るぎもしなかった。怒鳴り返すこともなく、出て行く素振りも見せない。

「君は何も分かっていない。見ろ」

 断固として、教え諭すような調子で、青年はナタリーに言った。

「重ね重ね失礼な人ね! わたくしの目は見えないの!」

「見ろ。瞼を上げて、現実を見るんだ」

 動揺して首を左右に振るナタリーの肩を、青年が掴んだ。

「何をするの!? 離して!」

「止めろ! その子に触るな!」

 外の匂いとともに、慣れ親しんだ気配が部屋の中に駆け込んでくる。

「お兄様!」

 よかった、帰ってきてくれたのだ。助けを求めるナタリーを、しかし青年は離さない。

「行くな! そいつはお前の兄なんかじゃない!」

「離して!」

 青年が何を言っているのか分からない。声で分かる、気配で分かる、そこにいるのはナタリーの優しい兄だ。

 しかし青年の手の力は緩まず、警戒を示す刺々しい気配が伝わってくる。

「やめて、離して!」

 青年は、暴れるナタリーを抱きすくめるようにして押さえ込んだ。混乱して、何がどうなっているのか分からない。

「その子は僕のものだ! 離せ! はなせ! ハナせハナセハナセ!」

「お兄様……!?」

 壊れた機械のように、兄の声が狂気を帯びていく。

「ふん、あっけなく正体を現すものだな」

「グ、ガ、ガアア!」

 優しげな青年の姿が、みるみるうちに異形の本性を表していく。口が裂け、爪が獣のように鉤型に伸び、頭から二つの突起が生まれ、捻れながら巻き上がる。肌は赤黒く変じ、不気味な皺が深く刻み込まれ、目がぎょろぎょろと昆虫めいたものに変化していく。

「お兄様! お兄様!?」

 ナタリーの目には何も見えない。だが、何かとんでもないことが起こっているのは肌で感じる。

 穏やかで幸せな日常が、壊れて崩れ落ちていく音が聞こえる。

「アアアアア…………」

 声の方へ、ナタリーは無我夢中で手を差し伸べた。ふらふらと夢の中を彷徨うように、心だけが寄っていく。優しい兄を求めて。

「違う、行くな! お前はこちら側の者だ! 戻ってこい!」

 ナタリーの体を拘束する青年が、耳元で大声を上げる。しかし、ナタリーの耳はそれを遠いところで鳴っている雷のように聞き流す。

「お兄様……」

「やめろ! 二度と戻って来られなくなる! 本性を現したそれを自ら選んでしまえば、二度とこちら側に戻ってこられなくなる!」

 青年の声がうるさいが、もう少しで手が届く。眼裏の兄の姿はいつもと変わらず穏やかに微笑んでいる。

 伸ばした手と手がもう少しで触れようかという瞬間。

「お兄様……」

 目を開けろと青年に言われたことを思い出す。

 それはとてもいいアイデアのように思えた。愛しい優しい兄の顔を、この目で直接、見ることができたら。

 固く閉じられていた瞼が、ぴくりと微かに動いた。

 自分の瞼が動くなんて、知らなかった。ふふっと笑い出したくなるくらい、楽しい気分だ。

 睫毛が震え、瞼がうすく開く。

 指の先と先がもう触れそう、触れる――直前。

 ナタリーは弾かれたように手を引いた。

「ナタリー……僕を、見てしまったんだね」

そこにいたのは、人間ではなかった。赤黒い肌と捻れた角を持つ、醜く悍ましい、異形の――怪物だった。

 醜悪なその顔が歪む。笑いたいのか泣きそうなのか、ナタリーには判別がつかない。

「約束を破ったね、ナタリー」

 怪物は静かに言った。その姿が揺らぎ、捻れるようにして消えていく。

「代償として、きみの一部を貰っていくよ――愛しいきみの――」

「待っ……」

 咄嗟に伸ばした手は空を掻いた。不可視の渦に巻き込まれるように、怪物は宙へと消えた。

 ナタリーは呆然とへたり込んだ。

 頭の中で嵐が荒れ狂っている。感情が爆発して、滅茶苦茶だ。自分が嬉しいのか悲しいのか悔しいのか怒っているのか、何が何だか分からない。

「……大丈夫か?」

 躊躇いがちに手が差し出された。のろのろと顔を上げてその手の主を認め、ナタリーはしばし動きを止めた。自分が見ているものが本当に見えているものなのか、まだ確信が持てない。

「……わたくしに手を貸してくださるの?」

 この手を振り払ってしまったのに。

「ああ。……俺もこうして、手を貸してもらったことがあるから」

 その声に滲んだ感情に気を引かれたからかもしれない。しばし躊躇ったのち、ナタリーはおそるおそるその手を取った。大きく暖かい手を借りて、立ち上がる。

 青年は気づかわしげに尋ねた。

「どこかおかしいところはないか? 痛いとか、違和感があるとか……」

「特にないわ」

「そうか……?」

 大丈夫だと伝えたのに、青年は安心するどころか訝しげな様子だ。むっとしてナタリーは思った。

(お兄様は優しかったのに。……!?)

 その兄の記憶が、濃い霧がかかったかのようにぼやけている。思い出せない。どうやって出会ったのか――何かとても大事な約束をしていたはずなのに――…………

「どうした?」

 蒼白になったナタリーに青年が真剣な眼差しで問うた。ナタリーは首を振り、呆然としながら答える。

「……思い出せないの。お兄様のことが……」

「……そうか。記憶が君の代償なんだな」

「代償……」

 そういえば兄はそんなことを言っていた。

 助けを求めるように所在なく辺りを見回して、ナタリーはさらに衝撃を受けて目を見開いた。

 そこにあったのは居心地のいい空間などではなく、隙間風の吹き込む廃屋だった。蜘蛛が巣を作り、蝙蝠が軒で逆さ吊りになり、黒猫が我がもの顔に鼠を追いかける、朽ち果てた屋敷だ。這い込んだ蔦が末枯れて落ち、風に乾いた音を立てる。剥がれ落ちかけた壁板に掛けられた青年のコートだけが新しい。

 テーブルの上の皿やカップもひび割れて欠け、中に入っているのはお菓子や紅茶などではなく、雨水や木の葉、木の実ばかりだった。

「わたくしは……お兄様は」

 否定して欲しくて縋るように見上げるが、青年の唇は断罪するように動く。

「あれは、人間ではない。夜の世界から来たものだ」

 すべてはまやかし、気付いた途端に牙を剥く幻影だと容赦なく告げ、断じる。

「あれに魅入られた人間は、不幸になる」

「不幸……」

 崩れた灰の残る、火の気のない暖炉。百足の這う藁の寝床。腐った卵と小鳥の死骸。そういうものが不幸なのだろうか。

 やがては枯れる夏の薔薇。毒針を隠し持つ蜜蜂に、溶けて汚水になる雪。そうしたものが幸福なのだろうか。

 ナタリーの唇が、震えるように動く。

「……それでも、わたくしたちは確かに……幸福だったのよ……」

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